リクルートという企業は、ベンチャーだろうが大企業だろうがある意味で、羨望の眼差しで見られる。
その理由として、リクルート社内が醸し出す雰囲気・空気があるのではないだろうか。
確かに、リクルート出身で成功している企業家は多く、ある意味で企業家育成企業という意味合いを持つ。
しかしそれだけでは「PL出身のプロ野球選手が多いよね」程度の感覚値でしか無い。
恐らくベンチャーや大企業がリクルートという組織に対して、羨望を持つのは、その組織にしか無い風土である。
自由、徹底された自由。
そして完全なる実力主義。
その風土が醸し出す空気を吸い込んだ社員に、羨望の眼差しを向けてしまう。
同じ大学を卒業した同じ能力の一郎と次郎、片方がリクルートに、片方が名も無い中小企業に入社したとして、3年経った頃、2人にはどれ程の差があるだろうか。
それほど、組織が持つ雰囲気や、醸し出す風土は社員に影響を与える。
仕事の進め方、価値観、考え方、捉え方……だからこそ、新入社員の初めの3年間は大切だと言われる。
前回登場した野茂英雄、イチローだけでなく、吉井、田口など様々なメジャーリーガーを輩出し、選手に対して理解のある男、という異名を持つ人間がいる。
仰木彬氏である。
あのイチローですら、仰木氏には絶対服従・絶対敬礼だったそうだ。
しかしそれは言い換えれば、仰木氏が最大限の理解者であったことの裏返しとも言える。
仰木氏と言えば、1989年に近鉄の監督として優勝を経験、そして95年と96年にはオリックスの監督として優勝を経験した、名将と言われる人物である。
選手の個性を生かし、それをグラウンド上で最大限発揮することを得意とし、言わば超二流の天才とされた。
それはおそらく、師である三原脩の大いなる影響があるだろう。
仰木氏は、打線において選手を固定することを殆どしなかった。
優勝した95年の場合、打線は「猫の目」打線と言われ、100通り以上存在していた(このあたりは、ロッテのバレンタイン監督に似通ったものがある)。
唯一、固定出来たのは1番・イチローであるが、それでも数試合、2番や3番を打っている。
なぜ、打線を固定しなかったのか?
戦力に恵まれなかったというのは嘘である。もし、そうならリーグ制覇、そして2連覇は絶対に為し得ない。
仰木氏は選手を野菜や魚に見立てて「鮮度の良い奴から使う」と言っている。
そして相手投手を見て、相性の良いバッターを使うことを明言している。
それを証明するかのように、過去、ノーアウト満塁の場面で、相手投手との相性を見て、4番打者に代打を送ったことすらある。
それを、酷と言うのは簡単である。
しかし選手の個性・良点に目をやって、AとBがいた場合、Bの方が優れていると解れば、Aが4番だろうとエースだろうと交代すること自体、勇気がある行為である。
Aのプライドを慰めるためには、Bは結果を残さなければいけない。
それ以上に、代わりとなるBに何か秀でているものが無ければならない。
一見、仰木氏の行為は組織破壊活動のように見える。
組織という枠を破壊し、フラットにした上で、選手の個性を存分に活かす。
ある意味で、現在の日本企業に一番、求められている管理職の姿かもしれない。
部下の特徴を把握する。
部下の個性を把握する。
部下の弱点を把握する。
その上で、どの部下にどのような仕事を任せれば、最高のパフォーマンスを出すことが出来るか判断する。
仕事を任せることは簡単だが、部下を把握することが難しい。
その結果が、オーバーワークや過重労働を生む。
しかし、仰木氏が壊した後に出来たのは、違う意味での組織である。
そもそも組織とは、目的を持った集団を指す。
仰木氏が率いた集団は、いずれもリーグ制覇・日本一という目的を持っていた。
では、なぜ仰木氏は組織を壊して再度、組織を生んだのか。
いや言い方を変えると、なぜ仰木氏は一度、組織を壊したのか。
今までのやり方、組織に根付いた風土のままでは成功しない、という確信を持っていたからではないか。
負けても仕方が無い、負けても当然、という人間の慢心が生んだ雰囲気が風土として定着している。
だからこそ、仰木氏は近鉄、オリックスという組織を何度でも壊せる組織を生んだのではないか。
つまり猫の目打線に象徴される、誰もが日替わりヒーローになれる土台を生み、気を抜けば一瞬でレギュラーの座から2軍に転げ落ちる風土を生んでおけば、毎日のように組織は壊れる代わりに、毎日のように誕生する。
日々新しく誕生する組織の中で、勝利をもぎ取っていた。
言わば、新陳代謝の激しい組織の中で、個々の選手は自然と120%の力が出せるようになったのではないか。
その意味で、選手にとってこれほど過酷な環境は無い。
ライバルは大勢いる。プロ野球選手である以上、一芸に秀でた人間は沢山いる。
彼らに対して、自分の領域だけは絶対に守らないといけない。
得意な投手、得意な打者、得意な守備位置、得意な変化球、速球、バント、遠くへ飛ばす力……。
しかも、自分の陣地をやっと確保出来たと思ったら、そのポジションは直ぐに壊され、今までの成績結果でしか判断はされない。
熾烈な競争だが、何よりも自分自身と闘わないといけなくなってしまう環境を生んでいる。
その手腕、あっぱれとしか言うことが出来ない。
21世紀になって、世間では競争社会と言われるようになった。
しかし競争相手は大勢いれど、自分自身が誰と何で戦っているか見失ってはいけない。
そして1位の座を獲得したからといって、安堵してはいけないのだろう。
仰木氏はなぜここまでして、組織を壊してまで組織を生んだのか。
それはおそらく、いや間違いなく、そこまでしないと優勝と言う2文字を掴み取れなかったからだろう。
ビジネスの世界もまた、同様である。
昨今の世界大恐慌のあおりを受けて、企業は減収減益を続けている。
その言い訳として、「世界恐慌が……」と言い訳する人は多い。
しかし、仰木氏のような徹底した競争原理で勝つことに執着したのか?そこを問いたい。
WBCでも活躍しているイチロー選手、そして去年引退した野茂選手。
共に「天才」という枠で語られそうな、努力するプロ野球選手だ。
彼らは才能に溢れ、そしてその才能を余すことなく発揮出来た選手である。
しかし彼らは間違いなくエリート街道を歩めたかと言えば、疑問符である。
そして彼らが唯一無二の存在であったかと言えば、それも疑問符である。
彼ら以上の存在がいたかどうかと言えば、間違いなく居たと思う。
ただ、活躍することが出来なかっただけではないか、と推測する。
きっと野茂氏も、イチロー選手もそれに気付いている。
だからこそ彼らは練習を疎んじ無いし、自分が凄いとも思っていない。
なぜか?
それは、彼らが冷遇された時代を経験しているからである。
組織に冷たくされる。
或いは、組織が理解してくれない。
そんな時、人間の反応は2つに1つである。
組織の無理解に拗ねてしまう。
若しくは、理解出来ない組織が悪いと開き直ってしまう。
組織とは、ある目的を達成するための集団を統率するツールである。
つまりルールによって成り立つ。
あの自由人・仰木彬氏ですら彼なりのルールに基づいた組織を形成した。
では野茂氏やイチロー選手の場合、なぜ所属する組織の理解を得られなかったのか。
そこで注目を浴びるのは、彼らを指導する立場にあった総大将・鈴木氏と土井氏である。
鈴木氏は史上最高の先発投手と言われ、輝かしい成績を残している一方で、我儘で、聞かん坊で、頑固だった。
一方の土井氏はV9時代の超2流選手であり、巨人時代は名コーチとされていた。
あまり関係性の無いように見えるが、幾つものエピソードに触れるに連れ、ある共通点を持っていることに気付く。
■強烈な成功体験の持ち主である
■野球に対して常識を持っている
鈴木氏の場合だと、最後の300勝投手という強烈な成果の持ち主であり、言わば「自分の成功例を持って、他の人にも通用するはず」という価値観を持っている。
それだけでなく、西本監督の下で、剛速球投手からコントロール重視投手へと見事な転換を経ており、どうしても人間はやれば出来るんだ、という精神論を持ちがちである。
(精神論で諭すことが悪いのではなく、精神論だけでは成果主義者に対する対論が出来ない点で厄介なだけである。精神論でモチベーションが上がる人間に対しては、精神論で話せば良い)
土井氏もまた、V9という成功体験を持っている。そしてとくに、川上野球を最も経験しているだけに、所謂オーソドックス、当り前のことを当たり前に出来る野球が一番強いということを知っている。
それだけでなく、巨人時代のコーチ経験を通じて、野球に対して深い理解と常識を兼ね備えたとされている。
鈴木氏も、そして土井氏も、成功体験は豊富であり、そして野球との係わりから「これはこう」「あれはそう」という常識を持っていた。
そして、それがイチロー選手と野茂氏の活躍を見抜く際、邪魔になってしまった。
土井氏の場合、イチローの能力を見抜けなかった等と言われているが、これは嘘である。
イチロー選手が1軍に出場してホームランを打った際、2軍に落としたが、その後に宮内オーナーに対して「凄い選手がいる」と言い、異例の2軍視察を行った程である。
恐らく、いや間違いなく、彼はイチロー選手の才能を見抜いていた。
なぜ、彼はイチローを2軍に落としたか。
理由は2つである。1つは外野陣の層が厚かった、そして代打陣も外野手が主であり、若手選手であるイチロー選手の入る隙間が無かったこと。
そして振り子打法に関して、土井氏が「これは今のイチローにしか出来ない打法だ」と察知し、2軍で修正しろと命じたと言われている。
鈴木氏の場合も同様である。
野茂氏との確執が噂されるようになったのも、トルネード投法に対して「いずれ通用しなくなる。だから、通用しなくなる前に変えろ」と言ったことが問題だと言われている。
もうお解り頂けたと思う。
鈴木氏にしろ、土井氏にしろ、彼らの野球という常識には、イチロー選手や野茂氏が「非常識」に見えたのだ。
そして「親切心」で彼らの「長所」を無くそうとした。
土井氏も鈴木氏も、天才を見抜けなかった。
いや、今までの彼らが歩んだであろう歴史を見れば、2人の天才に何度も出会ったはずだ。
しかし監督という管理職に就任した途端、それが見えなくなってしまう。
人を育てる際、マニュアルが無いように、今までの歴史は参考になるが絶対では無い。
なぜなら人を育てることは0を1にすることだからである。
今までのやり方が通用する可能性の方が、実は低かったりする。
しかし人は、人を育てる際に不安になり、ついつい過去を見てしまう。振り返ってしまう。
今を改善するには、マーケティングが欠かせない。
しかし、何か違うことをしようという場合、欠かせないのはイノベーションである。
そして人を育てるということは、イノベーションに近い。
形にはめて成功する例は少なく、成功したとしても通用するのは1年~2年ではないだろうか。
鈴木氏と土井氏は、恐らく間違っていなかった。
そして、野茂氏もイチロー選手も、間違っていなかった。
ただ、やり方が通用しなかっただけだと思う。
そして成果が出なかった。
人間の真価が問われるのは、その瞬間だ。
チャレンジする際、成功よりも失敗が多いかも知れない。
しかし、土井氏や鈴木氏のように、それを失敗と受け止めてはいけないと思う。
仕方が無い、そのやり方しか無い、と拒絶の姿勢や拒否の構えを示すのではなく、コミュニケーションを取るべきではなかったか。
失敗の理由、経過を辿るべきである。
なぜか?
失敗か成功かは、当事者が決めるのではなく、今日と未来の利益享受者が決めるからである。
共に「天才」という枠で語られそうな、努力するプロ野球選手だ。
彼らは才能に溢れ、そしてその才能を余すことなく発揮出来た選手である。
しかし彼らは間違いなくエリート街道を歩めたかと言えば、疑問符である。
そして彼らが唯一無二の存在であったかと言えば、それも疑問符である。
彼ら以上の存在がいたかどうかと言えば、間違いなく居たと思う。
ただ、活躍することが出来なかっただけではないか、と推測する。
きっと野茂氏も、イチロー選手もそれに気付いている。
だからこそ彼らは練習を疎んじ無いし、自分が凄いとも思っていない。
なぜか?
それは、彼らが冷遇された時代を経験しているからである。
組織に冷たくされる。
或いは、組織が理解してくれない。
そんな時、人間の反応は2つに1つである。
組織の無理解に拗ねてしまう。
若しくは、理解出来ない組織が悪いと開き直ってしまう。
組織とは、ある目的を達成するための集団を統率するツールである。
つまりルールによって成り立つ。
あの自由人・仰木彬氏ですら彼なりのルールに基づいた組織を形成した。
では野茂氏やイチロー選手の場合、なぜ所属する組織の理解を得られなかったのか。
そこで注目を浴びるのは、彼らを指導する立場にあった総大将・鈴木氏と土井氏である。
鈴木氏は史上最高の先発投手と言われ、輝かしい成績を残している一方で、我儘で、聞かん坊で、頑固だった。
一方の土井氏はV9時代の超2流選手であり、巨人時代は名コーチとされていた。
あまり関係性の無いように見えるが、幾つものエピソードに触れるに連れ、ある共通点を持っていることに気付く。
■強烈な成功体験の持ち主である
■野球に対して常識を持っている
鈴木氏の場合だと、最後の300勝投手という強烈な成果の持ち主であり、言わば「自分の成功例を持って、他の人にも通用するはず」という価値観を持っている。
それだけでなく、西本監督の下で、剛速球投手からコントロール重視投手へと見事な転換を経ており、どうしても人間はやれば出来るんだ、という精神論を持ちがちである。
(精神論で諭すことが悪いのではなく、精神論だけでは成果主義者に対する対論が出来ない点で厄介なだけである。精神論でモチベーションが上がる人間に対しては、精神論で話せば良い)
土井氏もまた、V9という成功体験を持っている。そしてとくに、川上野球を最も経験しているだけに、所謂オーソドックス、当り前のことを当たり前に出来る野球が一番強いということを知っている。
それだけでなく、巨人時代のコーチ経験を通じて、野球に対して深い理解と常識を兼ね備えたとされている。
鈴木氏も、そして土井氏も、成功体験は豊富であり、そして野球との係わりから「これはこう」「あれはそう」という常識を持っていた。
そして、それがイチロー選手と野茂氏の活躍を見抜く際、邪魔になってしまった。
土井氏の場合、イチローの能力を見抜けなかった等と言われているが、これは嘘である。
イチロー選手が1軍に出場してホームランを打った際、2軍に落としたが、その後に宮内オーナーに対して「凄い選手がいる」と言い、異例の2軍視察を行った程である。
恐らく、いや間違いなく、彼はイチロー選手の才能を見抜いていた。
なぜ、彼はイチローを2軍に落としたか。
理由は2つである。1つは外野陣の層が厚かった、そして代打陣も外野手が主であり、若手選手であるイチロー選手の入る隙間が無かったこと。
そして振り子打法に関して、土井氏が「これは今のイチローにしか出来ない打法だ」と察知し、2軍で修正しろと命じたと言われている。
鈴木氏の場合も同様である。
野茂氏との確執が噂されるようになったのも、トルネード投法に対して「いずれ通用しなくなる。だから、通用しなくなる前に変えろ」と言ったことが問題だと言われている。
もうお解り頂けたと思う。
鈴木氏にしろ、土井氏にしろ、彼らの野球という常識には、イチロー選手や野茂氏が「非常識」に見えたのだ。
そして「親切心」で彼らの「長所」を無くそうとした。
土井氏も鈴木氏も、天才を見抜けなかった。
いや、今までの彼らが歩んだであろう歴史を見れば、2人の天才に何度も出会ったはずだ。
しかし監督という管理職に就任した途端、それが見えなくなってしまう。
人を育てる際、マニュアルが無いように、今までの歴史は参考になるが絶対では無い。
なぜなら人を育てることは0を1にすることだからである。
今までのやり方が通用する可能性の方が、実は低かったりする。
しかし人は、人を育てる際に不安になり、ついつい過去を見てしまう。振り返ってしまう。
今を改善するには、マーケティングが欠かせない。
しかし、何か違うことをしようという場合、欠かせないのはイノベーションである。
そして人を育てるということは、イノベーションに近い。
形にはめて成功する例は少なく、成功したとしても通用するのは1年~2年ではないだろうか。
鈴木氏と土井氏は、恐らく間違っていなかった。
そして、野茂氏もイチロー選手も、間違っていなかった。
ただ、やり方が通用しなかっただけだと思う。
そして成果が出なかった。
人間の真価が問われるのは、その瞬間だ。
チャレンジする際、成功よりも失敗が多いかも知れない。
しかし、土井氏や鈴木氏のように、それを失敗と受け止めてはいけないと思う。
仕方が無い、そのやり方しか無い、と拒絶の姿勢や拒否の構えを示すのではなく、コミュニケーションを取るべきではなかったか。
失敗の理由、経過を辿るべきである。
なぜか?
失敗か成功かは、当事者が決めるのではなく、今日と未来の利益享受者が決めるからである。
この人ほど、敵と見方を区別する人はいないのではないだろうか。
こう書いてしまうと、星野批判かという声が出そうだが、良し悪しのレベルで言っているのではなく、恐らくそうでしか組織で勝てなかったのではないか、という意味―所謂、同情の意味を込めているとしたら、皆さんはどう思うだろうか。
いまや、中日の星野よりも阪神の星野の方が、全国区である。
あのダメ虎阪神タイガースを蘇らせた奇跡の男とも言われている。
恐らく、いや間違いなく本人もそれを意識している。
中日時代に、巨人戦でないと燃えなかった男と半ば揶揄された男の生き様のようで、実は何だか悲しかったりもする。
熱血、情に厚いとされ、理想的な上司だと昔はされた。
しかしリーダーとして冷静に考えた時に、全ての物事には裏と表があると考えれば、星野氏は城壁を隔てて、内と外で区分する人間ではないか?と実は推測する。
あの、王貞治氏ですら勝ちたいという執念は、勝利への固執を生み、それが周囲の離反へと繋がっている。
星野氏の場合、同じく有名なフレーズとして「勝ちたいんや!」という執念の言葉があり、その裏側に「この気持についてこれない奴は去れ」という冷酷な素顔が垣間見れる。
星野氏は周囲を鼓舞する存在である。
俺を信じろ、俺に任せろ、おれについてこい!そういう存在である。
だからこそ、一歩後ろに下がって、ポツリと「さて……どうかなぁ……本当かなぁ」という人間を、或いは星野氏よりも先輩の人間を嫌う傾向にあるとみている。
この場合、組織の反応として、出る症状は2つである。
「当然だ、こんなに組織が盛り上がっているのに」
「やり過ぎだ、そこまでやる必要があるのだろうか」
星野氏の場合、所属する組織は大抵、前者だったようだ。
北京オリンピックに限り、後者だったに過ぎない。
それを政治屋と揶揄するかもしれないが、それでも組織を掌握し、そして優勝することが出来たのは、並みの手腕では決して無い。
選手だけでなくマスコミ、球団幹部、外部関係者とのコミュニケーションを弛まなく行った結果、優勝することが出来たとして、その優勝は汚された優勝か? そんなことは無い。
組織を率いるとは、そういうことなのだと思う。
リーダーを信じさせる、この人ならと思わせる。
だからこそ、好かれる。
しかし、決して忘れてはいけないことがある。
熱狂的に好かれるとは、熱狂的に嫌われることでもある。
星野氏に限らず、長嶋氏、野村氏、王氏……熱狂的に好かれる人には、必ずアンチと呼ばれる人がいることも事実である。
なぜか?
それは、個性があるからだと推測している。
誰だって好き嫌いがある。そして、その好きと嫌いの判断基準はバラバラである。
その人の個性が際立てば際立つほど、好きと嫌いの判断基準は明確になる。
星野氏の場合、それは北京オリンピックの監督就任がピークだったと思う。
選手の頃にアンチ巨人として活躍したように、監督の頃にアンチ巨人のシンボルだったように、北京監督になって「俺はこうする!」と断言して、個性を際立たせた。
結果、負けた。
金しかいらないと言って、銅すら取れなかった男と揶揄された。
しかし、それだけである。
星野氏から学ぶべきことはたくさんある。
それはリーダーとしての生き様、在り方である。
思うに星野氏のリーダーとしての生き方は恩師・島岡氏の影響があると思うのだが、巨人・藤田氏のようなサーバントリーダーシップとは違い、来いと前面に出るタイプである。
それにはリスクがある。
前に出て出て出て、振り返ると全員が離れているということもある。
熱狂的になればなるほど、自分自身を冷静に見ることが大切である。
熱気や歓喜は、時に2.26事件のような横暴すら受け入れてしまい、大東亜戦争すら勃発させる。
こらボケカスアホんだら、と大声で言いながら、あぁ言い過ぎた大丈夫かな凹んでいるかなどうフォローしようかな誰に依頼しようかな、そう考えられたら良いのだが、北京オリンピックではその様子が見れなかった。
星野氏が組織を把握出来た真骨頂は、熱狂的に好かれ、そして嫌われている理由を把握出来た点だと僕は思っている。
それだけに、北京オリンピック後の狂騒と喧噪をバッシングと受け止めてしまった点が、残念でならない。
それを熱狂的に嫌われていると受け止めてさえいれば、WBCの監督は星野氏だったと今でも思える。
こう書いてしまうと、星野批判かという声が出そうだが、良し悪しのレベルで言っているのではなく、恐らくそうでしか組織で勝てなかったのではないか、という意味―所謂、同情の意味を込めているとしたら、皆さんはどう思うだろうか。
いまや、中日の星野よりも阪神の星野の方が、全国区である。
あのダメ虎阪神タイガースを蘇らせた奇跡の男とも言われている。
恐らく、いや間違いなく本人もそれを意識している。
中日時代に、巨人戦でないと燃えなかった男と半ば揶揄された男の生き様のようで、実は何だか悲しかったりもする。
熱血、情に厚いとされ、理想的な上司だと昔はされた。
しかしリーダーとして冷静に考えた時に、全ての物事には裏と表があると考えれば、星野氏は城壁を隔てて、内と外で区分する人間ではないか?と実は推測する。
あの、王貞治氏ですら勝ちたいという執念は、勝利への固執を生み、それが周囲の離反へと繋がっている。
星野氏の場合、同じく有名なフレーズとして「勝ちたいんや!」という執念の言葉があり、その裏側に「この気持についてこれない奴は去れ」という冷酷な素顔が垣間見れる。
星野氏は周囲を鼓舞する存在である。
俺を信じろ、俺に任せろ、おれについてこい!そういう存在である。
だからこそ、一歩後ろに下がって、ポツリと「さて……どうかなぁ……本当かなぁ」という人間を、或いは星野氏よりも先輩の人間を嫌う傾向にあるとみている。
この場合、組織の反応として、出る症状は2つである。
「当然だ、こんなに組織が盛り上がっているのに」
「やり過ぎだ、そこまでやる必要があるのだろうか」
星野氏の場合、所属する組織は大抵、前者だったようだ。
北京オリンピックに限り、後者だったに過ぎない。
それを政治屋と揶揄するかもしれないが、それでも組織を掌握し、そして優勝することが出来たのは、並みの手腕では決して無い。
選手だけでなくマスコミ、球団幹部、外部関係者とのコミュニケーションを弛まなく行った結果、優勝することが出来たとして、その優勝は汚された優勝か? そんなことは無い。
組織を率いるとは、そういうことなのだと思う。
リーダーを信じさせる、この人ならと思わせる。
だからこそ、好かれる。
しかし、決して忘れてはいけないことがある。
熱狂的に好かれるとは、熱狂的に嫌われることでもある。
星野氏に限らず、長嶋氏、野村氏、王氏……熱狂的に好かれる人には、必ずアンチと呼ばれる人がいることも事実である。
なぜか?
それは、個性があるからだと推測している。
誰だって好き嫌いがある。そして、その好きと嫌いの判断基準はバラバラである。
その人の個性が際立てば際立つほど、好きと嫌いの判断基準は明確になる。
星野氏の場合、それは北京オリンピックの監督就任がピークだったと思う。
選手の頃にアンチ巨人として活躍したように、監督の頃にアンチ巨人のシンボルだったように、北京監督になって「俺はこうする!」と断言して、個性を際立たせた。
結果、負けた。
金しかいらないと言って、銅すら取れなかった男と揶揄された。
しかし、それだけである。
星野氏から学ぶべきことはたくさんある。
それはリーダーとしての生き様、在り方である。
思うに星野氏のリーダーとしての生き方は恩師・島岡氏の影響があると思うのだが、巨人・藤田氏のようなサーバントリーダーシップとは違い、来いと前面に出るタイプである。
それにはリスクがある。
前に出て出て出て、振り返ると全員が離れているということもある。
熱狂的になればなるほど、自分自身を冷静に見ることが大切である。
熱気や歓喜は、時に2.26事件のような横暴すら受け入れてしまい、大東亜戦争すら勃発させる。
こらボケカスアホんだら、と大声で言いながら、あぁ言い過ぎた大丈夫かな凹んでいるかなどうフォローしようかな誰に依頼しようかな、そう考えられたら良いのだが、北京オリンピックではその様子が見れなかった。
星野氏が組織を把握出来た真骨頂は、熱狂的に好かれ、そして嫌われている理由を把握出来た点だと僕は思っている。
それだけに、北京オリンピック後の狂騒と喧噪をバッシングと受け止めてしまった点が、残念でならない。
それを熱狂的に嫌われていると受け止めてさえいれば、WBCの監督は星野氏だったと今でも思える。
もし王貞治が巨人の監督で生涯を終えていたら、恐らく彼はホームランキングとしての王貞治氏だった筈だ。
福岡ダイエー、ソフトバンクでの輝かしい功績の裏には、恐ろしいまでに王氏の本質を貫くエピソードが溢れている。それは間違いなく、巨人の監督で目覚ましい成果を生むことが出来なかった点と共通している。
王貞治氏ほど、勝利に拘る監督はいない、という著作は多い。
確かにプロ野球では、勝利は大切である。勝たなければ、優勝することが出来ない。
しかし、プロ野球は年間を通じて勝つことを求められる球技である。
株式会社で言えば、年間を通じての利益、売上を見ることに似ている。
しかし王氏は、四半期の利益・売上に拘るだけでなく、その日一日の利益・売上にまで拘る姿勢を持っていた。
もちろん、それは素晴らしいことではある。素晴らしいことではあるけれども、大差の試合で負けている時に、組織のリーダーがシャカリキになって勝とうという姿勢を見せる時、選手が取るべき対応は2つに1つだ。
感動か、それとも無視である。
特に王貞治氏は練習の虫だった人だ。荒川道場の優等生、練習をしなければ不安になるとまで言わしめた、それほどまでに自分自身を律し、自分自身を過信せず、自分自身を練習によって磨き続けることが出来た超一流の人間である。
だからこそ、勝利に拘る。
しかし勝利に拘るこそ、勝てなかった時の理由に腹を立て、ついつい部下に対して言ってしまう。
「どうして出来ないんだ!」
選手の気持ちになってみる。
自分を叱責しているのは、世界の王貞治。
ミスをしたのは確かに自分の責任である。
申し訳ないという気持ちはある。だが、しかし―。
人間は弱い生き物である。
ましてや、何十年Bクラスだったホークスの負け犬体質が染み込んだ選手であれば、尚更のこと口に出して、言い訳したくなるセリフがある。
「どうせ、世界の王と俺は違う」
そういった姿勢が、王氏が勝利への執念を見せるほど、感動よりも無視という行動に走らせてしまう。
事実、生卵事件があった年や翌年には、コーチ陣ですらそのように言っていたそうだ。
しかし考えてみれば、勝利に固執することと、実際に勝利することでは意味が違う。
王氏は2000年以降にそのことに気付かれたようで、ある人の著作によれば「正論を述べたところで、それが正しいとも、実行されるとも限らない」と言ったらしい。
王氏は、ホークスを率いて悟ったのではないか。
自分が何を言ったとしても、それを受け止める選手が意識を持たなければ何の意味も無い、ということを。
あぁ、また王の無理難題だ。
そう思われてしまっては、どれだけ成功の近道だったとしても、選手にその気が無いのだから意味が無い。
これはどこの組織に行ったとしても同じことだと思う。
王貞治氏がホームランキングから、巨人の監督に上り詰めて、中途半端な成績(と言っても、1度もBクラスになっていない)で解任された後、ダイエーホークスの監督に就任し、生卵事件という象徴的な事件を経験するまで、それはホームランキングとしての王氏だったと推測する。
しかし、それ以降の王貞治氏は、組織の長としての、カリスマ性を持ったリーダーとしての、王氏だったと思う。
前半は例えるなら、一般職として稀有な成績を残し続けた巨人商事の社員「王貞治」を想定して欲しい。
何でもかんでも受注するし、社長賞は何十回として獲得してきた。しかし、やや先輩に長嶋氏という天性の営業マンがいて、客に愛されるのは長嶋、案件を受注するのは王、なんて社内で言われてきた。
長嶋が管理職になって、やがて王も管理職になる。
自分の部下になったのは、自分自身が活躍し、また業界占有率ナンバー1時代を9年連続達成してきた頃の一般社員とは違い、どうしても自分の目で比較してしまうと頼りないし、一芸に欠けるし、秀でたものが無いように見える。
そうは言っても、昨年まで管理職だった藤田は何度も素晴らしい成果を出していたから大丈夫だ。そう言い聞かせて営業活動を開始すると、やはり『自分の目に狂いは無かった』。目覚ましい成績を上げることが出来ない。
ミスが目立つ。自分なら出来たことが部下には出来ない。
そして、ついつい口に出して言ってしまう。
「おいおい、どうしたんだい。去年までとメンバーが一緒なのに、どうして売上が上がらないんだ?」
それでも、5年間も組織を率いて、結局業界占有率ナンバー1時代を確保出来たのは1年だけ。
ほぼ解任に近い形で管理職を追い出されてしまう―。
それから暫くして、今度はダイエー商事から声が掛かる。
今度こそ―という思いとは裏腹に、実際のダイエー商事の一般社員は、巨人商事の一般社員とは比べ物にならないほどに質が悪い。
営業をサボってパチンコを打つ。映画を見る。仕事をしていない。
巨人商事の頃はまだ良かった。組織的に仕事に従事していた、各々の役割を認識して、自分の仕事を卒無くこなしていた。しかしダイエー商事の場合、単純に自分の仕事をしているだけで、誰も役割を考えていない。自分が活躍出来れば良い、としか思っていない。
案件の受注という成果、売上、利益―誰も、それを考えていない。
一生懸命、案件の取り方、利益の確保の仕方、それを説明しても「どうせ、俺らは巨人商事とは違いますよ」という反応しか返ってこない。
どうして、みんな、勝利へ向かわないんだ!
勝とうとしないんだ!
そう苛立てば苛立つほど、部下は離れていく―。
挙句の果てには、ダイエー商事の関係先から、成果の伴わない現状を憂うあまりに、生卵をぶつけられる始末。
「俺はこんな目に会うために、福岡に来たんじゃない!」
「俺たちがこの仕打ちを見返すためには、成果を上げるしかないんだ!売上の確保、利益を確保するしかないんだよ!!」
そう声を荒げたとしても不思議ではない。
皆さんなら、なぜ王氏が失敗したか解る筈だ。
彼は過去の成功体験に固執し過ぎた。固執は執念を生む。
民主党政権のアメリカのように、民主主義という成功に固執し、執念を燃やして各地で戦争を行う。民主主義のために、である。
王氏もまた、同じだったのではないか。
現状の組織の枠に当て嵌まる運営ではなく、自分の成功体験に基づいた組織運営をしていたのではないか。
そのやり方が悪いとは思わない。
しかし、言い方が悪いかも知れないが、小学生に高校生の授業を受けさせて、出来が悪いと「なぜ出来ないんだ!」と叱責するのが王貞治氏だった。
出来ないからには、理由がある。
なぜ出来ないんだ?と考えていたのが生卵事件前の王貞治氏だったとするならば、どうすれば出来るのか?と口に出すようになったのが生卵事件後の王貞治氏である。
正論を口に出すよりも、勝利という結果のみを追ったのだと思う。
何もスタンスを変えていない。
これ以前も勝利という結果にこだわり続けている。
しかし、王貞治氏は変わった。
世界の王とまで言われた人間が、自分の価値観を変えたのだと思う。
全てを瓦解し、一から再構築したのだと思う。
それは諦めのためでもなく、仕方無くでもなく、勝利のために、価値観を変えたのではないだろうか。
だからこそ、王貞治氏はホームラン王から、真の「王」になった。
WBC初代優勝チーム監督という肩書では済まない、大勢の選手から憧れを抱かれる「王」として―。
王貞治氏を見ていると、組織について改めて考えさせられる。
リーダーが率いるのは部下である。
しかし部下から学ばないリーダーは存在しないはずだ。
そして、部下に対して文句を言うリーダーもまた存在しないはずだ。
優秀なリーダーとは、常に目的のために存在するのである。
王氏の話を聞くと改めて、そう思う。
福岡ダイエー、ソフトバンクでの輝かしい功績の裏には、恐ろしいまでに王氏の本質を貫くエピソードが溢れている。それは間違いなく、巨人の監督で目覚ましい成果を生むことが出来なかった点と共通している。
王貞治氏ほど、勝利に拘る監督はいない、という著作は多い。
確かにプロ野球では、勝利は大切である。勝たなければ、優勝することが出来ない。
しかし、プロ野球は年間を通じて勝つことを求められる球技である。
株式会社で言えば、年間を通じての利益、売上を見ることに似ている。
しかし王氏は、四半期の利益・売上に拘るだけでなく、その日一日の利益・売上にまで拘る姿勢を持っていた。
もちろん、それは素晴らしいことではある。素晴らしいことではあるけれども、大差の試合で負けている時に、組織のリーダーがシャカリキになって勝とうという姿勢を見せる時、選手が取るべき対応は2つに1つだ。
感動か、それとも無視である。
特に王貞治氏は練習の虫だった人だ。荒川道場の優等生、練習をしなければ不安になるとまで言わしめた、それほどまでに自分自身を律し、自分自身を過信せず、自分自身を練習によって磨き続けることが出来た超一流の人間である。
だからこそ、勝利に拘る。
しかし勝利に拘るこそ、勝てなかった時の理由に腹を立て、ついつい部下に対して言ってしまう。
「どうして出来ないんだ!」
選手の気持ちになってみる。
自分を叱責しているのは、世界の王貞治。
ミスをしたのは確かに自分の責任である。
申し訳ないという気持ちはある。だが、しかし―。
人間は弱い生き物である。
ましてや、何十年Bクラスだったホークスの負け犬体質が染み込んだ選手であれば、尚更のこと口に出して、言い訳したくなるセリフがある。
「どうせ、世界の王と俺は違う」
そういった姿勢が、王氏が勝利への執念を見せるほど、感動よりも無視という行動に走らせてしまう。
事実、生卵事件があった年や翌年には、コーチ陣ですらそのように言っていたそうだ。
しかし考えてみれば、勝利に固執することと、実際に勝利することでは意味が違う。
王氏は2000年以降にそのことに気付かれたようで、ある人の著作によれば「正論を述べたところで、それが正しいとも、実行されるとも限らない」と言ったらしい。
王氏は、ホークスを率いて悟ったのではないか。
自分が何を言ったとしても、それを受け止める選手が意識を持たなければ何の意味も無い、ということを。
あぁ、また王の無理難題だ。
そう思われてしまっては、どれだけ成功の近道だったとしても、選手にその気が無いのだから意味が無い。
これはどこの組織に行ったとしても同じことだと思う。
王貞治氏がホームランキングから、巨人の監督に上り詰めて、中途半端な成績(と言っても、1度もBクラスになっていない)で解任された後、ダイエーホークスの監督に就任し、生卵事件という象徴的な事件を経験するまで、それはホームランキングとしての王氏だったと推測する。
しかし、それ以降の王貞治氏は、組織の長としての、カリスマ性を持ったリーダーとしての、王氏だったと思う。
前半は例えるなら、一般職として稀有な成績を残し続けた巨人商事の社員「王貞治」を想定して欲しい。
何でもかんでも受注するし、社長賞は何十回として獲得してきた。しかし、やや先輩に長嶋氏という天性の営業マンがいて、客に愛されるのは長嶋、案件を受注するのは王、なんて社内で言われてきた。
長嶋が管理職になって、やがて王も管理職になる。
自分の部下になったのは、自分自身が活躍し、また業界占有率ナンバー1時代を9年連続達成してきた頃の一般社員とは違い、どうしても自分の目で比較してしまうと頼りないし、一芸に欠けるし、秀でたものが無いように見える。
そうは言っても、昨年まで管理職だった藤田は何度も素晴らしい成果を出していたから大丈夫だ。そう言い聞かせて営業活動を開始すると、やはり『自分の目に狂いは無かった』。目覚ましい成績を上げることが出来ない。
ミスが目立つ。自分なら出来たことが部下には出来ない。
そして、ついつい口に出して言ってしまう。
「おいおい、どうしたんだい。去年までとメンバーが一緒なのに、どうして売上が上がらないんだ?」
それでも、5年間も組織を率いて、結局業界占有率ナンバー1時代を確保出来たのは1年だけ。
ほぼ解任に近い形で管理職を追い出されてしまう―。
それから暫くして、今度はダイエー商事から声が掛かる。
今度こそ―という思いとは裏腹に、実際のダイエー商事の一般社員は、巨人商事の一般社員とは比べ物にならないほどに質が悪い。
営業をサボってパチンコを打つ。映画を見る。仕事をしていない。
巨人商事の頃はまだ良かった。組織的に仕事に従事していた、各々の役割を認識して、自分の仕事を卒無くこなしていた。しかしダイエー商事の場合、単純に自分の仕事をしているだけで、誰も役割を考えていない。自分が活躍出来れば良い、としか思っていない。
案件の受注という成果、売上、利益―誰も、それを考えていない。
一生懸命、案件の取り方、利益の確保の仕方、それを説明しても「どうせ、俺らは巨人商事とは違いますよ」という反応しか返ってこない。
どうして、みんな、勝利へ向かわないんだ!
勝とうとしないんだ!
そう苛立てば苛立つほど、部下は離れていく―。
挙句の果てには、ダイエー商事の関係先から、成果の伴わない現状を憂うあまりに、生卵をぶつけられる始末。
「俺はこんな目に会うために、福岡に来たんじゃない!」
「俺たちがこの仕打ちを見返すためには、成果を上げるしかないんだ!売上の確保、利益を確保するしかないんだよ!!」
そう声を荒げたとしても不思議ではない。
皆さんなら、なぜ王氏が失敗したか解る筈だ。
彼は過去の成功体験に固執し過ぎた。固執は執念を生む。
民主党政権のアメリカのように、民主主義という成功に固執し、執念を燃やして各地で戦争を行う。民主主義のために、である。
王氏もまた、同じだったのではないか。
現状の組織の枠に当て嵌まる運営ではなく、自分の成功体験に基づいた組織運営をしていたのではないか。
そのやり方が悪いとは思わない。
しかし、言い方が悪いかも知れないが、小学生に高校生の授業を受けさせて、出来が悪いと「なぜ出来ないんだ!」と叱責するのが王貞治氏だった。
出来ないからには、理由がある。
なぜ出来ないんだ?と考えていたのが生卵事件前の王貞治氏だったとするならば、どうすれば出来るのか?と口に出すようになったのが生卵事件後の王貞治氏である。
正論を口に出すよりも、勝利という結果のみを追ったのだと思う。
何もスタンスを変えていない。
これ以前も勝利という結果にこだわり続けている。
しかし、王貞治氏は変わった。
世界の王とまで言われた人間が、自分の価値観を変えたのだと思う。
全てを瓦解し、一から再構築したのだと思う。
それは諦めのためでもなく、仕方無くでもなく、勝利のために、価値観を変えたのではないだろうか。
だからこそ、王貞治氏はホームラン王から、真の「王」になった。
WBC初代優勝チーム監督という肩書では済まない、大勢の選手から憧れを抱かれる「王」として―。
王貞治氏を見ていると、組織について改めて考えさせられる。
リーダーが率いるのは部下である。
しかし部下から学ばないリーダーは存在しないはずだ。
そして、部下に対して文句を言うリーダーもまた存在しないはずだ。
優秀なリーダーとは、常に目的のために存在するのである。
王氏の話を聞くと改めて、そう思う。
人の三井、組織の三菱。
それに倣って、楽天の野村監督は昔、人の阪神、組織の巨人と言いました。
ドジャースの戦法よろしく、9人で戦うことを知っている巨人。
そして選手一人一人の個性で戦ってきた阪神。
人の魅力を最大限に引き出し、かつ個人が活躍出来る環境を整えた三井。
そして組織というシステムを作り出し、凡人が活躍出来る土壌を生んだ三菱。
どっちも凄いなぁ、と思います。
野球の場合は勝利という明らかなまでに明らかな目標があり、企業の場合は利益という成果であり目標があります。
問題はそれを集団の人間にどれだけ浸透させることが出来るのか?という点であり、ここにこそマネジメント能力が関わって来るのだと最近は考えます。
僕自身、組織とはかくあるべきか?と考えるにあたって、プロ野球を参考に何度もしています。選手としての王、長嶋、野村、落合、岡田よりも、監督としての彼らの方がずっと参考になりますし、興味深いからです。
そして、プロ野球の監督を通じて、集団をどのように纏める事が出来るか、という理想を感じ取ることが出来るのです。
■名選手、名監督たらず
よく言う言葉ですが、王第1次政権の頃の王氏に当て嵌まると思います。
つまり、「俺が出来たんだから、お前も出来るだろう」という王氏の思い込みが巨人という組織を暗くしていたのです。
よく組織にもいるのではないでしょうか?
俺は出来る、俺なら2時間で仕上げられる、しかしそんなスター選手が管理職になった途端に活躍出来なくなる。それは恐らく、自分が一般職だった頃を想定しているからでしょう。
リクルートでも、退職して成功するのはスター選手ではなく、スター選手をその気にさせ、上手く操縦した人間だそうです。
名選手は血も滲む思いで努力し、そして成功しました。
本人はいたって真面目で、自分ですら通れた道なんだから、きっとコイツだって……そんな思いで、選手起用をするのですが、全ての選手がAクラスではありません。
Bクラス、Cクラスの選手だっています。そしてCクラスの選手にAクラスの活躍を期待してしまうのが名選手だと思います。
そのあたり、某将・三原氏は上手かったようで「超二流」という言葉を流行させましたし、その愛弟子たる仰木氏も血を受け継いでいるようです。
確かにBクラス、Cクラスの選手に期待することは悪いことではありません。
しかし、それと結果は別ですし、選手も期待通りになるとは限りません。
90年代の阪神タイガースがそうだったのではないでしょうか?
ちょっと、この話。長くなりそうですね。
シリーズ化しますか(笑)
それに倣って、楽天の野村監督は昔、人の阪神、組織の巨人と言いました。
ドジャースの戦法よろしく、9人で戦うことを知っている巨人。
そして選手一人一人の個性で戦ってきた阪神。
人の魅力を最大限に引き出し、かつ個人が活躍出来る環境を整えた三井。
そして組織というシステムを作り出し、凡人が活躍出来る土壌を生んだ三菱。
どっちも凄いなぁ、と思います。
野球の場合は勝利という明らかなまでに明らかな目標があり、企業の場合は利益という成果であり目標があります。
問題はそれを集団の人間にどれだけ浸透させることが出来るのか?という点であり、ここにこそマネジメント能力が関わって来るのだと最近は考えます。
僕自身、組織とはかくあるべきか?と考えるにあたって、プロ野球を参考に何度もしています。選手としての王、長嶋、野村、落合、岡田よりも、監督としての彼らの方がずっと参考になりますし、興味深いからです。
そして、プロ野球の監督を通じて、集団をどのように纏める事が出来るか、という理想を感じ取ることが出来るのです。
■名選手、名監督たらず
よく言う言葉ですが、王第1次政権の頃の王氏に当て嵌まると思います。
つまり、「俺が出来たんだから、お前も出来るだろう」という王氏の思い込みが巨人という組織を暗くしていたのです。
よく組織にもいるのではないでしょうか?
俺は出来る、俺なら2時間で仕上げられる、しかしそんなスター選手が管理職になった途端に活躍出来なくなる。それは恐らく、自分が一般職だった頃を想定しているからでしょう。
リクルートでも、退職して成功するのはスター選手ではなく、スター選手をその気にさせ、上手く操縦した人間だそうです。
名選手は血も滲む思いで努力し、そして成功しました。
本人はいたって真面目で、自分ですら通れた道なんだから、きっとコイツだって……そんな思いで、選手起用をするのですが、全ての選手がAクラスではありません。
Bクラス、Cクラスの選手だっています。そしてCクラスの選手にAクラスの活躍を期待してしまうのが名選手だと思います。
そのあたり、某将・三原氏は上手かったようで「超二流」という言葉を流行させましたし、その愛弟子たる仰木氏も血を受け継いでいるようです。
確かにBクラス、Cクラスの選手に期待することは悪いことではありません。
しかし、それと結果は別ですし、選手も期待通りになるとは限りません。
90年代の阪神タイガースがそうだったのではないでしょうか?
ちょっと、この話。長くなりそうですね。
シリーズ化しますか(笑)