「特別な子供」 考えよう人生の深い意味 | Yokoi Hideaki

Yokoi Hideaki

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私の縁者に「特別な子供」を持つ家族がいます。

「特別な」とは重度の障碍のことで、彼は手をしっかり持つなど、拘束していないと暴れたり、自傷行為をしたりします。また突然声を出したりします。

 

そういう縁者がいるからでしょうが、ずいぶん以前にアメリカのレストランであったことを報じる小さなニュースを読んで、涙があふれたことがあります。

何年も前のことで、その詳細は記憶していないのですが、およそ以下のような話でした。

 

あるアメリカの街のレストランでのこと、重度の障害を抱える子供を持った母親がその子と一緒に食事をしていました。

その子は大声で何かを言っています。母親はその子の手を握って「大声を出さないで」と懸命にあやしていました。

 

彼女はその日の仕事を終えて、預けていた子供と一緒にレストランに食事に来たのです。その日の仕事も楽でなく、彼女は疲れ切っていました。食事を作る気力もなく、そのレストランにやって来ました。

 

回りの迷惑を気にしながら、慌ただしい食事を終えて、子供の手を引きながら支払いを済まそうとしたときです。

ウェイトレスは「もう支払いは済んでいます。別のお客さんがあなたのテーブルの支払いもされていきました。」と言うではないですか。驚く彼女に支払い済みのレシートが手渡されました。

 

そのレシートの裏にはメモが添えられていました。

そこには「お疲れでしょう。でもそのお子さんは『特別な子供』であることをいつも忘れないでください。」とありました。

 

母親はこれを読んでその場で泣き崩れました。そして母親がこのエピソードを友人に語ったことから広がり、ニュースにもなり、日本にいる私の目にもとまりました。そのメモには「神様から与えられた特別な子供」とあったようにも記憶しています。

 

このエピソードを思い出したのは、数日前に古い白光誌で村田正雄さんの記事を読んだからです。村田さんは五井先生の高弟であり、優れた霊能者として五井先生の会の草創期に活躍された方です。

 

以下、昭和四十一年(1966年)10月号の記事から、私の目を引いた箇所を抜粋します。

 

(幼くして世を去る子供のように)初めから肉体身に関心を持たず、 生れ出ずると間もなくもとの霊界にと帰るものもあり、又、肉体人間に生れ出ずる必要もない高い霊でありながら、縁者達の救護と大きな業生を消そうとして、自ら求めて深い業生の渦中に身を投じ、白痴等の不具の身となって縁者の業生を一身に荷って消し切るために、この世的には一片のむくわれも受けずに大愛に身を捧げ、肉体身を終る霊もあります。(抜粋おわり)

 

 

ここに村田先生が書かれているように、重度の障害を持って生まれる方の大半は「肉体人間に生れ出ずる必要もない高級霊が、縁者の身代わりとなり、その大きな業生を消すために自ら求めて、白痴等の不具の身となって生まれてきた菩薩や天使方なのだ。」というのが本当の姿です。

 

私は縁者に障碍者がいることから、町でそのような方に出会ったときは、心の中で手を合わせ「この方の天命が全う(まっとう)されますように、世界人類が平和でありますように」と祈り、その方のお働きに感謝をささげるようになりました。

 

前にもこのブログで「願兼於業(がんけんおごう)」について書いたことがあります。これは中国の天台宗の高僧であった妙楽大師の言葉で「願って業を兼ぬ」と読みます。その意味はまさに上に書いたことです。

 

この言葉には過去のブログでも触れました。

 

 

このブログではバシャールの二つのエピソードを紹介していますが、後半に願兼於業のことを書いています。

今日のブログのテーマは「考えよう人生の深い意味」ですが、深い意味を考えるために私が大事だと思うことはこのブログの前半にも書いています。ご興味のある方はこれもご覧ください。

 

なお、以下に先の村田先生の記事の前後の部分をまとめて紹介します。冒頭、胎教の重要性についても書かれています。

 

母体と胎教

昔から教の重要性はいろいろな角度から説かれておりますが、霊の自我像の創造の上で大きな役割を果すことは申す迄もありません。

自我像の創造過程における一つの大きな修正となるのであります。

 

両親、縁者の持つ業生と霊魂自身の業の消えゆく姿の場として、また天命顕現の役割を果す器として、自我像の彫刻に全身全霊を打ち込む途上において送られる地上の母よりの愛念は、より大きな力となって自我像の創造に大きな修正を加えてゆくのであります。

 

何故ならば自我像とて消えゆく業生の場でありますので、絶えまなき愛念の放射は、胎児の持つ業生を消して、大きな運命の修正をすると同時に、いれかわりに神の光りが素直に流れ入り易くなってゆくのです。そこで霊の持つ本来の姿が次第に顕れてゆくのであります。

 

こういう意味で胎救も大切な役割を果すのでありますが、それよりもまして大切なことは、平凡な日常の生活の中で、生かされている自分を信じ、神様への感謝が自ら湧き上り、愛し合える夫婦であり、いたわりあえる夫婦の調和した雰囲気こそ、神様に愛でられる、高き霊の受場となるのであります。

 

霊と肉体身との関係

霊と肉体身との関係については先に申上げました如くに、肉体とは霊自身の手になる自我像でありますが、これは一般的な見方でありまして、霊と一口で申しましても、人間個々に違いがありますように、高き霊が貧弱な肉体の中に入って、肉の身の弱さを超えて偉大な働きをなし遂げた場合や、肉体身のみに重きを置き、大切な霊の働きが十分でなかった場合もあるというように相違があります。

 

初めから肉体身に関心を持たず、 生れ出ずると間もなくもとの霊界にと帰るものもあり、なお又肉体人間に生れ出ずる必要もない高い霊でありながら、縁者達の救護と大きな業生を消そうとして、自ら求めて深い業生の渦中に身を投じ、白痴等の不具の身となって縁者の業生を一身に荷って消し切るために、この世的には一片のむくわれも受けずに大愛に身を捧げ、肉体身を終る霊もあります。

 

こうして霊と肉体身との関係は簡単にこうだと云い切れるものでなく、いろいろな角度からの見方もありますが、霊を騎手とし見、肉体身を馬に見て、名騎手が荒れ馬を乗りこなし己がおもいのまま馬を御し、人馬一体になる迄の苦心を、人類が昇華向上へと努力を続ける一片としてみる考え方もあるものと思われます。

 

こういう霊もあるということを知って置くことは大変参考となるもので、この世に肉の身を得たこと自体が 守護の神霊の大変な御働きによって実現されたものであることを知ることを肉の身を大切に扱う根本となるものでありましょう。

肉の身を軽視することは神への大きな冒澄であり、人間の真実を知らな過ぎる誤ちより起ることであります。

 

自殺者等は、こうした観点に立って考えて見ますと、与えられている生命を自らの手で放棄する罪の果が、自殺に追い込んだ地上での苦境の幾層倍となって幽界で待っているのであります。

そこでは、いかなる苦しみが起って来ようとも、再び決してこのようなことは致すまいと苦悩のドン底から絶叫するばかりであります。

 

もし縁者の中にこうした人があり、その人のことを思ったとするならば、その人の天命が全うされますようにと心からの愛念を送って上げて下さると、その愛念が光明となって、苦界に届き、勇気と力となってその人の救われの道の開かれるきっかけを作るもととなるのであります。

縁者の愛念は如何なる闇をも貫いて、その人を苦界より光明界に導かずにはおかない力なのであります。(抜粋おわり)

 

この記事の冒頭にある「自画像」とは「結局、自分が自分の人生を決めてくる」という事です。

それは「生まれてくる人生の目的を決める」ということでもあります。

その目的を果たすために、必要なプロセスも自分で決めます。どの両親の元に生まれるか、どのような子供時代を送り、どのような会社に入り、どのような人々と出会うか、というようなことも守護霊のアドバイスはありますが、自分で決めてきます。

 

そんなバカな、と思う方がいると思いますが、占いや易が当たるのはその為です。また五井先生は「人の運命の八割は決まっている」とおっしゃっています。

今日のブログテーマの「考えよう人生の深い意味」としたのは、深く考えれば、過去、現在に人生に起こったこと、起こっている「よくないこと」ことに対して、「悲嘆」にくれるのでなく、「感謝」や「勇気」をもって向き合ことが出来るのでないか、と思うからです。

 

村田さんのこと、そのご著作については以下の過去ブログに書きましたので、ご興味あればこちらもお読みください。

 

 

今日の記事がお役に立てば幸いです。

世界人類が平和でありますように