母の誕生日 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

今日は母の誕生日でした。

もう、何年も前から、
私は父と母の誕生日には必ず電話して、

「誕生日おめでとう」

と伝えていました。

私がこの習慣を始めたのは、
自分の人生を幸せにするためには、
両親との関係を改善しなければいけないと、
そう思ったからでした。

だから、私は父と母の誕生日を、
スマホの予定表に登録して、
忘れないようにしていました。

今日は夕方、
母に誕生日おめでとうと伝えたのですが、
本当は昼間、
孫と娘と一緒にいる時に、
母におめでとうと伝えるつもりでした。

でないと、
母に対しておめでとうという言葉以外、
特に話すことが無かったからです。

ASD(自閉症スペクトラム障害)の中の、
アスペルガー症候群に該当する私は、
母には理解不能な子供だったらしく、
小学校低学年の頃に母から、

「お前のことは理解出来ないから、
お前にはもう、構わないことにする」

と言われて、
普通の子と同じように出来ない自分を、
嘆く母の姿を見ているのが辛かった私は、
そんな母の言葉にホッとして、

「ありがとう」

と返事して、
さらに母の怒りを買うくらい、
私と母の意思疎通は出来ていませんでした。

父とは意思疎通どころか、
会話をすること自体が、
私にとっては大きなミッションでした。

だから、両親との関係改善を図るために、
父や母の誕生日に電話をする時には、
私はいつも両親が望むであろう、
良い娘を演じて電話をかけていました。

私は両親に愛してもらうことや、
自分を理解してもらうことを諦めて、
ただ表面だけでもいいから、
幸せな家族になることを望んだからです。

そのため、父や母に電話をする時には、
私は話題に困らないよう、
いつも事前に何らかの話題を用意していました。

楽しく両親が話せるような話題を。

何の用意もなく両親に電話をかけるなど、
私には出来ないことでした。

だから今日は、
娘と孫と会うことになっていたため、
電話で孫の声を聞かせてあげたら、
それが一番、母が喜ぶ話題だと思って、
私は昼間に母に電話をかけたのです。

けれど、
昼間に電話が繋がらなかったため、
私は夕方、家に1人でいる時に、
母と電話で話をすることになりました。

私の電話をとった母は、

「お前だろうと思ってた」

と言いました。

私が母に誕生日祝いの言葉を伝えると、

「覚えていてくれてありがとう」

と言いました。

その言葉に、
私の胸は少しだけ、ツキンと痛みましたが、
その後も、私は楽しげな声で、
明るく最後まで、
話しをすることが出来ました。

昨年父が亡くなって、
1人ぼっちになった母が電話の中で、

「もう死んでもいい」

といった、弱気な発言をした時も、
本当は、私の心は痛んでいました。

それは決して、
母の弱気な発言を心配して、
といった優しい理由ではなく。

私にとっては酷い虐待をした父親でも、
母にとっては、
人生を生きる張りになる、
大切な人だったのだという事実が、
私をとても孤独な気持ちにしました。

老い先短いであろう母に、
今さら自分が父から受けた虐待を、
話すつもりは、もちろん無かったけれど。

父と母の強い結びつきを改めて知らされて、
やっぱり、この家族の中には、
私が安心していられる場所は、
無かったのだなぁと思い知ることは、
46歳を過ぎた今でも、
やはり少し、辛いものでした。

でも、私と過ごす時間よりも、
父と過ごす時間の方が長かったのだから、
母にとっては、
当然の気持ちなのかもしれません。

表面だけでもいいから、
幸せな家族になりたいと、
望んだのは私だったのだから。

恐らく発達障害であろう父に、
苦労させられた母が、
過去の出来事を幸せに変換出来たなら、
わざわざ私が壊す必要は無いから。

父から私が受けた虐待は、
自分1人で抱えて墓場まで持って行くから。

子供の頃に大好きだった母が、
自分の人生は幸せだったと思ってくれるのが、
今の私の母に対する願い。

だから、私はこれからもずっと、
自分の心の中で色んな反応が起こったとしても、
母の前で良い娘を演じ続けていこう、と思いました。