今日は出かける用がない日です。ここ数日は室内を歩くときでも、「苦しいな~(;'∀')」…苦しくて前かがみになり、老婆のように(笑)うろうろする状態でした。今日は大丈夫です。普通に歩けます。久しぶりに掃除機をかけましょう。4月になればケアマネさんからご連絡くださることでしょう…心待ちにしてます、平凡に生きられることの幸せを感じながら。

 

今朝、植木鉢のフリージャの葉っぱに雫がついてるのを見つけました。昨晩は雨が降ったのですね。

 

 

 

 

からだの質問箱

耳鳴り続く対処法は

メニエール病

内耳に水がたまる状態(内リンパ水腫)が原因で発症し、難聴、めまい、耳鳴りを繰り返す病気。低音難聴(低音障害型感音難聴)は初期症状でよくみられる。低音難聴が持続または反復する場合は、メニエール病非定形型と診断され、治療はメニエール病に準じて行う。

治療法は、内耳の水分バランスを整える浸透圧利尿薬の投与十分な水分摂取が基本で、内耳の血流改善に有効な有酸素運動も推奨されている。生活習慣の改善や十分な休息などのストレス管理も重要。

耳鳴りは難聴を伴う場合と、難聴は改善したものの耳鳴りだけが残る場合がある。聴力検査で分かる。

治療は、「耳鳴りがあっても生活に支障がない状態」を目指す。

近年注目されている中耳加圧療法は、めまい発作には一定の効果が期待されているが、難聴や耳鳴りへの効果は確立されていない。

 

 

手根管症候群

手根管は手の根元にある管で、中に指の感覚や親指の運動を司る正中神経が通っている。手根管症候群は、正中神経が圧迫され、手のしびれや痛み、感覚の鈍さなどの症状が出る病気。

しびれは明け方や手をよく動かした後に強くなりやすく、車のハンドルを握り続ける、本や新聞を持ち続けるなどの作業で誘発されることが多い。重症になると、親指の力が弱くなり、小さなものをつまむことが不自由になる。

診断は丁寧な診察に加えて、超音波検査や神経障害の重症度を確かめる「神経伝導速度検査」が推奨されている。重症度を知ることは治療法を決める上で大切。クローバー軽症だと手首を装具で固定したり、炎症を抑える注射などが有効。先ずはこの保存療法を試す。クローバー重症の場合は「手根管開放術」という靭帯を切る手術を行う。局所麻酔で30分程度で済み日帰りでできる。

 

親指と人差し指のみがしびれるのは手根管症候群の典型的な症状とは異なる。頚椎症と見分けることが重要。他にも似た症状の病気がある。手外科の専門医を受診すること。

 

                 (2025・2・7)

 

 

 

 

 

耳鳴りは私の身体の一つになってます。いつも鳴ってます。今こうしてブログを書く間にも…「気にしない気にしない」。

 

昨日のコーラスでは、補聴器を忘れるという失態…先生のお話は聞き取りにくかったですが、楽しく歌って、友人たちとお茶をして、良き日でしたよ。今日も静かに穏やかに終日過ごしましょう。

 

 

 

 

 

いしだあゆみさんのご冥福を心からお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

掃除機は2回に分けてかけました。1回目は普段あまり使わない部屋など、2回目はよく使う部屋でした。

1回で済まされないなんて、圧迫骨折前には信じられないこと…狭い居宅ですのにね。受け入れるしかありません。

 

 

 

 

(人''▽`)ありがとう☆ございました。

 

         午前5時半 東の空

 

 

 

スマホ相談会に行く道中、美しいピンクの花があちらの方から見え隠れして…近づき撮らせていただきました。梅の花。

 

 

87歳のおばあさまが仰いました「私もう直ぐ90ですよ」

私も同じように感じてます「私もう直ぐ米寿(88)ですよ」

椅子体操帰りの戯言です。そのような戯言(ざれごと)を言いながらも、体操に行く気力、体力があるのです。感謝!

 

昨日の治療院にて・・・

92歳のおばあさまが、ヨロヨロしている私に「大丈夫ですか?」ーーーマッサージ(整体)をして頂き、帰りには随分楽になり、電車と徒歩で無事帰宅できました。最近はタクシーのお世話にならずに済んでます。丁寧な治療を感謝してる昨今なのですよ。

 

コアレ(core-re) という電磁刺激マシン(インナーマッスルなどの体幹を鍛えることで、身体の衰えや運動不足、ダイエット、痛みのケアなどを目的とする/複合高周波EMS(広域変調波)を採用しており、皮下15㌢まで届く)も毎回行って頂いてます。

 

スマホ教室

77歳のボランティアの宮〇さん 八面六臂(はちめんろっぴ)のご活躍で、とても年齢を感じさせない御仁です。お友達の一人に加えさせて頂いてます。初めてケアセンターのスマホ教室に入ったのが2023年1月某日。宮〇さんのご指導をメインに、より難しいことは小野大先生他指導者さまにお尋ねし、早2年の歳月が流れました。私の目的の一つは歓談もあり…(∀`*ゞ) 嬉しい場を頂戴しました。

 

大先生;小野先生、ご担当:今〇さん他お世話になった方々には感謝の極みです。今回、今〇さんが退職なさるとのお知らせに、がっかりしてるところです。またの復帰を皆でお待ちする次第です。

 

 

 

 

愛媛県伊方町

  

佐田(さだ)岬半島

 

村人は絶対に自らの眼で見た岬の風物を口外することを許されなかった

 岡田喜秋「陸の孤島・佐田岬」(「旅」1957年7月号)

 

高台を走る国道197号を車で西進すると、左に外洋に繋がる宇和海、右に瀬戸内海の輝きが現れる。四国の西に突き出た愛媛県伊方町の佐田岬半島は全長約40㌔に対し先端を除く最狭部の幅は約800㍍。矢のように細い。

海岸線は入り組み、山がちな半島に約55集落が点在する。

 

 

 

       早朝の佐田岬半島の先端部

 

 

大自然が作った「芸術品」のような「地形の奇(くす)しさにひかれ」、旅行誌「旅」編集部にいた岡田喜秋氏(99)が陸の孤島だった同半島を訪れたのは1957年。この地は終戦まで旅行者の近づき難い「要塞地帯だったこと」。戦争中はこの辺りを話題にすることは「禁句とされ」たという。

一例が、半島中央の三机(みつくえ)集落。2人乗りの「特殊潜航艇」の訓練基地となり、乗組員らは旅館に滞在、41年のハワイの真珠湾攻撃にも出撃した。「地元の中学生が乗組員とキャッチボールをするなどの交流もあった。世界を驚かせた出来事に関わった人々がここにいたことを伝えたい」

 

 

 

 

半島は地下で圧力を受けてできた変成岩の塊で、道も家も畑も、変成岩の石材を積み重ねた石垣の上に作られ、暮らしが営まれてきた。

正野集落の港沿いには、長さ100㍍以上の「野坂の石垣」が城壁のようにそびえたつ。「風や波よけのため。冬は関門海峡を抜けてくる北風が強く、西側の豊後水道は台風銀座。コンクリートが普及するまで生活を守る必需品だった」丘の上に旧宅が立つ傾斜地は、石垣が段々畑のように整然と重なっている。「高くなると上の方を城壁のようにそらすのがこつ」

 

傾斜地の集落を石垣で守った景観は、高台の名取地区でよくわかる。青を中心に白、黒、赤などの石垣の石。シンプルな平積み、精巧な矢羽根積み、素朴な野良積み・・・。大切な井戸や観音菩薩も、石積みの祠(ほこら)が守っている。

伝承では、江戸時代、宇和島藩初代藩主・伊達秀宗についてきた名取(宮城県)の軍夫が定住したことが地名の由来。

 

 

 

 

 

 

   (2025・3・16 よみほっと 旅を旅して から)

 

 

 

 

 

 

      (人''▽`)ありがとう☆ございました。

 

   書道正師範;高須番長先生 行書原字

 

沢山のご応募の中から、素晴らしい言葉を素晴らしい字で

お書きくださいました。感謝申し上げます。

 

 

冬の空気が澄み渡り、星が綺麗な季節…編集手帳には「ほんの一瞬の出来事や言葉に気づく感受性も大事…一瞬の流れ星に巡りあうように「いい人」に出会う幸運…」と書かれてました。(2024・12・26 のブログから)

 

モコままさんが見つけて下さいました。そして番長先生にお願いして下さいました。ありがとうございます。

 

 

山口誓子(やまぐちせいし) 1901年~1994年(92歳)

高浜虚子に師事。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、後に同誌を離れた水原秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試みなどにより、秋桜子とともに新興俳句運動の指導的存在となる。戦後は「天狼」を主宰し現代俳句を牽引した。大正11年、高浜虚子に会い、俳号を「誓子(ちかひこ)」から「誓子(せいし)」と改めた。

               (ウィキペディアから)

 

 

 

 

 

医学部に広がるアントレ教育

 

起業家精神を育む「アントレプレナーシップ教育」(アントレ教育)(自ら社会課題を見つけて課題解決に向け挑戦し、他者と一緒に解決策を探る知識や能力、態度を身に付ける教育。ビジネスとして起業の方法を教えるだけの教育とは異なる)で、実社会との繋がりを意識し、よりよい医療を目指す力を培うことが期待されている。

 

「社会や経済の仕組みを知らないまま医者になって良いのかと疑問に感じ、医療系ベンチャー(新興企業)でインターンシップに参加。病院経営の実態や医療機器へのニーズを肌で感じることが出来た。社会により貢献できる医者を目指したい」

「社会課題の解決のために熱意とスピードを持って挑戦している起業家と接することで、新しい視点や考え方を学べる」

 

文部科学省の24年度調査で、アントレ教育を行う大学は4割で、学生の受講率は5㌫に留まる。文部省は社会課題の解決に挑戦する人材育成を目指し、大学でのアントレ教育実施などに24年度、20億円を投じた。医療分野は、新たな医薬品や医療機器の開発が求められており、研究を通じたイノベーション(技術革新)が期待される。

 

「社会や医療の様々な問題や改善点を発見し、より良い医療を実現する人材を育成したい」

 

   (2025・2・26 学ぶ 育む から一部転記)

 

 

 

 

 

2014年乗船した「飛鳥Ⅱ」

 

 

 「飛鳥Ⅲ」日本の美が彩る豪華客船に

 

郵船クルーズの新しい客船「飛鳥Ⅲ」が今夏から就航し、従来の「飛鳥Ⅱ」との2隻運航体制となる。船内各所に伝統工芸作品が展示されている「Ⅱ」と同様、「Ⅲ」の船内も工芸を始めとするアートで彩られ、地域の魅力も強く発信していく予定。

 

2006年就航の「Ⅱ」は既存船を改装したものだったため、

「Ⅲ」は初代「飛鳥」以来34年ぶりの新造客船となる。200年以上の歴史を持つドイツの造船所で、23年秋から建造が進められてきた。就航は7月20日。

 

船内には数々の工芸作品が飾られる。まず、吹き抜けのエントランスホール「アスカプラザ」では蒔絵の人間国宝、室瀬和美氏の漆芸作品が乗客を迎える。高さ8・8㍍、幅3㍍という壮大なもの。

 

客室を上質に彩るのが和紙アート。部屋ごとに、阿波和紙(徳島県)、越前和紙(福井県)、名尾和紙(佐賀)と異なる産地の作品が展示される。

 

全国47都道府県の魅力47の客室に割り当て、多彩な文化や産物で地域の魅力を再発見してもらおうという取り組み。

例えば、岩手県の部屋には、南部鉄器の鉄瓶や秀衡塗の皿が備えられる。

 

割烹料理店には、有田焼の14代今泉右衛門氏ら「肥前の三右エ門」の作品や、若手漆芸家による合作も並ぶ。

 

工芸以外にも千住博氏、平松礼二氏、田村能里子氏らの絵画も展示される。

 

現在運航している「Ⅱ」も、2022年から郵船クルーズと主要株主の「アンカー・シップ・パートナーズ」が日本工芸会と協力し、人間国宝を始めとする著名作家の作品約140点を、和室やレストラン、エレベーターホールなど船内の至る所に展示している。

 

     (2025・2・26 伝統文化 から)

 

 

 

 

〇子おばあちゃんの失敗談 その2

パソコンが動かなくなった。インターネットに繋がってないらしい。指導画面から試すが、成就しない。仕方なくラインで家族に応援を頼む。娘達が反応してくれた。画面通話で娘「右下の地球マークからWi-Fi 出して!」 しかし、「Wi-Fi」の印が出てこないのだから・・・。結局、来訪。マウスを動かして一瞬のうちにWi-Fi という文字が出現。何故かOFFになっていた。「まぁ素晴らしい!」と母。時々顔を出して会話するという親孝行も良きかな!と母は強し! 

娘もそのつもりでいるようだし、息子も何かと難題をこなしてくれている。3人の協力体制ができ、有難いこと❕

今すぐに、私がどうこうなるわけではないけれど、用意周到に今を生きることの大切さを家族らと共に味わっている。

 

家族に助けを求めるこのような事態が数年続いている。孫達もそれぞれ成長し、家を出て単身住まいになった孫もいる。これまで、随分とパソコン以外にも、自転車で病院にお金を持って駆けつけてきてくれたり…祖母の至らなさを子・孫たち皆に助けてもらったね。これからも宜しくお願いね。(__)

 

 

 今日のベランダ 満開のスミレ二鉢&ツルニチニチソウ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(人''▽`)ありがとう☆ございました。

 

タイ・バンコク

 

 

下記転記記事 是非ともじっくりお読み頂きたいです!

 

戦後80年

レイテ沖海戦で指揮 栗田健男中将

娘に語った「反転」

 

太平洋戦争末期の1944年10月、フィリピンを巡り日米最後の艦隊決戦となったレイテ沖海戦クリップで、米輸送船団への攻撃を命じられた第2艦隊司令長官・栗田健男中将(1889~1977年)の末娘・恵子さん(63)(千葉県佐倉市在住)が読売新聞の取材に応じ、初めて父親について語った。

 

クリップレイテ沖海戦

シブヤン海、スリガオ海峡、サマール沖、エンガノ岬沖

各海戦の総称。連合艦隊は空母4隻を率いた小沢機動部隊がおとりとなり、米機動部隊を北に誘い出した隙を突き、米輸送船団が結集するレイテ湾に戦艦「大和」『武蔵」を擁する栗田艦隊、西村艦隊、志摩艦隊を突入させる作戦だった。

 

戦艦、空母、艦載機など戦力で圧倒する米海軍を前に、上空援護がない栗田艦隊は不沈艦といわれた武蔵などが撃沈され、レイテ湾突入直前に反転。西村艦隊はほぼ全滅し、志摩艦隊も引き返した。連合艦隊は戦艦3、空母4など30隻近くを失い大敗、事実上壊滅した。爆弾を抱いた航空機で体当たりする神風(新風)特別攻撃隊が初めて投入された戦いでもあった。

 

栗田中将は1966年11月、レイテ沖海戦でおとりの機動部隊を率いた小沢治三郎中将、戦後に再婚した妻で恵子さんの母・慶子さんを相次いで失った。同年5月にも親戚の小泉信三・元慶應義塾長が亡くなっており、毎日スコッチ1本を空けるようになった。

 

無理な飲酒を重ねた結果、67年2月に低血糖症で東京都内の病院に入院。4月に退院するまでの間に、主治医を通して恵子さんにこう伝えてほしいと頼んだ。

「突入しても全滅する可能性があった。北方の敵機動部隊攻撃に向かったが捕捉できなかった」「我々職業軍人が死ぬのは仕方ないが、徴兵された若い兵士を無駄死にさせるわけにはいかなかった」

 

母の死後、恵子さんは横浜、栗田中将は神戸の親戚宅で暮らしたが、08年4月に2人で旅行した広島県の江田島で栗田中将から改めて同様の話を聞いた。恵子さんは「私が将来、父のことで後ろめたい気持ちにならないようにとの配慮だったと思う」と振り返る。

 

戦史に詳しい大和ミュージアムの戸高一成館長「栗田中将の様子を家族が語るのは珍しい。娘に対する父の優しさがあふれている」

 

大敗を喫したレイテ沖海戦後、栗田中将は海軍兵学校の校長に転任し終戦を迎えた。45年10月16、17日に行われた米海軍の尋問に対し、反転の理由を「レイテ湾に進めば、さらに激しい航空機の攻撃にさらされると思った。北上して小沢

中将の機動部隊と合流し、敵機動部隊に対する連携行動を

取ることにした」と語っている。

 

これまで、恵子さんは人前で栗田中将の話をしたことがなかったが、ロシアのウクライナ侵略を目の当たりにし、平和の継続には戦争の伝承が必要と決意。

 

      (2025・3・12 讀賣新聞から)

 

 

 

 

栗田中将の人命尊重の苦渋の決断は、立派だったと思いました。当時の上からの命令に逆らっての反転は、如何ほどの勇気が必要だったことでしょうか。戦後お酒に溺れた栗田中将の胸中を思いますと、胸が詰まります。ご家族が心ない市井人からの誹謗を受けたとしても、その真実が明かされれば、人々もこの史実を受け止め納得することでしょう。恵子さまの決断を応援したい者の一人です。

 

 

 

 

〇子おばあちゃんの失敗談その1

先日、マンションで命の水を蓄えている屋上のタンクの交換あり。各戸にお知らせのチラシも入り、掲示板にも赤枠したチラシが添付されていた。私はカレンダーの下にそのチラシを貼る。前日まで、「明日は断水」と頭に収めた。・・・・

当日、忘却・・・ブログに集中していた。気が付いた時は断水した時間から1時間も経っていた。夕方まで水は出ない。

 

何を1番に優先するかという頭が働いてなかった。

 

2000㎖の天然水(ペットボトル)1本で、口濯ぎ、手洗い、顔洗い、飲み水…何とかサッパリ。体操に行く日でよかった.午後は外出先で手も洗える。

 

不便を感じた1日のみの断水…災害を被った被災地の方々のご苦労を思い知らされた日となりました。

 

その2 はまた後日に・・・

 

 

(人''▽`)ありがとう☆ございました。

 

         タイ・バンコクのお店

 

 

飛行機に乗り遅れる! 息子が学生服姿で私を待っていてくれる。友人たちは先に行ったようだ。あたふたと駆けつけようとする私…搭乗に間に合ったのか…

 

今朝方の夢でした! お腹が張って何となく少しだけ不調な時の夢で、いつも「遅れる…」「どこに行こうとしてるのか」「道が分からず迷い続ける」・・・最後は辿り着いたのかどうかはわからずに寝覚める。というパターン。そういえば、汚いご不浄(お手洗い)の夢は見なくなった。夢のお話お粗末様でした。(*´σー`)

 

 

 

 

読売新聞編集手帳から

 

クローバー2025・2・24

日記という、一人ひとりの生きた証しが歴史を紡いでいく。

5年前、新型コロナが世界で最初に広がった中国・武漢から、前例のない都市封鎖下の生活を日記としてネット上で発進した作家がいる。隣近所の助け合いや身近な人を亡くした悲しみ、感染拡大を隠した当局への憤り…『武漢日記 封鎖下60日の魂の記録』(方方著、河出書房新社)

 

ロシアの侵略を受けたウクライナには、露軍の非道を刻んだ文学者が居た。侵略初期に一時占領された村の緊迫ぶりを記した日記が出版され、戦争犯罪の記録として読まれている。

露軍勢力に連行される前日、庭先に日記を埋めて隠した。

彼は銃殺された。<空を飛ぶ鶴のさえずりがこう聞こえた。「全てはウクライナになる!勝利を信じている!」>

この一文が絶筆となった。

 

 

クローバー2025・3・6

<山路来て何やらゆかし菫(すみれ)>  芭蕉

 

蜜を吸いに来るハチに代表される「訪花」

 

<何とはなしに何やらゆかし菫草>  芭蕉

この句を、後に芭蕉は自分で下記の句に変えた。

<山路来て何やらゆかし菫草>    芭蕉

「ゆかし」は心ひかれること。

「山路」と場所を示し、いま作者がどこにいるのかをはっきりさせたことで、読者の胸にすっと入ってくる句になった。

                  (高柳克弘氏解説)

 

<菫ほどな小さき人に生まれたし>    漱石

 

 

 

 

クローバー2025・3・7

午前0時15分、空襲警報が発令された。だが、その7分前、深川ですでに火の手があがっていた。東京大空襲はこうして始まった。警報解除は午前2時37分。 木造家屋の密集する地域を狙って、B29が雨あられと無数の焼夷弾を降らせた。強い北風が火をあおり、横殴りの熱風の吹く火事嵐が起きた。隅田川を炎がわたり、人々は逃げ惑い、小学校や橋の上に遺体が重なり合った。10万人の命が炎に消えた3月10日。

 

3人の子供を目の前で亡くした森川寿美子さんの手記。

炎の嵐を逃れてプールに飛び込んだとき、4歳の輝一ちゃんが苦しそうに言った。「おかあちゃん、熱いよ、赤ちゃん、もっと熱いだろうね」輝一ちゃんも、抱いていたふたりの赤ちゃんも息絶えた(『東京大空襲60年 母の記録』岩波ブックレット)

森川さんは生涯、自分の誕生日を祝えなくなった。その日が誕生日だったから。空襲は午前0時8分、1機目の襲来から2時間ほどである。

 

 

クローバー2025・3・13

春の雨には多様な呼び方がある。

「催花雨(さいかう)花の咲くのを促す。

「桜雨(さくらあめ)桜が咲く頃に降る。

「杏花雨(きょうかう)杏が咲く頃に降る。

 

「雨一番」北海道で初めて雪を交えずに降る雨の日。

乾燥は寒気が連れてくる。春先まで冷え込んだのは北極の大気が温暖化で緩み、南下した影響が大きい。山林火災を招く乾燥に今季限りという予測はない。岩手県大船渡市山林火災での避難者は市の人口の1割以上に達した。

 

 

クローバー2025・3・14

フランスの小説家ロマン・ロランはベートーベンに心酔した。『ベートーベンの生涯』(岩波文庫)ではロランが聴覚を失った音楽家(ベートーベン)に成り代わり内面を綴っている。<私は運命と戦って勝ちたい、だがこの世の中で自分が最もみじめな存在なのではないか、と感じてしまう事が何度もある。諦めるしかないのだろうか。諦めとはなんて悲しい隠れ家だろう>(片山敏彦訳)。彼は諦めず、戦い続けて運命に勝った。

来月4月13日、「第九・歓喜の歌」を1万人もの人が集まって合唱する。大阪・関西万博のイベントである。

指揮者・佐渡裕さん「戦争が絶えず、分断が生まれている。

皆が一つになって喜びを目指そうというこの歌を、今こそ世界に届けたい」。諦めるな。ウクライナまで届いてほしい歌である。

 

 

 

 

 

KODOMO俳句 選者・高柳克弘氏 

”よい句ってどんな句?”から

 

俳句は日本で生まれた文芸だが、いまや世界中に広がり、50を超える国で様々な言葉をベースに作られている。

 

2011年にノーベル文学賞を受賞したトーマス・トランストロンメルというスウェーデンの詩人は、「俳句詩」と称して、3行書きの短い詩を作った。

<高圧線の幾すじ/凍れる国に絃を張る/音楽圏の北の涯て>

(エイコ・デューク訳)

青空に走る電線を、弦楽器の弦に見立て、冷たい風に今にも妙なる音色を奏でそう。寒々しいイメージの中にも美しさを潜ませているところ、如何にも俳句的な捉え方。

                         (2025・3・5)

 

 

 

 

 

 

     (人''▽`)ありがとう☆ございました。

 

          ハワイ・オアフ島

 

 

静岡県 伊 東 市

 

みかんの花が 咲いている 思い出の道 

丘の道 加藤省吾作詞、貝沼實作曲、川田正子歌

        「みかんの花咲く丘」(1946年)

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

神奈川県小田原市あたりから、みかんの木が目立ち始めた。色づいた実は斜面から海を見下ろし、キラキラ輝いている。

                ーーーーー

 

 

 

1946年8月、貝沼實は東京のNHKのスタジオと伊東町西国民学校(後の伊東市立西小学校、閉校)をつなぐラジオ二元放送のため、まな弟子の人気少女川田正子が歌う新曲を用意する必要があった。だが、まず伊東にちなんだ良い詞が手に入らない。

放送前日、川田の取材に来た雑誌記者で「かわいい魚屋さん」の作詞者・加藤省吾が静岡県出身と知ると、その場で作詞を依頼。GHQの検閲を済ませ、川田と共に伊東駅行きの列車に飛び乗った。「こうなったら車中で作曲してしまえという冒険旅行だった」後にこう明かした。

 

 

 

 

孫の貝沼実さん(52)は「『夕焼け小焼け』で知られる師の草川信から、前奏から後奏まで一気呵成に書き揚げる哲学を学んだから出来たこと。そんな手法ゆえ、前奏から口ずさめる人が多いんです」

 

 

 

 

加藤が即興でイメージした「丘の道」「はるかに見える青い海」 そのままの光景が伊東市の宇佐美駅付近にあった。

観光農園が並ぶ「オレンジロード」という坂道。上には歌碑「みかんの花咲く丘」が立っている。

 

 

 

 

伊東駅周辺には、趣のあるアーケード街、名画の看板、ソフトクリームが自慢の喫茶店、古き良き昭和が、そこかしこに残っている。交番を改装した観光案内所「伊東観光番」

ボランティアが旅行者を案内する。

近くには連合艦隊司令長官、東郷平八郎の旧別荘がある。

 

伊東は川端康成、島崎藤村ら著名な文人が逗留したり、訪れたりした温泉地として名高い。

 

「東海館」は昭和初期に建てられた温泉宿で1997年廃業後は伊東市が修復し、公開されている。材木商だった創業者が良質の木材を使用し、3階までの各階を異なる棟梁に任せ、腕を競わせた。

客間には障子に組子細工、欄間には鳳凰の透かし彫り、と目を見張る意匠。

 

東海館のそばを流れる松川の風情ある遊歩道。夜は「竹あかり」というイルミネーション。

 

 

 

河口は徳川家康に仕えた英国人、三浦按針(あんじん)(ウィリアム・アダムス)が洋式帆船の建造を行った地。地元を代表する彫刻家・重岡建治さん作の像が立つ。

 

 

 

 

自然が広がる南部。

おわんをひっくり返した山容が美しい大室山(標高580㍍)

海が近い小室山(標高321㍍)。富士山や島々が一望できる。城ヶ崎海岸は噴火で流れ出した溶岩でできた奇景。

 

 

 

 

   (2025・3・9 よみほっと旅を旅して から)

 

 

早起きできた朝はパソコンに向かう気持ちが前向きです。

今日はのんびり、ゆったりと過ごしたいと思ってます。

 

独り身になった当初、ペットを飼いたいと思う時期がありました。安易に無責任に飼うことは出来ないと自問自答し諦めました。今はTV放映で可愛い姿、賢い姿、懸命に生きようとする姿、等々を見て満足してますよ。

 

映画を観るもよし、ドラマを観るもよし、幸せ感を持ちながら好き勝手に生きてます。(∀`*ゞ)エヘヘ

 

 

 

 

 

亡き友人たちを偲びながら…

 

 

 

 皆さま 今日も充実した一日となりますように!!

     

     

          夕方追記   満月がとても綺麗ですね!!

 

 

    (人''▽`)ありがとう☆ございました。

 

 

          ハワイ・オアフ島

 

 

以下、私の覚書を兼ねて認めますね。

 

スマホにはアイフォンとアンドロイドの2種類がある。

 

ふんわり風船ハートチューリップ赤iphone(アイフォン)とチューリップ紫Android(アンドロイド)はどう違うの?

 

搭載されているOSクリップ(オペレーティングシステム)や、カスタマイズ性セキュリティなどが違う。

 

クリップOSとは、Operating System(オペレーティングシステム)の略で、コンピューターを動かすための基本ソフトウェア

 

ハートのバルーンOS

チューリップ赤iphoneにはAppleが開発したiOSが搭載されており、シンプルな操作性が特徴。

チューリップピンクAndroidにはGoogleが提供するAndroidOSが搭載されており、カスタマイズ性が高いのが特徴。

 

ハートのバルーンカスタマイズ性

チューリップピンクAndroidは、複数のメーカーが採用しており、各社が独自のカスタマイズを行っているため、機種の多さやカスタマイズ性クリップの高さが大きな特徴。

クリップカスタマイズとは、利用者のニーズや好みに合わせて変更・調整すること。

 

ハートのバルーンセキュリティ

チューリップ赤iphoneは閉鎖的なシステムにより、外部からの攻撃を非常に防ぎやすいと言われている。

チューリップ黄Androidはオープン性から多種多様なカスタマイズは可能だが、反面、セキュリティ上のリスクも高まる。

 

 

 

 

 

私の持っているのは「アイフォン」です。今回上記のような仕様が分かり私には大正解の有難い代物でした、アイフォン様様です。(´∀`*)ウフフ

 

先日購入したAppleの補聴器

スマホと繋がっていてスマホ(アイフォン)で聴力検査をし本人の聴力に合わせてくれた補聴器となり使用できるのですよ。使ってみてとても良く聞こえます。雑音も入りません。

 

 

 

「お安いから試しにこれを使ってみたい」と初補聴器に挑戦のお仲間 〇川さん・・・残念ながらスマホがアンドロイド

でしたからダメでした。 とても残念がっておられました。

 

 

 

 

           西洋パセリ

 

 

 

         ツルニチニチソウ

 

 

 

         アボガド&スミレ

 

 

 

 

 

 

ナスタチウム & チューリップ

 

 

誠にお粗末なベランダですが、春の息吹を感じ始めました。

火曜、水曜の2日間は自宅でゆっくりしてましたよ。今日は、椅子体操と さ〇ら柔整治療院へ行ってまいります。

綺麗な写真でも撮れますかしら・・・

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ケアセンターには、お花が可憐に活けられてました。

一輪挿しを、テーブルに軽く置いてるのも良いですね。

 

 

 

 

 

 

 

ステキな一日になりますように!!

 

 

(人''▽`)ありがとう☆ございました。

 

 

坂〇氏(saka‐rabbitさん)からお借りしました

 

 

 

四 季

長谷川 櫂氏  選&解説

美智子上皇后陛下 歌集『ゆふすげ』

(一月刊行)の十首をみてゆく(3月1日~掲載)

 

 

<りすの子が選びなづみて置きゆきしか

      思はぬ方に見つけしくるみ>

目の前にあるのは一個の胡桃。その大きな荷物を運びきれなかったリスの苦労へと思いは広がってゆく。声なき声に寄り添うこと。それが詩歌の基本であり、そのまま作者の姿勢でもある。

 

 

<雛(ひな)の宵 をとめさびつつ幼かる

       子のはつはつに注ぐ白酒>

母と娘は深い絆で結ばれる。一人娘はなおさら。紀宮さま(黒田清子さん)七歳の雛祭りの歌である。「をとめさび」は次第に女性らしくなること。「はつはつに」はちらっと。

どちらも古きよき大和言葉である。

 

 

<ブラジリアの騎馬儀仗(ぎじょう)隊その列に

        仔馬一頭ひたに走れる>

皇后時代、ブラジルを親善訪問されたときの歌。颯爽と眼前を進んでゆく歓迎の騎馬儀仗隊。作者の目がそっと向かうのは、その中になぜか一頭交じる仔馬。母馬がいるのだろうか、遅れまいと懸命についてゆく。

 

 

<サリンとふもの撒かれたる日に聞きし

      カイツブリの声今も怖るる>

鳰(かいつぶり)は小さな黒い水鳥。キリリリ……と雛を守るために鋭い声で鳴くこともある。1995年3月の地下鉄サリン事件。オウム真理教の信者らが地下鉄霞ヶ関駅を通る車両にサリンを撒いた。その4年後の歌。

 

 

<日蝕に光翳れば昼の地に

       身を伏ししとふ狼あはれ>

1999年8月、皆既日蝕。世界が暗くなれば狼たちは昼なのに大地にひれ伏す。太陽の異変をおそれるかのように。人間はとうに忘れた大自然に対する畏れ。狼の本能的な行動への驚き、それが「あはれ」だろう。

 

 

<をとめ座のスピカまたたく春の夜

       遠きイラクに空爆つづく>

皇后であった人が優れた歌人である。永福門院はじめ日本では珍しくないが、世界ではどうか。「アフガニスタン、イラクと戦続く日日に」とある。スピカ輝く麗しい春の天空、その下でつづく地上の戦争を憂える歌。

 

 

<言の葉の限り悲しく真向かへば

   ひたこめて云ふ「お帰りなさい」>

言の葉の限りを尽くしてとも読めるが、言葉の限界が悲しいと読みたい。北朝鮮に拉致されていた蓮池夫妻の帰国後、対面したときの歌。限界ある言葉だからこそ心を「ひたこめて」いうのだ。お帰りなさいと。

 

 

<祝詞(はぎごと)に被災地の声もまじれるを

     幾年(いくとせ)後も子は思ふらむ>

2004年10月23日の中越地震。清子内親王(黒田清子さん)の婚約はその年の暮れに発表された。各地から寄せられるお祝いの言葉に被災地の人々の声も混じっている。それを忘れないでという母の願い。

 

 

<汝(なれ)を子と持ちたる幸を胸深く

     今日君が手にゆだねむとする>

あなたが生まれてくれて幸せでした。喜びを分かち合い、ときには互いに戒(いまし)めることもある。母にとって娘は人生のもう一人の伴侶なのだろう。「清子内親王の結婚を祝ふ」とある一首。2005年の歌である。

 

 

<帰り得ぬ故郷(ふるさと)を持つ人らありて

     何もて復興と云ふやを知らず>

東日本大震災時の東電福島原発事故で家ばかりか故郷からも遠く離れて暮らす人々。異郷をさすらう数多くの被災者の声なき声を代わって言葉にしたかのような気配が一首に漂う。大震災の3年後、2014年の歌。

 

 

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タイ・バンコク便り

 

 

マンゴー・ツリーという店

 

 

 

 

タイ風焼き鳥(サテ)

豚肉のタイ風 甘辛炒め 等 旨し

 

 

 

 

 

 

ディオール

 

 

 

 

サボイ・チットロム店にて

 

プー・パッ・ポン・カリー

カニとフワフワ玉子とカレー旨し

 

揚げた豚肉乗せの炒飯旨し

 

 

 

 

ナーイラート公園

 

 

 

 

 

 

 

 

息子夫婦はまたいつもの生活に戻りますよ。

 

 

 

(人''▽`)ありがとう☆ございました

       あなたの一番大切な人は?

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2011年3月11日 東日本大震災が発生しました。その日から14年経つのですね・・・冒頭にある「一番大切な人は?」
何方様にも家族でしょう・・・わたくしも家族です。
 
 
 
タイ・バンコク便り 〇子ちゃん(義娘)が送ってきてくれましたよ! 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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昨日は横浜駅から相鉄線3つ目の「天王町駅」下車。「岩間市民プラザ(保土ヶ谷区)」で開催の「スマイル合唱団」
女性指導員によるミニ・ハートフルコンサートへ行ってまいりました。美しいドレスをまとった美しい音色の指導員さん方… また教室でのご指導をお待ちしてます。
 
初めて乗った相鉄線。保土ヶ谷は旧東海道で歴史の道だそうですね。健脚であれば、旧東海道巡りが楽しめますよ。
 
「旧東海道 保土ヶ谷宿歴史の道」と彫ってるのでしょうか?岩間市民プラザの隣り、松の木の根元で見つけました。
 
 
 
 
此処でお仲間7人と写真を撮った後、昼食、夕食兼用にと道がてらに見つけたとんかつ屋さんへ入りましたよ。今回ご一緒したことでまた絆が深まりました。 (∀`*ゞ)(*´σー`)
 
 
 
   食欲旺盛 ((´∀`)) ビール&とんかつ !!
   若者のお食事ではありませぬ ・・・まっ!
 
 
 
 
 
(人''▽`)ありがとう☆ございました
 

 

     ツルニチニチソウが咲きました

 

 

昨日は女4人が集まりまして(母、娘2人、孫娘)お雛様をかたずけてもらい、後はお喋りに花を咲かせましたよ。

 

普段は言わない話も出て、娘達の現在が分かる集いでした。

 

「子どもが生き甲斐」「子どもが自立できるまでは…」と、喜びと共に懸命に子育てをしてきた子ども中心の生活が一段落し、希望と光を目指し前に進もうとするアラフィフ世代。

 

身体に不調があり、検査結果に自分どころではない症状を聞いて心配もマックスの私! 出来るだけ心身に負担がかからないよう生活してほしいとアラカン世代に差し掛かろうとする娘の体調を気遣う母なのです。

 

孫娘が共に来てくれて、仕事にも私生活にも頑張ってる様子にほっと一息! 私の頼み事もサクサクとこなしてくれる賢い娘です。

 

 

 

 

「ガラスのうさぎ」(金の星社)

高木敏子さん(92)

1945年3月10日の東京大空襲で、東京・両国の自宅にいた

妹2人を失った。自身は二宮町に疎開中で無事だった。自宅の焼け跡から遺骨は見つからず、溶けたガラスのうさぎの置物が出てきた。

 

さらに終戦の10日前、新生活を始めるため、新潟に向かう列車を待っていた二宮駅で米軍機の機銃掃射に遭い、一緒にいた父が3発の銃弾を浴びて亡くなった。

 

当時13歳。火葬や埋葬の手続きを一人でこなした。級友たちは亡きがらを焼くための薪を持ち寄り、小田原の火葬場までは級友の父親が牛車を用意して一緒に運んでくれた。「人々の優しさや思いやりがとても嬉しかった。今でも恩を感じています」

 

20歳の時、両親の墓参りに行った。卒塔婆「戦災横死」という文字が書かれていた。書店に寄って調べると横死とは「天命を全うせず、志半ばで生命を断ち切られること」とあった。とめどなく涙が溢れ、怒りがこみ上げ、もの言わぬ人々に代わって自分が戦争体験を伝えていこうと決意した。

 

両親と妹の三十三回忌の77年、「私の戦争体験」と題した84頁の小冊子を自費出版。法要の参列者に配った一冊が出版社の目に留まり、子供向けに加筆して出版したのが「ガラスのうさぎ」。発行日は12月8日。開戦日はほとんど注目されない。自身の結婚式も12月8日。本はベストセラーになり、映画やドラマにもなり、空襲を扱った児童書としては240万部を超える異例のロングセラーになった。

 

出版の翌年から全国各地を回り、戦争の惨禍と平和の尊さを訴え続けた。多くの病気を抱え、ドクターストップが何度もかかったが、命を削って活動を続けた。平和行脚は41年間、計1700回以上に及んだ。「戦争を起こそうとするのは人の心。戦争を起こさせないとするのも人の心。戦争が起きれば

敵も味方も死傷者が出る。悲しみしか生まれない」

 

戦後、「戦争の放棄」をうたう憲法9条を目にした時の喜びは今でも忘れられない。「無数の『横死』の上に、日本は永久に戦争をしない国となった。平和国家として不戦を貫いてきたからこそ、今日の繁栄がある。そのことを決して忘れないでほしい」

 

     (2025・3・8 讀賣新聞 から)

 

 

 

       

今日は初めて乗る相鉄線で「天王町」まで出向き、所属している「スマイル合唱団」の先生方による「ひなまつりコンサート」の鑑賞に行ってまいります。お仲間とご一緒しますので皆さんにご迷惑がかからないよう歩を進めたいと意気込んでますよ。

 

それでは、皆様にも週初めの今日が素敵な一日となりますように!!

 

 

 

 

 

 

     (人''▽`)ありがとう☆ございました