尾張旭市から長久手市に入って、
愛知医科大学と大学付属病院、🏥
さらに県立長久手高校を間近に見て進む。🚶🏫
尾張旭市内ではまったく途切れなかった
都市の市街地が、長久手市に入ると急変して
建物がまばらになり、沿道は自然が多くなった。
ため池の立石池の堰堤沿いを東へ進んで、🚶
岩作(やざこ)地区の集落の田舎道を進み
石作神社という立派な神社の前に出ると、⛩️
その先で色金山歴史公園の標識を見て
公園駐車場の横に出て、案内看板を確認した。
この色金山歴史公園は、
小牧・長久手の戦いで徳川家康が陣を敷いたと
言われる場所で、丘のてっぺんに
家康が座ったという床机石がある。🪨
徳川家康軍は羽柴秀吉軍の三河攻撃部隊の
池田恒興・池田元助・森長可らの軍勢と
長久手など各地で戦ったが、⚔️🔥
家康も小牧山城を出て長久手に来たのだろう。
色金山歴史公園は丘の緩い斜面に広がり、⛲
床机石の下段には木造の展望テラスが設けられ、
丘の下の方には茶室とトイレがあって
石段で登って回れるようになっている。⛰️
中腹の展望テラスにもさほど登らず行けた。
展望テラスの下部の空間には
家康出陣の図のレリーフがあるのみで、🖼️
尾張旭市内からずっと座っていなかったので
レリーフの前で座って休憩した後、🪑
石段を登って上段の木の床面へ進み、
上段隅の櫓に登ってみた。
展望テラスの櫓は色金山歴史公園の最高所だが、
周囲は丘の木々がびっしり繁茂して、🌳🌳🌲
遠くにアピタ長久手店の黄色い屋根看板が
なんとか望める程度だった。😥
しかし、この櫓のような構造物は
小牧・長久手の戦いでの尾張国各地の
改修普請された城郭に築かれたのではと思う。🤔
もっとも、敵襲などを哨戒するための櫓なので、
目の前の木々は繁茂したらきれいに刈り取られ、
また周囲の草木を建材や燃料に使ったため、
物見櫓の前方は草木が無い状態だったと思うが。
展望テラスから下りると床机石を見に行き、
そのまま正面の石段を下りて行って、
小牧・長久手の合戦で戦死した伴盛兼の墓や
長久手合戦慰霊碑を見て手を合わせて、🙏
石段を下りて公園駐車場に戻った。🅿️🚶
色金山歴史公園を出ると、
1.8km南方の長久手古戦場公園へ歩く。🚶
途中、「早稲田」交差点を挟んだ先に
長久手合戦の首塚があるので見に行った。👀
合戦後に戦死者の屍の山となっていたのを
岩作村の安昌寺の和尚が村人たちと一緒に
集めて埋葬し供養したもの。📿
以後毎年合戦の日にずっと
供養が続けられてきたという。📿🙏
手を合わせて、小牧・長久手の合戦の歴史が
ここに伝えられているのだと思った。🙏🤔
ここから岩作地区の古くからの道を歩く。🚶
地区のまさに「ワインディング・ロード」で、
曲がりくねった道の先に、待っているのは、
長久手市役所前から南北に延びる幹線道路。
この幹線道路をここから700mほど進むと
そのまま長久手古戦場公園に出る。
歩いていくと、途中の浅井屋という製菓店に
徳川家康の顔ハメパネルを見つけて立ち寄り、
「古戦場もなか」を土産に買って行った。🍪
そしてさらに南へ進んでイオンモール長久手の
大きな立体駐車場を真横に見るとまもなく、
長久手古戦場公園が道路の西側に広がっている。
小牧・長久手の戦いの古戦場をずっと歩く
今日の日程で最後の到達地点としていた公園。⛲️
以前もこの公園は訪れたことはあり、
公園内に「長久手市郷土資料室」があって、
小牧・長久手の戦いの説明展示もあった。🏛️
しかし長久手市郷土資料室は昨年11月に閉館し、
今年4月に隣接して博物館施設の
長久手古戦場記念館が新装オープンした。🏛️🎊
今日公園を訪れたら長久手市郷土資料室だった
総白壁の建物へ間違えて行ってしまい、😲
市営の弓道場🏹になっていたことで
合戦ガイダンスの博物館施設が新しい建物の
長久手古戦場記念館になったことを知って、
真向かいにイオンモール長久手を見ながら
長久手古戦場記念館の正面玄関へ回った。🚶
長久手古戦場記念館の新装オープンは
ニュースで報じられて知っていたが、
長久手市郷土資料室だった建物から出て
真新しい建物になったとは知らなかった。😲
当然長久手古戦場記念館は初訪問で、
館内は小牧・長久手の戦いについて
総合的に紹介するガイダンス展示も、
1回15分程度の映像を流すシアターも観た。
展示は岐阜県不破郡関ケ原町の
岐阜関ケ原古戦場記念館と同様に、
古戦場観光の説明展示施設としての色彩が強く、
当時の武器や武具の体験コーナーもあって、
小牧・長久手の戦いを広く分かりやすく伝える
歴史初心者向けの展示施設だなと思った。🤔
また企画展示室にて企画展も開催し、
ちょうど秋季企画展の「森兄弟」展が
9/19から始まったばかりだったので観た。👀
NHK大河ドラマが豊臣兄弟の物語なので、📺️
意識したのかこちらも兄弟を紹介する企画展で、
長久手で戦死した美濃金山城主の森長可と
その末弟で森家を継いで江戸時代まで生きた
森忠政に焦点を当てた展示だった。
企画展示室が小さな部屋のためか、
規模は大きくないと思ったが、森長可の最期と
忠政が継いだ森家については詳細に触れていた。
森長可は、織田信長の重臣の森可成の次男で、
兄や父が亡くなって森家を継いで信長に仕え、
本能寺の変の際は信濃国川中島にいて
越後国の大名の上杉景勝と対峙していた。
長可は本能寺の変を知るとすぐに
信濃国内の人質を人間の盾として美濃へ帰還し、
金山城に戻ると東美濃・中美濃を進攻して回り、
在地土豪を帰順させあるいは誅殺して平定し、
森家の所領を20万石近くまで確保・拡大した。
今回の企画展ではこの長可の所領確保には
全然触れていなかったが、弟の忠政は
兄が遺した広大な美濃国の所領を引き継いで、
関ヶ原合戦半年前には信濃国川中島に移され、
さらに1603年(慶長8年)には
美作一国18万6,500石に移されて、
居城の津山城を築いて4代94年間続いた。🏯
長久手古戦場記念館の歴史展示は1階のみで、
2階は土産ショップと休憩スペースで、☕🧃
クリアファイルを買い飲料を飲むと
2階の出入口から古戦場公園へ退出した。⛲
長久手古戦場記念館の展示を観たら余計に、
この長久手で戦死した池田恒興・池田元助・
森長可の3人の戦死地点の塚を全部3地点
確認に行きたくなって、まず公園内にある
池田恒興の塚の「勝入塚」を見に行った。🚶
織田信長の乳兄弟で古参の重臣で、
羽柴秀吉にも山崎の合戦から味方していた
池田恒興は、この当時は剃髪して
「勝入」と称していたため、戦死地点の
名称も「勝入塚」と呼ばれている。
池田恒興は小牧・長久手の戦いにおいて、
徳川家康の拠点の三河岡崎城を
攻略し占領しようと三河国を目指し進軍し、
途中の徳川家康・織田信雄方の岩崎城
(愛知県日進市岩崎町)を攻略したが、
白山林(尾張旭市)で三好信吉が大敗して
敗走したと知らせを受けて長久手まで戻って、
池田・森隊を追ってきた徳川本隊と衝突した。
そして徳川家康家臣の永井直勝に討ち取られた。
このときに恒興嫡男の元助も一緒に
徳川軍の安藤直次に討ち取られて、その場所が
恒興戦死地点のすぐ南の同じ公園内に
「庄九郎塚」として伝わっている。
こちらも古戦場公園内を歩いて見に行った。🚶
塚の名称の「庄九郎」は元助の通称を指す。
「名古屋には秀吉がおるでよ!」展は、
名古屋市博物館で所蔵する史料を中心に、
名古屋市中村区域出身の豊臣秀吉に関係した



































