メンフィス・スリム(Memphis Slim/出生名:John Len Chatman/1915年9月3日~1988年2月24日)は、アメリカ合衆国のブルーズのピアニスト、歌手、作曲家。

 

 

 

1915年9月3日、ジョン・レン・チャットマンは、テネシー州メンフィスで生まれた。

 


1930年代の大半を、ウェスト・メンフィス、アーカンソー州、ミズーリ州南東部に所在するホンキートンク(Honky-tonk/主にカントリー音楽を提供するバー)、ダンスホール、賭博場で演奏した。

 

 

1939年にシカゴに定住し、その後すぐにクラブでギタリスト兼歌手のビッグ・ビル・ブルーンジー(Big Bill Broonzy)とチームを組み始めた。

 

 

1940年にオケー・レコードで録音した最初の曲では、父親のピーター・チャットマン(歌手、ピアノ、ギター演奏者、酒場経営者)の名前を使用した。父親を称えるためにそうしたと一般に考えられている。

同年後半に「メンフィス・スリム」(Memphis Slim)という名前で演奏を始めたが、ピーター・チャットマンという名前で曲を発表し続けた。メンフィス・スリムの名前はブルーバード・レコード(Bluebird Records)のプロデューサー、レスター・メルローズによって与えられた。

1940・41年、彼はブルーバードで2曲を録音した。これらは数十年にわたり彼のレパートリーとなった "Beer Drinking Woman" と"Grinder Man Blues"であった。

 

 

スリムはブルーバードの常連セッションミュージシャンになり、彼のピアノの才能はジョンリー「サニーボーイ」ウィリアムソン、ウォッシュボードサム、ジャズギラムなどの有名スターをサポートした。

 

 

1940年代半ばまでのスリムの録音と演奏の多くはブルーンジーと一緒であった。ブルーンジーは、1940年に伴奏者のジョシュア・アルトハイマーが亡くなった後、スリムをピアノ奏者として採用した。


1945年、第二次世界大戦後、スリムはジャンプ・ブルーズの人気を反映して、サックス、ベース、ドラム、ピアノを含むバンドを率いるようになった。

メジャー・レーベルによるブルーズの録音が衰退する中、スリムは台頭してきたインディーズ系レーベルで活動した。

同年後半から、シカゴを拠点とする小さなハイトーン・レコード(Hy-Tone Records)でトリオを組んで録音を始めた。

 

 

1946年秋、アルトサックス、テナーサックス、ピアノ、弦楽器のベース(最初のセッションではウィリー・ディクソンがベースを演奏)という編成で、ミラクル・レーベルと契約した。

最初のセッションで録音された曲の1つは陽気なブギー"Rockin' the House"で、同曲から彼のバンド「ハウス・ロッカーズ」(the House Rockers)の名前が付けられた。

 

 

1947年、民俗学者のアラン・ロマックス(Alan Lomax)によるプロデュースで、ニューヨーク市のタウン・ホールにてスリム、ブルーンジー、ウィリアムソンによるコンサートを開催。その翌日、ロマックスは3人のミュージシャンをデッカ・レコード・スタジオに招き、スリムのヴォーカルとピアノでレコーディングを行った。

同年に初めて録音した曲“Every Day I Have the Blues”は、元々“Nobody Loves Me”というタイトルであった。後にスリム自身も再録音し、“Every Day I Have the Blues”として有名になった本曲は1950年にローウェル・フルソンによって録音され、その後もB.B.キング、エルモア・ジェイムス、Tボーン・ウォーカー、レイ・チャールズ、エリック・クラプトン、ナタリー・コール、エラ・フィッツジェラルド、ジミ・ヘンドリックス、マヘリア・ジャクソン、サラ・ヴォーン、カルロス・サンタナ、ジョン・メイヤー、ルー・ロウルズなど、ブルーズやR&B、ジャズ、ロックなど幅広いジャンルを代表する錚々たる顔ぶれのアーティスト達によってレコーディングされた。1952年、ジョー・ウィリアムズはチェッカー・レコードで“Every Day I Have the Blues”を録音した。1956年のリメイク(アルバム『Count Basie Swings, Joe Williams Sings』に収録)は1992年にグラミーの殿堂入りを果たした。

 

 

1948年、"Messin' Around" が『ビルボード』誌のR&Bチャートで1位を獲得した。

 

 

1949年までに、スリムとハウス・ロッカーズは主にミラクルで録音し、ある程度の商業的成功を収めた。ミラクルで録音した曲の中には、"Messin' Around"や"Harlem Bound"が代表的である。この他、シングル・リリースした"Frisco Bay"がR&B11位、またA面の"Blue and Lonesome"がR&B2位、B面の"Help Me Some"がR&B9位を獲得、"Angel Child"はR&B6位に到達。 

 

 

 

 

 

同年、スリムはドラマーを追加してコンボを5人組に拡大した。グループはほとんどの時間をツアーに費やし、シンシナティのキング レコードとヒューストンのピーコック レコードで契約外のレコーディング・セッションを行うようになった。

 

 

1950年初頭、ロマックスは1947年のレコーディングの一部をドキュメンタリー『The Art of the Negro』として BBCラジオで発表し、後に拡張版を LP『Blues in the Mississippi Night』としてリリースした。

同年初頭、ミラクルは財政難に陥ったが、オーナーらは再編してプレミアム・レコード(Premium Records)を設立し、スリムは後継会社が1951年夏に破綻するまでその地位に留まった。

 

 

1951年2月、プレミアムでのセッションでは、ハウス・ロッカーズのラインナップに 2 つの変更があった。スリムはアルトとテナーの組み合わせではなく、2 つのテナー サックスを使い始め、ギタリストのアイク・パーキンスを加えることを試みた。

プレミアムでの最後のセッションでは、2つのテナーのラインナップは維持されたが、ギターは使用しなかった。

同年、プレミアム在籍中、スリムは初めて "Mother Earth"を録音、R&Bチャートで7位に達した。

 

スリムはキングのために 1 回のセッションを行っただけだったが、同社は 1948 年に彼のハイトーン・サイドを購入し、1950年に同社が破綻した後、彼のミラクル・マスターを入手した。彼はチェスのアーティストではなかったが、プレミアムの消滅後、レナード・チェスがプレミアム・マスターのほとんどを購入した。
 

マーキュリー・レコードでは1年過ごした。

 

 

1953年、スリムはシカゴのユナイテッド・レコードと契約した。A&Rのルー・シンプキンスは、ミラクルやプレミアムで彼を知った。ちょうどギタリストのマット・ギター・マーフィー(Matt "Guitar" Murphy)をグループに加えたばかりだったので、タイミングは良かった。

同年、"The Come Back"がR&B3位をマークした。

 

 

1954年末、ユナイテッドはブルーズのレコーディングを減らし始めたため、スリムはこことの契約を終えた。

 

 

1955年以降、スリムはしばらくレコード会社と安定した関係を築けない時期が続いた。

 

 

1958年、スリムはようやくヴィージェイ・レコード(Vee-Jay Records)と契約することができた。

 

 

1959年、スリムのバンドは、引き続きマーフィーをフィーチャーし、アルバム『Memphis Slim at the Gate of Horn』をレコーディングした。このアルバムには、"Mother Earth"、"Gotta Find My Baby"、"Rockin' the Blues"、"Steppin' Out"、そして"Slim's Blues"など、彼の最もよく知られた曲が並んでいた。

 

 

 

 

12月、ウィリー・ディクソン(Willie Dixon)のデビュー・アルバム『ウィリーズ・ブルース』(Willie's Blues)がリリースされた。本アルバムでスリムは、ディクソンのピアノ伴奏者としてほぼ同等のクレジットを与えられた。スリムはすべてのトラックで演奏し、ディクソンが作曲していない2曲、"Slim's Thing"と"Go Easy"を作曲した。

 

 



1960年、スリムは初めて米国外で演奏し、ウィリー・ディクソンとツアーを行った。

 

 

1961年、Bluesville/OBCから2枚のアルバム、『Just Blues』と『No Strain』をリリースした。

 

 

1962年、スリムはディクソンとともに欧州に戻り、ディクソンが主催した「アメリカン・フォーク・フェスティバル」(American Folk Festival)コンサート・シリーズ第一弾の注目アーティストとなった。このコンサート・シリーズは1960年代と1970年代に多くの著名なブルーズ・アーティストを欧州に紹介する役割を果たした。

 

同年、スリムとディクソンはフォークウェイズ・レコード(Folkways Records)から『Memphis Slim and Willie Dixon at the Village Gate with Pete Seeger』をリリースした。デュオは他にも数枚のレコードを残している。

 

同年、スリムはパリに永住し、魅力的な性格と、ブルーズの演奏、歌、物語の巧みな表現により、30年近くにわたり最も著名なブルーズ・アーティストの1人としての地位を確立した。

同年、アルバム『All Kinds of Blues』をBluesville/OBCからリリース。

 

 

この頃より、パリに居を構えたスリムはヨーロッパの多くの国でテレビに出演し、フランス映画数本に出演した。

 

 

1963年、アルバム『Alone with My Friends』をBattleからリリース。

 

 

1967年、アルバム『Legend of the Blues Vol. 1』がJubileeからリリース。

 

 

1970年、スリムはフランス映画『À nous deux France』の音楽を書き、パリをはじめとするヨーロッパ各地、そして米国への再訪時に定期的に演奏した。

 

 

1973年、アルバム『The Legacy of the Blues Vol. 7』をSonetからリリース。

 

 

晩年、スリムは尊敬を集めるジャズ・ドラマーのジョージ・コリアー(George Collier)と組んだ。2人はヨーロッパを一緒にツアーし、友人になった。

 

 

スリムは亡くなる2年前に、フランス共和国文化省から芸術文化勲章の司令官に任命された。さらに、米国上院はスリムに親善大使の称号を与えた。

 


1987年8月に盟友コリアーが亡くなった後、スリムは公の場にほとんど姿を現さなかった。

同年、テキサス州オースティンのアントネスでマット・ギター・マーフィーと再会して演奏した。
彼は生涯で500曲以上を録音した。




1988年2月24日、メンフィス・スリムは腎不全のためフランスのパリで亡くなった。72歳没。

彼は没後、生まれ故郷であるテネシー州メンフィスに戻り、ガリリー・メモリアル・ガーデンに埋葬された。



 

1989年、スリムは死後、ブルーズの殿堂入りを果たした。

 

 

2015年、スリムはメンフィス音楽の殿堂入りを果たした。




 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「Memphis Slim」

 

 

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