もし王貞治が巨人の監督で生涯を終えていたら、恐らく彼はホームランキングとしての王貞治氏だった筈だ。
福岡ダイエー、ソフトバンクでの輝かしい功績の裏には、恐ろしいまでに王氏の本質を貫くエピソードが溢れている。それは間違いなく、巨人の監督で目覚ましい成果を生むことが出来なかった点と共通している。
王貞治氏ほど、勝利に拘る監督はいない、という著作は多い。
確かにプロ野球では、勝利は大切である。勝たなければ、優勝することが出来ない。
しかし、プロ野球は年間を通じて勝つことを求められる球技である。
株式会社で言えば、年間を通じての利益、売上を見ることに似ている。
しかし王氏は、四半期の利益・売上に拘るだけでなく、その日一日の利益・売上にまで拘る姿勢を持っていた。
もちろん、それは素晴らしいことではある。素晴らしいことではあるけれども、大差の試合で負けている時に、組織のリーダーがシャカリキになって勝とうという姿勢を見せる時、選手が取るべき対応は2つに1つだ。
感動か、それとも無視である。
特に王貞治氏は練習の虫だった人だ。荒川道場の優等生、練習をしなければ不安になるとまで言わしめた、それほどまでに自分自身を律し、自分自身を過信せず、自分自身を練習によって磨き続けることが出来た超一流の人間である。
だからこそ、勝利に拘る。
しかし勝利に拘るこそ、勝てなかった時の理由に腹を立て、ついつい部下に対して言ってしまう。
「どうして出来ないんだ!」
選手の気持ちになってみる。
自分を叱責しているのは、世界の王貞治。
ミスをしたのは確かに自分の責任である。
申し訳ないという気持ちはある。だが、しかし―。
人間は弱い生き物である。
ましてや、何十年Bクラスだったホークスの負け犬体質が染み込んだ選手であれば、尚更のこと口に出して、言い訳したくなるセリフがある。
「どうせ、世界の王と俺は違う」
そういった姿勢が、王氏が勝利への執念を見せるほど、感動よりも無視という行動に走らせてしまう。
事実、生卵事件があった年や翌年には、コーチ陣ですらそのように言っていたそうだ。
しかし考えてみれば、勝利に固執することと、実際に勝利することでは意味が違う。
王氏は2000年以降にそのことに気付かれたようで、ある人の著作によれば「正論を述べたところで、それが正しいとも、実行されるとも限らない」と言ったらしい。
王氏は、ホークスを率いて悟ったのではないか。
自分が何を言ったとしても、それを受け止める選手が意識を持たなければ何の意味も無い、ということを。
あぁ、また王の無理難題だ。
そう思われてしまっては、どれだけ成功の近道だったとしても、選手にその気が無いのだから意味が無い。
これはどこの組織に行ったとしても同じことだと思う。
王貞治氏がホームランキングから、巨人の監督に上り詰めて、中途半端な成績(と言っても、1度もBクラスになっていない)で解任された後、ダイエーホークスの監督に就任し、生卵事件という象徴的な事件を経験するまで、それはホームランキングとしての王氏だったと推測する。
しかし、それ以降の王貞治氏は、組織の長としての、カリスマ性を持ったリーダーとしての、王氏だったと思う。
前半は例えるなら、一般職として稀有な成績を残し続けた巨人商事の社員「王貞治」を想定して欲しい。
何でもかんでも受注するし、社長賞は何十回として獲得してきた。しかし、やや先輩に長嶋氏という天性の営業マンがいて、客に愛されるのは長嶋、案件を受注するのは王、なんて社内で言われてきた。
長嶋が管理職になって、やがて王も管理職になる。
自分の部下になったのは、自分自身が活躍し、また業界占有率ナンバー1時代を9年連続達成してきた頃の一般社員とは違い、どうしても自分の目で比較してしまうと頼りないし、一芸に欠けるし、秀でたものが無いように見える。
そうは言っても、昨年まで管理職だった藤田は何度も素晴らしい成果を出していたから大丈夫だ。そう言い聞かせて営業活動を開始すると、やはり『自分の目に狂いは無かった』。目覚ましい成績を上げることが出来ない。
ミスが目立つ。自分なら出来たことが部下には出来ない。
そして、ついつい口に出して言ってしまう。
「おいおい、どうしたんだい。去年までとメンバーが一緒なのに、どうして売上が上がらないんだ?」
それでも、5年間も組織を率いて、結局業界占有率ナンバー1時代を確保出来たのは1年だけ。
ほぼ解任に近い形で管理職を追い出されてしまう―。
それから暫くして、今度はダイエー商事から声が掛かる。
今度こそ―という思いとは裏腹に、実際のダイエー商事の一般社員は、巨人商事の一般社員とは比べ物にならないほどに質が悪い。
営業をサボってパチンコを打つ。映画を見る。仕事をしていない。
巨人商事の頃はまだ良かった。組織的に仕事に従事していた、各々の役割を認識して、自分の仕事を卒無くこなしていた。しかしダイエー商事の場合、単純に自分の仕事をしているだけで、誰も役割を考えていない。自分が活躍出来れば良い、としか思っていない。
案件の受注という成果、売上、利益―誰も、それを考えていない。
一生懸命、案件の取り方、利益の確保の仕方、それを説明しても「どうせ、俺らは巨人商事とは違いますよ」という反応しか返ってこない。
どうして、みんな、勝利へ向かわないんだ!
勝とうとしないんだ!
そう苛立てば苛立つほど、部下は離れていく―。
挙句の果てには、ダイエー商事の関係先から、成果の伴わない現状を憂うあまりに、生卵をぶつけられる始末。
「俺はこんな目に会うために、福岡に来たんじゃない!」
「俺たちがこの仕打ちを見返すためには、成果を上げるしかないんだ!売上の確保、利益を確保するしかないんだよ!!」
そう声を荒げたとしても不思議ではない。
皆さんなら、なぜ王氏が失敗したか解る筈だ。
彼は過去の成功体験に固執し過ぎた。固執は執念を生む。
民主党政権のアメリカのように、民主主義という成功に固執し、執念を燃やして各地で戦争を行う。民主主義のために、である。
王氏もまた、同じだったのではないか。
現状の組織の枠に当て嵌まる運営ではなく、自分の成功体験に基づいた組織運営をしていたのではないか。
そのやり方が悪いとは思わない。
しかし、言い方が悪いかも知れないが、小学生に高校生の授業を受けさせて、出来が悪いと「なぜ出来ないんだ!」と叱責するのが王貞治氏だった。
出来ないからには、理由がある。
なぜ出来ないんだ?と考えていたのが生卵事件前の王貞治氏だったとするならば、どうすれば出来るのか?と口に出すようになったのが生卵事件後の王貞治氏である。
正論を口に出すよりも、勝利という結果のみを追ったのだと思う。
何もスタンスを変えていない。
これ以前も勝利という結果にこだわり続けている。
しかし、王貞治氏は変わった。
世界の王とまで言われた人間が、自分の価値観を変えたのだと思う。
全てを瓦解し、一から再構築したのだと思う。
それは諦めのためでもなく、仕方無くでもなく、勝利のために、価値観を変えたのではないだろうか。
だからこそ、王貞治氏はホームラン王から、真の「王」になった。
WBC初代優勝チーム監督という肩書では済まない、大勢の選手から憧れを抱かれる「王」として―。
王貞治氏を見ていると、組織について改めて考えさせられる。
リーダーが率いるのは部下である。
しかし部下から学ばないリーダーは存在しないはずだ。
そして、部下に対して文句を言うリーダーもまた存在しないはずだ。
優秀なリーダーとは、常に目的のために存在するのである。
王氏の話を聞くと改めて、そう思う。