蛙は飛んだ。僕はそれを見ていた。やつが遠くへいくまで僕は動かずにいた。ふと近づいてきた猫が気になり瞬間目をうつすと次の場面にはやつはいなかった。そしたら猫もなんでもないように僕から離れていった。

気づいたら遠くにいっちゃうんだよね。まあ 寂しいってより負けたくないって感じ。指導って 自分と向き合うことが多くて
ずっと 「ちくしょー」「悔しい」って思ってたな。自分のだめさが許せなかったからさ。 たぶん伝わってたと思う。

教えるのって難しいね。学生の頃の先生みたくなれたらとか思ってたけどまだまだ僕は未熟者みたいね。

また今日も頑張ろーか。
ステルベンに当たらなかったことが幸いなのか、その、人の最期に一緒にいられなかったことが辛いのかもうわからないね。
看取るってさ、蘇生術できるならこちらも救われるさ。でもさなにもせず看取るってさそれってどれだけ辛いのよ。自分の子供を看取る親ってどんな気持ちかわかれないよね。

仮に自分の祖母と僕の関係で、僕は看取ることを迫られたとする。僕はどうしたいのかな。今までの看取りをした親御さんたちは最期までできることをさがしてた。僕もそうなるのかな。自分のなかで折り合いをつけるためにさ。

高校の頃 文化祭実行委員で一緒になったこが心不全で亡くなった。あのとき僕は死生感について考えたけど答えは出なくてただ悲しかったな。

最期に関わる自分が僕でいいのかな。
それにみあった自分になれるかな。
ああそうか僕は虫なのだとそう考えた時期がありました。学校からの帰路 誰とはなすことなくまた 誰もいない家へ向かう。蟻はせっせと巣の為に食べ物を運ぶ。それはもう生まれてからの本能でしょう。僕は学校へ行き、人の評価を持ち帰ることが僕の本能だと思っていたのです。他人の視線を気にして、教室の隅っこで話しているクラスメイトに聞き耳をたて自分のことを言っているのか気にして…。テストでは点数を。僕は自分の評価をえらく集めたもんです。

蟻はエサを。僕は評価を。本能のままに気にして生きてました。なのに他のやつらは知らんぷり。見向きもしないのです。頑張ってるのに相手にされない虫に思えて仕方がなかったのです。いまはどうか。僕はたぶん気づきました。僕のそれは本能ではなく習慣であったと。虫の本能は生きるため。本能というのはもっとたくましくけたたましいものでなくてはならないと気づいたのです。 他人の視線に怯えるとかそんな下向きなものと蟻の働きを比喩するのはおかしかったですね。

いまはどうか。少なくとも自分の成長の為に傷ついてます。前向きに。ようやく虫になれたのだろうと思ってます。