一度だけ、天国の父に会いました

一度だけ、天国の父に会いました

そして、不思議なことや不思議なものを、たくさん見せていただきました。

 その12 姿は見えねど、いつもぼくの傍(そば)にいてくれるご

                 霊さま――――続き

 

 「また、この家に戻りたい」という母の希望もあって、室内を片付けることなく時々、ぼくが見回ることにしたんです。

 

 母がホームに入って半年ほど経ったある日、いつものように母の部屋を覗きに行きました。すると、扉が開いたままになっているお仏壇に気がついたんです。「あ、いけねえ、ご霊さまの皆さまに食事をお出ししていなかった」と、その日の夕食からお出ししようと仏膳をもう一つ準備してくれるよう妻にお願いしたんです。

 

 快く引き受けてくれた妻が夕食の支度をしている間、ぼくは書斎の机に向かっていたのですが、段々に胃の辺りが痛くなってきたんです。いたたまれずに「食事はまだか」台所に小走りで向かい、母のお仏前にお出しするお膳の支度を手伝いました。

 

 ぼくたち家族の夕食と同じメニューの仏膳が二つ出来上がるや否や、ぼくの書斎にあるお位牌と母の部屋にあるお位牌のそれぞれに夕食をお出しして「やれやれ」という思いでした。

 ぼくたちの夕食が終わると、ぼくの書斎と母の部屋の2か所の夕食膳もお下げしました。そのご、夜の9時を回ったあたりでそれぞれのお位牌に就寝のご挨拶をして、それぞれのお仏壇の扉をお閉めしました。

 

 そしてそのあと、ぼくはいつものように就寝前の歯磨きと洗顔に向かいました。その途中、老獪右手の壁に大きなガガンボが、ちょうどぼくの目の高さのところに停まっていることに気付いたんです。

 

ガガンボは「大蚊」とも書いて普通の蚊を10倍くらい大きくした形の昆虫ですが「ずいぶんと目につくところにいるなあ」と思いながらも、特に悪さをする昆虫ではないので追い払うことをしませんでした。

 その後、洗面を済ませて寝床にもぐり込みました。

 

 あくる朝、いつもの時刻に、いつものように目を覚まして2つのお位牌にお出しする2つの朝食、つまりコーヒーとホットミルク、そして、日本茶の三点を準備して、先ず母のお仏壇の扉を開けて「おはようございます」と声をかけながら朝のお茶3点セットをお供えしました。

 

 それから正座をして仏前に座り「ご先祖の皆さま、おはようございます。朝のコーヒー、ミルクとお茶でございます。どうぞ皆々さまでお召し上がりください」とお参りさせていただきました。「皆々さまで」というところが肝心なんですよ、と指導されています。

 

 続いて、1階の書斎にあるウチのお仏壇にも朝のご挨拶をしながら燈明を点けて扉を開けました。その途端、お仏壇の中から何やらひらひらと舞い上がったんです。「何なの」とそのひらひらするものを目で追うと、何と、ガガンボだったのです。ガガンボがお仏壇の中から舞い上がったんです。     

 

 その飛び出したガガンボが昨夜、ぼくが洗面所に向かう廊下の壁に停まっていたガガンボと同じかどうかは分かりません。しかし、そのガガンボではないにしても、お仏壇を開けたとたんに飛び出してきたことなんて、今までに目にしたことはありませんでした。

 

 「ご霊さまは昆虫に姿を変えて現れる」といいますから、何だかこのガガンボは姿を変えたご霊さまで、ぼくの周りをうろうろしているように見えました。そんなことがあってから、うちとホームに入っている母の2つのお仏壇に朝と晩のお食事をお出しするのがぼくの日課になりました。

 

 

 

 

その13 ご霊さまが立ち寄らなくなった母のお仏壇

  

 ホームに入った母に代わって、ぼくが母の部屋にあるご先祖さまのお位牌にもお食事をお出しするようにしました。でも、お下げしたミルクの味を確かめてみると、どうも、このお位牌にかかるごれいさまたちは、、このお出ししたお食事を召し上がっておられないようなんです。

 

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 ホームに入居した母に代わって母のお仏壇をぼくがお守りするようになってから2年ほど経ちました。67歳になったぼくは、愛微不動産有限会社を他人に譲って、趣味にしていた紙ヒコーキのさらなる研究に勤(いそ)しんでいました。

 

 ある日、いつものように我が家のお仏壇と母の部屋のお仏壇にお出しする2つの夕食膳を準備しているときでした。母のお仏膳を準備委しているときに、右手の指を滑らせてご先祖さまのお箸の1本を食器戸棚の一番上の引き出しの隙間から下に落としてしまいました。

                   

 

 「カチャカチャ」と音を立てて4段ある引き出しの下の方に落ちたように聞こえました。「ああ、この辺りだな」と目星をつけて上から4段目となる一番下の引き出しを引いて、何枚も重ねられたお皿やどんぶりの間を目で探したけれど、見つからなかったんです。

 

 そこで、全部の食器類を外に出して空っぽになった引き出しの中をくまなく見たけれど、落とした箸はありませんでした。

 

 仕方なく、その上の引き出しも引いていくつかの食器や備品類の間を目で探してみたけれど、やはり、箸の姿はなかったのです。そこで、一番下の引き出しと同じように、中の食器類を全部外に出してみてみたのです。しかし、落としいたはずの端は、その中にもなかったんです。

 「あれあれ、どこへ消えちゃったの」と、ちょっと困ってしまいました。

 

 あの落としたときの音の感じから「あるわけないよな」というその上の引き出しを引いて、食器類の隙間を目で探してみたけれど、思った通り、落とした箸はありませんでした。

 もうこれ以上探しようがないので、仕方なく、代わりの箸1膳を用意してご先祖の皆さまにその旨をお伝えしておきました。

 

 それから2週間ほど経ったでしょうか、今度は母のお仏壇にお出しするミルクにトラブルが起きました。ぼくの右手が誤ってお供えのミルクが入ったコップを倒してしまい、仏膳をミルク浸しにしてしまったんです。

 

 「チッ、またしくじった」とこぼしたミルクをきれいに拭き取って、新しいミルクに入れ替えてお出ししました。

 

 しかし、先日落としてしまった箸もまだ見つからないうちに、今度はお膳にミルクをこぼしてしまいました。「ちょっとご霊さまのトラブルが津木菟な。もしかして、お食事を召し上がってくれていないのではないか」という思いがかすめました。

 

 そこで明朝、お茶の3点セットをお下げするときに、我が家のお仏膳にお供えしていたミルクと母のお仏膳にお供えしていたミルクの味を、ちょっと舌に含んで比べてみたんです。

 それはもう、はっきりとした味と香りの違いが感じられました。

 

 我が家のお仏膳のミルクは、ミルクの味が抜けてまるで真水のように味のないものに代わっていたけれど、母の仏膳にお供えされていたミルクは、ミルクの味と匂いがそのまま残っていたのです。

 このことで、ご先祖の皆さんたちは母のお仏膳ではお食事を召し上がっていらっしゃらないことが分かったんです。どうしてなのかな、とちょっと考えてみたら、すぐに気づきました。

 

 照明のない母のお仏壇の中は真っ暗だし、お位牌だって数枚の札板を収めた繰り出し位牌だったからなんです。お位牌にご霊さまがお罹りになっていただくには、お仏壇の中を明るくして、黒地に金文字の塗(ぬり)位牌ではなければいけなかったのです。

 ぼくは、そのように神教真ごころの教義で教えていただいていたのです。

 

 しかも、母は朝晩のお食事を毎日お出ししていなかったようなので、このお位牌に立ち寄っても食事にはありつけない、とご霊さまたちは思っていたのかも知れません。

 

 そうと分かれば、母の部屋にあるお仏壇とお位牌は、ご先祖の皆さまがお立ち寄りになることのない単なる「置物」だった可能性が大きいのです。お食事やミルクをお出ししようとしていたぼくの手元を狂わせて、箸を落としたりミルクをこぼしたりといった粗相の原因には、そのようなご先祖の皆さまに対する気遣いのない行為の顕(あら)われではないのか、と思いました。

 

 そんなわけでそれ以来、母の部屋にあるお仏壇の扉は、おshめしたままにすることにしたのです。

 

 落とした箸がいまだに見つからなかったり、ホットミルクをこぼしてお膳の上をミルク浸しにしてしまったりという出来事は、燈明によって中を明るく照らしたお仏壇にしたり、黒地に金文字で書かれたお位牌をご安置する、という正法のしきたりに沿っていないお祀りの仕方では、ご霊さまたちは食事を召し上がってくれないんですよ、とぼくに教えてくれたことになりました。

 

 「やりやれ、よかった」ということで、落とした箸のことなどすっかり忘れていたのですが、1ヶ月ほどして食器戸棚の一番下の引き出しの下の隙間から、あの見つからなかった1本の箸が顔を出していたんです。 

 

 「えっ、どこに隠れちたの」と声をかけてしまうほど思いがけないことだったのですが、箸が自ら姿を見せてくれたことに驚きました。母のお仏壇ではお食事を召し上がってくれていないことを、ぼくが気付いたからなんでしょうね。

 

 日常、ぼくたちの身の回りで起こる出来事を注意深く観察してみると、ご先祖の皆さまがぼくたちのようにこの世に生きる人たちに、無言の行動で「何がしか」の意味のあることを伝えてくることがあるんです。

 

 

 

 

 

その14 お盆にはご霊さまが帰ってくる

 

 お盆になるとご先祖の皆さまがご家族のところに御借りになるというけれど、本当なのでしょうか。ご霊さまたちは昆虫になって現れる、と言いますから注意しないと気が付かないかも知れません。

     

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 日本の夏には「お盆(ぼん)」と呼ばれる先祖霊を供養する行事があります。そして、そのお盆の危機になると、多くの先祖霊たちがその家族や子孫のところにお帰りになる、と言われています。

 落語の怪談話、牡丹灯籠のお露(つゆ)さんのように、なのでしょうか。

 

 伝統的には旧暦の7月15日頃に行われていたお盆行事ですが、現在では新暦の7月15日頃に行われる新盆(にいぼん)と旧暦の7月15日に当たる新暦8月15日頃に行われる旧盆(きゅうぼん)の2つがあって、地方によって異なっています。

 

 7月盆とも呼ばれる新盆が行われる地域は東京、函館そして金沢旧市街地くらいで、それ以外の日本全国が8月盆と呼ばれる旧盆が行われています。

 

 お盆が近づくと盆棚や盆提灯を飾り、盆供を奉げて準備を整え、盆の入りには迎え火を焚いてお迎えし、先祖の霊を供養します。供養する、とは、冥福を祈る、つまりあの世での幸せを祈る、ということです。

 また、盆が明けると送り火を焚いてお送りします。

 

 お盆というのはそもそも、、先祖霊を家に迎えて供養する仏教行事である盂蘭盆会(うらぼんえ)のことで、盆提灯を吊るして明りを灯し、盆棚に果物や落雁といった供物を奉げて冥土を旅している故人に幸せな世界に転生できますように、とお祈りをする行事とされています。

 

 盂蘭盆会とは、古代インドで用いられていたサンスクリット語Ullabanaの語音を漢字の文字を用いて書き写した言葉だと伝わっています。

 

 でも、ご霊さまは本当に家族や子孫のところにお帰りになっていらっしゃるのでしょうか。どこにそんな証拠があるのでしょうか。

 

 ぼくたち家族がお盆の行事をするようになったのは、成田の地に建てた自宅の2階に先祖代々のお位牌をお祀りしたところ、そのお位牌に二つの黒い影が吸い込まれていったお姿を目の当たりにしてからのことでした。

 

 そのお盆行事のやり方というのは、ぼくが幼いころに母がしていた盆供養を見よう見まねで同じようにしていたことでした。

 

 しかも、このニュータウンという新興住宅地にはいろいろな地域からの比較的若い人たちが住んでいるので、地域としての風習がないために、迎え火や送り火を焚いて先祖霊をお迎えしたりお送りしたり、は行うものの、豪華な盆棚や大きな盆提灯を飾るという儀式を省略して、せいぜい小さな盆提灯に明りを灯し、いつもより奮発したお供えをするくらいの簡素なものでした。

 

 平成26年のお盆もそんな状況で迎えました。それは確か、8月の中頃だったと記憶します。夜の11時になって「さて、寝るか」と1階の6畳間にある自分のベッドにもぐり込みました。目を閉じてしばらくすると、庭先に面した雨戸の外が何やら「さわさわ」と音を立てていることに気付いたんです。

 

 人の足音でもないし、人のこそこそとした話し声でもないけれど、多くの人たちが集まっていて、その洋服が擦れ合うような、そんな音でした。耳を欹てていましたが、数分で聞こえなくなりました。

 

 当時、ぼくの寝室にしている1階和室の6畳間の隣に書斎があって、そこに我が家のお位牌をお祀りしていたので、盆提灯を飾っていたこのお位牌を目指してご霊さまたちが来られたのかも知れません。

 

 翌日は休日だったので、ぼくは自室にいました。その日の夕方、少し開いていた庭に面した掃き出しの扉から1匹の蝶が入ってきました。モンシロチョウより大きくてアゲハチョウよりも少し小さな肌色をした、ごくありふれた蝶のように見えました。

 部屋の中でひらひら舞っていたその蝶が、ひらっと畳の上に舞い降りてその大きな翅(はね)を開いたり閉じたりしていました。

 

 その蝶の背後からそっと近づいたぼくは、とても驚きました。何と、蚊取り線香のような渦巻き模様が左右の翅の全面に描かれていたからなんです。生まれて初めて目にするこの渦巻き模様を持つこの蝶がなんというなまえなのか、を調べてみようと、机の上に遭った手帳のぺ時にその姿をスケッチで描き留めたのです。

      

 スケッチをしていて、左の翅には左巻きの渦巻きが、右の翅には右巻きの渦巻きが描かれていることに気付いて「今までに見たこともない蝶だ」と、とても不思議な模様にわくわくでした。

 スケッチを描き終わったころ、ヒラッと舞い上がって同じ窓から外に出て行ってしまいました。

 

 すぐにネットを開いて「渦巻き模様の翅を持つ蝶」と検索したところ「ウズマキアゲハ」という名前が出てきたので一瞬、色めき立ってそのサイトを開いてみました。しかし、ウズマキアゲハは、南米を生息地とする体長20ミリほどの小さな蝶で、しかも、肝心の渦巻きは渦巻きではなくて小さな同心円だったのです。「何だ、ウズマキではなくドウシンエンアゲアゲハ じゃないですか」とがっかりしました。

 

 では、ぼくが見た図鑑にの載っていないような渦巻き模様の蝶は、いったい何なのでしょうか。ぼくの見間違い、錯覚、あるいは夢でも見たのでしょうか。いいえ、スケッチ画として残しておきたかったので正確 さにこだわって描き移したのですから、見間違いや夢の中のことではありません、断じて。

 

 魂の永遠の生命に向かって進化してゆくことを表わすために、太古の昔から世界中の遺跡の道具類に見ることができる渦巻き模様ですが、そんな神秘的な妙を左右の両翅一杯に描かれた蝶が部屋の中まで入ってきて、ぼくがスケッチをしている1、2分もの間中じっとしてくれていたことが大きな驚きでした。

 

 まるで、あの世から舞い降りてきた蝶のようで、何だかこの世には存在しない幻影の蝶だから「よく見ておけよ」と言われているようでした。

 

 一方で、ご霊さまは昆虫に姿を変えてこの世に現れる。と聞いていますから、ご先祖のお一人が蝶の姿に変えてお盆のこの日にお帰りになったのかも知れません。

 しかし、あんなに大きな渦巻き模様をつけて、しかも図鑑にも載っていない蝶がお盆の日に我が家に舞い降りた、なんて、気になって仕方ががありません。

 

 この蝶に姿を変えたご霊さまって、いったいどなたなのでしょうか、

 

 それから2,3日過ぎた夜中にも、ご霊さまがお帰りになったのではないか、という昆虫の姿を目にしました。

 ぼくは大体、夜中の2時とか3時に目を覚ましてトイレに行きます。その夜も夜中の3時ころに目を覚まして、用をたして、再び布団にもぐり込んで目を閉じようとしたんです。

 

 まくらにあたまをのせて目に映る目透かし天井を眺めていると、その透かし目から右の方向に延びた名刺ほどの大きさの四角い影が目に映りました。足元に置いたサイドライトの照明による影のようです。

 

 「何だ、あの四角い影は」と凝視していると、なんと、その四角い影が透かし目に沿って動きだしたんです。「えっ、何?」という思いで跳び起きたんです。目をじーっと近づけてみると、暗い目透かしの間に何か、ムシのようなものがいます。

 

 手元にあった顔拭きタオルでさっと追っ払ってみると、サーっと飛び上がって寝室の出入り口にある柱に停まりました。

 ベッドから降りて顔を近づけてみると、体長が2センチほどの小さくて細長い甲虫でした。

 

 名前の知らないこの甲虫が透かし目の中で動いていたのか、と考えたのですが、ちょっと変です。透かし目の中に入り込んでしまったこんな小さな虫が、どうして四角い名刺のように大きな影を映したのでしょうか。

 

 よく分かりません。たぶん「ご霊さまと一緒だよ」ということをぼくに気付かせるためだったのかも知れませんが、なぜ、透かし目の隙間にいたこんな小さな甲虫が、四角くて大きな影となって映し出されたのかも分からず仕舞いです。

 

 

 盆提灯が飾られた1階のお仏壇に引き寄せられるようにして帰ってこられたご霊さまはそれだけではありません。お盆も開けて盆提灯を片付けてしまった8月の下旬の、外が薄暗くくなってきた夕方の7時前でした。

 

 寝室の雨戸を閉めて安楽椅子に腰を資詰めていました。ほどなくすると、カリカリ、カリカリというかすかな音が耳に入りました。いまだかつて、このような音を聴いたことがありません。

 

 じっと耳を澄ましてみると、今、閉めた雨戸の方から聞こえてきます。この音はカナブンのような甲虫がその前足でアルミ氏の雨戸の枠を引っ搔いているように聞こえたので、今しがたに閉めた雨戸を、今度はそー―っと開けてみたんです。

 

 その途端、サー―ッと虫らしきし黒くて小さなものが部屋の中に飛び込んできたのです。部屋の奥にある柱に停まったものは、手の親指の爪ほどの大きさのカナブンでした。

                                                                     

 こんな風に「窓を開けてくれ」と言わんばかりの合図を受けて、自分の部屋の中に昆虫を迎え入れたことなんて生まれて初めてなんです。今までに一度とshてありません。

 とはいう㎡野の、子のカナブンを部屋の中に入れたままにするわけにもいかず、軽く背中の部分を摘まんで裏くなった屋外に放ってあげました。

 

 お分の記事になると、ご霊さまたちは家族のところにp帰りになるのは作り話じゃないんだよ、教えていただきました。しかし、そこ行動はとても繊細でもの静かなことですから、よほどちゅういをしていないとみのがしてしまうかもしれません。

 

 

 

 

 

その15  ご霊さまを連れて帰ったお葬式

 

 近親者のご葬儀に参列した後は、自分の言動にいつもと違う変化がないかどうか、注意を払いましょう。お浄めのお塩を振りかけて軽く払う、などして、亡くなった人の霊や邪気に憑りつかれることがないようにしましょう。

 

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 平成24年の正月は、新潟に住むムスコ夫婦がぼくの家に遊びに来て、4日から1泊2日の日程で銚子市の海側にある犬吠埼温泉に出かけました。

 うららかな春の海を眺めながらの、のんびりとした朝食を済ませて太平洋が一望できる犬美宇埼灯台の辺りを探索していると、同じ新潟に住む嫁の父親から「母が危篤だからすぐ帰れ」という電話連絡が息子の嫁の携帯に入りました。

 

 急いで帰り支度をして成田の自宅に戻り、夕方、息子夫婦は鉄路で新潟に向かいました。「何とか道答えて欲しいな」と気をもんでいたぼくと妻でしたが、翌日の夜「6日の午後9時に息を引き取った」との悲報が息子から届きました。

 

 1年ほど前に肺のがんが見つかり、新潟市内の病院で入院加療していた奥さまでしたが、その甲斐もなくあの世に旅立ってしまいました。ご主人の悲しみを察すると余りあります。享年60歳の若さでしたから。

 

 奥様が入院した当時にぼくはお見舞いに伺って お顔を拝見しましたし、それから半年保だが立って外泊が許されるようになった昨年の夏にもお目にかかりました。その時だって息子夫婦のマンションの一室で昼食を摂身にするなど和やかに会話を交わされていました。

 

 その時の奥さまはとてもお元気そうで、入院当時と比べてもずっと顔色も良く、手を添えることなく一人で立ち上がれるほど回復しているように見えました。「元気になったら、ぜひ、成田にお邪魔させていただこうと思っていますのよ」と何度も何度もおっしゃられていたことが耳に残っています。

 

 可愛い娘の嫁ぎ先を一度でも見ておきたいという希望が叶えられずに、さぞかし、心残りだったに違いありません。

 

 奥様の身体の中に棲みついたがんという生き物が どれほどの大きさと重さなのか分かりませんが、そんなものが生き生きと活動していた奥さまの肉体を蝕(むしば)み、心臓の鼓動まで止めてしまうなんて、自然界における人の命のはかなさ、もろさというものをいやというほど感じさせられます。

                                    

 1月8日と9日の2日間にかけて通夜と告別式を行う、との連絡が入りました。息子夫婦が住んでいるマンションは部屋数が少ないので、ぼくと妻は新潟駅前にあるホテル東横インに前泊して、そこから式場に向かうことにしました。

 

 市内港南区の東船場(ひがしふなば)にある斎場での通夜と告別式は終始滞りなく執り行われて、ぼくと妻はその日の午後に帰路につきました。

 

 JR新潟駅発15時18分発の新幹線に乗り込んだのですが、空いた座席を見つけて腰を下ろすや否や、ぼくはこの上なく強い睡魔に襲われて上野駅に到着するまでの2時間余の間は一度も目を覚ますことがなかったんです。、

 

 JR上野駅に到着するや否やパッと目が覚めて「ああ、とても疲れたみたいだ」と感じたのですが、今までに経験したことのないほどの強い睡魔だったことに驚いたんです。とはいっても、目覚めた気分は悪くなく、上野から京成スカイライナーがちょうど出発するタイミングだったので、それに乗り換えて京成成田駅に向かいました。

 

 そして京成成田駅に津着したのが夕方の7時過ぎだったのですが、ライナーの車内での眠気はありませんでした。

 

 「夕食を駅前で済ましていこうよ」ということで、王将というちゅかレストランに入りメニューを見せてもらいました。ぼくと妻は指先で指しながら「これがいいね」と、チャーハンと餃子のセットを2つ注文したんです。

 

 間もなく「お待ちどうさま」と言いながらテーブルの上に運ばれたチャーハンと餃子セットはいつものようにてんこ盛りでした。どんぶりを伏せたような大盛りのチャーハンとシュークリームのようにぷっくりとした餃子が6つもお皿に載っています。

 

 このメニューを頼んだ時のぼくは、いつも半分ほどのチャーハンと2つ余の餃子を残していたので「量が多いから無理をしない方がいいよ」と妻にも伝えておきました。

 

 「やれやれ、お疲れさま、お葬式も無事に終わってよかったね」と、チャーハンを頬張り餃子を摘まみながらあーだこーだとおしゃべりをして残りの餃子を摘まもうとしておさらに目をやったとき「えっ」とぼくは思わず小さな声をあげてしまったんです。

 

 ぼくのトレイに載ったチャーハン皿はおロコ、ぎょうざおさらにも何も残っていなかったからなんです。

 

 それを目にした妻が「小食のお父さんが よく食べられたわね」と笑みを浮かべて茶化したので「おまえとおしのおしゃべりに夢中になっていたら、二人分の量を食べてしまったようだ」と自分でも信じられない気持ちでした。

 妻のトレイに目をやると、半分ほどのチャーハンと2つの餃子が残っていました。

 

 9時過ぎに自宅に着いて、いつものように10時には寝床にもぐり込みました。そして、いつものように夜中の3時ころに目が覚めたのでトイレに行こうとベッドを下りたんです。すると、シューシューというスリッパを履いて廊下をすり足で歩いているような音が2階から聞こえてきたんです。一瞬、からdの動きを留めて耳を欹(そばだ)てたんです。

 

 その音は2階の廊下を行ったり切ったりとうろうろしているように聞こえました。「ご霊さんがきているんじゃないか」と気付いたらトイレに立つことができなくなりました。足のないご霊さまでも「さわさわ」とか「シュシュ」と言った音を出すので分かります。

 

 1分足らずでその音は聞こえなくなったので、それから2,3分経ってそー―っと忍び足でトイレに行き、用をたし、再び寝床にもぐり込みました。

 

 明くる朝、いつものように6時に起床して妻を起こしに行くと、布団に入ったままの妻がこんなことを聞いてきたんです。「今朝、4時ころに私の部屋のドアをノックしなかったか」と。

 「いや、ノックなんかしないよ。オレは夢の中だっだたよ」と答えると「誰かがノックしたのよ、1回だけだけど」と気味悪そう吾顔を向けていました。

 

 これで分かりました。亡くなった新潟の奥さまのご霊さまが、葬式に参列したぼくの背中に憑(と)りついて、ぼくと一緒にこの自宅まで連れて来られたんです。あのスカイライナーの車内での堪(こら)えようのなかった睡魔も、てんこ盛りチャーハンと餃子のセットを残すことなく平らげたのもこのご霊さまがなさったことなんだな、と気付きました。

 

 「ぜひ、成田にお邪魔したい」という奥さまの強い希望が叶えられて、本当に良かったと思いました。

 

 人は生前に抱いていた強い「思い」というものを、ご霊さまになっても持ち続けていて、それを実現しようとする執着の強さに驚かされます。亡き故人を正しくお祀りして、心安らかにお過ごしいただくのが、この世に生きるご遺族の役割なんだな、と思いました。

 

 

 

 

その16 こういう人だとは思わなかった

  

 スパーマーケットの駐車場に並べたぼくの車の隣の車から降りてきて「車をぶつけたでしょ」と言いがかりをつけてきたおばさんは、認知能力の衰えを自らさらけだし、カラオケクラブの例会で「少し静かにして欲しい」というぼくの一言に反発した会長と唄の指導先生は、理不尽な暴言をぼくに向けて言い放ったことで、会員の皆が辞めてしまいました

 

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 つい先日の2021年1月18hの午後でした。食材を購入しようとちょっと離れた地域にあるヨークマートスーパーに車を走らせて、右隣りが空いている駐車区画に車を滑り込ませまし

た。

 

 「よし、OK}とばかりに車を降りて駐車の状態を確認すると、後輪が駐車区画の左側の線上に載っていて、左側区画に注射している車との間が、人が通れるか同課の狭さになっていることに気が付いたんです。

 

 「これじゃ、ちょっと迷惑だな」と思ったぼくは、再びハンドルを握り、車をもう少し右側に寄せようとバックさせました。途中で隣の車のミラーに自車のミラーが接触しそうなことを隣の車に乗っていたおばさんが手で合図をして教えてくれたのです。

 

 「気付いているよ」と手で合図を返しながら接触することなく後ろに下がることができました。そして、再びその区画に車を入れたのですが、今度は右側の区画に少し食い込んでしまったことが、車を降りてみて分かったんです。

 

 でも「まあ、いいか、混んでいないしな」と、ぶつかり酢になったミラーのことのお礼のつもりで「どうも」と手を挙げたら、そのおばさんがじぶんのくるまからでてきてぼくの前に立ちはだかったんです。そして「車をぶつけたでしょ」と、詰め寄ってきたんです。

 

 おかしなことを言う人だなあ、と思いながら「いやいや、ぶつけそうになったけど、ぶつけていないですよ。ミラーもよけたしね」と言い返したけれど「イヤ、ぶつけた」と言い張られたんです。だから「何処にぶつかったんですか」とおばさんお車の横に歩み寄って具体的な接触場所を問い詰めたんです。

 

 しかし、その返事は「えーと、えーと」と繰り返すだけで、おばさんの車の左側をくまなく見回しているおばさんの口からは、何の返事も帰ってきませんでした。

 「ほら、どこもぶつかっていないでしょ」ダメ押しをして、早くここから離れたいと思っていたけれど「わあ――っと車が揺れたのよ。だからぶつかったのよ」と、ちょっと訳の分からないことを口に出してきて、引き下がるわけにはいかなくなったんです。

                                             

 狂言だな、と感じたぼくは「警察を呼ぼうか」と問いかけたんです。警察を呼ぼう、と言えば「じゃあ、いいです」と怯んでその狂言も引っ込めるのではないかと踏んだからなんです。

 でも、おばさんの口から出た言葉は「いえ、私が呼びます」という、ぶつかったことに間違いない、と言わんばかりの口ぶりで、自分の携帯から警察に電話をかけようとしたのです。

 

 「その前に、家にいるお父ちゃんに連絡するね」と家で留守番をしているでのであろう旦那さんと話を主ながら「お父ちゃんも警察を呼んだ方がいいと言っている」と言いながら、携帯を110番に繋いでいるようでした。

 

 おばさん自身が警察を呼ぶ、というのだから構いませんが、このおばさんの言動の一部始終を目の当たりにしていたぼくにしてみれば、このおばさんがどんな理由で警察を呼ぶのか、が分からなくなりました。車をぶつけたりこすったりとした車の事故ではないのですから。 

 

 警察と繋がった会話の中でこのスーパーマーケットのある場所を問われて、うまく答えられないでいるおばさんの様子に気付いて、ぼくが代わって電話口に出ました。

 

 「車をぶつけてもいないのに、ぶつけられた、と言い張る人がいるんです」と、ぼくの口から要件を伝えると「場所はどこですか。あなたのお名前を教えてください」と矢継ぎ早に問われたので「飯田町のヨークマートというスーパーの駐車場です。渡部と言います」と答えて電話を切りました。

 

 そのおばさんとは住んでいるところや、このスーパーにはよく来るのか、と言った世間話も尽きて、沈黙となりました。15分ほど経ってスーパーカブにまたがって蛍光反射テープのついたジャケットを着た警察の人2人が目に入り、ぼくの方から手を挙げて近づきました。

 

 そこで「ぶつけてもいないのにぶつけられた」と言い寄られて困惑している、と小声で伝えて現場まで案内しました。

 

 ぼくの車の左側を丁寧に点検した後「ぶつかったのはどこなんですか」とおそのおばさんに問うた警察官の質問に。おばさんがどのように答えるのかを聞き逃すまいと、ぼくは耳を欹(そばだ)てていました。

 

 動揺する様子をまるで見せないおばさんは「えーと、えーーと」と自分の車の左側をくまなく目で追っていたけれど、言葉が出ません。挙句の果てに「運転席にいたら ふわ――と車が揺れてお腹の辺りにズンという衝撃があったから、ぶつかったに違いないんです」なんて、先ほどと同じことを言い出したんです。

 

 そうこうしていると千葉県警の文字の入ったワンボックスが到着して、4,5人の交通係という職務の人たちが加わって総勢7,8人による現場検証になってしまいました。免許証と車検証の提示を求められた上に、ぼくの車を少しバックさせて左側側面の擦り傷の譲許王調査を行ったのですが、当然ながらなにも出ませんでした。

 

 警察による調査はドライブレコーダーの画像確認に移り、おばさんの車に取付けられたレコーダーの画像を警官二人がかりで10分ほどかけて調査していました。

 それが終わってぼくに顔を向けて「レコーダーはついていないのか」と聞いてきたので「乗る機会も少ないし、遠乗りも市内のおでレコーダーはつけていません」と答えると、ニヤッという笑みを浮かべて背を向けました。

 

 その笑みが「レコーダーは使用頻度や遠乗りや近乗りに関係なく事故調査の動かぬ証拠として重要なんだよ」と言っているようで、自分の認識のなさを見透かされたようでした。

 

 レコーダーの画像からも事故である証拠がなく「車がぶつかるとへこみやこすれといった目に見える傷がつくのですよ」と、おばさんを諭すような言葉が聞こえてきて、警察の調査はそれを機にして、このおばさんがぶつけられたと思ったのはどのような理由なのか、という点に集中したようです。

 

 ぼくは、少し離れたところから眺めている傍観者になりました。暴漢の時間も10分20分と長くなってきたし、買い物の途中でもあったので「ぼくはまだ、帰っちゃだめですか」と交通係の一人に聞いてみたんです。

 

 現場のリーダーに相談したその警察官は「あなたはお帰りになって結構です」という返事をくれて、時計を見ると、もう4時を回っていて1時間半ぶりにおばさんの言いがかりから解放されました。

 

 帰り道に車の中からおばさんの姿を探すと、3,4人の警察官に囲まれて何やら離しをしている姿が目に映り「あ、これはおばさんの認知能力が問われているな」と即座位に思いました。

 

 ぶつけられた痕跡などどこにもないのに、ぼくにぶつけられた、と思い込んで警察を呼ぼうとしたおばさんの言動は、間違いなく認知能力に問題があるように見えるし、それを察知した今朝掴んは所持している運転免許証の適格性に強い疑いを持つのは当たり前だからです。

 

 でも、このことは、このおばさんにとって良かったのではないかな、と思いました。なぜなら、こんな些細なトラブルによっておばさんの認知能力の低下が明らかになって、免許証を取り上げらえるのですから。

 

 もし、このトラブルが発生することもなく、認知能力が衰えたまま運転をし続けていたら、いつか必ず、人の身体や車両に大きな損傷を与えるような重大事故を起こして「ごめんなさい」では済まないことになる可能性を十分に予見できるからです。 

 

 その後、ぼくは別のスーパーで夕食の食材を買い入れ、自宅にも泥ました。「ずいぶん時間がかかったわね」と女房が声をかけてきたので、その一部始終を話しました。

 夕食後、一人になったぼくは「あのおばさんが、ぼくに言いがかりをつけてきた理由はいったい、何だったのだろうか」と考え込んでしまいました、

 

 なぜなら、おばさんの車の隣にたまたま注射しただけなのに「ぶつけたでしょ」と言いがかりをつけられて困ったなあ、ということになって警察を呼ぼう、という気になったからからなんです。

 

 けれど、それに怯(ひる)むことなく自ら警察を呼んで、結局、自ら、自分の認知能力の衰えを免許を管理する警察官の前にさらけだしてしまったのですから。なんだかおばさんに悪いことしてしまったなあ、と思うのですが、その一方で、おばさん自身の認知の雨量の衰えがはっきりとわかり、大きな名事故などを起こす前に免許管理者である警察に指摘されたのだから、大いにおばさんのためになったのではないか、と自分に言い聞かせています。

 

 おばさんの車との間をもう少し広くしようと、自分の車をバックさせたときに、ミラーがぶつかりそうになったことをわざわざ教えてくれたおばさんの姿を見て、ぼくは認知力が低下しているような人だとは微塵(みじん)も思わなかったし、おばさん自身も同じ思いだったであろうと思います。

 

 でも、おばさんの認知能力という感覚は、年齢の積み重ねと共に深く、静かに、確実に、

容赦なく低下していきました。それに気付かせてもらったのだから、おばさんにとってとてもハッピーだったのではないのかな、と思うことにしています。

 

 そういえば、同じような来tがいぜんにもあったよなあ、と2年ほど前に起きたあのことを思い出したんです。

 

 あの時、人の隠れた心の内をさらけ出したこととは、こんなことでした。ぼくは平成31年4月でしたか、地域のカラオケクラブに入れてもらいました。73歳にもなるぼくにとっては

気楽に参加できそうだし、サラリーマン時代には飲み会があるたびに「お前唄えよ」とひっぱりだされて、酔った勢いとはいえ人前で歌うのは嫌いではなかったからです。

                                                                              それに、自由な時間が多い老後を少しでも元気に、はつらつと暮らせたらいいなあ、という思いも強く持っていたからでもあります。

 しかも、早期退職によってJALのサラリーマンを辞めてからの10数年は不動産取引業を営んでいて、唄を口ずさむことなんかまったくなかったので、しらふで唄うことに慣れるために、と月に1回のカラオケ教室に1年間通ってみた、という準備をしてのことでした。

 

  そのカラオケクラブの例会は、毎週日曜日の昼12時から午後の3時までというものですが、個人の都合によって会場の出入りは自由になっていました。

 会長は大谷さんという見た目がぼくよりも2つ3つ年上で、はっきりした言葉遣いをする人でした。

 

 しかし、このクラブに入会したのっけから出鼻をくじかれてしまいました。大谷会長からの「渡部さんは何年生まれですか。教えてください」という耳打ちに「昭和20年です。ちょっと自己紹介をさせてくれませんか」と自分の希望を伝えたのです。でも、「それはしなくていい」というのです。 

 

 「あれ、どうしてですか」と聞いてみると「オレもしなかったから」という」という返事が返ってきて戸惑いました。初めて顔を合わせる人に対する挨拶としては「まず自己紹介」という気持ちだったぼくにしてみれば、「どうしてその時間をとってくれないのだろうか」と、この会長の意図がとても奇異に映りました。

 

 人それぞれの考えというものがあるとは思うけれど、初めて顔を合わせる人たちの中に新人一人をぽつんと置いて、メンバーの皆さんを紹介すらしてくれない対応に接したことは、今までに一度もありませんでした。

 

 しかも、その理由が「オレもしなかったから」とは、その対人文化に驚きました。会長の気持ちがどのようなものなのか、伝わってきません。

 

 幸い、座った席の順番に持ち歌を披露すればいいので、気遣うことは何もなかったのですが、話しかけられることも、何か問われることも、唄い終わった後の「付き合い拍手」も起きることもなく、ただただ淡々と各メンバーの唄声が流れていくだけでした。

 

 そんな光景を見ていて、メンバー各人の名前など知らなくても何の不都合もないし、メンバー間の交流も気に掛けることはないのだな、と気が楽になりました。

 

 次の週になると緊張もだいぶ取れて美奈さんの唄声が耳に入るようになり、お年寄り特有の艶のないかすれ声と抑揚に乏しい平坦な唄い方ながら、一生懸命のマイクを握る姿に「いつまでも元気でいられていいなあ」という感動すら覚えました。

 

 その次の週でしたか、メンバーの男性一人が唄い終わると、3,4人の女性陣の中にいた一人が「♫涙の~~というところは、ミ、ソ、ラと続くから、もう少し高い音にしなければね」と音階の指導をし始めたので、この人が先生で楽譜も読めるような音楽の勉強をしてきた人なんだな、と分かりました。

 

 そこに大谷会長がやってきてぼくのすぐ前に腰を下ろし「いま、指導してくれたのが芦田先生で、その後ろの人が誰々で…」なんて席に座っているメンバーたちの名前を一人一人教えてくれようとしたんです。

 

 でもそんな紹介の仕方では顔をよく見ることも出来ないし、今流れているメンバーの歌唱も聴きたかったので「メンバーの唄声が流れる中でメンバーを紹介するのではなく、初日に自分の自己紹介とメンバーの紹介をしてくれる時間を作ってくれればよかったじゃないですか」と申し上げたんです。

 

 すると、何も言わずにプイとした顔をして立ち去ってしまいました。何か気に障ったんですかね。新人は入ったりしたら、普通はそんな風に酒買いするんじゃないですかね。

 

 メンバーの一人が唄っているのにそれを聴くこともなく、うろうろしながらぼくの席の目に腰を下ろしてメンバーの紹介を始めるなんて、この会長の行動が理解できませんでした。メンバーの唄声を聴きたかったぼくにとっては、少々迷惑だったんです。

 

 ちゃんと紹介する期間を設けるなどしt歌唱時間と新人紹介時間のメリハリをつけて、各人が

唄いやすく和(なご)みやすい環境を作ってあげることが会長の仕事だと思います。そうすることで、もっともっとメンバー各人が唄うことに集中できて、歌唱の表現が豊かになるのになあ、と思ったけれど、口に出すのは止めました。

 

 「プロの歌手と素人の唄との一番の違いは、唄い方に抑揚(よくよう)といったメリハリがあるかないか、なんですよね」と、月1回の発生訓練講習会での先生から教えていただいたことがぼくの気持ちに響いていて、音階もさることながら、音の強弱や長短、あるいは緩急(かんきゅう)といった音のメリハリをはっきりつける、といった歌い方の技法に重点を置いた練習をしたい、という希望をもって入会したのです。

 

 でも、それが叶えられるだろうか、と不安になってきました。

 それから2カ月余が経ったでしょうか、例会がお開きになったとき、教室の右側の奥に座っていた名前の知らない50歳前後のおばさんが近寄ってきて「これ、唄って欲しいんです」とぼくに前にCDを差し出したんです。

 

 そのCDパッケージを受け取ってみると、大崎幸二さんというおじさん歌手が唄う「甚兵衛(じんべえ)渡し」という曲名であることが分かりましたが、ぼくの知らない歌手と曲でした。

 

 帰宅して、そのCDをデッキに掛けて聞いてみると「え~~え~~あ~~あ~~」と母音を長く伸ばすところがとても多い曲でした。しかし、演歌曲なので何度か繰り返し聴きながら、CDに合わせて一緒に唄ってみると全体のメロディーと雰囲気を覚えられて、次の週の例会には歌詞を見ながらこぶしを利かせた演歌調にみんなの前で唄ってみたんです。

 

 すると、並木さんというそのおばさんがとても喜んでくれて、毎回のように「甚平さんを唄ってよ」とリクエストしてくれるようになりました。

 

 それからまた、2ヶ月ほど経った夏の時期でしたか、こんなことがあったんです。コロラティーノというムードコーラスグループが唄う「思案橋ブルース」という曲をムードたっぷりに揺らぎをつけて唄い終わると「いいぞ、いいぞ」とみんなが拍手をしてくれて、中には起ち上ってとても喜んでくれたおじいちゃんがいたんです。

 

 「ご声援ありがとうございま~す」と、ぼくも手を振るなどしてそのおじいちゃんの声援に応えたのです。しかし、その時にぼくの目に映ったのは、みんなが起ち上って喜んで拍手をしてくれている中にあって、一人だけ渋い顔をして下を向いたままにしていた、あの先生と呼ばれている芦田さんの姿だったんです。

              

 

 芦田先生だけが拍手をしてくれなかったんです。みんなと一緒に喜んでくれなかったんです。その芦田さんの姿を目にしたぼくは「あ、この人は、何か、気持ちの中に「歪(ゆが)み」のようなものを持っているんじゃないかな」と感じました。

 

 その「何か」が分かる日が1ヶ月後にやってきました。10月でしたか、石原詢子さんが唄う「通り雨」という曲をコブシと揺らぎが聴かせどころの女唄を唄っている途中で、メンバーの誰かの話し声が耳に入ってきて、スピーカーから流れる伴奏が聴こえずらくなったのです。

 

 一時、歌唱を中断してメンバーたちの方に目を移すと、あの先生と呼ばれている芦田さんが背中をこちらに見せて後ろの人と雑談をしている姿が目に入りました。すぐに伴奏が聴こえてきたので、再び、唄い始めて何とか歌い終わったのですが、ぼくの気持ちは治まりません。

 

 

 そこでぼくは、唄い終わって自分の席に戻る前に会長の席に立ち寄って「人が唄っているときは、少し静かにするよう伝えてくれませんか」と女性連中が座る席の辺りを指さしてお願いしたんです。

 

 それに対する即答はなかったのですが、自分の席に戻るや否や「そんなこと言えねえ」という会長の声が聞こえてきて、そんな苦言をこの先生には恐れ多くて言えない、という気持ちだと捉えたんです。

 

 こんな場合「誰かが唄っているときは少し静かにしようや」というような名指しをしないような言い方だってできるのに、それすらしてくれないのか、と情けない会長だなと思いました。「あんたは会長だろう」といいらかったけれど、相手が先生だから遠慮しているんだろうな、とかいしゃくして、その日はそれで終わりました。

 

 次の週もいつものようにクラブの例会に加わり、いつもの席に着いて唄が始まるのを待ちました。ところが、いつもと違って厳しい顔をした会長が時間通りに現れて「最初に会議を始めます」と切り出したんです。

 そして「静かにしてくれ、という渡部さんの依頼だけど、あなたが唄うときだけ静かにしますよ」なんて言い出したんです。

 

 「はあ~?ぼくが唄うときだけ静かにする?何ですか、それは」と、これが先日、少し静かにしてくれるよう会長にお願いした対応策だったのか、とそのあまりにも子供っぽい対応策に驚きました。自分のときだけ静かにしてくれ、とお願いしたのではないんです。

 

 人が唄っているときは、伴奏の音を邪魔するようなことは控えた方がいいんじゃないですか、

という意味なのですが、どうも真っすぐに受け取ってはくれなかったようです。これは「意地悪」とか「嫌がらせ」という範疇の仕返しだな、とぼくは上とったのですが、あの甚兵衛渡しを唄って欲しい、とリクエストしてくれた並木さんからも「それじゃあ、仲間外れじゃないですか。少し静かにすればいいなじゃないですか」と反論する意見も出てきたんです。

 

 加えてぼくからも「そんな特別なことをされると唄いにくくなりますね」と、その対応策には賛成できない旨を伝えました。

 

 他のメンバーからも反論された会長の声は急に大きく乱暴になってきて、あげくのはてに「このクラブは雑談クラブだじゃらうるさくていいんだよ」なんて言い出したんです。「雑談クラブ?いつから雑談クラブになったの?」と多くのメンバーが奇異に感じたに違いありません。

 

 カラオケクラブの会長が、自ら「雑談クラブだからうるさくてもいいんだ」とは、余りにも稚拙で論点を捻じ曲げた発言としか言いようがありません。

 本来なら「このカラオケクラブはうるさくてもいいんだ」と大見得(おおみえ)を切りたかったんだろうけど、さすがにそうは言えずに「雑談クラブだから」と現実を反らした「ごまかし」を言わざる得なかったか会長の胸の内が見て取れます。

 

 会長自らが率いるこのカラオケクラブを「雑談クラブ」と言い替えたことで、この議論の焦点をぼかしたと同時に「何を言っているんだ、この会長は」と会長の発言から説得力というものを喪失させてしまいました。

 

 つまり、うるさくてもいい理由をこの会長は「カラオケクラブだから」とは言えなかったわけで、裏を返せば、カラオケクラブは静かな環境で練習する方がいいに決まっていることを承知していたわけです。

 

 けれど、「メンバー渡部の言いなりにはならない、なりたくない」と言い張る芦田先生の意向に逆らえなかったのでしょう、きっと。芦田先生の意向に沿うよう「うるさくてもいいんだ、雑談クラブなんだから」と言い替えたのでしょう。

 

 でもそれは、うるさくてもいい理由にはなっておらず、会長の言動として説得力を持たないばかばかしさが表ざたになってしまいました。カラオケクラブを立ち上げてそこそこもメンバーもそろってきたのに「雑談クラブだから、うるさくていいんだ」と言い張る会長と先生の気持ちは、どうしてもぼくには理解ができないんです。

 

 結局、屁理屈をこねてでもうるさくてもいい理由を言いたいがために、本来のカラオケクラブを「雑談クラブ」に変えるまでして、齢(とし)を重ねたメンバーを前にして啖呵(たんか)を切ったのです。

 

 しかし、その割には怪訝な表情を向けるメンバーが多く、「うるさくてもいい」という理由にはなっていなかったんです。例え雑談クラブと言えども、うるさくてもいいわけではないからです。

 

 雑談というのは、様々な内容を気楽に話す琴であって、決して騒々しく大きな声を張り上げて話をすることではありません。会長のいい方からすると、雑談をしているのだからうるさくてもいいように聞こえますが、そうではありません。

 周りがうるさければ雑談もできないし、そもそもがこの集まりはカラオケ好きな人が集まったカラオケクラブであることを忘れないで欲しいと思います。

 

 だから「雑談クラブだからうるさくていいんだ」という会長の発言は屁理屈(へりくつ)、無理にこじつけた理屈なんです。それに気付かなかったのは会長と芦田先生だけだった、というとても滑稽な言い訳になってしまいました。

 

 

 ちょっと考えてみてください。メンバーの皆さんは日常のヒマつぶしのためだけでここにきているのではないはずです。毎年の秋に開かれる成田地区の歌謡曲大会の舞台に立つために少しでもうまく唄えるようにと連取に励んでいるんです。

 

 それなのに「雑談クラブだからうるさくてもいいんだ」という発言は、会長という立場の人の口から出た言葉とは思えないほどメンバーの気持ちを逆なでした発言としか聞こえんません。メンバーの誰もが「雑談クラブ」のメンバーだなんて思っていないからです。

 

 この会長の「目的を忘れた屁理屈」は多くのメンバーの失笑を買い、メンバー各自の夢や希望を摘み取ってしまったのではないかと思います。

 

 続けて「人が唄っているときは静かにするのがマナーじゃないですか」とあえてぼくが付け加えると「マナーなんてどうでもいんだよ」とけんか腰となり、すっかり会議の体(てい)をなさなくなりました。

 

 「マナーなんてどうでもいいんだ」なんて会長が言い出したら、このクラブ活動も長くはないな、と感じたし、会長の心情が窮地に立たされていることが見て取れました。

 

 まるで、電車の中で足を突き出してすわっているおやじさんに、若い男が「少し足を引き込めてくださいませんか」と注意されて「なんだと!」と逆切れした昭和のがみがみおやじのようです。

 

 れっきとしたモラルハラスメントで、こまったものです。メンバーが唄っているときに「うるさくたっていいんだ」という会長のhΤ減は、モラルに反した嫌がらせ、としか言いようがありません。

 

 みんなが和やかい、みんながうまく唄えるようなクラブにしたい、と言う気持ちがこの会長の気持ちの中に少しでもあったのなら、きっとそんな言葉は出て粉化ttだろうな、と思いました。

 より良い雰囲気で、よりうまく唄を唄えるようになりたい、というメンバーみんなの気持ちを逆なでするような大きな声と興奮した顔をこちらに向けて、屁理屈なことをこじつけて怒鳴りつける、という会長のパワハラ的指導の本性がみんなの前にさらけ出してしまいました。

 

 「メンバーが唄っているときは、私語を慎んでもらえませ禍」というぼくの希望を耳にした会長は、どうしてこんなに怒りだしたのでしょうか。

 

  この会長の怒鳴り声が途切れた後に、あの芦田先生がすっくと立ちあがったのです。「あ、快調と先生はつるんで悪だくみをしたんだな」と分かりました。「私らに文句を言う奴は黙っていない」とこの比とも高圧的です。

 

 そして「私らのおしゃべりがうるさいというなら、あんたは後ろの方あのおじちゃんとおしゃべりをしていなよ」とか「後ろの人と無駄話をしているんじゃないんだよ」と、自分の言動がメンバーに迷惑をかけてしまったことを棚に上げて、その苦言を言った人をせめたてる、というカラオケの先生とはとても思えない乱暴な口調で言い訳をまくしたて始めたんです。

 

 物事には程度というものがあって、その程度と言うものをわきまえた人なら恥ずかしさのために抑えてしまうような罵声を平気な顔して発し、しかも、大げさな身振りと手振りを交えて、女房もあ影人の子供もいる一家の旦那であるぼくを指さして言い放ったんです。

 

 先の怒り文句に出てきた「あのおじいちゃん」とは、ぼくの唄を聴いて「いいぞ、いいぞ」と立ち上がって拍手をくれた80過ぎのお年寄りです。よほど、ぼくの苦言が気に入らなかったのでしょうが、ぼくの唄声に大きな拍手をして喜んでくれたこのおじいちゃんまでも気に入らなくなってしまったようです。

 

 少なからずの異常さを感じるし、メンバーを前にしての言いたい放題ぶりには羞恥心さえも忘れてしまったようです。他人から苦言を言得荒れたことで怒りだしたこの先生は、自分の言動が他人に迷惑をかけてしまった、という自覚を持つことができなっか訳で、何だか、物事の良し悪しを判断するf分別を持ったご婦人がするような反論とは大きくかけ離れたものでした。

 

 この芦田先生は、ぼくから言われた「少し静かにいしてくれませんか」の苦言を耳にして、どこが気に障ったのでしょうか。うるさいことなんか、していなかった、とでも言うのでしょうか。

 

 ちょっと時間を戻してみました。歌唱中にテープの伴奏が聴きずらくなったぼくが先生たちの方に目を向けると、背中を向けて後ろの人と雑談をしている芦田先生の姿が目に入りました。それを目にしたぼくは、少し静かに話すよう会長にお願いしました。

 

 すると会長は「先生には言えない」とつぶやいたんですが、時をずらして先生に伝えたのでしょう。問題はその伝え方です。「先生、メンバーが唄っているときの私語は慎んでください」と会長からの注意として伝えたのではなく、「メンバーが唄っているときは、静かにして欲しいと新人の渡部が言っていますよ」と、自分の意見ではないことを強調して伝えたんだと思います。

 

 その理由は、たぶん、歌唱が一番上手な先生から睨(にら)まれたくなかったからだと察します。この先生に苦言を言って気まずい関係になれば自分の立場が危うくなってしまう、先生の言うことを聞いてさえいれば、今の会長という立場は安泰だ、と踏んだのだと思います。

 芦田先生にしてみれb、自分の意見が通りやすくなるよう、自分の言うことを聞き入れてくれるこのイエスマンを会長にしたのでしょう。

 

 一方、ぼくたちからみれば芦田先生のイエスマン という情けない男の姿に映りました。メンバーのみんなが楽しいカラオケクラブにすることが司会業務の一つだと思いますが、この会長は、この先生の苗では中庸な気持で采配することができなかったのだと思います。会長としての役割を果たしていない、ということです。

 

 一般的に言って、人からくげんを言われれば「あ、気が付か荷でスミマセン」と、まず自分の非を認めて詫びるのが節度をわきまえた人の振る舞いです。異論があればそれに続けて「これこれしかじかの理由があるのです」とその理由を述べて理解を求めればいいことです。

 これでお互いが理解と納得をしあえるのだと思います。

 

 この場面でいえば、メンバーが唄っているときは、声が外に漏れないようもう少し小さな声で会話をすればいいことです。なのに先生は「ふざけんなよ」ということでした。「うるさいというのなら、あんたが後ろに下がればいい」とも言いました。メンバーの一人に迷惑をかけておいて、何が「ふざけんなよ」で「あんたがうしろにさがればいい」なんでしょかね。

 

 まるで、町のチンピラと同じように、人を見下したような傲慢で威嚇的なふるまいです。唄の指導をする先生たる立場の人がとるような態度とはとても思えず、驚きました。

 

 しかも、会長と先生二人つるんで「雑談クラブ」に名を変えてまでしt、うるさくてもいいんだ、と言い張るように企(たくら)んだようですが、導師絵ぼくが底まで反感を買わなければいけないのでしょうか。

 「少し静かにして欲しい」と言われたことが、それほど腹を立てることなのでしょうか。

 

 このような場合、会長から「少し静かにしようや」の一言で事足りたはずなのに、この会長は反感を抱いた先生に同調してしまい、その一言すら言い出せませんでした。どうしてなのでしょうか。

 

 旧(ふる)くからの友達だったのかもしれないけれど、カラオケクラブの会長が「雑談クラブだからうるさくてもいいんだ」の反論は、いくら何でも話の筋が通らないでしょう。

 雑談クラブであろうとカラオケクラブであろうと、ある目的で人が集まればうるさくしてもいいはずはないのです。話をごまかそうとしているのでしょう。

 

 このサークルは紛れ㎥なくカラオケクラブという名前で活動しているのですから、そこまで食い下がる二人の姿を見ていると、何かが隠れていそうな気がしてきました。

 

 落ち着いてよく考えてみると、その理由はいくつか浮かび上がります。まず、先生に苦言を言ったぼくが、まだ入会後の日が浅い新人会員だったという点と、それともう一つ、ぼくの歌唱が思いのほかメンバーに歓迎されて大いに受けていた、ということだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 その8 PCが教えてくれた妻の脳卒中   続き

 

 何とありがたいことでしょう。きっと、ぼくが再び神教真ごころの信者になって、1階の書斎にお祀りしたお位牌が、霊界のしきたりでは「逆(さか)ごと」ではないのか、と気付いて2階に移動することに決めたからに違いありません。

 

 すなわち、お位牌の祀り場所を1階から2階に移動しようと決めたことで霊障が解けて、ぼくの緑内障は視野の欠損という後遺症は残ったものの、今までと同じ目薬が点けえあるようになりました。

 それと同時に、妻に襲いかかっていた脳卒中の霊の障りも解けて、皮膚感覚は元にも踊らないという後遺症は残ったものの、以前と変わらない元気な会話と小さな文字もすらすらと書けるようになりました。

 

 しかも、あのぶらっとしたままの右手、右足もほぼ自由に動かせるようになり、杖を使わなくてもヨチヨチと歩けるまでに回復したのです。

 

 そして年が明けた平成27年の2月8日に行われた祖霊祭りのときに、点灯するはずのない球切れペンダントを、ぼくと妻の目の前で明るく輝かせて「うん、それでいい、お位牌は2階に祀るのがいいよ」と伝えてくれたのですが、そのことが、ご霊さまの指示によるものだという何よりもの証(あかし)だと思います。

 

 平成26年5月に引き起こした脳卒中から1年が経った今、平成27年の5月です。ぼくも妻も古希を迎えましたが、ご霊さまに対するぼくの無礼ごとによってこの脳卒中が引き起こされたことを、妻はいまだに知らずにいます。避けようにない災難に遭ったから仕方がない、と思っているはずです。

 

 というよりも、妻の脳卒中も、ぼくの緑内障も、2階にお祀りすべきお位牌を1階にしてしまったぼくの過ちが原因なんだよ、と説明しても、「そんなことあるわけないじゃない」という表情をして一笑に付されてしまったんです。

 

 無理もありません。神教真ごころの信者になったこともある妻ではあるけれど、霊の障りという目に見えないものによって引き起こされる身体の不調という現実がこの世には歴然と存在することを強く感じていたのは、ぼくだけだったのでしょう。

 

 霊界で生きておられるご先祖の皆様のお気持ちが、この世に生きるぼくたちの人生を幸せにも、不幸せにもできる、ということに、妻は思い巡らせることができなかったのでしょうから。

 

 お位牌というものは、その建物の最上階にお祀りする、という神教真ごころの教義を知っていながら実行しなかったぼくは、その戒(いまし)めとして緑内障というモノの見難さで償(つぐな)うことになってしまっただけでなく、最愛の妻にまで不幸を呼び寄せて不自由さが残る身体にしてしまいました。

 

 だから、このことへの代償を、ぼくは生きている限り、背負ってゆく覚悟でおります。

 

 

 

      ――――――――――いかがですか、読者に皆さま。今は亡きご先祖の皆さまを祀り敬うことは大切だと思うけれど、それを怠ったから、と言ってこんな戒めを受けるなんて、ちょっと、作り話のように見えるかもしれませんが、想像や空想ではない、ぼくの体験なのですから仕方ありません。―――――――――――――

 

 

 

その9 お位牌のお焚き上げでめまいが解消

 

 ある日、突然に発症した右肩から右足に至る痛みがだんだんに右足の親指だけに集中してきたことで、痛風だと気付きました。

 医者に駆け込んで処方された痛風の治療薬を飲んでみたものの、副作用として新たに発症しためまいにも悩まされるようになってしまいました。なかなか良くならないめまいでしたが、これを一蹴できたのは、ご先祖の皆さに対する、ある「無礼ごと」に気が付いて、それを正したことでした。

 

       >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

 

 一度退会した神教真ごころですが、ある日、緑内障の目薬のどれもが使えなくなって平成26年5月に再び信者にならせていただき、その目薬に浄め祓いを受けたりしてその境地から逃れることができました。

 

 それから1年半ほど経った平成27年の10月、教団の世話役である関川さんから「教祖様のお住まいだる真ごころ堂(仮名にしてあります)に参拝しませんか」と誘われたんです。

 

 静岡県の熱海市にある「真ごころ堂(仮名にしてあります)と呼ばれる教祖様のお住まいと修業の場を兼ねたお社(やしろ,神を祀るところ)があって、日帰りのバスで参拝するのだと言います。「一度くらいはめておいてもいいかな」ということで、参加することにしたんです。

 

 ところが、この参拝に水を差すかのように出発日の前日の昼頃から右肩と右足の鼠径部にかけてに何か重たいような、気だるいような違和感を感じるようになりました。「大したことはないだろう」と予定通り出発したのですが、熱海に着くころになると、右肩と右足鼠径部の違和感が消え伏せた代わりに、同じ右足の親指の付け根辺りが痛くなってきたんです。

 帰りの車中でもだんだんに痛みが強くなってきて、夕方、自宅に着いた頃には右足を引きずるほどの痛みになってしまいました。「どうしたんだろう、これは」と、思いがけない足の痛みにネットを開いてその病名と原因を探ってみました。

 

 すると間もなく「痛風(つうふう)という病気に罹っていることが分かりました。この痛風になると、足の親指の付け根が腫れあがって風が吹いただけでも跳び上がらんばかりに痛い、と記されていたし、自分と同じように、親指の付け根が腫れあがった写真が紹介されていたからなんです。

 

 翌日、近所のかかりつけ医である立花医院で診てもらうと、間髪入れずに「痛風だね」という診断でした。痛風というのは、血中に溶け込んでいる尿酸というエネルギーの代謝を行った後の残りカスが一定量を超えてくると、時に足の親指という体温の低い部位で結晶化して激しい痛みを生ずるのですよ、と教えてくれました。

 

 さらに「この痛みが引きまで静かにしておいて、その後に尿酸値を下げる薬を飲みましょう」と知量の計画を示してくれて、高くなった尿酸値の確認のための採血と頓服による鎮痛薬ロキソニンを処方してくれました。

 

 痛風患者にありがちな美食家や大食漢とは全く無縁の粗食で小食の上に虚弱な体躯のぼくですが、50歳を過ぎたころから尿酸値が高くなり出したのです。そんなことでプリン体を含む食事を控えてきたのですが、尿酸値の基準値1デシリットル(dl)当たり7.0㎎に対して1割ほど多い7,6mgで「要観察」のレッテルを貼られてきました。

 

 でも、今までにこれといった悪さをしたことがなかったので、特別な処置をすることのない経過観察の状態で過ごしてきました。それがここへきて突然に血中の尿酸量が一定量を大きく超えてその一部が結晶化して激しい痛みをもたらすようになりました。

 思ってもみなかったこの現象が、今、ここで起きたのはいったい何が原因なのでしょうか。

 

 それから2週間が過ぎてあの激しい痛みも和らいできたので、再び立花医院を受診しました。

前回採取した血液検査の結果を見ながら先生は「やはり8,2ミリと高かったね」と伝えてくれました。

 

 続けて「尿酸の育成を抑える薬を出すから、6ミリぐらいの尿酸値になるように目標を持つといいですね」と1日1錠を服用するフェブリク錠の中で最も含有ミリ数の少ない10mgを処方してくれました。

 

 早速、翌日から朝1錠のフェブリク錠を飲み始めたのですが、2,3日経つと下痢を繰り返すようになったので、、1錠のフェブリク錠をカッターで半分にして体調を気遣いながらの飲み続けていました。

 

 ところが、11月14日の夕食後、突然に激しい下痢と嘔吐に襲われて、便器を抱えたまま20分余も動けなくなるほどの激しい状態に急変してしまったんです。医者に処方された薬剤で

これほど辛い副作用にみまわれたことは今までに経験したことがなく、よほどぼくの体質がこの薬に合わなかったんだなと、とても驚きました。

 

 しばらくの時間横になっていると落ち着いてきたので、このフェブリク錠の添付文書をネットで開いてみました。すると、下痢については頻度が1%未満の欄に明確な記載がありましたが、嘔吐については記載がなく、腹部不快感とか悪心といった嘔吐には至らない状態の記載が同じ1%未満の欄に記されていて、ぼくの場合は「これが過敏に反応したんだな」と理解しました。  

 フェブリク錠の副湯を止めてお腹の具合も落ち着いてきた二日後、再び立花医院を受診してその病状を先生に伝えました。すると先生は「薬が合わなかったのでしょうから、別のものに換えましょう」と、フェブリク錠とは作用機序の違うトピロリック錠20ミリを1回1錠、1日2回の処方で出してくれました。

 

 そして、体調を十分に整えた2日後の朝から1錠を二初めて、その日の宇宇賀田も1錠を飲んで寝床に就いたんです。

 

 ところが、いつものように夜中の3時ころに目が覚めてトイレに行こうとベッドの上で起き上がろうとしたら、グラグラというめまいに襲われて起き上がることができなかったんです。ムカムカとしたこみ上げるような吐き気とひやーっとした冷や汗を伴ってとても尋常ではありません。   

            

 手足が不自由な妻を起こすわけにもいかないので救急車を呼ぼうかと思ったのですが、かつて経験した血圧の急上昇も疑って、横になったまま血圧を測ってみました。その結果は130ミリ余で気持が動揺している割には「高くないな」と分かると、気分も落ち着いてきたんです。

 

 しかし、また起き上がろうとして頭の向きを変えるとグラッとするので、そのまま朝まで横になっていました。

 

 雨戸の隙間から朝の明るい陽が漏れてきたことを見計らって、頭を大きく揺らさないようにして起き上がり、そろりそろりと歩いてPCの前に座りました。

 

 知りたいことは2つです。トピロリック錠にめまいを起こすような副作用があるのかどうかと、頭を動かすと視界がグラッと揺れるような振る舞いをするめまいというのは、深刻な疾病の症状なのかどうか、ということなんです。ネットを開いてみました。

 

 一つ目のトピロリック錠の副作用ですが、添付文書にめまいやふらつきといった症状の記載はありませんでした。2003年から開発が始まり2013年に発売された富士薬品のトピロリックジュですが、この添付文書にめまいのじっつがない、ということは、その開発期間における数百人から数千人規模の知見の中で発現した人はいなかったことを意味します。

 

 ということは、めまいがぼくに発現したのは、トピロリック場が原因ではなかったのでしょう。

 

 二つ目のめまいに関する医学的な情報ですが、頭を動かすとめまいが起きるけれど、じっとしていれば収まるようなめまいを「良性発作性頭位めまい症」と言って、耳の奥にある三半規管の中にある耳石の位置によるものだから、特別な治療をshなくても耳石が本来の位置に収まっていくことで軽減してゆく、と説明されていました。

 まあ、重篤なめまいではないことが分かって、胸をなでおろしました。 

 

 頭を動かすとグラッとくるけれど、静かに歩いているときはまったくめまいなど感じなくなってきたので、立花医院の診察を受けました。「これは間違いなく頭位めまい症だね」という先生の診断を聞いて「副作用のきつい尿酸の薬を止めて様子を見たい」と、ぼくの方から申し出たところりぃい迂回してくれたので、1,2週間ほどで自然に消滅する、というネットの説明に期待をかけたのです。

 

 そんなわけで積極的に頭を動かしてグラッとさせたり、神教真ごころの浄め祓いを何度となく受けたけれども、2週間が過ぎても一向にめまいは解消しません。「少しは軽くなったのかしら」と感じるけれど、、何かの拍子に引き起こされるゆらゆらした不快な揺れが残っていて気分が腫れません。

 

 このめまいの原因は、まだ取り切れていないようです。その原因とはいったいなんなのでしょうか。

 

 それから3週間余が過ぎて12月に入ってもめまいは治まらず「ネットの記事とは大分違うなあ」と感じるっようになり「どうしたらいいんだろう」と不安が募り、ほかにいい方法はないものだろうか、と他の方法に思いを巡らせるようになりました。

 

 その時に、はた、と思い出したことがあったんです。それは去る7月31日に亡くなった母の部屋に祀られていたお位牌をお焚き上げしなければいけないな、と思いながら、我が家のお仏壇の下に置かれた仏具たんすの引き出しに仕舞ったままにしていたことでした。

 

 それは、このめまいとは関係がないかもしれませんが、それを急に思い出したんです。なんで、そんな時に、そんなことを急に思い出したのか、分からないんだけれど。

 

 「あ、そうだったな」とお仏壇の下に置かれたそのたんすの下から2段目の引き出しを引いてみると、半紙に包まれたお位牌が仕舞い込まれたままになっていたんです。

                        

 何気なくこの引き出しに仕舞い込んだお位牌だけれど、すっかりと忘れていたわけではありません。母の遺品を整理している中で、このお位牌をどのように処分したらいいのか、を模索していたんです。

 

 自宅の庭先でお焚き上げするわけにもいかず、妻や教団の幹部にも相談してみたけれど「川へ流したらどうか」というけれど、どこへたどり着くのか分からないような、あまり現実的でない方法しか答えがなかったので、仕方なく一時的に、このたんすの引き出しに仕舞って処分方法をいろいろと考えていたんです。

 なのに、今、急に母のお位牌のことを思い出したんだろうか。

 

 そんなぼくの胸中を見透かしたかのように、翌日の朝刊に宗吾霊堂の広告が折り込まれてきて「今年のお札やお守りのお焚き上げを申し受けます」と書かれていたんです。それを目にしたぼくは「おお、これはいいタイミングだ」とばかりに宗吾霊堂に電話をしてみたんです。

 

 「新聞のチラシ広告にお札やお守りのお焚き上げ、と書いてありますが、お位牌のお焚き上げもお願いできますか」と聞いてみたんです。しかし「お位牌はちょっとねー」と、お位牌は引き受けられないという口ぶりでした。

 

 続けてぼくは「実は、7月に亡くなった母の部屋で祀られていた繰り出し位牌なのですが、住宅地の庭先で燃やすわけにもいかず、川に流すわけにもいかずにその処分に困っています。何とかお願いできないでしょうか」と重ねてお願いしてみました。

 

 すると、その電話口の女性は「少しお待ちください」と受話器を置き、誰かと相談をしているようでした。「だめかなあ」とやきもきしながら受話器に耳を当てたままにしていると「それでは、本堂に向かって左側にあるお焚き上げのお札をご安置する場所に置いてください」という返事が返ってきたのです。「ありがとうございます」とぼくはお礼を言いながら深々と頭を下げて電話を切りました。

 

 

 早速、引き出しの中のお位牌を取り出して新しい半紙に包み替え、ゆらゆらするめまいに気を使いながら、ゆっくりとした速さで車を運転して宗吾霊堂に向かいました。本堂の左側にあると教えられたお焚き上げのお札を置く場所はすぐに見つかり、半紙に包んだままのお位牌をそこにご安置させていただきました。

 

 そのご安置場所のすぐ前に置かれたお賽銭箱に心ばかりのお金を差し出して「よろしくお願いいたします」と深々と頭を下げて帰宅しました。

 

 自宅に戻って「やれやれ、よかった」と書斎の椅子に腰をおろすと、気になっていた母の部屋に祀られていたお位牌をお焚き上げすることができて、とても安心した気持ちになりました。

 それにしても、仕舞っぱなしにしていたお位牌のことを急に思い出して、ずいぶんとタイミングよく宗吾さんのお焚き上げ申し受けの広告が新聞に折り込まれていたもんだなあ、とその巡り合わせの絶妙さに驚かされました。

 

 その日の夜もめまいに気遣いながら、何時ものように、いつもの時刻に寝床に就きました。翌朝、目が覚めると思いもしなかったことになっていたんです。

 何時ものようにゆっくりと寝床から起き上がったのですが、いつものあのグラッとするめまいと胃のムカムカ感が起こらなかったんです。

 

 「あれ?」と思いながら、故意に頭を揺らしてみても、まったくめまいを感じることがなかったんです。

 

 去る11月の中旬に痛風の治療薬トピロリック錠1錠を飲んで発症した、いわば、トピロリック錠の副作用のように見えた頭位めまい症でしたが、実は、そうではなかったんです。母の遺品であるお位牌を長い間、たんすの引き出しに仕舞いっぱなしにしていたからなんです。

 

 やっとそれに気付いて、宗吾霊堂のお焚き上げ置き場にご安置させていただいたら、スパッとめまいが消え伏せてしまいました。お焚き上げが行われる日はまだ、10日も先なのに、です。

 

 こんな作り話のようなことが現実に起きたのですが、偶然なんでしょうか、それともぼくは夢とか幻影を見ていたのでしょうか。

 

 いいえ、この痛風は間違いなく「霊の障(さわ)り」だと気付きました。たんすの引き出しに仕舞いっぱなしにしていたお位牌をちゃんとお焚き上げしなさい、というぼくに対するご霊さまによる戒(いまし)めだったと気付きました。気付いてもらうために、ぼくの右足を痛風による痛みを発症させたのです。

 

 なぜ、痛風なのか、と言えば、ぼくの尿酸値は普段から高めだったので、痛風にしやすかったからでしょう。ほんのちょっとだけ尿酸値を高くしてやれば痛風になりますからね。だから、ご霊さまにしてみれば、医者に処方された痛風薬で速やかによくなっては困るのです。

 

 添付文書にも載っていないような副作用を起こさせて痛風状態を長引かせて、その間に仕舞いっぱなしにしているお位牌の存在を思い出させて、宗吾霊堂で行われる年末のお焚き上げを利用して、天上に還(かえ)すことをして欲しかったに違いありません。

 

 その結果、どなただか分からないけれど、そのご霊さまの目論見(もくろみ)通りにお位牌をお焚き上げする段取りができたので、霊障によるめまいは消えてなくなりました。

 

 

 ご霊さまはずいぶんと手の込んだことをするものです。今は亡き人が祀っておられたお位牌などは、ごみ箱に捨てたり引き出しの中に仕舞いっぱなしにするのではなく、お焚き上げをして天上に還す、ということが霊界の決めごとなのでしょう、きっと。 

 実際のお焚き上げは12月25日に行われ、もちろん、ぼくも立ち会わせていただきました。

 

 ところが、痛風の痛みはそれで終わりではなかったんです。それから6年余が過ぎた令和3年の5月22日の朝に起床したときも再び、右足の親指付け根が痛くなってきました。それまで毎年健康診断を受けて血中尿酸値が高めではあったものの、痛風には至らなかったので放置していたのです。

 

 しかし、またもやちょっと触っただけでも跳びあがらんばかりに痛い痛風発作に襲われたので「また、霊の障りか」と思ったけれど、医学的にはどうなのか、ということも気になってネットを開いてみました。

 

 そこで尿酸値の数値とそれに対する対処の仕方、というのを調べてみると、このような記述がありました。

 ―――血中尿酸値の上限は1dl当たり7ミリグラムで、7ミリ台のオーバーは経過観察でよいけれど、8ミリを超えると身体に不具合が出てくるので下げる必要があります―――、と。

 

 そこで、過去の健診における検査結果を引っ張り出して尿酸値の経過を見てみたんです。すると、2016年と17年、19年は7ミリ台のおーば0だったのですが、18年と昨年の20年は8ミリを超えていたんです。

 

 「そうか、年齢を重ねるにしたがってプリン体の代謝が悪くなって血中の尿酸量が増えてきたんだな」と受け止めたんです。

 

 しかし、6年前に痛風発作を起こしたときの尿酸育成阻害薬フェブリク錠による嘔吐や下痢といった副作用に、また見舞われるのではないかというトラウマと、尿酸値を下げるアンセリンというサプリメントと市販の鎮痛薬を飲んでみたことでその痛みが和らいできたので、医者に行かなくてもいいんじゃないか、という思いがよぎったのです。

 

 その一方で、尿酸値が高い状態を放置していると、尿路結石を始めとする尿路の疾病や腎臓に尿酸の結晶が溜まって腎不全となって透析が必要になる恐れもある、とも記されていました。いくらなんでも3回目の痛風発作はご免なので、どうしたらいいのかいろいろ考えてみました。

 

 その結果、自分で考えた次の3っつの対策を取ってみることにしました。

1.プリン体を多く含む食材を控える。

  血中尿酸値を減らすには、食事から入るプリン体の量を少なくする。

2.水を1日に2l 以上飲んで排尿を促す。

3.強い副作用を起こしたフェブリク、トピロリックに代わる薬剤を処方してもらう。

 

 早速、6月11日、成田病院で診察を受けました。尿酸値を測ってもらうと7.3ミリと思いのほか小さく、今までとは別のザイロリックという尿酸生成阻害薬の100ミリを処方してくれました。

 

 これを1日量の半分50ミリから始めて身体になれさせ、4日目から処方に沿った10㎥りにしてみたところ、大きな問題もなく飲み続けることができて、同時に痛みも和らいできました。

 

 

 プリン体というのは、食材のうまみ成分でもあって肉類や魚介類、あるいは干物といった言ってみればおいしい食材に多く含まれています。だから、絶対に口にしない、のではなく、今までの半分程度に減らすと共に、水分を多く摂るというこの2つの対策を摂りながら、尿酸値を管理していきたいと考えています。

 

 幾度となく繰り返している痛風ですが、霊的な原因で起こるものと、純粋に医学的な理由によるものがあって、それぞれに適切な対応をすることが必要だと分かりました。

 

 

 

その10 前立腺の肥大で排尿が困難に

 

 僅か0.02ナノグラム(ng=1 のー(マイナス)9乗)オーバーで「要治療」と判定されたPSAの検査結果を見て、がん細胞の有無を確認するための生検を受けました。ところが、その検査の不手際によって思いもよらないほどの苦痛を味わうことになってしまいました。

 

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 平成29年9月20日受けた健康診断の結果が10月末に届きました。封筒を開けて診断のデータを見てみると、PSA(前立腺特異抗原という腫瘍マーカー)の結果が基準値4,0ng/ミリリットルに対して4.02ngだったために「要治療」と判定されて「治療が必要と思われますので、最寄りの医療機関を受診して指示を受けてください」と記されていました。

  

 「いよいよぼくも癌(がん)という生活習慣病の餌食になったのか」と不安になりました。ただ、その検査結果というものが基準4,00ngに対して4,02ngとコンマ02ngのオーバーというとても微妙な数値だったので「測定誤差かも知れないな」という思いで、成田駅近くに新しく開院したT病院(仮名にしてあります)を10月の23日に受診しました。

 

 診察してくれた山岸先生(仮名にしてあります)にその旨を伝えて、改めてPSAを測定してもらうと30ml(ミリリットル)という結果が出て、「正常値は20㎥ぃかだから、年齢相応の中程度の大きさだね」と言われたのです。

 

 それで、先の健康診断で「要治療」と判定されたことが診断ミスではないことがはっきりしたんです。

 

 次いで、MRI(磁気共鳴画像診断)とX線画像検査を受けて「特段の所見はない」という結果を得て「やれやれ」という安堵の思いでした。ところがそれでも足らないのか「前立腺の生検をして細胞ベースに癌がないことを確認しよう」ということになりました。

 

  PSAという前立腺腫瘍マーカーは、前立腺から血液中に溢出(いっしゅつ、あふれでること)したその抗体の量が一定量を超えると癌と判断するものです。ところが、4から10ngの範囲は前立腺の癌だけでなく、前立腺の肥大によっても到達するので、その範囲内の場合は癌なのか、単なる肥大なのかを細胞レベルで判別しなければならない、というのです。

 

 生検とは生体検査のことで、患者の生きた躰に針を刺すなどの外科的な手段で細胞や組織を採取して、癌の有無を診断するものです、と説明されました。

 

 前立腺の場合は、脊髄くも幕下麻酔という脊髄の腰に部分に麻酔薬を注入して下半身だけに麻酔をかけて、陰嚢と校門の間の会陰部から針を刺して組織を採取するものです。入院日数は一泊だと説明されました。

    

 

 約20年前に受けた白内障手術により一泊入院した以外には麻酔をかけられて身体をいじられる経験というものがないぼくは、後ずさりしたくなるほどの恐怖感を覚えま日田が「例え、癌が見つかっても初期の初期だから、すぐに良くなるよ」と先生から告げられて、少し前向きになれました。

 

 それに、PSAが4以下でも、その25%余の人に癌が見つかっている事実をネットで知り、政権により細胞レベルの検査をする非t商性がよく理解できました。しかし、この脊髄くも幕下ますいによる前立腺への生検が思いもよらなかった」副反応を発症してこんなにつらい術後になろうとは、想像すらしていませんでした。

 

 予定通り、前泊した翌日の10月31日に政権が行われました。朝の9時に手術台に腰を下ろしたぼくと向き合うようにして、若い女性看護師が僕の肩に手をかけてニコニコと話しかけてくれました。

 その間に腰の部分に注射針がさし込まれて麻酔薬が注入され、5分も経たないうちに腰から下の部分の自由が利かなくなりました。

 

 次いで仰向けの姿勢になって横に寝かされ、両足を高く持ち上げられて股をおおきくひらかれたじょうたいにこていされたので「陰嚢と校門が露わになったな」と、目も耳も頭も明瞭なのでその様子がよく分かりました。

 

 前立腺の位置を正確にモニタリングするための超音波画像ぷるーぶを肛門から挿入したときの痛みも、十数回に亘るコツンコツンという音を出しながら採取針を打ち込むときの恐怖感もまったく感じることなく、30分余で生検作業は終わりました。

 

 その後は、ひたすら麻酔が覚めるのを待つだけでしたが、それと同時に、小水が出たかどうかを担当の山岸先生と看護師が頻繁に聞いてきました。

 

 尿意を感じて尿が出ることは出るのですが「ちょろちょろという尿が20分ごとに出る」と答えると「出れば大丈夫だ」言うので、合点のいかないぼくは「どうしてこんな少ない量が頻繁に出るのですか」と問い返すと「生検のときに膀胱を空にしたから少量しか出ないのはあたりまえだ」という返事が帰ってきたんです。

 しかし「ちょっと普段と違うな」と、ぼくはとても気になっていたんです。

 

 足腰の麻酔もすっかり覚めて歩けるようになった午後3時頃「帰宅の準備をしてください」と女性の看護師委から声をかけられたので、気になっていたチョロチョロ尿のことを伝えたんです。

 すると「残尿感はありますか」と聞き返されたので、とっさにぼくは「はい、あります」と答えたんです。本当は残尿感なんてなかったけれど、そう答えたんです。

 

 どうしてかというと、いつもと違うチョロチョロ尿のことがとても気になっていたからなんです。「はい、残尿感はありません」と正直に答えれば「なければ大丈夫だ」ということで、即時に帰宅することになってしまうからです。

 

 麻酔をかけてから5,6時間も経ってとうに麻酔も覚めたはずなのに、尿が連続的に出ないから、ちょっと先生に診て欲しかったんです。その状況になんとなく違和感を感じていたからなんです。

 

 その目論見通り先生から声がかかり、診察を受けることができました。診察室に入り、先ず、膀胱内の残尿量を超音波測定器で測ってくれた看護師が「530ccです」と叫んだんです。そんなに残っていたのか、とぼくは驚きました。

              

 

 大体、大人の膀胱の貯尿量は500ccが限度なのに、まったく尿意を催さなかったのです。麻酔をかけてから5時間余経つけれど、膀胱の神経がまだ完全に回復していなかったからだ、と先生もぼくも気が付きました。

 

 尿道にカテーテルを挿入してビニール袋に取り出した膀胱内の残尿を取り出して「こんなにいっぱい入っていた」と言いながら、ぼくに見せてくれたのです。

 

 先生は「良かった、よかった。これで家に帰っていたら大変なことになっていた」なんて他人事のように言うけれど、「帰宅していいよ」と指示をしたのは先生、あなたですよ。

 でも、その前に『違和感があるからちょっと診て欲しい』と言ったのはぼくではないですか」と言いたかったけれど、飲み込みました。先生を責めても何の得にもなりませんから。

 

 要は、尿が出たかどうか だけでなく、人によっては膀胱の麻酔もまだ冷めないこともあるのだから、本人から残尿感を聴きととると共に、膀胱内の尿残量を確かめるべきではなかったのだろうか。

 「ちょろちょろ尿が出ているから大丈夫だ」ではなくて、ハンディな超音波残尿測定器で簡単に確かめられるのだから、きちんと残尿量を測るべきだ、と思いました。

 

 自分が「ちょっと変だな」と感じて発した「残尿感があります」の返答によって大事には至らなかったものの、これは完全に医師側の失態です。勉強不足、経験不足です。

 

 生検終了後5時間以上も経つというのに膀胱が空っぽということはあり得ないからです。残尿感は全く感じなかったけれど、ちょろちょろ尿といういつもと違う尿の出方がなんとなく気になって「待った」をかけたぼくの行動が正解だったのですが、よくもまあ、そんな機転が働いたもんだなあ、と自分を褒めてあげました。

 

  でも、これは自分だけの判断ではないような気がしていました。正直者の自分は、残尿感のないことを「はい、あります」とウソの返事をすることは決してないことだからなんです。

 

 

 一難去って先生の話を聞きました。「生きた前立腺にいくつもの針を刺したために前立腺が腫れあがって尿道が詰まってしまったようです。だから、尿道カテーテルはこのまま残置します」と言って、尿道感染症を防ぐ抗生剤と尿道を広げるユリーフ錠と鎮痛剤が処方されて帰宅しました。

 

 尿道にカテーテルを入れられたままだと常にゴムチューブの先まで尿が流れ出てきている状態になるので、上向きにしたままのチューブをパンツのゴムに引っ掛けて、先端のすストッパーから溢れ出ないようにしなければなりません。

 ストッパーとなっているチューブの蓋(ふた)を開けることで、力を入れることなくじょろじょろと排尿ができました。

         

 また、男の生理現象としての「朝立ち」になったら、すごく痛いのではないか、と案じたけれど、朝立ちは起きませんでした。

 

 ところが、翌日の11月1日、何時ものように起床して朝食を摂りましたが、まもなくして軽い頭痛と倦怠感が間欠的に表れる用になりました。午後になるとその頭痛と倦怠感はより強くなったうえに吐き気も加わってきたので「いったい、どうしたんだ」ということになり、鎮痛剤を服用しながら夕食の支度をすることになってしまいました。

 

 夕食を摂った後も好転することはなく、早々と寝床にもぐり込みました。

 

 翌11月2日、朝に目が覚めて起き上がると、今までにないような頭痛と吐き気に襲われて、しばらきベッドの上で横になっていました。T病院が開院したのを見計らって今日に予約を入れました。

 

 その日はあいにく担当医の山岸先生ではなく佐藤先生だったのですが、この予期しなかった辛い頭痛や吐き気に見舞われたことについて質問すると「間々(まま)起こることがある副作用ですね」という返事だったんです。それを聞いたぼくは驚きました。

 

 「間々おこることがある」というこの辛い頭痛と吐き気のことを、山岸先生は前もってちゃんとぼくに説明してくれなかったからなんです。それが、余計な心配を強いられてしまったことになってしまったからなんです。

 佐藤先生は続けて「我慢できないほどの痛みなら処方された鎮痛剤を飲み多めの水分を摂って横になっていればいい」と言うので、そそくさと帰宅しました。

 

 帰宅するや否やネットを開いてこの頭痛と吐き気について調べてみると、脊髄麻酔を受けた人の数%の人に起こるこの激しい頭痛と吐き気は硬膜穿刺後頭痛(PDPH、Post-Dural Puncture Headache)といって、不適切な穿刺針を使う等して多くの脳脊髄液が漏れ出たことにより発症する、とありました。

 

 ちょっと待ってくださいよ、ぼくのこのPDPHは、術後多くの人がなるのだろうと思っていたけど、そうではなくて、先生たちの不手際によって多くの脳脊髄液が漏れ出た場合に遭遇する後遺症であることが分かったんです。驚きました。

 今さらクレームを言っても始まらないけど、この病院はその事実を隠したい、ということなのでしょう。

 

 だから、病院名は実名で出さなかったのだけれど、2度とこの病院にはかかりたくありません。隠ぺい体質が疑われるからです。

 

 

 そして、このPDPHは立位で増悪するので横臥するのがよく、カフェインの摂取が軽減に役立ち、その95%は1週間以内に消失すると説明されていました。この記事を読んで治癒の道筋が見えてきたようでとても安心し、ただひたすら時間の経過を待つことにしたのです。

 

 指折り数えながらの日時が過ぎて、麻酔をしてから5日目の11月5日になると、あの激しいPDPHの症状が和らいできました。ネットの記事に示されていた通り、1週間ほどで症状が和らいできた状況を感じてとても安心した気分でした。 

 

 それから2日後、山岸先生の診察を受けて尿道カテーテルを外してもらい、同時に、排尿量と膀胱内残尿量を測定してもらうと、残尿量が130ccで、残尿量はゼロということで尿道を広げるユリーフ錠の服用も止めてよいことになりました。

 

 

 しかし、ユリーフ錠を止めたその日の夕方から排尿の出方が悪くなり、尿意で目覚めた夜中の排尿も閉塞して、まったく出なくなってしまったんです。そこで、少し力んでみたところ著魯xホロと出てきたので、慌てずに5分間ほど時間をおいた後に再度、トイレに立つとじょろじょろと今まで通りに出るようになって、閉尿パニックは免れたんです。

 

 そのようなことがあってからユリーフ錠を再び服用するようにしましたが、何日かしてふらつきや血圧の上昇が現れたので、より安全なハルナール錠0,1ミリに換えてもらって服用を続けていました。

 

 その間に「癌の所見はない」という政権の結果が届いたので、これを機会にハルナール錠も辞めてみたところ、夜中の1時と3時の2回もトイレのために目が覚めたのですが、チョロチョロながらも排尿ができるようになってきたので、11月の末になってハルナールの服用も止めてみました。

 

 振り返ってみると、前立腺の生検から1ヶ月余が経って、なんとか元の排尿状態に戻ったことになったのですが「癌の所見なし」というお土産を携えてのことだったので「まあ、よかったのかな」と言うしかありませんが、また、お世話になりたい、とは思いませんでした。。

 しかし、癌でないことを確かめるために、とても大きな苦しみを味わってしまったという、本末が転倒しているのではないか、と思いがぬぐえないでいるのです。

 

 しかし、この排尿トラブルは、まだ完全には終わっていなかったんです。それから10カ月余が経った平成30年7月30日の夜に3回ものトイレに目を覚まし、排尿後1時間も経たないうちに また尿意を感じてトイレに立ってもちょろちょろとしか出なくなってしまったんです。

 

 そこで処方されていたハルナール錠を再び服用しながら様子を見ていたのですが、「こんなもんだろうな」という状態になったのは、そのハルナールの残りも少なくなってきたころでした。

 

 それから4年も経った今になっても、12月の末といった夜中の室内温度が10度を下回るような寒い時期になると、夜中に目が覚めた時の排尿がすこぶる出にくくなることがあるんです。下腹に力を入れて力んでやればジョーっと勢いよく出てくれるのですが、眠気に任せて力を入れないでいると、ぽたぽたと滴(したた)り落ちるだけのこともしばしばで、パンツを濡らすことも幾度かありました。

 

 それも夜中の排尿1回だけなので、何とか我慢して付き合っていますが、あのT病院に診てもらうよりも、このままそっと自分で経過を観察することでいいのではないか、と考えたからなんです。

 

 PSAの数値が少しばかりオーバーしたくらいで、大掛かりな前立腺の生検をすることが、果たして医療行為として正しいのか、ということを疑うようになりました、こんな苦しい検査なのか、と知ってしまうと、少し性急な気がします、検査中、検査後の体調がすこぶる悪いからです。

 

 例えば、前立腺の大きさを経過観察して「10中8,9が癌と推測される」となってから、この生検を行っても遅くはないのではないかと、素人のぼくはは考えるのですが、いかがでしょうか。

 

                         この章おわり―――――――――

 

 

 

 

その11 お位牌を正しく並べなおしたら 不快なめまいが消えた

 

 令和4年(2022年)2月22日の夜中の2時過ぎに目を覚まし、トイレに置こうとベッドから起き上がったときにグラッというめまいを感じました。「何だろう、どうしたんだろう」と思いながらも足のふらつくままに用をたしてベッドに戻りました。

 しかし、ベッドの上でも身体を起こすとグラグラっと視界が開揺れるので、朝まで眠れずにいました。

 

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 めまいを起こすことが多いぼくだけれど、「この急なめまいは何なのだろうか」と、強い不安を抱えたままベッドの上で夜が明けるのを待ちました。枕もとの目覚まし時計が6時をさしたことを見計らって起床し、ゆっくりとした足取りで台所に向かいました。

           

 

 数年前に脳内出血を起こして杖を突くようになった女房よりも先に起きて、朝食の支度をするのがぼくの役割です。ぼくが朝食を食べ終わるころに女房が起きてきて、テーブルの自分の席に座ります。

 

 インスタントコーヒーを入れたコーヒーカップにお湯を注いで、既に焼き上がっていた女房のトーストパンの横に置き、ぼくは自分の部屋に戻りました。

 

 時計の針が8時を回っていることを確認して、成田市押畑(おしはた)にある成田病院に電話を入れました。電話口で「夜中の2時ころから続くめまいがいまだに治らばい」と告げると、めまいの様子やその程度についていくつかの質問を受けて「ベッドから起き上がるとグラッと揺れるようなめまいで、じっとしていれば治ります。しかし、また動き出すとまた揺れます」と答えると「では今日、入院してください」と即座に指示されました。

 

 

 身なりを整え、5万円余の現金を財布に入れて付き添ってくれた女房と二人で玄関先に待たせていたタクシーに乗り込み、成田病院に向かいました。

 到着して建物の出入り口に入るとフリーの車いすが並べられていたので、その中の1台に座らせてもらい、女房に押されて受付まで行きました。係員の指示に従って手洗いと体温の測定をして、その辺りで15分ほど待たされました。

 

 「こちらへどうぞ」と看護師から声を掛けられて「入院する部屋は4人部屋の一般病棟でいいのか、それとも個室がいいですか」と尋ねられたので、ぼくはすかさず「個室でお願いします」と答えました。

 

 贅沢をしたかった、というのではなく、もし、隣のベッドの患者が就寝中に大きないびきをかく人だったら、ぼくは熟睡することができないだろう、という懸念があったからなんです。

 

 併せてそれぞれの値段について尋ねてみると「4人部屋は一泊1400円ですが、それに対して個室は7700円と5倍以上も高いと聞かされたけれど「まあ、2,3日の入院だろうし、医療保険にも入っているからな」ということで個室にしよう、と思いました。

 

 そのまま採血室に向かい、そこで中くらいの大きさの注射器1本の7文目ほどの血液が右腕から採取され、いくつかの小さな注射器に分けられました。

 それが終わると、左右の鼻腔に綿棒が挿入されて鼻腔内の粘液が採取されてPCR検査に回されました。

 

 その後、PCR検査の結果待ちだったのでしょう、1時間ほどベッドに横になったまま待機させられたけれど、PCRに関する結果については何の指摘もないまま、5階に準備された個室病室5005号室に入りました。

 時計を見るとすでに正午を過ぎており、女房はここで帰宅するよう指示されました。

 

 ベッドの上でよこになり自分の過去を振り返ってみると、確か、70歳の頃にも同じようなめまいに襲われたことがあったなあ、と思い出したんです。あの時は、確か、母のお仏壇に祀られていた繰り出し位牌をたんすの引き出しの中に仕舞いっぱなしにしていたことが原因だったな、と記憶しています。

 

 それが今になってまた、こんな不快なめまいが発症するなんて、どうしたんだろうか。厄介な病気に罹患していなければいいがなあ、と不安な気持ちに駆られます。そういえば、1ヶ月ほど前に、この前兆ではないのか、といういくつかの不穏な身体の不調が続いていることに気が付いたんです。

 

 それは今年、2022年の1月18日に朝でした。いつも使っている眼鏡をかけたのですが、その日に限って、目の焦点が合わなくて、物が二重に見えるようになっていたのです。昨日までちゃんと見えていたのに「どうしてなの」と、何度も何度も眼鏡をかけなおし、まばたきも何度もしてみたけれど、回復しませんでした。

 

  これじゃあ改めて検眼をして眼鏡を作り直さなければいけないかな、と思いました、

 

 人の身体の中で首の部分よりも上にある目という部分に関すトラブルの多くは、神仏に対する無礼ごとが原因であることが多いと、神教真ごころの信者から教えてもらっていたことを思い出したぼくは、今回も、何か、ご霊さまにご無礼なことをしているのではないか、と思いました。

 

  そこで、先祖代々のご霊さまと2015年に亡くなった母との2つのお位牌やおりんなどの仏具をお仏壇の中から取り出して、お仏壇内外の清掃をさせていた大来ました。お仏壇周りの清掃はしばらくしておらず、このことがご霊さまに対するご無礼になっているのではないか、と考えたからです。

 

 そして清掃も終わり、取り出した仏具と一緒に2つのお位牌も元の位置にご安置するのですが、お仏壇の中に設けられている棚の中で最上段に先祖代々のお位牌を、そして、その1段下の棚に母のお位牌を並べていた今までの「段違い」の並べ方ではなく、先祖代々のお位牌と母のお位牌を共に最上段の棚に並べた「並列の」形に替えてご安置したのです。

       

 というのは、今までの段違いの並べ方が、ご霊さまに対する無礼ごとになっていて、この目で見た視界が二重に見える、といった体調不良になっていたのではないか、と思ったからなんです。

 

 お位牌の段違いの配置は、母がなくなってお位牌が2つになって以来7年間も続けてきた形だったのに。

 

 複数のお位牌がある場合の並べ方について、当時入信していた神教真ごころから教えていただいたこともないし、ネットで調べてみても各々の宗教団体によって異なっている現状から、自分でいくつかの並べ方を試してみて「これならご無礼になっていないようだ」という感覚で、並べ方を自分の判断で探し出すしかなかったのです。

 

 やれやれと一息ついたその日の昼過ぎでした。こんどは、真っ昼間(まっぴるま)だというのに1時間ごとにトイレに行きたくなるほどの頻尿になってしまったんです。その日の午後だけで5,6回の排尿回数にになったのですが、夕方には普通の間隔に戻ってきました。

 

 あくる日には、女房と些細なことで口論となり「あなたと一緒に暮らせないわ」なんて、思いもしなかったきつい言葉を浴びせられて、もう、とても不快な気分になりました。ムシの居所でも悪かったんだろう、と思うことにしたんです。

 

 また、そのあくる日には、再度の目のかすみに襲われ、その次の日の夜には、寝返りをうつたびに「イタタタッ」と苦痛の顔になるほどの腰痛に襲われて、夜が明けて朝食を摂る鳴り市販の鎮痛剤のロキソニンを服用して、何とかしのげるようになったのです。

 

 そして、4,5日続いたこれら目のかすみや頻尿、そして腰痛が何とか収まってきたかなあ、と言うときに、確か、1月24日の昼前でしたが、突然に下腹部が痛くなってきたので、急いでトイレに駆け込んだんです。

 すると、水分のとても多い下痢便が間欠的に3回に分けられて排出されてとてもすっきりしたので、この一連の不快な症状が収まったかのように見えたんです。

 

 ところが、そうでは中たんです。あくる日からは前よりもきつい腰痛に襲われて、市販薬のリョウシンJV錠や薬局の薬剤師から紹介された筋肉の緊張をほぐす、という武田のドキシン錠を購入して試さざるを得なくなったのです。

 

 しかし、試してみると血圧が150ミリ余撫で上昇したり、夜中の排尿回数が5回にも増えたりと体調はかえって悪くなってしまいました。

 

 そんなトラブル続きも治まってきた1月の下旬から約1ヶ月経った2月の22日には、強いめまいが起きて3拍4日の入院生活を強いられてしまいました。

 しかし、2月22日からの入院期間中に頭部のCT検査やMRI検査に合わせて耳鼻科の検査も受けたけれど、結果としてめまいを起こすような器質的な異常はどこにも認められなかったんです。

 

 これほど立て続けに体調不良が起こるなんて、ちょっと変だなということで、退院から3日ほど経った2月28日にお仏壇の前に立ちました。

 そして、去る1月18日に先祖代々のお位牌のすぐ横に並べた「並列並び」のお位牌を、それ以前と同じように先祖代々のお位牌より一段下の棚の右側に移して、「段違い」の並べ方の形に戻したのです。

 

 視界が二重に見えた原因が段違いの並べ方だった、と判断して平行並べにしたのに、どうして再び、段違いの並べ方に戻したのか、というと,こういう訳なんです。

 つまり、1月18日に先祖代々と母の2つのお位牌を、平行並べの形に替えてからというもの、いまよりもずっと多くの体調不良を引き起こすようになったからなんです。

 

 さらに、ご本尊様に代えて先祖代々のお位牌を最上段の真ん中にご安置した場合の各家族のお位牌は、1段下の、向かって右側にご安置するという仏具屋さんのネット記事を参考にしたことと、目の視界のぼやけは、自分自身の高齢化による視界のぼやけによるものであって、決して段違いの置き方が理由でhない、と判断したからなんです。

 

 というのは、視界が二重に見えたりぼやけたりするのは、今に始まったことではないことに気付いたからなんです。

 

 では、そのネット記事がどいうものなのか、と言うと、宗教を信仰している人は、そのご本尊さまを最上段の真ん中に置き、先祖の位牌や個人の位牌はそれより一段下の右側に並べます、という内容で、仏具の製作所や仏具販売店の多くがそのホームページで説明していました。

 

 しかし、我が家には「継続的に信仰している宗教」というものがないので、ご本尊さまの代わりに先祖代々の位牌を最上段の真ん中に置いて、後から加わった母のお位牌を一段下の段の上座である右側にp祭りするのが理にかなっているのではないか、と改めて判断したからです。

 

 つまり、お仏壇の中に設けられた棚の最上段というのは、ご本尊さまや先祖代々の霊位といったお位牌をご安置する特別な場所で会って、個人である母のお位牌をその場所にお祀りした事が大変な無礼ごとになって、自分の身体を不調に導かれたのだ、とぼくは理解したんです。

 

 それに気付いたとき、実は「その並べ方でいいよ」というような「証(あか)し」らしきことが、既に、ぼくの身体に起きていたんです。2つのお位牌を段違いの形に戻した2月28日から今日で半月ほど経ちますが、ぼくの体調に、次のようなとても信じられないような変化が起きていたんです。

 

 これらは、先祖代々と母のお位牌の2つを段違いの形にしたことで、ぼくの傍らにいらっしゃるご霊さまがとても満足してくださったからではないかな、と推測しています。でなければ、このような摩訶不思議なことが起こることは、絶対にありませんからね。

 

 1.少し力(りき)まないと排尿できなかった夜中の排尿が、力むことなくスムースに排尿で

   きるようになったこと。

 

    5年前にT病院で前立腺の生検を受けて以来、夜中の排尿がとても出にくかったんで

   す、少し力んで下腹に力を入れないと排尿できない回数は、令和3年11月が16回(一

          晩1階の排尿なので16日間)12月が18回(同じ期18日間)という病的な頻度

     で、それ以前も同じようなものでした。

 

    しかし、お位牌を段違いの形に並べてからは、2~7回に激減して、夜中の憂鬱が解消

   し、よく眠れるようになりました。それは顕著なものでした。

 

 2.夜中、あるいは早朝に起きていた足のこむら返りが、大分少なくなって穏やかに眠ること

   が多くなったこと。

 

    今までは夜中に布団の中で大きく伸びをすると、こむら返りを起こすことが多かったの

   ですが、其れからはその不快さから解放されました。

 

 3.就寝中の尿意で目を覚ますことが少なくなり、一気に5,6時間をこえる睡眠パターンに

   なったこと。

 

 4,カラオケを唄うときに出せる声が今までよりも1音高くなり、発声に無理がなくなったこ

   と。

 

 5.こよなく愛用していた真鍮製のティースプーンがどこかへ消えて目にすることがなくなっ

   たこと。 

 

    この意味するところはよく分からないのですが、他のクロムメッキを施されて鏡面のよ

   うにぴかぴかな外観をしているのに対して、この真鍮製は地金がむき出て黒ずんでいたか

   ら、知らないうちに「捨てられた」のかもしれません。  

 

 令和4年の1月中旬から始まったこの「めまい騒動」を振り返ってみると、何年か前に起こした痛風の原因が母のお仏壇に祀られていた繰り出し位牌を、たんすの引き出しに仕舞ったままにしておいたことと同じように、先祖代々と7年前に亡くなった母のお位牌の2つを、お仏壇の中に設けられた同じ段の上にお祀りしていたことが、霊的な無礼ごとになっていたことがはっきりと分かったんです。

 

 母のお位牌は、先祖代々のお位牌よりも1段下の棚に祀ることが霊界における正法だったのです。そんな霊界のしきたりがはっきり分かって、ぼくはとても満足でした。

 と同時に、先祖のご霊さまがいつもぼくのすぐ横にいらっしゃるような、あまりにも敏感な反応に驚かされたし、お位牌の祀り方がとても大切なことも、身をもってよく分かりました。

 

 

 

 

その12 姿は見えねど、いつもぼくの傍(そば)にいてくれるご

     霊さま

 

 一話 毎日の食事を心待ちにしているご霊さま

 

 高齢になった母が老人ホームに入居したために、我が家のお仏壇に加えて母の部屋にあるお仏壇にもお食事をお出しするようにしました。ある朝「おはようございます」と口にしながら我が家のお仏壇の扉をお開けしたところ、お仏壇の中から一匹のガガンボが舞い上がったんです

 

         **********************

        

 50歳でY製薬株式会社を定年退職したぼくの母は、Y製薬の関連会社に再就職して東京都中央区勝どきの都営住宅から日本橋まで通勤していました。一方、ぼくたち4人家族は、千葉県柏市大塚町の1DKアパートから、多額の住宅ローンを利用して建てた佐倉市大蛇町の一戸建てに移り住みました。昭和48年10月のことで、ぼくも妻も28歳でした。

 

 「近い将来には、あなたたちと同居したいのよ」と母が希望していたので、その部屋も準備しておきました。2階の南側に面した和室の6畳間に3畳の板の間をつなげた間取りです。そして、年が明けた早々に母が越してきて、子供二人のぼくたち夫婦と同じ屋根の下に住むことになりました。

 

 ここから東京日本橋まで通勤するようになった母ですが、朝早くから軽やかな足取りで出勤する姿を見て「まだまだ元気だな」と胸をなでおろしていました。

 総領息子のぼくにしてみれば、女手一つで育ててくれた母を、この歳になって面倒をみることができるなんて「まんざらでもない」という気持ちでした。

 

 しかし、そんな母も還暦(60歳)を過ぎたころには会社勤めも辞めて自室にいるようになって、それがきっかけで嫁と姑(しゅうとめ)とのいざこざが表面化してきました。

 気丈で負けん気の強い母と、これに輪をかけたように我(が)が強く、自分の方が折れることを知らない妻が、一つの台所や一つの浴室を使うものだから、その使い方や後片付けの状態を巡って口論が絶えなくなりました。

 

 母の気持ちにしてみれば「大事な私の長男坊を他人の女になんかに独り占めされてたまるか」と言った思いだろうし、嫁にしてみれば「あなたは我が家の大黒柱なんだから、私の家族を大切にしてもらいたい」と思っているのでしょう。

 

 そんなぼくが間に入って「まあまあ穏やかに」なんてなだめたりしようものなら「あんたなんか関係ないでしょ」と二人から言い返されて、火に油を注ぐようなものでした。年老いてきた母の面戸を見ようと、2階に6畳と3畳の二間を母専用に割り当てたのですが、嫁と姑との仲というのは、そんなことで片付くものではないのだな、とその根深さにを知りました。

 

 じゃあ、どうしたらいいんだろうか。母がホームに入ってもらおうか、弟に母との同居を頼もうか、なんていろいろ考えたけれど、どれも現実的ではありません。そこで、苦肉の策として

台所も、浴室も別にした二世帯住宅にすればいいのではないか、と閃いたんです。

 

 台所も浴室は勿論、完全に独立した部屋を並べた構造の二世帯住宅にすれば、必要な時以外はは顔を合わせることがなくなり、このような「嫁と姑のいざこざ」を起こすこともなく、誰もが平穏で快適な日々を送ることができるのではないか、と妻と二人で頭をひねりました。

 

 しかし、このプランを実現しようとすると、一般に売り出されている50坪余の土地では狭いだろうし、資金だってぼくの力を遥かに超えていることは明らかです。土地を安く手に入れるために坪単価20万円以下の土地を探そうとすると、都心型遠く離れたあんrが先や木更津といった房総半島の先端の方に幾しかありません。

 

 そんなに遠方だと妻が首を縦に振ってくれるわけがなく、のっけから話の腰を折られた感じです。

 そんな時に、積水ハウスの野口営業担当者から電話が入って「成田ニュータウンで土地を売り出すよ」と教えてくれたのです。 千葉県企業庁が販売する成田ニュータウンの土地ちうのは、JR成田駅の西口から徒歩で10分余の距離にあるニュータウン入り口から広がる広大な住宅団地の中にあり、駅前からバスで15分余で行くことができる橋賀台(はしがだい)という地区にありました。

 

 地方都市内の公共事業による分譲地であるために、一区画の土地面積が60~100坪余ととても広く、坪単価も近隣の民間業者による分譲地と比べて約半値の18万円前後という、まさに「渡りに舟」といった物件でした。

 

 くじ運の悪いぼくは、抽選による1回目の選別では残念ながら外れてしまったのです。でも、

当選者の中から7人の購入をキャンセルした人が出たことで2回目の母数となったのですが、何と、先着順という選別方式がとられたのです。

 

 先着順、ということは、くじ運の悪い性分というものに左右されることのない「早く並んだ者順」ということですから、他人より1分でも1秒でも早く並んだ人に「白羽の矢が立つ」ということです。よって、「何とか手に入れたい」という「気持ち」と「実行力」の勝負です。

 

 そこで、積水ハウスの野口さんに相談したところ、その応募開始日の1週間前から企業庁事務所の出入り口に並んで一番の順位を確保しよう、ということになりました。

 その計画通り応募の開始日に、ぼくと野口さんはニュータウンの中にある企業庁事務所の入り口の前に一番手で並びました。

 

 それに気付いた職員がぼくたちに顔を向けて「何だ、君たちは」と問いかけてきたのです。「先着順なので、並んでいます」と答えると、机に戻って電話をかけているな、と思ったら、1時間も経たないうちに残りの6人が並んでしまいました。

 「順番を並ぶ人が出始めたら、連絡をくれるように」とこの職員たちに頼んでおいた人たちなのでしょう、きっと。そういうずるい人たちの先を越すことができました。

 

 その日の午後以降は、野口さんが用意してくれた学生アルバイトが昼夜を問わずで1週間を並び続けてくれて、あのアパート仕様のような建物プランがピッタリな70坪余の区画を、1300万円余の価格で手に入れることができたのです。

 

 一方、新築した当時には公営水道の引き込みがなく、井戸を掘っての水道としていた佐倉市の我が家でしたが、その3年後には市営水道が指揮内まで引き込まれて市場価格がグンと上昇し、

、陽当たりのよい高台に建つりっりのよさも手伝って、ぼくたちの希望に沿った価格で買ってくれる人が現れたんです。

 

 そのお陰で、昭和56年の秋に成田市の成田ニュータウンという新興住宅地に希望のプランで家を建てることができました。

 その希望の建物プランというのは、1本の外廊下を通して台所や浴室、そして玄関までも独立させた2つの居宅をならべたアパートのような形をした二世帯住宅で、2階の最も陽当たりのよい東側に母の居宅を配したものでした。

         

 このような構造をした成田の自宅は、食事のとき以外には母と顔を合わせることも、言葉を交わすことも少なくなり、「嫁と姑戦争」の火種がめっきり少なくなりました。

 そのために、あの勝気な母が成田市が催す老人大学の生徒として通学したり、お習字や七宝焼きといった趣味の文化活動に精を出すようになって、母もぼくたちも穏やかな日々を過ごすことが多くなったのです。

 

 そんなに元気だった母も喜寿(77歳)を迎える頃になると、大事にしていた習字セットや七宝焼きの電気釜には見向きもしなくなり、台所にある二人用の小さなテーブルの椅子に腰かけて、一日中新聞を眺めて言うことが多くなりました。

 

 時には地域老人会のゲートボールの練習会に顔を出していましたが、あまり気が進まないようで一日の大半は家の中でプラプラしていることが多いようでした。

 

 その頃のぼくはと言うと、日本航空を早期に退職してから、準備していた宅地建物取引業者アイビー社を立ち上げて2年ほど経った56歳の頃で、妻と共に四街道市に賃借した事務所に通勤していました。

 

 そのような状況の中では細やかな母の言動に目を向けられずに、認知力の低下と歩行機能の不安さに気付いたのは、母が米寿(88歳)を迎える頃でした。

 

 片づけられない私物が山のように積まれた洗面所の床に足をとられて転倒し、肋骨にひびが入るような怪我を負って入院することになったり、自分の預金通帳の保管場所を忘れて「泥棒に入られた!」と騒ぎだしたりと、自室に一人だけでいることに危機感を感じたぼくは、老人ホームに入ることを勧めたんです。

 

 顔を合わせれば口論が始まるような犬猿の仲となった妻に母の介護を頼むわけにもいかず、かといって、ぼくが立ち上げた不動産会社をここで投げ出して母の介護に専念することはできません。まだ、年金をもらう年代ではないからです。

 幸いにもホームで生活するだけの費用は、母自身の年金と教職員だった父の遺族給付金で賄えます。

 

 そのような理由で、費用を払って介護をお願いできる老人ホームに入居してもらう方が本人にとっても、ぼくたちの家族にとっても、気持が穏やかに過ごすことができるのではないか、と考えたんです。

 

 もちろん母にしてみれば、いつまでも自分お部屋で過ごしたい、という思いはあったでしょうけれど、朝から晩までを一人になってしまうことの危険さを理解してくれたのでしょう、母が

87歳のときの平成22年に老人ホームに入居してもらいました。

 

 「また、この部屋に戻りたい」という母に希望もあって、室内をきれいに片付けることなく時々、ぼくが見回ることにしました。

 

 母がホームに入居して半年ほど過ぎたある日、何時ものように母の部屋を見回りに行きました。すると、扉が開いたままになっているお仏壇に気が付いたんです。「あ、いけねえ、このお位牌のご先祖さまに食事をお出ししていなかった」と、早速その日の夕食からお出ししよと、もう1つ仏膳を準備してくれるよう妻にお願いしました。

 

 

 

 

 

 

 

                 

 

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その7 お位牌は2階にお祀りするのがいい

 

 理由も分からないまま血圧が乱高下したり、持病である緑内障の点眼薬が使えなくなったりと窮地に立たされたぼくを救ってくれたのは、またしても、郵便ポストに投げ込まれていた神教真ごころの恢弘チラシでした。

 

 神教真ごころの信者になったぼくに先ず教えてくれたことは、お位牌はその建物の最上階にお祀りするものですよ、という教義(宗教的な教え)でした。

 

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 ぼくは今、毎朝の洗顔後に朝一番の血圧を測ることを日課にしています。平成22年に神経症を発症して以来、血圧が乱高下し始めたことがきっかけでした。

 

 神経症の症状が落ち着いてきてからは大体120から130ミリで推移していましたが、平成26年の新年が明けたころからは日を追うごとにその数値が大きくなっていきました。 それだけではないんです。今までに経験したことのないようなチクチクとした眼球の痛みや瞼の刺激痛を自覚するようになってきたんです。

                           

 そして、とうとう2月の下旬の朝には血圧が160ミリを超えて180ミリに迫る勢いとなってきました。神経症の発症以来服用し続けている降圧薬ブロプレス錠とノルバスク錠を決められたとおりにきちんと服用していたにも関わらず、なんです。

 

 「どうしたんだろう、これは」という思いがけない血圧の上昇に、今日の担当医が循環器の専門医である藤崎先生であることを確かめて成田病院の内科を受診しました。病院の廊下に備え付けられた血圧測定器で測ってみると190ミリにも達していて今にも破裂しそうです。

 

 診察してくれた藤崎先生から「昨夜、塩辛いものを食べたり怖いTV番組を観たりしなかったか」と質問されたので「いいえ」と応えました。

  聴診器に依る心音と心電図による心臓の機能検査の結果、血圧の上昇を招くような特段の所見は見つからず「よくある一過性の血圧上昇だね」と診断されて、処方された緊急用の降圧薬を服用して1時間ほど横になっていたら、140ミリに下がっていたので、そのまま帰宅しました。

 

 一方、眼球と眼の周りの詞激痛はいつまで経っても治まることがなく、これは緑内障の点眼薬ザラカム目薬の副作用ではないか、と疑いました。そこで、ネットからザラカム点眼薬の添付文書を探し出して、副作用欄に記された文字を目で追ってみました。

 すると、いくつかの重大な副吾小項目に続けて、その他の副作用欄の中のその他の項に「5%以上の頻度で目の刺激痛」とあり、また、頻度の不明欄には「眼痛、目の異物感」とあり、少なくない人がこの目薬で目の痛みを感じているんだな、と分かりました。

 

 さらに循環器の欄に目を移すと、頻度不明の項に「動機、高血圧」と記されていて、あの血圧が上昇したこともこのザラカム点眼薬が原因ではなかったのか、と疑ったんです。

 しかし、2年余りにわたって何の不具合もなく点眼してきたこのザラカムが、今になって急に悪さをし始めたのはなぜなのか、と何とも不安を掻き立てます。

 

 「何の不具合もなく2年間も使い続けていたのに、今になってこんな重要な副作用が突然に現れるなんて、よくあるのだろうか」という疑問を、ザラカムのメーカーであるファイザー社に聞いてみました。

 

 すると「あなたの身体が変化していることもありますからね」と、電話口の担当者は答えたのです。「自分の身体の変化って、何?」と俄かには理解できなかったけれど、風邪をひいたときとかお腹の調子が悪い時、といったことかしら。

 しかし、例えば糖尿病になったとか、高血圧症になったとか、というように、よほど大きな身体の変化がなければ、190ミリまで上昇するてことはないのではないか、とますます疑心暗鬼になってしまいました。

 

 それはともかくとして、このザラカム点眼薬を使い続けることができないので、別の目薬に代えてもらわなければなりません。成田日赤病院眼科を受診しました。

 

 担当医の戸田先生は「ザラカムというのは、あなたが以前に使用していたキサラタン点眼薬とチモプトール点眼薬を混ぜ合わせたものだから、それぞれの点眼薬を個々に試してみて原因となる方を止めればいい」ということになりました。

 

 その2種類の点眼薬のいずれもが、およそ20年も前から」使い続けていた実績のあるあるものでした。

 

 さて、ザラカム目薬をキサラタン目薬とチモプトール目薬の2つに分けられるけれど、「どちらの方が血圧上昇の原因になっているんですか」と聞いてみると「プロスタグランジン誘導体のキサラタンは角膜や目の痛みといった局所的な副作用が主なもので、βブロッカー製剤であるチモプトールと比べて全身的な副作用を起こす可能性は低い」と答えてくれたのです。

 

 「ではまず、血圧上昇を招く恐れのないとされるキサラタン点眼薬から試してみよう」ということになりました。

 

 ところが、そのキサラタンを点眼し始めて2,3日すると、眼球と眼瞼の詞激痛が起こりはじめ、1週間も経つと再び血圧が160ミリ余に上昇してしまったんです。「こんな馬鹿なことはないだろう」と、ぼくにはちょっと理解ができなくなりました。

                         

 キサラタンは血圧に関与しない、と戸田先生は明言していたし、改めて添付文書を広げてみても血圧の「け」の字すら触れられていなかったからなんです。

 

 一時的な血圧の上昇が再び起きたのだろうと考えて、独断でキサラタンの点眼を1週間ほど中止して気持ちを落ち着かせてみました。以前ザラカム点眼薬のメーカーであるファイザー社の担当者がこの血圧の上昇について「あなたの身体が変化していることもありますからね」と言っていたことを思い出したんです。

 

 「もしかすると、ぼくの身体の中に目のトラブルとは関係のない血圧を上昇させる原因が隠れているのではないか」と、考えるようになったんです。

 

 そこで、現在服用している降圧薬ブロプレス錠を処方してくれた成田病院の内科医、小野先生を受診しました。そして、血圧には関与しないとされているキサラタン点眼薬を選んでもらったにも拘わらず、2,3日の点眼で血圧が160ミリ余まで上昇してしまった経緯を伝えて「ぼく自身の身体の中にその原因があるのではないか」という理由で身体検査をお願いしました。

 

 「そうだね」と了解してくれた先生は、血液内のホルモン検査と心臓の動きを映像で見る心臓超音波検査、通称心臓エコー検査を準備してくれました。「あ、これが身体の変化を探すものなのか」と理解できたのですが、今日はホルモン検査のための採血を行い、その結果が分かるであろう2週間後の水曜日に循環器専門の藤埼先生から心臓エコー検査を受けて、先の血液検査とこの心臓エコー検査の両方の診断を一緒に受けることになりました。

 

 それから2週間後の4月2日、藤崎先生の診察を受けたのですが、冒頭、先生から「血液検査も心エコー検査も何ら異常な所見はない」との報告を受けました。つまり、血圧の上昇について一般的に考えられる甲状腺ホルモンと副腎のアルドステロンにもその所見はなく、また、エコーによる気質的に異常な所見も確認できなかった、というのです。

 

 結果としてはよかったのですが、血圧の上昇を起こすはずのないキサラタン点眼薬に替えても血圧の上昇が起きてしまった理由については、何の解明もできなかった、ということになってしまいました。医学的な原因が見い出せません。

 

 残り少ない視野を維持するためには、眼圧の定期的な測定が欠かせません。3日後、戸田先生の診察を受けて眼圧を測定してもらうと、20ミリ(mmHg、水銀柱)の上限に対して右目が16ミリ、左目が15ミリと思っていたより低かったのです。

 その結果を見た戸田先生は「目の痛みが辛そうだから、少し休薬しよう」ということで1週間ほど点眼を休みました。

                     

  一週間後の4月11日に通院すると「一昨日から戸田先生に代わって水沢が担当します」ということで改めて眼圧を測定すると、右目が18ミリ、左目が17ミリといつもより少し高めの数値でした。

 

 その数字をを目にした水沢先生は「あなたの緑内障は最終段階だから、点眼を止めては絶対にいけない。見づらくなってきたら手遅れですよ」と大きく荒々しい声で叱られました。そんなこと言われても、ぼくの独断で休薬したのではなく、前任の戸田先生の指示に従っただけなのです。

 だから、そんなことを言われても、ぼくは困ります。先生から先生への引継ぎがしっかりとなされていなかったからだと思います。もっときちんと引き継いでください、とぼくは言いたかったです。

 

 そこで先生は「今までに使ったことのない点眼薬アイファガンに替えるから、試してみてください」と言って、自宅にあるエイゾプトとチモプトールに加えて3種類の点眼薬を点眼してください」という処方になりました。

 

 永い間休薬しているぼくを見て、主治医の水沢先生が声を荒げた理由は分かるんです。残りの視野が2割にも満たないのに、奇跡的にもその中心部が無事であるために視界がぼやけることなく、運転免許層の視力検査もパスしていることを詳しく説明してくれたことがあったからです。

 

 ちょっとでも点眼を休めば、いつ見えなくなってもおかしくないほどに視野の欠損が進行しているんだな、と思うと、元気で動ける時間は長くはないな、と感じました。

 

 自宅に戻るなり、初めて使用してみるアイファガン、使ったことはあるけれどあまり効き目のないようなエイゾプト、そして、副作用が全身で感じるチモプトールの3種類を並べて、一つづつ試してみようと思いました。

 点眼日時と副作用が現れた場合のその名前と程度を一覧表にして、まず、アイファガンから始めました。

 

 とても面倒な作業ではあるけれど、何とか安心して使用できる治療用点眼薬を一種類だけでも探し出したかったんです。でないと、失明してしまうのではないかという恐怖に耐えられませんでした。しかし、それは徒労に終わりました。

 3種類の点眼薬のどれもが何らかの副作用を発言して、長期の使用に耐えるものはなかったのです。

 

 そんなバカな。ザラカムも、キサラタンも、アイファガンも、エイゾプトも、そして頼みのチモプトールもと、現代の緑内障治療用点眼薬の主要5種類が強い副作用にために使用することができない、というとても信じられない事態に陥ってしまいました。

 

 「こんなことってあるんだろうか」途方に暮れて、何度もほほをつねってみたけれど、紛れもない現実でした。

                           

 例えばアイファガンは大きな耳鳴りと150ミリ余の血圧上昇、エイゾプトは胃もたれとめまい、チモプトールは徐脈と動悸、といった具合です。水沢先生に報告しても「そんなことあるわけないだろう。我慢しろ」と怖い顔を向けるだけでした。

 

 そんなに怒られても、この副作用がとても我慢できないんです。窮地に立たされて、もう泣きたくなりました。

 

 他の治療法はないものかと、隣町の佐倉市にある東邦大付属の佐倉病院でセカンドオピニオンを聞いてみようと思い立ち、予約を入れました。当日、緑内障に関するこれまでのぼくの経緯を説明すると、担当してくれた中年の眼科医はこんな風に答えてくれました。

 

 「今日の眼圧は13ミリと14ミリで、来rが維持されれば問題ないこと。点眼悪はプロスタグランジン系やβ遮断薬系が基本になるが、副作用ということになれば過剰な拒絶反応が起きていることであり、決して無図らしいことではないこと。いずれの点眼薬も不向きなら手術ということになるが、感染症のリスクもゼロではないこと、と教えてくれました。

 

 プロスタグランジン系というのは、血圧が180ミリまで上昇してしまったキサラタン点眼薬であり、β遮断薬系というのは同期と徐脈を起こしたチモプトールですから、共に二度と使いたくありません。我慢していたら、身体全体が壊れてしまいます。

 

 かといって、手術をしてもらったとしても、点眼治療薬のどれもが使えなくなってしまうほど不穏な状況なので、また、感染症に悩まされるのではないか、と悪い方に考えが向いてしまいます。にっちもさっちもいかなくなって、ご先祖の方にお願いしてみようと思いました。

 

 そこで翌朝、朝のお参りの中で「お父さん、ぼくを助けてください。緑内障の目薬が使えなくなってしまったんです」と声を出してお願いし、頭を下げました。

 ぼくが65歳のときに、ぼくの傍らにいつもいて下さるご霊さまはぼくの父親だと気付いて以来、お願い事がある時は、あえて「お父さん」とお呼びしてお願いするようにしていました。

 

 少し気持ちが落ち着いたところでいつものように、朝刊を取りに玄関先に出て郵便受けから朝刊の端を掴んで引き出したんです。すると、はがき大の大きさに折りたたまれた1枚のチラシがぼくの足元にぽとっと落ちたんです。

                  

 「何だ、これは」と拾い上げてみると、何と、神教真ごころの恢弘チラシ「真ごころライフ(仮名にしてあります)」だったのです。もう、かれこれ30年以上も前に退団したあの神教真ごころの、です。

 

 郵便受けの中で朝刊の上に重なっていたわけだから、どこのどなただか分からないけれど、熱心な信者の人が、ほんの数分前に投げ込んでくれたのでしょう。そのチラシには、その教団の成田支部のことが掲載されていました。

 

 「あ、そうか、父はこの教団に行け、というのだな」と気付いたけれど、あまりの唐突さと、あまりの敏感な反応に気が動転したと共に、またもや真ごころなのか、という思いとが交錯しています。一度退会したことがあるじゃないか、という戸惑いもあって、俄(にわ)かには自分の気持ちを整理できずに、とりあえず妻と朝食を摂ることにしました。

 

 朝食をさっさと済ませて書斎に戻り「父は神教真ごころにいけ、というけれど、2回も同じ神教真ごころの門を叩くなんてどうしてなんだろう。明日で三いいじゃないのか」と自分の本音を口に出すと、あたかもそれを聞いていたかのように、書斎に出入りするガラス戸の枠の上に祀られていた成田さんのお札が「トン」と音を立ててぼくの目の前の床に落ちたんです。

 

 お札の背中部分にi粘着テープを貼りつけて後ろの壁面に固定して、少しの揺れでは落ちないようにしておいたはずなのに、なんです。それを目にしたぼくは「分かりました。教団には今日、行ってきます」と気持ちの中に決めて、その日の午後に出かけることにしました。

 

 昼食を済ませた午後2時頃「ちょっと出かけてkる」と妻に告げて、成田市不動ヶ岡にある神教真ごころ成田支部の玄関前に立深い呼吸をして呼吸をして重い硝子のドアを押しながら「こんにちわー」と声を挙げると「はーーい」という返事が返ってきて、顔を出してくれたのは化粧っ気の全くない細面で60代の年恰好とみられるご婦人でした。

 

 「真ごころライフを見て来ました」と告げると、広い雑談室のような部屋に案内されて、テーブルの前に並ぶ椅子に腰を下ろしました。「渡部と申します」と名を述べるとそのご婦人は「宮田と言います。地区長をしています」といわれ、この地区の教団幹部であることが分かりました。

 

 そしてぼくは、もう三十数年前にも、胃もたれと下痢症状に悩まされて、今日と同じように教団の門を叩いたのですが、徐々に病態が落ち着いてきたので2年少々の期間で退団してしまったことを話しました。

 

 二度めの今日は、緑内障という長年の持病のために使用していた点眼薬のどれもが副作用のために使うことができなくなって、失明への道のりを歩いているのではないか、という不安に苛(さいな)まれてここの門を叩きました、と伝えました。

 

 「分かりました」と言う宮田さんの案内について行き、階段を上って上の階に着くとご神殿が設けられていて、これまた30畳ほどの広い部屋に通されました。そこには30年余も前に安孫子支部にお参りしたときと同じあの金色に輝くご神殿があり、「御光(みひかり)が出ているんですよ、というあの掛け軸も祀られていました。

 

 そのご神殿のお前で宮田さんは、あの時と変わらない浄め祓いをしてくれて「次回にはその目薬を持ってきてくださいね」と言われて帰路につきました。

 

 その帰り道、ぼくはこんなことを考えていました。―――ご霊さまは、目が見えなくなるのではないか、と恐れおののくこのぼくを、2回目となるこの教団への参拝をさせて何をしようとしているのだろうか―――と。

 だから、この教団の言うどんな些細なことにも注意深く耳を傾けてみよう、と思いました。

 

 2日後、漸進的な副作用が最も少ないとされているキサラタン点眼薬を持参して、ぼくは再び、成田支部を参拝しました。対応してくれた宮田さんから身体の浄め祓いを受けている間に、別の信者の方がそのキサラタン点眼薬の浄め祓いをしてくれて「こうすることで中の毒気が消えて副作用が起こらなくなりますよ」と教えてくれました。

                           

 その夕方、毒気を抜いたと言っていたキサラタン点眼薬を久しぶりに恐る恐る点眼してみました。すると、最初の頃と何ら買えあることのない心地よい点(さ)し心地だったのです。「これはいけるんじゃないか」と2,3日続けてみたところ、血圧の上昇や目の痛みが現割れることは全くなかったのです。

 

 「ああ、よかったあ」とぼくは思わず安堵の声を挙げてしまいました。そんな喜ばしいことを伝えようと、あくる日、成田支部を参拝しました。それを耳にした宮田さんが「目薬の毒気祓いが自分でもできるんですよ。3日間の講習を受けてみませんか」と信者になるよう誘われたので、二つ返事で了解しました。

 このあたりの勧誘の仕方は、安孫子支部の場合と同じなことに気が付きました。

 

 もう30年以上も前のこととはいえ、「勝手知ったる講習会」ですから、何の不安も、何の心配もなく3日間の講習を受けて平成26年5月吉日、再び神教真ごころの信者になりいました。

 

 ぼくが信者になってから、というもの、宮田さんは時々、自宅に足を運んでくれて新人信者に対する指導や心構えといったことを教えてくれるようになりました。7月のx中旬でしたか、宮田さんが来宅したとき2階の居間にお通しして雑談を始めると、お位牌の話になりました。

 

 「安孫子のときにお祀りしたお位牌はどこにあるの」と、応接ソファに腰を下ろした宮田さんから問われたので「1階の書斎です」と答えたんです。「ん?」と宮田さんは怪訝(けげん)な顔を向けたので「30年前、安孫子支部の幹部の人が、この2階の居間と続きまになっているわしつに決めてくれたのですが、退団した後にぼくの独断で1階の書斎に移したんです」と答えたんです。

 

 それを聞いた宮田さんは「どうしてなの」とその理由を聞いてきたので「父のご霊さまがいつもぼくの横にいてくれるので、お位牌もぼくの横におきたかったからです」と答えると、その曇った顔色がますます渋い様相になってきたのを見て、ぼくは大変なことをしてしまったのかな、と気付いたんです。

 

 ご先祖の皆さまをお祀りしたお位牌を1階に移したのは、ご先祖の方々に対する「無礼なこと」だったのです。お位牌というものは、現界と霊界の出入り口なのですから、その家の最上階にお祀りするものなのです。

 そのことは安孫子の講習会でも教えていただいたし、今回の講習会でもその話がありましたから忘れていたのではありません。

 

 でも、お位牌は最上階にお祀りしなさいという教義は単なる形式なことで、それが理由でお咎(とが)めを受けるようなことはないだろうと、たかをくくっていたことは事実でした。

 そんなことよりも、愛おしい父のご霊さまですから、ぼくの傍らにいつもいて欲しかった、という気持ちの方がとても強かったからなんです。

 

 世の中を見渡しても、1階に設けた仏間という部屋にお祀りしているお位牌を多く目にしていたからでもあります。でも、それは霊界のしきたりからすると「逆事(さかごと、正論ではないこと)なのかもしれないな、と宮田さんの渋い顔の表情を目にしたら気が付いたんです。

 

 ということは、ぼくが不幸にも緑内障という慢性的な眼病に罹ってしまったことも、使用していた治療用点眼薬の全てが原因不明の副作用を起こして使えなくなってしまったことも、みんな「霊の障り(れいのさわり、霊障)だったのかも知れない、と思えてきたのです。

 

 宮田さんは、そのことについて何も言わずに帰られましたが、月日の経過を振り返ってみました。神教真ごころ安孫子支部を退団したのが昭和60年ですから、お位牌を1階に移動させたのもその頃です。

 

 その時ぼくは40歳でしたから、霊障としての緑内障を発症したのはその数年後から と考えると、その治療の履歴とほぼ符合するのです。ほんとうに霊の障りなんだろうか、そんなことって現実にあるんだろうか。お位牌を2階に戻してみれば、何らかの変化が起きて確認することができるのではないだろうか。

 

 そして、お位牌に向かって「ぼくを助けてください」と頭を下げたら「神教真ごころに行け」と指示されたのは、このことに気付けよ、ということかも知れないな、なんて考え始めたらじっとしていられなくなりました。  

 

 それから数週間が過ぎて宮田さんと顔を合わせたとき、「お位牌を2階に移すための祖霊祀りをしていただけませんか」と、ぼくからお願いしたんです。すると「そのほうがいいですね」と早々と来年平成27年2月8日に決めていただきました。

 

 それに先立って、お仏壇を安置する場所とその向きを考えたときに2階のどの部屋がいいのか、を予め決めていただいて棚の取付工事をしておかなければいけません。その調査のために、宮田さんと成田支部の矢板支部長補佐の二人が1ヶ月以上の前の平成26年12月に来宅してくれました。

 

 2階の居間や和室をうろうろしながら「ここがいいですね」と薦めてくれた場所は、今の北側に位置する和室の北側になる壁面でした。お位牌を陽当たりのよい南方向に向けるのでうってつけの場所です、というのです。

 図らずもその場所は、30年も前に安孫 子支部の幹部が「ここがいいですね」と薦めてくれた場所と同じだったのです。「やっぱり、ご霊さまの居場所は2階のここが一番いいんだな」ということに改めて気が付いたんです。

 

 棚の形と設置場所を示した図面を建具屋に渡して、材料に少し奮発した立派な棚を造っていただき、新年明けての1月31日に所定の位置に設置してもおらいました。

 祖霊祭りに先立って、2月2日には成田地区長という幹部でもおられ宮田さんにご足労いただいて、1階の書斎に祀られていたお仏壇とお位牌を新しく造った2階の棚に移動させる儀式を行いました。

 

 「ただいまからお位牌を移動いたしますので、ご霊さまたちはしばらくの間お位牌からお離れ下さい」と地区長がご先祖の皆さまにお断りをして、お仏壇とお位牌などの一式を、2階に新しく造った棚に移動しました。

 

 その後に、新しく祀られたお仏壇の前で「滞りなく終了しましたので、ご先祖の皆さまはお位牌にお罹(かか)り下さい」とお伝えして、移動の儀式は終わりました。

 

  さて、祖霊祭りに向けてのお供物やお花の準備も整い、予定通り2月8日に矢板補佐の先達により無事に執り行うことができました。「やれやれ」ということで、矢板補佐と宮田地区長をダイニングに案内して茶菓をお出ししたとき、ぼくは思わず「あれっ」と小さな声を挙げてしまったんです。

 

 天井からぶら下がった3つのペンダントライトのうち一番奥のライトが球切れで点灯しないはずなのに、その時に限って明るく輝いていたんです。もちろん、妻にも知らせると「あ、本当だ」と妻も怪訝(けげん)な表情を浮かべていました。

                                                                       

 かつての緑内障点眼薬の全てが使えなくなったトラブルも知らないでいる信者の皆さんにもお伝えしたのですが「へーー、不思議なこともあるもんだね」で終わったのです。でも、当事者のぼくにとっては「ウン、それでいい。お位牌は2階に祀るものですよ」と、ご霊さまが伝えてくれたように見えたんです。

 

 皆さんが帰られたあと、球切れになっていて決して点灯するはずのない一番奥のペンダントがどうして点灯したのだろうか、という疑問を抱いて、もう一度確認してみようと思いました。

 そこで、一度スイッチを消灯にして、再び点灯にしてみたんです。でも、そのペンダントは今までと同じように点灯しなかったし、それ以降も点灯することはなかったんです。

 

 じゃあ、あの一番奥のペンダントが、一度だけ点灯したのはどうしてなのか、ということになります。本当は点灯していないけれども、ぼくの目の錯覚で点灯した、と思い込んでしまったのか、それとも、これもまたご霊さまの超能力によるものなのでしょうか、ということになるけれど、ぼくは後者だと思います。

 

 つまり「お位牌は2階にお祀りする」という教義は、単なる形式的な空言ではなく、まぎれもない「霊界の決め事」だったのです。点灯しないはずの球切れのペンダントを点灯させて、そのことをぼくに教えてくれたのです。

 

 結局、ぼくの左右の両目が緑内障という病魔に襲われたのは、お位牌を建物の1階にお祀りしたことによる「霊に障り」によるものだとはっきり分かったんです。

 神仏に対する無礼ごとによる身体の不調は、首の部分よりも上の部分、つまり、頭とか目といったところに現れる、という教えを裏付けたことになってしまいました。                                                                                                        

 では、緑内障点眼薬の全てが使えなくなって失明の窮地に立たさてしまったことは、何を意味していたのでしょうか。そのことが動機となって、およそ30年前にもお世話になったことのある神教真ごころの門を叩いて再び信者となって、お位牌を2階に移動していただいたことで「うん、これでいい」と言わんばかりに球切れのペンダントを点灯してくれたんだな、と理解したんです。

 

 ということは、お位牌の祀り方の間違いを厳しく叱責してくれたんだ、ということに気が付いたんです。

 

 つまり、先祖代々のお位牌を1階の書斎に祀っていたというぼくの身勝手な行動が多くの先祖霊の怒りをかって、霊障としての緑内障を末期の状態に近づかせたのです。そこで、父のご霊さまが点眼薬の全てを使えなくするという荒業を仕掛けてぼくを狼狽(ろうばい)させ、もう一度真ごころの信者になるよう導き、地区長である宮田さんの表情から1階に祀ったお位牌を2階に移すよう仕向けられたのです。

 

 そして、多くの先祖霊の憤りを鎮め、これ以上緑内障が進行して光を失うことのないよう、ギリギリのところで助けてくれたのです。ああ、なんてありがたいことでしょう。

 

 でも、とても不思議なことがあるんです。およそ40年も前に何をしても良くならない胃もたれと下痢に悩まされて神教真ごころの門を叩いたのは、郵便受けに投げ込まれていたこの教団の恢弘チラシに誘われて、でした。

 

 また、今回の緑内障点眼薬の全てが使えなくなって窮地に立たされていたときも、同じ教団の恢弘チラシが玄関先の郵便受けに投げ込まれていたんです。それを頼りに同じ神教真ごころの門を叩いて再び、信者になったのですが、その教団の一つの教義というものが、お位牌というものは自宅の2階という最上階にお祀りするものですよ、ということだったんです。

 

 つまり、「お位牌は2階に祀る」 という教義を2回も無視していたことに対して、強く「念を押された」ように見えました。

 

 先祖霊の正しいお祀りの仕方、というものを知っているのに実行しないでいると、取り返しのつかないことになってしまうことを、ぼくはまざまざと体験してしまいました。

 

 でも、2回ともタイミングよく真ごころライフという恢弘チラシが我が家の郵便受けに投げ込まれていたのは、どうしてなんだろう、と考えてみると、霊界の決めごとである「お位牌は最上階に祀る」ということを教義にしているのは神教真ごころの他にはないのではないか、と思えるんです。

 

 しかも、霊界にいらっしゃる父のご霊さまは、現界に存在するそのような神教真ごころのことを既に知っていたのではないだろうか、としか言いようがありません。だからこそ、真ごころライフという恢弘チラシを我が家の郵便受けに、タイミングよく、2回に亘って、投げ込まれたのですが、それをなさったのは父のご霊さまに違いない、と思うんです。

 

 とても信じられないけれど、霊界のご霊さまが現界に生きる人の気持ちを操るのは、難しいことではないことをぼくは知っているからなんです。

 

 

 でも、お祀りするお位牌の位置や向き、高さ、あるいはお仏壇の中を明るくする、と言った細かなことを教義にしている宗教団体は、本当に神教真ごころだけで他にないのでしょうか。

 とはいっても、ぼくは宗教家ではないし、いろいろな宗教の研究者でもないので、宗教界全体を俯瞰して眺めることはできません。

 

 そこで、ネットを利用して主要な葬儀屋さんが唱えるお位牌の祀り方とか、近所にある仏具屋さんとの会話を通じてその辺りを調べてみました。

 

 お位牌をどの方向に向けるか、については、南面北座説という南方nお上に載せて向に向に向ける説と、西方浄土説という東に向ける説に加えて、春夏秋冬説という向ける方向に違いはない、といういくつかの説があって、宗派による違いはあるようです。でも、信仰する宗教を持たないぼくにしてみれば、向ける方向に違いはない」ということに受け取りました。

 

 お位牌を設置する高さについては、座したときの目の高さよりも、あるいは、胸の高さよりも高い位置になるように、といわれており、床置き式のお仏壇は、適切な高さの台の上に載せるとよい、と記されているだけでした。

 

 一般的には座布団の上で正座の姿勢になってお参りするでしょうから、そのときの目の位置よりも上になるような位置にご安置することでよろしいと思います。

 仏具屋さんの店内で多くの仏壇を見せて頂いたり、お話を伺ったりしても、これでなければいけない、という決まりはないようなので、今は亡きご先祖の方々の現界への通り道であることを忘れなければよろしいのではないか、と思います。

                 

 お位牌を祀るお仏壇を安置する建物の階についても、1階でも最上階でも差し支えないとの記述もあり、自分たちが食事をする階と同じだとお供え物を運びやすいなど、お参りし易い階をお勧めします。

 

 また、お仏壇の中を明るく照らす照明についても決まりごとはありませんが、その照明があることによってとても明るく、厳(おごそ)かな′雰囲気が漂うお仏壇になることは間違いありません。

 

 このように見てみると、お仏壇はその建物の最上階にお祀りしなさいとか、その中を明るく照らしたり、お位牌を安置する橋に高さを、立位での目の高さよりも高くする、と言ったことをきちんとした教義にしている神教真ごころという宗教団体は、とても稀有な存在なんだな、と分かりました。

 

 だからと言って、これが「故人の正しい祀り方」なのかどうかは判断できないけれど、多くのご先祖の方々がこのお位牌を通って出入りしていて、しかも、お食事までも召し上がってくれている事実を体験してしまうと「これがk霊界の決め事であり、ご先祖ん皆さまが大変喜んでおられる」ということになるのではないかな、と思えます。

 

 ぼくが今まで生きてきて、ご先祖さまの祀り方という話題の中で、お位牌というものは故人の霊魂が宿る依代(よりしろ)としての役割に加えて、霊界と現界との出入り口になっている、というようなことを耳にしたことが一度もなかったからなんです。

 

 だから、胃もたれや緑内障という霊の障りに苦悩しているぼくの姿を見ていた父のご霊さまが、2回も名指しして「神教真ごころに行け」と導いてくれたのだから、偶然の出来事ではなかったことに間違いないんだろう、と思います。

 

 しかし、お位牌を建物の1階部分にお祀りしたり、中に照明器が取り付いていなかったりして真っ暗なお仏壇も広く出回っているので、それを購入した人も多いはずです。でも、ぼくのように辛い戒(いまし)めを受けた人は、たぶん、いらっしゃらないと思います。

 

 ぼくだけだと思います。なぜなら、ぼくの場合、お位牌は2階にお祀りするものですよ、という霊界のしきたりを知っていたからなんです。知っていながら、それに従わなかったからだと思います。その辺りは、もう、お見通しなんです。

 

 つまり、独断という自分だけの都合で1階にある書斎の片隅にご安置してしまったことが霊の障りになってしまったんだろうと思います。父のご霊さまが出て来られてとても愛おしかったから、という理由とは言え、霊界のしきたりがこの世のものとはまるで異なる世界である、ということに気が付かなかったからです。その部分はとても反省しています。

 

 それから半月ほどが過ぎた平成27年2月28日の夜の11時過ぎでした。ベッドの上でうとうとしていると、突然「ポー―っ」というサッカーの試合中に鳴り響くホイッスルのような音が聞こえてきて目を覚ましました。

                                                                       

 すると、隣室の書斎からサワサワとした多くの人々が行きかうような音が来たので、じっと耳を欹(そばだ)てていたけれど数分ほどで聞こえなくなりました。

 

 帰るべきお位牌がその近くにはなかったので、多くのご霊さまたちが困惑しているんだな、と思い、翌日「お位牌は2階の和室に移しました」と書き記した張り紙を、今までお仏壇をご安置していた場所の壁に張り出したんです。

 

 すると、その夜の11時頃でしたか「パチッ」という木片をへし折ったような大きな音に目を覚まされたのですが、昨日とは打って変わって「2,3人かな」と感じられるほど少ない人数のご霊さまのようでした。

 

 「あ、あの張り紙を読んでくれて、多くのご霊さまが2階に行かれたんだな」と感じ取れてうれしくなりました。すると、次の日からは夜中に目を覚まされることはなくなりました。

 

 

 眼球を丸い形に保っている眼圧(がんあつ)が様々な理由で高くなり、視神経を圧迫することで視野の欠損を引き起こすのが緑内障という慢性疾患なのです。その中でも、眼圧が正常値であるにもかかわらず視野の欠損を引き起こすのを正常眼圧緑内障というもので、これが長きに亘ってぼくを悩ませ続けているのです。

 

 従って、適切な点眼薬を使う等して眼圧を20mmHg、いや、できるだけ15ミリ以下に下げて視野の欠損を食い止めなければならないのです。その治療法によって視野の欠損が進行していないかの確認は、3ヶ月ごとに行われる視野検査によって行われます。

 

 お仏壇を2階に移して以来、処方されている点眼薬は副作用を起こすことがなくなったキサラタン点眼薬一種類だけにしています。

 

 眼圧は15~18ミリと少し高めに変化しているものの、それから3年余経った今でも、視野の欠損が進行したという所見はありませんでした。ただ、視野の広さは数値ではなく

図形で示されるので「大きく変わっていませんね」と言われていました。

 

 8割以上の視野が欠損していてこのままいけば必ず失明する、と告げられてから久しいのですが、自動車の運転免許もはく奪されずにいられるギリギリのところで生かされています。

 

 緑内障治療用点眼薬のどれもが使えなくなってから約3年が過ぎた平成29年7月、ぼくと妻は、再び神教真ごころを退団しました。理由は前回と同じように「目的を果たしたようだ」という思いが強くなってきて、教団の信者でいる意味を失ってきたからです。

 

 過ぎ去った日々を振り返ってみました。ぼくは30歳半ばからの約30年の間に2回も神教真ごころの門を叩きました。何をしても良くならなかった胃もたれと下痢に悩まされたときと、緑内障の点眼薬のどれもが使えなくなって失明の不安に苛まれたときです。

 そして、そのいずれのときも、どういう訳か教団の恢弘チラシ「真ごころライフ}がぼくの目の前にあったんです。

 

 そして藁(わら)をも掴む思いで神教真ごころの門を叩き、神さまの関する講和を聴き、幹部連中の指示に従いながらお位牌を2階の「特等席」と言われる南向きの壁面にお祀りさせていただきました。

 

 そのことによって、どうにもならなかった胃もたれと下痢症状が穏やかになっていき、緑内障の点眼薬による副作用も起きなくなってきたんです。でも、それだけではないんです。

 

 ある日、家族4人でお参りをしていました。すると、どこからともなく現れた手のひらを広げたほどの大きさと、それより少し小さな大きさの円形をした薄黒い影の2つが現れて、壁を上ってそのお位牌に吸い込まれていきました。これを目にしたのは、ぼくと小学校3年の長男だけでした。

 

 「何なの、これは」ととても驚きましたが、人が亡くなっても、その故人の思いとか姿までのすべてが消えてなくなってしまうのではない、と、ぼくは認識しました。人が亡くなって荼毘(だび)に付されても、「人の思い」という心の部分は薄黒い影となって、いつまでも生きておられるんだな、と感じ取りました。

 

 だから、自分たちと同じように、ご先祖の皆さまにも毎日のお食事をお出しすることがとても大切なことが分かります。

 

 これらの体験から分かることは、現界に生きるぼくたちが健やかで楽しい生活を送るには、なきご先祖のお位牌を建物の最上階にご安置して、毎日の食事をお出しすることがとても大切なことだと、教えていただきました。

 

                             終わり―――――――

 

 

 

 その8 PCが教えてくれた妻の脳卒中

 女房がコーラスの仲間と一緒に万座温泉の一泊旅行に出かけるというのです。「じゃあ、ぼくも近くのホテルに泊まってゆっくりしようか」と思って、PC(パーソナルコンプーター)のANAホテル宿泊申し込み画面から申し込もうと必要事項を入力しました。

 ところが、どういう訳か申し込み確認画面は受け付けてくれなかったんです。

 

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 平成26年5月13日の火曜日から15日の木曜日までの2泊3日の予定で、妻が、その粗属するコーラスグループの仲間たちと一緒に群馬県の万座温泉にでかけてくる、と聞いていました。                    

                                          

 ならば、一人で留守番薬のぼくも「たまにはちょっとリッチなホテルに一人で外泊してみようかな」と、12日の晩、割引の宿泊プランを実施している近隣のホテルはないものか、とネットを開いてみました。

 

 すると間もなく、成田空港のを近くにあるANAクラウンプラザホテル成田が、5室限定の50%割引プランを実施していることを見つけたんです。

 

 予約状況を見てみると「空室あり」と出ていたので「よし、これにしよう」ということで、申し込み画面の宿泊にのお欄に「5月14日」と記入して、氏名や連絡先の電話番号といった必要事項をもれなく記入しました。

 

 それらの記入内容に間違いがないことを確認して「よし、これでOK」とばかりに確認が面のボタンをクリックして最終確認が面を確かめようとしました。ところが、確認画面に切り替わらなかったんです。

 

 普通このような場合、帰路変わらない理由が表示されるのですが、それが見当たりません。「あれ、どうしたんだ」ということで、記入した必要事項の内容に抜けや間違いがあるのかな、と再確認したけれど、それはありませんでした。

 

 そこで再び、確認ボタンをクリックしてみたのですが、やはり、確認が面には切り替わらなかったんです。

 

 「何でなの、どうしてなの」とぶつぶつ言いながら、今度は連絡先電話番号の市外局番と個別番号の間にハイフンを入れたり、氏名のフリガナをカタカナからひらがなにしたりして何度か確認が面への切り替わり作業をしてみたけれど、切り替わることはありませんでした。

 

 「何か、いやなことでもおこらなければいいがなあ」と不安に駆られながら、14日の一人ディナー付きの外泊を諦めました。

 

 そして、翌13日の朝、近所に住むコーラス仲間の村井さんらと連れ立って手を振る妻に「気を付けて行ってきなさいね」と声をかけて送り出しました。ホテルでの今夜の一人ディナーを諦めた代わりに少し奮発した夕食にしようと近隣のレストランに入り、お刺身定食と恵比寿ビールを食してゆっくりとした気分で寝床に就きました。

 

 翌14日の朝はいつものように起床して、一人朝食を済ませ、ニッカニシテイルウォーキングで町内を一回りして机に向かいました。すると、午前の19時半ごろ

沖電話が鳴りました。

 誰だろうと電話に出てみると昨日、妻と連れ立って出発していったコーラスグループの村井さんからでした。

 

 息せき切った声で「奥さんが脳出血を起こしてホテルで倒れた。今、群馬大学の附属病院に入院しているけれど、手や足も動かないし、会話もできない」と伝えてきたのです

 

 「ええー、ウチの加代子が…」と耳を疑ったのですが、同時に、一昨日の確認画面に切り替わらなかったというPCのトラブルはこの前兆だったのか、と青ざめました。どうやっても確認画面に切り替わらずに、AANAホテルの外泊を諦めざるを得なかったのは「外泊などしているときじゃないよ」という事前通知だったんだ、と気が付いたんです。

 

 いったいどなたが、ANAホテルの外泊を諦めさせてくれたのでしょう。もし、ノーマルに画面が切り代わって宿泊でもしていたら、村井さんからの第一報は聞きそびれていたに違いありません。

 その結果、夕方あるいは明日にでもその第一報を聞こうものなら、その後の状況が大きく変わっていたでしょう。なんというスピーディな連絡なんでしょう。

 

 その電話を切るや否や、身支度を整えて引き出しの中にあった10万円余の現金を財布に突っ込んで、群馬大学付属病院が群馬県前橋市昭和町にあることを調べてそこに向かいました。新潟に住んでいる息子にもその旨を伝えて、上越新幹線の高崎駅で落ち合うよう申し合わせました。

 

 ぼくも息子も、だいたい同じ時刻頃に高崎駅に着いて、群馬大附属病院には夕方の5時ころに到着しました。その足で妻が入院している病室に向かいました。 8階にある脳神経外科SCU(Stroke Care Unit 脳卒中集中治療室)に案内されてベッドの上に横たわる加代子の姿を目にしたとき「えっ、これが加代子か」と疑うほど痛々しく、別人のような様相に驚きました。

 

 意識はあるものの、右目、右眉、右頬そして唇の右側といった顔面の右側の造作がことごとく垂れ下がっていたのです。口を開けてしゃべろうとするけど、聞こえてくるのは「あうあう」という雑音だけでした。

 右手、右足もその付根のところから指の先までもがまったく動かすことができない状態でした。

 

 看護士がぼくのすぐ横に近づいてきて「14日の朝5時ころに起床して友達と一緒に朝風呂に行き、湯舟から上がり、浴衣を着ていた時に気分が悪くなって部屋に戻ろうとした途中で『救急車を呼んでください』とその友人に告げてた途端に倒れ込んだようですよ」と説明してくれました。

 さぞかし、本人はずいぶんと怖い思いを下だろうな、と想像します.                                       

                                                    

 後日、村井さんから断片的な話を聞いて、それらをつなぎ合わせるとこのようにして群馬大附属病院に運び込まれたようです。つまり、1800メートル余の標高にある万座温泉からJR吾妻線の羽根尾駅の近くにある西吾妻福祉病院までの約20数キロの見知海苔を救急車で搬送されました。

 

 その病院には運よく脳神経外科医が在籍していたのですぐさま脳出血と診断されたのですが、緊急時の開頭手術を行う設備が整っていないためにドクターヘリの出動を要請して群馬大附属病院まで移送したのだと分かりました。

 

 そんな緊迫した状況を思い浮かべたぼくは、あんな山奥の温泉地で急病に遭った妻が、わずか3,4時間で国立の大学病院に搬送された、というそのスピーディな連係プレーに「よく、助かったものだ」ととても驚きました。

 

その日の宿泊は、病院のスタッフから紹介された、病院から徒歩で5,6分の距離にある1DKの間取りで素泊まりが1泊2500円という木造のアパートでした。ほかにあてのないぼくは、その一室を長期に借りる契約をすると共に、その晩は息子と何十年ぶりかに枕を並べて就寝しました。

 

 翌15日も群馬大病院に行くと、主治医の梶原先生から現在の病状と今後の見通しについて話を聞くことができました。机上に置かれたA4サイズのPC画面に映し出された妻の頭部CT画像を指で指しながら「この左側にい映る白い部分が脳出血を起こしたところです」と説明されました。

 

 目を近づけてよく見ると、頭の断面の中心部近くに丸くて白っぽく打つ打った部分がありました。「直径が3センチほどの比較的小さな出血ですが、このまま出血が増えるようなことがなければ開頭は必要ありません。ただ、見てわかるように、頭の中心部にある視床(ししょう)という皮膚の痛みや痒みといった皮膚感覚や手足の運ぢう感覚を伝える部分の近くなので、これから行われる3日ゲッツあまりの急性期のリハビリで、それらがどれほど回復するか、がカギになってきます。

 

 うまく回復しなければ、皮膚科んっかうが戻らないばかりか、車いすになるかも知れません」という先生の言葉にぼくは身構えました。

 

 血圧の変化と止血の状況を観察するために2日間ほど安静にしていた妻ですが、翼にいるぼくに向かって「わたしは寝たきりになってしまうんでしょ。本当のことぉ言ってよ」と今抱いている不安を問い詰めtrきたんです。

 

 「大丈夫だよ、誰もそんなこと言ってないよ」と言う返事が、ぼ億のできる背一杯の返事で敷いたが、そのような意味のある会話を交わせるようになった妻を目の前にしてぼくは、暗雲垂れ込める中でも一条の光を目にした思いでした。

 

 そして翌16日の午後、健保の限度額適用認定の申請とぼくの緑内障の定期検査を受けるために一時帰宅しました。仕事を持つ息子もその日に帰宅しました。

 

 その晩、ぼくは自宅でこんな夢を見たんです。―――――金色の布で作られた底の部分が四角い籠巾着(かごきんちゃく)を手にした妻がさっそうと歩いてきました。そして、右の手のひらをその巾着の中に入れてピカピカと輝く金布の裏側から遊部先を当てて「きれいでしょ」と言わんばかりにニコニコしていた――――というものでした。

 

 その夢から覚めたぼくは「あ、加代子は手も動き、足で歩けるようになるよ」と、そっとご霊さまがぼくだけに教えてくれたのではないか、と思い、それからというもの、そんな淡い希望を抱くようになりました。

 

 そんななか18日に群馬大学に戻ると、19日からリハビリを始める、と聞きました。言葉の方は何とか会話ができるようになったものの、右手も右足もぶらっとぶら下がったままで、動かkすことができないだけでなく、痛い、痒い、と言った皮膚の感覚もほとんど感じないままだ、と漏らしていました。

 

 加代子のあの手が、あの足が、以前のように動くようになるだろうか。あの野球選手だった名がsh真茂雄さんが脳梗塞で倒れたのを知っています。あり余るお金をつぎ込んで専属の理学療法士や栄養士らからありとあらゆるリハビリを受けてきたと思うのですが、右手はいつもポケットに入れたままだし、歩くこともままならないようです。

 

 また、お笑い芸人の桜金蔵さんだって同じです。脳出血のために開頭手術を受けて成功した、と言われている彼ですが、まだ動かない足を引きずって要介護の生活を強いられているようです。

 

 

 このような実例を目にするとついつい悲観的な思いに負けそうになりますが、あの夜に見た金糸でできた巾着の夢の中で感じた「妻の手と足は動き出すかもしれない」という淡い希望を胸に秘めて、リハビリに挑んでいる妻を見守っていきたい、と思うぼくでした。

 

 さっそく作業療法士(PT、Physical Therapist)と言語聴覚士(ST Speech-Language-Hearing Therapist)によるリハビリが始まり、見学させてもらいました。

 まず、、たかはしさんというPTが身長162センチと大柄の妻を書か抱えて、プロレスのコブラツイストのような恰好で右側胴体を大きく左側に反らしている姿が目に入り、少々驚きました。

 

 後で聞いてみると、手にしろ足にしろ脳卒中の事後というのは、緊張している筋肉を大きく伸ばすことで痙縮(けいしゅく)という筋肉の縮み込みを防ぐことがリハビリの第一歩なんですよ、と教えてくれました。

 

 あ、い、う、え、おの発声をオルガンのメロディーに合わせて唄を唄いながら言葉のリハビリをするSTによる言語発生訓練も始まりました。1週間前には「あうあう」という音しか出せなかった妻が、少しづつ言葉が出るようになってきました。nいゆうやけいろのすいまが

 

 27日に群馬医大に戻りました。上越新幹線の高崎駅で上越線に乗り換えて次の駅で下車する少し前、電車の出入り口のドアの横に立っていたぼくは、黄色く染まってきた西の空をドアのガラス越しに何げなく眺めていました。

 

 そのうちに、夕焼け色に輝く西空に黒い雲が近寄ってきて、何だかその雲の動きに目を離せなくなったんです。あれよあれよ、という間に黒い雲が寄り集まってきたと思ったら、黒地の中に夕焼け色のすきまができてきたなあ、と目を凝らしていると、なんと、アルファベットのK(けい)と読める切抜き簿記になったのです。

                                                          

 「え――、加代子のKだよ」と小さな声を挙げたぼくは、その様子を手帳にスケッチしておきました。それが上に掲げた絵です。まさか妻加代子に向けた応援現象ではないと思うけれど、あまりにも壮大な黒雲の振る舞いにとても驚きました。

 

 いったいどなたがこんなことを、と思ったけれど、単なるぼくの目に映った錯覚だったのかもしれない、なんて思ったりするんです。なぜなら、ぼくの両目は緑内障に侵されていて、かすんだり、涙目になったりと、朝から晩まで眼のトラブルに悩まされているからです。

 

 妻の病態も2週間余となる急性期の状態も安定してきたので、6月早々には自宅近くのリハビリ施設に移って回復期のリハビリを受けてください、途の案内がありました。自宅のある成田氏の近くにはそのようなリハビリ施設が2か所あるのですが、自宅から車で30分余で行ける佐倉市の佐倉厚生園病院に決めました。

 

 この佐浦厚生園は、昭和17年に結核の診療所として創設されたものですが、結核に対する治療の進歩によってその必要性がなくなり、平成21年にその目的を終了して、同年の7月に脳卒中患者の回復期リハビリ病棟として再出発したものです、と説明されました。

 

 5月31日にぼくは自宅に戻り、翌6月1日に厚生園に足を運び入院の手続きとあいさつを交わして院内を見せて頂きました。

 

 6月5日、ぼくが同乗したハイルーフ型ワンボックスバンの荷台のスペースに妻を寝かせたベッドを固定した輸送車は、群馬県前橋市の群馬医大を朝8時に出発し、関越道を南下して一路佐倉厚生園に向かいました。

 昼過ぎの1時半には厚生園の門前に到着し、約5時間の輸送料金は高速代別で6万円でした。

 

 

 さあ、これから約半年間にわたる回復期のリハビリが始まります。果たして妻の右手と右足は以前と同じように動くようになるのでしょうか。一生、車いすの生活になってしまうのでしょうか。痛い痒いといった皮膚感覚が元に戻り、滑舌のいいあの言葉遣いも依然と同じようになるのでしょうか。いくつもの不安が横たわっています。

 

 振り返ってみれば、とりわけ健康には気を使っていた妻でした。むしろ、ぼくの無頓着さに苦言を言うほどでした。机から離れないぼくを見れば「身体を動かshなさいよ」とウォーキングを勧めてくれたり、塩分や糖分を抑えた味付けに不満を言えば「お出汁が効いておいしいのよ」と取り合ってくれないこともありました。

 

 「普段の血圧だって130前後よ」と自慢していた妻が、どうして脳出血を起こしたのだろうか。脳内の血管が切れて血液があふれ出る脳出血の原因には、普段から血圧が高めの高血圧症のものや先天的に血管の弱い部分がある脳動静脈奇形などいくつかあるようですが、妻は前者の高血圧によるものだと診断されていましたが、「本当だろうか」とちょっと気になるところがあります。

 

 まあ、今となってはよく分からない原因でしょうから、普段から血圧が高めだった、としておけばどなたにも当てはまるからでしょう。

 

 それよりも、もっと気になることがあったんです。それは、妻がこの脳出血を起こした時期というのが、ぼくが長年使っていた緑内障点眼薬のどれもが強い副作用を起こすようになって使えなくなってしまった時期とほとんど同じ時期だったことなんです。

 

 目薬のトラブルによってぼくの血圧が上がりはじめ、今まで何の問題もなく点眼していた緑内障て丸薬のどれもが使えなくなって、右往左往していたのが平成26年の4月下旬で、妻が脳出血を起こして倒れたのが同年の5月14日と、その時期が1ヶ月も満たない期間内で起きていたからなんです。

 

 しかも、ぼくの緑内障はめのぶぶんで、妻の脳卒中は頭の中という、いずれも人の身体の首から上の部分なんです。首から上に部分移管するトラブルというのは神仏に対する無礼ごとが原因になることが多い、ということを神教真ごころの幹部から聞いて知っていました。

 

 その「神仏に対する無礼こと」と言うことを自分はしているのではないだろうか、と過ぎ去った過去を振り返ってみました。すると、思い当たることがあったんです。

 

 目に見えないことなので「まさか、そんなことで」というところもあるのですが、妻の脳出血も、ぼくの緑内障の目薬トラブルも、お位牌に対する無作法による」霊の障(さわ)りではないか、と思えてきたのです。

 共に首より上にある身体の一部だし、その2つが発症した日がとても近かったからです。こんな不幸なことが夫婦二人の身体に重なって起こることなんて、確率的に言ってめったにあることではないだろうと思うのです。

 

 つまり、ぼくと妻に起きたこれら2つの出来事は、偶然に起きたことではないんじゃないのか、言葉を代えれば起こるべくして起きたこと、ではないのか、と思えてきたんです。

 本当にそうなんだろうか、と時の流れに沿って確かめてみました。

 

 

―――お位牌は建物の2階にお祀りするのですよ、と教えていただいたにもかかわらず、ご霊さまが自分の身近にいてほしい、という自分の独断と偏見によって、1階の書斎にお祀りしtのが、確か、真ごころを退会したのと同じ時期の昭和59年ころだと思います。

 

 そして、進行した緑内障が発覚したのが昭和の終わりころの昭和62,3年の頃だと記憶して言います。そして、緑内障の主だった目薬のどれもが使えなくなって「ぼくを助けてください」と亡き父にお願いしたところ、「真ごころに行け」というような文言な伝わってきて、再び、神教真ごころの門を叩いたのです。

 

 そのようにして、再び真ごころの信者になったのが平成26年の5月25日で、世話役をしてくれた宮田さんと雑談を交わす中で、お位牌を一階にお祀りしていることが霊の障りになっていることに気付かされたのです。

 

 だから、ぼくの緑内障治療目薬のどれもが使えなくなったのも、妻が平成26年の5月14日に脳出血で倒れたのも、お位牌を祀るのは身近な1階の方がいい、と思い込んでいて、勝手にそのようにしていた時期だったのです。

 

 そして、お位牌は2階にお祀りしなければいけないのではないか、と気付いた5月25日以降の状況を見てみます。6月6日から佐倉厚生園でのリハビリが始まり、院長とST(言語聴覚士)による面接の中で簡単な足し算や引き算をしてもらったところ、認知障害の所見は見当たりませんでした。

 

 続いて、8日には右手の指先の感覚がかすかに感じ利用になって来たけれど、動かせるような動作には至らなかったし、右吾日もまったく動かすことができなかったので車いすでの移動を余儀なくされました。

 

 ところが、それから2,3日経つと、意味のある会話が滑らかな舌使いでできるようになり、12日の朝礼の時に出された書類の小さなサイン欄に、妻自らボールペンを握って記名をした回復ぶりには、周りのPTらをっとても驚かせていました。

 

 いままでは幼稚園児が落書きしたような大きな文字しか書くことができなかったのが、14ポイントほどの小さな文字も書けるようになっていたからなんです。

 

 また、横軸に経過月数、縦軸に機能の回復程度をプロットした機能回復曲線を描いてみると、5月は特段の変化はなかったものの、6月の1ヶ月という短い期間内にあれよあれよと滑舌がよくなり、箸を持つことも出来るようになるなど、今までにないような速さで回復していきました。

 

 さらに、6月の末には4本の足のついた四点杖を使って一人でも歩けるようになり、7月に行われたARTとよばれる右手の機能評価テストでも、まったく動かすことができなかった右手が、健常者で80~100という範囲に対して45という健常者の半分ほどのレベルまで回復してきました。

 

 正直言ってぼくは驚きました。立ち会ってくれていた病院スタッフたちもとても驚いていました。こんな短い時間に、これほどまでに回復するなんて想像すらしていませんでした。

 

 それだけではないんです。ぼくの緑内障についても、急に血圧が上がったりしてどれもが使えなくなっていたのに、1階にお祀りしていたお位牌を「2階に移したほうがいいな」と思ったことで、点眼薬のどれもが使えるようになり、血圧の上昇もなくなってきたのです。

 

 実際にお位牌を2階に移動させたのは、次の年の平成27年の2月8日だというのに、です。

お位牌は2階に、と自分の気持ちを改めただけで自分の身体の状態が変わってしまったんです。

きっと、自分の気持ちの持ち方が、霊界にいらっしゃるご霊さまのお気持ちまで変えてしまう、ということでしょうか。

 

 「そんな作り話みたいなこと…」と思われるでしょうけど、事実なんだからそのように表現するしかありません。

 

 その後も順調に回復している、とは言われるものの、右手と右足の皮膚感覚はほとんど戻ることがなく、手足を動かすという機能回復の順調さとは裏腹に、不快な痺れというものが加わって来たようでした。

 

 そんな中にあっても、平成26年5月14日に万座温泉で倒れてから約6カ月の治療期間を経て、11月1日に自宅に戻ることができました。

 もちろん、自宅には介護保険の補助金を利用して、浴槽のへりをまたぎ易くした浅目の浴槽に交換しただけでなく、部屋の出入り口を始め廊下や階段、あるいはトイレといったいたるところに手すりを設置しておきました。

 

 それを目にした妻が、溢れんばかりの笑顔をぼくに向けて「これなら安心して暮らせそうです」と再出発に向けての穏やかな表情を見せてくれるだろう、という思いでした。 

 

 毎月のように何人かの患者が退院していきますが、脳卒中の片麻痺が回復しなかったのでしょう、三角巾で腕を吊ったままの人や装具を承着した足を引きずる人、あるいは、車いすに乗ったまま家族の人に押されていく人も決して珍しくありません。

 

 そんな中での妻はと言うと、ぼくが5月16日に群馬医大から自宅に一時帰宅したその夜に見た夢に出てきた、あの金色の布で作られた籠巾着(かごきんちゃく)を手にしてさっそうと歩いていた妻の姿を彷彿とさせるもので、その時から抱いていた「妻は再び歩けるようになるよ」という淡い思いが現実になったのです。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 40年以上にも及ぶ喫煙が肺の姿を真っ白に映すほどに自分の身体をむしばんでいた事実を、目の前にいる医師の口から聴かされたことで、とてつもなく大きな衝撃を受けたのです。

 

 事務所に戻るや否や、封を開けたラークメンソールの箱やストックしておいたハイライトを見ん吾ごみ箱にねじ込み、ライターから灰皿まで目に触れるすべての喫煙関連hんを、目の届かないところに仕舞い込んだんです。

 

 そんなぼくの行動を奇妙な目で見ていた妻が「どうしたの」と聞いてきたので「おれ、今日限りでタバコを吸わないことにした」と伝えると、「何度聞いたセリフかしら」なんて薄笑いを浮かべていたんです。

                            

 そんな妻の薄笑いとは裏腹に、それ以来ぼくは、たった一本のたばこすら口にすることがなかった、というよりも、口にすることができなくなってしまったんです。吸いたいという気持ちがなくなってしまったんです。

 

 いいえ、それだけでないんです。たばこの箱や灰皿に手を触れることさえもできないほど、たばこというものに嫌悪感を抱くように変わってしまったんです。突然に、なんです。

 

 「何を馬鹿なことを言ってるんだ」と思うかもしれませんが、本当なんです。世にいう禁断症状なんてまるでないまま、それ以来ずっと、たばこを口にすることも、吸いたいと思ったこと も、あのいい香りを思い出すことも、まったくなくなってしまったんです。

 自分でも「どうかしちゃったのか」と信じられないんです。

 

 そんな経緯(いきさつ)を知らない妻は「あーら、よくタバコを止められたわね、偉いわね」なんて半分茶かしながら云うけれど、ぼくは他人から「偉いわね」なんて言われるほど努力をしたわけではないのです。

 

 早い話が「あなたの肺がまっ白ですよ」と告げられたら、その言葉が「この先、永く生きられないよ」という脅し文句に聞こえたんでしょう。あのたばこの虜(とりこ)状態から一瞬にして、たばこ大嫌い人間に180度変わってしまったんです。 

 

 でも、よく考えてみると、それはこの世における眼に見える世界での話だと思います。確かにsの先生は「あなたの肺がまっ白だよ」といって、ぼくの今の状態を説明してくれたことは間違いありません。

 

 でも、肋骨の一部が痛いと受診した患者に向けてそんなことを言うでしょうか。余談として「ちょっとたばこを控えた方がいいですね」くらいならまだしも、少し唐突過ぎたんです。なぜなら、少し前に診てもらった成田整形の先生は、何も言ってくれませんでしたからね。

 

 つまり、この先生にそれを言わせた人が別にいたのではないか、と思うのです。というのは「肺がまっ白だよ」と言われてわき目も振らずにたばこの空き箱や灰皿を目に触れないところに仕舞い込んだのですが、やれやれと一息ついたとき、あれほど痛かった肋骨の痛みがすっかり消え伏せていたからなんです。

 

 いくら立派な医者と言っても、言葉一つで痛みを亡くしたり、たばこを吸えなくしたりするなんてことは、魔法使いじゃあるまいし、あり得ないことです。

大方の人は、「もう少し様子を見て」とか、痛みが引くのをまったりして「少し、禁煙の努力もしてみようか」というような過程を経て、たばこへの依存が消えていくんだと思います。

 

 ところが、ぼくの場合は即刻に、一瞬にしてタバコを吸えなくなってしまったんだよなあ、と思ったら、あのアイスピックで突いたような肋骨の痛みも突然に消えてしまっていたのです。

 

 つまり、肋骨の強い痛みの原因を探っている中で、喫煙による身体へのダメージというものをいやというほど教えてくれて、それによってたばこ吸いの悪習から抜け出させてくれた、ということではないのかなあ、と気付いたのです。

 

 そんな事実を目の当たりにすると「あなたの肺は真っ白だよ」という一言は、先生自身の気持ちで発した、というよりも、きっと、あのご霊さまが超能力をつっ買ってこの医師に言わせたに違いない、と思えてきたんです。そうとしか考えようがないんです。

 

 「たばこを吸う」という行為は、それほど人の身体にとって有害なことなのだ、と思い知らされました。そんな風に考えると、喫煙とかアスベストといった物質を体内に取り込むことは、この大宇宙の法(のり)に背いた逆事(さかごと,通常とはさかさまなこと)なのでしょう。

 

 人の肉体に留まらず、霊体という魂(たましい)の部分まで傷つけて天賦の聡明さ(天から与えられた賢さ)までも影響を与えてしまうのではないか、と思います。わざわざお出ましになったご霊さまが、先生の口を借りてぼくの喫煙癖を強引に、止めさせてくれたのだと思いました。

 

 ああ、何とありがたいことでしょう。あの若かりし頃、たばこ談議に花を咲かせた多くの職場の同僚や知人が僕と同じように官益あるいは古希を迎えるようになり、肺がんや咽頭がんといった喫煙が原因と思われる疾病により生命を落とした人たちを多く見聞きするようになりました。

 

 このぼくでさえも、その後に受けてきた胸部X線の検査でがんの疑いがある、ということで精密検査を指示されたことが何回かあったからなんです。けれど、幸いにもその結果は問題なし、ということで胸をなでおろしてきたからなんです。

 

 その現実を振りけるたびに、喫煙指数が800にも担っていたのに、たばこを吸い続けていたあの若かりし頃の無謀さに、無知というか若気の至りに、というか、そんな無頓着さに恐ろしさを感じるこの頃です。

 

 そんな病災からご霊さまがぼくのことを護(まも)ってくれたのか、と思うと、「ご霊さまに生かされている」と強く感じます。「お前には、やらなければならないことがまだまだあるよ」と言われているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――― その5 息子の大希にこの家を買ってやれ  (続き) 

 

 

 そのようなことから、新築年月日が8と5の組み合わせになっているこの建物を手に入れた、というのは、決して偶然じゃないのではないか、と思えてきたんです。だって、ちょっと考えてみてください。

 

 このご霊さまが、もし、ぼくの父だとしたならば、子であるぼくの生年月日を知っているのは当たり前です。でも、ぼくが26歳のときに女房と一緒になったんだけれど、その時すでに天国に行っていた父が、ぼくの結婚相手の生年月日を知っていたなんて、信じられないんです。なぜなら、あの世にいる父にとっては、ぼくの女房のことを知るすべなんかないはずだからです。

 

 ここまで詳(つまび)らかになってくると、このご霊さまは、ぼくと女房の生年月日を何らかの方法で知って、そのご霊さまが「いい物件を見つけておいたから、これを買ってやれ」と言わんばかりにお膳立てをしてくれていた、としか考えられなくなってきたんです。

 だから、息が留まるくらい驚いたんです、そんなことってあるんだろうかって。

 

                   

 では、どこからがご霊さまのお膳立てなのか、と振り返ってみると、その境界がはっきりしません。強いて言えば「会社を辞めることも選択肢の一つだ」と息子にアドバイスしたときからだと思います。しかし、このアドバイスが自分の本心からなのか、と問われると、「はい」と明確に返事をすることができないところがあるんです。

 

 将来のことなど見通すことなどできるはずのないぼくにしてみれば、よくもまあ、そんなことをけいけいにいえたもんだな、と思うからなんです。しかし、いつまでも快気しないでいる息子を案じていたぼくの口から出た言葉であることは、間違いないことですけど。

 

 そして、それから数ヶ月後に息子は会社を辞めたのですが、同時に、生活が成り立たないという剣が峰に立たされたのです。 

 

 「これは困った」と天を仰ぐぼくの頭の中に、突然に湧き出たことは「お前は1500万円を持っているじゃないか。そのお金で家を購入して息子に住んでもらえ」という「提案みたいなもの」だったんです。

 

 「そうか、そういうことか」と気付いたら、とんとん拍子に事が運んだのです。これはまさしくご霊さまのお膳立てによる助け舟だと思います。ぼくが、無い知恵を絞って考え出したアイデアではなかったからです。

 

 実は、もう一つご霊さまのお膳立てではないか、というようなことがありました。この建物を買う話の2年ほど前でした。ぼくの退職金で国債を買おうか、とN証券に申し込みをしたんです。

 この証券会社の指示に従って国債の購入資金を銀行のATMから振り込もうとしたんだけれど、何度も操作をしてみてもエラーが出て、振り込むことができなかったんです。

 

 N証券に電話を入れて確かめてみると、N証券の担当者から伝えられていた振込先の口座番号に間違いがあることが原因だと分かったんです。「何だ、N証券はいい加減だな」ということで国債は買わずにその資金がぼくの手元に戻りました。

 

 その2つの出来事のお陰で1500万円の現金が手元に残り、この息子夫婦に住んでもらうための家を購入することができたのです。

 

 あってはならないこの振込先口座番号の間違いも、ご霊さまがなさったことだな、と今とな

みるとそう思えるのです。なぜなら、証券会社の営業マンが、自分の会社の振込先を間違えるなんて、絶対にありえませんからね。そんなことを可能になるのは、「目に見えないご霊さま」だけですからね。

 

 「お膳立て」というのは、何かを行う際に必要な段取りとか準備を行うことをいいますが、息子の適応障害によってぼくがとってきた一連の言動は、自分自身の意志ではなく、ご霊さまが企てた「お膳立て」によるものと思われます。

 

 しかし、人間であるぼくがご霊さまの企てた段どり通りに動いてしまうのはどうしてなのでしょうか。しかも、そのご霊さまの考えた段取りに沿って動かされているなんてことはまったくきづくことがないのです。

 

 あたかも、何時もの、自然な自分の意志によるもののように行動するからなんです。ぼくはこれを「ご霊さまからのテレパシーと念力によって動かされた」のだと考えています。テレパシーという耳の鼓膜を通さない超感覚的な伝達方法によって伝達されたぼくと銀行員の意志が操作されてしまったんです。

 そういった超常的な伝達方法によるもの、としか考えられないんです。

 

 テレパシー(Terepathy)というのは、人の五感や類推などの知覚に依らずに、外からの情報を得る手段のことで、例えば、頭の中にイメージを描いただけで、そのイメージが相手に伝わる、というような伝達手段をいいます。脳波というのがもっと強くなってその意味を解析することができるようなると実現するのかも知れません。

                               

 また、念力ねんりき というのは、一心に思い込むことによって湧いてくる力、というのが一般的な意味ですが、ここでは心霊現象の一つとしてウィキペヂアでは次のように記述されています。

 

 ―――英語でSpychokinesis(サイコキネシス)といい、意志の力だけで物体 あるいは精神的な思考を含んだ概念を動かす能力のことで、遠く離れたものを動かす遠隔移(Terekinesis)を含んだもの―――、とあります。

 

 つまり、自分自身の体験からもっと分かりやすく説明すると、ご霊さまの思いや意思というものが強い念(ねん)となってぼくに送られてくると、それを受け留めたぼくの思いとか意思というものが操られて、ご霊さまが念じたとおりに行動してしまう、ということなんです。

 だから、気が付くと「えっ、どうしてこんなことをしたの」ということになるんです。

 

 ぼくが経験してきた不思議体験の多くが「思いがけない言動をしてしまう」というものですから、自分自ら湧き出たものではない「ご霊さまから送られてきた念」を受け取ったことによるものだからなんでしょう。

 

 こういったことは多くの人たちが体験しているはずなんですが、ご霊さまから送られてきた念力によるものかもしれない、と認識する人はほとんどいないのではないかと思います。

 

 

 

その三 動物や路傍の石からも「思い」というものを感じる

 

 一話 返事をしてくれたあの世のブーちゃん

 とても可愛がられてあのよに旅立ったペットの動物たちは、優しかった飼い主の話し声をそっと聴いているんです。

 

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 息子が22歳で、ぼくがちょうど50歳のときでした。その息子が長期の地方異動になって成田の自宅には帰ることがない、と分かってから、女房は息子の部屋にベッドを移して一人で寝るようになりました。

 

 女房が睡眠中に起こす大きないびきと、間欠的に呼吸が止まった時に発せられる「ガガ――ッ」という喉からの騒音を、ぼくが窘(たしな)めたことによる対応でした。

                                 

  それだけではなく、6畳の和室に二つの布団と枕を並べた和風スタイルから、寝起きの楽なベッドによる洋風スタイルへの切り替えでもありました。

 また、この時も「睡眠中に呼吸が止まることがあるから、医者に診てもらったほうがいいよ」と重ねて伝えていたけれど、女房はなかなか御輿(みこし)を上げることはありませんでした。

 

 ところが、それから2年ほど経ったある日、どういう風の吹き回しか知らないけれど「友達と一緒に睡眠時無呼吸症候群(略してSAS, Sleep Apnea Syndrome)の後縁を聴きに行く」と言い出したんです。

 

 「おお、それは結構なことですね」と。隣町の佐倉市にある東邦大付属病院で行われる講演会に出かける妻を、ぼくは手を振って送り出しました。

 夕方帰宅するなり妻は「無呼吸症候群の怖さがよく分かったので、無呼吸診断検査の予約をしてきた」といい、あの重たかった神輿を上げて、素直にぼくの言うことを聴くようになった変貌ぶりに驚かされました。

 

 その予約日がきて診断検査が行われた日、ぼくが仕事を終えて夕方に帰宅すると、自分のベッドに腰を掛けて何やら酸素マスクのような形をした睡眠時の無呼吸を防止する補正器とやらを手にして浮かない顔をしていました。

 

 「今日、検査を受けtてきたんだろう、どうしたの」ときいてみると「中程度の無呼吸があるから寝るときにこのシーパップ(CPAP)というマスクを着けなさい、と言われたけれど、気が進まない」と言うんです。

    

 その理由を聞いてみると「このマスクは就寝中に連続して空気を送ってくれるんだけど、この電動ファンが故障して呼吸ができなくなってしまうのではないか、という恐怖感や、鼻さきに異物感で眠れそうもない」というんです。

 

 「そりゃあそうだよな。こんなものが鼻先についていたらオレだって眠れないよ。少しづつ慣らしていったらどうなの」と返すと、「うん、少しづつ練習してみる」と応えて、マスクの着脱具合を少し練習して、その晩は装着しないで寝床に就いたようでした。

 

 あくる日の夜もマスクを着けて実際に空気を流しながらその具合を確かめていたのでしょう。突然「うお――っ」という叫び声が聞こえたので「どうしたんだ」っと、妻の寝室の駆け寄りました。

 

 すると、恐怖に震えた赤ら顔を向けて「マスクを着けて咳き込んだら、呼吸ができなくなった。死ぬかと思った」と興奮しています。「大丈夫、だいじょうぶだよ。ちゃんと呼吸をしているよ」と背中をさすりながら落ち着かせて「今夜の練習はこれでおしまいにしよう」ということにしました。

 

 これを機会にぼくは、睡眠時無呼吸症候群、略してSAS(Sleep Spnea Syndrome)について勉強してみようと思いました―――――。

 

 ーーーーSASは就寝しているときに舌の付根である舌根部(ぜっこんぶ)や軟口蓋(なんこうがい)という歯肉の内側の一番奥の部分が軌道に落ち込んで、上気道を閉塞させてしまう気道閉塞型と呼ばれるタイプが殆どで、妻の場合もこのタイプに該当しますよ、と言われたようです。

 

 その結果、睡眠中のいびきの発症や呼吸の停止、あるいは中途覚醒場度を何回となく引き起こす、とされています。だからそのまま放置すると、昼間の強い睡魔に留まらず、就寝中の低酸素状態に陥って血圧が上昇したり、虚血性の心疾患を発症させたりする引き金になる、とされています。

 

 また、無呼吸症状の程度は、睡眠ポリグラフ検査という検査法で確かめらrます。これは1時間当たりの無呼吸回数と低呼吸回数の和を睡眠時間で除した無呼吸低呼吸指数AHIというしすうでしめされて、その程度を評価しています。

 妻の場合は、そのAHIが30と診断されて「中低度」の無呼吸症候と説明されていました。

 

 この舌根部と軟口蓋による気道への落ち込みにより起こる無呼吸状態を解消する胸式気がCPAP(シーパップ Continuous Positive Airway Pressur)と呼ばれるものです。文字通り、連続的気道陽圧器と訳されて、圧力を高めた空気をh名の穴から肺に連続的に流して、落ち込んだ舌根部と軟口蓋を押し広げて木戸を開放します。

 

 従って、吸気圧力が必要以上に高かったり、風邪をひいて咳き込んだりと体調が良くないときは使用を避けたほうがいい、とされています。連続的でなく患者の呼吸パターンに応じて自動的に圧力を調整するAPAP(エーパップ、Auto PAP)というのもあるようですが、病院からのレンタル機器はCPAPだけでした。

 

 また、下顎を前につき出して気道を確保するっマウスピースもありますが、中程度の患者には目的を果たせない楊でした。

 では、マウスピースでは用をなさないし、CPAPに恐怖感を抱いているような妻みたいな患者にはどのような矯正法があるのでしょうか。しばし考えているうちに、ぼくはあることを思い出したんです。

 

 それは、睡眠中に大きないびきと無呼吸を繰り返している妻と枕を並べて、和室の6畳間で就寝していたころでした。顔を上に向けてガーガーと騒音を発している妻の頭を小突いてちょっと横を向かせると、その騒音がピタッと消えて大人しくなることでした。

            

 それは騒音の発生源である舌根部や軟口蓋の落ち込みが横を向くことによって、わずかながらも空気の通り道が確保されたからなのです。

 

 「お前、五個を向いて寝ればいいんじゃないの」と提案してみたんです。すると「えーー、横を向いて寝たことなんてないよーー」と言い返されたんです。横向なんてしたことないから不安なんでしょう、

 「ガーガーやっているお前の頭を小突いて横に向かせると、ピタッといびきが止まるし、無呼吸もなくなっているよ」ダメ押ししても、まだ不安顔です。

 

 そこでぼくの書斎にあるPCで「横向き寝(ね)寝具」と検索してみると、横向きで寝るための枕や大きなバナナのようなかt地をした横向き用抱き枕など多くの横向き寝のグッズが市販されていました。

 

 それらの画像を妻に見せながら「この状況を先生に話して意見を聞いてみたらどうだい。⒴個を向いていびきをかかなければいいんだから、横向き用の枕と抱き枕を購入して試してみたらいいんじゃないか」とアドバイスをすると、みるみるうちに妻の顔色が安堵の色に変わっていきました。

 

 その時です。「にゃーー」と大きな猫の鳴き声がぼくの右側の耳元でしたんです。あまりにも耳の近くで鳴かれたので、思わず右耳の耳殻(じかく)を払いのけたのですが、その鳴き声は一度キリでした。ぼくはとっさに、この鳴き声はきっとブーちゃんだと思いました

         

 半年前に亡くなってあの世にいるブーちゃんが、僕と妻の会話を聞いていて「その通りだよ」と応えてくれたのだと思いました。この鳴き声はぼくだけにしか聞こえなかったようで、妻は怪訝な顔を向けるだけでした。

 

 ぼくの愛猫ブーちゃんは、黒と白のぶち模様をした毛足の長い大型の洋猫で、毎晩、ぼくと寝起きを共にしていた癒しの猫ちゃんでした。だから「ブーちゃん」と呼べば「にゃーー」と応える「ブー・にゃーの仲」だったんです。

 

 ブーちゃんは、アメリカの留学先から帰国した長女と一緒に連れて来られた帰国猫ですから、ぼくがぶーちゃんと暮らすようになってからかれこれ十数年になります。猫の平均寿命が15年余と言われる中でブーちゃんも寄る年波には毛てずに、めっきり年寄りじみた歩き方になってきました。

 近所の獣医師に診てもらうと「糖尿病だね」と診断されて二日間の入院となりました。退院の日に「院内治療しても回復が難しいから、自宅でインシュリン注射をしてあげてください」と、インシュリンの入った小瓶と注射器セットを渡されました。

 

 自宅では朝と晩の日に2回、ブーちゃんのお腹を上向きにしてぼくの胡坐(あぐら)の上に寝かせて、お腹の皮膚を指で摘まんだその先端に注射針をチクっと刺して、注射器の2目盛分を注射していました。

 

 そんなある日、「ブーちゃん、注射の時間ですよ」と声をかけながら胡坐の上に抱きあげてお腹の皮を摘まんだところ、その時に限って、何か言いたげな上目遣いの大きな目をぼくに向けて、みうごきひとつすることなくじーーとしていたんです。

 

 あまりにも長い時間見つめられていたもんだから「なーに、どうしたの」と声を変えると、その目を伏せてしまいました。ブーちゃんは、何か、ぼくに何か、話しかけたいことがあったのかもしれません。

 

 それから数日後、ブーちゃんはあの世に旅立ってしまいました。だから、あの時のにゃーの一声は「翼向き寝で大丈夫だよ」というSASに奮闘しているぼくと妻に向けての応援コールであると共に「あの世で元気にしているよ」というブーちゃんからの近況報告でもあったのです。

 

 そのご、妻の横向き寝について先生にす段してみると「いびきや無呼吸が出なければいいんじゃないですか」との了解を得られた妻は、翼向き寝の抱き枕を購入して、既存のソファークッションを背中に当てるなどして、上を向くことができない姿勢で就寝しています。

 その対策によって、いびきと無呼吸の頻度が少なくなり、程度もとても小さくなりました。

 

 でも、あの世のブーちゃんは、ぼくと妻の会話を聞いていたかのように、あのタイミングでニャーと鳴いたのはどうしてなのでしょうか。なんだか猫のブーちゃんも人と同じような「他人を思いやる気持ち」というものを持っているような気がしました。

 

 だからあの鳴き声は、ご霊さまになったブーちゃんが発した鳴き声に違いありません。ご霊さまの姿はこの目には映らなかったけれどもね。

 

 それをきっかけにして、あの世のブーちゃんはぼくの寝床の枕もとで「スースー」と寝息を立てたり、あのぷよぷよした肉球でぼくの足の甲を踏んでいったりと、しばらく僕の間アリにいてくれました。

 

 哺乳類の動物である猫ちゃんにも人と同じような「心の思い」というものを抱いていて、なくなるとひととおなじようにご霊さまとなって、自分の気持ちや思いというものを優しかった飼い主に伝えてくることがあることを知りました

 ブーちゃんはとても優しい気持ちを持っていたんですね。

 

 

 

 その四 気持ちが伝わってきた路傍のお地蔵さま

 

 毎朝のウォーキングで「おはようございます」と挨拶をしていた路傍のお地蔵さまですが、その朝に限って、その前を黙って通り過ぎてしまったんです。すると「おい、あいさつをわすれているよ」と呼び止められたんです。

 

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 66歳になったころのぼくは、宅地建物取引業アイビー社を他人に譲り家にいるようになりました。そこで、毎朝、1時間ほどのウォーキングに出かけるようにしたんです。風雨が強い朝は見合わせるにしても、今日は宗吾霊堂へ、明日は成田赤十字病院方面へと向かう地域を変えて出かけていました。

 

 宗吾霊堂へ向かう道の途中に小さな祠(ほこら,神を祀る小さな殿舎)があって、中にはお地蔵さまが祀られています。ある日、ぼくと同じ年恰好のおじさんが、そのお地蔵様の前に立ち止まって帽子をとり、頭を下げてお参りをしている姿を見て、ぼくもそれを真似て帽子をとり頭を下げて「おはようございます」と挨拶をするようになりました。

        

 お地蔵さまというのは、仏教でいう地蔵菩薩のことで「大地がすべての命を育む力を蔵する」ということから名付けれれた、と言われています。厄災を亡くして子孫繁栄を願う住民の守り神「道祖神(どうそしん)」、つまり、路傍の神として道端に祀られた民間信仰の石仏なのです。

 

 そのお地蔵様の背丈は1メート宇50cmほどで特別な大きさではありません。しかし、その顔をよく見ると、普通よく目にするお地蔵さまと違って、目や鼻といった顔の彫り方が大雑把でのっぺりとしているんです。

 だから、大切なおのお顔の表情が伝わってこないのです。「ずいぶんと粗末なお地蔵さんもあるもんだなあ」と思いながら挨拶をしていました。

 

 平成26年の11月でした。いつものようにウォーキングに出て宗吾霊堂に向かい貸した。「もうすぐお地蔵さんのところだな」と思いながら歩いていると、突然、「バタバタ という音が聞こえてフッと気付くと、ぼくはそのお地蔵様の前を通り過ぎていたんです。

 

 何か別なことを考えながら歩いていたようで、お地蔵様の前を通り過ぎてしまったんです。

「おっと、いけねえ」とおお地蔵様の前まで5,6歩後戻りをして「おはようございます」と頭を下げてからコースに戻ることができました。

 

 それを気付かせてくれたのは、あの「バタバタという音は何だったのか、後ろを振り返ってみると、舗装されていない細道を歩いてきたおばさんが、自分の運動靴の底に付着した泥を払おうとして路面に足をばたつかせていた音だったのです。

 

 絶妙なタイミングで聞こえてきたこの音が、挨拶を忘れそうになったぼくに気付かせてくれたのだから、あたかもこの音あ「お前、挨拶を忘れているよ」と、居地蔵さまから注意されたように聞こえたんです、

 「まさか、そんなことないよね」と一人で苦笑いをしてしまいました。

 

 そんなことがあってから、このお地蔵さまがとても身近に感じられて、花を咲かでた自宅の庭の草花を摘み取ってお地蔵さまに手向けていました。

 

 それから数ヶ月が過ぎた春先の温かな朝でした。宗吾霊堂へのウォーキングに出てそのお地蔵さまのところにさしかかったとき、自転車のサドルから腰を下ろした男子高校生と立ち話をしている柴犬を連れたおばさんが、ぼくの顔を見るなり話しかけてきたんです。

 

 「あそこにいる猫がカラスにやられてかわいそうだ」と田んぼの方を指さして言ってきたんです。その指さす先に目をやると、農閑期のために水の張られていない田んぼの中に大きなトラ柄の猫が横たわって動きません

 目を凝らすと、顎の辺りに白い骨がむき出しになっていて、とても痛々しい姿です。「何とかしちゃってくれ」と、このおばさんがぼくに声をかけてきたのですが、この猫の姿を目にすれば、その気持ちがよく分かりました。

 

 2年前に愛猫ブーちゃんを亡くして、代わりのトラ柄のぬいぐるみを抱いて寝ているぼくに

してみれば拱手傍観(きょうしゅぼうかん)というわけにはいきません。「分かりました」とばかりに首を縦に振ってウォーキングのコースに戻りました。

 

 気軽な気持ちで引き受けたものの、このぼくがこのトラちゃんを運び出してやたらなところに放置するわけにもいかず、どうしたらいいものやらと考え込んでしまいました。

 要は、野垂れ死にの状態になっているこのトラちゃんを、火葬に付したり土に返したりして、ちゃんとご霊さまにしてやればいいはずです。

 

 帰宅するなり否や、野垂れ死にしているトラちゃんの処分をどのようにしたらいいのか、を市役所に聞いてみました。すると、環境クリーン化という部署に繋いでくれました。「田んぼの中で野垂れ死んでいる猫の遺体を引き取って欲しい」とお願いしたところ「分かりました」という思いもしなかった返事が返ってきて、お地蔵さまのところで待ち合わせることにしました。

 

 約束した定刻に二人の担当者が見えましたが、田んぼの中に横たわれるトラちゃんを観るなり「田んぼという私有地の中のものは引き取れません」と一人の方が言い出したんです。「じゃあ、ぼくがここまで連れてきますよ」ということで了解してくれました。

 

 「ぼくが田んぼんあかにはいるなんて、とんだことになってしまった」とぼやいたけれど、可愛いトラちゃんのために乗り掛かって舟です。農閑期のために水は引かれていませんでしたが、多少ぬかるんだ畦道を、担当者から拝借した大きめのスコップを手にしてゆっくり、ゆっくりと進み、少し低くなった名の中に二歩ほど足を踏み入れてトラちゃんに近づきました。

 

 「トラちゃん」と声をかけながら、身体の右側を下にして横たわるトラちゃんの後ろ左足を掴んでひきよせ、手にしたスコップに乗せてゆっくりと、ゆっくりと広い道に運び出しました。

 

 そして、市の担当者が用意してくれた白いビニール袋に収めて引き取ってもらいました。「ありがとうございます」と頭を下げてトラちゃんと市の担当者を見送りました。

 

 でも、自分のものでもない田んぼの中に入り込んでカラスにつつかれたのら猫を助けてやってくれ、と市に連絡してきたぼくの姿を目に前にした二人の職員は、きっと、「ずいぶんとお節介な奴だな」と、奇異な目で見ていたに違いありません。

 

 翌日の朝、そんなことを話しながら妻と朝食を摂っていると、突然、つつ――っと鼻から鼻水のようなものが流れ落ちそうになったので、慌ててティシューで押さえました。

 すると、何と、それは鼻水ではなくティシューを赤く染めた真っ赤な鼻血だったのです。赤く染まった5枚ほどのティシューを見たぼくは「何だ、この鼻血は」と、とても驚きました。

 

 若いころには珍しくない鼻からの出血でしたが、kん歴を過ぎた今となっては蓄膿症の黄色い海が混じることはあっても、鼻から血が出たような痕跡すら見たことがないのですから。

 赤く染まったティシューを眺めながら鼻血、はなぢ、ハナヂと繰り返し言葉にしていたら、はなぢ⁼=ぢぞう=ぢぞうさん=地蔵さま に繋がりました。

 

 何気なく言葉簿尻取りをしt痢たら地蔵さまに繋がってしまいました。どうして尻取りなんか始めたのか分かりませんが、ぼくが挨拶を忘れてお地蔵さまの前を通り過ぎようとしたときに、バタバタという靴音でそのことに気付いたことを思い出したんです。

 

 「そうか、この鼻血はあのお地蔵さまからのお知らせなんだな」と気付きました。道行く人たちに厄災が起こらないように、という願いを込めて祀られたお地蔵さまにしてみれば、自分のテリトリーにあるこの田んぼの中で乱暴なカラスに襲われたトラちゃんがとても不幸なことだと心痛な思いでながめていたに違いありません。

 

 真っ白なティシューを真っ赤に染めた鼻血は、そんな思いをぼくに伝えてくれました。お顔を表情もはっきりしないし、いつもじっとしているお地蔵さまでも、人と比べたらとても僅かだけれど、人と同じような」「慈愛の思い」というものを抱いているのではないかな、と感じました。

 

 「そうか、石であれ、木であれ、仏様Hほとけさま)の形を作り、弱い者に対する深い愛情である慈しみの思いを込めてあげるとお地蔵さまになるのだな、と理解しました。

 

 その後もずっとこのコースのウォーキングは続けていますが、あの柴犬を連れたおばさんと再会することはありませんでした。「あの猫を何とかしてやってくれ」とおばさんから頼まれたトラちゃんだったけれど、市役所に連絡をして何とか野垂れ死にすることのないようにしたことを伝えたかったのに。

 

 

 

 その五 書棚に並べられたファイルを斜めにして

 

 お客様からお預かりした委任状が、事務所のどこを探しても見つからなかりませんでした。諦めかけてカウンターの椅子に腰を下ろすと「ぴんぽ~~んとチャイムを鳴らして出入り口のドアがひとりでに開いたんです。   

 

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 日本航空を早期に退職したぼくは、JR四街道駅から10分ほどの距離にある事務所を借りて、概ね予定通りアイビー不動産の看板を掲げることができました。平成11年の夏でした。

 

 成田市の自宅から車で1時間余と少し距離が離れていたけれど、駅前から続くメインストリートに面した角地で、しかも、人通りも多かったのでここに決めました。その好立地のため二月顎賃料も135、000円と破格だったけれど、この何倍もの商売をすればいい、という意気込みでした。

 

 しかし、不動産取引の実務経験なんてまるでないズブの素人社長と女房事務員、という業界知らずの第二の人生は、母からも息子からも「おいおい、大丈夫なのかよ」と心配顔を向けられるくらいヨチヨチ歩きの船出でした。

 

 でも、不動産会社の社長であるためには、不動産取引に関する実務経験が一つでもなければ商売が成り立たないのか、と言うと、そんなことはないのです。というのは、土地や建物の売買に関する媒介業務と言うのはぼく一人で行うのではなく、売り手側の不動産業者と買い手側の不動産業者の双方の下で契約手続きを進めていくからなんです。

 

 だから、最初の取引だけでもその契約行為の一部始終を相手側の業者に任せれば、自分はただ黙って眺めていることで契約は成立するのです。そんなわけで、最初の取引の相手業者が三井不動産とか住友不動産といった大手の不動産会社であって欲しいな、と思っていたのです。

 

 このような堅実で信頼のおける相手業者から手取り足取りで教えてもらいながら業務を進めれば、例え一回の取引しかなかったとしても、立派な実務経験をしたことになり、次回の取引からその経験を手本にして進めていくことで一人前の社長としての振る舞いができるのではないか、と踏んでいたんです。

 

 なまじ町中にあるような口八丁手八丁のおやじ不動産屋で「こんなもんですよ」なんていうような大雑把な実務を数多く経験したとしても、アイビー不動産としてはあまり役に立たないし、お客さまに対しても不安を与えてしまうことになりかねないよな、と思っていたからです。

 

 しかし、そんな都合のいい希望なんておいそれとかなうわけがなく、同業者の挨拶回りやら賃貸の取引やらに負われる日々でした。2年ほど経ったある日、香川さんという中年の男性が来店し「土地の売却をお願いしたいと」と見えました。

 話を聞いてみると「この土地の所有者は渡部という人です」といいながら、一枚の委任状をテーブルの上に差し出したんです。

 

 香川さんは、所有権者渡辺さんの代理人となってこの土地を売却したい、というご依頼です。

委任状には顔写真がついた本人確認の書類が必要ですが、それは契約時に準備していただくとしてその委任状を預かると共に、土地の売買に係る媒介契約を交わしました。

          

 レインズ(REINS,REAL Estate Information System)と呼ばれる不動産流通ネットワークにその情報を流して、買い手が現れるのを待ちました。面積が50坪ほどのその土地は、道路付けもよく手ごろな価格だったので間もなく買いたいという人が現れたんです。

 

 しかも、その買い手の媒介業者が希望していたあの住友不動産だったので「ああ、希望が叶えられてよかった」という思いでした。「買い手が早く見つかってよかったね」と、初めての専任物件がうまくいきそうなことを女房と一緒に万歳をして喜んだのです。

 

 契約の日時も2週間後に決まったので「香川さんから預かったあの委任状を見てみるか」と、書棚から「お客様預かり書類」と背表紙に記されたファイルを手元に取り「確か、ここに挟み込んだよな」と表紙をめくりました。

 

 ところが、つい先日の話だから、あの委任状はこのファイルの一番上にあるはずなのに、なかったんです「。あれ?」と思いながら2ページ目、3ページ目とページをめくってみたけれど、あの香川さんから預かった委任状はそのファイルの中にはなかったんです。

 

 「おかしいな、確かにここに挟んだのになあ」と、ぶつぶつ言いながら隣に並ぶファイルんを手に取って表紙を開いてみたけれど、そこにもありませんでした。「何でヨ、どうしてヨ」とその隣のファイルも、また、その隣のファイルもと10冊あまりのファイルを見てみたけれど、あの委任状は見つからなかったんです。

 

 「どこに仕舞い込んだのだろう」と、ぼくは青ざめました。あの委任状がなければ、香川さんは売り主としての契約ができません。香川さんは所有権者である渡辺さんの代理人として契約するのですから、渡辺さんが香川さんを私の代理人であることを証明する文書である委任状が必要になるんです。

 

 香川さんに頭を下げて委任状の再発行をお願いする、という手もあるのですが、そうなれば「文書管理をきちんとしtr下さいよ」と苦言を言われ、アイビー不動産の信用は地に落ちます。何が何でも探し出さなければいけません。

 

 「今日は残業だな」と女房に告げて、閉店後、女房にも手伝ってもらいながらあの委任状を探すことにしました。租棚の左端から、右端から女房にファイルというファイル、書類という書類のあらゆるものの隅から隅まで探しました。

 でも、あの委任状を見つけ出すことはできなかったんです。

 

 「あーあ、疲れた」と、どっかとカウンターの椅子に座り込んで壁に掛かった時計の針を観ると、もう既に9時を回っていたのです。それを目にしたぼくは「香川さんにお詫びして再発行してもらおうか」と弱音を吐いて大きなため息をつくと「仕方ないわね、だらしがないんだから」と、女房も疲れ切った声で苦言を返してきたんです。

 

 その時です。出入り口の自動ドアが「チンコン、チンコン」とチャイムを鳴らしながら開いたんです。「誰?」とドアの方に目を向けたのですが、誰もいません。ひとりでに開いたんです。数秒後に再び、チャイムを鳴らしてドアは自動で閉まりました。

 

 何かの拍子でドアセンサーが誤作動を起こしてひとりでに開いて、再び閉まる、ということは今までにも何度かあったことなので「またか」ということで気にも留めませんでした。

 

 ところが、数秒後、またドアがチャイムを鳴らしながらひとりでに開いたんdす。「えっ」という思いで振り向いたけれど、誰もいません。そして、ドアは再びひとりでに閉まりました。

 こんな短い時間に2回も立て続けてドアが開いたり閉じたりしたことは、今までになかったことでしtた。

 

 「あれ、どうしちゃったの」と独り言を言いながらドアの方に向けた視線に映ったものは、整然とファイルが並ぶ主だなの中にあって、一冊のファイルだけが斜めにせり出していたんです。「何で斜めになっているの?」と不思議に思いながら椅子から立ち上がって、そのファイルを手に取ったんです。

 「紙上研修会綴り」と背表紙に記されたファイルを開いて1ページ目、2ページ目とめくってみると、あ、あったんです。あの委任状が綴(と)じられていたんです。二穴のファイル穴にきちんと通されていました。

 

 「何でこんなところにあったの」と、まるでキツネにつままれたようで合点がいきません。地虫内にある20冊足らずのすべてのファイルに対して、巻頭ページから5、6ページまで点検したのだから、見落とした、ということはないはずです。

 

 たとえ見落としがあったとしても、この委任状が綴じられていたのが「お客様預かり書類」ではなくて「紙上研修会綴り」のファイルに綴じられていたことが不思議でならないのです。しかも、斜めになってせり出していたのは、まるで「このファイルを見なさいよ」と教えてもらったようなものです。

 このような不思議なことをするのは、きっと、ご霊さまに違いありません。

 

 あの出入り口の自動ドアが立て続けに2回も開いたことが、あたかも、この目に映らないご霊さまが入ってきて、書棚にあるこのファイルを斜めにせりださせて、再び、ドアを開けて出て行ったように思えるんです。

 

 しかし、この目に見えないものが自動ドアの開閉センサーに感知されるんだろうか、という疑問が残ります。でも、考えてみてください。手足のないご霊さまがこのファイルを斜めにせり出したのですから、自動ドアを開けるくらい朝飯前なのでしょう。

 

 実は、合点のいかないことがもう一つあるんです。ぼくはこの委任状を「お客さま預かり書類」というファイルに綴じ込んだはずなのに、まったく別の「紙上研修会綴り」というファイルから見つかったことなんです。

 

 ぼくが誤って綴じ込んでしまったのか、それとも、きちんと「お客さな預かり書類」と書かれたファイルに綴じ込まれていた委任状を、ご霊さまが、あたかも神隠しのような超常手段を使ってこの世では絶対にありえないような方法で、瞬時に「紙上研修会綴り」のふぁいるにいどうさせたのか、のどちらかではないか、ということなんです。

 

 前者ならば、見落としたかもしれない委任状のあり場所をご霊さまが教えてくれた、という「ご加護」と言えるのですが、後者の場合だと、単なる「いたずら」としか見えません。

 

 いずれにしても、ご霊さまの霊力の不思議さ、あるいは凄さを垣間見たようでした。女房にそんなことを話したら「あんたの勘違いでしょ、ばかばかしい」と一笑に付されてしまいました。

 

 

 

 その六 温・湿度計が壁から落ちて知らせてくれたこと

 

 鍵穴の形をした溝に杢ねじの頭を入れてぶら下げる構造をした壁掛け式の温・湿度計なので、絶対に溝から外れて落下することはないはずなのに、ぼくの眼の前に落ちてしまいました。何を知らせたかったのでしょうか。

 

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 平成28年2月21日 日曜日の夕方、夕食の支度を始める午後5時の少し前の4時半過ぎでした。夕食の支度の時刻を正確に覚えているのは、平成26年5月に脳卒中で倒れて不自由な身体になってしまった女房に代わって、ぼくが食事の支度をするようになったからなんです。

 

 ぼくの書斎に置いてあるプリンターの前に立って、すぐ横に並んでいる事務机の引き出しを引いて、屈(かが)んだ姿勢でその中をあれこれと探し物をしていたときでした。突然「カシャッ」という鈍い音が右の方から聞こえてきました。

 

 とっさにその方向に目をやると、何と、プリンターの真上の壁に掛けられていたタニタ社製の温。湿度計が用紙サポーターに差し込まれて何十枚か重なったプリンター用紙の上に落下していたんです。「あれ、地震でも亡いのに何でこんなものが落ちたのか」と、落ちた温・湿度計を手に取って、裏側にある引っ掛け構造の部分を観てみました。

         

 しかし、壁から突き出た杢ねじに引っ掛けるためのちょっけお8ミリの丸穴と、幅5ミリの溝とが繋がった、ちょうど鍵穴マークのような形をした溝には、これといった不具合はなかったのです。その溝の横には小さな商品シールが貼り付けられていて、商品番号はTT-536 と記されていました。

 一方、壁に取り付けられた杢ねじにも、緩みなどの不具合はありませんでした。それで念のため、その杢寝期の頭のクロス溝にドライバーを当てて少し緩めて、再び締め付けるというリセット作業をしてみたんです。

 このように壁に掛けられた室温時計は、幅が5ミリの溝が直径7ミリほどの杢ねじの頭を抱き込むような恰好になり、引いても、揺らしても、その杢ねじの頭が溝から抜けてしまわない限り、絶対に壁から落ちない構造になっているのです。

 

 ところがその日、突然、その温度計が壁から落ちてしまいました。障りもしないし、地震が起きたような揺れもないのに、ひとりでに落ちてしまったんです。その場面をぼくは目の当たりにしたんです。突然にぼくの眼の前に落ちたのは、どうしてなのでしょか。

 

 壁にねじ込まれたも訓示が緩んだのでしょうか。いいえ、杢ねじには何のゆるみもなく、しっかりと取り付いていました。試しにその温湿度計を、その杢ねじに掛けてみましたが、何の不具合診なくしっかりと掛けることができました。

 

 この壁に掛かった温湿度計がなぜ落ちたのか、ぼくは合点がいかなくなりました。杢ねじや温湿度計の引っ掛け溝に何の不具合もないこの温湿度気が壁から落ちるには、7ミリほど持ち上げて手前に引かなければならないのです。でも、誰も触れた人はいないのです。

 

 ということは、ひとりでに7ミリ持ち上がり、ひとりでに手前に倒れた、ということです。そうでなければ落ちるはずがないんです。

 

 まるで映画のポルターガイストの一場面のようです。「そんなばかな」と思うのですが、そのようなことがぼくのすぐ横で起きていたんです。ちょっと背筋が寒くなってきました。

                        

 このように近代の物理学では説明できないようなことは、きっと、ご霊さまがなさったことに違いない、と思います。このような摩訶不思議な体験を数多くしているぼくにしてみれば、絶対に落ちることのないはずの温湿度計がいとも簡単に壁から落ちた、ということは、何か知らせたいことがあったに違いないんです。

 

 新潟にいる息子のところで何かあったんだろうか、嫁に行った娘に電話をしてみようか、と不安な思いがよぎります。「いや、手始めに女房の様子を見てみよう」と、女房の部屋を覗いてみることにしたんです。

 

 廊下にでると、ちょうどトイレから出てきた女房と出くわしたので「何か変わったことはないか」と聞いてみたんです。すると「ここ2,3日、体調がよくない」という思いがけない返事が返ってきて、生気のない顔をぼくに向けたのです。

  

 「え、どんな風に調子が悪いのか」と、顔色に気を使いながらぼくの書斎に招き入れて椅子にすわってもらいました。すると「最近、疲れ方がひどくて力が入らないの。今まで途中で休むことなく往復していた公園までの歩行が、途中で2回も3回も休憩をとらないといけなくなったの」と打ち明けてきたのです。

       

 「あ、そうか。これがあの温湿度計を落とした理由だな」と合点がいきました。思いもしなかった女房の体調不良の話しに耳を傾けていると「お父さんに打ち明ければ」心配をかけるだけなので言えなかった」と泣き出しそうです。

 

 「確かに心配はするけど、その原因を考えてみて手に負えなければ医師に診てもらえばいいじゃないか」と答えて、ぼくはまず、今服用している薬の副作用を疑ったのです。

 

 何らかの処方薬を服用しているときに発現した体調不良に対して、先ず、疑うべきはその薬剤の副作用だということは、かつて、ぼくが罹患したことのある神経症の治療薬から得られた常套手段なんです。

 いかなる薬剤にも、歓迎しない副作用というものがあって、その効果と副作用の一定のバランスで成り立っていることに注意が必要なんです。ある薬剤に対する生体への反応というものが個々人によって異なることがあるからです。

 

 いま、女房が服用している薬剤を聞いてみると、リリカという名前のカプセル状の薬で、

脳卒中後に現れる神経障害性の疼痛に対する治療薬です。これを昨年の10月から1カプセル

25ミリを1日1回のペースで飲んでいましたが、平成28年2月からは1日2回に増量して飲んでいたことが分かりました。

 

 もちろん医師の指示によるものなんですが「じゃあ、具合が悪くなったのは2月になって1日2カプセルに増やしてからなんだね」と念を押すと「そうなんです」と、女房は首を縦に振りました。

 

 そこでぼくは、医療品の製品情報を記載した添付文書をネットで開いてリリカカプセルについて調べてみました。すると、副作用欄の頻度1%以上という欄に「疲労、歩行障害」とあり、頻度0.3~1%未満の欄には「無力感、倦怠感」と記されていたんです。

 

 去る1月末、女房の定期診察に付き合ったとき すると「1日あたり1カプセルで効果がなければ2カプセルの50ミリに増やすけれど、それでも効果がなければ中止します」といういしのことばを思い出したぼくは「リリカの副作用が考えられるから、ちょっと中断して様子を見てみたらどうか」と提案したんです。

 

 すると「そうね」という返事が返ってくると思いきや「先生に無断で中止することはできない。だから先生に聞いてみる」と、電話をかけようとしたので「この時間は先生に繋がらないよ」と女房の気持ちをたしなめたんです。

 

 「次回の診察のときにこの経緯を話してリリカを中止したことを伝えればいいのではないか」とい言い聞かせたのですが、女房の顔色は晴れません。

 手足に不快な痺(しび)れと痛みを感じている女房にしてみれば、この薬の効果に対して強い期待を持っていることが伝わってくるのですが、ぼくの目には、薬剤の効果よりも副作用の方が強く現れているように見えるんです。

 

 添付文書を読み進めると「投与を中止する場合は、少なくとも1週間以上かぇて徐々に減量すること」とあるから、九に辞めてはいけないようです。「なるほどね」と女房に心配も分かるので、処方してくれた調剤薬局に電話を入れてみました。

 

 日曜日にも係わらず、すぐに女性の薬剤師につながったので「リリカカプセルを1日2カプセルに増やしたら、倦怠感や歩きずらさといった副作用が現れたんですが、中止していいですか」と率直に聞いてみたんです。

 

 すると「薬剤師の私には中止してよい、とは言えません」という返事が返ってきたんです。患者本人と医療従事者向けの添付文書に「次のような副小夜が認められた場合は、必要に応じて減量、投与の中止等適切な処置を行う」とあるのに、薬剤の専門家である薬剤師が患者からの副作用によるであろう苦痛を申し出されても、適切な処置をとることができないのは「どうしてなのか」とぼくは声を荒げました。

 

 この薬を処方してくれた薬局の薬剤師であるにも関わらず、です。薬の処方は医師の専任事項だけれど、副作用が強く出た場合は、患者本人に限らず医療従事者が投与の中止を含めた適切な処置をとることができるようにしないと、副作用による体調の不良がますます助長されてしまう恐れを感じるからです。

 

 ましてや、日曜日の今日は担医師とはつながらないし、月曜日に診察を受けようにも予約をしていないので何時に診察を受けられるのか分からないことなどを考えたときに、適切な処置を受けるべき時期を逃してしまうことになりかねません。

 

 ここは処方した薬剤師の意見を聴きながら、患者本人とその配偶者であるぼくの責任で中止することがベストだと考えたからです。

 

 「しばらくお待ちください」と言われて受話器を置きました。数分すると受話器から声がして「1日150ミリを超える場合は1週間以上かけてじょじょにげんやくするのですが、それより量が少ない場合はその必要がありません」という返事が返ってきたんです。

 

 「では、今夜の分から中止していいですね」と問い正すと「そうです」という返事が返ってきました。そのやり取りを聞いていた女房は、大きく頷いて白い歯を見せるようになりました。 

 

 何とありがたい出来事だったでしょうか。脳卒中の後遺症である不快な痺れや痛みを何とかしたい、というときに処方されたリリカでしたが、思いがけない身体の不調に襲われて不安が募り、苛(さいな)まれてひとり悶々としていたのでしょう。

 これ以上心配をかけたくないと、夫のぼくにでさえ打ち明けることだできずにいたのでしょう。

 

 そんな女房の姿を見かねたご霊さまがぼくに合図を送ってくれたのです。いずれ分かることだと思うけれども、早く女房のことを見てあげろ、と言わんばかりに、決して落ちることない構造のこのタニタの温湿度計を壁から落としたのです。

 手もない足もないご霊さまが7ミリほど持ち上げて手前に引く、という霊力を使ってです。

 

 それを目の当たりにしたぼくは「落ちるわけがない」と気付いて「何か特別なことがあったに違いない」と感じ取ったのです。

 

 ただ書棚に立てかけられた本や置物が床に落ちることって「まま、あることだよな」ということで終わってしまうでしょうが、構造的に絶対落ちるはずのない温湿度計がぼくの目の前に落ちたことで「ただ事でなないことが起きた」と気付かせてくれたのです。

 

 こんな風にご霊さまの「思いや意志」というものが伝わってきた,ということに、とても驚かされました。ご霊さまって、まるで生きているかのようなんです。

 

 とても驚かされたのはそれだけではありません。手もなく足もなく、しかも目に見えないご霊さまが、この温湿度計を7ミリ持ち上げて手前に引く作業を、ぼくの身体に触れんばかりの至近な距離で行っていたのではないか、ということなんです。

 

 というのは、ご霊さまがそんなに近くにいらした、なんていう気配はまったくありませんでしたけど。じゃあ、どこから、どうやって行ったのかしら。それとも、念力による遠隔操作だったのかも知れません。

 

 でも、この温湿度計が、誰の手も借りずに壁から落ちたことは間違いないのです。しかし、7ミリ持ち上がって手前に引いた、という肝心なところは、残なんなことに見せてはくれなかったんです。

 だから、ご霊さまがぼくのすぐ横にいらしたのか、それとも、念力といった遠隔操作によるものなのか、も教えてもらえませんでした。

 

 壁に掛けられたこの温湿度計が、手も触れずに7ミリ持ち上がって手前に落ちたのはなぜなのか、ちょっとその方面の勉強をしてみました。

 

 ご霊さま、と言うのは、いわゆる霊魂Soul、Spirit であり、肉体に対する心の部分である、とぼく自身の体験から感じています。心の部分だからこそ知、情、意(Intellest,Emotion,  Volition)という人の精神活動の要素から成り立っているので、ぼくが接しているご霊さまというのは、楽しみや悲しみの分かる、間違いなく人の心そのものなんです。

 

 

 1900年代前半に創生された超心理学(Parapsychology)という学問があります。この超心理学について日本超心理学学会によれば、心と物、あるいは心同士の相互作用を科学的な方法で研究する学問、としています。

 

 また、リン・ピクネット著の「超常現象の辞典」では、既知の自然法則では説明できない現象を研究する学問として、念力やテレパシー、未来予知や透視などが含まれる、と記されています。

 

 それらの文献の中に、その時点では発生していない事柄について,予め前もって知ることができる未来予知(Future Prediction)や言語や表情、身振りなどのよらずに、その人の心の中を直接他の人に伝えるテレパシー、あるいは、心の中で思っただけで物体を動かせたり、心を思いのままに操作する念力(Telekinesis,Psychokinesis)という超能力が紹介されていました。(Wikipediaより引用)

 

 ぼくの不思議体験というのは、まさにこれらなんです。「左足に気を付けて」と居眠りをしながら女房が書いた一文が、その翌日に現実となったり、書棚のファイルを斜めにしたり、壁の罹った温湿度計を、手に触れ床に落としたり落としたり、自分の勤務先である日本航空を早期に退職した方がいいよ、と本来の自分の気持ちを翻(くつがえ)されたりと、枚挙に暇(いとま)がありません。

 

 いやいや、それだけではないんです。無呼吸症候群のCPAPについてぼくと女房のやり取りを聞いていてにゃーと鳴き声を上げてくれた愛猫ブーちゃんも、カラスにつつかれて野垂れ死にしていたトラちゃんを、何とか市役所の職員に引き取ってもらったことも、さらに、ぼくに鼻血を流させたあの路傍のお地蔵さまも、きっと、人と同じような「知、情、意」をもっているんだな、と思えてならないのです。

 

 なぜなら、あの世のブーちゃんだって、路傍にたたずむお地蔵さまだって、人であるぼくの気持ちが通じて、ちゃんと反応してくれたんですから。

 

 例えば、明日の入学試験の前夜に、鉛筆や消しゴムに合格の願いを託して胸元に抱いて寝床に就くと、思いもよらずに手元がすらすらと動いて、合格することができた、なんてことを経験したことはないですか。   

                        

 それは「モノを大切にする」ということとは次元を異にする「モノに思いを込める」ことによって、そのものが「応えてくれる」という念力に依るものでしょう。それはぼくたちが神棚やお仏壇のお参りすることで気持が清らかになることに繋がっているのです。

 

 

 

 

 その七 医師からのたった一言で、タバコが吸えなくなってしまった

 

 周りからたばこ吸いの人がだんだんに少なくなってきて、妻からも「たばこ止めなさいよ」と口酸っぱく言われているのに、どうしてもやめられないたばこ常習者でした。

 ところがある時、胸の痛みで医者に診てもらいました。胸部のレントゲン写真を撮ってシャーカステンに映る自分の肺の写真を診ていた医師の口から出たたった一言で、ぼくはたばこを吸うことは勿論、たばこのパッケージに触ることも、見ることすらもできなくなってしまいました。

 

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 高校を卒業した頃、どんな味がするんだると興味本位で手にした1本のたばこが10本になり20本になって、この煙の香りと一服感の癒しの虜になるまでに長い時間はかかりませんでした。

              

 ポピュラーなハイライトから始まって、葉っぱの匂いが心地よいわかばやいこい、大陸の匂いがするラークやマールボロといった海外ものまで嗜好の幅を広げて、日に20本を超えるまでになっていたのに、妻から「臭い、臭い」と嫌がられるまで、その量の多さに気付くことはありませんでした。

 
 しかも、職場の同僚や街を行きかう多くの人たちがたばこを吸っている姿を目にしていたので「身体によくないよ」という妻の言葉が僕に気持ちに届いたことはありませんでした。
 「おとこの嗜(たしな)みだよ」なんて言い訳しながら、まるで一時も離れたくない恋人のように、たばこの箱を手から離すことはなかったのです。
 
 しかし、平成の10年ころからたばこによる身体への有害性が強く叫ばれるようになり、加えて、大衆向けのハイライトの値段も300円に跳ね上がったこともあって、人前でたばこを吸うことがタブー視(Taboo,社会的に厳禁されること)されるようになってきました。
 
 そんな世間の流れを身近に感じ始めた妻は、「たばこを止めなさいよ」と今までになく大きな声と厳しい口調をぼくに向けるのですが、もう、既にたばこの虜になってしまっていたぼくの身体は、言うことを聞いてくれない身体になっていました。
 
 新聞に載っていた喫煙指数という1日あたりの喫煙本数と経過過年数を乗じた数値を計算してみると、COPDのみならず咽頭がんや肺がんに罹るリスクが、非喫煙者の8倍にもなるという
700をゆうに超えて800にもなっていたことを知っているはずなのに、です。
 
 止めたいと思っても、どうしても止められなかったのです。歴(れき)としたたばこ依存症という病気になっていたんです。
 
 不動産取引業アイビーを立ち上げてから10年余を迎えようとしていた平成21年の秋でした。妻と夕食を摂りながら、ぼくが歩行するときの姿勢が年寄り臭い、ということが話題になりました。
 
 「猫背で歩いているから、胃腸の消化が悪くて胃もたれになるのよ」とか「右側の肩が下がっているから年寄り爺さんみたいだよ」なんて、煙草を止められないことに引っ掛けて散々にけなされっぱなしでした。
                                                                    

 「そんなにけなすんなら、整体院とかカイロプラクティックに行って身体の歪みを矯正してもらおうか」ということになったのです。少し的外れな対策であることは承知のうえでしたが、そうでも言わないと、この話が終わらなかったんです。

 

 「善は急げ」とばかりに翌日、自社に出勤してからネットで「姿勢の矯正」と検索してみました。すると、事務所から車で10分ほどの距離にあるめいわ という地域にKカイロプラクティック治療院というのがあって「整体、骨盤矯正」と謳った広告を見つけたので、早速電話をして翌日の朝一番の予約を取りました。

 

 翌日、地図を頼りにKカイロ治療院に向かいました。現地付近に着いたので車のスピードを落として周りを見回すと、居宅と棟続きになっている平屋の外壁に大きく「K治療院}と書かれた建物が目にはい居たので迷うことはありませんでした。

 

 施術をしてくれる40前後の若い男の先生に「ぼくの猫背を治したい」と伝えると、うつ伏せになったぼくの背中を何度かさすりながら「右よりも、左側の背中の方が幾分もり上がっていますね」と言いながら、その左側の背中部分を集中的に押してくれました。

 

 背中が終わると、手や足といった全身的な部分もさすったり、摘まんだりしてくれて「大分、背中が平らになりましたよ」と教えてくれました。

 

「よかった」という気持ちで次回の予約をして、料金を支払って事務所に戻りました。妻に背中を向けて猫背の具合を診てもらうと「うん、背筋が伸びてきた」と、自分の言うことを聞き入れてくれたぼくを目の前にしてご満悦でした。

 

 

 ところが、それから二日後、朝から左側の肋骨の下の方がひどく痛くなっていました。左側肋骨の一番下の湾曲したところです。大きく息を吸って肋骨を広げると跳びあがらんばかりに痛みます。息を吸わなくても、その部分を指先で押しただけでも、アイスピックで突かれたように痛むのです。

                            

 2,3日様子を見ていたけれど、痛みが和らぐどころか、寝床に入ってもジーンとした不快な痛みを覚えて寝付けなかったんです。

 整体院Kカイロの先生が集中的に押してくれたのは左側だったことを思い出しtr「先生が力を入れ過ぎたのではないか」とおもって電話をしてみました。

 

 すると「無理に押すようなことはしませんよ。今までもそのようなことはありませんでしたよ」という返事が返ってきて、これ以上責めることはできませんでした。

 

 「じゃあ、仕方ないな」と、事務所が定休日に自宅の近くにある成田整形外科を受診しました。問診票に痛みの状況を書き込んで、先生の診察を受けてからX先写真を撮りました。

 

 シャーカステンに映る画像を観ながら診察をしてくれたのですが「痛みを超すような所見は三あやらないね」ということでした。粘着テープ状の経皮吸収型の鎮痛抗炎症剤を処方してくれたので、それで様子を見ることになりました。

 

 しかし、朝と晩にその湿布薬を貼り換えながら様子を見ていたのですが、3日経っても4日経っても痛みが少しも引いてくれません。「肋骨の小さなひび割れを見落としたのではないか」と疑ったぼくは、アイビーの事務所から徒歩で10分ほどのところにある国立診療所下志津病院(現在の国立病院機構下志津病院)の整形外科を受診したんです。

 

 成田整形外科と同じように問診票に痛みの状況を書き込んで、先生の診察を受けてX線

写真を撮り画像を観ながら診察をしてくれました。しかし、成田整形外科の先生と同じように「痛みを起こすような所見はありませんね」ということだったのです。

 「骨にひびが入っているよなことはないのですか」と聞いてみたんですが、「それほど痛いのならば、画像に映りますからね」と言われてしまいました。

 

 「でも、もう一週間近く経つけれど、痛みが引かないのです」と困惑した口調で問い返すと、シャーカステンに映るぼくの胸の透視写真をじーっと見つめていた先生が、突然、藪から棒にこんな言葉をぼくに投げかけてきたんです。「あなたは たばこを吸いますか」と。

 

 その質問の意図が分からないまま「ええ、はい」とぼくが答えると、先生は、肋骨と一緒に映し出されている肺の一部分を人差し指で指示(さししめ)しながら「肺がまっ白ですよ」と言い放ったんです。

 

 「えっ、どこですか」と画像に顔を近づけてみると、本来黒く映るべきだという肋骨の背景となっている肺に部分が、うす雲に覆われたように白っぽく映っていたのです。

 そんな所見を見せられたぼくは、もう、気が動転してそれから先のことはよく覚えていないのです。先生に御礼を言ったかどうかも、会計できちんとお金を払ったかどうかも、覚えていないのです。


 40年を超える喫煙の習慣が灰を真っ白に映すほどに自分の体を蝕んでいたことを、目の前にいる医師の口から聴かされたことで、とてとぅもなく大きな衝撃を覚えたのです。

 

 

 

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