キース・リチャーズ(Keith Richards/別名:Keith Richard/1943年12月18日~)は、英国のロック・ミュージシャン、ギタリスト。ローリング・ストーンズの創設メンバーでギタリスト。

 

 

 

1943年12月18日、キース・リチャーズは英国イングランドのケント州ダートフォード(Dartford, Kent)で生まれる。労働者階級出身。

13歳の時、母親からギターをプレゼントされ、以後ギターに熱中する。

ダートフォード・テクニカル・スクールに入学するが、放校となる。

 

1960年、シドカップ・アート・スクール在学中に幼少時から知り合いだったミック・ジャガーに再会。しかし、それまでも互いに話すことはなく、見かける程度であったという。キースのインタビューによると、ダートフォード駅にいたミックと再会した際、彼がマディ・ウォーターズとチャック・ベリーのレコードを持っていたため声をかけたという。彼らは互いにロックンロールやR&Bに興味があることを知り、バンドを結成する。こうしてミックとともに「当時面白いことが起きつつあるって思っていた」というキースはロンドンに移り住んだ。

 

 

1962年、ブライアン・ジョーンズと出会う。

同年半ば、キースは音楽に専念するためにアート・スクールを退学し、ミックとブライアンとともにロンドンの外れのエディス・グローヴにて3人で暮らすようになる。

同年、3人はブルーズやR&Bのコピー・バンドを始動、マディ・ウォーターズの曲“Rollin' Stone”から「ザ・ローリング・ストーンズ」(The Rollin' Stones)と命名。やがてビル・ワイマン(B)、チャーリー・ワッツ(Ds)を加える。

7月12日、ストーンズはロンドンのマーキー・クラブ(Marquee Club)にて最初のギグを行った。

 

 

1963年5月、ビートルズの広報担当であったアンドリュー・ルーグ・オールダムがバンドのマネージャーに就任。彼はバンドを売り出すため、様々な改変を行った。まず、ブライアンやミックなど中産階級出身メンバーが多いバンドを不良スタイルで売り出すアイデアを考案。さらに、バンド名の綴りを「The Rolling Stones」に変え、キースのファミリー・ネームを複数形の「リチャーズ」(Richards)から単数形の「リチャード」(Richard)へ変更したのもオールダムの考えによるものである。キースのファミリー・ネームの変更は、リトル・リチャード(Little Richard)やクリフ・リチャード(Cliff Richard)と同じくすることで「よりポップスターらしく」するためだったという。さらにイアン・スチュワートがオールダムの構想に合わずメンバーから除外、ロードマネージャーとなり、1985年に死ぬまでバンドのピアニストを担当した。

同年、デッカ・レコードと契約。

6月7日、チャック・ベリー(Chuck Berry)をカヴァーしたシングル“カム・オン” (Come On)をリリースして、ローリング・ストーンズはデビュー。本曲での演奏をはじめ、初期のキースのギター演奏はチャック・ベリーの影響が色濃いものだった。

 

 

1964年6月、シングル"Tell Me"をリリース。アンドリューの方針で、キースはミックとともにオリジナル曲の作曲を開始。ロック史に残るソングライティングチーム「ジャガー/リチャード」(Jagger–Richard)の誕生である。やがてこのコンビはヒット曲を連発し、キースはミックと並ぶストーンズの顔となる。本曲は、このコンビが作曲した楽曲をリリースした初めてのシングルで、全米24位を記録した。

 

 

1965年2月、シングル"The Last Time"をリリース、全英1位・全米9位をマーク。それまで1964年6月"It's All Over Now"、1964年11月"Little Red Rooster"と、カヴァー曲では全英1位を獲得していたが、本曲でオリジナル曲として初めて全英ナンバー1に輝いた。

 

6月、シングル"サティスファクション"([I Can't Get No] Satisfaction)をリリース、全英1位・全米1位と初の全米ナンバー1を獲得、バンドにとっての初の世界的ナンバー1ヒットとなった。

 

 

1966年4月(米国は6月)にリリースした『アフターマス』(Aftermath)は、ストーンズにとって全曲オリジナルとなった初のアルバムで、全英1位・全米2位を記録。本アルバムでブライアンはギターとハーモニカばかりでなく多くの貢献を果たした。中東からの影響を色濃くした“黒くぬれ!” (Paint It, Black)ではシタールを演奏し、バラードの“レディ・ジェーン”ではダルシマーを演奏した。また、“アンダー・マイ・サム”ではマリンバを演奏し、12分にも及ぶ“ゴーイン・ホーム”はトップセラーのロックアルバムに収録された初のジャムセッションとして注目された。

 

 

1967年に初めてドラッグの家宅捜査を受けて、検挙されてから約10年間、ドラッグによるトラブルが絶えなかったが、この家宅捜査についてはいくつかの疑問が残されていて、キース自身も「記憶にないヘロインが自分の家から出てきたんだ」と発言していて、これについてはMI5やFBIの仕組んだものだともいわれている。(しかしドラッグ中毒は悪化すると麻薬を購入したことや、それを保管した場所だけでなく、使用したことすらも完全に忘れてしまう症状も出ることがある)。

この頃、薬物を原因とした極度の体調不良によりブライアンの影響力が低下、またツアーの予定も立たなくなったため、この時間を利用してキースは戦前ブルーズを研究、当時のブルーズマンのギター奏法の特徴のひとつオープン・チューニングを自身のギターに採り入れていった。

12月、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』発売直後に、『サタニック・マジェスティーズ』(Their Satanic Majesties Request)をリリース、全英3位・全米2位。『サタニック・マジェスティーズ』はミック、キース、ブライアンが訴訟問題を抱えるという難しい状況の下でレコーディングを敢行。このセッション中にバンドはプロデューサーのアンドリュー・オールダムと袂を分かった。以前からのミックとの主導権争いに加え、ドラッグにまつわるトラブルから嫌気が差したオールダムとは、少なくとも公的には友好的であったが、バンドと彼の関係は緊張状態が続いた。

 

 

1968年前半の数ヶ月間、次のアルバムの素材に取り組んだ。

5月24日、シングル“ジャンピン・ジャック・フラッシュ”(Jumpin' Jack Flash)を発売、全英1位・全米3位をはじめ各国でチャート上位を記録、キースがオープン・チューニングを初めて本格的に取り入れた本曲は、バンドを代表するナンバーとなった。

 

12月6日、全英3位・全米5位になったアルバム『ベガーズ・バンケット』(Beggars Banquet)をリリース。“ジャンピン・ジャック・フラッシュ”と本アルバムは、カントリーソングとブルーズからインスパイアされた曲を網羅し、バンドのルーツへの回帰を示し、プロデューサーのジミー・ミラーとのコラボレーションの始まりとなった。また、キースが採り入れたオープン・チューニングが生み出すリフが生かされたのもこれらの作品の特徴であった。

 

 

1969年6月8日、初期のリーダー格だったブライアン・ジョーンズが脱退。

7月3日、ブライアンが死去。

これ伴いミックとともにキースのバンドにおける存在感は決定的に増すこととなる。

同年、ブライアンの後任となる新ギタリストはジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ出身のミック・テイラーに決定した。

7月、シングル"Honky Tonk Women"をリリース、全英1位・全米1位。

 

12月、『レット・イット・ブリード』(Let It Bleed)を発表、全英1位・全米3位を記録した。60年代の最後のアルバムである本作には“ギミー・シェルター”を収録。この曲では女性ヴォーカリストとしてメリー・クレイトン(リトル・フィートのメンバーであるサム・クレイトンの姉)が起用され、有名なソロ部分を歌っている。“無情の世界”(You Can't Always Get What You Want)にはロンドン・バッハ合唱団がコーラスで参加したが、他の収録曲の内容から「恐れ」たためクレジットの削除を要求、その後この要求を撤回した。他には、“ミッドナイト・ランブラー”(Midnight Rambler)、ロバート・ジョンソンのカヴァー“むなしき愛”(Love in Vain)が含まれた。レコーディング途中で脱退したブライアンと、その後に加入したテイラーはそれぞれ2曲に参加している。

 

 

この時期、本アルバムのセッションに参加したライ・クーダーのスライド・ギター奏法に強く影響を受けたキースは、後にトレード・マークとまで言われる「オープンGチューニング」を取り入れている。

 

 

1970年、バンドはアラン・クレインおよびデッカ・レコードとの契約を終了した。クレインとの契約紛争の間に、バンドは自らのレーベル、「ローリング・ストーンズ・レコード」 (Promotone BV) を設立した。

 

 

1971年3月、同レーベルからの第一弾として『スティッキー・フィンガーズ』(Sticky Fingers)を発表、全英1位・全米1位を記録。ジャケットのアートワークはアンディ・ウォーホルが手掛けた。1969年の全米ツアー中に米国アラバマ州で録音し全英2位・全米1位になった“ブラウン・シュガー”(Brown Sugar)、“ワイルド・ホース”(Wild Horses)を収めた本アルバムは、ブルーズの影響を強く受けた前2作の路線を継承。ミック・テイラーが完全参加した初のアルバムでもあった。テイラーの加入によりキースは技術的に優れた彼にリード・ギターを譲り、自身はリズムに徹するようになる。

 

 

キースが「史上最高のリズム・ギタリスト」の異名を取るようになるのはこの頃からで、テイラー在籍時の1970年代初頭には完全に自身のギタースタイルを確立する。

 

 

1972年、フランスのニース治安裁判所から交友関係のあった女優アニタ・バレンバーグとともに麻薬使用に対する逮捕状が出される。

5月、LP2枚組アルバム『メイン・ストリートのならず者』(Exile on Main St.)をリリース、全英1位・全米1位をマークした。ここから、“ダイスをころがせ”(Tumbling Dice)が全英5位・全米7位、キースがリード・ヴォーカルを取る“ハッピー”(Happy)が全米22位になった。“ハッピー”はその後ライヴにおいて頻度高く演奏されている。同アルバムのレコーディング時、キースは9日間一睡もしなかった時があったという。「眠らない男」としても知られるキースのこのエピソードについて本人は、スタジオで仕事をし続けていたら思ったよりも時間が経っていたという程度の認識しか持っておらず、まさか一週間以上も経過していたとは思わなかったという。

 

 

 

1973年、新作アルバムのレコーディングはドラッグに関する別の法廷闘争で中断された。それはフランス滞在当時までさかのぼり、キースの逮捕令状も発行され、他のメンバーは証言のためフランスに戻らなければならなかった。これと平行してミックのドラッグに関する裁判(1967年および70年)が行われ、73年初めに予定されていたパシフィック・ツアーの計画を複雑な物とした。日本公演は前年に発表されていたが、メンバーの麻薬所持による逮捕歴や、ビートルズ来日の時のような混乱を避けるためという理由により、入国許可が下りず、チケットが完売していたにもかかわらず、公演が直前になって中止になった。

同年、『山羊の頭のスープ』(Goats Head Soup)をリリース、全英1位・全米1位。シングル“悲しみのアンジー”(Angie)は世界的なヒットとなり商業的には成功したが、生ぬるく容認された最初のアルバムであった。本作のセッションでは数多くのアウトテイクが生じ、例えば“友を待つ”(Waiting on a Friend)の初期バージョンも録音されていた。

 

 

1974年、アルバム『イッツ・オンリー・ロックンロール』(It's Only Rock'n Roll)をリリース、全英2位・全米1位、ジミー・ミラーは麻薬の問題もありプロデューサーを降り、代わってミックとキースが「グリマー・ツインズ」名義でプロデュースした。タイトルナンバー“イッツ・オンリー・ロックンロール”は名義こそジャガー/リチャーズになっているものの、実際にはロン・ウッドが作曲し、ミックが詞をつける形で完成された。これは、同曲が元々ロン・ウッドがソロアルバムのレコーディングのために曲を作っていたため。「たかがロックンロール、でも俺はそれが好きなんだ」という歌詞は、ロン・ウッドの自宅にきて酒を飲み交わしていた際にミックとフェイセズのメンバーのケニー・ジョーンズとの口論から生まれたという。これが理由かは定かではないが、同曲のヴォーカルはミックとケニーの二人がとっている。これは結果的に、後のメンバー昇格する要因の一つだったと思われる(ジャガー/リチャーズ/ウッドという共同名義で作曲をしているものがある)。

 

同年末、ミュンヘンでのセッションの間にテイラーがストーンズを脱退した。

 

 

1975年、テイラーの後任ギタリストを探すため、ミュンヘンで後に「グレイト・ギタリスト・ハント」と呼ばれるオーディションを実施。このセッションに招待されたのは、後にメンバーとなるロン・ウッドの他、ハンブル・パイのリード・ギタリストであったピーター・フランプトン、ジェフ・ベック、ロリー・ギャラガー、ウエイン・パーキンス、ハービィ・マンデルなどがいた。ジェフとロリーは当初、オーディションだったことを知らなかったと語っている。また、彼らは決して加入に同意しなかったろうとも語っている。パーキンスとマンデルのプレイは、『ブラック・アンド・ブルー』に収録。だがキースとミックは、ストーンズを純粋なブリティッシュバンドのままにしておきたかった。ロンがオーディションを受けると、満場一致で決まった。

同年、ロンを加えて北米ツアーを催行、この時の模様はライヴ・アルバム『ラヴ・ユー・ライヴ』(Love You Live)に収録、アルバムは全英3位・全米5位を記録した。

 

 

1976年3月、ロンのストーンズへの正式加入が発表、同時にツアーも告知された。

4月、前年のメンバーのままヨーロッパ・ツアーを行うと同時に、ロン正式加入後初のアルバム『ブラック・アンド・ブルー』(Black And Blue)をリリース、全英2位・全米1位を記録。アルバムからは“愚か者の涙”(Fool To Cry)がシングルカットされ、全英6位・全米10位につけるヒットとなった。リズムに徹したテイラー在籍時に比べ、自身と似たギタースタイルのロンと、どちらがリードで、どちらがリズムとも言えない独特の絡みを聴かせている。

 

 

1977年2月、トロントで麻薬売買の容疑で逮捕されてからキースは、本格的にドラッグ中毒の治療に乗り出し、ついにはクリーンアップに成功する。

 

1978年、アルバム『女たち』(Some Girls)をリリース、全英2位・全米1位をマークした。全英3位・袁米1位になった“ミス・ユー”(Miss You)をはじめ、“ファーラウェイ・アイズ”、“ビースト・オブ・バーデン”、“シャッタード”をシングルカット。これらはパンク・ムーブメントでの批判に対する返答とされ、大半がテンポの速い単純なギタードライヴのロックンロールであった。本アルバムの成功は若年層の人気回復に貢献した。

 

12月、キースはソロ名義でシングル“ハーダー・ゼイ・カム/ラン・ルドルフ・ラン”(前者The Harder They Comeはジミー・クリフの、後者Run Rudolph Runはチャック・ベリーの、それぞれカヴァー)をリリースしている。

 

 

キースはバンド、ソロともに活発かつ健全に活動し、ドラッグから立ち直った。

この頃、デビュー以来使っていた姓の綴り「Richard」を生来の「Richards」に戻す。これに伴いソングライティングチームの綴りも「Jagger–Richards」とした。

 

 

1979年4月、キースは裁判所の命令に従ってチャリティ・コンサートをオシャワ・ホールで開く。公演を行ったバンド「ニュー・バーバリアンズ」はよくキースがリーダーだと誤解されているが、実際はロンであり、メディアがこぞってキースに注目したためと思われる。バーバリアンズは、5月いっぱいまで全米ツアーを行った。メンバーはロン(Vo,G)、キース(G,Vo)、イアン・マクレガン(Key,Pf)、スタンリー・クラーク(B)、ジョセフ・モデリステ(Ds)、ボビー・キーズ(Sax)。

 

 

1980年6月23日、アルバム『エモーショナル・レスキュー』(Emotional Rescue)を発表し、全英1位・全米1位を記録。アルバムはヒットしたが、レコーディングではミックとキースの関係が悪化したことと、音楽的スランプのため、混乱に陥ったとされている。

 

 

1981年初めにバンドは再結集し、同年に全米ツアーを行うことを決定。僅か半年程でアルバムを作成し、ツアーのリハーサルを行った。

8月14日、“スタート・ミー・アップ”(Start Me Up)を先行リリース、ミックに「80年代の代表曲」といわしめた本楽曲は全米2位、『ビルボード』誌の同年間チャート22位を記録した。

 

8月24日、『刺青の男』(Tatoo You)をリリースすると全英2位・全米1位に達し、全米13位になった“友を待つ”(Waiting on a Friend)と“トップス”ではミック・テイラーがギターを演奏し、“奴隷”(Slave)と“友を待つ”ではソニー・ロリンズがサックスをプレイした。また、“ハング・ファイヤー”も全米20位を記録した。“友を待つ”のシングルB面に収録された“リトルT&A”(Little T&A)はキースがリード・ヴォーカルを取っており、これ以降ライヴで“ハッピー”とともに頻繁に演奏された。

 

 

 

1983年11月7日、アルバム『アンダーカヴァー』(Undercover)をリリース、全英3位・全米4位に達した。ここからは"Undercover of the Night"が全英11位・全米9位をマークした。

 

アルバムのリリース後、ミックが本格的にソロ活動を行い始めたことが一因となり、キースとミックの緊張関係が表面化。キースにとってはストーンズが活動の中心であったため、こうしたミックのソロ活動に我慢ができなくなっていった。

 

 

1985年12月12日、バンドの共同設立者でありキーボードを担当していたイアン・スチュアートが心臓発作により死去。47歳没。メンバーたちの仲を取り持っていたスチュワートの死去で軋轢が激化し、80年代半ば、ストーンズは解散の危機を迎えた。

 

 

1986年3月24日、アルバム『ダーティ・ワーク』(Dirty Work)を発表、全英4位・全米4位。米国のソウル・デュオ、ボブ&アールのカヴァー“ハーレム・シャッフル” (Harlem Shuffle)を収録した本作品は、ほぼ全編に渡りキース主導の下制作されたことから「キースのアルバム」と呼ばれることもある。同作品の最後には、キースのアイディアで前年12月に亡くなったスチュワートへの追悼の意味も込めて彼の弾く“キー・トゥ・ハイウェイ”が隠しトラックとして収められている。

 

 

同年、この頃、キースは敬愛するチャック・ベリーの還暦を祝い、影響を与えたことに対する感謝の意味を込めてチャックのドキュメンタリー映画を製作。キース自身がプロデューサーとなり、長年のノウハウを用いてチャックのバックも努めている。本映画は『ヘイル!ヘイル!ロックンロール』(Hail! Hail! Rock 'n' Roll)として同年に公開、翌1987年のナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 ドキュメンタリー映画賞に見事輝いている。この映画によるセッションがきっかけで、ついにキースはこのバンドで組んだドラマー、スティーヴ・ジョーダンとともにソロ・プロジェクトを立ち上げた。これはメンバー中、もっとも遅い本格的なソロ活動となった。

 

 

1988年10月3日、キース・リチャーズ&エクスペンシヴ・ワイノーズ(The X-Pensive Winos)としてアルバム『トーク・イズ・チープ』(Talk Is Cheap)を発表、数少ないながらもツアーも行っている。アルバムはキースのリーダー作という雰囲気が全編に渡って感じられる仕上がりとなっているが、プロデュースの名義にはジョーダンの名も併記。ジョーダンは後に、「キースが曲から歌詞まで全部やると思ってたのに、アイディアを求められたんだ」と発言している。ちなみに、エクスペンシヴ・ワイノーズとは「飲んだくれ」という意味で、レコーディング中に高級な酒ばかりを飲んでいたことに由来し、キースらしいジョーク混じりの意味に転じたもの。

 

 

 

1989年前半、ローリング・ストーンズはロックの殿堂入りした。

同年、ロン・ウッドによる提案で、キースはミックと対面しリラックスムードの中ストーンズの活動について話し合う機会を得た。そこでは自然と新たな曲作りが行われ始め、一気にレコーディングという流れになっていったという。

8月29日、新作『スティール・ホイールズ』(Steel Wheels)を発売、同時に日本公演を含む大規模なワールド・ツアーを行うことも発表された。アルバムは全英3位・全米2位をマーク。この中には、日本での初公演も含まれていた。

 

こうして無事にツアーを終了させたキースは、再び自身のバンドであるエクスペンシヴ・ワイノーズを開始させる。

 

 

1991年、ソロ・ライヴ・アルバム『ライヴ・アット・ザ・パラディアム'88』(Live at the Hollywood Palladium)をリリース。

 

 

1992年10月19日、キースはソロ・アルバム『メイン・オフェンダー〜主犯〜』(Main Offender)を発表。本アルバムを引っさげワイノーズは一部の欧州と南米地域だけでツアーを実施。

 

 

ワイノーズの活動と前後して、ビル・ワイマンがストーンズを脱退。このためキースは新たにバンドのベーシストのオーディションを実施。この結果、ダリル・ジョーンズがストーンズの新しいベーシストに決定したが、正式なメンバーではなくサポート・メンバーとしての採用だった。

同時にそのまま新曲のレコーディングが決まった。

 

 

1993年1月、ビル・ワイマンの脱退を公式に発表。

ストーンズはヴァージン・レコードと契約。

 

 

1994年7月11日、アルバム『ヴードゥー・ラウンジ』(Voodoo Lounge)を発売、全英1位・全米2位をマークした。ここからは、"Love Is Strong"が全英14位・91位、 "Out of Tears"が全英36位・全米60位をマーク。前回同様、大規模なツアーを催行。以降キースは、ストーンズとして活動を行うためにソロ・プロジェクトを封印。21世紀を迎えた現在、幾多の困難を乗り切り自身70歳を過ぎたにも関わらず、ローリング・ストーンズを「世界最高のロックバンド」として牽引し続けている。

 

 

 

1997年9月29日、アルバム『ブリッジズ・トゥ・バビロン』(Bridges to Babylon)をリリース、全英6位・全米3位をマークしたが、賛否両論の評価を得た。シングルカットされ全英22位になった“エニバディ・シーン・マイ・ベイビー?”(Anybody Seen My Baby?)のプロモーション・ビデオにはアンジェリーナ・ジョリーがゲスト出演し、MTVとVH1で何度も放送された。

 

11月にリリースされたB.B.キングのアルバム『デューシズ・ワイルド』に収録された「ペイング・ザ・コスト・トゥ・ビー・ザ・ボス」のレコーディングには、ストーンズのメンバー全4人とサポート・メンバーのダリル・ジョーンズが参加した。

 

 

2002年、バンドは結成40周年を記念した2枚組のベスト・アルバム『フォーティ・リックス』(Forty Licks)をリリース、全英2位・全米2位。同作には新曲4曲が収録され、世界中で700万枚以上を売り上げた。

 

 

2005年9月6日、アルバム『ア・ビガー・バン』(A Bigger Bang)をリリース、全英2位・全米3位を記録。ここからシングル"Streets of Love"が全英15位に入った。『ローリング・ストーン』誌をはじめとして熱烈なレビューが行われた。収録曲“スウィート・ネオ・コン”(Sweet Neo Con)は、ミックによる米国ネオコンに対する批判が含まれた。同曲はキースの反対によりアルバムから削除されるところであったという。彼はイラク戦争批判のために論争に巻き込まれたディクシー・チックスのようになるのを恐れたのかと尋ねられ、アルバムが来るのが先だと答え、「俺はすこしの政治的な『コップの中の嵐』によって脇に逸らされたくない。」と発言したと伝えられる。

 

 

 

2006年10月29日・11月1日のニューヨーク、ビーコン・シアターで行われ、ゲストとしてバディ・ガイ、ジャック・ホワイト、クリスティーナ・アギレラが出演しているライヴをマーティン・スコセッシが撮影、ドキュメンタリー映画『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』として公開。映画のサントラ盤『シャイン・ア・ライト』は2008年4月にリリース、全英2位・全米11位を達成した。

 

 

2011年に東日本大震災が発生した際、キースは日本の惨状に非常に心を痛めたという。彼はすぐに自身のホームページにメッセージを掲載し、数量限定でTシャツを販売、その収益を被災者支援に充てるといった行動を取っている。

 

 

2012年夏、ストーンズは結成50周年を祝ってハードカバーの写真集『50』を刊行。



2015年9月18日、23年ぶりの新作ソロ・アルバム『クロスアイド・ハート』(Crosseyed Heart)をリリース、全英・全米ともにソロ・アルバムとしては自己最高の7位・11位を記録した。

 

 

 

2016年12月2日、ハウリン・ウルフ、ジミー・リード、リトル・ウォルターらのブルーズ・ナンバー12曲から構成されたカヴァー・アルバム『ブルー&ロンサム』(Blue & Lonesome)をリリース、レコーディングでは2曲にエリック・クラプトンが参加した。アルバムは全英1位を獲得し、同年の英国でアルバムの発売週で売れた枚数として2番目に高かった。また、米国では全米4位となった。

 

 

2019年秋、長年に渡り喫煙を続けたキースだが、禁煙したことを公表した。

 

 

2021年8月24日、チャーリー・ワッツがロンドンの病院で家族に看取られて死去。80歳であった。ローリング・ストーンズの公式ウェブサイトの内容は10日間、チャーリーの1枚の写真に置き換えられた。

8月27日、バンドのソーシャルメディアアカウントはチャーリーの写真と動画のモンタージュを共有した。今後、ローリング・ストーンズは、ノー・フィルター・ツアーの各コンサートの冒頭でチャーリーの写真とビデオを表示する。その短いセグメントの長さは約1分で、チャーリーが演奏したシンプルなドラムトラックが加えられた。

 

 

2023年9月6日、新しいアルバムから"Angry"を先行発売、全英34位を記録した。

 

9月28日、先行リリース第二弾として、レディ・ガガとスティーヴィー・ワンダーをフィーチャーした"Sweet Sounds of Heaven"を発表。

 

10月20日、アルバム『Hackney Diamonds』をPolydorからリリース、全英1位・全米3位をはじめ、各国チャートで首位を飾った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「キース・リチャーズ」「Keith Richards」「ローリング・ストーンズ」「The Rolling Stones」

 

 

 

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