【見る】
街中で鏡やガラスに反射した自分を見て身嗜みや見え方を確認することがあります。これと類似した意識せずに反射を見る習慣があります。
・他者から見られ関係される自己
・他者を見て関係する自己
サルトルの「存在と無」で自己が他者から見られた瞬間他者から評価や決め付けをされ自己の世界が盗まれるというものです。これは、自分の見た目や言動などを他者が見て評価を決めて反応を返す鏡の反射とも考えられます。物理的な鏡と異なる点は、評価と決め付けという外部フィルターがあることです。
同時に自分も他者を見て評価(価値付け)し決め付け(ラベリング理論)を行い反応していることから存在をかけた一種の権力闘争とも思えます。
この他者を見て評価(価値付け)する時に無意識的な習慣として自他との類似性探し(自己投影)を行っているため他者の中に自分の影を見て感情反応(好き、快、共感/嫌い、不快、反感)をしていることになかなか気が付きません。(他者の中に類似性が本当に有るか無いかは、一方的な決め付けなので別問題です)
そして対象を見る時に行う無意識的な自動的習慣である評価(価値付け)、決め付け(ラベリング)、自他との類似性探し(自己投影)を意識化し気が付くことができれば自己を変えることができるのではないでしょうか。
ここで一つ気が付く点があります。
自分を見るとき物理的な鏡の反射や他者の反応という外部の対象が無ければ自分自身を確認できないことです。
【対象】
次に自分を確認する時に見る鏡や他者という対象について考察します。
普段使う鏡は、光源の質(照度、色)、鏡の質(材質、大きさ、距離、角度、汚れ)、見る質(視力、感度)により見える自分の映像の質が日々異なります。一方他者の反応という鏡は、個人の価値観や先入観による偏向や決め付け等の不確実な要素を含んでいますし反応がなかったりあっても表情だけの場合や遠慮や感情などで直接表現されないこともあり理解できないことが多々あります。それでは、社会の中で多数が支持する標準的価値と自己を比較することで自己を確認するのはどうでしょうか。採用されている実績もあり良さそうです。しかしこの標準的価値は、人工的な物で局所的には良くても全体的には欠陥を含んでいる可能性があります。
自己の無価値感に苦しむ人々は、こうした標準的価値から外れ自己価値にダメージを受けているのではないでしょうか?この標準的価値は、社会が人を受け入れる一種の条件付き許容だと考えられます。
これらの自分を確認する時に見る鏡や他者・社会という対象は、完璧で絶対的なものではなく日々変化していることに気が付ければ少し生きやすくなるように思います。
見ることに関しては、まだまだ秘密の鍵があるのでまた書きます。
ヨーガ・スートラに「対象は見られるために存在している」とあります。
次の記事「向き合う」

街中で鏡やガラスに反射した自分を見て身嗜みや見え方を確認することがあります。これと類似した意識せずに反射を見る習慣があります。
・他者から見られ関係される自己
・他者を見て関係する自己
サルトルの「存在と無」で自己が他者から見られた瞬間他者から評価や決め付けをされ自己の世界が盗まれるというものです。これは、自分の見た目や言動などを他者が見て評価を決めて反応を返す鏡の反射とも考えられます。物理的な鏡と異なる点は、評価と決め付けという外部フィルターがあることです。
同時に自分も他者を見て評価(価値付け)し決め付け(ラベリング理論)を行い反応していることから存在をかけた一種の権力闘争とも思えます。
この他者を見て評価(価値付け)する時に無意識的な習慣として自他との類似性探し(自己投影)を行っているため他者の中に自分の影を見て感情反応(好き、快、共感/嫌い、不快、反感)をしていることになかなか気が付きません。(他者の中に類似性が本当に有るか無いかは、一方的な決め付けなので別問題です)
そして対象を見る時に行う無意識的な自動的習慣である評価(価値付け)、決め付け(ラベリング)、自他との類似性探し(自己投影)を意識化し気が付くことができれば自己を変えることができるのではないでしょうか。
ここで一つ気が付く点があります。
自分を見るとき物理的な鏡の反射や他者の反応という外部の対象が無ければ自分自身を確認できないことです。
【対象】
次に自分を確認する時に見る鏡や他者という対象について考察します。
普段使う鏡は、光源の質(照度、色)、鏡の質(材質、大きさ、距離、角度、汚れ)、見る質(視力、感度)により見える自分の映像の質が日々異なります。一方他者の反応という鏡は、個人の価値観や先入観による偏向や決め付け等の不確実な要素を含んでいますし反応がなかったりあっても表情だけの場合や遠慮や感情などで直接表現されないこともあり理解できないことが多々あります。それでは、社会の中で多数が支持する標準的価値と自己を比較することで自己を確認するのはどうでしょうか。採用されている実績もあり良さそうです。しかしこの標準的価値は、人工的な物で局所的には良くても全体的には欠陥を含んでいる可能性があります。
自己の無価値感に苦しむ人々は、こうした標準的価値から外れ自己価値にダメージを受けているのではないでしょうか?この標準的価値は、社会が人を受け入れる一種の条件付き許容だと考えられます。
これらの自分を確認する時に見る鏡や他者・社会という対象は、完璧で絶対的なものではなく日々変化していることに気が付ければ少し生きやすくなるように思います。
見ることに関しては、まだまだ秘密の鍵があるのでまた書きます。
ヨーガ・スートラに「対象は見られるために存在している」とあります。
次の記事「向き合う」
