最近、仕事の進捗が芳しくなく、ストレスが原因で血便が出るまで心身疲れ果てていたのですが、今日、ふと立ち寄った本屋で武士道を立ち読みした時に、ふと心に何か、楽になるものがジワッと染み込んだ気がしました。
シンプルで良いんじゃないか。
複雑に考えるのではなく、ストレートで良いのではないか。
そう思うと、何かが楽になりました。
恐らく誰もが、何か仕事に躓いた時に、どうすれば良いんだと足掻き、もがくものです。
実際に自分もそうでしたから。
しかし実際は、足掻けば足掻くほど、絡まった糸が縺れる様に、まるで無限地獄に落とされるようでした。
何が足りないのだろう。
何をしなければいけないのだろう。
焦れば焦るほど、周囲とのズレが生まれるようで、それがまた足掻きを生む訳です。
しかし、何でしょう、悟るものがありました。
いいじゃないですか。
足りなくて。
欠けていて、当り前なんです。
完全な人間はいない。
完全になろうとするほど、完全になれないことを理解するのであれば、完全になれないことを受け入れないといけないわけです。
松下幸之助が短所は見ない、長所を見る、と一緒ですな。
自分の欠けた部分に焦っても仕方がない。
まるで桜を愛でる様に、その欠けた部分を愛でないといけないのかな、と思います。
桜は、春に咲き、春に散ります。
散るからこそ、満開に咲き乱れる姿に「美しさ」を感じる訳です。
今、欠けているとしても、今後も欠ける訳じゃない。
ましてや欠けているからと言って、命を取られる訳じゃない。
ありのままの姿を受け入れて、今を肯定するしかない。
これじゃダメだ!というのは否定ではなく、今を肯定した上で、将来の理想と照らし合わせた時に、どういう工程を辿れば理想に近づけるかを考えれば、間違いなく今のままでは辿り付けないから「これじゃダメ」なんです。
受け入れること。
現状を、まずを「これも、また自分の人生なんだな」と受け入れて、それを楽しむこと。
如何にして生きるかを、考えないといけない。
自分はなぜ、どのように生きるかを、考えないといけない。
生きるということは、ある意味で死ぬということでもあります。
生き続けることは出来ないんだから、誰しもが死ぬんだから、では「どう最期を終えるか」を考えないといけない。
何をやりたいか。
僕はただ、人生を楽しみたいだけだ。
仕事で、プライベートで。
じゃあ、それで良いんだ、と。
いかにして仕事を楽しむか。
それに焦点を合わせれれば良いんじゃないか。
変に片意地張って、やらなきゃいけないやらなきゃいけない、って思うより、やって楽しむ、自分の力を全力出し切ることに集中すりゃあいいんじゃないか。
シンプルに。
けれど、ストレートに。
シンプルで良いんじゃないか。
複雑に考えるのではなく、ストレートで良いのではないか。
そう思うと、何かが楽になりました。
恐らく誰もが、何か仕事に躓いた時に、どうすれば良いんだと足掻き、もがくものです。
実際に自分もそうでしたから。
しかし実際は、足掻けば足掻くほど、絡まった糸が縺れる様に、まるで無限地獄に落とされるようでした。
何が足りないのだろう。
何をしなければいけないのだろう。
焦れば焦るほど、周囲とのズレが生まれるようで、それがまた足掻きを生む訳です。
しかし、何でしょう、悟るものがありました。
いいじゃないですか。
足りなくて。
欠けていて、当り前なんです。
完全な人間はいない。
完全になろうとするほど、完全になれないことを理解するのであれば、完全になれないことを受け入れないといけないわけです。
松下幸之助が短所は見ない、長所を見る、と一緒ですな。
自分の欠けた部分に焦っても仕方がない。
まるで桜を愛でる様に、その欠けた部分を愛でないといけないのかな、と思います。
桜は、春に咲き、春に散ります。
散るからこそ、満開に咲き乱れる姿に「美しさ」を感じる訳です。
今、欠けているとしても、今後も欠ける訳じゃない。
ましてや欠けているからと言って、命を取られる訳じゃない。
ありのままの姿を受け入れて、今を肯定するしかない。
これじゃダメだ!というのは否定ではなく、今を肯定した上で、将来の理想と照らし合わせた時に、どういう工程を辿れば理想に近づけるかを考えれば、間違いなく今のままでは辿り付けないから「これじゃダメ」なんです。
受け入れること。
現状を、まずを「これも、また自分の人生なんだな」と受け入れて、それを楽しむこと。
如何にして生きるかを、考えないといけない。
自分はなぜ、どのように生きるかを、考えないといけない。
生きるということは、ある意味で死ぬということでもあります。
生き続けることは出来ないんだから、誰しもが死ぬんだから、では「どう最期を終えるか」を考えないといけない。
何をやりたいか。
僕はただ、人生を楽しみたいだけだ。
仕事で、プライベートで。
じゃあ、それで良いんだ、と。
いかにして仕事を楽しむか。
それに焦点を合わせれれば良いんじゃないか。
変に片意地張って、やらなきゃいけないやらなきゃいけない、って思うより、やって楽しむ、自分の力を全力出し切ることに集中すりゃあいいんじゃないか。
シンプルに。
けれど、ストレートに。
マルクスの資本論を少しだけ齧りました。
労働者は奴隷では無い。
はい、その通りです。
俺たちは商品では無い。
はい、その通りです。
だから?とも思うし、それで?とも思ってしまう。
しかし、何のために働くのか、なぜ自分は生きているのか考えていない人間に向かって訴えたら、胸に刺さるんだろうなぁ。なんて思います。
労働者は、何のために働くのでしょうか。
労働者は、何のために生きるのでしょうか。
そこまで考えている上で、俺らは奴隷じゃあねぇんだ!商品じゃあねぇんだ!って言うのなら解る。
今は資本論華やかな19世紀ではなく、華やかで血生臭い20世紀も終わり、ドラッカーが説いた知識社会の21世紀を迎えています。
ましてや、日本は先進国です。
マズローの欲求である、生理的欲求は満たせるでしょう。
このブログを見ている人は、安全の欲求すら満たせている筈です。
ただ、リストラされてしまった40代、50代の方やホームレスの方は別かも知れませんが。
で、思う訳です。
何のために生きているのか。
生きるために働くのであれば、じゃあ一生分の税金を国庫に納めた後で死ねばよいと思います。
先進国の日本で生まれて、上に行ける環境がある中で、何のために働くのか?なんて言えることに、まずは疑問を持つべきではないでしょうかね。
19世紀の時代に「人間の搾取」について書かれた資本論があるなら、21世紀の時代に再び「人間の搾取」について書かれた資本論を再び誰か書いて欲しいですね。
マルクスはある意味で、人間を信じていたのかも知れません。
搾取から解放された、資本家から解放された人間は自由になれると。
では21世紀の今日、どれだけの人間が「解放」されたでしょうかね。
ドラッカーは偉いと思います。
マルクスは労働者と資本家は別だと思ったのかも知れませんが、ドラッカーはそれが通用しなくなると喝破した。労働者もまた資本家であり、誰もがそれ相応の能力を持ち、磨くことが出来ると見破ったのですから。
始めから、人間は解放されていたはずです。
それを自ら「資本家」と「労働者」に切り分けてしまったのは誰か?
なぜ自ら「搾取される側」に向かってしまうのか?
自分の未来を自ら開拓し、切り開こうとしないのか?
新・資本論。
帯には「搾取される人間」ではなく、「『自ら』搾取される人間」と、雨宮なんとかさんに書いて欲しいものです。
で、出来れば22世紀は失敗者のセーフティネット網を完備するのではなく、失敗したら再挑戦出来る法整備を完備出来る世の中になって欲しいものです。
セーフティネットというのは血液が逆流しないための静脈弁と一緒で、一度落ちたら再び上にあがれない仕組みになっているのではないか?と思います。
労働者は奴隷では無い。
はい、その通りです。
俺たちは商品では無い。
はい、その通りです。
だから?とも思うし、それで?とも思ってしまう。
しかし、何のために働くのか、なぜ自分は生きているのか考えていない人間に向かって訴えたら、胸に刺さるんだろうなぁ。なんて思います。
労働者は、何のために働くのでしょうか。
労働者は、何のために生きるのでしょうか。
そこまで考えている上で、俺らは奴隷じゃあねぇんだ!商品じゃあねぇんだ!って言うのなら解る。
今は資本論華やかな19世紀ではなく、華やかで血生臭い20世紀も終わり、ドラッカーが説いた知識社会の21世紀を迎えています。
ましてや、日本は先進国です。
マズローの欲求である、生理的欲求は満たせるでしょう。
このブログを見ている人は、安全の欲求すら満たせている筈です。
ただ、リストラされてしまった40代、50代の方やホームレスの方は別かも知れませんが。
で、思う訳です。
何のために生きているのか。
生きるために働くのであれば、じゃあ一生分の税金を国庫に納めた後で死ねばよいと思います。
先進国の日本で生まれて、上に行ける環境がある中で、何のために働くのか?なんて言えることに、まずは疑問を持つべきではないでしょうかね。
19世紀の時代に「人間の搾取」について書かれた資本論があるなら、21世紀の時代に再び「人間の搾取」について書かれた資本論を再び誰か書いて欲しいですね。
マルクスはある意味で、人間を信じていたのかも知れません。
搾取から解放された、資本家から解放された人間は自由になれると。
では21世紀の今日、どれだけの人間が「解放」されたでしょうかね。
ドラッカーは偉いと思います。
マルクスは労働者と資本家は別だと思ったのかも知れませんが、ドラッカーはそれが通用しなくなると喝破した。労働者もまた資本家であり、誰もがそれ相応の能力を持ち、磨くことが出来ると見破ったのですから。
始めから、人間は解放されていたはずです。
それを自ら「資本家」と「労働者」に切り分けてしまったのは誰か?
なぜ自ら「搾取される側」に向かってしまうのか?
自分の未来を自ら開拓し、切り開こうとしないのか?
新・資本論。
帯には「搾取される人間」ではなく、「『自ら』搾取される人間」と、雨宮なんとかさんに書いて欲しいものです。
で、出来れば22世紀は失敗者のセーフティネット網を完備するのではなく、失敗したら再挑戦出来る法整備を完備出来る世の中になって欲しいものです。
セーフティネットというのは血液が逆流しないための静脈弁と一緒で、一度落ちたら再び上にあがれない仕組みになっているのではないか?と思います。
あるパラドックスの話。
ある国の人が言いました。
「この国の人間は、全て嘘吐きです」
もし、この人の言っていることが本当なら、この人が言っていることも嘘になります。
逆に、この人の言っていることが嘘なら、この人の言っていることに矛盾が生じます。
あるライオンが言いました。
「もし、俺の考えていることを当てれば、お前を食うのは止めてやる」
ある人は言いました。
「貴方は、私を食べようとしていますね?」
もしライオンがある人を食べようとしているなら、それは当たりであり、ある人は食べられずに済む。
逆に、ある人の答えが不正解であれば、ライオンはある人を食べようとはしていないので、同じくライオンは食べられずに済む。
いずれもパラドックスと呼ばれるものです。
しかし、よくよく考えれば、前者の場合は「黙れ!」と一括すれば、そんなパラドックスに陥らずに済みますし、ライオンは「な~んてね」なんて言ってある人を食ってしまえば、何も無かったことになります。
つまり何が言いたいかと言えば、ルールを設けた場合、そのルールによって自身が束縛されてしまうのであれば、そんなルールは破ってしまえば良いと思うのです。
確かに綺麗に勝利することが出来れば最高です。
しかし、それが出来ないのであれば、どんな汚い手を使って勝たなければいけません。
負ければ全てが終わりなんです。
歴史とは勝者の歴史です。
なぜか?
それは、歴史を語ることが出来る人間は、常に勝者だからです。
敗者は常に死が待っていましたし、ビジネスの世界でも、敗者が歴史を語れるほど同一フィールドで飯が食えるとは思えません。
明日から選挙の公示日ということで、最後の最後に民主党の対官僚政策と、敗者の言い訳が似ている点だけを注意しておきます。
官僚はバッシングする相手では無いことは、皆さん自明の理だと思います。
はっきり言えば、霞が関は「世界最強のシンクタンク」なんです。
東大出ているエリートの集団です。
それはバッシングする相手でしょうか?
違う筈です。
使いこなす相手の筈です。
頭が良いということは、上記のようなパラドックスの「ルールを生む側」の人間になれるということなんです。
そんな奴らを相手にして戦い、そして勝ち、かつ手懐け、さらにビジョンを示し、それを実現させるために使いこなすことこそ、政治家の役割です。
はっきり言いますが、庶民感覚があることと、上記の役割を務めること。
全く関係ありません。
「官僚たちの夏」のような、国民車構想が庶民感覚で考えられますかね?
別に、官僚たちを持ち上げているつもりはありません。
現実を言っていると思っています。
それでもこのブログに反感が出る場合、あなたは「ルールを生む側」の人間と対峙出来るか、考えてみて下さい。
「ルールを生む側」の人間に勝ち、自らが「ルールを生む側」の人間になり、かつ「ルールを生む側の人間」にルールに参加させる。
そのために何が必要か?
パラドックスから抜け出す思考力、構想力。
もう一度、言います。
それが庶民感覚とどう関係ありますか?
政権交代しようが、責任力があろうが、んなこたぁ関係無い。
必要なのは、政治家が立法を取り戻し、霞が関を行政に立ち返らせることだと思うのです。
つまり政治家がCEOなら、霞が関はCOOですな。
ある国の人が言いました。
「この国の人間は、全て嘘吐きです」
もし、この人の言っていることが本当なら、この人が言っていることも嘘になります。
逆に、この人の言っていることが嘘なら、この人の言っていることに矛盾が生じます。
あるライオンが言いました。
「もし、俺の考えていることを当てれば、お前を食うのは止めてやる」
ある人は言いました。
「貴方は、私を食べようとしていますね?」
もしライオンがある人を食べようとしているなら、それは当たりであり、ある人は食べられずに済む。
逆に、ある人の答えが不正解であれば、ライオンはある人を食べようとはしていないので、同じくライオンは食べられずに済む。
いずれもパラドックスと呼ばれるものです。
しかし、よくよく考えれば、前者の場合は「黙れ!」と一括すれば、そんなパラドックスに陥らずに済みますし、ライオンは「な~んてね」なんて言ってある人を食ってしまえば、何も無かったことになります。
つまり何が言いたいかと言えば、ルールを設けた場合、そのルールによって自身が束縛されてしまうのであれば、そんなルールは破ってしまえば良いと思うのです。
確かに綺麗に勝利することが出来れば最高です。
しかし、それが出来ないのであれば、どんな汚い手を使って勝たなければいけません。
負ければ全てが終わりなんです。
歴史とは勝者の歴史です。
なぜか?
それは、歴史を語ることが出来る人間は、常に勝者だからです。
敗者は常に死が待っていましたし、ビジネスの世界でも、敗者が歴史を語れるほど同一フィールドで飯が食えるとは思えません。
明日から選挙の公示日ということで、最後の最後に民主党の対官僚政策と、敗者の言い訳が似ている点だけを注意しておきます。
官僚はバッシングする相手では無いことは、皆さん自明の理だと思います。
はっきり言えば、霞が関は「世界最強のシンクタンク」なんです。
東大出ているエリートの集団です。
それはバッシングする相手でしょうか?
違う筈です。
使いこなす相手の筈です。
頭が良いということは、上記のようなパラドックスの「ルールを生む側」の人間になれるということなんです。
そんな奴らを相手にして戦い、そして勝ち、かつ手懐け、さらにビジョンを示し、それを実現させるために使いこなすことこそ、政治家の役割です。
はっきり言いますが、庶民感覚があることと、上記の役割を務めること。
全く関係ありません。
「官僚たちの夏」のような、国民車構想が庶民感覚で考えられますかね?
別に、官僚たちを持ち上げているつもりはありません。
現実を言っていると思っています。
それでもこのブログに反感が出る場合、あなたは「ルールを生む側」の人間と対峙出来るか、考えてみて下さい。
「ルールを生む側」の人間に勝ち、自らが「ルールを生む側」の人間になり、かつ「ルールを生む側の人間」にルールに参加させる。
そのために何が必要か?
パラドックスから抜け出す思考力、構想力。
もう一度、言います。
それが庶民感覚とどう関係ありますか?
政権交代しようが、責任力があろうが、んなこたぁ関係無い。
必要なのは、政治家が立法を取り戻し、霞が関を行政に立ち返らせることだと思うのです。
つまり政治家がCEOなら、霞が関はCOOですな。
終戦の日ということで、何かしようと思い、比叡山を登頂してきました。
大阪~出町柳~比叡山。
往復で、費用なんだかんだで3000円ぐらいかかりましたね。
でも、まぁ、3時間山登りし続けて、色々と考えることが出来ました。
それだけでも「自分で機会を作って、その機会で自分を変える」ことになったのかんなぁ……と。
山登りで、間違いなく辛いのは、登ることよりも、下りることなんですよね。
登るときよりも、下りる時の方が足腰への負担が強い。
それと同様に、事業の開拓よりも、事業の撤退の方が、辛いんですよねぇ。
まだ頑張ればいけるんじゃないか。
そんな思いが、撤退のチャンスを逃し、利益を食い潰す切っ掛けになってしまう。
僕自身、今、赤字事業に携わっていますが、その赤字事業を黒字に転換するためにはどうすれば良いんだろうな、とずっと思いながら山を登り、山を降りていました。
そう言えば、比叡山の東塔や西塔に行ったのですが、どうしても武装僧に思いがめぐり、有難みを感じませんでしたね。
平和平和と言っている僧侶が、平和のために武器を取り、時にはやくざの偉いさんの供養をする。
結局、仏教ってぇのは人を救うためにあるし、人を救うことしか出来ないんだろうなぁ。
救われた人がその先にどうするか?までは力が及ばない。
どうにも出来ない。
人間は弱い。
圧倒的に弱い。
決断が出来ないときだってある。
撤退が出来ないときだってある。
合理的な決断を、非情だと言われる時もある。
そんな時に、よりそえるのが、宗教なんだろうなぁ……と思った今日でした。
大阪~出町柳~比叡山。
往復で、費用なんだかんだで3000円ぐらいかかりましたね。
でも、まぁ、3時間山登りし続けて、色々と考えることが出来ました。
それだけでも「自分で機会を作って、その機会で自分を変える」ことになったのかんなぁ……と。
山登りで、間違いなく辛いのは、登ることよりも、下りることなんですよね。
登るときよりも、下りる時の方が足腰への負担が強い。
それと同様に、事業の開拓よりも、事業の撤退の方が、辛いんですよねぇ。
まだ頑張ればいけるんじゃないか。
そんな思いが、撤退のチャンスを逃し、利益を食い潰す切っ掛けになってしまう。
僕自身、今、赤字事業に携わっていますが、その赤字事業を黒字に転換するためにはどうすれば良いんだろうな、とずっと思いながら山を登り、山を降りていました。
そう言えば、比叡山の東塔や西塔に行ったのですが、どうしても武装僧に思いがめぐり、有難みを感じませんでしたね。
平和平和と言っている僧侶が、平和のために武器を取り、時にはやくざの偉いさんの供養をする。
結局、仏教ってぇのは人を救うためにあるし、人を救うことしか出来ないんだろうなぁ。
救われた人がその先にどうするか?までは力が及ばない。
どうにも出来ない。
人間は弱い。
圧倒的に弱い。
決断が出来ないときだってある。
撤退が出来ないときだってある。
合理的な決断を、非情だと言われる時もある。
そんな時に、よりそえるのが、宗教なんだろうなぁ……と思った今日でした。