「バシャール」から学ぶ不条理との向き合い方 | Yokoi Hideaki

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前回、「バシャールはやっぱり面白い」のタイトルで書いたとき、久しぶりにページを開いたバシャール本には他にも目を引かれたエピソードがありました。それで今回も懐かしいバシャールの話です。

 

 

 

 

目を引かれたのは上の旧版のバシャール1にある1987年に行われた公開セッションでの質疑応答で、親子関係にかかわるものです。

参加者の質問は「子供を生むということの意義、母親、父親としての子育ての役割について聞きたいのですが…」というものでした。

バシャールは次のように応えます。(以下抜粋引用)

 

親子となる意味

どうもありがとう。子供を生むこと、それをも含めてすべての人間関係というものは、すべて同意されたうえにあります。その魂が、自分を通して生まれて来るということを、生まれる以前からお互いに同意しています。

 

それは自分の肉体が始まる前にテレパシーを通して送られます。基本的なあなたの子供を育てることの役割というのは、次のようなことです。

 

二人はもう既につながっている部分があります。その中で二人が鏡となって、お互いが学ぶことをお互いに見せ合っています。父親、母親というのは、子供がなにかこれから自分でいろいろなものを開拓していかなければいけないというときに、安全な雰囲気を作り上げてあげます。

 

同意というのは選択にもとづいています。親も選ぶし、子供も選びます。そしてほとんどの場合、親子というのは、前世でも親であったり、子であったり、お兄さんや妹であったり、親戚であったりします。

 

たくさんの違うやり方で、お互いが交互にダンスをするように代わるがわるに役割を演じます。子供が一番表現で学べる、一番いい雰囲気を創るには、親も本当に自分自身になることです。自分で知っている限りの自分自身に100%なってください。それによって一番子供に奉仕できます。(引用おわり)

 

親子や兄弟、親戚、または親しい友人などは既に何度も身近に生まれかわってきている、ということはこのブログを読んでいる人はある程度理解できるでしょう。

 

また五井先生も「最近は『親が勝手に生んだ』などという若い人がいるようですが、とんでもない。親を選んで生まれてきている。この世に生んでくれたというだけで大変な恩があるのです。」という趣旨のことをおっしゃっています。

 

しかし、最近も元関脇の奥さんが子供さんにひどい虐待行為を行っていたことが話題になりました。この事件は殺人にまで及んでいませんが、その少し前には友人からマインドコントロールを受けた母親が我が子を餓死させるという事件も報じられました。

 

こんなケースを知れば、親子それぞれが合意の上で選んできた関係、人生である、とはとても思えないでしょう。

 

しかし、それでもやはり選択しています。原因なしに結果は生じません。「因果応報」というのはバランスで、均衡するということです。その意味ではこれも力学的な法則です。バシャールの有名な言葉「与えるものが受け取るもの」も、そう考えればバランス、均衡、力学のことを言っています。上のような悲惨な親子関係すらこういった方法でバランスをとっているのでしょう。

 

私が目を引かれたのはバシャールの答えにある「たくさんの違うやり方で、お互いが交互にダンスをするように代わるがわるに役割を演じます」という部分です。ダンスとはバランスと言い換えても良いように思います。お互いがカルマの解消や魂の成長の機会を与えあうことを言うのでしょう。

 

この「ダンス」という言葉から連想した物語があります。その物語は「バシャール」と並ぶスピリチャル系のベストセラー、ニール・ドナルド ウォルシュの「神との対話」にありました。

 

 

 

 

同シリーズ旧版の1と3に書かれていた「小さな魂と太陽のたとえ話」というお話です。

少し長くなりますが、以下に引用します。「小さな魂」とは私たち一人ひとりのことだと思って読んでみてください。まず「1」からの引用です。

 

小さな魂と太陽のたとえ話

かつて、自らが光であることを知っている魂があった。これは新しい魂だったから、体験したくてならなかった。

 

「わたしは光だ」とそれは言った。「わたしは光だ」。

だが、いくら知っていても、いくら口に出してみても、体験にかえることはできない。この魂が生まれた領域では、光しかなかった。

 

どの魂も偉大で、どの魂もすばらしく、どの魂もわたし(神)の神々しい光を受けて輝いていた。そこでは、その小さな魂は、まるで太陽の前のロウソクのようだった。偉大な光のなかでは、その光の一部である魂は自らを見ることができないし、自らが何者であるかも体験できない。

 

その魂は自分自身を知りたくて知りたくてたまらなくなった。あまりに知りたがるので、ある日、わたしは言った。

 

「小さいものよ、その望みをかなえるにはどうすればいいか、わかるか?」

「どうすればいいのですか、神さま? わたしは何でもします。」小さな魂は答えた。

「おまえはわたしたちから離れなければならない」とわたしは言った。「そうして、闇を求めなければならない」。

 

「闇というのは何ですか、聖なるかた?」と小さな魂はたずねた。「それは、おまえではないものだ」とわたしは答え、その魂は理解した。

 

そこで、その魂は全体から離れ、べつの領域に行った。その領域では、魂はあらゆる闇を体験する力をもっていた。そして、闇を体験した。

 

その闇のさなかで、魂は叫んだ。

「父よ、父よ、どうして、あなたはわたしを見捨てたのですか?」。

 

たとえば、あなたがたが暗闇にいるときのように。だが、わたしは一度もあなたがたを見捨てたことはない。つねにそばにいて、ほんとうは何者であるかを思い出させようとしているし、いつも、わが家に呼び戻そうとしている。

 

だから、闇のなかの光になりなさい。そして、闇のなかにいることを呪ってはいけない。また、まわりが自分と違うものばかりでも、自分が何者であるかを忘れてはいけない。そして創造物をほめたたえなさい。たとえ、それを変えたいと思っても。

 

最も大きな試練が、最も偉大な勝利になる可能性がある。あなたが生み出す体験は、自分が何者であるか、そして何者になりたいかという宣言なのだから。

 

小さな魂と太陽のたとえ話をしたのは、どうしていまのような世界になったのかを理解させるため、そして、誰もが現実の奥に秘められた神聖な真理を思い出せば、その瞬間に世界は変わりうることを、もっとよく理解させるためだ。(引用おわり)

 

以上が旧版、神との対話「1」の53pに書かれている「小さな魂と太陽のたとえ話」です。

 

そしてこのたとえ話には続きがあります。「3」の421p~には、こうあります。(以下引用)

 

一冊目の対話のなかの、小さな魂と太陽のたとえ話を覚えているかな?

はい。

あれには続きがあるんだよ。こうだ。

 

「どんな神の一部になるか、好きなものを選んでいいよ」とわたしは小さな魂に言った。

「あなたは絶対的な神性で、自らを経験する。神性のどんな部分を、自分として経験したいかな?」

 

「自分で選んでいいんですか?」小さな魂はたずねた。

わたしは答えた。「そう。自分のなかで、自分として、自分を通して、神性のどんな部分を体験するか、選んでいいよ」

 

「わかりました」と小さな魂は言った。「それじゃ、わたしは赦し(ゆるし)を選びます。神のなかで、完璧な赦しという部分を体験したいんです」

 

さて、想像がつくだろうが、これは少々やっかいな問題を生んだ。誰も赦すべき相手がいなかったのだ。創造されたものはすべて完璧であり、愛だったから。

 

「赦す相手がいないんですか?」小さな魂はまさかという調子でたずねた。

 

「誰もいない」とわたしはくり返した。「まわりを見まわしてごらん。あなたよりも完璧でない魂、すばらしくない魂が見えるかな?」

 

そこで、小さな魂はくるりと見まわして、自分が天のすべての魂にとりまかれているのに気づいて驚いた。魂たちは、王国のはるか彼方から集まってきていた。小さな魂が、とてつもない神との対話をすると聞いてやって来たのだ。

 

「わたしより完璧でない魂は見つかりません!」小さな魂は叫んだ。「それじゃ、誰を赦したらいいんでしょうか?」

 

そのときひとつの魂が群衆のなかから進み出た。「わたしを赦せばいい」と、その友好的な魂は言った。

 

「何を赦すんですか?」小さな魂はたずねた。

 

「あなたのつぎの物質的な人生に出かけていって、何かをするから、それをあなたが赦せばいい」友好的な魂は答えた。

 

「だが、何を?、これほど完璧な光であるあなたに、わたしが赦したいと思うようなことができますか?」小さな魂は知りたがった。

 

「だいじょうぶ」友好的な魂は微笑んだ。「きっと、何か考えつくから」

 

「しかし、どうしてそんなことをしてくれるんですか?」小さな魂は、これほど完璧な存在が「悪い」ことをするために、わざわざ振動をスローダウンさせようとするのはなぜなのか、はかりかねた。

 

「簡単だよ」友好的な魂は説明した。「あなたを愛しているからするんだ。あなたは赦しとして、自己を体験したい、そうなんだろう? それにあなだだって、同じことをしてくれたじゃないか」

 

「わたしが?」小さな魂はたずねた。

「そうだとも。覚えていないのかい? あなたもわたしも、みんなその一部だ。わたしたちはそのなかの上昇で下降、左で右だった。ここでありあそこ、いまであり過去だった。大で小、善で悪だった。」

 

「わたしたちはみな、その一部だったんだよ。そんなふうにして、それぞれが神の最も偉大な部分を体験しようとみんなで決めているんだ。わたしたちにはわかっているからね……。あなたでないものが存在しなければ、あなたもまた存在しない。」

 

「『寒』がなければ、『暖』もありえない。『悲しみ』がなければ、『幸福』もない。『悪』と呼ばれるものがなければ、『善』と呼ばれる体験もありえない。あなたがあることを選ぶためには、それと反対の何かあるいは誰かが、宇宙のどこかに現れないといけない」

 

友好的な魂はそれから、そういうひとたちは神のとくべつの天使であり、そういう状態は神の贈り物なのだ、と説明した。

 

「かわりに頼みたいことは、ただひとつだ」と友好的な魂は言った。

 

「何でもします!何でも!」小さな魂は叫んだ。神の神聖な側面のすべてを経験できるのだと知って、彼はわくわくしていた。やっと『計画』が理解できたのだ。

 

「わたしがあなたを襲い、暴力をふるうとき、想像しうるかぎり最悪のことをするとき―その瞬間にほんとうのわたしを思い出してほしい」

 

「忘れませんとも!」小さな魂は約束した。「いまと同じように、完璧なあなたを見ます。ほんとうのあなたを、いつも思い出します」

 

この話を聞いてウォルシュはこう嘆息します。

「それは……すばらしい物語ですね。信じられないようなお話だ。」

 

これに対して神が彼にたずねます。

「小さな魂の約束は、あなたへのわたしの約束だ。それは変わらない。だが、小さな魂よ、あなたはほかの者への約束を守ったかな?」(引用おわり)

 

このつづきに興味があれば「神との対話」を読んでみてください。これは余りに美しいファンタジーで、おとぎ話のようでもありますが、ここに非道や不条理に向き合う智慧が示されています。

 

この物語は後にフォトブックとして一冊の小さな本にまとめられました。

私は中国共産党の非道に対するダライラマ法王の「赦し」の姿からこの寓話を思い出して、法王の法話会に参加した直後に書いたブログに引用したことがあります。興味があれば以下もご覧ください。

 

 

不幸な人にできることは何か

もう一つバシャールの開いたページで目を引かれたエピソードがありました。

それも1987年の公開セッションでの質疑応答で、参加者の質問はこうです。

「この世の中で、差別を受ける人や、貧しい人や、不遇にある人達に何かしてあげずにはいられない気持ちがあります。何かできるでしょうか?」

 

バシャールはこう応えます。(以下引用)

 

何でもやりたいことはできますけれど、ただそういう人達に慈悲をかけることはやめてください。可哀そうだと思うことはやめてください。実際に何か物をあげて助けてあげることもできますし、愛情をあげること、優しさをあげることもできます。

 

でもそういうふうに惨めな貧困の中で暮らすということを選んできた、その強さというものを見てあげてください。その人達が、貧困のままでいる必要はないのです。

 

もし、あなたがその人達に教えてあげられることがあるとしたら、その一番いいものはこれです。ちゃんと聞いてくださいね。

 

人は誰でもひとりひとり、他の人も自分も傷つけないで、自分の欲しいものを実現化していくことができる能力というものを持っています。

 

もし、あなたがその人達のパワーを信じてあげることができれば、彼らの足りないものを見るのではなく、足りているものを見てあげることによって、あなたがその人達の鏡となって、その人達が本当にそういうものを持っているんだと分かります。

 

それによって、その人達がそこを抜けていくことができます。実際に貧困とか、そういうふうに否定的に見えるものがありますが、それでもそれには目的があります。

 

人によっては、わざと貧困の人生を選んで、それによってお金持ちや、もっと豊かな人を自分のまわりに引きつけることをします。

 

お金持ちに助けさせることによって、今度は逆に貧乏な人達が精神的なものをお金持ちの人達に与えたりすることができます。それをやることによってバランスが取れます。

 

お金のある人とない人と、精神的に豊かな人と豊かでない人達が一緒になることによって、両者がお金も、精神的なものも、両方が豊かになることができます。

 

ですから、助けてあげて、愛もどんどんあげてください。

足りない所に自分のフォーカスをあてて、それをさらに強化させることは、しないでください。

 

もし、彼らはそんなふうに貧困のままでいる必要はない。そこから抜け出せる力をもっているんだ。というように彼らに信じさせることができたら、どんなレベル、どんな分野においても貧困であることはありません。

 

ここで矛盾しているように見える所はこんな所です。

逆説的にいえば、まず、彼らを信じさせるということは難しい。また、自分が絶望的になっていては、相手を信じさせることはできない。

 

さらに、あなたが何とか変えさせようとか、ああ、もう変わらないんだ、だめだと思った時には彼らもそういう部分が強化されて、それを信じてしまいます。

 

絶望は絶望を呼び起こすだけです。愛と信頼はその人達の中の愛と信頼を呼び起こします。

 

わかりますか? 優しい「お花」さん。

どうでしょうか? 役に立っているでしょうか?

 

どんな状況でも、自分がなにか気をひかれる状況というのは、必ずなにか目的があります。

ただ起こっているのではないのです。

 

ですから、自分の頭でこうであらねばいけないというふうに見ないで、何が起こっているかそのままを見てください。

 

そうすれば、どんな人間関係においてもお互いに鏡となって、自分が何を学ぶ必要があるのか見ていくことができます。それによって二人が成長することができます。どうでしょう、わかりましたか? (引用おわり)

 

このあと不倫や三角関係の質問が続きますが、基本的には同じことです。これも「与えるものが受け取るもの」で、より善きものを生み出すための「ダンス」と言えるかもしれません。

 

願兼於業

仏教の教えに「願兼於業(がんけんおごう)」という言葉があります。これは天台宗第六祖、妙楽大師の言葉で、「願って業を兼(か)ぬ」と読みます。要は悲惨なカルマを自ら選択し、引き受けて生まれてくる、という意味です。

 

バシャールが言うように、そのような特別な人生を選んだ人は、バランスを取り、カルマを解消する特別な人生を選択した人で、強い人なのです。五井先生も「そのような人こそ菩薩なのです」とおっしゃっています。

 

だから、私達が一番にすべきことは、「この方の天命が全うされますように」「世界人類が平和でありますように」と祈ることだと思います。

 

一族のカルマを背負って、その解消のため「不自由な体」を選んで生まれてくる人がいます。それは菩薩業です。さらには国家のカルマを引き受けて、わが身を通して浄める人生を選ぶ人もいます。

 

先の大戦で特攻を志願された方々、広島や長崎で原爆の被害にあわれた方々もそのようなお役目を担われたと言って良いのかもしれません。実際五井先生は「そのような方は良いところ(霊界の高いところ)に逝かれている」とおっしゃっていらっしゃいました。

 

イエスは不自由な体に生まれられたわけではありませんが、十字架上の死という形で人類のカルマを浄められました。

 

我々は表面的な姿や現象だけを見て、善悪の判断を為しがちですが、仮相(けそう・表面、現れ)だけでなく、実相(じっそう・本質)を観る智慧を持たねばなりません。

 

そう考えれば、私達にできる事は祈りと感謝ではないでしょうか。

 

このブログでご講演の記録などを紹介している甲田光雄先生がしばしば口にされた下の法華経の一節もそのような意味があるのでしょう。

 

「一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す」
この一節の意味は下の記事で解説していますので、興味があればご覧ください。

 

 

振りかえれば、若いころ、実相とは何かを最初に考える機会を与えてくれた一冊がバシャールでした。

今日の記事がお役に立てば幸いです。

 

世界人類が平和でありますように