ブロゴスフィアを取り巻くコミュニケーション | A Day In The Boy's Life

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とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

Scoble、「コメント荒しはDiggへ帰れ」とビデオで主張 @ TechCrunch Japaneses


私の意見としても、コメントが荒れているから有意義な意見がブログを通して行われていないのだとは、思いませんけどね・・・。


昔の「牧歌的時代」におけるブログというのは、今ほどコミュニティの広がりもなく、アーリーアダプターによって発信された情報を、同じ領域の人間同士で活発に意見が交わされていたため、ブログのコメントが活発に利用されていたのだと思います。

そして大衆化してしまった今、これが本来のあるべき姿だとも。

つまりは、自分が発信した情報に対して、真剣に考えて意見を述べ、議論を取り交わそうとする人は、本当にごくごく一部の人であるという事。


ここで主張されている事の流れをまとめるとこんな感じでしょうか。


1. ブログが広く普及されていない時代において、一部その有意義な機能に目をつけた人たちによって、質の高い情報が発信されていた


2. ブログが大衆化して玉石混交となり、質の高い玉を見つけることが困難となった


3. digg(日本だとはてブとか)が登場して、質の高い玉に対して、本気で良いと感じた人たちのコミュニティによって押し上げる事ができるようになった


4. 3.の情報を押し上げるサービスもが大衆化して、情報を押し上げるコミュニティ自体の質が悪くなってしまった


こうしてみると、そうなったのは致し方ないことというのがなんとなく見えてきたりもします。

一つの問題を解決する術が、別の問題の起因となっているわけですから。


以前、はてブでも衆愚化の話題で盛り上がっていましたけど、ある一つのサービスが広く受け入れられるようになってしまうと、本来の道から外れてコントロール不能になってしまうことはよくある事です。

何事にもルールが決められたりしているのも、それが要因の一つでしょう。


なので新しい道を作り、それが広く知られて開けた道となってしまい、自分にとって窮屈なところとなってしまったら、また新たな道を作るしかありません。

ただ、一ついえることは、悪いものは目立つが、必ずしも全てがそうであるとは限らない事。

中には質の高いコミュニティがそこで形成される事もあるわけです。


少なくとも誰かが通ってくれる道であれば、それは道としての役割を果たします。

誰も通らない閑散とした道を作る事に意味なんてあるのでしょうか。