心が何処に在るかと聞かれた時に漠然と体の中や頭や胸と答えますか。

・好きな人を見て感情が高まり心臓の鼓動と呼吸が早まった時、心は何処に在りますか。
・お腹が減って食欲が高まった時、心は何処に在りますか。
・未知なことに出会い知的好奇心が高まった時、心は何処に在りますか。

【機能】

感情は胸、体は腹(性の中枢は下腹部)、知性は頭で各中枢の優勢的欲求に心は集中し他を従属的に働かせ欲求を満たし目的を達成しています。※

例えば空腹時に胃が活発に動くことで心は無意識にお腹に集中し自立的に食べ物を探し始めます。そして頭の知性は、何時何処でどのように食べるかを思考し胸の感情は、食べたい物や食べた時の満足感や喜びを想像し従属的に機能します。

上記例では、体内で発生した空腹という優勢的欲求が起点となり心が動き始めましたが外部から五感を通して入る刺激が起点の優勢的欲求も同様です。また空腹という一番強い優勢的欲求が満たされれば優先度が下がり他の知性中枢や感情中枢の欲求に切り換わり心もその部位に集中を移動させ機能し始めます。

このように心は、体と同じ形状に固定されている訳ではなく刻々と集中する位置を変化させ機能していることが観察できます。

※スタンフォード大学関連機関ハートマス研究所の科学者たちが心臓に4万個の極小脳細胞があることを発見しています。またコロンビア大学のマイケル・ガーション教授によると、胃や腸にも無数の神経細胞が存在し脳とは独立して機能していると述べています。

【構造】

見る」で触れましたが無意識的な習慣を心の構造から考察します。

意識をよく例えて氷山が海面上に見えている部分の10%を顕在意識とし海面下に沈んで見えない90%を潜在意識と呼びます。潜在意識下は、更に階層分けされ個人的無意識や集合的無意識があります。(階層分けや呼称は統一されていません)
心の階層構造と相似しているのが脳の階層構造です。

顕在意識:大脳 ⇔ 潜在意識:辺縁系 ⇔ 個人的無意識:視床下部・小脳 ⇔ 集合的無意識:脳幹・脊髄

この中で我々が自由意志の基で判断と選択をし行動していると思っていることが、実は幻想で潜在意識下に五感から入る情報と記憶を基に前処理として比較判断や感情(快/不快)判断が行われた結果を顕在意識が意識し事後承認しているだけという研究があります。本当の自由意志による判断、選択、行動は、5%未満かもしれません。

それでは、無意識の習慣化・自動化がもたらすものとはいったい何でしょうか。

利点: 一度習慣化したことについて細部を意識化することなく自動化でき他の高度な考えや行動を並列処理できます。(歩く、会話する、見る、食べる、自転車に乗る…)
欠点: 自分が何をする(した)か細部を意識化できず問題点や予兆を把握できなくなります。(ブラックボックス化)また良い/悪いに関係なく習慣化・自動化は行われます。

【性質】

前記【機能】で考察したように体内の欲求や五感を通して入る刺激に潜在意識は、心を対象に自動的に集中させ一体化します。

【状態】

各中枢の優勢的欲求に対し心は上下に集中を移動させましたが五感から入る情報にも反応しています。外界からの情報は、距離、方向、強度、内容が異なりその対象が好き(快)であれば引き合う力が嫌い(不快)であれば反発力が働き心の形状も刻々と変化させています。

【相互作用】

これまで心が体を制御していることに焦点を当て考察しましたが同時に体が心を動かしていることにも気が付きました。気分が沈んだ時に運動することで気分が晴れることがあります。同じように表情筋を使い笑顔を作ることで沈んだ気分を変える感情制御などの試みが行われています。

※心の機能と役割の詳細は「思考・感情・欲求(体)のバランスを回復する方法」を参照

次の記事「強い心を作る


大切なことに向き合い問題やサインを見つけ解決しておけば人生に後悔はないでしょう。

今幸せなら立ち止まり大切なこととは何か向き合い考えます。
今不幸で苦しみ(孤独、不安、喪失、恐れ等)があり前に歩き出すのが難しいのならそれも大切な何かのサインではないでしょうか。
生まれつき痛みを感じない子供がいてストーブに手をつき大火傷したのを親が見つけ急いで病院へ連れて行ったという話しを聞いたことがあります。

苦しみが心の痛みなら向き合い解決をする必要がありそうです。
しかし心の痛みを好む人は少なく向き合う勇気と心の強さが必要です。

エーリッヒ・フロムは「愛するということ」で愛する技術は、習得することができると述べています。

同じように勇気や心の強さにも技術があり鍛え習得することができるのであれば心の痛みに向き合い克服できるのではないでしょうか。

それには、次の記事「心の機能」を知る必要があります。


【見る】

街中で鏡やガラスに反射した自分を見て身嗜みや見え方を確認することがあります。これと類似した意識せずに反射を見る習慣があります。

・他者から見られ関係される自己
・他者を見て関係する自己

サルトルの「存在と無」で自己が他者から見られた瞬間他者から評価や決め付けをされ自己の世界が盗まれるというものです。これは、自分の見た目や言動などを他者が見て評価を決めて反応を返す鏡の反射とも考えられます。物理的な鏡と異なる点は、評価と決め付けという外部フィルターがあることです。

同時に自分も他者を見て評価(価値付け)し決め付け(ラベリング理論)を行い反応していることから存在をかけた一種の権力闘争とも思えます。

この他者を見て評価(価値付け)する時に無意識的な習慣として自他との類似性探し(自己投影)を行っているため他者の中に自分の影を見て感情反応(好き、快、共感/嫌い、不快、反感)をしていることになかなか気が付きません。(他者の中に類似性が本当に有るか無いかは、一方的な決め付けなので別問題です)

そして対象を見る時に行う無意識的な自動的習慣である評価(価値付け)、決め付け(ラベリング)、自他との類似性探し(自己投影)を意識化し気が付くことができれば自己を変えることができるのではないでしょうか。

ここで一つ気が付く点があります。
自分を見るとき物理的な鏡の反射や他者の反応という外部の対象が無ければ自分自身を確認できないことです。

【対象】

次に自分を確認する時に見る鏡や他者という対象について考察します。

普段使う鏡は、光源の質(照度、色)、鏡の質(材質、大きさ、距離、角度、汚れ)、見る質(視力、感度)により見える自分の映像の質が日々異なります。一方他者の反応という鏡は、個人の価値観や先入観による偏向や決め付け等の不確実な要素を含んでいますし反応がなかったりあっても表情だけの場合や遠慮や感情などで直接表現されないこともあり理解できないことが多々あります。それでは、社会の中で多数が支持する標準的価値と自己を比較することで自己を確認するのはどうでしょうか。採用されている実績もあり良さそうです。しかしこの標準的価値は、人工的な物で局所的には良くても全体的には欠陥を含んでいる可能性があります。

自己の無価値感に苦しむ人々は、こうした標準的価値から外れ自己価値にダメージを受けているのではないでしょうか?この標準的価値は、社会が人を受け入れる一種の条件付き許容だと考えられます。

これらの自分を確認する時に見る鏡や他者・社会という対象は、完璧で絶対的なものではなく日々変化していることに気が付ければ少し生きやすくなるように思います。


見ることに関しては、まだまだ秘密の鍵があるのでまた書きます。
ヨーガ・スートラに「対象は見られるために存在している」とあります。

次の記事「向き合う



好き(快)と嫌い(不快)を対象との距離的な性質で考えると面白いことが見えてきます。

例えば、好きな人や物事に対して近付き見たく知りたくなりますが、嫌いな人や物事に対して離れ目を逸らしたく忘れたくなります。

まるで磁力の異極が引き合い、同極が反発し合うようです。

次の記事「見る

自然は、寛大で過失をとがめたりせず無条件に許し与えて人を受け入れます。

一方人間は、条件付で他者を受け入れそれから外れた者をとがめたり罰したり嫌ったりします。
人間は、行き過ぎた完全性の追求の結果、合理的、効率的な社会システムを作り自らを縛りつけ寛容さを失い生き辛さを感じているのではないでしょうか。

個人レベルでは、自分自身の不完全性を忘れ他者の中に不完全性を見つけ出しては、否定したり嫌ったりし完全性を求めるのは何故なのでしょうか。

実は、自分自身の中にある不完全性を他者の中に投影された不完全性の類似点(鏡に映る自分の影)を見て否定したり嫌っているのです。

この仕組みは、プラトンの洞窟の比喩を解読する一つの鍵であり寛容になるための鍵でもあります。

我々は、生まれてから何度も失敗し転びながら立つことを覚えた不完全な存在です。成功は、失敗の上にあるごく一部なのです。

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