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それもまた良し

関西のとあるベンチャーで働くSEのブログ。

日々のインプットから、アウトプットを定期的に行うことが目標です。主に組織論やドラッカーの話題が中心ですが、タイトルにもあるように「松下幸之助氏」のような互助の精神を持ち、社会人として成長出来る事が最大の目標です。

GWということで、第2弾。



自分自身にとって、働くとは一体何か?を考えた時に、単純に食い扶ちのためだったり、生きるためだったとしたら、それは実に面白みに欠ける人生だと思っています。


天才も貧乏も金持ちもイチローもサラリーマンもフリーターもニートも政治家も、あらゆる人間にとって平等なものは時間です。
イチローはあれだけ凄いから1日が24時間でなく100時間だ、とか、貧乏は24時間が24分に変換されている、とか、そんな話は聞いたことがありません。

誰だって、1日は24時間ですし、24時間は48時間と同等ではありません。
つまり1日24時間という限られた枠の中で、その時間を、生きるためだけに、飯を食うためだけに、会社に費やさなければいけないのか、考えなければいけないと思います。



もっと言えば、自分の時間を切り売りして、その得た結果が何か?を考える必要があると思います。

会社で働くことは、自分の時間を会社に捧げることなのでしょうか?
あるいは会社で働くという選択肢の中で、成果を出して、自分のためになることを出来るようになるのか?



常に突き詰めて、自分は、なぜ自分は働くのか?を考えていないと、時間の垂れ流しになってしまいます。

自分の時間が、会社に捧げる時間になり、給料をもらうだけの人間になるのか。
それとも自分の時間は全て自分の時間と考え、会社というフィールドで、職場という環境で自分の実力を発揮するために何が出来るか知れるか。


なぜ働くかを考えることは、それぐらい重要だと思っています。
GWです。

とりあえず、本をひたすら読もうと思います。
真山仁氏の「レッドパージ」と山崎豊子の「運命の人」は購入済み、あとは新書が2冊、ビジネス本が1冊、ドラッカーの「経営者の条件」が読書待ち。


だいぶ読むのに時間が掛ったのですが、佐藤正明氏の「ザ・ハウス・オブ・トヨタ」がようやく読了。
トヨタ自動車創業の頃の話が中心で、話の内容9割が戦前のトヨタ自動車の話。

いかに大企業が勃興したのかに焦点が充てられています。
しかし、僕のような、新規事業に取り組もうとしている人間にとっては、目からうろこの話ばかりで、大変面白く、かつためになりましたね。


中でも、豊田章一郎が、父・佐吉の書いた本「発明私記」を読み終わった後の感想は胸に刺さりました。



「学校で詰め込まれた知識をひけらかすだけでは、何も生まれない。その知識を消化して自分のものにするかどうかが大切なのだ」



うん、その通りですよね。
どんな知識も、自身の血となり肉とならなければ意味は無いんです。

飯食って、糞して、寝ちゃったら意味が無い。
食った飯を栄養として、体を生かさないといけない。



つまり、外部から取り組んだ情報を活かさなかったら、それは単なる知識。
逆に、情報を活かし自分のものにしたら、それは教養と呼べるのではないでしょうか。

イノベーションとは何か?を考えた時には狭義的な意味では「技術革新」ですが本来の意味では「新しい製品やサービスの創出、既存の製品やサービスを生産するための新しい生産技術、それらをユーザーに届け、保守や修理、サポートを提供する新しい技術や仕組み、さらにはそれらを実現するための組織・企業間システム、ビジネスのシステム、制度の革新」という意味を持っていると思います。

つまり革新こそイノベーションだと。
そう考えると、イノベーションの対義語は保守ということになってしまいます。



確かに、保守とは「伝統と歴史を守ること」であり「それらを守り続けること」です。
しかしイノベーションし続けることで、守り続けるということもあります。

そもそも時代が移り変わっているというのに、そのものだけが変化しないということこそ変です。
時代に合った、あるいは合わせたモノこそ、つまり変化し続けるものこそ「変わっていない」と言えるのではないでしょうか?

そう考えると、イノベーションとは保守の対義語ではなく保守のための「手段」とも思えます。
あのドラッカーも、「我々の生活や仕事のスタイルを変えるもの」こそイノベーションと言っています。

変化こそイノベーションであり、変化し続けて守り続けることこそ保守。
だとすれば、自分自身の人生にイノベーションはあるのか?という点について考える必要があります。



自分の人生に限りはあります。
有限です。

いつかは、死んでしまう。



しかし、いつかは死んでしまうとしても、80年です。
変わらなければ、間違いなく連続性のある人生は訪れません。

変化を恐れてはいけないと思うのです。
今日のやり方が、明日も通用するとは限らないんです。



明日通用する人間になるためには、今日変わらなければいけない。
そのために、イノベーションは欠かせない。

自分自身の中に、新しい自分を生みだして、その新しい自分が明日活躍する自分でなければいけない。



なぜなら、僕らは明日のために生きているからだと思うのです。
今日生きるために生きることは簡単です。
ましてや、昨日のために生きるのは堕落です。


明日生きるために。
人生のイノベーションを。
小泉政権になってから、どうも格差社会という言葉が生まれてきて、それが1つの政策論争を帯びています。
ただ気になるのが、そもそも格差社会とは何か?が曖昧で、何だか良く解りません。

経済格差があることが、問題なんでしょうかね?
それであれば格差が生じないようにすることが「善」なんでしょうか。



なぜ格差社会が生まれたのか、とか、格差社会になることの弊害がある、とか色々と語られていますが、格差社会が何を生み出すかが語られていません。

「100年に1度の大不況」において、一斉に企業が派遣切りを行いましたが、そこで見ることが出来たのは、企業の人材活用法ではなく、ましてや派遣という底辺の暮らしではなく、新しい日本の貧困の形だと思いました。



貧困はどのように生まれるか?と聞かれれば、僕は間違いなく圧政から生まれると言うでしょう。
貧困というのはあくまで結果でしかなく、そこに至る過程をみれば、大抵は権力者の圧政が発端となっていると思っています。

圧政が何を生むかと言えば、実は一番大きいのは「教育の不実」だと思っています。
つまり教育しない。単純な過重労働に課す。

権力者にとって一番何が怖いかと言えば、正確な情報ですからね。
北朝鮮しかり。



つまり「何も考えさせない」ことこそ、圧政への第一歩だと思っています。
そこに、貧困は生まれます。

つまり圧政で何が一番キーになるかと言えば、食べるものが無い、住む家が無い、着る物が無い―マズローの欲求すら満たすことの出来ない環境下に人間を送り込むことなんです。
そうすれば、まず人間は「生きる」ことのみ考えるようになる。

そういった環境に慣れると、「生きられればそれで良い」と人間は思ってしまう。
いつしか生きる理由が「生きる目的」になってしまい、明日の生活すら考えられなくなってしまい、そこに貧困が生まれてしまう―僕はそう考えています。



ただ、悲しいかな、こういった環境は現在の日本でも当て嵌まることではないでしょうか?

僕自身は派遣切りにあってしまわれた方、或いは雇い止めに陥ってしまった方に偉そうに言える義理では無いですが、1つだけ言えることは「何のために生きているのか?」という点です。

必死になって生きたいと思っているのか。
そう言うと、直ぐに左の方から「そういう環境を作ってこなかった政府が悪い」「自己責任論にすり替えることは本人への過重な負担だ」と言う声が聞こえてきます。


ただおかしい話だと思うのは、人間1人が生きるのに、政府に依存しなければいけないほど誰かが疲弊しているのなら、それはとっくに共産党が取り組んでいると思います。しかし派遣切り・雇い止めの総本山である「格差社会」という言葉は、希望格差社会という本のタイトルが元であり、現場からではなく会議室が数字を基に発表した政策なんです。共産党は後からやってきて、騒いでいるだけに僕は見えます。


生まれながらにして、そういう環境に生まれてきてしまった方なら別ですが、どうも、中・高・大と何となく過ごしてきて、運悪く景気の悪い時代に遭遇してしまい、雇用を解雇されてしまったようにしか見えない。

つまり何が言いたいかと言えば、そういう環境にありながら、雇用を解雇されていない人間もいる、ということなんです。それに対する説明が、なかなか左から無いのが何故か不気味なんです。

出来た人はもう良いじゃん、それより出来ていない人をなんとかしようよ、ということなのでしょうか?
それはそれで構わないのですが、出来た人の努力を認める社会を怠ってはいけないとも思います。

アリとキリギリスで言えば、アリは成果を上げた、キリギリスは成果を出せなかった。
キリギリスは凍死寸前で死にかけ、可哀想だから、何とかしろ!と言うのはぎりぎり筋が通ります。

しかし、そこで「アリの成果をキリギリスに上げよう」という議論は筋が違いますよね。
これは極めて共産主義的資本配分の考え方です。

そして、それはキリギリスの論理であって、アリからしたら良い迷惑です。



元ライブドアの堀江氏は、ある意味で賢過ぎるので「世の中、何でも金で買える」と言い世間の反発を浴びましたが、昨今の風潮を考えるとやはり彼の言ったことは正しかった。

世襲批判もそうです。
選挙地盤が血脈で受け継がれるなら、血脈は金で買えない。従って選挙に出られない。それはおかしい、間違っている。
堀江氏はそう言いたかったのではないか? と考えています。



つまり何が言いたいかと言えば、21世紀の日本のあり方として、環境立国とか麻生さんは描いていそうですが、立国の前に壊国しそうで非常に怖い。

21世紀の貧困国モデルになりそうですよね。
極めてレアな、情報操作と教育制度崩壊が引き金で、自分の頭で考えることを止めた人間たちが、自ら奴隷となって貧困になることを選んだ、21世紀の新しい貧困の形。



派遣切り、もしくは雇い止めの例で考えてみましょう。

会社を首になりました。
或いは、派遣がストップになりました。

それでも彼らは別に、アフリカの圧政国に見られるように栄養失調なんかで死ぬわけじゃない。
生きてる生きてる。

本当に彼らは働けない環境にあるのか?
それとも、彼らが働かないだけなのか?
或いは労働の需給ギャップがあるのか?

誰にだって向き不向きの仕事があります。
国や役所が農業の仕事ありますよ、と言って、雇い止めにあって無職になった人に紹介しても、無理とか不向きとか言って、投げ出してしまうケースがあるそうです。

で、その後まで政府が面倒みないといけないんでしょうかね?
それなら、新卒の就職を見た方が、よっぽど良い方に思えますが。


つまり、この派遣切り、雇い止めの問題で言えば、働いている彼らに本当の危機感が見れない気がするのです。
今更になって雇っていた自動車企業や製造会社を訴えてどうなるのか。

彼らの本質的な危機というのは、マズローの欲求で言う第1段階しか満たされていないということなんです。
そして恐ろしいことに、それと同等ぐらい、昨今の学生は「なぜ働くのか?」が理解出来ていない。

労働はお金を貰う為の代償としか思えていない。
派遣していた人も、最近の学生も、リストラされた人も、恐らく殆どの人が「自分の時間を会社に捧げる代わりに、その代価として給料をいただく」ことを仕事だと思っているのではないでしょうか?



自分の時間を切り売りすることでしか、労働に対して貢献出来ないというのは、間違いなく30代で行き場所が無くなってしまうのではないでしょうか。
その当たりのことを、派遣切り・雇い止めにあった人を助けている人は理解出来ているのでしょうか?



彼らにそんな時間切り売り以外の仕事は出来ないのでしょうか?
職業訓練を受けていないから?



そう思っている段階で、そういった派遣切り・雇い止めの人たちへの支援が、資本家への労働闘争に思えてならないのは、僕だけでしょうか。

マルクスの不幸は、労働を搾取だと決めつけたことですね。
そしてドラッカーの幸運は、労働者が資本家になれる時代に生まれたことです。

結局、労働を通じて自分の成長に繋がる、目標を達成するというマズローの欲求で言う5段階目説を唱えていたのはドラッカー。
かたや労働という搾取で時間の切り売りしか出来ない労働者は、労働に就いている限りは生きるのに必死であると思った、すなわちマズローの欲求で言う1段階目説を唱えていたのはマルクス。

そして歴史はどちらに軍配を上げたか?
ドラッカーです。



派遣切り・雇い止めに関するドキュメントは様々あって、そういったルポはよく見るのですが、そこで何となく共通しているのは、向上心の無さと、自分に対する言い訳、そして思考停止状態能力だと思っています。

これで良いんだ、と割り切り自分自身のスキルをアップさせようとしない姿勢。
今のままで良いの?と問われれば、何もしていないのに俺だってやろうとしていると急に反発。
結局、何も出来ていないから雇い止めにあっても、自分の人生設計が描けていないため、何もで出来ずに公園で野宿―。



もちろん企業側の姿勢だって、問われる部分はあるでしょう。
しかし残念ながら、企業がなんとかしてくれる時代は終わったんです。

企業に頼って、政府に頼って、役所に頼って……自分の能力頼って、自分の足で歩く日が来るのはいつよ。



一番嫌なのが、そんな雰囲気を持った人間が、学生に圧倒的に多いこと。

夢だけは一人前で、でもその夢のためには何の犠牲も払えない。
何かを得るということは、何かを捨てなくてはいけないんです。

それが嫌なら成長して、受け入れる度量を大きくしないといけない。
自己研鑽し、自己投資しないといけない。



彼らが20年後、30年後の日本のリーディングリーダーになれるのか?
それとも、日本壊国の先駆けになるのか?
大抵のプロジェクトの場合、要件定義とはお客様の要望を取りまとめ、開発側がしなければいけない内容を網羅したものと捉えられがちである。

何を作らなければいけないか、を決める行為だと一般的に解釈される。



しかし、ここで振り返らないといけないのは、要件定義とは「何を製造するか」を決める行為であり、それ以降の設計やコーディング、テストは要件定義で決めた内容を実装するためのプロセスと考えられる点である。

つまり要件定義とは、成果にフォーカスしなければいけない。
どのような成果を生むかにフォーカスして、要件定義しなければいけない。


つまり要件定義とは成果定義である。



ドラッカーは、『企業とは何か-その社会的使命』の中で、企業のマネジメントについて、『重要なことは、正しいか、間違いかではない。うまくいくか、いかないかである。』と述べている。

正義がマネジメントにあるのではない。
ましてやお客様に正義があるわけではない。

善悪ではなく、有無なのである。
そのために成果へのフォーカスがあり、要件定義がある。