2021年10月 軽井沢プリンスホテルラウンジから

 

 

 

ほのぼのと温まる過去記事をご覧ください飛び出すハート

 

 

 

 

 

         今朝の友人の一句

 

    <秋雨して 静かな朝を 迎えけり>    節沙

 

 

今日はどのような一日になるのでしょうか…一雨で赤い

曼殊沙華の花も一段と輝くのでしょうね。田舎の墓地にも

咲いてました……。 今年も咲いてるのでしょうね……。

 

 <父母逝きて夫(つま)逝きにけり曼殊沙華> 京

 

 

 

    (人''▽`)ありがとう☆ございました

 

2020年10月

 

 

わずか4年前の出来事です。涙が出てきますが、

 もっともっと夫の介護期間を延ばしたかったです。

 

 

子どもを5人も亡くした、哲学者の西田幾多「我が子の死」という文章の中で、折に触れ物に感じて思い出すのがせめてもの慰藉(いしゃ)であり、死者に対しての心づくし

なのだ。と述べている。そして悲しい時は思い切り泣くこと。       

          (人生案内 哲学者;小川仁志氏)

 

 

 

            フルーツも美味しい季節になりましたね。

    四季折々のフルーツにも思い出がありますよ。

 

 

 

 

    夏みかん、まくわ瓜、スイカは 幼少時の味

    まくわ瓜が食べられた日は私の心の中で特別の日

    スイカで癒された夏休み   そして酸っぱい

    夏みかんと長十郎は祖母との思い出

 

    二十世紀と長十郎 今では豊水、幸水と進化して

    二十世紀と長十郎は店頭から消えた

            そして洋梨が手頃に食べられるようになった

 

 

※☆☆☆※☆☆☆※☆☆☆※☆☆☆※

 

 

大分県 中 津 市 

 

人誰か故郷を思わざらん、誰か旧人の

       幸福を祈らざる者あらん。

   福沢諭吉「中津留別の書」(1870年)

 

「学問のすすめ」の書き出しは「天は人の上に人を造らず、

人の下に人を造らずと云えり」。

 

「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」「福翁自伝」の一節.

 

福沢は大坂の中津藩蔵屋敷で生まれた。下級武士の父・百助は学問好きで、念願の漢籍「上論条例」を入手した日に生まれた次男を諭吉と名付けた。しかし、厳しい身分制度の下で才能を生かす道は開けなかった。

 

出生から1年半後に父が急死すると家族で中津に移り住んだが、19歳で長崎に遊学.大坂では緒方洪庵の適塾に学び、

藩命で江戸に出て蘭学塾を開いた。

 

明治3年(1870年)、母の順を迎えに帰郷した福沢は、中津の人々に向けた「中津留別(りゅうべつ)の書」左下矢印左下矢印の末尾に「故郷を思わない者はいない」と記した。

 

右上矢印右上矢印

この中で洋学の必要性、個人・国家の独立、男女平等などを説いた。「その内容は2年後に初編が出る『学問のすすめ』の中で、ブラッシュアップされて記されている」

 

 

 

 

 

耶馬渓を代表する景勝地「競秀峰」福沢諭吉はその景観を守るために私財を投じた。日射しの変化で岩肌が表情を変える.

 

福沢は明治27年に長男と次男を伴って帰郷し、耶馬渓を代表する「競秀峰」の土地が売りに出ていると知った。景観を守るため、自分の名前を出さずに分割購入した。

 

「日本遺産センター 耶馬渓風物館」には、

耶馬渓と命名した頼山陽をはじめ当地を訪れた文人墨客

菊池 寛が小説「恩讐の彼方に」のモデルにした禅海和尚などの資料が並ぶ。

本耶馬渓、深耶馬渓、裏耶馬渓、奥耶馬渓と広がる。

 

明治の大ベストセラーも、最初は明治4年に福沢の提言もあって開かれた「中津市学校」の生徒・教員向けに書かれた。

共著者の小幡篤次郎は初代校長。福沢の誘いで出郷し、慶應義塾の塾長も務めた人物。

 

 

 

「中津留別の書」を書き、「旧宅敗窓の下に記す」と結んだ

家は国指定史跡「福沢諭吉旧居」として今も残る

 

 

    諭吉の業績広める城下町

 

 

 

 

 

 

 

 

     (人''▽`)ありがとう☆ございました。

 
朝方5時20分 一瞬の美

 

 

 

    秋の七草 探し歩かれては如何でしょうか?!

 

 

 

更級日記 冒頭の一節

 

「あづまぢの道のはてよりも、なほ奥つかたに生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむをーーーーー」

 

 

「更級日記」講談社ポケット版から

 

「更級日記には、平凡な女性の平凡な生きざまが思われる。しかし平凡なるが故に、わたくしはひかれる。そして親しめる。しかもその中に、美と真実とを愛する精神が息づいている」 

更に自分の苦難の経験を冷静に観察してそれを乗り越える。

 

            ( BY 坂〇氏 ブログコメント )

 

 

 

 

 

坂〇氏(85歳)作詩

 

七言絶句

「遥かに火星を望みて地球を想う」

 

詩作の経緯

 6年前の2018年夏、火星が地球に大接近したとき素案を 

 作っていましたが、地球温暖化やウクライナ侵攻、ガザ

 など情勢も変わってきているので、今回全面改訂したもの

 です。

 

読み下し文

  「遥かに火星を望みて地球を想う」

  

      大気涙し瀑布 天に挂かる

  祝融(しゅくゆう)の戒め虚し山野燃ゆ

  紅星 慈しむ地球の生命(いのち)

    光陰 嘆き憐れむ 戰の嵯峨

 

注釈  

 瀑布; 瀧 

 枉 ; 無駄に、いたずらに

 祝融; 中国神話に登場する火の神、炎帝の子孫

  2021年に火星に到達した中国の火星探査機である天問

  1号の地上探査車は、祝融にちなんで祝融号と命名

  された。

 紅星; 火星

 戰の嵯峨; 戦に明け暮れる人間の習性でもある。

 

 

         火星探査車₋祝融号

 

 

 

 

七言絶句 仄起式            横書き

    「遥望紅星 想地球」 

  大 気 哭 瀑 布      挂   天

  枉 祝 融 戒 山 野 燃

  紅 星 慈 地 球 生 命

  光 陰 戰 嵯 峨 嘆 憐

 

 

漢詩の構造

 七言絶句;唐代に起こった四句一遍の詩 

      起承転結の原則あり

 

 押韻;    第一、二、四句末の字(天、燃、憐)共、

        下平声₋「先(Xian)」に属している

        ➔句末押韻満足している

 

 仄起式;   第1句の2字め「気」の平仄が「仄」

 

 二四不同;第三句 満足  第一、二、四句 不満足

 

 二六対 ;第一、二、三句 満足 第四句 不満足

 

 孤平 ; (4字めが平声で前後が仄)発生なし 満足

 

 下三平;(句末の3字が連続して平声になる)発生なし 満足

 

 

詞書き(内容説明、周辺事情)

  地球の大気は涙し、瀧が天に掛かった様に

  地上に大雨を降らせ、火の神「祝融」が、

  温暖化への悪影響の行動を戒(いまし)めても、

  実行されず、 大気の怒りは火となり山野燃える

  火星は地球上の命を慈しむ

  命の危機が迫っているのに、光陰を無駄にし、 

  戦に明け暮れている人間の習性に、

  光陰は嘆き憐れむ

 

 

  如何でしたか? 私はまだ難しい部分だらけですが、

  少しづつでも分かってくれば嬉しいなと思ってます。

 

  御覧くださいましてありがとうございました<(_ _)>

 

 

 

2012年10月 旧古川庭園

 

 

2011年7月からブログを始めてます。 71歳で始めたことになります。曲がりなりにも13年続いてて自分でもびっくり!全ての皆々様に心から感謝申し上げます。

 

 

始めた2011年は月に5,6回程度の投稿でした。2012年は

月の半分程度の投稿・・・日課となったのはいつの頃からだったのでしょう・・・はてなマークびっくりマーク

 

 

 

 

ガラ携帯で撮ってます…旧古川庭園

 

 

印象派の巨匠クロード・モネ(1840~1926年)の晩年に焦点をあてた「モネ 睡蓮のとき」が5日、東京・上野公園の国立西洋美術館で開幕しました。

 

 

 

 

日本初公開作品7点を含む仏パリのマルモッタン・モネ美術館の珠玉のコレクション約50点に、日本国内に所蔵されている名品を加えた計約70点が展示。会期は来年2月11日まで。

 

3月7日から6月8日まで 京都市京セラ美術館

6月21日から9月15日まで 豊田市美術館(愛知県)

 

 

     ※☆☆☆※☆☆☆※☆☆☆※☆☆☆※

 

 

 大英博物館「秋冬」 ふすま絵 青森の旧家「春夏」

 

 

青森県中泊町の旧家・宮越家にあるふすま絵が、英ロンドンの大英博物館が所蔵するふすま絵と「対」であることが分かった。400年以上前の狩野派の作品(慶長・元和年間(1600~24年)現時点で作者は特定できていない)と推定され専門家は美術品移動の歴史などの解明を期待している。

 

宮越家のふすま絵は、宮越家9代目当主が大正時代に建てた離れに飾られていた。4面の表に花鳥図が、裏に風俗山水図が描かれている。元々は奈良県の神社の所蔵だったが、明治維新後、廃仏毀釈(きしゃく)の混乱の中で売りに出され、

大正時代に宮越家が購入した。

 

元京都国立博物館の山下義也氏が調査を進めるうち、双方が繋がる事、引き手が同じであることが分かった。

 

調査では、宮越家の他のふすま絵が、米シアトル美術館所蔵のふすま絵とも関連がある事も分かった。

 

大英博物館学芸員のロジーナ・バックランド氏「素晴らしい事だ。発見は、描いた絵師などに新たな光を当てるものとなる」

       

     (2024・9・18 讀賣新聞 から)

 

 

 

2018年10月  

 

 

2014年10月の思い出が中に … 丁度10年前になります。

ブロ友さんから頂戴したコメントがとても懐かしい … ‼

キューン飛び出すハート飛び出すハート    ⇩⇩⇩

 

 

 

 

2014年10月

 

 


若冲 と 応挙 合作屏風

江戸時代中期に活躍した絵師、伊藤若冲(1716~1800年)

と、丸山応挙(1733~1795年)が合作した屏風が見つかった。確認した美術史家の山下裕二・明治学院大教授は「応挙と若冲の接点を示す初めてで且つ唯一の作品。両者の個性が遺憾なく発揮され、非常に貴重な発見」と評価。

 

      

 

「二曲一双」と呼ばれる一対の作品

 

それぞれの高さは1㍍66、幅は1㍍78。

左側の若冲「竹鶏図(ちっけいず)屏風」(1790年以前作)には、虫食い穴のある竹の葉や、尾羽が力強くしなる鶏。

右側の応挙「梅鯉図(ばいりず)屏風」(1787年作)には、

筆の勢いを感じさせる大胆な梅と緻密にウロコが描き込まれたコイ。

 

「注文主が金屏風を仕立て、それぞれが得意とする鶏とコイという画題を指定し、依頼したのではないか」と推測。

 

2025年6月に始まる、大阪中之島美術館「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」で展示される。

 

      (2024・10・3 讀賣新聞 から)

 

 

     ※☆☆☆※☆☆☆※☆☆☆※☆☆☆※

 

 

      鴎外、芥川、秋水

     歴史映す文豪のはがき

森鴎外芥川龍之介、幸徳秋水の全集未収録のはがきなど30通以上が、東京都・文京区立森鴎外記念館クリップで保管されていることがわかった。作品成立の経緯や歴史的な事件の背景が読み取れる貴重な資料。

 

クリップ同記念館の特別展で10月12日から展示される予定。

 

 

 

 

茶道・江戸千家家元の川上宗雪氏(78)が昨年度、約40年に渡り収集してきた明治から昭和にかけての文学者ら89人の

はがき111通を同館に寄贈。

大妻女子大の須山喜代次名誉教授(日本近代文学)を中心とした研究者が、その中身を調査した結果、未収録資料の存在が確認された。

 

江戸時代の儒学者の史伝「北条霞亭」を新聞掲載する前年の1916年11月20日に、鴎外が知人の新聞記者へ宛てたはがきには、<霞亭(かてい)書状一通更ニ御届被下(くだされ)正ニ入手 尤(もっとも)重要ナル史料ニ有之候(これありそうろう) 御礼迄>と書かれていた。記者は霞亭の子孫と親戚関係で、子孫が保管する霞亭の書状を鴎外に提供する仲介役を務めていた。    須田名誉教授「丁寧な礼状を送る鴎外の姿勢には、一次資料に基づいて緻密に作品を書き上げようとする熱意が感じられる」

 

スペイン風邪にかかった芥川が1918年11月5日、英語の嘱託教官を務めていた海軍機関学校の同僚に喉や腰の不調を訴えたはがきもある。<大分好いから御安心下さい>と無事を知らせ、<病間をかたじけなうす小春哉>と一句を添えている。

 

1910年の思想糾弾事件「大逆事件」で主犯とされた

秋水は逮捕まで1か月余りに迫った同年4月22日、新聞社に

<基督(きりすと)研究といつたようなものを書(かい)て居ます> <其(その)筋の警戒は厳重でも宿屋は大そう親切にしてくれます>と宛てていた。逮捕の舞台となった神奈川・湯河原の宿「天野屋旅館」滞在中に送ったとみられるが、はがきから警戒心はうかがえない。

須田名誉教授「送った時点では、逮捕が迫り、窮地に陥っていると思って居なかったのではないか」

 

このほか、室生犀星、坪内逍遥、与謝野晶子と言った文学者や、博物学者・南方熊楠らの全集などに未収録のはがきも含まれている。

 

     (2024・ⅰ0・4 讀賣新聞 から)

 

 

 

 

                2018年10月 グラジオラス

 

 

2023年10月 真っ青な朝の空から「気」を頂いた日

 

 

リブログの中のリブログ記事を是非お読みください。

⇩⇩⇩

 

 

 

 

        2023年10月 秋晴れの朝

 

 

KODOMO俳句

非凡さ素朴さ

高柳克弘

 

<遠方の 雲に暑を置き 青さんま>     飯田龍太

残暑の空模様。食卓には、秋の味覚を代表するサンマが置かれている。それなのに、遠くの空の雲には、暑い季節が置かれたまま。雲に暑を置くというフレーズが、かっこいい感じ。龍太の父である俳人;蛇笏は、この句に否定的。言葉を飾り立てることなく、もっと素直に詠んでほしかったと。

 

めざすべきは、素朴で親しみやすい表現か。それとも、非凡で人を驚かせる表現か。正解のない問題。創作者の永遠のテーマといえる。

 

 

四 季

長谷川 櫂氏 選&解説

 

<俺はいま何をしようと思つたと

      聞かれてわかる妻にはあらず>  古川陽子

何をとりに冷蔵庫の前に来たんだっけ? 何をいおうとしていたのだっけ? そんなことを聞かれても聞き流しておけばいい。忘れたことを思い出すための儀式の呪文なのだから。

夫婦といえど一心同体には非ず。歌集『顔あげて』から。

 

 

<鈴虫の声のかぎりを尽くしても    (ゆげいのみょうぶ)

        長き夜あかずふる涙かな>  靫負命婦

幼い光源氏を遺して亡くなった桐壺更衣。帝の勅使として里を弔問した靫負命婦が、去りぎわに更衣の母と交わした歌。

この秋の夜長、鈴虫が声のかぎりを尽くして鳴いても足りないくらい、とめどなく涙がこぼれます。『源氏物語』から。

 

 

<風鐸(ふうたく)や 奈良には高き 鰯雲>   大島幸男

奈良東大寺の裏の道を歩いていて、折からの風にゴーンゴーンと鐘のような音が聞こえてきた。大仏殿の屋根の四隅に下がる風鐸の音だった。芭蕉<菊の香やならには古き仏達>

の形を借りて秋晴れの古都をたたえる。句集『雪解』から。

 

 

<足たたば不尽(ふじ)の高嶺のいたたきを

   いかつちなして踏み鳴らさましを〉   正岡子規 

子規の言葉は率直である。それが心境を浮かび上がらせ、読後かすかな悲哀が残る。「足たたば」ではじまる連作短歌の一つ。富士山の山頂を雷のような大音響を轟かせて闊歩したい。病床の子規には不可能なことばかり.『子規全集』から。

 

 

<扇おく こころに百事 新たなり>      飯田蛇笏

暑い夏が過ぎ去れば扇を使うことも少なくなる。「扇置く」は涼しい秋の到来を喜ぶ季語である。快適な季節を迎えて人間界も何もかも一新、仕切り直す感じがする。猛暑のつづいた今年もそろそろそんなころか。『飯田蛇笏全句集』から。

 

 

 

 

昨日の恥ずかしい出来事 (;'∀')💦

 

月一回の「かがやきライフ講座」に、申し込みをいたしました。その時の冷や汗珍返事(数字に弱くなりにけり)アセアセ泣

 

「住所をお願いします」⇒「○○○○○・・・」次の丁目、番地が出てきません。挙句の果てに何やら出てきたのが間違った所番地もやもやもやもやもやもやを発してたのです。「あれっ💦アセアセ」と気が付く。「大丈夫ですよ!」と

お優しい言葉。  その後

正しい所番地を言うことができ、ほっ!!うずまき という一件でした。笑い笑い 老化現象侮るべからず、あなおそろしや…ガーン

コレゾ「マダラボケ」!?

 

 

 

 

       2022年10月 西芳寺庭園

 

 

 圧迫骨折後初の遠征 姪の結婚式に参列の為、奈良へ。

 その後京都;西芳寺などへ行きました。娘達に守られ

 素敵な旅となったのですよ。

 

 

 

 

           西芳寺庭園

 

 

        葛の花

 

 

 

2017年9月 近くの公園にて

 

葛は空き地の至る所にはびこってますね。近くの公園にも

はびこってましたが、先日綺麗に刈り取られてました。トケイソウと共に。葛の花を見つけるのは大変です。咲いてないのです。 上の写真は2017年、ようようにして見つかった花でした。その時は嬉しかったですよ。

 

 

金沢動物園の「ののはな便り」から

 

秋の七草の一つである「クズ」はマメ科の花によくあるチョウチョのような花が一杯ついてる。香りも良い。

 

名の由来は、奈良吉野国(く)栖(す)という地方が上質な葛(くず)粉(子)の産地であったことによる説もある。

 

秋の七草は花の美しさや、薬用など実用的で昔から人々に親しまれているものが選ばれている。葛の根は太く大きく沢山でんぷんを含んでいるため、お菓子や料理の原料として使われている。また風邪薬の「葛根湯(葛根湯)」の原料にもなる。しかし、

砂漠のような過酷な場所でも生育する強い繁殖力から「グリーンスネーク」の異名をとり、電柱や電話線に絡みつき垂れ下がったツルの重みで、電線を切ってしまうなど大変な困りものにもなっている。

 

 

 

西芳寺庭園の苔

 

 

四 季

長谷川 櫂氏 選&解説

 

<この夕べ力つくせり法師蝉(ほうしぜみ)>   森 澄雄

法師蝉は秋の蝉。ツクツクボウシである。油蝉や熊蝉などの夏の蝉に遅れて鳴き始める。その法師蝉も今日を限りと力を振り絞って鳴いている。一匹の虫を詠んでも人生を映し出すのが俳句。晩年の作。『季題別 森澄雄全句集』から。

 

<黒揚羽 ふはりと次の 風に乗り>      中間一司

黒い羽を羽ばたかせながら木々の枝から枝へ、また花から花へ飛び巡る。黒揚羽は屈強の羽にものをいわせて、次々に風を乗り切ってゆく。その飛翔ぶりや風の気配に、偉大な夏の終わりを見ているのだろう。句集『すばる』から。

 

<恋しい時ハ猫を抱上>    『武玉川(むたまがわ)

足もとに寄ってきた猫をそっと抱き上げる。この女には好きな男がいる。二人の仲はもはや想い人などではなく、今は逢えないだけなのだ。わずか十四音でなんと多くを描いてしまったのだろうか。俳諧連句の付け句を集めた『武玉川』から。

 

<逗留の虚子の俤(おもかげ)葭戸(よしど)の間>

                    古賀しぐれ

生家は琵琶湖のほとり堅田の醸造家。その昔、俳人高浜虚子が滞在したことがあった。屋敷も座敷もその頃のまま。夏になれば障子は葭の簀戸(すど)に。<好物はいもたこなんきんタイガース>という句も見える。句集『湖の辺にして』から。

 

<直球をゆるいカーブでかえしくる

     これもひとつの拒絶のかたち>  水口奈津子

相手の意に添えないとき、異なる意見をいうときの日本語は難しい。人と人の間に言葉の非武装地帯が敷かれているのだ。この歌自体、友人とのお喋りをキャッチボールになぞらえて、やんわりとした表現。歌集『水のかたち』から。

 

 

 

           西芳寺(苔寺)

 

 

 今日は椅子体操の日ですが、涼しいので苦なく出かけ

 られ、嬉しいことですわ~。(∀`*ゞ)

 

 

一年前はとても元気に育っていたアボガドが私の不手際で枯らしてしまいました。(;'∀')💦  強い日差しに耐えられなかったのですね。日陰または室内に置くべきでした。

 

 

一年前 平凡ですが、青空などの写真を載せました。⤴⤴⤴

 

 

今日は大学生の末孫娘が時間があるからと、お掃除に来てくれましたの。一人住まい故、汚れませんが、掃除機をかけてもらいたくて頼んでたのです。よく気がついて汗をかきかき隅々まで遣ってくれましたよ。自分好みの食が強い孫で何も食べずにお水だけガブガブ飲んで、包んだお小遣いに喜び勇んで帰っていきました。

重い雑誌の束もゴミ置き場に出してくれました。孫や娘の手助けがあれば、まだまだスッキリした部屋で一人生活が出来ますよ。(∀`*ゞ)飛び出すハート飛び出すハート

 

 

 

 

           湾を遠望

 夕方、湾の色が綺麗に見える時間帯があるのですよ

 

 

自分は顔出ししなくてお二人様には許可を得て顔出しさせていただいた写真は、今見ますと違和感があり申し訳なく思いました。許して下さいね。(*- -)(*_ _)ペコリ ⇩⇩⇩

 

 

 

 

 

    (やつお)

富山市八尾町

 

秋の風八尾の町を吹きぬけて

  あないまごろや俱利伽羅(くりから)を越す

          吉井勇「流離抄」(1946年)⤵⤵⤵

 

「ゴンドラの唄」を作詞し、祇園を詠んだ歌でも知られる流離の歌人、吉井勇は敗色が濃くなっていた1945年2月、京都から雪深いこの地に疎開した。終戦を迎え、同年10月まで続いた八尾での生活から、2冊の歌集「寒行」「流離抄」が生まれる。

 

「吉井勇の旅鞄 昭和初年の歌行脚ノート」細川光洋(57)静岡県立大学教授著。

「戦争が終わり、早く京都に帰りたいという気持ちが表れた歌」⤴⤴⤴
 
地元にはおわらを保存・普及しようとする熱意ある人々がいた。「養蚕による町の力と文化的素地」が、吉井を八尾へ引き寄せた。
 
8月1日の富山大空襲の様子を、八尾城ヶ山の山腹)から遠望していたことも日記からわかった。「生活面の厳しさも含め、戦争というものを実感したのが八尾だった」
 
伯爵家の嗣子に生まれ、父は事業に失敗し没落。若くして歌人の地位を確立するものの、伯爵令嬢の妻が関わったスキャンダルによる失意と孤独の中で、歌行脚を繰り返すーーー
その生き方には「貴種流離譚のイメージがある」
 
 
 
 
 
 
井田川は氾濫を繰り返し、高所へ移り住んで町が開かれていった。その過程で作られた石垣は、風の盆の撮影で人気の場所になっている。
 
 
 
それぞれに贅を凝らした曳山は、手の込んだ彫刻が施され、新しいパーツと古い部分の風合いの違いから、改修を重ねて町ごとに豪華さを競い合ってきた長い歴史を感じさせる。
 
「江戸時代の町人文化から曳山が生まれ、その土台があったからこそ風の盆が発展した」
 
 
 
 
良質の水に恵まれ、酒蔵はかつて7軒あったが、現在は2軒。
吉井とのつながりが日記でもわかる玉旭酒造八尾おわら飼料館の並びにある。
 
八尾は養蚕和紙の町だった。
蚕を祀った若宮八幡宮があり、県立蚕業学校の通学路だった「原蚕の坂」の案内板がある。
 
紙作りは農家の冬の仕事で、「富山の薬売り」と連動して
薬袋紙の生産などで栄えた。
和紙の生産を続ける桂樹社社長;吉田泰樹氏(71)の父:
桂介氏は吉井と交流があった。併設する「和紙文庫」で展示している世界の紙のコレクションは「ほぼ父が集めた」。
「生活の中で使える新しい商品を作りたい」。
 
 
 
 

 

     作詞;吉井 勇    作曲;中山晋平

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ありがとうございました<(_ _)>
 

 

 

日記です。⇩⇩ 彼岸花が咲き誇ってました。今年も咲いてるでしょうね。2回目の骨折(2022年9月3日)以降は歩くのがままならず、こちら方面には行くこと能わず過去写真でその様子を脳裏に描き巡らせております。

 

 

 

 

         本日、行く道で・・・

 

 

今日はコーラスの後、軽くお茶で歓談し、その後整体に行ってまいりました。脚の神経痛の痛みが嘘のように快癒し、

腹部の痛みのみになりました。脚が良くなるとこれほどまでに身も心も軽くなるものなのだわ!と嬉しさも一入です。笑い

 

 

 

 

 

 

 

 

    (人''▽`)ありがとう☆ございました。