ミック・ジャガー(Mick Jagger/本名Sir Michael Philip Jagger/1943年7月26日~)は、

イギリスのロック・ミュージシャン、俳優、作曲家。

ザ・ローリング・ストーンズのヴォーカリストとして有名。

 

 

イングランド南東部にあるケント州(Kent)のダートフォード(Dartford)で

体育教師の父ジョーと母エヴァの間に生まれる。

家庭は上層中流(中流の上)だったためかミックは育ちが良く、きれいな英語を話すという。

ミックは美術学校やロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で学んだ。

LSEはロンドン大学を構成するカレッジの一つで、世界各国の国家元首や大統領、

首相を輩出、経済学賞を始めとするノーベル賞受賞者が20人程いる英国屈指の名門である。

 

キース・リチャーズとは幼い頃より知り合いで、双方の一家が引っ越すまで

ダートフォードのウェントワース・プライマリースクールでの級友だった。

10代でロックに目覚め、ブルーズにのめり込んだミックは、18歳の頃に偶然キースと再会。

以降、チャック・ベリーとマディ・ウォーターズなど音楽の嗜好が合うキースとつるむようになり、それがバンド結成、ひいてはザ・ローリング・ストーンズ結成へとつながっていく。

 

二人はその後ロンドンに移り住み、1962年4月にブライアン・ジョーンズと出会い、

そのスライド・ギターに衝撃を受けた。

こうして彼らはバンドを結成し6月頃に初めてローリング・ストーンズと名乗るようになった。1963年6月7日、ローリング・ストーンズはチャック・ベリーのカヴァー“Come On”を

ファースト・シングルとしてリリースしプロ・デビュー。英国シングルチャートで21位を記録した。

 

11月1日リリースの2ndシングルは、レノン=マッカートニー提供の“彼氏になりたい”(I Wanna Be Your Man)で、チャート3位と前作以上にヒットしたが、この頃、マネージャー「アンドリュー・ルーグ・オールダム」にオリジナルソング制作を勧められる。この提案に当時のバンド・リーダー、ブライアン・ジョーンズは余り興味を示さず、ミックとキースの二人が曲作りに取り掛かることとなった。

 

レノン=マッカートニーと同じく共同クレジット「ジャガー/リチャーズ」(Jaggar-Richard)を採用した二人の作品が初めて世に出たのは、1964年4月17日リリースのファースト・アルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』。収録されたのは“テル・ミー”(Tell Me)1曲のみであった。

同アルバムでは他に、バンドメンバーとの共同クレジット「ナンカー・フェルジ」(Nanker Phelge)の楽曲が2曲収録された。

 

以降はジャガー/リチャーズの楽曲“ラスト・タイム”(Last Time)がオリジナルでは初の全英1位(カヴァーも含めるとバンドで3回目の1位)を記録するなど自作曲に自信を深めていった。

そして、バンドに大きな転換期をもたらしたジャガー/リチャーズ作の大ヒット・ナンバーが、7枚目のシングル“サティスファクション”((I Can't Get No) Satisfaction)である。

 

初期においては基本的にヴォーカルのミックが作詞、ギターのキースが作曲を担当することが多かったが、曲の作り方が徐々にアイデアを持ち寄って一緒に作り上げるようになって行き、

曲によって主導的な役割が異なっても、あるいはミックまたはキースが単独で作った曲であっても、同クレジットを使用した。

 

前述のとおり、二人の共作が最初にリリースされたのは“テル・ミー”だが、

キースの言によれば、マリアンヌ・フェイスフルの1964年のデビュー曲用に書いた

“涙あふれて”(As Tears Go By)が最初の共作だったという(ただしクレジットは、

ミック、キース並びにマネージャーのアンドリューの連名)。

 

ミックが基本的に作詞、作曲を一人で行ったと言われるナンバーは

1968年のアルバム『ベガーズ・バンケット』(Beggars Banquet)に収録された

“悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)や、

1971年4月23日リリースの「ローリング・ストーンズ・レコード」第一弾アルバム

『スティッキー・フィンガーズ』(Sticky Fingers)に収録された“Sway”。

1978年のアルバム『女たち』(Some Girls)からの

先行シングル“ミス・ユー”(Miss You)などが有名である。

 

こうした作詞作曲のクレジットの他に、1974年のアルバム『イッツ・オンリー・ロックン・ロール』(It's Only Rock'n Roll)から、ミックとキースによるアルバム・プロデュースの際の名称として、「グリマー・ツインズ」(The Glimmer Twins)を使用する。

 

バンドは“サティスファクション”の大ヒット後も、1965年“一人ぼっちの世界”(Get Off of My Cloud)、1966年“19回目の神経衰弱” (19th Nervous Breakdown)、1966年“黒くぬれ!” (Paint It, Black)、そして1968年“ジャンピン・ジャック・フラッシュ” (Jumpin' Jack Flash)とヒットを続け、チャート上位の常連となったが、この頃メンバーの薬物使用による逮捕、裁判が多発し、1960年代後半にはバンド活動に支障をきたすまでになっていた。

 

バンドが活動休止中、ミックはかねてより興味のあった映画業界にも挑戦し、

1970年公開の映画『青春の罠』(Performance)に出演。

同作のサウンドトラックに提供された“メモ・フロム・ターナー”(Memo From Turner)は、

ミック初のソロ・シングルとしてもリリースされた。

続けて1969年の5月には映画『太陽の果てに青春を』(Ned Kelly)への出演を発表。7月にオーストラリアのメルボルンでロケを行ったが、この撮影のため、同月のブライアン・ジョーンズの死去に際して葬儀に行くことが出来なかった。彼はこの他にも数々の映画に出演しているが、

1997年の 『ベント/堕ちた饗宴』(Bent)では女装の歌手を演じ話題になった。

 

バンドは、初期のリーダーブライアンの脱退と死、相変わらずの薬物問題、メンバーチェンジなどトラブルを抱えながらも、1969年“ホンキー・トンク・ウィメン”(Honky Tonk Women)、

1971年“ブラウン・シュガー”(Brown Suger)、1972年“ダイスをころがせ”(Tumbking Dice)、1973年“悲しみのアンジー”(Angie)、1974年“イッツ・オンリー・ロックンロール” (It's Only Rock'n Roll)、1978年“ミス・ユー”(Miss You)など、ヒットを出し続けた。

 

1980年代に入ると、1981年にアルバム『刺青の男』(Tatoo You)を発表。

1980年代を代表するにふさわしい傑作に仕上がり、

“スタート・ミー・アップ”(Start Me Up)等のヒット曲が生まれた。

 

その後ミックは本格的なソロ活動を開始。

その第一弾として、1984年、マイケル・ジャクソンとともにリード・ヴォーカルを担当した

ジャクソンズの曲“ステイト・オブ・ショック”(State of Shock)を発表。

翌1985年、初のソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス』(She's the Boss)を発表。

本アルバムからは“ジャスト・アナザー・ナイト”(Just Another Night)がシングル・カット。

因みにミックはこのソロ活動のため、

ストーンズの新アルバムのセッションを度々欠席したという。

 

1986年、ローリング・ストーンズ名義で、ボブ&アールをカヴァーした“ハーレム・シャッフル”(Harlem Shuffle)を発表し、好評を博した。またデヴィッド・ボウイとのデュエットによるチャリティ・シングル“ダンシング・イン・ザ・ストリート”(Dancing In The Street)も発表。

 

さらにミックは2ndソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』(Primitive Cool)を1987年にリリースし、大々的にツアーも催行。これにより、ミックは初来日を果たした。

 

こうした一連のミックの活動状況にキースは強く反発し、ストーンズとしての主だった活動は1986年の『ダーティ・ワーク』(Dirty Work)ぐらいとなった。

 

1989年、ミックはこれまで停滞していたストーンズの活動を再開させた。

アルバム『スティール・ホイールズ』(Steel Wheels)リリースとその中からのシングル・カット、

大規模なワールド・ツアーを行い、その一環でストーンズの初来日公演が実現した。

 

このツアーからミックはストーンズの活動を中心にしながら、それを挟む形でソロ活動を展開し1993年にソロ3枚目のアルバム『ワンダーリング・スピリット』(Wandering Spirit)をリリース。

1995年にはボブ・ディランの名曲のカヴァー“ライク・ア・ローリング・ストーン”を発表。

2001年11月、レニー・クラヴィッツをプロデューサーに迎えて製作したアルバム

『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』(Goddess in the Doorway)をリリースした。

 

またジョージ・W・ブッシュが大統領だった時代には“スウィート・ネオコン”を発表し、

ネオコンを皮肉った。

 

ミックは2002年の誕生日の叙勲で「ポピュラー音楽に対する貢献」によってナイトに叙勲され、翌2003年12月12日に叙任式が行われた。

 

2005年にストーンズのアルバム『ア・ビガー・バン』(A Bigger Bang)のレコーディングやそれに伴うツアーのリハーサルを行う傍ら、ミックはその後も関係が続く元ユーリズミックスのデイヴ・スチュワートとともに映画『アルフィー』の音楽を手がけ、ツアーの終了に前後して、

2007年、それまでのソロ・アルバムに未収録だった他のアーティストとのデュエット曲なども

含む自身初のソロ・ベスト・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』を発表。

 

2011年にはキャリア50年目にして初の別バンド「スーパーヘヴィ」(SuperHeavy)を結成。

ミックの他に、先の映画『アルフィー』の制作の際に関わったデイヴ・ステュアートと、ジョス・ストーン、ダミアン・マーリー(ボブ・マーリーの息子)、A・R・ラフマーンの5人組。

9月21日にアルバム『スーパーヘヴィ』をリリースした。

 

同年、マルーン5がミックを題材にした楽曲“ムーブス・ライク・ジャガー”(Moves like Jagger)をリリースし、ビルボード1位を獲得している。

 

2012年11月12日、ストーンズは新しいコンピレーション・アルバム『GRRR!』をリリース。

このアルバムは、“Doom And Gloom ”、“One Last Shot”の新曲2曲収められている。

 

2014年、バンドのワールド・ツアーを催行中の3月、日本公演後に行われるはずだった豪州に到着後、ミックの恋人で良きビジネス・パートナーでもあったローレン・スコットの自殺という報告を聞いて、ミックは大変なショックを受け茫然自失となった。これに伴い予定されていた豪州、ニュージーランド公演は延期された。2001年頃にローレンと出会ったミックはその後付き合うようになったといい、その後はメンバーの衣装も手がけるようになっていた。

 

ローレンの死後、ミックはアメリカン・バレエ・シアターのバレリーナであるメラニー・ハムリックと恋人関係にあり、2016年には73歳にしてメラニーとの間に八人目の子供が誕生した。

 

2017年7月27日、ミックはソロ名義の両A面シングル

"Gotta Get a Grip"/"England Lost"を発表。

 

2019年、心臓弁の手術を受けるため、北米ツアーの延期を発表した。

同年3月にミックは、重度の大動脈弁狭窄症を指摘され、ニューヨークで経皮的大動脈弁置換術 (Transcatheter Aortic Valve Implantation/Replacement: TAVR/TAVI)を受けたが順調に回復した。大動脈弁狭窄症は開胸手術が選択されることが多かったが適応拡大に伴い、開胸手術低リスク患者であるジャガーにも経皮的大動脈弁置換術が施行された。

 

2020年4月23日、8年ぶりのストーンズの新曲

“リヴィング・イン・ア・ゴースト・タウン”(Living In A Ghost Town)を発表。

 

 

(関連項目)

2020年2月28日「ブライアン・ジョーンズ」

https://ameblo.jp/inoueno2000/entry-12578310547.html

 

(参照)

Wikipedia

「ミック・ジャガー」「ローリング・ストーンズ」「ジャガー/リチャーズ」「グリマー・ツインズ」