王はファキールに出会い、王が臣下の者に会った時の慣習に則って言った。「望みを申し上げよ」

ファキールは答えた。「私が自分の奴隷に頼み事をするなんて、おかしいでしょう」

「王に大してなんて不敬な!」警護の者は詰め寄った。「釈明せよ。さもなければ死ぬことになるぞ」

ファキールは答えた。「私はあなたの王が主人としているものを、奴隷にしています」

「誰だ」

ファキールは答えた。「怖れです」


心の奥深くを覗いてみると「私はない」という事実に直面します。私たちの中身は空っぽなのです。総理大臣でもちっぽけな労働者であっても、全ての人は空しさを感じます。人はこの空しさに我慢出来ません。そうして彼は、自分や周りの世界について、数多くのイメージや想像を創り出します。私たちは人間関係の中で、職場で、社会の中で、自分たちの周りや親しい人たちに、良い人・謙虚な人・知的な人・完全な人と示したいが為に、あてどもなく何者かになろうとします。


このイメージを守るために、多くの努力がなされます。でも人生は不思議なものです。真実でないものの上に何かが打ち立てられるたびにそれは打ち壊され、真実へと引き戻されるのです。その絶え間ない試みは「あなたには何もない」ことを示します。


あなたが自分の内側や外側に作り上げたイメージが、崩壊や破壊の脅威にさらされる時、あなたの中に怖れが湧き上がります。カルキ、バガヴァンが次のように語る理由はそこにあります。「マインドは怖れです。怖れは行動の中には存在しません。それは予測の中に存在します。マインドは増幅器です。それが人生をコントロールし、操ります」


悟りは、マインドからの解放です。

悟りは、怖れからの解放です。


火事が起こった時、男はその家の中で熟睡していた。周りの人々は、男を窓から運び出そうとしたが、出来ない。ドアから運び出そうとしたが、出来ない。男はとても身体が大きく重かった。周りの人々は諦めかけていたが、ある人が気付いて言った。「彼を起こそう。そうしたら自分の力で外に出れるはずだ」


カルキ・バガヴァンは言います。「人は無意識です。全ての個人の中に、とてつもない苦悩が存在します。ネズミがその腕をむさぼり食っていても、全ての感覚を失っているために気付かないでいる癩病者のように、人々は苦しみが自分の存在をかみ砕いていることに気付きません」


あなたの内側で、注意を払わないままに進行している多くのことがあります。例えばあなたは「もし選べるのであれば、助けないだろう」と言うことも分からずに、ある人を助けているかも知れません。もっと突き詰めると、その人を助けている最大の動機も見ることが出来るでしょう。目的は、金銭的なもの・物質的なものに限らず、単に良い人と思われたかっただけかも知れません。あなたが気付いていない背景の裏には、多くの力が働いています。


自分が苦しんでいることを否定する人は、明らかに自分自身や世界に対して、嘘を言っています。自分のしっぽに火がついているのに、認めないのです。あなたは自分を分かっていません。

悟りの最初のステップは気付くこと、あなたを閉じこめる牢獄に気付くことです。その状態自体は祝福です

悟りとゆうのは様々な形で定義ができますが、私のいう悟りの一般的な定義は感覚(五感)の開放です。


皆さんが何かを見ているときに、マインドの介入無くして見ている事はありません。何かを見るときにマインドの介入無くして見られる状態、それがムクティ(悟り)です。何かを聞いているときにマインドの介入無くして聞いている状態、それを悟りといいます。同じように、匂いを嗅ぐことも触ることも、さらには考えることでさえも同じことが言えます。


実際、考えに対しても、そこに巻き込まれずに考えを観察している状態があります。通常は、皆さんが考えているとき、自分がその考えを考えているとゆうふうに捉えています。しかし、その考えがまるで流れているかのように、自分とは独立した別個のものと捉えることは実際には可能なことです。


これは物理的な現実です。皆さんは「考え」を見ることが出来るのです。どんな「考え」も、やって来ては去っていき、そしてそれを見ることが出来ます。それが悟りの状態です。完全な感覚の開放、マインドのコントロールからの開放です。


皆さんはたえず五感を通して現実を知覚していますが、現状ではそれをまったく体験できていません。どんなデータが入って来ても、常に解釈を加えながらコメントしているだけです。


木を見ながら「これは大きい木だ」、「小さい木だ」、「緑の木だ」、「マンゴーの木だ」、と言いながら絶えず木に対してコメントしています。座ってご飯を食べているときも、会社のことを考え始めます。そして、家族のことを考えたり、食べ物自体に対してコメントを繰り返しているばかりで、食べ物を体験していません。


そういった意味で、「物事に対してあるがままを体験したときに、それこそが至福の体験になる」と私はマハワキヤ(バガバンの格言集)で言っているのです。


「考えの」の介入をなくして、感覚を開放することは実際に可能です。本来「考え」とは、必要性のあるときだけ必要とされるものです。どうして考えが絶えず介入する必要があるのでしょうか。必要なとき以外は、考えが私達の人生の現実体験に介入する必要はありません。



(Oneness on the earth…こころの扉を開く旅より抜粋)


この教えの中で最も重要なのは「内容は重要ではありません」とゆうものです。その内容をどのように体験するかが重要なのです。
人生において何が起ころうとも、皆さんは他の人を体験する技術を学ばなければなりません。それこそが真の「人生を生きる為の技術」です。人生を生きる為の真の技術とは、何が起ころうとも、徹底的に完璧に体験することです。人生に起きていることの大部分は、友人や親族、上司、子供、家族といった人々との相互関係です。皆さんはいつも彼らと相互に影響しあっています。なぜなら人生は関わり合いだからです。関わり合い無しには、皆さんは存在しません。つまり、この関わり合いの中で皆さんは何らかの相互作用を行っています。皆さんは傷ついたり、腹を立てたり、過去の記憶を呼び起こしたりするかもしれませんが、これらはすべてハプニングとしておこっていることです。先にお話したように、何が起きても、完全に体験するなら、みなさんはそこに無限の喜びを体験するでしょう。



(Oneness on the earth…こころの扉を開く旅より抜粋)


このダルマでいいたいことはたったひとつ、「気付き」だけです。何かが皆さんをコントロールしていることを、それが起こっているそのときに「気付く」ことです。単に意識するだけでは、あまり助けにならないでしょう。それが起こっているまさにその時、みなさんがそれに「気付く」かどうかがポイントです。家に押し入った泥棒のように、皆さんに見られた瞬間、泥棒は盗むのをやめます。同じように、それが皆さんをコントロールしているとき、皆さんが気付けば、それはコントロールを失います。それが繰り返されると、そのコントロールはゆっくりと消えていきます。そして皆さんは開放されていくでしょう。皆さんが「気付き」始めた時には、起こるべきことが自動的に起こります。皆さんが特にすることはありませんし、出来ることもありません。皆さんが出来る唯一のことは、内側の世界に関する限り、それに「気付く」ことだけです。人間のマインドには、その仕事を行ってくれる生来のシステムが備わっています。これが皆さんの取り組むべきことです。



(Oneness on the earth…こころの扉を開く旅より抜粋)