楠本瀧・楠本イネ・二宮敬作顕彰碑と、楠本家の墓と ~シーボルトゆかりの人たち ~長崎市の墓所 | 九州下町おやじの珍道中

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20192月15日の長崎散策の続き。

 

大音寺」をお参りした後もまた、「幣振坂」を上って行きました。

 

 

大音寺・幣振坂のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12465733156.html

 

 

幣振坂」を登って行くと、左手に、綺麗に整備された空間を発見。「シーボルトゆかりの人たちの顕彰碑」と入口部分にありました。

 

 

中に入ると、壁には、たくさんの由緒書き・説明書きがありました!

 

 

まずは「シーボルト(一七九六~一八六六)」という由緒書きがあって…。

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、1796年2月17日、ドイツのヴュルツブルグに生まれました。正式名は、とても長いんなんですね(^^;

 

 

シーボルト家は代々医学で知られた家柄で、シーボルトはヴュルツブルグ大学に学び、卒業後の1822年、オランダの東インド陸軍外科少佐に任命され、文政6年(1823)出島オランダ商館医として来日しました。

オランダ政府は、日本との貿易を推進する為、シーボルトに日本の調査研究を委嘱していました。

文政7年(1824)鳴滝に塾を開くと、美馬順三高良斎二宮敬作石井宗謙伊東玄朴らが門人となり、門人の数は増加して行きました。

シーボルトは、文政12年(1829)シーボルト事件で国外追放に処せられましたが、1830年以後、オランダのライデンに居住し日本研究に没頭しました。

シーボルトは、安政6年(1859)長男アレクサンダーを伴い再来日、長崎でタキイネ母子、二宮敬作らと劇的な再会を果たしました。

その後帰国し、ドイツのヴュルツブルグに滞在し、1866年10月18日にミュンヘンで亡くなりました。70歳。

 

 

シーボルト・タキ・イネ関係年表

 

 

江戸参府とシーボルト江戸参府とは、オランダ商館長が江戸に上って将軍に拝謁、献上品を贈って、貿易に対する謝意を表するもので、寛永10年(1633)以降、恒例とされました。

 

 

その回数は、嘉永3年(1850)までの218年間に166回行われましたが、寛政2年(1790)以降は、4年に1回の江戸参府に改められました。

その時期は、初期の頃は冬に長崎を出発、正月に拝謁とされましたが、寛文元年(1661)以降は、正月に長崎を出発、3月に拝謁と改められました。

その往復も含め、すべてに要した日数は、最長は143日、最短は67日で、平均すると90日位でした。最長143日は、シーボルトが同行した文政9年(1828)商館長ステュルレルの江戸参府でした。

江戸での滞在は2~3週間で、拝謁については先例などにがんじがらめで、商館長にとって煩わしいものでした。また、幕府の要人や諸大名、蘭学者たちが絶え間なく訪問してくるのも、煩わしかったそうです。

 

シーボルトは、江戸で高橋作左衛門をはじめ中津藩主奥平昌高、薩摩藩主島津重豪最上徳内などの多くの蘭癖大名や蘭学者たちと交流しました。

高橋作左衛門から日本地図を見せられたり、土生玄硯には瞳孔を開く実験を見せられたりしています。

また、往復の行程では、動植物を採集、品物を購入、贈呈されたりし、名所旧跡の見物の他、関門海峡の幅や水深、箱根山の標高などを測定していますが、これらの収集品がシーボルト事件で問題視されました。

 

 

シーボルト事件シーボルトの滞在は、文政6年(1823)から文政11年(1828)の5年間でしたが、天文方筆頭の高橋作左衛門シーボルトに禁制品の日本地図などを渡したのではないかとの疑惑を持ち、ない内で捜査を行っていました。

 

 

そのような中、8月9日に台風が長崎を襲い、シーボルトが荷物を積み込んでいたオランダ船コルネリウス・ハウトマン号は、稲佐の海岸に座礁、船体を破損しました。

長崎奉行所の役人が現場に急行、船内の臨検を開始すると、シーボルトの荷物から国外に持ち出しが禁止されていた品物が次々と発見されました。

10月10日、高橋作左衛門は江戸町奉行所に逮捕され、12月18日はシーボルトも身柄を拘束、阿蘭陀小通司吉雄幸次郎をはじめ多数の関係者が逮捕されました。

更に、長崎奉行所は、出島の各所を捜査、幕府奥医師で法眼土生玄硯より贈られた将軍家拝領の葵紋付帷子など、多数の品物を押収しました。

シーボルトは、裁判の結果、文政12年(1829)9月25日、国外追放に処され、12月5日に日本を退去しました。

土生玄硯は改易、高橋作左衛門は死罪(牢内で既に病死)、息子の高橋小太郎は遠島に処せられました。

長崎では、天保2年(1831)裁判が行われ、阿蘭陀大通司馬場為八郎、阿蘭陀小通司稲部市五郎、阿蘭陀小通司吉雄幸次郎の3人が江戸に護送され、生涯取籠(終身刑)に処せられました。

 

 

杉孫七郎宛福沢諭吉イネ推薦状」「楠本イネ宮内省御用掛辞令」「楠本イネ遺言状

 

 

シーボルト事件年表

 

 

シーボルトと紫陽花(オタキさん花)」という由緒書きもありました。

 

 

シーボルトは、国外追放後オランダで、シーボルト三部作と呼ばれる「日本動物誌」「日本」「日本植物誌第1・第2巻」を刊行しました。

その植物図が精密で美しかったので、注目されることとなり、ヨーロッパの王侯貴族の間では、庭園に日本の植物を植えることが流行したので、シーボルトは日本の植物を取り扱う会社を設立。その会社があった一帯は、今でもシーボルト通りデジマ通りと呼ばれています。

シーボルトは、お瀧さんと呼び、その発音は「おたくさ」でした。シーボルトは、出島の植物園に長崎のある寺院からもらったアジサイを植えていましたが、これを「おたくさ」と呼び、後に学名を「ハイドランゲア・オタクサ」と命名、「オタキサンバナ」です。

 

 

二宮敬作(1804~62)」伊予国宇和島郡磯崎浦(現在の愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれ、文政2年(1819)医学修業の為、長崎に遊学、シーボルトが来日すると、6年間、師事しました。

 

 

シーボルトの信頼厚く、文政9年(1826)江戸参府に助手として随行し、シーボルトの日本研究を助けました。

シーボルト事件が起こると、二宮敬作も連座、入牢の上、江戸と長崎の追放刑に処せられました。

天保元年(1830)郷里の宇和島に帰ると、外科医・種痘医として開業、安政2年(1855)には宇和島藩の範囲に任じられました。

高野長英村田蔵六大村益次郎)らとも親交があり、嘉永2年(1849)高野長英が宇和島に逃れて来た際には、自宅に匿ったとも言われています。

安政6年(1859)シーボルトが再来日した際は、長崎に赴き、再会を果たしました。

以後、長崎で開業しましたが、文久2年(1862)諏訪町で病没しました。59歳。

墓碑は、楠本イネによって、「晧台寺」後山に建立されましたが、後に、晧台寺後山の楠本家墓地内に移設されました。愛媛県西予市宇和町卯之町の光教寺には、遺髪塔があります。

大正13年(1924)正五位を贈られました。

 

 

由緒書きの横には、楠本瀧、楠本イネ、二宮敬作の顕彰碑があります。

 

 

楠本イネ(1827~1903)」の由緒書き。楠本イネは、シーボルトタキの間に生まれ、二宮敬作の勧めもあり、弘化2年(1845)以降、二宮敬作のもとで医術の修業に励み、同じく門人の石井宗謙のもとで産科を学びました。

 

 

その後も、村田蔵六大村益次郎)についてオランダ語を、長崎の医学伝習所の教官ポンペ、精得館の教頭ボードイン、マンスフェルトなどについて、最新のオランダ医学を学びました。

明治になると、東京府京橋区築地1番地で産科医を開業、明治6年(1873)宮内省から産科医として御用掛に任命されています。

楠本イネは、我が国最初の女医と言われますが、実際の女医第1号は明治18年(1885)医術開業試験に合格した荻野吟子ですが、明治6年当時、このような開業試験はなかったので、宮内省御用掛の任命をもって、わが国最初の女医と称されるそうです。

明治10年、築地の医院を閉じると、一旦、長崎に戻りましたが、再び東京で開業し、明治36年(1903)8月26日、76歳で亡くなりました。

 

 

楠本タキ(1807~69)」長崎の銅座跡の商人楠本左平きよ夫婦の四女として生まれ、父左平は手広く商売を営んでいましたが、次第に商売がうまくいかなくなり、長女のツネや四女タキを丸山の遊女にしました。

 

 

丸山の遊女には、日本人、唐人、阿蘭陀人の三段階あり、ツネは阿蘭陀行となり、源氏名を千歳と言いました。

タキは15歳の時に丸山の引田屋の遊女となり、其扇という源氏名で阿蘭陀行となりました。

16歳の時、オランダ商館医シーボルトに呼び入れられ、以後、二人は結ばれたそうです。

シーボルトが来日して、3ヶ月後に母と伯父に宛てた書簡には、16歳の日本の乙女と暮らしていること、彼女をヨーロッパの美女と取り換える気などはとてもなれないなどと書いています。

文政10年(1827)5月6日に、楠本イネが生まれ、シーボルト事件ではタキも厳しい取り調べを受けましたが、シーボルトはかばい通したと言われています。

楠本タキが亡くなったのは、明治2年(1869)4月12日、63歳でした。

現在、シーボルト記念館には、シーボルトが愛用していた合子(国指定重要文化財)が所蔵されていますが、この合子の蓋の表にはタキの顔が、裏にはイネの顔が、長崎特産の青貝で細工されています。

 

 

そうそう、「シーボルト記念館」と言えば、「シーボルト宅跡」に建てられた記念館ですが、以前と言ってもかなり前ですが、訪問して、レポしているんですよね。

 

シーボルト宅跡・シーボルト記念館のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12483430129.html

 

 

また、シーボルトが日本から持ち出した植物が、長崎の出島和蘭商館跡に「シーボルト里帰り植物」として、植えられていましたね。

 

出島和蘭商館跡のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12483422541.html

 

 

シーボルトゆかりの人たちの顕彰碑」のある場所からの眺め。いい眺めだな~♪

 

 

シーボルトゆかりの人たちの顕彰碑」から、更に「幣振坂」を上って行くと、墓所があるんですが…。

 

 

こちらの墓所は「楠本家の墓」。「シーボルトゆかりの人たちの顕彰碑」は「楠本家の墓」の下に造られたようです。

 

 

中に入ると、「二宮敬作先生之墓」と刻まれた墓石があって…。

 

 

こちらは…。戒名なので、どなたの墓石かは、分かりませんでした…。

 

 

楠本家之墓」とある比較的新しい墓石ですが、こちらに、楠本イネの名が刻まれていました。

 

 

他にも、古い墓石がいくつも並んでいました。

 

 

シーボルトにゆかりもある「楠本瀧・楠本イネ・二宮敬作顕彰碑」を見学し、「楠本家の墓」をお参りした後もまた、「幣振坂」を上って行きましたが、その両脇にある墓所をお参りして行きました。。

その様子は、また後日。

 

 

 

楠本瀧 楠本イネ 二宮敬作顕彰碑・楠本家の墓

長崎市寺町11

 

 

 

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