いよいよ明日は情報処理試験です。
さすがに今日は1日中、試験勉強です。
さて、そうは言いつつ、明日の試験を終えると、GWまでは、新しく開発している製品の市場調査を1週間もする必要があります。
非常に面倒な仕事ですが、見方を考えれば非常に面白い仕事で、何よりも「この仕事をさせてもらえるのは、社内でも俺だけなんだ!」と考えると、非常にラッキーだと思い、やったろうと気力が湧いてきます。
やはり、こう言うのもなんですが、あれも出来るこれも出来るという人間は理想なのですが、とりあえず要件定義が出来て、とりあえず設計が出来て、コードが書けて、テストが出来て、DB系出来て……という人間には成りたくないと思うのです。
満遍なく出来るということは、決して1人前では無いと思うのです。
とりあえず出来る、というのは職業人としては失格であり、サラリーマンとしては1人前なだけなのです。
良くも悪くも雇われている身ですから、何らかの成果を残さなければいけないのは当然です。
しかし、どういう成果を残すかと考えた時に、与えられた課題ベースなのか、それとも目指す目標ベースなのかで大きく変わるように、人間としての成果を見る際に「満遍なく何でも出来るようになった」というのは称賛対象ではあるけれども、目標対象では決して無いはずです。
結局、器用貧乏では無いですが、何でもソコソコ出来るというのは言い換えれば、ある特定の分野に対して自信を持って仕事に立てないのと同義語な気もする訳です。
ということは、経営者から見れば、仕事を任せられない=対価としての給料もあまり払わない、つまり単価が安く上がる、オールラウンドプレーヤーになりかねない。
言い方を悪くすれば、独立する、フリーランスになると考えた場合、単価の高い人間か、自分は。そう常に考えた方が良いよな、と最近は思うようにしています。
結局、何かに秀でた奴を「すげー尖がっている」と表現しますが、それってレーダーチャートで言う「ずば抜けた数値の持ち主」でしかない、と思うんですよね。
全てに秀でていることに越したことは無いのですが、そんな人はいません。
であれば何か1つに秀でるか、或いは全てを満遍なくこなせるようになるか、何れかです。
経営者にとって単価が安いのは後者でしょう。
では、自分自身の人生にとって有意義で面白く、自らの立てた目標達成のために必要な生き方は前者か後者か。
明後日に情報処理の試験があります。
多少の余裕を持っていたつもりが、やはり人間ですね、変に緊張しています。
今までやってきたから大丈夫と思いながらも、不安を感じてしまうのは「ダメだったら、どうしよう」という弱気の虫が心をむしばんでしまうからですね。
こんな時は試験勉強対策が欠かせないでしょう。
さて、どうしても気になってしまうのですが、ベンチャー企業の成長性は何によって確保されているのか?ということなんですね。
まぁ、自分がベンチャー企業に就職しているからなのですが、ぽっと出の企業が何を源泉に成長しているのかを考えた時に、やはりイノベーションが欠かせないと思うのです。
ただ思うのですが、イノベーションって何なのか?という疑問。
世間には無い、新しい製品・概念がイノベーションと言うなら、一昔前のサイバーエージェントなんかはベンチャー企業と呼ばれていましたが、どの辺が新しかったんでしょうか。
結局、サイバーエージェントが大きな成功を収めたのは、ネット専業広告代理店として、ネットマス媒体をひたすら確保して収益を確保したからであって、そこにあまり目新しさを実は感じません。
そのほかの、いわゆるベンチャーと言われる企業の中で、本当に斬新な、先進性の高いイノベーションを秘めた商品を世の中に提供した企業よりも、実は当たり前で当然のことをコツコツとやっている企業の方が数が多いような気がするのです。
つまり、何が言いたいかと言うと、ドラッカーもイノベーションを語る上で(イノベーションと企業家精神の中で)語っていますが、簡単なイノベーションは考え方を変えることだと思うのです。
言わば、ひらめきですね。
見方を変える。
野村克也氏の言う、気付かせ屋さんだと思うのです。
ということは、成果を出すために必要なイノベーションって、実は「革新的なことをしないと!」という強迫概念に囚われるより、何かを変えようというChangeマインドが大切なんじゃないか、と思う訳です。
ドラッカーもイノベーションとは「斬新
なアイデアで世界を変える」ことを指しますが、それはあまりにも勝率が低く機会がないと言ってます。
まぁ、固定概念に囚われていたら、何も変わりませんよね。
だろうな、よりも、なのか?が大切。
多少の余裕を持っていたつもりが、やはり人間ですね、変に緊張しています。
今までやってきたから大丈夫と思いながらも、不安を感じてしまうのは「ダメだったら、どうしよう」という弱気の虫が心をむしばんでしまうからですね。
こんな時は試験勉強対策が欠かせないでしょう。
さて、どうしても気になってしまうのですが、ベンチャー企業の成長性は何によって確保されているのか?ということなんですね。
まぁ、自分がベンチャー企業に就職しているからなのですが、ぽっと出の企業が何を源泉に成長しているのかを考えた時に、やはりイノベーションが欠かせないと思うのです。
ただ思うのですが、イノベーションって何なのか?という疑問。
世間には無い、新しい製品・概念がイノベーションと言うなら、一昔前のサイバーエージェントなんかはベンチャー企業と呼ばれていましたが、どの辺が新しかったんでしょうか。
結局、サイバーエージェントが大きな成功を収めたのは、ネット専業広告代理店として、ネットマス媒体をひたすら確保して収益を確保したからであって、そこにあまり目新しさを実は感じません。
そのほかの、いわゆるベンチャーと言われる企業の中で、本当に斬新な、先進性の高いイノベーションを秘めた商品を世の中に提供した企業よりも、実は当たり前で当然のことをコツコツとやっている企業の方が数が多いような気がするのです。
つまり、何が言いたいかと言うと、ドラッカーもイノベーションを語る上で(イノベーションと企業家精神の中で)語っていますが、簡単なイノベーションは考え方を変えることだと思うのです。
言わば、ひらめきですね。
見方を変える。
野村克也氏の言う、気付かせ屋さんだと思うのです。
ということは、成果を出すために必要なイノベーションって、実は「革新的なことをしないと!」という強迫概念に囚われるより、何かを変えようというChangeマインドが大切なんじゃないか、と思う訳です。
ドラッカーもイノベーションとは「斬新
なアイデアで世界を変える」ことを指しますが、それはあまりにも勝率が低く機会がないと言ってます。
まぁ、固定概念に囚われていたら、何も変わりませんよね。
だろうな、よりも、なのか?が大切。
久しぶりです。
週末に情報処理試験があるため、なかなか更新が出来ませんでした。
在る程度、受かるだろうなという感触を掴みましたので、久しぶりにブログを更新。
ドラッカーの論文では、常に「知識労働者」について触れられていますが、やはりその最たるものはホワイトカラーではないか? と思っています。
僕自身は、システムエンジニアという職で仕事をしていますから、それに当てはめると、知識労働者として『自身をマネジメントして、事前に確約した成果を出す』ことに励まなければいけないなと思っています。
しかし実際問題として、ある程度のルーチンワークに陥ってしまった場合、プログラムを書くという仕事は「仕様書に書かれた通りにプログラムを書く」という作業になり、しまいには「仕様書に書かれた内容を、コンピュータ様がその通りに動くように書くだけ」の作業になってしまいます。
これはどの作業でも同じで、飲食店であれば「客に飯を食って貰うだけ」、美容院であれば「客が来て髪を切るだけ」、サラリーマンであれば「命令通りに動くだけ」、つまりは機械です。
しかし、それで良いのか、という点で問い詰めれば、誰もが「それは嫌だ」と言います。
現実問題は、命令を待って、その通りに動く「知識を使わない、肉体を酷使するだけの人間」なのに、現状を変えようとしない。
結局、自分を変えることが出来るのは自分だけですから、現状のままではいけないと思えば、自分自身をマネージして、成果を出すことを考えながら、仕事に就かなければいけないと思います。
まぁ、なんでこんな話をしたかと言いますと、僕の所属する部署は最近、定時帰社なのですが、他の部署は残業が恒久化しているんですね。
そうなると残業代が嵩む、しかし残業するのは売上が上がらないからだから自然とサービス残業が定着する、そうなると生産性が下がってしまう、そして進捗が思わしくなくなる、さらに売上に陰りが見える、案件をぶっ込む、捌く人がいないので残業が必要になる、残業代が嵩む……。
まるでデフレスパイラルですが、本当の話です。
どこかで、この連鎖を断ち切らないといけないのですが、経営者は「生産性を下げるのをなんとかしろ!」と言いますし、酷い奴は「能力が無いから進捗が悪いんだ」なんて言う始末。
しかし、本当にダメなのは、このスパイラルにおいて、成果を確認しようという姿勢が無いんですよね。
生産性が下がっているという結果だけで判断するのは簡単ですが、何をもって「生産性」とするか?なんて誰も触れないのは、やはりおかしいと思う訳です。
ましてや進捗が思わしくないなら、それは結果の1つとして売り上げの減少という「成果」が出るのは当然ですが、他にエンジニアの疲弊という「成果」も出てきます。
それを何とかしないといけないのですが、誰も何ともしない。
一度、上長に「誰か死んだら、あの現状は変わりますかね?」とぶっちゃけたのですが、「そうだね。変わるね。人員が」と言ったのは、あぁ……と思いました。
踊る大捜査線2で真矢みき演じる管理官が、すみれさんが撃たれたという一報を聞いて「替えはいくらだっている」と言ったのに、なんだか似ていますね。
エンジニアが肉体労働に甘んじている環境は、恐らく昨今の派遣労働問題、貧困問題と実際は変わりはないのではないかな?と思うようになっています。
1つは環境の問題。
つまりプログラマを増やせば、コーディング出来る人間が増えて、生産も増える。戦前で製糸工場のような、ある意味で女工哀史のような世界ですが、なぜかこれがまかり通っている。
その結果、どうしても人月単価を下げれば勝てるという価格競争に陥り、人月単価30万でやりまっせ、なんて世界になってしまいかねない。
これは派遣でも同じですよね。
人間が人月で管理されており、金を生む工具としか思われていない。
この環境は変えないといけない。
働く人間を、肉体労働者から知識労働者に変えていかないといけない。
もう1つは、仕事に対する誇りの問題。
人月で管理される環境になると、自分自身の目標を管理して、自己をコントロールし、成果を出そう、という気持ちになり難いものです。
SBIの北尾氏が「なぜ働くのか」について書いたら十数万部のベストセラーになったそうですが、こんな当たり前のことが当たり前に語られなくなった現状こそ、派遣労働問題・貧困問題の根底にある気がします。
つまり、そういうより成果を出そうという環境が整えられていないことが問題だし、そういった人月管理環境で人間の仕事に対する誇りを持たせないことも問題。
これこそ、肉体労働ではないでしょうか。
肉体労働と言えば、鶴嘴を持ったいかついおっさんのようなイメージですが、何も考えていない、命令に従うだけの人間も肉体労働だと思います。
確かに、そういう働き方が求められる環境もありますが、エンジニアは技術の担い手として、イノベーションパイオニアとして、あってはならないと思う今日この頃。
週末に情報処理試験があるため、なかなか更新が出来ませんでした。
在る程度、受かるだろうなという感触を掴みましたので、久しぶりにブログを更新。
ドラッカーの論文では、常に「知識労働者」について触れられていますが、やはりその最たるものはホワイトカラーではないか? と思っています。
僕自身は、システムエンジニアという職で仕事をしていますから、それに当てはめると、知識労働者として『自身をマネジメントして、事前に確約した成果を出す』ことに励まなければいけないなと思っています。
しかし実際問題として、ある程度のルーチンワークに陥ってしまった場合、プログラムを書くという仕事は「仕様書に書かれた通りにプログラムを書く」という作業になり、しまいには「仕様書に書かれた内容を、コンピュータ様がその通りに動くように書くだけ」の作業になってしまいます。
これはどの作業でも同じで、飲食店であれば「客に飯を食って貰うだけ」、美容院であれば「客が来て髪を切るだけ」、サラリーマンであれば「命令通りに動くだけ」、つまりは機械です。
しかし、それで良いのか、という点で問い詰めれば、誰もが「それは嫌だ」と言います。
現実問題は、命令を待って、その通りに動く「知識を使わない、肉体を酷使するだけの人間」なのに、現状を変えようとしない。
結局、自分を変えることが出来るのは自分だけですから、現状のままではいけないと思えば、自分自身をマネージして、成果を出すことを考えながら、仕事に就かなければいけないと思います。
まぁ、なんでこんな話をしたかと言いますと、僕の所属する部署は最近、定時帰社なのですが、他の部署は残業が恒久化しているんですね。
そうなると残業代が嵩む、しかし残業するのは売上が上がらないからだから自然とサービス残業が定着する、そうなると生産性が下がってしまう、そして進捗が思わしくなくなる、さらに売上に陰りが見える、案件をぶっ込む、捌く人がいないので残業が必要になる、残業代が嵩む……。
まるでデフレスパイラルですが、本当の話です。
どこかで、この連鎖を断ち切らないといけないのですが、経営者は「生産性を下げるのをなんとかしろ!」と言いますし、酷い奴は「能力が無いから進捗が悪いんだ」なんて言う始末。
しかし、本当にダメなのは、このスパイラルにおいて、成果を確認しようという姿勢が無いんですよね。
生産性が下がっているという結果だけで判断するのは簡単ですが、何をもって「生産性」とするか?なんて誰も触れないのは、やはりおかしいと思う訳です。
ましてや進捗が思わしくないなら、それは結果の1つとして売り上げの減少という「成果」が出るのは当然ですが、他にエンジニアの疲弊という「成果」も出てきます。
それを何とかしないといけないのですが、誰も何ともしない。
一度、上長に「誰か死んだら、あの現状は変わりますかね?」とぶっちゃけたのですが、「そうだね。変わるね。人員が」と言ったのは、あぁ……と思いました。
踊る大捜査線2で真矢みき演じる管理官が、すみれさんが撃たれたという一報を聞いて「替えはいくらだっている」と言ったのに、なんだか似ていますね。
エンジニアが肉体労働に甘んじている環境は、恐らく昨今の派遣労働問題、貧困問題と実際は変わりはないのではないかな?と思うようになっています。
1つは環境の問題。
つまりプログラマを増やせば、コーディング出来る人間が増えて、生産も増える。戦前で製糸工場のような、ある意味で女工哀史のような世界ですが、なぜかこれがまかり通っている。
その結果、どうしても人月単価を下げれば勝てるという価格競争に陥り、人月単価30万でやりまっせ、なんて世界になってしまいかねない。
これは派遣でも同じですよね。
人間が人月で管理されており、金を生む工具としか思われていない。
この環境は変えないといけない。
働く人間を、肉体労働者から知識労働者に変えていかないといけない。
もう1つは、仕事に対する誇りの問題。
人月で管理される環境になると、自分自身の目標を管理して、自己をコントロールし、成果を出そう、という気持ちになり難いものです。
SBIの北尾氏が「なぜ働くのか」について書いたら十数万部のベストセラーになったそうですが、こんな当たり前のことが当たり前に語られなくなった現状こそ、派遣労働問題・貧困問題の根底にある気がします。
つまり、そういうより成果を出そうという環境が整えられていないことが問題だし、そういった人月管理環境で人間の仕事に対する誇りを持たせないことも問題。
これこそ、肉体労働ではないでしょうか。
肉体労働と言えば、鶴嘴を持ったいかついおっさんのようなイメージですが、何も考えていない、命令に従うだけの人間も肉体労働だと思います。
確かに、そういう働き方が求められる環境もありますが、エンジニアは技術の担い手として、イノベーションパイオニアとして、あってはならないと思う今日この頃。
急に忙しくなってきました。
忙しい、って言うとなんだか良いことのような風潮ですが、限られた時間の中で成果を出さなければいけないことは、誰しもが同じであり、忙しいのは仕事が整理出来ていない象徴だと思うのです。
本当は定時に出社し定時に帰社し、そして求められる以上の成果を出すことが僕の理想です。
さて、そうは言いつつも現状は台風が襲来しているかのような忙しさで、えらいことになっています。
こうなると、どうしてもテンパってしまって、にっちもさっちも行かなくなるのですが、こういう時に僕はいつも思い出す人物がいます。
大平正芳氏です。
総理総裁を務めながら、現職の総理総裁として死去した、言わば40日抗争の犠牲者とも言われる人物です。
政界というのは毀誉ある世界ですから、彼の評価に対してはしませんが、姿勢として見習いたい点が2つあります。
1つは、仕事に対する捉え方。
池田内閣の官房長官時代。
大平氏は自身の机の引出しに「何も終わないこと」を心掛けたそうです。
つまり仕事が自分の点で止まっていたり、或いは自分預かりになっていたり、そういうことを出来るだけ避けて、即断即決を心掛けたそうです。
一方で、外務大臣時代は金大中事件に遭遇した際、即断即決せず機が熟すまで待つ姿勢を心掛けていたそうです。
恐らくは、役職や仕事の内容に応じて、仕事のスピードを速めたり緩めたりしていたのでしょう。
これが僕には中々、出来ません。
在る仕事は大勢に求められるから常に即断即決、在る仕事は機が熟すまで……解ったの角さんじゃないですが、どうしても答えが出ると結論を強いてしまいがちです。
しかし仕事は集団で行うものですから、一人が出来たからといって完成するわけではありません。
だからこそ、機会を待ったり、あえて決断即実行したりして、集団で戦えるように工夫していく。
なかなか出来るものではありません。
見習いたいものです。
そしてもう1つは、変化。
大平氏は鈍牛と言われるほどに、ヌーボーだったのですが総裁選を通じて周囲は「大平は総裁の器になった」と言われるようになったそうです。
つまり人間は何歳になっても、変わろうと努力すれば変わることが出来る。
どうしても、ついつい、仕事が上手くいかなくなると、
「あの人は頑固だからね」
「仕方が無いよ、あの人はあぁだもの。諦めてるよ」
なんて言って、他の人の分の仕事まで奪いがちですが、それではダメですよね。
人間はいつでも変われる。
変わろうと思えば、どんな人間にだってなれる。
そう思えば、稟議だって企画だって、仕様変更だって、懇切丁寧に用意周到に説明すれば理解して頂ける。
そうなんですが……これがなかなか実行出来ない。
どうせ、なんて思ってしまう。
ダメですよね。
まぁ、ダメもまた良し。
失敗から得れる成功もありますから。
忙しい、って言うとなんだか良いことのような風潮ですが、限られた時間の中で成果を出さなければいけないことは、誰しもが同じであり、忙しいのは仕事が整理出来ていない象徴だと思うのです。
本当は定時に出社し定時に帰社し、そして求められる以上の成果を出すことが僕の理想です。
さて、そうは言いつつも現状は台風が襲来しているかのような忙しさで、えらいことになっています。
こうなると、どうしてもテンパってしまって、にっちもさっちも行かなくなるのですが、こういう時に僕はいつも思い出す人物がいます。
大平正芳氏です。
総理総裁を務めながら、現職の総理総裁として死去した、言わば40日抗争の犠牲者とも言われる人物です。
政界というのは毀誉ある世界ですから、彼の評価に対してはしませんが、姿勢として見習いたい点が2つあります。
1つは、仕事に対する捉え方。
池田内閣の官房長官時代。
大平氏は自身の机の引出しに「何も終わないこと」を心掛けたそうです。
つまり仕事が自分の点で止まっていたり、或いは自分預かりになっていたり、そういうことを出来るだけ避けて、即断即決を心掛けたそうです。
一方で、外務大臣時代は金大中事件に遭遇した際、即断即決せず機が熟すまで待つ姿勢を心掛けていたそうです。
恐らくは、役職や仕事の内容に応じて、仕事のスピードを速めたり緩めたりしていたのでしょう。
これが僕には中々、出来ません。
在る仕事は大勢に求められるから常に即断即決、在る仕事は機が熟すまで……解ったの角さんじゃないですが、どうしても答えが出ると結論を強いてしまいがちです。
しかし仕事は集団で行うものですから、一人が出来たからといって完成するわけではありません。
だからこそ、機会を待ったり、あえて決断即実行したりして、集団で戦えるように工夫していく。
なかなか出来るものではありません。
見習いたいものです。
そしてもう1つは、変化。
大平氏は鈍牛と言われるほどに、ヌーボーだったのですが総裁選を通じて周囲は「大平は総裁の器になった」と言われるようになったそうです。
つまり人間は何歳になっても、変わろうと努力すれば変わることが出来る。
どうしても、ついつい、仕事が上手くいかなくなると、
「あの人は頑固だからね」
「仕方が無いよ、あの人はあぁだもの。諦めてるよ」
なんて言って、他の人の分の仕事まで奪いがちですが、それではダメですよね。
人間はいつでも変われる。
変わろうと思えば、どんな人間にだってなれる。
そう思えば、稟議だって企画だって、仕様変更だって、懇切丁寧に用意周到に説明すれば理解して頂ける。
そうなんですが……これがなかなか実行出来ない。
どうせ、なんて思ってしまう。
ダメですよね。
まぁ、ダメもまた良し。
失敗から得れる成功もありますから。
2009年、プロ野球が開幕した。
開幕ダッシュで幸先良いスタートを切ったのは、意外にも楽天であり中日だった。
今年、意外にも中日の前評判が悪い。
川上が抜け、ウッズが抜け、中村が抜けたから、当然と言えば当然である。
しかし、プロ野球が組織であることは間違いない。
言い換えれば、組織の血液の循環が一気に良くなった、と言い換えることも出来る。
落合という人間は、それを絶対的に理解出来ている男である。
ロッテ、中日、巨人、日本ハムと渡り歩いた落合氏は、恐らくスペシャリストでありながら、組織で戦うとは何か頭で理解出来たマネージャータイプの人間であった。
それは落合氏が、野球界の「奇跡」であったことを意味している。
今年、野村監督が落合氏に戦力が抜けたことを引き合いにして「今年は遣り辛いやろ?」と言った。
しかし落合氏は苦笑しながら「ノムさん、今年ほど野球監督としてやりがいのある年はないよ」と返したそうだ。
どういう意味か?
これを解くカギは、落合氏就任1年目に由来する。
落合氏は「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げた。
この年に、中日ドラゴンズは見事にリーグ制覇しているのだが、ここにこそ落合氏の「野球という組織の見方」が隠されている。
つまり、こういうことである。
戦力補強とは、何も外部から新戦力を連れてくることだけを意味しない。
組織の戦力を100だとして、10の戦力を外部から連れて来るよりも、100の戦力を110にする、という方法があるのである。
そして、もう1つ。
外部から10の戦力を連れてきたところで、それで10の戦力が2軍に落ちたら、何の意味もない。
これを90年代の巨人軍が経験している。
組織のリーダに立つ人間が、達成しなければいけないことは何か。
当然、最高の成果を出すことである。
問題は、どういったプロセスを経るかだが、意外に「配下の部下をどう見るか」に悩む人は少ない。
こいつはこうなんだ、と決めつけてしまう。
彼はこういう能力があるけど、恐らくこういう能力は無いだろう。
こういう現有戦力だから、早く外部からこういう能力を持って来て欲しい。
しかし、こういった考えは、時にマイナスとなる。
人間の持つ潜在能力、特に本当は持っている隠れた才能、能力の目を摘んでしまう可能性があるのだ。
落合氏が、どの段階で、何が切っ掛けでこういった考えを持つようになったのか解らない。
ただ、選手の能力を10%底上げする、と宣言したことで、誰が一番奮起するかを、恐らくトレードで中日、FAで巨人に移籍した落合氏は理解していた。
間違いなく、選手である。
外部から人材が入って来ることで、誰が一番危機感を感じることができるか?
それは内部の人間である。
例えば橋本知事や小泉元総理のように、あらかじめ対決姿勢で挑むことで、内部の人材の危機感を炙り出し、組織体制を活性化するという手段がある。
しかし組織とは人間で成り立つ。
その人間が、危機感だけで成果を出すことが出来るだろうか?
アメと鞭という言葉もあるかもしれないが、100人の人間に鞭を打って、100人の人間にアメを配ることは大変なことである。
大抵の場合、鞭だけ食らう人や、或いはアメだけを配られる人が必ずいる。
そこに現れるのは、不平であり不満である。
組織は不平や不満に必ず存在するが、噴出するともはや組織は間違いなく衰退する。
落合氏は、それをシャットダウンし、かつ組織を活性化する方法として、1つの方法があった。
それが10%の戦力格上げ論である。
自分がもし、組織の一員だとして考えて欲しい。
新しい組織のリーダーがやってきた。
その組織は、今まで良い成果を残してきたものの、抜群な訳ではない。
リーダは「現有戦力を10%かさ上げしただけで勝てる」と言った。
今までのリーダと違い、戦力が足りなければ直ぐに外部から人材を連れてくる人間と違う。
自分の役割を奪われずに済む。
本来であれば、そこに安泰と安定、慢心が生まれそうなものである。
落合氏がそこでとった手段とは何か。
それは12球団で一番キツイと言われる練習である。
理屈としては、10%の戦力底上げがあるから練習がきついのは当たり前だ。
当然、安泰も安定もそこには無かった―。
「ノムさん、今年ほど野球監督としてやりがいのある年はないよ」
この答えは何か。
それは戦力がダウンしたと言われる組織こそ、リーダとして組織を立て直し、再び成果を出すことが求められる。
落合氏はそれこそ監督の役割であり、役目だと思っている。
だからこそ、やりがいがあると言ったのだ。
落合氏がどういう軌跡を描いて、このような考えに至るようになったのかは不明である。
しかし、彼の野球監督としての思想は、リーダとしてのそれである。
今年は落合氏の発言に注目である。
開幕ダッシュで幸先良いスタートを切ったのは、意外にも楽天であり中日だった。
今年、意外にも中日の前評判が悪い。
川上が抜け、ウッズが抜け、中村が抜けたから、当然と言えば当然である。
しかし、プロ野球が組織であることは間違いない。
言い換えれば、組織の血液の循環が一気に良くなった、と言い換えることも出来る。
落合という人間は、それを絶対的に理解出来ている男である。
ロッテ、中日、巨人、日本ハムと渡り歩いた落合氏は、恐らくスペシャリストでありながら、組織で戦うとは何か頭で理解出来たマネージャータイプの人間であった。
それは落合氏が、野球界の「奇跡」であったことを意味している。
今年、野村監督が落合氏に戦力が抜けたことを引き合いにして「今年は遣り辛いやろ?」と言った。
しかし落合氏は苦笑しながら「ノムさん、今年ほど野球監督としてやりがいのある年はないよ」と返したそうだ。
どういう意味か?
これを解くカギは、落合氏就任1年目に由来する。
落合氏は「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げた。
この年に、中日ドラゴンズは見事にリーグ制覇しているのだが、ここにこそ落合氏の「野球という組織の見方」が隠されている。
つまり、こういうことである。
戦力補強とは、何も外部から新戦力を連れてくることだけを意味しない。
組織の戦力を100だとして、10の戦力を外部から連れて来るよりも、100の戦力を110にする、という方法があるのである。
そして、もう1つ。
外部から10の戦力を連れてきたところで、それで10の戦力が2軍に落ちたら、何の意味もない。
これを90年代の巨人軍が経験している。
組織のリーダに立つ人間が、達成しなければいけないことは何か。
当然、最高の成果を出すことである。
問題は、どういったプロセスを経るかだが、意外に「配下の部下をどう見るか」に悩む人は少ない。
こいつはこうなんだ、と決めつけてしまう。
彼はこういう能力があるけど、恐らくこういう能力は無いだろう。
こういう現有戦力だから、早く外部からこういう能力を持って来て欲しい。
しかし、こういった考えは、時にマイナスとなる。
人間の持つ潜在能力、特に本当は持っている隠れた才能、能力の目を摘んでしまう可能性があるのだ。
落合氏が、どの段階で、何が切っ掛けでこういった考えを持つようになったのか解らない。
ただ、選手の能力を10%底上げする、と宣言したことで、誰が一番奮起するかを、恐らくトレードで中日、FAで巨人に移籍した落合氏は理解していた。
間違いなく、選手である。
外部から人材が入って来ることで、誰が一番危機感を感じることができるか?
それは内部の人間である。
例えば橋本知事や小泉元総理のように、あらかじめ対決姿勢で挑むことで、内部の人材の危機感を炙り出し、組織体制を活性化するという手段がある。
しかし組織とは人間で成り立つ。
その人間が、危機感だけで成果を出すことが出来るだろうか?
アメと鞭という言葉もあるかもしれないが、100人の人間に鞭を打って、100人の人間にアメを配ることは大変なことである。
大抵の場合、鞭だけ食らう人や、或いはアメだけを配られる人が必ずいる。
そこに現れるのは、不平であり不満である。
組織は不平や不満に必ず存在するが、噴出するともはや組織は間違いなく衰退する。
落合氏は、それをシャットダウンし、かつ組織を活性化する方法として、1つの方法があった。
それが10%の戦力格上げ論である。
自分がもし、組織の一員だとして考えて欲しい。
新しい組織のリーダーがやってきた。
その組織は、今まで良い成果を残してきたものの、抜群な訳ではない。
リーダは「現有戦力を10%かさ上げしただけで勝てる」と言った。
今までのリーダと違い、戦力が足りなければ直ぐに外部から人材を連れてくる人間と違う。
自分の役割を奪われずに済む。
本来であれば、そこに安泰と安定、慢心が生まれそうなものである。
落合氏がそこでとった手段とは何か。
それは12球団で一番キツイと言われる練習である。
理屈としては、10%の戦力底上げがあるから練習がきついのは当たり前だ。
当然、安泰も安定もそこには無かった―。
「ノムさん、今年ほど野球監督としてやりがいのある年はないよ」
この答えは何か。
それは戦力がダウンしたと言われる組織こそ、リーダとして組織を立て直し、再び成果を出すことが求められる。
落合氏はそれこそ監督の役割であり、役目だと思っている。
だからこそ、やりがいがあると言ったのだ。
落合氏がどういう軌跡を描いて、このような考えに至るようになったのかは不明である。
しかし、彼の野球監督としての思想は、リーダとしてのそれである。
今年は落合氏の発言に注目である。