第十一章「新しい東アジア秩序の可能性」を要約しての感想 | ひとときのときのひと

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まずは英語から。

 日本研究の第一人者であるケネス・B・パイル氏。同氏の未邦訳「Japan Rising」の第十一章「新しい東アジア秩序の可能性」の要約をしました。

 

(未読の方は↓ご一読願います)

 

以下、感じたところを共有したいと思います。

 

1.小泉政権下における日本の内発性の欠如

 本書の冒頭から、パイル氏は「日本の政治は、内発性によるものではなく、外圧によって変化する」と指摘しています。

 

 それは、まさに黒船来航の時から始まり、戦後の吉田ドクトリンしかり、湾岸戦争後の自衛隊海外派遣しかりというわけです。

 

 ちなみに、この内発性、外発性という言葉自体は、おそらく夏目漱石の「私の個人主義」から「もらってきたもの」で特筆に値するような分析ではありません。

 

 しかし、振り返ってみると小泉政権下における、イラクへの自衛隊派遣など、さまざまな新機軸も、時のブッシュ政権からの強い要請によるものであり、やはり外発的なものであったことは否めません。

 

 そこに人道支援だ、復興支援だと、冠を付けこそすれ、日本の国益を心底考えてのものというより、多分にご都合主義的な、一種のつじつまあわせしか感じられません。

 

 この国の人はやはり、「気配り」とか「忖度」とか「思いやり」で生きてきていて、それで国際社会の荒波を乗り越えられると思っている、その能天気ぶりに驚かされます。

 

 いかに強い相手に対してであっても、自己主張すること、必要な時にははっきりNo!と言うことの意義を改めて考えさせられました。

 

 それなしでは、とても「独立国家」とは言えないでしょう。

 

 また、人としても、それなしでは「個人」とは言えないでしょう。

(英語学習されている方は↓も一読いただけると、より深く理解いただけるものと思います)

 

 

2.パイル氏の「平成ジェネレーション」観についての疑問

 パイル氏は、1960年代あるいは70年代生まれの、すなわち2000年過ぎの平成期に40歳、50歳を迎えていた保守政治家たちについて「平成ジェネレーション」と名付け、期待感を抱いていたようです。

 

 すなわち、保守系政治家であっても、「昭和」の思想・思潮からは無縁であり、海外経験に富み、いまでいうところのITにも詳しい点で、日米同盟の変化を主体的に担っていくべきであるし、それ相応の能力もあると認めていたようです。

 

 しかし、2020年に彼が著した「アメリカの世紀と日本(原題:Japan in the American Century)」には、この「平成ジェネレーション」についての記載は一切無く(筆者が現時点で目を通した限りですが)、かわりに「政治的ナショナリスト」安倍晋三の登場とその政権運営が分析されています。

 

 もちろん、執筆時の2005年から15年もたてば、国際情勢も日本の状況も変わります。それを2000年過ぎにパイル氏が完全に見抜けないのはおかしいなどと言うつもりはありません。

 

 が、その2000年過ぎの本書の執筆時点ににおいて、保守政治家の「濁流の中から、砂金のような人材集団」を掬(すく)い取ってみたかのような記述をしていたのです。

 

 しかし、そこまで持ち上げることに、どんな意味があったのでしょうか。

 

 あるいは、パイル氏という人は、過去の分析には優れていても、将来を見通すのは、決して得手なのでは無いのかもしれません。

 

 ちなみに本書には近々、朝鮮半島が統一されそうな書きぶり、あるいは統一された場合のシナリオに関する記載が、この章では目立ちました。が、これも結果的には予想がまったく外れていました。

 

 と見ていると、このような超一流の学者であっても、調子の波のようなものがあるのかもしれません。

 

 正直言って、この部分の叙述については連続性が無い点で非常にがっかりさせられました。