去年の夏に暑さに負けエアコンを近くのリサイクル店で購入した。綺麗で故障も見当たらない。これなら使い続けられそうだ。取り付け業者に頼み、埃のたまった使用すると水が垂れてくる古いエアコンがあった箇所につけてもらったのはいいが、入口のドアの上であった為、ドアを開閉するとエアコンの送風を調整する板のようなものにあたってしまう。業者はドアを開閉したときにその様子を見ていた。しかし、やつらはそのまま取り付けたのだ。


僕は怒りが込み上げてきた。つもりだったが、なぜか大人の文字が頭に浮かび、怒りをすぐさま消した。僕は正当性のない怒りでも人に向けることができる人間である。それを自分でわかっていながら、のどの奥からくる思いを形にして発するのを無理やり押し込めた。連日の疲れでじわじわとくる憤りを言葉にすることが億劫だとも感じていた。自分では、無駄に疲れたくない思いがありやめようとしたが、それははたから見ればわからない程度であるが外にもれていた。やつらに賃金を払ったとき声をかわすことやめ、目をかすかに動かす程度の微かな会釈ですまして返したのです。


なぜいまそんな話をしたのかというと、その時に浮かんだ大人の文字は、冷静さや穏便、寛容というものの為ではなく自己防衛の為であったなと振り返ってしまったからです。ふと記憶がよみがえり振り返ると、自分の行動の理由が、自分の引け目な部分で再生された時、悔しくもやもやが残るのです。一通り後悔をし終わるとそのあとにくるのは決まって怒りです。この怒りは相手に向けられたものではなく自分に対してで、そんな行動をした僕自身に対して腹を立て、課題を架したり、贖罪をさせようとするのです。


振り返りをしたときにネガティブな面がある行動をするのはもはや過失であり、自分で自分に奉仕をさせたくなる所存なのです。


そんなことを重ねて自己研鑽しつつ、職場でのヒエラルキーを気にしながら今年も生きていくのだろうと思っています。