ジョー 山中(ジョー やまなか/本名:山中 明[やまなか あきら]/1946年9月2日~2011年8月7日)は、日本のミュージシャン、俳優、元プロボクサー。

 

 

 

1946年9月2日、山中明は、7人兄弟の中で唯一の混血児として生まれる。父親について山中は「本当の父親は顔も名前も知らない。日本に進駐していたアメリカ軍の兵隊だったらしい(中略)おふくろは一時、黒人兵と暮らす。それでお腹に宿したのが俺だ」と述べ、ソロ・アルバム『W's』の中村俊夫によるライナーノーツでも父親を「アフリカ系アメリカ人」としている。

神奈川県横浜市出身。

 

小学生の時に母を亡くした上、自宅が火災で全焼する不幸に見舞われる。

 

結核で2年間入院した後、約16歳まで養護施設を転々として育つ。

 

中学卒業後、自動車の修理工場に就職し働き出す。だが、横浜でケンカ、ケンカの毎日を送っていた。

 

1962年、山中の腕っぷしの強さを聞きつけた金平正紀にスカウトされ上京し、金平ジム(後の協栄ジム)へ入門。リングネームは正紀による命名で「城 アキラ」。

 

17歳でプロ・ボクサー・デビュー、ジムの意向によりライト級(61.23kg以下)からフェザー級( 57.15kg以下)に転向するも、無茶な減量が祟り体調を崩して入院し、東日本新人王の準決勝を棄権している。通算成績は4勝1敗1KO。

 

 

1963年、混血児をテーマにした映画『自動車泥棒』で安岡力也らと共演。
 

 

1966年、GSグループ「4・9・1」(フォー・ナイン・エース)にリングネームと同じ「城 アキラ」の芸名で加入、ヴォーカルを担当。

 

 

1967年、シングル“星空を君へ”で4・9・1の一員としてデビュー。ただし山中の加入が録音後であったため、本シングルのレコーディングには不参加だった。

 

 

1968年、4・9・1を脱退。
同年、「内田裕也とザ・フラワーズ」がメンバー交代により、元4.9.1のジョー山中(Vo)、元ビーバーズの石間秀樹(G)、元ザ・タックスマンの上月ジュン(現:小林ジュン/B)、和田ジョージ(Ds)の4人体制になる。内田はプロデュースを担当した。山中は内田の誘いに応じて参加した。なお、内田のアイディアにより全曲英語の歌詞で歌い、東洋的な旋律をモチーフとして独自の音楽性を確立した。当時の音楽業界ではロックを日本語で歌うか英語で歌うかの論争(所謂「日本語ロック論争」)があったが、内田は英語で歌うことを決断した。

 

 

1970年2月、バンドは「フラワー・トラベリン・バンド」に改名し、再出発。

同年、日野皓正・クインテットとシングル“Crash”を日本コロムビアから発表した。

 

10月21日、フラワー・トラベリン・バンドの1stアルバム『ANYWHERE』を日本フォノグラムから発売。

 

同年、大阪万国博覧会の出演中に知り合ったカナダのロックバンド「ライトハウス」に見出され、メンバーはカナダへ渡る。地元でライブ活動を重ね評価を上げた彼らはアメリカのアトランティック・レコードと契約。

12月1日、クニ河内とフラワー・トラベリン・バンドのメンバー石間秀樹(G)とのコラボ作アルバム『切狂言』を「クニ河内とかれのともだち」名義で発表。
 

 

1971年4月25日、フラワー・トラベリン・バンドの2ndアルバム『SATORI』をアトランティック・レコードからアメリカとカナダで同時発売(日本はワーナー・パイオニアから発売)、発売、東洋的な旋律の上に乗る山中のハイトーン・ヴォーカルと石間のスライド・ギターを駆使したサウンドは、高い演奏力とあいまって無国籍的な一種独特の世界を構築し、同アルバムと、シングル・カットされた“SATORI Part2”がカナダのチャートに入る。また、ライトハウス、ELP、ドクター・ジョンなどのミュージシャンと競演ライヴも行うなど国際的な舞台に活躍の場を拡張、カナダで成功を収めた彼らは海外進出の先駆的な存在となった。

 

 

しかし当時の日本ではフォークソングが全盛を極めており高い演奏力と独自の音楽性を持つ彼らをもってしても国内で大きな成功を収めることはできなかった。

 

 

1972年2月10日、3rdアルバム『Made In Japan』を発売。

 

3月に帰国後、篠原信彦(ex.ハプニングス・フォー/Key)がサポートメンバーとしてバンドに参加。全国縦断コンサートを行う。

喧嘩が滅法強いことで知られる山中だが、フラワー・トラベリン・バンド在籍時は学生運動の過激化が問題化した頃であり、フラワー・トラベリン・バンドが日比谷野外音楽堂でのコンサート中に全共闘のメンバー十数人から殴り込みを掛けられ、ステージ上で大乱闘になったことがあった。その際、ボクシングで返り討ちにしただけでなく、演奏が終わった直後に逃げた相手を追いかけ、「それ以上殴ったら死ぬ」と止められる程ボコボコに殴りつけた、といった武勇伝が存在する。山中が日比谷野外音楽堂で暴徒に立ち向かった様子は写真として残されている。また、時期不詳ながら、ヘビー級とミドル級でキックボクサーをしていた安岡力也をタイマンで半殺しにしたという逸話も残されている。

 

 

1973年1月に来日するローリング・ストーンズの前座を務める予定だったが、彼らの初来日は中止になり大きなチャンスを逸してしまう。

また、デヴィッド・ボウイもフラワー・トラベリン・バンドを高く評価しており、活動の拠点をニューヨークに移すことを強く勧めていたと言われるが、既にバンドの解散が決まっていたので立ち消えとなった。

2月25日、4thアルバム『Make Up』を発売。ここからタイトル・ナンバー“Make Up”をシングル・カットした。

 

 

4月の京都公演を最後にフラワー・トラベリン・バンドは解散。

以後、山中はソロ歌手に転じる。

 

 

1974年、1stソロ・アルバム『Joe』をワーナー・パイオニアのATLANTIC レーベルからリリース。

 

 

1975年8月、内田裕也が主催した「第1回ワールド・ロック・フェスティバル」に、フェリックス・パパラルディ(元マウンテン)のグループの一員として出演、トリではジェフ・ベックとセッションも行った。

11月、2ndソロ・アルバム『新しい世界へ To The New World』を発売。

 

 

1977年、日立のテレビのCMソングにフラワー・トラベリン・バンドの曲が採用され再び注目が集まった。

8月10日、1stソロ・シングル“人間の証明のテーマ”(作詞:西條八十/英訳詞:角川春樹/作・編曲:大野雄二)が発売。映画『人間の証明』主題歌。

 

同日、長崎県佐世保署に大麻取締法違反容疑で逮捕される。

10月8日、映画『人間の証明』に俳優として出演、「ジョニー・ヘイワード」役を演じた。主題歌“人間の証明のテーマ”“人間の証明のテーマ”は山中の逮捕によりラジオでのオンエアが自粛されたが、映画のテレビCM曲として頻繁に流され、注目を集める。オリコンチャートでは最高2位、約51.7万のヒットで、累計売上はミリオンセラーに達した。

同年、2ndソロ・シングル“新しい世界へ TO THE NEW WORLD”(作詞・曲:ジョー山中/編曲:篠原信彦)を発売。

 

 

1978年5月、帰国記念盤『JOE/ジョー山中』を発売、同名のファーストアルバムとは一部の曲、A-5“人間の証明のテーマ”、B-4“心の扉”が異なる。

 

 

1979年、映画『戦国自衛隊』サウンドトラック制作に参加、挿入曲“もうなくすものはない”(作詞・曲:ジョー山中/編曲:チト河内)、“GOIN' HOME”(作詞・曲:ジョー山中)を作詞・作曲、シングル・カットされたエンディング・テーマ“ララバイ・オブ・ユー”(作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童/編曲:チト河内)を含めた3曲を山中が歌唱した。

 

 

 

同年、ソロ・アルバム『GOIN' HOME』を発売。

11月、3rdソロ・シングルとして“ララバイ・オブ・ユー”を発売。

 

 

1980年7月5日公開の日本映画『戒厳令の夜』で音楽監督を務め、主題歌“悲しみのフローレンス”(作詞:ソニア・ローザ/作曲:ジョー山中/訳詞・歌唱:アマリア・ロドリゲス)も手掛けた。

 

同年、ロックミュージカル『'80 ハムレット』に主演。
 

 

1981年、劇場版アニメ『あしたのジョー2』で「カーロス・リベラ」の声優を務めた他、主題歌“あしたのジョー2のテーマ〜明日への叫び〜”(作詞・曲:ジョー山中/編曲:チト河内)と挿入歌“青春の終章(ピリオド)〜JOE…FOREVER〜”(作詞・曲:ジョー山中/編曲:チト河内)を歌唱。

 

 

同年、アルバム『魂』をORANGE HOUSE RECORDSから発売。

 

 

1982年、ウェイラーズ・バンドとアルバム『レゲエ・バイブレーション1』を発表。ここからは“カリビアン・ラブ・ソング CARIBBEAN LOVE SONG”/“レゲエ・ヴァイブレーション REGGAE VIBRATION”(ともに作詞・曲:ジョー山中/編曲:ジョー山中& ザ・ウェイラーズ)を発売。

 

 

 

1983年、アルバム『レゲエ・バイブレーション2』をリリース。

 

 

 

1984年6月21日、アルバム『レゲエ・バイブレーション3』を発表し、レゲエミュージシャンとしても高い評価を得る。
 

 

1989年、映画『座頭市』の敵方用心棒「車助左衛門」役として出演。主題歌“The Loner”を「JOHNNY」名義で歌唱。

 

 

1990年、ハリウッド映画『オリテリア・モーティブス』に出演。

この頃からチャリティーやボランティアへの参加も活発になり、アジア・アフリカなど各国を訪問。その活動はライフワークとして終生続けられた。

 

 

1991年5月25日、ソロ・アルバム『LOVE IS AN ART』をSOHBI Corporationからリリース。

 

 

1992年7月25日、ソロ・シングル“東京ナイト Tokyo Night”(作詞・曲:シミズヤスオ)を発売。

 

 

2001年3月、ソロ・アルバム『W's』をリリース。

 

6月、自伝『証 Akashi 永遠のシャウト』を上梓。
 

 

2006年2月、クニ河内、金子マリとともにコラボ・アルバム『Mr. Rally - stupid philosopher ミスターラリー頓間な哲学者』発売。クニ河内とは『切狂言』以来36年ぶりとなるコラボとなった。
 

 

2007年、イギリスのミュージシャンであるジュリアン・コープ (en) が、日本のロック史の研究書『ジャップロックサンプラー』を執筆。本書でもフラワー・トラベリン・バンドは、日本のロックンロール・バンドの最高峰として位置づけられている。

11月25日付けで、オリジナル・メンバーによるフラワー・トラベリン・バンドの再始動が山中の公式サイト上で発表された。

 

 

2008年、フラワー・トラベリン・バンドが再結成、これに伴い篠原信彦が改めて正式メンバーとして迎えられている。

同年、フジ・ロック・フェスティバル08に参加。

9月、カナダのトロントでレコーディングを敢行した再始動後初のアルバム『We are here』を発売、併せて全国7か所でアルバムのプロモーション・ツアーを開催。日比谷野外音楽堂でのライヴの模様はDVDでリリースされた。

海外では現在でも評価が高く、同年11月にニューヨーク公演、12月にカナダ公演を開催した。

 

 

2009年8月、ジャマイカ録音のソロ・アルバム『レゲエ・バイブレーション-4-Going Back To Jamaica』を発売。

 

 

2010年2月、肺癌が見つかる。俳優の樹木希林から紹介された鹿児島県内の病院で定期的に抗がん剤投与や放射線治療を受療、その後自宅で療養。

9月6日、神奈川県鎌倉市の自宅が火事になり、全焼した。
 

 

2011年3月に発生した東日本大震災の募金活動に参加。

5月、チャリティーライヴを実施。
7月下旬、心肺停止状態に陥る。

 

 

 

 

2011年8月7日午前6時56分、ジョー山中こと山中明が肺癌のため神奈川県横須賀市の病院で死去。64歳没。

自身はクリスチャンではなかったが、クリスチャンである妻の希望により葬儀・告別式はキリスト教式(11日・キリスト品川教会)で営まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジョー 山中」「フラワー・トラベリン・バンド」