悟りとゆうのは様々な形で定義ができますが、私のいう悟りの一般的な定義は感覚(五感)の開放です。


皆さんが何かを見ているときに、マインドの介入無くして見ている事はありません。何かを見るときにマインドの介入無くして見られる状態、それがムクティ(悟り)です。何かを聞いているときにマインドの介入無くして聞いている状態、それを悟りといいます。同じように、匂いを嗅ぐことも触ることも、さらには考えることでさえも同じことが言えます。


実際、考えに対しても、そこに巻き込まれずに考えを観察している状態があります。通常は、皆さんが考えているとき、自分がその考えを考えているとゆうふうに捉えています。しかし、その考えがまるで流れているかのように、自分とは独立した別個のものと捉えることは実際には可能なことです。


これは物理的な現実です。皆さんは「考え」を見ることが出来るのです。どんな「考え」も、やって来ては去っていき、そしてそれを見ることが出来ます。それが悟りの状態です。完全な感覚の開放、マインドのコントロールからの開放です。


皆さんはたえず五感を通して現実を知覚していますが、現状ではそれをまったく体験できていません。どんなデータが入って来ても、常に解釈を加えながらコメントしているだけです。


木を見ながら「これは大きい木だ」、「小さい木だ」、「緑の木だ」、「マンゴーの木だ」、と言いながら絶えず木に対してコメントしています。座ってご飯を食べているときも、会社のことを考え始めます。そして、家族のことを考えたり、食べ物自体に対してコメントを繰り返しているばかりで、食べ物を体験していません。


そういった意味で、「物事に対してあるがままを体験したときに、それこそが至福の体験になる」と私はマハワキヤ(バガバンの格言集)で言っているのです。


「考えの」の介入をなくして、感覚を開放することは実際に可能です。本来「考え」とは、必要性のあるときだけ必要とされるものです。どうして考えが絶えず介入する必要があるのでしょうか。必要なとき以外は、考えが私達の人生の現実体験に介入する必要はありません。



(Oneness on the earth…こころの扉を開く旅より抜粋)