第104回 「個性的なキャリアとは」
「個性的に、生きる」いう言葉を、よく目にしたり、耳にしたりする。
個性の尊重は、とても大切なことであり、誰しも願うことだ。
しかし、個性という事を、理解してない中で、ただ個性という言葉を仮面のように使ったり、無理に他人と異なる事を、個性的と口にしている様な気がする。
「ゴッホだって、始めは、誰もその才能を認めなかった。
今では、素晴らしい評価をされている。
自分は、ゴッホのように個性的にありたいのです!」と、転職を繰り返している方が、TVの特番で語っていた。
個性は、人の間に生まれる。人を認めなければ、自分も認めない、結果、自己統一の力がなくなってしまう。
だから、利己主義といった自分の殻に閉じこもった自己防衛の姿になってしまい「個性的に生きたい」という言葉だけが、一人歩きしているように思える。
彼は、ゴッホという画家を、「自我の強い、傲慢で自らを変えない頑固な人」と理解しているように思えた。
しかし、実体のゴッホは、驚くほど謙虚で無私を持ち合わせ、多くの仲間達との交流を深めながら、日本画風を取り入れて、作品を創作した画家だ。
過日、社のメンバーが参加している劇団の演劇を観た。
若き劇団員達が、ひとつのテーマに向かって、一人ひとりの持てるエネルギーを精一杯出しながら、全メンバーと一緒に表現している姿に、爽やかな感動を覚えながら、一人一人の劇団員に目が留まった。
演劇や映画は、一人で創りあげることは出来ない。
多くの人達との関わりによって素晴らしい作品が生まれ、その中から一際輝く役者が生まれていく。
名を残す役者は、社会や組織に素直な態度で交わり、もまれて創造される。個人主義や利己主義でなく、自己表現することで、個性を生み出す。
孔子の「和して同ぜず」という言葉がある。才能を伸ばすのも、個性的なものを育て、表そうとするのも、和(調和)して、交わる事にある。同ぜずとは、自分を掴むことであり、この両面がなければ、個性を育てることはできない。
和して、社会的なものを持たなければ本物の「個性」は、生まれない。
反対に、何かの団体や会社や組織に入って、大勢で仕事をして、大きな責任もなく成果も出ていると、自分を考えなくても過ごせていくようになり、表面だけ、和(同調)していく。「和して同ぜず」でなく、「同じて、和せず」では個性も何も無い。
本気で個性的に生きたいのであれば、まずは、社会と調和した上で、個性(持ち味)を
活かしていくという事を理解して欲しい。
先の劇団員のメンバーは、一人ひとりの持ち味を活かし、素晴らしい芝居を見せてくれた。
「皆違って、皆いい」個性は誰にでもある。自分勝手を個性と勘違いせず、社会や会社と和して、個性的な自分を開放して、キャリアを歩んで欲しい。
「生」
昨日、徳永英明の20周年アニバーサリーのコンサートに行った。創業時、よく休日や遅い時間に一人で仕事をしていた時、気分転換に「TOKUNAGA」の曲を聴いて、癒された頃を思い出した。
コンサートの盛り上がりのテッペンで、後ろの席で親しい友人が、会場に響きわたる大きな声で、「ブラボー」と叫んだ! やっぱり「生」 は、いい!!
朝7時の新潟からの新幹線で、東京に戻り、会社メンバー全員参加の2Qキックオフミーティング、コンサート、そして、「生ビール」で乾杯! 徳永の「 壊れかけのRadio」を、歌って、帰りのクルマの中で、「イギリスのベッカムのワールドカップが、終えた」ことを、知った!中身濃い7月のスタートの一日だった。
第103回 「ゴールとルール」
「地上最大の祭典」といわれるFIFAサッカーワールドカップ。6月中旬ドイツフランクフルトに、観戦に出かけた。
4年に一度、世界の人々が、一個のサッカーボールのゴールで興奮する。現地ドイツでは、試合会場だけでなく、街の至るところに、大スクリーンが設けられ、大画面の前に、各国から熱狂的なサポーターたちが集い、ビールを飲みながら、ボールの行方に、街中が注目しているような異様な熱気に包まれていた。
野外で、ビールを飲みながら、共に行ったメンバー達と「一体何故、ここまでワールドカップは、オリンピックを凌ぐまでに、熱狂するのか?」と話していると、隣に居合わせたイギリス人とドイツ人の年配のグループが、仲間に加わり、サッカーの歴史を聞かせてくれた。
古代ヨーロッパでは、丸いものは「太陽の象徴」であり、太陽を支配するものは、地球上の支配者になるといわれ、敵の部族王の頭蓋骨(丸い物)を奪い合い、それをゴールに運んだものが王になったという。
「太陽を奪い合う球戯が、世界の支配を決める」歴史が、今から5千年前に生まれ、ボールを奪い合う球戯は、ラグビーやホッケーをはじめ、多くのものが生まれた。
サッカーだけは、脚のみを使うルールを徹底したことによって、身長をはじめ身体的優勢がなくなり、世界中すべての民族が、平等な条件で闘えることになった。
経済的に、恵まれてない国でもどんな場所でも、一個のボールさえあればサッカーは出来る。
ワールドカップが、「地上最大の祭典」いわれるまでに育ったのは、こういったDNAの歴史や世界共通のデファクトスタンダードルールを解かりやすく徹底したからだと、いうことであった。
4年前の日韓ワールドカップの際、試合の行われていない神宮前の国立競技場で、5万人の観客達によって会場にウェーブが興り、海外からきたサポーターと日本サポーターたちが一体となって盛り上がっていたシーンに驚いたことを、今でも鮮明に覚えている。
今日では、当たり前のように、衛星放送テクノロジーの向上によって、世界中のあらゆるところで、同時に、一個のボールの行方に「ため息、叫び、怒号」が、生まれ、その場の空気を感じる世界が訪れた。
世界中を熱狂させるワールドカップは、グローバル情報化社会の中で、共通の「ゴール」と「ルール」を定めることが、人々を熱くすると思えた。


