先日の長崎市内散歩、出島の続き。
処で、出島の正門、江戸時代の出入口で何処に??
「新石倉」の先の左手を見ると、何やら見えて来ました。どうやら、正門のようです。
説明書き。
説明書き。
表門 長崎市街から出島に通じる唯一の出入口が江戸町から出島橋を渡ったところにある表門で、常に役人たちが厳重に警備していました。出島の北側護岸はかつて、現在の川幅中央付近にありましたが、明治期の河川改修によって削り取られてしまいました。このため、復元した表門が建っているのも本来の位置と異なり大きく南寄りの場所となっています。出島は明治になって護岸を削り取られてしまい、少し小さくなっているんですね。
表門をくぐって、外側から。
表門にかかる橋は・・・。
塀は途切れていますが、柵がしてあります。その先は・・・水面!?
あらま!橋は・・・ないんですね・・・(涙)。
しかし、その対面はビル・・・。これでは橋はかけられませんね・・・。残念。
表門にかかる橋は・・・。
塀は途切れていますが、柵がしてあります。その先は・・・水面!?
あらま!橋は・・・ないんですね・・・(涙)。
しかし、その対面はビル・・・。これでは橋はかけられませんね・・・。残念。
しかし、当時、日本人は出島に出入り出来たのでしょうか?
その事が書かれた「御禁制の札」の説明書き。
出島に勤める人達は別として、自由に出入り出来たのは、遊女と高野聖と托鉢の僧のみ。
それ以外の者の出入りは禁止され、出島のオランダ人達も許可なく出島から出る事は出来なかったそうです。
出島にいたオランダ人も外に出る許可は殆ど下りなかったでしょうから、退屈でしたでしょうね・・・。
その事が書かれた「御禁制の札」の説明書き。
出島に勤める人達は別として、自由に出入り出来たのは、遊女と高野聖と托鉢の僧のみ。
それ以外の者の出入りは禁止され、出島のオランダ人達も許可なく出島から出る事は出来なかったそうです。
出島にいたオランダ人も外に出る許可は殆ど下りなかったでしょうから、退屈でしたでしょうね・・・。
表門の隣の「旧石倉」。
旧石倉(考古館) 安政の開国後に建てられた石造倉庫。1階は出島から出土した遺物を中心に展示、2階は石垣の修複・復元について紹介しています。「旧石倉」の中には入り損ないました・・・。順路を間違えたみたいです(涙)。
「旧長崎内外クラブ」と「旗竿」。
旧長崎内外クラブ 1903年(明治36年)、長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として建てられました。1階は休憩コーナー、2階は居留地時代の展示を行っています。「旧石倉」の隣には、「陶製の門柱」があります。
陶製の門柱 昭和29年(1954年)に移築されたもの。柱にはペトゥルス・レグゥー窯のマークが刻まれているため、オランダのマーストリヒトにある同社の製品であり、当時出島にあった店舗に使用されていたことが推測されます。ペトゥルス・レグゥー窯の製品は、当時出島を介して阿蘭陀(おらんだ)趣味の大名や藩主、商人などが入手していました。叩いてみましたが、陶器の音がしました。陶製の門柱って、あるんですね。驚きです!
出島の東側のゲート前に建っている「旧出島神学校」。
そう、「ミニ出島」です!
水門から。
なかなか精巧に出来ていますね・・・。噂には聞いていましたが、今回初めて見ました。すごい!
旧出島神学校 1878年(明治11年)に建てられた、現存するわが国最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校。1階は料金所や出島売店として利用、2階は当時のゲームなどができる体験展示室があります。「旧出島神学校」の目の前にある門をくぐると見えて来るのが・・・。
そう、「ミニ出島」です!
ミニ出島 昭和51年に制作された15分の1の模型。川原慶賀が1820年ごろの出島を描いたとされる「長崎出島之図」を参考に再現したものです。表門から。
水門から。
なかなか精巧に出来ていますね・・・。噂には聞いていましたが、今回初めて見ました。すごい!
「ミニ出島」を過ぎると、「シーボルト里帰り植物」がお庭に植えられています。
説明書き。
説明書き。
シーボルト里帰り植物 ここには、商館医シーボルト(1823年来日)が来日中にジャカルタ(旧名パタヴィア)を経由してオランダに送った約280種の植物のうち、ライデン大学附属植物園で現在も生育しているものの中から、日蘭交流400周年を記念して出島へ里帰りさせて植物を植えています。 植物はカエデ科のイロハモミジ、ブドウ科のナツツダ、マメ科のフジ、アケビ科のアケビ、ニレ科のケヤキの5種です。シーボルトは物だけではなく、植物も結構持ち出していたんですね。
お庭の奥には、変わったものがありました。
これは「キャピタン橋と葡萄棚」。
これは「キャピタン橋と葡萄棚」。
キャピタン橋と葡萄棚 この橋と葡萄棚は、庭園整備の一環として、昭和40年(1965)に設置されました。寛政10年(1798)の大火前後に描かれた出島の絵図を参考につくられています。絵図には、橋の下の用水池が、この付近の菜園の水まきに使われていた様子や、葡萄棚の上の涼所が描かれています。絵師川原慶賀以降に描かれた出島図には、橋と葡萄棚はみられなくなります。変わった形の橋ですよね。天神様の太鼓橋のようです。
これで出島を一通り回って来ました。
あまり大きくない敷地ですが、見所は結構ありますね。随分と勉強になりましたし。
訪れて良かったと思います。
あまり大きくない敷地ですが、見所は結構ありますね。随分と勉強になりましたし。
訪れて良かったと思います。
さて、この後は仕事ですが、昼飯はどうするか??またちゃんぽんか!?
仕事が終わったら、長崎の寺町でも散策してみましょう!
その様子はまた後日。
その様子はまた後日。