緞帳が開くと一人の男が椅子に座り項垂れていた。隣には時計が置いてある。時計の音が空しく響く。男はスーツ姿で20代前半のやせ形。男が振り向くとピエロの格好をした人間が上手からでてくる。オルゴールの音とともに 男に近づき袖を引っ張る。

だめだ…  いきづまる。脚本が浮かばない。今日ね前にuさんが言ってた言葉で 音が恋人でダンスがデート手段ってのが核心に迫る言葉だなって思ったの。早くてもだめだし遅くてもだめ。相手にあわせてこちらも動きを変える。さらにいうと自己満足よりは共有できたほうが楽しいし、音は踏むとか叩くより添えにいったほうがいいと思うのよ。だから僕も人に説明するときついこの例えを使っちゃうね。

僕はさ これからやりたいことで、みんなの居場所をつくりたいなって思うの。それは中央公園やDLC、JoYのような僕が人と関われて楽しいと思えた場所。社会と繋がれた場所。そんな場所をいつか僕も作っていきたいのです。先代の人達から譲り受けてそろをつなげられる。またそれを次の世代が繰り返してく。そんなことをできる場所を作っていきたいななんて考えるの。舞台を通してそんな場所をつくりたいなって考えちゃうわけ。あ 今年は劇団に入って演出について学ぼうって思ってる。

あ 酒が切れてきた。
例えばさ 空を飛べたとして何をするかな。遠くまで旅行とか山まで飛んでいったり海の水の上すれすれで飛んだり。でも一通り満喫してそのあと飛ぶことに飽きてまた歩き始める。結局何かができるようになって夢を叶えてもずっとそれだけに熱中できる訳じゃないよね。それを考えると自分がこれからなにをしようかってなかなか道を決断できない。

看護って僕のなかであくまで人を支えるってことが大前提なの。その過程で自分自身嬉しさを見つけたり充実感があったりするわけ。無償の奉仕って教えはあるけど、実際は患者との関わりのなかでなにか反応なり、よくなっていくなかでやりがいがあると思ってたの。  

今の病棟は病気が良くなって退院ってことはまずないし、機能が低下していくなかでいかにQOLを下げないかっていう関わりをしていくのが主体で、どこの病棟でも共通はあると思うけど。僕はどちらかというと回復していく過程の患者をもとの生活に戻す支えになりたくてこの仕事についたわけ
。だから どうも僕のなかでやりたいこととやってることが重ならない。

仕事だからさ 大変な状況にいる患者にたいして業務的になってしまうことになって自分が嫌になるときもあって、それは今の病棟だとさらに加速してる気がする。看護のなかで僕はいまの患者の状況が別世界のことのようだし辛さが次元が違いすぎて理解できないから。病棟のなかで一生を過ごすことに対して僕は先輩たちに教えてもらった処置をするしかできないし、無力感しか出てこない。患者のことを考えると、辛くなるわけ。

一般にいけば違うんじゃないかなとか思ったり。でもないものねだりでまた、なんか、気になることが出てきて嫌になるんじゃないかって思ったりもして。

空を飛べたとしてまた歩き始めるとして、それはまたもとに戻るわけじゃなくて、成長って自分自身のなかで受け止めて、思いきって飛んでみてもいいかな。

去年の夏に暑さに負けエアコンを近くのリサイクル店で購入した。綺麗で故障も見当たらない。これなら使い続けられそうだ。取り付け業者に頼み、埃のたまった使用すると水が垂れてくる古いエアコンがあった箇所につけてもらったのはいいが、入口のドアの上であった為、ドアを開閉するとエアコンの送風を調整する板のようなものにあたってしまう。業者はドアを開閉したときにその様子を見ていた。しかし、やつらはそのまま取り付けたのだ。


僕は怒りが込み上げてきた。つもりだったが、なぜか大人の文字が頭に浮かび、怒りをすぐさま消した。僕は正当性のない怒りでも人に向けることができる人間である。それを自分でわかっていながら、のどの奥からくる思いを形にして発するのを無理やり押し込めた。連日の疲れでじわじわとくる憤りを言葉にすることが億劫だとも感じていた。自分では、無駄に疲れたくない思いがありやめようとしたが、それははたから見ればわからない程度であるが外にもれていた。やつらに賃金を払ったとき声をかわすことやめ、目をかすかに動かす程度の微かな会釈ですまして返したのです。


なぜいまそんな話をしたのかというと、その時に浮かんだ大人の文字は、冷静さや穏便、寛容というものの為ではなく自己防衛の為であったなと振り返ってしまったからです。ふと記憶がよみがえり振り返ると、自分の行動の理由が、自分の引け目な部分で再生された時、悔しくもやもやが残るのです。一通り後悔をし終わるとそのあとにくるのは決まって怒りです。この怒りは相手に向けられたものではなく自分に対してで、そんな行動をした僕自身に対して腹を立て、課題を架したり、贖罪をさせようとするのです。


振り返りをしたときにネガティブな面がある行動をするのはもはや過失であり、自分で自分に奉仕をさせたくなる所存なのです。


そんなことを重ねて自己研鑽しつつ、職場でのヒエラルキーを気にしながら今年も生きていくのだろうと思っています。