『夜、鳥たちが啼く』を観たよ。 | 山田裕貴について色々喋るma.naのブログ

山田裕貴について色々喋るma.naのブログ

ブログの説明を入力します。



『夜、鳥たちが啼く』 


2022年12月9日〜公開中

新宿ピカデリー 他 






初めに、わたしは、この主人公・慎一のことを他人事とは思えなかった観客でした。


他者──恋人であれ家族であれ隣人であれ『もしこんな人間が自分の周りに居たらどう思うか』という視点で観ることができなかった。

自分の内面を抉り出されてる気がして、『自分がこういう生き方をしたらどうなるか』という視点で観ていたなぁ。


いや、既に半分くらいは『こういう生き方』をしてるかなー。

ちなみに自分のみならず周囲にも、ほとんど結婚しているようなものなのに婚姻関係ではない人たちが居たりする。

で、その理由は様々だろうけど、到底、他人を納得させられるようなものじゃないんですよ。



だからもう、

どんなに『ダメ』とレッテル貼られようが話さないし訊かない。

こんなものは本人しか、二人にしか分からないことだ、って思っているので。


これはきっと、そんな人たちを『覗き見る』作品。


この映画にあるそこらへんの感覚が、ものすごく現代的なリアルかもと感じました。

※ただ、主演の山田裕貴氏は『どうせ誰にもわからないから』では済まさない稀有な人で、だからこそ前半の慎一のあの孤独や怒りや絶望や執着が嘘にならないんだろうと思っている

※わたしは諦観が強く、せいぜい夢に出てきて我ながら驚く程度でしかないから



※ここからはネタバレご注意願います。






  死と再生

いつ刺されたのかも気づかなかったクラゲの傷。

本来ならこんなに長引くはずのない傷。

※わざわざ薬剤師がそう言うしね…


心の傷ってそうやって穴を穿っていくものだと思うんだよね。

いつ、誰から、どんな言葉で──とか覚えてなくても、こんなものすぐ拭い去れると思っていてもいつの間にか積もって痛む。

ましてそれが自分の行為からだったりする。


慎一が小説に自分のことを書く理由も、いつの間にか逼迫するものに変わっていたり。



おそらく、彼らが触れ合う直前の数分間の慎一が限りなく死に近い処に居たからこそ、直後に訪れた生への執着が、裕子との激情と潤いが、喜びがくっきりとした対比になって、魂の再生儀式みたいな感じに受け取れた。

まるで過去に囚われた亡霊のごとく実体が消えかけてた慎一が、裕子が、まだ実現していない未来(=小説の結末)を営むみずみずしい歓びで身体性を取り戻していくさまが、映像的にも見えるようだった。

肉体というのはやはり知性や理性にはない、捻じ伏せるような、ある意味では野獣的な説得力がありますね。



そして迎えた朝のシーン、目を覚ましたら自分の顔を微笑みながら覗き込む人がいて、その人の子供が遊んでて、いま慎一すごく幸せだろうなって実は涙出そうだったですよ。

死を超えた先の、夜を超えた朝の光に包まれて目覚める慎一、いい表情だったなぁ。



これより前の、

慎一と文子の決裂した踏切シーンでもハラハラしたんだよね。

結果的に通過した電車が二人を完璧に切り離すことになってお互い最悪のケースだけは回避したと思えたけど、人生が裏表どっちに転がってもおかしくない危うさを感じる。


過去のシーンは回想でもあり慎一の小説に描かれる風景でもあるだろうから一層なんだけど、クラゲの刺傷に関してアキラや裕子に薬がないかと訊ねたり、食事をしながら薬を塗布したりして癒えていく様子も、暗喩に富んでいてとてもすきです。



  『所有しない』という生き方


『そう考えただけで、素晴らしいじゃないか』


っていう小説の一節が印象的でした。


--------

何でも自分のものにして持って帰ろうとすると難しいものなんだよ。
ぼくは見るだけにしてるんだ。
そして立ち去るときにはそれを頭の中へしまっておくのさ。
そのほうがかばんをうんうんいいながら運ぶよりずっと快適だからね。 


自分できれいだと思うものは、 なんでもぼくのものさ。その気になれば、 世界中でもね。


/スナフキン

--------


慎一がどんな意味で呟いたのかは解釈次第だけど、わたしはここらへんのスナフキンの言葉を連想しました。


『実現していなくても、そうだと仮定するだけで素晴らしい』


というか。 



モノを所有することは、モノに所有されて自由を失うことでもあります。
人を『所有しよう』と考えると相手も自分も縛ることになる。


上記の記事を簡単にまとめると、


①モノ…所有の満足

②コト…体験の満足

③トキ…共有の満足

④イミ…思考的満足

⑤エモ…感情的満足


というものなんだけど、あの朝、再生した慎一は①をしない生き方に進んだのかなーって思ったりしました。

もし仮に、婚姻関係や親子関係ってのを社会を維持し法的な補助や制度を適用する側面だけで捉えてしまうならば、それは『形式』に他ならない。

そして、形式というのはモノに付属する概念です。

主人公たちがその形式を『ごっこ遊び』に擬えて興じる様子には、逆説的に当人たちの中で承諾され共有されていることこそが実態なんだと。

本劇中では形式だけの、あんなふうな紙切れ1枚で切れる関係として表現されていると感じたわけです。

※喫茶店の無言の裕子、何故かとってもすきです

※薬剤師に夫婦に見られたことを笑い合う二人もすごくすき


『モノ』を所有し所有されて押し潰されていた前半からすると、後半の彼らの軽やかさはすばらしく幸福そうにわたしには見えました。


迷っていた裕子もその "入口" に立ち、最後にそっと『だるまさんが転んだ』をやってみる。

鬼が振り向いた時に動いている人間を捕虜にするごっこ遊び、あれは鬼役の開始の掛け声で始まるんだよね。


初めのいーっぽ!


って。


後半の慎一は色んな場面で『初めの一歩』をしているし、真似してアキラも、そして裕子もやってみるところで物語としては終わる。

その後、一年後、二人にもし子どもができたら等、どうなるかまではわからない。

けれど今現在の彼らは紙切れの軽さくらいの形式ではなく、実態として心の中で結びついてるんだと。


そしてそれが、いまこの場を生きる理由になることは、あってもいいんじゃないかなと。



  人間であることを諦めない

原作が短編だから映画化するにあたって相当脚色しているだろうし、ということはかなり色んな解釈、好悪があっていいんだと思います。

心情を多く語るわけではない主人公を敢えて可視化するなら、あの野球選手を重ねてみたらいいし。

いつの間にか刺さっていた心の傷が癒えていく様は、クラゲの傷と重ねたらいい。

裕子は鳥たちの啼き声に苛つき呪詛を吐き捨てる、まるで自分がそこに居るように。


一人一人では自分を満足させられないほど何もかもが足りないのに、それを出し合うと、ちょうどそれぞれが欲しかったものとぴったり合うような、わたしの目には彼らはそんな共同体に見えました。


規律や風習に合わせて自分を律することを学ぶのは大切だと思うけど、その中には結局、社会全体として個人を縛ってしまったり、自分自身が苦しくなったりしてることもあったりして。

こういうふうに意識の深い部分から少しずつアクセスしてくれて『あ、確かにそういうのもありだね』って思わせてくれるような作品がわたしはすきだな。


人間を諦めない、人間であることを諦めないで、対話を続けてくれる感じがするから。





ところで、

このBlog読んで『さっぱり解らん』というかたも、主演の山田裕貴氏が12/25にTwitterで夜鳥感想語り合い大会をやってくれるそう。

彼のリプ欄にはたくさんの感想が集まっているはずなので、そこを見たら自分の入りやすい『初めの一歩』も見つかるかもですよ。





ぜひみてみてください。

山田氏、すてきな機会を設けてくれてありがとね。