色玉徒然草 -5ページ目

うまいもの、ご紹介。

どうもirodamaと申します。
お手隙な方、お時間を頂戴しまして、
しばし、おつき合い願えれば幸いです。

さて、今日は

「うまいもの、ご紹介。」です。

この連休に、ちょっとドライブのつもりで
パートナーと出かけましたが、
どこでどう間違ったか。。。。。
有明海のまわりをグルリとめぐる小旅行になってしまいました。

その中で長崎県長崎市。
中華街に行ってまいりました。
そこで食べました「パンメン」!これが絶品でした!
チャンポン麺?を炒めた様な料理なんですが、
今までに食べた炒め麺系の料理のなかで
最高峰に位置付けられる最高の逸品でした!

九州でない方、すいません。
でも、神戸、横浜の中華街でも食べる事ができるかもしれません!
探してみてください!!

あと、お土産に「むつごろう」を買って帰りました。
蒲焼きのタレで煮込むらしいです。
そちらのレポートも後日。

では、今日はこの辺で。

プレゼントに悩む時のコツ

プレゼント1

どうもirodamaと申します。
お手隙な方、お時間を頂戴しまして、
しばし、おつき合い願えれば幸いです。

さて、今日は

「プレゼントに悩む時のコツ」です。

まあ、コツというのも大袈裟ですが、
選択の際の考え方の切換えです。

これ、良いでしょう?
ちょっと前ですが、私のパートナーがお土産にくれた物なんです。
物は軽石をくり抜いた中に、コケ玉が入っているんです。
ワビサビの世界観とでもいいましょうか、
それ自体でも結構魅力的なのですが、
小気味良いのが、下のお皿。
実は100均で買ったものらしいです。
良い空気を作り出しています。

私も前にコケ玉をプレゼントしたんですが、
その時も入っていた鉢をお店に引き取ってもらい
代わりに、食器屋さんで購入した四角いボール?お鉢?に入れて、
下に台代わりに、ミニチュアの獅子落とし用の竹の柵があるんですが、
それを敷きました。(言葉での説明は難しいですが。。)

いつもプレゼントどうしようか??って悩んでいる人は
是非、組み合わせて一つの物を作ってみてください。
良い様にカスタマイズするとでも言いましょうか?
どれとどれを組み合わせたら良いのか考えるのも楽しいですし、
お店に売っているものを組み合わせた
オリジナルコンセプトの物をプレゼントできます。

お試しください。

では今日はこの辺で。

スッキリ片付けの秘訣!?

どうもirodamaと申します。
お手隙な方、お時間を頂戴しまして、
しばし、おつき合い願えれば幸いです。

さて、今日は

「スッキリ片付けの秘訣!?」です。

今、ちょっとしたきっかけで、色々片付けを始めたのですが、
これがなかなかどうして。。
片付けようと思っても、
結局、空いたスペースに整然と「整理」してるだけなんですね。
テトリスみたいです。
しかも、これが意外と上手い!(自分で言うのも何ですが。。)

苦労の甲斐あって満足…………。
できないんです。
何故か考えてみました。真剣に。

前述通り、「整理」なんですよ。
ごっちゃとなっているか、整然としているかの差で
そこに有るものは、何一つ変わってないんです。
密度が変わらないんですよ。
だから「スッキリ」しないですね。

そこで、頭を切り替えて、
「密度変更」に重点を置きました。
やり方は簡単。捨てるんです。

今、家にある何千何万と有る「物」。
この中に、ここ1年の間に機能しなかった物はないですか?
物の性質上、1年に1度しか機能しない物もありますが、
その様な物はおいといて、結構ありますよね。
そういった物は、
「後で使うかも……。」という思いを振り切って
思いきって捨てましょう。
おそらく、何年たっても使いません。
前の記事でも書きましたが、良く使う物を修理しながら
大切に使う方が良いです。

私的に、残しても良い物が一つ。
「本」です。くり返し読めますし、
そこから何度でも知識が得られるからですが、
雑誌は捨てた方がベターです。

家というスペースは限られています。
拡張工事でもしない限り、スペースが増える事はありません。
スペースは多い方が、色々できますしスッキリします。
また、ごちゃごちゃしていると「生活感」はあるかもしれませんが、
「生活」には適さない様な気がします。
片付ける物が多いだけで気が滅入りますしね。

そんな、いかにも片付けの専門科の様なウンチクを思いながら、
当分、片付けに翻弄される予感です。

では今日はこの辺で。

素晴らしい磁器

どうもirodamaと申します。
お手隙な方、お時間を頂戴しまして、しばし、おつき合い願えれば幸いです。

さて、今日は21日に行ってきました個展についてお話します。

「磁器」

21日。佐賀県は有田に行ってきました。
私のパートナーの友人が窯元の娘でして、
更に、その友人が由緒ある窯元と結婚し、
今回、新たな試みとしての個展を開いたのですが、
これが、実に素晴らしかった!!

由緒ある窯元というのが、
有田の元祖ともいうべき窯元で、
かの鍋島直茂(※1)によって
焼き物の発展の為に朝鮮から招かれた方なのです。
今回、個展をしました方、14代目だそうで、
「形を作る」という、
職人的な技術を長年に渡って13代目から仕込まれ、
今は、古来の絵柄を研究、そして、それを活かした磁器を
今回の個展で発表したのです。

古来の模様と言いましても、
きちんとした資料が残っているわけではありません。
磁器ですので、銅や鉄などの金属に比べ壊れ易く、
また、使用用途が茶わんなどの生活に密着した物である事が、
完全な資料の少なさを裏付けています。
14代は、破片などのわずかな断片から
細かく細部にわたり研究を重ねられ、
そこに根ざす思想を学び、それを活かす、という事をされています。

磁器自体は
13代は磁器自体の「白さ」を魅せる「仕事」でしたが、
14代は古来の模様を独特の青(コバルトによる彩色?)と磁器の白さの
対比によって、それぞれの色を引立たせる「仕事」をされていると感じました。

また、作品とともに、窯元の歴史も併せて展示し、
今、何気なく手にする磁器が如何にして日本に入って来たかが
分りやすく見えるものでした。

今回強く感じましたのが、
昔の人の高い思想と、それを求めるひたむきな姿勢、
そして、それを受け継ぐ現在の代の柔軟性と
磁器に対する愛情ですね。
「温故知新」まさに、その言葉です。
磁器といえば大量生産で100均でも手に入りますが、
それ故に、忘れてしまった「豊かさ」を
14代の作品から感じました。

手仕事で作った形。
古来に編み出された模様。

いずれも、大量生産に真似できない
時間と努力が相まってできる「一点物」の美とでも良いましょうか。
「欠けたから、捨てて新しい物を…。」とは思えない
いつまでも愛着を持って使用したいと思わせる、
そんな素晴らしい作品ばかりでした。

言葉では全く伝える事ができませんが、
これから、全国に向けて積極的に発表をしていきたいとの事ですので、
是非、機会があればご覧になって頂ければと思います。

では今日はこの辺で。

(※1)鍋島直茂…1600年代の鍋島藩(現在の佐賀県一帯)藩主。
         当時、磁器や陶器は大変貴重な物で「ルソンの壷」と
         呼ばれる外来の壷は「一国が買える」と評された。
         

靴下の修理

どうもirodamaと申します。
お手隙な方、お時間を頂戴しまして、しばし、おつき合い願えれば幸いです。

さて、今日は最近凝っている(?)
「靴下の修理」
についてお話します。

靴下って、親指のあたりがよく破れませんか?
一番突き出していて、歩く度に圧力がかかるせいでしょうか?
同じ時期に買った靴下は、大方同じ時期に破れます。

昔は破れたら、すぐ捨てて新しい物を買っていましたが、
最近は、針と糸で修理します。
それ程貧しい……、のではなく、
何となく、そうする事の方が「豊か」かなぁ
と思ってきたからなんですが、
皆さんはいかがですか?

靴下でしたら、新しい物を買っても300円くらいなので、
「靴下くらい買えないの?」と良く言われます。
ホント、買うと簡単なんですが……。
「靴下の修理に時間をとっている」という
何とも、ゆったりした時間が魅力的な感じもしますし、
元々、物を作るのが好きでしたので、
きれいに修理できた時は嬉しいもんです。

そう言えば、中学の頃、お年玉で買った福袋に入っていた
リュックサックがあるんですが、
いまだに、修理しながら使ってます。
これといって特筆すべきデザイン的特徴があるわけでもないんですが、
修理を重ねる度に「愛着」が湧いてきて、
捨てる気になりません。

靴下もそうなのかもしれませんね。
「愛着」を求めて、修理をする。
確かに、前に比べて「ただの靴下」って感じじゃなくなりました。
「自分で修理した靴下」って感じです。

ブランド物で飾り立てるのも良いですが、
大量生産でできた「同じ」物が
「時間」が作用する事で、
それぞれの人によって「一点物」に変わる。
それを「愛着」を持って使用するのも良い気がします。
まあ、靴下でしたら、ボロボロになって最終的には捨てるんでしょうが、
そんな「豊かさ」を理解しつつある年齢になってきました。

皆さんも、意外と簡単なので、
修理をしてみてはいかがでしょう?

では今日はこの辺で。

「7」が生む無限大と「7」人の小人

キャラ「春の精」

どうもirodamaと申します。
お手隙な方、お時間を頂戴しまして、しばし、おつき合い願えれば幸いです。

今回の画像は、「妖精」なキャラクターです。
特に本文とは関係ありませんが、
「7」人の小人と言うタイトルにちなんで掲載してみました。

さて、「7」が生む無限大と「7」人の小人。
ちょうど、夏休みなので、
「生命の起源」などのサイエンスものを良く観ます。

その中で観ました
「生命40億年はるかな旅」
あの、宇宙飛行士の毛利さんがプレゼンターの番組で、
NHKスペシャルの再放送のようです。
大人の私が観ても意外と面白いです。

地球誕生から、最初の生命、海からの脱出から人類誕生に至るまでを
シリーズで分りやすく見せてくれます。

その中にありました。
「性」というシステム。
私たちが両親から遺伝子を受け継ぐ際の話です。
この分野の専門家ではないので、間違いがあるかもしれませんが、
興味を持たれた方は、是非、調べてみてください。

誰しも、両親から遺伝子を受け継いで誕生するわけですが、
その際、実際に動き作用する遺伝子は
「7」%にすぎないとの事です。
「7」%といっても数千の情報を持つようですが、
93%は「人間」としての基本構造を示す物で
「7」%が、いわゆる「個性」を示す物らしいです。

この「7」%内で情報交換が行なわれます。
目の色は父親から、髪の毛の色は母親から、
情熱的な性格は父親から、温和な行動は母親から、、
というように、遺伝子の組み替えが起こり、
両親の特徴を少しずつ受け継いだ
両親とは全く異なった「新しい命」が生まれるわけです。
これは、生物学上の「生き残り」をかけた「多様性」を育む
重要なシステムとの事です。

先にも述べました様に「7」%内には数千の情報があり、
その組み合わせは何と、2の千乗!
数にして、地球上の砂粒の数より多い数!との事です。
その辺の専門的な話は皆さんで、是非調べて頂きたいと思いますが、
この「7」という数、不思議だと思いませんか?

ディズニー映画「白雪姫」に登場します、
「7」の小人。
彼らには、一人一人の性格にちなんだ名前があるのは
ご存知ですか?

「先生」「おこりんぼ」「てれすけ」「ごきげん」
「くしゃみ」「ねぼすけ」「おとぼけ」

の「7」人なのですが、
何故、「7」なのでしょう?
「6」人じゃダメ?「8」人は?思いきって「13」人でも…。

よくよく見ると、基本的な「7」つの性格の様に思います。
それぞれの組み合わせや強弱はありますが、
全ての性格を素粒子に分解すれば
この「7」つに分類できる様に思います。
(「くしゃみ」「ねぼすけ」は「神経質」「のんびりや」でしょうか??)

「7」は他にもあります。「1週間→7日」「ラッキー7」「7つの大罪」
「7不思議」「七変化」「7人の侍」(?)などなど。

神が地上を創造したのが6日で1日を安息日とした7日間。
ラッキーな数字としての7。
聖書にある「大罪」は7つ。
不思議な物の最たる7つを紹介した文章「7不思議」。
様々なものに変化する様子を「七変化」と表し、
そして悪を挫く侍は7人(?)

何故、人類は様々な物に「7」という数字を選ぶのでしょうか?

滅びる事なく子孫を残していく為に必要な
無限の「多様性」を生む「7」%
この事を人類は無意識に知っていて
その事への畏敬の念を無意識に表しているのでしょうか?

しかも、「7」人の小人を見ると、
性格の最少単位は「7」つの様に思えますし、
この「7」という数字には、何やら深い意味がありそうです。

特に何の結論を出す事なく、
半こじつけ的に不思議がっています。
何の意味も無く(?)、今日はこの辺で。

終戦60年 ─広島・長崎原爆記念日─

キャラ「祭り」

どうもirodamaと申します。
お手隙な方、お時間を頂戴しまして、しばし、おつき合い願えれば幸いです。

今回の画像は、お祭りなキャラクターです。
特に本文とは関係ありませんが、
お祭りシーズンなので掲載してみました。

さて、今回は、画像とは正反対にまじめな話しをしてみたいと思います。
昨日、8月9日は長崎原爆記念日です。
そして先週6日は広島原爆記念日です。
来週15日は終戦記念日で、しかも、終戦60周年という事もあり、
様々なメディアで取り上げられているテーマではないでしょうか?

「戦争」

小学校の頃に平和授業と題して、夏休みに登校しませんでしたか?
しかし、今思い出してみると、そこで勉強するのは

「戦争はいけない事だ」

という事を「読み物」や「教育映画」を通して、
半分押し付け的に植え付けただけの、
上辺だけの単なる「知識」にすぎなかった様に思います。
「戦争」を肯定しているわけじゃありません。
しかし、「なぜ」というのを教えてもらった経験がありません。
学校や家庭で教わる「倫理的な事」「道徳的な事」「常識的な事」の
殆どが、「そうだから」「当たり前だから」という理由で
その、確かな根拠と思想を含めた所での「理解」が
成されていない、そんな気がします。

「なぜ」を考える事、それが最も重要だと思います。

印象に残っている言葉があります。

「愛する者を守りたかった。そして、敵も同じ気持ちだった。」

これは、数年前、メル・ギブソン主演でベトナム戦争を描いた作品
「ワンス・アンド・フォーエバー」の予告のキャッチコピーなのですが、
非常に真に迫る言葉だと衝撃を受けたのを覚えています。

「戦争はいけない事」の理由が
この言葉に集約されている、そう感じました。

一意見として捉えてください。

戦争を実際に行なっているのは、一部の支配的な上層部ではなく、
歩兵クラスの多くの「普通」の人々なんです。
当然、その全てに両親がいます。
中には兄弟姉妹、妻や子どももいるでしょう。
つまり「愛する人」がいるわけです。
戦争を実際に戦っている歩兵は、「負ける」事で
その「愛する人」に危害が及ぶのを、是が非でも止めたいと願っていた。
これは、全ての戦う兵士に言える想いだと思います。

別に、戦っている「相手」に個人的な恨みがあるわけでもなく、
ただ、それだけの為に「相手」を殺さなければならない状況、
また、戦争によって「愛する人」を失ったが故に
「相手」を憎み殺さなければならない状況、
そんな、「理不尽」とも「矛盾」とも言える状況が戦争なのだと思います。

想像できますか?
もし、自分が戦場にいて、「相手」と殺すか殺されるかの状況になった時、
「相手」の背景にいる「愛する人」を確信しながらも
「相手」が死んだ時、悲しみに暮れる「愛する人」の姿を確信しながらも、
今、ここで「相手」を殺さなければ、自分が殺される、
そんな葛藤を抱えながら、銃の引き金を引く瞬間の気持ちを。

だから、「戦争はいけない事」なのだと思います。
命の大切さや、人を尊重するといった面ももちろん重要ですが、
それ以上に、自分の欲求の為ではなく、
「愛する人を守りたい」
人が人として抱くそういった「思いやり」の感情が「殺人」の原因になる、

敵である「相手」も自分と同じ様に愛情を受けて育ち、
愛情を向けるべき相手がいる、それだけ見れば「何ら憎むべき相手ではない」
むしろ、共に共感しあえる「友」であるはずの「相手」を
「愛する人を守らなければならい」
その想いで殺さなければならない

そういった悲しむべき状況を作りだす、だからなんだと、私は思います。

終戦60周年や広島・長崎原爆記念日の特集を観ながら
ふと、「ワンス・アンド・フォーエバー」の言葉を思い出しましたので、
綴ってみました。

皆さんは、いかがお考えでしょう?

では、今日はこの辺で。

京菓子

鯉1

皆様、残暑お見舞い申し上げます。
まだまだ暑い日が続いていますが、
暦上では、秋です。
少しでも涼しくなる事を願いつつ、
皆様も夏バテなどしないよう、
体調にはくれぐれもお気をつけください。
画像は、暑中・残暑見舞い用に制作しました。
「鯉」です。
「千代紙」の模様で描かれています。

さて、本日は「和」の凄さ、第2弾です。
先日「和の学校」という番組で見ました、

「京菓子」

おいしいのはもちろんですが、
見ていてもきれいな、皆さんご存知のお菓子です。
45グラムくらいという小さな世界に四季折々の風情を込める、
その豊かな感受性と観察力、表現力は凄いものです。

例えば、「きんとん」という物がありますが、
同じ様な処理でも「色」を変える事によって
四季折々の風情を表現することができます。
紫と白色で「藤の花」を表現したり、
橙色と黄色で「秋の紅葉」を表現したり。

しかし、こういった物にありがちな「意固地」さは無く、
伝統的な表現技法だけに捕われているわけではない様です。
もちろん、伝統技法は大切にし、伝えていこうとする
思想はありますが、それと同時に「いま」を大切にした
新しい物も生み出していこうという思想もある様です。

また、京菓子は、生菓子ですので、
日持ちのする物じゃありません。
そこには「おもてなし」の心が反映せれているようです。
「あなたを迎える為に、今日作らせました」
「一番おいしい時に、ぜひお召し上がりください」
という様な、お客様を迎える「その日」を大切した心です。

たった、5センチ立方で45グラムくらいのものに、
四季のうつろいの美しさと
おもてなしの心を込める事ができる。
そこに、昔の日本人の「豊かさ」を感じます。

また、伝統を受け継ぎ、次世代に伝え様とする中にも
「いま」というものを大切にしながら、
新しいものを作り出していこうとする姿勢も
日本人の懐の深さを大言しているかの様に思えます。

この5センチ立方の生菓子が
何やら、日本という国のアイデンティティの凄みを
教えてくれ、更には、そこに「豊かに生きる」ヒントを
示唆してくれる様に思います。

次に京菓子を食べる時には、
違った面も楽しめそうです。

では、今日はこの辺で。

アンナと王様

どうもirodamaと申します。
お手隙な方、お時間を頂戴しまして、しばし、おつき合い願えれば幸いです。

5年間個人企業のグラフィックデザイナーとして活動しております。
日々、思います事「豊かに生きる」事はどういう事か?
こう言ってしまえば「新興宗教」的ですが、そういった深い事ではなく、
もっと日常的な事(映画の紹介感想や最近凝っている物まで)の
様々な側面からお話をしていきたいと思います。

さて、今回は私のお気に入りの映画を紹介致します。
今回のタイトル通り「アンナと王様」を紹介します。

主演はジョディ・フォスターとチョウ・ユンファで、
昔の「王様と私」のリメイクだそうです。
これは5年前の作品で、私が映画紹介をする時に、
必ずと言って良い程、紹介する「MY 名作映画」です。

舞台は19世紀のシャム王国(現在のタイ)。

ジョディ・フォスターは、女手一つで息子を育てる気丈な母親、
夫を亡くした事に心の区切りをつけられない女性、
そして、真理を教えようとする教師役です。
チョウ・ユンファは、子どもに高度な学問を授けたいと願う熱心な父親、
意見を持つ女性を恐れない、当時としては先進的な考えを持つ男性、
そして、国を愛し、真理を問い続ける王様の役です。

長い映画で、エンターテインメントというより、
むしろ文学的な作品ですので、
観るのに、多少の気合いがいるかもしれませんが、
内容は、奴隷問題や男女差別、男と女の問題、親子の絆、強制的な縁組み、
真理とは何か…等々、
ちょっと聞いただけでは、道徳の授業みたいですが、
そういった事を主人公ジョディ・フォスター演じるアンナが
体験する出来事を通じて考えさせる深い映画です。

そういった事を考えながら観なくても、
「ヒューマンドラマ」として十分楽しめますし、
なんといっても、タイの文化や風景の美しさが魅力的です。
欧州の洗練された文化とは対照的に、
飾りたてる事で「豊かさ・美しさ」を象徴させる文化の様に思います。

また、「精神的な至福」(こう言えば堅いですが…)を表現した
ちょっと大人な「ラブロマンス」的な作品だとも思います。
色々な人の評価や感想を拝見しましたが、
アンナと王様のキスシーンが無いので、
そこを人種差別的に捉えている方も多々いましたが、
普通の恋愛映画やドラマに飽きた人には、新鮮かもしれません。

この短い文章では全ては伝えられませんが、
興味を持たれた方は、是非一度「アンナと王様」を観てみてください。
オススメの一作品です。

では、今日はこの辺で。

浴衣に見た日本の凄さ

どうもirodamaと申します。
お手隙な方、お時間を頂戴しまして、しばし、おつき合い願えれば幸いです。

5年間個人企業のグラフィックデザイナーとして活動しております。
日々、思います事「豊かに生きる」事はどういう事か?
こう言ってしまえば「新興宗教」的ですが、そういった深い事ではなく、
もっと日常的な事(映画の紹介感想や最近凝っている物まで)の
様々な側面からお話をしていきたいと思います。

さて、今回は、浴衣に見た日本文化の凄さです。

先週、私のパートナーと花火大会に行ったのですが、
パートナーも例にもれず浴衣を着ます。
夏のイベントというより、日本の着物などが好きで、着付けも自分でします。
そんなパートナーに教えてもらいました。

浴衣の「帯」。
最近は手軽に着れる様にする為か、デザイン的な事の為かわかりませんが、
「形のできた帯」なる物がある様です。
ベルト感覚で体に巻いて、後ろにリボンの様にくっつける。
簡易的というか、カジュアル(?)というか、
そういった「帯」の浴衣なのです。

なるほど、確かに、その浴衣の「帯」は
「きれいに出来過ぎて」いると感じます。

パートナーの着付けを見ていて思いましたが、
本来、「帯」とは「結びの美」の様に思います。

「結ぶ」とは、極めて機能的な行為で、
単純に機能だけを優先させれば、美しさを感じさせる事ではないはずなのです。
しかし、どの様に結ぶか(浴衣の着付けのガイドなどあればご覧になってください。)
を工夫する事で、「結ぶ」を「美しさ」と結び付けた所に
日本の美意識の凄さを感じさせます。

私の勝手な解釈ですが、
昔の人は「帯を絞める」という行為は、
「服を着終える」ひいては「何かを行う準備を終える」行為と感じたのでないでしょうか?
「終える」と「はじめる」の狭間にある「帯を絞める」行為に特別な意識を持ち、
そこに「美」を求めた様に思います。

当然、一本の帯を「結」んで作る形なので、少し傾いていたりするのですが、
あの形を「結ぶ」事で作り上げている点において
日本文化の高度な美意識と技を感じます。

別パーツにしてしまえば、確かに「きれい」な形になりますし、
絞める苦労もないので、日常生活においては非常に便利なのかもしれません。
昔の人は、どうしてこんな単純な事に気付かなかったのか?

おそらく答えは「あえてしなかった」なのかもしれません。

華やかさの影に隠れて、高度な美意識を感じさせる事象が
日本古来の文化には、まだまだたくさんあるのかもしれませんね。

次回は、映画の紹介を少ししてみたいと思います。
では、今日はこの辺で。