兼山口駅跡から先、舗装道路が延びているが、
先の公道につながらず途切れているため、
廃線跡から離れて、近くを通る県道に移った。
そこは河岸段丘の上段の旧道と下段の新道の分岐点で、
兼山市街地の南の出入口として、
旧道の方に大きな冠木門が設けられていた。
織田信長の小姓で有名な森蘭丸が、
金山烏峰(兼山)城主の森可成の息子だったため、
「蘭丸のふる里」をアピールしている。
冠木門の隣には、森蘭丸の像もある。
蘭丸は、
父可成の死後に森家の家督を継いだ長兄の長可が
武田氏滅亡を受けて信濃川中島(長野市)に移った後、
本能寺の変で戦死するまで、
わずかな期間だが金山烏峰(兼山)城主を務めていた。
ちなみに金山烏峰(兼山)城は、
織田信長・豊臣秀吉の時代のほとんどの期間、
森家の親子兄弟が代々城主を務めていた。
そして森家の兄弟の末弟の忠政が
慶長5年(1600年)に信濃川中島に再び移ると、
城としての歴史を終えた。
この森蘭丸像の目の前に、興味深いものを見つけた。
花壇の境界に鉄道の線路の枕木が使われていたのだ。
鉄道の線路の枕木は、
エクステリアで多用途に使われる便利な建材のため、
パッと見た目では名鉄八百津線のものかは判らないが、
廃線になった八百津線のすぐ近くにこのようなものがあると、
廃線跡を訪ねて歩く身にはうれしく感じる。
森蘭丸像と花壇の向かいにミニストップがあり、
ここで一度休憩を取って、再び廃線跡を訪ねて歩いた。
八百津線跡のすぐ横の、
県道から離れて中山道伏見宿の宿場町へ延びる道に、
クルマで県道との出入りがしやすいようカーブが設けられている。
ここから線路跡に近い道を順番にたどって行った。
なお、このカーブの辺りから、可児郡御嵩町に入る。
道路沿いのところどころで見える廃線跡は、
浅い切り通しの中を進んでいたことがよく分かるが、
別の用途に転用されず、雑草が生え放題になっている。
線路脇に石垣が残っている箇所もある。
しかし「伏見児童館」の建物の横へ進むと、
そこから線路跡はきれいな遊歩道に生まれ変わっていた。
八百津線の線路跡で唯一と言える遊歩道。
線路敷を確認出来ながらたどれなかった箇所が多かったため、
御嵩町の遊歩道建設は粋だなと思ってしまった。
写真の先にあるガードは国道21号線(中山道) で、
八百津線跡の西側(写真の右側)の小高い台地の上に
伏見宿の宿場町が広がっている。
中山道の道筋はそのまま国道21号線になっていて、
国道21号線は伏見宿の台地東側の坂道の途中で
八百津線の線路をオーバークロスしていた。
八百津線にも、この中山道との交差部分の北側に、
伏見宿の東の出入口という意味で、
東伏見駅が昭和19年(1944年) まで設けられていた。
八百津線跡の遊歩道は、
国道21号線から100mも行かずに終わってしまう。
ここからさらに100mほどで可児川の流れに出るが、
かつて橋梁があった場所には、川の両側に橋台が残っている。
近くを通る県道381号線で可児川を越える。
可児川の南側は可児市域となる。
八百津線は可児市の平貝戸の集落に入り、
明智駅に進入するのみとなるが、
平貝戸集落内の八百津線の遺構は、
線路と橋梁が無くなっただけできれいに残っていた。
可児川の橋梁から明智駅へ下りて行く途中に、
集落内の道路と何本も交差している。
線路跡を他用途に転用しようにも、
築堤がクルマの高さより低いため、
1本の道筋には転用しづらく、
築堤をすべて取り壊すなどの手間が必要になり、
手が付けられず残されているのではないかと思った。
そして線路跡は西へカーブして、
東西に延びる広見線に吸い込まれるように
一番北側の駅舎寄りの1番ホームを八百津線が使用していた。
明智駅はホームが3線あり、
今も広見線の上り下りで2番ホームと3番ホームを使用している。
明智駅に着いたら、広見線の新可児行きの時刻を確認し、
すぐに来た新可児行き電車に乗車した。
八百津線跡を全線歩いてみて、
クルマが普及していなくて、
鉄道が最高の交通機関であるならば、
やはり便利な鉄道だったのだろうと思った。
しかし八百津線は、
可児市街から外れた明智駅で広見線に乗り換えとなり、
その広見線も、
名古屋方面に向かうには
新可児駅と犬山駅でスイッチバックとなり、
列車系統によっては乗り換えを強いられる。
事実、新可児駅以遠と名古屋方面を行き来するには、
新可児駅で全列車乗り換えとなり、
犬山駅でも、広見線直通列車かどうか確認しなければならない。
また、八百津線そのものも、
八百津駅が市街から外れた木曽川の対岸にあったのは
八百津町への連絡手段としては痛手だった。
結局、
クルマの普及にともない時代に取り残されてしまった八百津線。
廃止から15年ほど経った現在、
八百津町内の町道に変わった部分以外、
ほとんどの線路敷が他用途に転用されずに残っているので、
全線の遊歩道化など、
線路敷の形状を活かした活用方法は出来ないかなと思った。
このまま雑草や木々に覆われて、
野ざらしに荒れるがままとなって、
人々の目に触れないところへ隠れてしまうのは、
文献でしか歴史に触れられなくなってしまうのは、
とてももったいないと思った。