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それもまた良し

関西のとあるベンチャーで働くSEのブログ。

日々のインプットから、アウトプットを定期的に行うことが目標です。主に組織論やドラッカーの話題が中心ですが、タイトルにもあるように「松下幸之助氏」のような互助の精神を持ち、社会人として成長出来る事が最大の目標です。

今日、会議で上がった話題。

「生産性の向上を目標とする」

生産性って何やねん、という突っ込みが当然入ります。

利益なのか。
売上なのか。
成果物なのか。
利益÷稼働時間なのか。

どれだけ利益を上げても、24時間労働であれば意味がないですよね。
恐らく1つは時間軸、もう1つは成果物だと思うのですが……。


はっきり言って、時間の切り売りでしか優位性を保てないようなベンチャー企業があったとして、そんな会社に生産性の向上を図ることは厳しいのではないでしょうか。

そんなことを会議で言ったら、全員がドン引きでした。
そりゃあ、そうですよね。僕の勤める会社が、そんな会社ですから。



結局、何をするか解っていても、何を成果とするかが定まっていないと、目標には永遠に近付けないような気がします。
目標=成果だったとして、例えば企業理念の遂行が成果だったとしたら、それと解る成果に置き換えることが必要になってきますものね。

これが解ってくれない人と話をしても、仕方が無いのかなぁ、そういう人もいるのだなぁ、と解った1日でした。
マネージャーという役職は、そもそも肩書きでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
社長という肩書、係長という肩書きに見合った仕事があるのと同じである。

誤解を生み易いので、改めて明記しなければいけないのは、社長でも係長でもマネージャーでも、マネジメントというツールは必ず求められる。
なぜなら、マネジメントは肩書きに依存しない。鉄人28号のように、悪だろうが善だろうが動くものは動く。


すなわち、マネジメントとは成果を生むためのツールであり、マネジメントを取り入れただけでは成果を生まないのである。
そして成果を生むためのツールを活用して、実際に成果を出さなければいけない。



プロジェクトマネジメントに求められることは、その役職が、肩書きが、或いは内容が成果や成功を齎すとは限らないのであり、ただ実践と行動によってのみ成果と成功が保証されているという点だ。

実践によってのみ、成果が生み出される。
成功が約束される。


知識労働者と肉体労働者に、恐らく根本的な違いは無い筈だ。
モチベーションによって左右されるし、行動しなければ成果は生まれない。

多少、知識労働者には「考える力」が求められるだけだと思う。
かといって、肉体労働者には「考える力」が不必要かと言えば、そうでも無いだろう。
何のために働くのか、或いはなぜ働くのか。
こういった本は恐らく、いつの世も売れるものだと思う。

例えばSBIの北尾さんや、京セラの稲盛さんなど。
それを考えることは、とても大切であり、かつ大変なことだ。


しかしもっと大切であり、大変なことは、それを人に伝えることではないか。
プロジェクトマネジメントの醍醐味も、すなわちここに集約されていると思う。

マズローの欲求に即して言えば、人間は誰しも「自己実現の欲求」を持ち、その欲望に到達するまでには様々な欲求が改善されなければいけないと説いている。
言い換えれば、仕事を通じた自己実現を図りたいと言える人間は稀であり、稀有であると言って良い。

衣食住のために働く人間もいる。
安全のために働く人間もいる。

プロジェクトに参加する人間が、全て崇高な意識を持ち、高い志を持っているとは限らない。
だからこそ、彼らを結び付ける「糸」が絶対に欠かせない。



ドラッカーは、それをこのように定義している。


「事業の目的とミッションについての明確な定義だけが、現実的な目標を可能とする」
「ほとんど常に、事業の目的とミッションを検討していないことが失敗と挫折の最大の原因である」


つまりプロジェクトの目的とミッションを明らかにすること、定義すること―要求定義やRFI、RFPなどの形式だけでなく、簡単で解り易い言葉にすることが大切だ、と言っている。

それをドラッカーは、端的に表現している。


「われわれの事業は、何か」


言い換えれば、われわれのプロジェクトは何か、ということだ。

誰のためにしているのか、だとか、どのような利益をもたらすのか、ということではない。
プロジェクトマネージャーは何を錦の御旗にするのか、ということでもない。


何を事業とするのか。その根本、本質を明らかにしなければいけないとドラッカーは解く。
そして、その事業とは何か、プロジェクトとは何か、という答えを知っているのは、大抵は当事者ではなく、顧客である。

顧客はお金を払う代わりに、対価として顧客の価値、魅力、欲求、現実を満たす。
すなわち顧客は「われわれの事業」に魅力を感じるからこそ、お金を支払うのである。



考えなければいけないのは、顧客に施す「我々にとっての労働」こそ、われわれにとっての事業である、という本質であり、すなわちプロジェクトマネジメントが見なければいけない点として、部下の労働はわれわれにとっての事業とズレが生じていないか、という点であろう。

ドラッカーは言う。


「「われわれの事業は何か」という問いに答えるためには、顧客とその現実、状況、行動、価値観から出発しなければいけない」


つまり、全ては顧客が知っている、知らぬは自分ばかりなり、という話である。
プロジェクトマネージャーは常に考えなければいけないのではないだろうか?

顧客は、なぜ我々を選んでくれたのか?
我々は、どうすれば顧客にその選んでくれた魅力を伝えられるだろうか?


簡単である。
そこに目的とミッションがある。

今まで、それの元に成果を出してきた。
これから、それの元に成果を出すべきなのだ。
前回に続いて、さらにプロジェクトマネジメントとはどういう役割を担っているのか?を考えましょう。
ドラッカーはこのように言っています。


「企業の目的は顧客の創造である。したがって、企業は2つの、ただ2つだけの企業家的な機能を持つ。それがマーケティングとイノベーションである」


これは、どういう意味でしょう?
単純に考えれば、マーケティングとは営業であり、イノベーションとは技術である。と訳せますが、では営業とは何だろうか、技術とは何だろうか。それが解りません。

ドラッカーはマーケティングとイノベーションを以下のように定義しています。


「マーケティングとは、企業の成果すなわち顧客の観点から見た企業そのものである」
「イノベーションすなわち新しい満足を生み出すことである」


つまりドラッカーにとって、企業の目的である「顧客の創造」は、今日―現在の成果を知るためのマーケティング、そして明日―新しい成果を生み出すためのイノベーションから成り立つと考えていることが解ります。

つまり今までと違う成果を生み出すためには、イノベーションが必要になります。
しかし、イノベーションとは新しい欲求の満足を担う存在であり、現在の欲求を満たすべき存在ではありません。



プロジェクトマネジメントに求められることは何でしょうか?

案件や要素によっても違うがあるかもしれませんが、恐らく、第1に「顧客の欲求を満たす」という要素があるでしょう。さらに第2には「イノベーションが齎すであろう生産性の向上や経済的付加価値の増加への道の管理」という要素もあると思います。



僕が一番、最近のプロジェクトマネジメントに違和感を感じているのは、マネージャーとして部下に対し何をするべきかという手法論が蔓延っている点でした。

しかし現在、本当に求められることは、手法論ではなく、具体論でもなく、プロジェクトマネジメントとしての役割を考えることだと思うのです。


何のために存在しているのか?
誰のために存在しているのか?
何に対して責任を担う役職なのか?
誰に対して責任を担う役職なのか?
どのような成果を残すべき役職なのか?
…etc


恐らく、ドラッカーの言わんとする組織とは、顧客の創造のための担い手であり、言わば「徳川埋蔵金」を発掘しようとする糸井重里のような、熱心な市場の探究者だと思うのです。

ではプロジェクトマネジメントがしなければいけないことは何か?
それはすなわち、発掘出来た市場をイノベーションすることではないか。

今のところ、そう考えています。
確かにマーケティングは凄く重要な要素ではあるのですが、プロジェクトマネジメントという役職は、マーケティングの結果、発掘出来た「明日の顧客」のための製品の管理という役職であると思うのです。

そして「今日の顧客」と共に「明日の顧客」と出会うことにこそ、プロジェクトマネジメントが背負うべき重責ではないでしょうか?
それは何よりも、プロジェクトの成功と、成果を意味していると思うのです。
ドラッカーがマネジメントという言葉を世界に知らしめたのだとして、日本でマネジメントという片仮名しか広がらなかったのは、どうしてだろう。

wikipediaで検索すればマネジメントは経営管理論と訳されている。
すなわち、マネジメントとは本来は「組織や団体の管理に関する実践的な技法の確立を目指す学問」と言われているのだが、マネジメントと言えば、はっきり言ってその意味は薄れてしまう。


本来、マネジメントとは学問の領域であり、ドラッカーもまた「1つの体系、研究分野である」と言っている。
しかし注意深く読んでいけば、こうも言っている。


「機能であって、人である。社会的な地位であって、1つの体系、研究分野である」


つまり、マネジメントという言葉に当たる日本語が無かった、そして仕方がなく、研究分野としてのマネジメントにフォーカスし、経営管理などの言葉に訳した―そう推測している。

例えば「God」。
日本に来た宣教師が広めた言葉であるが、日本は「八百万の神の国」であり、対して欧米は「一神教の国」である。自然と捉え方が違う。

よくよく考えれば、欧米人が叫ぶ「Oh, my God !!」も訳すのが難しい。あぁ、私の神よ!! だとしたら通じない。これに挑戦したのが福井氏の「ローレライ」や、ドストエフスキーの「罪と罰」である。
すなわち自分の中にいる神様の存在に気付く作業、と言っても良いかも知れない。最近で言えば小林よしのり氏が「天皇論」の中で「1940年~1945年だけ、天皇はmy godだった」という説を発表しているが、まぁそれでも通用しなかった人が大勢いるようで、結局は「God」という言葉が来て500年弱、今だこの言葉は真の意味で浸透していない。

マネジメントも同様ではないだろうか。



ドラッカーは言う。

「マネジメントが、企業、政府機関、大学、研究所、病院、軍などの組織のための期間だということである。組織が機能するには、マネジメントが成果をあげなければいけない」
「マネジメントよりも、むしろ組織のほうが実体を欠く存在であるといってよい。会計的には実体であっても、社会的には実体でない。規則を定め決定を行うのは、組織としての政府機関ではない。政府機関のマネジメントのだれかである」

マネジメントとは、その言葉本体では、恐らく何の意味ももたない。

「俺、今日、熱37度2分あんねんけど、学校来てん」

というくらい、ふーん、であり、意味を為さない。
しかし、そのマネジメントを人間が担い、機能し出すと意味を持ってくる。



ドラッカーは言う。

「マネジメントとは、成果に対する責任に由来する客観的な機能」

つまりマネジメントとは責任を有する成果を生む機能である。



プロジェクトマネジメントに置き換えよう。

この役職は何のために存在するのか?
この役職は何をするべきなのか?

それは組織のために存在するが、組織に依存した存在ではない。
言い換えれば、案件のために存在するが、案件に依存した存在ではない。

案件を機能させ、成果を出す為のポストである。
そして、その責任を担うポストである。



何を当たり前のことを言っているのか?
そう思われるかもしれない。

しかし、よくよく考えてみれば、プロジェクトをマネジメントするとは何か?と聞かれて、恐らく応えられない人もいるはずだ。

その時は下の言葉を言って欲しいと思う。
何度も繰り返すが、プロジェクトマネジメントの役割は、任されたプロジェクトを機能させ、成果を出すことであり、またそれが目標である。

課長や部長のような、課や部を代表し、代表するに値する成果を出す存在と同様だと思う。
そして課長や部長と同じく、その責任を担う存在である。


少し穿った見方かも知れませんが、人間の良心が存在しているなら、これはノーブレス・オブリージュのようなものなのかもしれません。
高い身分や地位には、それに相応する義務と責任が伴います。プロジェクトマネジメントとは、役割がプロジェクトを機能させ成果を出すことですから、その役職に就く人(プロジェクトマネージャー)にとって、成果とは義務であり同時に、その義務を果たす責任があると言っても過言ではありません。


持てる者は持たざる者に施すべきであり。
そうした行為は名誉あるものとみなされる。


プロジェクトマネジメントは、すなわち、ある意味で機能的に効率的に動かすための「施し」なのかもしれません。