大学4年になって情報科学科の勉強と借金返済を両立しよう、ということでプログラミングのアルバイトをはじめました。

昼間は学校で、夜は会社でプログラミングをする生活です。その頃はほとんど何もわからない状態で、教えてくれる人もいなかったのですが、納期に追われながら、マニュアル片手に少しずつプログラムが作れるようになりました。

当時はパソコンを使える人というのが少なかったので、使える人はなんでもかんでも頼まれるという状態。
当時から付き合っていたヨメと僕で、ある会社の商品カタログを作る仕事を請け負ったことがあります。

PhotoshopもIllastratorも勉強しつつ、缶詰になって作ったっけ。
その時の報酬が確か30万円で、僕たちはそれはもう浮かれました。

そんなこんなで借金は返済しましたが、卒業したら小説家になろうと思っていた僕は就職活動はしませんでした。

つづく
前回は父が送ってきたワークステーションを2年間起動しなかった、というところまででした。
確かソラリスっていう、unixマシンでした。

僕の通っていた大学は3年になってはじめて専門の学部に入るところでした。
特にやりたいことがなかった僕はなんとなく情報科学科というIT関係の学部に入ります。
これはワークステーションを放置しつつ、さも活用してるかの如く父に報告していた焦りと後ろめたさがきっかけでした。

専門の学部に入ると寮を追い出され、今度は風呂なしの4畳半に引っ越します。
古い建物で階段がハシゴみたい。その階段をみた建築学部の友達に、建築基準法に違反してる、といわれたのが忘れられません。
そんな部屋にワークステーションが入るわけもなく、結局実家に送り返したが、こっそり捨てたか、どっちだったかなぁ。

あ、その後は普通のパソコンが別途送られてきたから、実家に送り返したんだな。
新しいパソコンは確か父が自作したもので、windows95、CPUが180MHz、HDDが1Gだったかな?
多分今の携帯より低スペック。

3年生の頃はサークル活動のダンスが忙しくて、ほとんど学校はサボってた。
情報科学科に入ったはいいけど、周りがプログラミングコンテストの世界大会に出ちゃうような人たちだったから、あっという間、ほんとあっという間に落ちこぼれてしまってた。

後年のライブドアをCTOとしてささえることになる人とかもいたっけな。
ま、僕は当然の如くダブりましたよ、えぇ。

その時は学部選びに失敗したと思ってましたが、もっと失敗したのは悪徳英語スクールに騙されたことでしたね。
仕送りだけじゃ暮らせない貧乏学生が親に内緒で80万の契約ですからね。

借金と落第で追い詰められた僕は両方の問題をどうにかするべく行動にでます。

じゃ、いいところなんで、続きはまた明日w

つづく


20年以上前。当時幼稚園児だった僕の家にはパソコンがありました。
PC98シリーズっやつだったかな?
父が何につかってたかはわからないけど、僕にとってはピンボールゲームをやるための機械でした。

小学校にあがるとファミコンが発売されて、友達は続々と買ってもらってたけど、「うちにはパソコンがある!」ということで僕はかってもらうことができませんでした。
家計的に難しいのかな~、という空気も感じてました。

小学校の5年生のころだったかなー。
ゲームボーイ発売の告知を見て、「これなら小さくて安そうだからお小遣いで買える!」と思いました。
しかし現実は厳しくてゲームボーイの発売価格は1万円ほど。月に500円のお小遣いではとても手が届きませんでした。

時は過ぎて僕は大学生になり、東京の大学の寮に住みはじめます。
すると父は会社で廃棄処理になったワークステーションを有無を云わさず送りつけてきたのです。
寮の部屋は6畳1間。机とベットが備え付けてありましたから、パソコンより大型のワークステーションと、今では考えられないほど大きなプリンターは正直邪魔です。

その頃全くパソコンやインターネットに興味がなかった僕はとうとう寮に住む2年の間、一度もそのワークステーションを起動することはありませんでした。

つづく