ドラッカーがマネジメントという言葉を世界に知らしめたのだとして、日本でマネジメントという片仮名しか広がらなかったのは、どうしてだろう。
wikipediaで検索すればマネジメントは経営管理論と訳されている。
すなわち、マネジメントとは本来は「組織や団体の管理に関する実践的な技法の確立を目指す学問」と言われているのだが、マネジメントと言えば、はっきり言ってその意味は薄れてしまう。
本来、マネジメントとは学問の領域であり、ドラッカーもまた「1つの体系、研究分野である」と言っている。
しかし注意深く読んでいけば、こうも言っている。
「機能であって、人である。社会的な地位であって、1つの体系、研究分野である」
つまり、マネジメントという言葉に当たる日本語が無かった、そして仕方がなく、研究分野としてのマネジメントにフォーカスし、経営管理などの言葉に訳した―そう推測している。
例えば「God」。
日本に来た宣教師が広めた言葉であるが、日本は「八百万の神の国」であり、対して欧米は「一神教の国」である。自然と捉え方が違う。
よくよく考えれば、欧米人が叫ぶ「Oh, my God !!」も訳すのが難しい。あぁ、私の神よ!! だとしたら通じない。これに挑戦したのが福井氏の「ローレライ」や、ドストエフスキーの「罪と罰」である。
すなわち自分の中にいる神様の存在に気付く作業、と言っても良いかも知れない。最近で言えば小林よしのり氏が「天皇論」の中で「1940年~1945年だけ、天皇はmy godだった」という説を発表しているが、まぁそれでも通用しなかった人が大勢いるようで、結局は「God」という言葉が来て500年弱、今だこの言葉は真の意味で浸透していない。
マネジメントも同様ではないだろうか。
ドラッカーは言う。
「マネジメントが、企業、政府機関、大学、研究所、病院、軍などの組織のための期間だということである。組織が機能するには、マネジメントが成果をあげなければいけない」
「マネジメントよりも、むしろ組織のほうが実体を欠く存在であるといってよい。会計的には実体であっても、社会的には実体でない。規則を定め決定を行うのは、組織としての政府機関ではない。政府機関のマネジメントのだれかである」
マネジメントとは、その言葉本体では、恐らく何の意味ももたない。
「俺、今日、熱37度2分あんねんけど、学校来てん」
というくらい、ふーん、であり、意味を為さない。
しかし、そのマネジメントを人間が担い、機能し出すと意味を持ってくる。
ドラッカーは言う。
「マネジメントとは、成果に対する責任に由来する客観的な機能」
つまりマネジメントとは責任を有する成果を生む機能である。
プロジェクトマネジメントに置き換えよう。
この役職は何のために存在するのか?
この役職は何をするべきなのか?
それは組織のために存在するが、組織に依存した存在ではない。
言い換えれば、案件のために存在するが、案件に依存した存在ではない。
案件を機能させ、成果を出す為のポストである。
そして、その責任を担うポストである。
何を当たり前のことを言っているのか?
そう思われるかもしれない。
しかし、よくよく考えてみれば、プロジェクトをマネジメントするとは何か?と聞かれて、恐らく応えられない人もいるはずだ。
その時は下の言葉を言って欲しいと思う。
何度も繰り返すが、プロジェクトマネジメントの役割は、任されたプロジェクトを機能させ、成果を出すことであり、またそれが目標である。
課長や部長のような、課や部を代表し、代表するに値する成果を出す存在と同様だと思う。
そして課長や部長と同じく、その責任を担う存在である。
少し穿った見方かも知れませんが、人間の良心が存在しているなら、これはノーブレス・オブリージュのようなものなのかもしれません。
高い身分や地位には、それに相応する義務と責任が伴います。プロジェクトマネジメントとは、役割がプロジェクトを機能させ成果を出すことですから、その役職に就く人(プロジェクトマネージャー)にとって、成果とは義務であり同時に、その義務を果たす責任があると言っても過言ではありません。
持てる者は持たざる者に施すべきであり。
そうした行為は名誉あるものとみなされる。
プロジェクトマネジメントは、すなわち、ある意味で機能的に効率的に動かすための「施し」なのかもしれません。