その12 姿は見えねど、いつもぼくの傍(そば)にいてくれるご
霊さま――――続き
「また、この家に戻りたい」という母の希望もあって、室内を片付けることなく時々、ぼくが見回ることにしたんです。
母がホームに入って半年ほど経ったある日、いつものように母の部屋を覗きに行きました。すると、扉が開いたままになっているお仏壇に気がついたんです。「あ、いけねえ、ご霊さまの皆さまに食事をお出ししていなかった」と、その日の夕食からお出ししようと仏膳をもう一つ準備してくれるよう妻にお願いしたんです。
快く引き受けてくれた妻が夕食の支度をしている間、ぼくは書斎の机に向かっていたのですが、段々に胃の辺りが痛くなってきたんです。いたたまれずに「食事はまだか」台所に小走りで向かい、母のお仏前にお出しするお膳の支度を手伝いました。
ぼくたち家族の夕食と同じメニューの仏膳が二つ出来上がるや否や、ぼくの書斎にあるお位牌と母の部屋にあるお位牌のそれぞれに夕食をお出しして「やれやれ」という思いでした。
ぼくたちの夕食が終わると、ぼくの書斎と母の部屋の2か所の夕食膳もお下げしました。そのご、夜の9時を回ったあたりでそれぞれのお位牌に就寝のご挨拶をして、それぞれのお仏壇の扉をお閉めしました。
そしてそのあと、ぼくはいつものように就寝前の歯磨きと洗顔に向かいました。その途中、老獪右手の壁に大きなガガンボが、ちょうどぼくの目の高さのところに停まっていることに気付いたんです。
ガガンボは「大蚊」とも書いて普通の蚊を10倍くらい大きくした形の昆虫ですが「ずいぶんと目につくところにいるなあ」と思いながらも、特に悪さをする昆虫ではないので追い払うことをしませんでした。
その後、洗面を済ませて寝床にもぐり込みました。
あくる朝、いつもの時刻に、いつものように目を覚まして2つのお位牌にお出しする2つの朝食、つまりコーヒーとホットミルク、そして、日本茶の三点を準備して、先ず母のお仏壇の扉を開けて「おはようございます」と声をかけながら朝のお茶3点セットをお供えしました。
それから正座をして仏前に座り「ご先祖の皆さま、おはようございます。朝のコーヒー、ミルクとお茶でございます。どうぞ皆々さまでお召し上がりください」とお参りさせていただきました。「皆々さまで」というところが肝心なんですよ、と指導されています。
続いて、1階の書斎にあるウチのお仏壇にも朝のご挨拶をしながら燈明を点けて扉を開けました。その途端、お仏壇の中から何やらひらひらと舞い上がったんです。「何なの」とそのひらひらするものを目で追うと、何と、ガガンボだったのです。ガガンボがお仏壇の中から舞い上がったんです。
その飛び出したガガンボが昨夜、ぼくが洗面所に向かう廊下の壁に停まっていたガガンボと同じかどうかは分かりません。しかし、そのガガンボではないにしても、お仏壇を開けたとたんに飛び出してきたことなんて、今までに目にしたことはありませんでした。
「ご霊さまは昆虫に姿を変えて現れる」といいますから、何だかこのガガンボは姿を変えたご霊さまで、ぼくの周りをうろうろしているように見えました。そんなことがあってから、うちとホームに入っている母の2つのお仏壇に朝と晩のお食事をお出しするのがぼくの日課になりました。
その13 ご霊さまが立ち寄らなくなった母のお仏壇
ホームに入った母に代わって、ぼくが母の部屋にあるご先祖さまのお位牌にもお食事をお出しするようにしました。でも、お下げしたミルクの味を確かめてみると、どうも、このお位牌にかかるごれいさまたちは、、このお出ししたお食事を召し上がっておられないようなんです。
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ホームに入居した母に代わって母のお仏壇をぼくがお守りするようになってから2年ほど経ちました。67歳になったぼくは、愛微不動産有限会社を他人に譲って、趣味にしていた紙ヒコーキのさらなる研究に勤(いそ)しんでいました。
ある日、いつものように我が家のお仏壇と母の部屋のお仏壇にお出しする2つの夕食膳を準備しているときでした。母のお仏膳を準備委しているときに、右手の指を滑らせてご先祖さまのお箸の1本を食器戸棚の一番上の引き出しの隙間から下に落としてしまいました。
「カチャカチャ」と音を立てて4段ある引き出しの下の方に落ちたように聞こえました。「ああ、この辺りだな」と目星をつけて上から4段目となる一番下の引き出しを引いて、何枚も重ねられたお皿やどんぶりの間を目で探したけれど、見つからなかったんです。
そこで、全部の食器類を外に出して空っぽになった引き出しの中をくまなく見たけれど、落とした箸はありませんでした。
仕方なく、その上の引き出しも引いていくつかの食器や備品類の間を目で探してみたけれど、やはり、箸の姿はなかったのです。そこで、一番下の引き出しと同じように、中の食器類を全部外に出してみてみたのです。しかし、落としいたはずの端は、その中にもなかったんです。
「あれあれ、どこへ消えちゃったの」と、ちょっと困ってしまいました。
あの落としたときの音の感じから「あるわけないよな」というその上の引き出しを引いて、食器類の隙間を目で探してみたけれど、思った通り、落とした箸はありませんでした。
もうこれ以上探しようがないので、仕方なく、代わりの箸1膳を用意してご先祖の皆さまにその旨をお伝えしておきました。
それから2週間ほど経ったでしょうか、今度は母のお仏壇にお出しするミルクにトラブルが起きました。ぼくの右手が誤ってお供えのミルクが入ったコップを倒してしまい、仏膳をミルク浸しにしてしまったんです。
「チッ、またしくじった」とこぼしたミルクをきれいに拭き取って、新しいミルクに入れ替えてお出ししました。
しかし、先日落としてしまった箸もまだ見つからないうちに、今度はお膳にミルクをこぼしてしまいました。「ちょっとご霊さまのトラブルが津木菟な。もしかして、お食事を召し上がってくれていないのではないか」という思いがかすめました。
そこで明朝、お茶の3点セットをお下げするときに、我が家のお仏膳にお供えしていたミルクと母のお仏膳にお供えしていたミルクの味を、ちょっと舌に含んで比べてみたんです。
それはもう、はっきりとした味と香りの違いが感じられました。
我が家のお仏膳のミルクは、ミルクの味が抜けてまるで真水のように味のないものに代わっていたけれど、母の仏膳にお供えされていたミルクは、ミルクの味と匂いがそのまま残っていたのです。
このことで、ご先祖の皆さんたちは母のお仏膳ではお食事を召し上がっていらっしゃらないことが分かったんです。どうしてなのかな、とちょっと考えてみたら、すぐに気づきました。
照明のない母のお仏壇の中は真っ暗だし、お位牌だって数枚の札板を収めた繰り出し位牌だったからなんです。お位牌にご霊さまがお罹りになっていただくには、お仏壇の中を明るくして、黒地に金文字の塗(ぬり)位牌ではなければいけなかったのです。
ぼくは、そのように神教真ごころの教義で教えていただいていたのです。
しかも、母は朝晩のお食事を毎日お出ししていなかったようなので、このお位牌に立ち寄っても食事にはありつけない、とご霊さまたちは思っていたのかも知れません。
そうと分かれば、母の部屋にあるお仏壇とお位牌は、ご先祖の皆さまがお立ち寄りになることのない単なる「置物」だった可能性が大きいのです。お食事やミルクをお出ししようとしていたぼくの手元を狂わせて、箸を落としたりミルクをこぼしたりといった粗相の原因には、そのようなご先祖の皆さまに対する気遣いのない行為の顕(あら)われではないのか、と思いました。
そんなわけでそれ以来、母の部屋にあるお仏壇の扉は、おshめしたままにすることにしたのです。
落とした箸がいまだに見つからなかったり、ホットミルクをこぼしてお膳の上をミルク浸しにしてしまったりという出来事は、燈明によって中を明るく照らしたお仏壇にしたり、黒地に金文字で書かれたお位牌をご安置する、という正法のしきたりに沿っていないお祀りの仕方では、ご霊さまたちは食事を召し上がってくれないんですよ、とぼくに教えてくれたことになりました。
「やりやれ、よかった」ということで、落とした箸のことなどすっかり忘れていたのですが、1ヶ月ほどして食器戸棚の一番下の引き出しの下の隙間から、あの見つからなかった1本の箸が顔を出していたんです。
「えっ、どこに隠れちたの」と声をかけてしまうほど思いがけないことだったのですが、箸が自ら姿を見せてくれたことに驚きました。母のお仏壇ではお食事を召し上がってくれていないことを、ぼくが気付いたからなんでしょうね。
日常、ぼくたちの身の回りで起こる出来事を注意深く観察してみると、ご先祖の皆さまがぼくたちのようにこの世に生きる人たちに、無言の行動で「何がしか」の意味のあることを伝えてくることがあるんです。
その14 お盆にはご霊さまが帰ってくる
お盆になるとご先祖の皆さまがご家族のところに御借りになるというけれど、本当なのでしょうか。ご霊さまたちは昆虫になって現れる、と言いますから注意しないと気が付かないかも知れません。
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日本の夏には「お盆(ぼん)」と呼ばれる先祖霊を供養する行事があります。そして、そのお盆の危機になると、多くの先祖霊たちがその家族や子孫のところにお帰りになる、と言われています。
落語の怪談話、牡丹灯籠のお露(つゆ)さんのように、なのでしょうか。
伝統的には旧暦の7月15日頃に行われていたお盆行事ですが、現在では新暦の7月15日頃に行われる新盆(にいぼん)と旧暦の7月15日に当たる新暦8月15日頃に行われる旧盆(きゅうぼん)の2つがあって、地方によって異なっています。
7月盆とも呼ばれる新盆が行われる地域は東京、函館そして金沢旧市街地くらいで、それ以外の日本全国が8月盆と呼ばれる旧盆が行われています。
お盆が近づくと盆棚や盆提灯を飾り、盆供を奉げて準備を整え、盆の入りには迎え火を焚いてお迎えし、先祖の霊を供養します。供養する、とは、冥福を祈る、つまりあの世での幸せを祈る、ということです。
また、盆が明けると送り火を焚いてお送りします。
お盆というのはそもそも、、先祖霊を家に迎えて供養する仏教行事である盂蘭盆会(うらぼんえ)のことで、盆提灯を吊るして明りを灯し、盆棚に果物や落雁といった供物を奉げて冥土を旅している故人に幸せな世界に転生できますように、とお祈りをする行事とされています。
盂蘭盆会とは、古代インドで用いられていたサンスクリット語Ullabanaの語音を漢字の文字を用いて書き写した言葉だと伝わっています。
でも、ご霊さまは本当に家族や子孫のところにお帰りになっていらっしゃるのでしょうか。どこにそんな証拠があるのでしょうか。
ぼくたち家族がお盆の行事をするようになったのは、成田の地に建てた自宅の2階に先祖代々のお位牌をお祀りしたところ、そのお位牌に二つの黒い影が吸い込まれていったお姿を目の当たりにしてからのことでした。
そのお盆行事のやり方というのは、ぼくが幼いころに母がしていた盆供養を見よう見まねで同じようにしていたことでした。
しかも、このニュータウンという新興住宅地にはいろいろな地域からの比較的若い人たちが住んでいるので、地域としての風習がないために、迎え火や送り火を焚いて先祖霊をお迎えしたりお送りしたり、は行うものの、豪華な盆棚や大きな盆提灯を飾るという儀式を省略して、せいぜい小さな盆提灯に明りを灯し、いつもより奮発したお供えをするくらいの簡素なものでした。
平成26年のお盆もそんな状況で迎えました。それは確か、8月の中頃だったと記憶します。夜の11時になって「さて、寝るか」と1階の6畳間にある自分のベッドにもぐり込みました。目を閉じてしばらくすると、庭先に面した雨戸の外が何やら「さわさわ」と音を立てていることに気付いたんです。
人の足音でもないし、人のこそこそとした話し声でもないけれど、多くの人たちが集まっていて、その洋服が擦れ合うような、そんな音でした。耳を欹てていましたが、数分で聞こえなくなりました。
当時、ぼくの寝室にしている1階和室の6畳間の隣に書斎があって、そこに我が家のお位牌をお祀りしていたので、盆提灯を飾っていたこのお位牌を目指してご霊さまたちが来られたのかも知れません。
翌日は休日だったので、ぼくは自室にいました。その日の夕方、少し開いていた庭に面した掃き出しの扉から1匹の蝶が入ってきました。モンシロチョウより大きくてアゲハチョウよりも少し小さな肌色をした、ごくありふれた蝶のように見えました。
部屋の中でひらひら舞っていたその蝶が、ひらっと畳の上に舞い降りてその大きな翅(はね)を開いたり閉じたりしていました。
その蝶の背後からそっと近づいたぼくは、とても驚きました。何と、蚊取り線香のような渦巻き模様が左右の翅の全面に描かれていたからなんです。生まれて初めて目にするこの渦巻き模様を持つこの蝶がなんというなまえなのか、を調べてみようと、机の上に遭った手帳のぺ時にその姿をスケッチで描き留めたのです。
スケッチをしていて、左の翅には左巻きの渦巻きが、右の翅には右巻きの渦巻きが描かれていることに気付いて「今までに見たこともない蝶だ」と、とても不思議な模様にわくわくでした。
スケッチを描き終わったころ、ヒラッと舞い上がって同じ窓から外に出て行ってしまいました。
すぐにネットを開いて「渦巻き模様の翅を持つ蝶」と検索したところ「ウズマキアゲハ」という名前が出てきたので一瞬、色めき立ってそのサイトを開いてみました。しかし、ウズマキアゲハは、南米を生息地とする体長20ミリほどの小さな蝶で、しかも、肝心の渦巻きは渦巻きではなくて小さな同心円だったのです。「何だ、ウズマキではなくドウシンエンアゲアゲハ じゃないですか」とがっかりしました。
では、ぼくが見た図鑑にの載っていないような渦巻き模様の蝶は、いったい何なのでしょうか。ぼくの見間違い、錯覚、あるいは夢でも見たのでしょうか。いいえ、スケッチ画として残しておきたかったので正確 さにこだわって描き移したのですから、見間違いや夢の中のことではありません、断じて。
魂の永遠の生命に向かって進化してゆくことを表わすために、太古の昔から世界中の遺跡の道具類に見ることができる渦巻き模様ですが、そんな神秘的な妙を左右の両翅一杯に描かれた蝶が部屋の中まで入ってきて、ぼくがスケッチをしている1、2分もの間中じっとしてくれていたことが大きな驚きでした。
まるで、あの世から舞い降りてきた蝶のようで、何だかこの世には存在しない幻影の蝶だから「よく見ておけよ」と言われているようでした。
一方で、ご霊さまは昆虫に姿を変えてこの世に現れる。と聞いていますから、ご先祖のお一人が蝶の姿に変えてお盆のこの日にお帰りになったのかも知れません。
しかし、あんなに大きな渦巻き模様をつけて、しかも図鑑にも載っていない蝶がお盆の日に我が家に舞い降りた、なんて、気になって仕方ががありません。
この蝶に姿を変えたご霊さまって、いったいどなたなのでしょうか、
それから2,3日過ぎた夜中にも、ご霊さまがお帰りになったのではないか、という昆虫の姿を目にしました。
ぼくは大体、夜中の2時とか3時に目を覚ましてトイレに行きます。その夜も夜中の3時ころに目を覚まして、用をたして、再び布団にもぐり込んで目を閉じようとしたんです。
まくらにあたまをのせて目に映る目透かし天井を眺めていると、その透かし目から右の方向に延びた名刺ほどの大きさの四角い影が目に映りました。足元に置いたサイドライトの照明による影のようです。
「何だ、あの四角い影は」と凝視していると、なんと、その四角い影が透かし目に沿って動きだしたんです。「えっ、何?」という思いで跳び起きたんです。目をじーっと近づけてみると、暗い目透かしの間に何か、ムシのようなものがいます。
手元にあった顔拭きタオルでさっと追っ払ってみると、サーっと飛び上がって寝室の出入り口にある柱に停まりました。
ベッドから降りて顔を近づけてみると、体長が2センチほどの小さくて細長い甲虫でした。
名前の知らないこの甲虫が透かし目の中で動いていたのか、と考えたのですが、ちょっと変です。透かし目の中に入り込んでしまったこんな小さな虫が、どうして四角い名刺のように大きな影を映したのでしょうか。
よく分かりません。たぶん「ご霊さまと一緒だよ」ということをぼくに気付かせるためだったのかも知れませんが、なぜ、透かし目の隙間にいたこんな小さな甲虫が、四角くて大きな影となって映し出されたのかも分からず仕舞いです。
盆提灯が飾られた1階のお仏壇に引き寄せられるようにして帰ってこられたご霊さまはそれだけではありません。お盆も開けて盆提灯を片付けてしまった8月の下旬の、外が薄暗くくなってきた夕方の7時前でした。
寝室の雨戸を閉めて安楽椅子に腰を資詰めていました。ほどなくすると、カリカリ、カリカリというかすかな音が耳に入りました。いまだかつて、このような音を聴いたことがありません。
じっと耳を澄ましてみると、今、閉めた雨戸の方から聞こえてきます。この音はカナブンのような甲虫がその前足でアルミ氏の雨戸の枠を引っ搔いているように聞こえたので、今しがたに閉めた雨戸を、今度はそー―っと開けてみたんです。
その途端、サー―ッと虫らしきし黒くて小さなものが部屋の中に飛び込んできたのです。部屋の奥にある柱に停まったものは、手の親指の爪ほどの大きさのカナブンでした。
こんな風に「窓を開けてくれ」と言わんばかりの合図を受けて、自分の部屋の中に昆虫を迎え入れたことなんて生まれて初めてなんです。今までに一度とshてありません。
とはいう㎡野の、子のカナブンを部屋の中に入れたままにするわけにもいかず、軽く背中の部分を摘まんで裏くなった屋外に放ってあげました。
お分の記事になると、ご霊さまたちは家族のところにp帰りになるのは作り話じゃないんだよ、教えていただきました。しかし、そこ行動はとても繊細でもの静かなことですから、よほどちゅういをしていないとみのがしてしまうかもしれません。
その15 ご霊さまを連れて帰ったお葬式
近親者のご葬儀に参列した後は、自分の言動にいつもと違う変化がないかどうか、注意を払いましょう。お浄めのお塩を振りかけて軽く払う、などして、亡くなった人の霊や邪気に憑りつかれることがないようにしましょう。
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平成24年の正月は、新潟に住むムスコ夫婦がぼくの家に遊びに来て、4日から1泊2日の日程で銚子市の海側にある犬吠埼温泉に出かけました。
うららかな春の海を眺めながらの、のんびりとした朝食を済ませて太平洋が一望できる犬美宇埼灯台の辺りを探索していると、同じ新潟に住む嫁の父親から「母が危篤だからすぐ帰れ」という電話連絡が息子の嫁の携帯に入りました。
急いで帰り支度をして成田の自宅に戻り、夕方、息子夫婦は鉄路で新潟に向かいました。「何とか道答えて欲しいな」と気をもんでいたぼくと妻でしたが、翌日の夜「6日の午後9時に息を引き取った」との悲報が息子から届きました。
1年ほど前に肺のがんが見つかり、新潟市内の病院で入院加療していた奥さまでしたが、その甲斐もなくあの世に旅立ってしまいました。ご主人の悲しみを察すると余りあります。享年60歳の若さでしたから。
奥様が入院した当時にぼくはお見舞いに伺って お顔を拝見しましたし、それから半年保だが立って外泊が許されるようになった昨年の夏にもお目にかかりました。その時だって息子夫婦のマンションの一室で昼食を摂身にするなど和やかに会話を交わされていました。
その時の奥さまはとてもお元気そうで、入院当時と比べてもずっと顔色も良く、手を添えることなく一人で立ち上がれるほど回復しているように見えました。「元気になったら、ぜひ、成田にお邪魔させていただこうと思っていますのよ」と何度も何度もおっしゃられていたことが耳に残っています。
可愛い娘の嫁ぎ先を一度でも見ておきたいという希望が叶えられずに、さぞかし、心残りだったに違いありません。
奥様の身体の中に棲みついたがんという生き物が どれほどの大きさと重さなのか分かりませんが、そんなものが生き生きと活動していた奥さまの肉体を蝕(むしば)み、心臓の鼓動まで止めてしまうなんて、自然界における人の命のはかなさ、もろさというものをいやというほど感じさせられます。
1月8日と9日の2日間にかけて通夜と告別式を行う、との連絡が入りました。息子夫婦が住んでいるマンションは部屋数が少ないので、ぼくと妻は新潟駅前にあるホテル東横インに前泊して、そこから式場に向かうことにしました。
市内港南区の東船場(ひがしふなば)にある斎場での通夜と告別式は終始滞りなく執り行われて、ぼくと妻はその日の午後に帰路につきました。
JR新潟駅発15時18分発の新幹線に乗り込んだのですが、空いた座席を見つけて腰を下ろすや否や、ぼくはこの上なく強い睡魔に襲われて上野駅に到着するまでの2時間余の間は一度も目を覚ますことがなかったんです。、
JR上野駅に到着するや否やパッと目が覚めて「ああ、とても疲れたみたいだ」と感じたのですが、今までに経験したことのないほどの強い睡魔だったことに驚いたんです。とはいっても、目覚めた気分は悪くなく、上野から京成スカイライナーがちょうど出発するタイミングだったので、それに乗り換えて京成成田駅に向かいました。
そして京成成田駅に津着したのが夕方の7時過ぎだったのですが、ライナーの車内での眠気はありませんでした。
「夕食を駅前で済ましていこうよ」ということで、王将というちゅかレストランに入りメニューを見せてもらいました。ぼくと妻は指先で指しながら「これがいいね」と、チャーハンと餃子のセットを2つ注文したんです。
間もなく「お待ちどうさま」と言いながらテーブルの上に運ばれたチャーハンと餃子セットはいつものようにてんこ盛りでした。どんぶりを伏せたような大盛りのチャーハンとシュークリームのようにぷっくりとした餃子が6つもお皿に載っています。
このメニューを頼んだ時のぼくは、いつも半分ほどのチャーハンと2つ余の餃子を残していたので「量が多いから無理をしない方がいいよ」と妻にも伝えておきました。
「やれやれ、お疲れさま、お葬式も無事に終わってよかったね」と、チャーハンを頬張り餃子を摘まみながらあーだこーだとおしゃべりをして残りの餃子を摘まもうとしておさらに目をやったとき「えっ」とぼくは思わず小さな声をあげてしまったんです。
ぼくのトレイに載ったチャーハン皿はおロコ、ぎょうざおさらにも何も残っていなかったからなんです。
それを目にした妻が「小食のお父さんが よく食べられたわね」と笑みを浮かべて茶化したので「おまえとおしのおしゃべりに夢中になっていたら、二人分の量を食べてしまったようだ」と自分でも信じられない気持ちでした。
妻のトレイに目をやると、半分ほどのチャーハンと2つの餃子が残っていました。
9時過ぎに自宅に着いて、いつものように10時には寝床にもぐり込みました。そして、いつものように夜中の3時ころに目が覚めたのでトイレに行こうとベッドを下りたんです。すると、シューシューというスリッパを履いて廊下をすり足で歩いているような音が2階から聞こえてきたんです。一瞬、からdの動きを留めて耳を欹(そばだ)てたんです。
その音は2階の廊下を行ったり切ったりとうろうろしているように聞こえました。「ご霊さんがきているんじゃないか」と気付いたらトイレに立つことができなくなりました。足のないご霊さまでも「さわさわ」とか「シュシュ」と言った音を出すので分かります。
1分足らずでその音は聞こえなくなったので、それから2,3分経ってそー―っと忍び足でトイレに行き、用をたし、再び寝床にもぐり込みました。
明くる朝、いつものように6時に起床して妻を起こしに行くと、布団に入ったままの妻がこんなことを聞いてきたんです。「今朝、4時ころに私の部屋のドアをノックしなかったか」と。
「いや、ノックなんかしないよ。オレは夢の中だっだたよ」と答えると「誰かがノックしたのよ、1回だけだけど」と気味悪そう吾顔を向けていました。
これで分かりました。亡くなった新潟の奥さまのご霊さまが、葬式に参列したぼくの背中に憑(と)りついて、ぼくと一緒にこの自宅まで連れて来られたんです。あのスカイライナーの車内での堪(こら)えようのなかった睡魔も、てんこ盛りチャーハンと餃子のセットを残すことなく平らげたのもこのご霊さまがなさったことなんだな、と気付きました。
「ぜひ、成田にお邪魔したい」という奥さまの強い希望が叶えられて、本当に良かったと思いました。
人は生前に抱いていた強い「思い」というものを、ご霊さまになっても持ち続けていて、それを実現しようとする執着の強さに驚かされます。亡き故人を正しくお祀りして、心安らかにお過ごしいただくのが、この世に生きるご遺族の役割なんだな、と思いました。
その16 こういう人だとは思わなかった
スパーマーケットの駐車場に並べたぼくの車の隣の車から降りてきて「車をぶつけたでしょ」と言いがかりをつけてきたおばさんは、認知能力の衰えを自らさらけだし、カラオケクラブの例会で「少し静かにして欲しい」というぼくの一言に反発した会長と唄の指導先生は、理不尽な暴言をぼくに向けて言い放ったことで、会員の皆が辞めてしまいました。
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つい先日の2021年1月18hの午後でした。食材を購入しようとちょっと離れた地域にあるヨークマートスーパーに車を走らせて、右隣りが空いている駐車区画に車を滑り込ませまし
た。
「よし、OK}とばかりに車を降りて駐車の状態を確認すると、後輪が駐車区画の左側の線上に載っていて、左側区画に注射している車との間が、人が通れるか同課の狭さになっていることに気が付いたんです。
「これじゃ、ちょっと迷惑だな」と思ったぼくは、再びハンドルを握り、車をもう少し右側に寄せようとバックさせました。途中で隣の車のミラーに自車のミラーが接触しそうなことを隣の車に乗っていたおばさんが手で合図をして教えてくれたのです。
「気付いているよ」と手で合図を返しながら接触することなく後ろに下がることができました。そして、再びその区画に車を入れたのですが、今度は右側の区画に少し食い込んでしまったことが、車を降りてみて分かったんです。
でも「まあ、いいか、混んでいないしな」と、ぶつかり酢になったミラーのことのお礼のつもりで「どうも」と手を挙げたら、そのおばさんがじぶんのくるまからでてきてぼくの前に立ちはだかったんです。そして「車をぶつけたでしょ」と、詰め寄ってきたんです。
おかしなことを言う人だなあ、と思いながら「いやいや、ぶつけそうになったけど、ぶつけていないですよ。ミラーもよけたしね」と言い返したけれど「イヤ、ぶつけた」と言い張られたんです。だから「何処にぶつかったんですか」とおばさんお車の横に歩み寄って具体的な接触場所を問い詰めたんです。
しかし、その返事は「えーと、えーと」と繰り返すだけで、おばさんの車の左側をくまなく見回しているおばさんの口からは、何の返事も帰ってきませんでした。
「ほら、どこもぶつかっていないでしょ」ダメ押しをして、早くここから離れたいと思っていたけれど「わあ――っと車が揺れたのよ。だからぶつかったのよ」と、ちょっと訳の分からないことを口に出してきて、引き下がるわけにはいかなくなったんです。
狂言だな、と感じたぼくは「警察を呼ぼうか」と問いかけたんです。警察を呼ぼう、と言えば「じゃあ、いいです」と怯んでその狂言も引っ込めるのではないかと踏んだからなんです。
でも、おばさんの口から出た言葉は「いえ、私が呼びます」という、ぶつかったことに間違いない、と言わんばかりの口ぶりで、自分の携帯から警察に電話をかけようとしたのです。
「その前に、家にいるお父ちゃんに連絡するね」と家で留守番をしているでのであろう旦那さんと話を主ながら「お父ちゃんも警察を呼んだ方がいいと言っている」と言いながら、携帯を110番に繋いでいるようでした。
おばさん自身が警察を呼ぶ、というのだから構いませんが、このおばさんの言動の一部始終を目の当たりにしていたぼくにしてみれば、このおばさんがどんな理由で警察を呼ぶのか、が分からなくなりました。車をぶつけたりこすったりとした車の事故ではないのですから。
警察と繋がった会話の中でこのスーパーマーケットのある場所を問われて、うまく答えられないでいるおばさんの様子に気付いて、ぼくが代わって電話口に出ました。
「車をぶつけてもいないのに、ぶつけられた、と言い張る人がいるんです」と、ぼくの口から要件を伝えると「場所はどこですか。あなたのお名前を教えてください」と矢継ぎ早に問われたので「飯田町のヨークマートというスーパーの駐車場です。渡部と言います」と答えて電話を切りました。
そのおばさんとは住んでいるところや、このスーパーにはよく来るのか、と言った世間話も尽きて、沈黙となりました。15分ほど経ってスーパーカブにまたがって蛍光反射テープのついたジャケットを着た警察の人2人が目に入り、ぼくの方から手を挙げて近づきました。
そこで「ぶつけてもいないのにぶつけられた」と言い寄られて困惑している、と小声で伝えて現場まで案内しました。
ぼくの車の左側を丁寧に点検した後「ぶつかったのはどこなんですか」とおそのおばさんに問うた警察官の質問に。おばさんがどのように答えるのかを聞き逃すまいと、ぼくは耳を欹(そばだ)てていました。
動揺する様子をまるで見せないおばさんは「えーと、えーーと」と自分の車の左側をくまなく目で追っていたけれど、言葉が出ません。挙句の果てに「運転席にいたら ふわ――と車が揺れてお腹の辺りにズンという衝撃があったから、ぶつかったに違いないんです」なんて、先ほどと同じことを言い出したんです。
そうこうしていると千葉県警の文字の入ったワンボックスが到着して、4,5人の交通係という職務の人たちが加わって総勢7,8人による現場検証になってしまいました。免許証と車検証の提示を求められた上に、ぼくの車を少しバックさせて左側側面の擦り傷の譲許王調査を行ったのですが、当然ながらなにも出ませんでした。
警察による調査はドライブレコーダーの画像確認に移り、おばさんの車に取付けられたレコーダーの画像を警官二人がかりで10分ほどかけて調査していました。
それが終わってぼくに顔を向けて「レコーダーはついていないのか」と聞いてきたので「乗る機会も少ないし、遠乗りも市内のおでレコーダーはつけていません」と答えると、ニヤッという笑みを浮かべて背を向けました。
その笑みが「レコーダーは使用頻度や遠乗りや近乗りに関係なく事故調査の動かぬ証拠として重要なんだよ」と言っているようで、自分の認識のなさを見透かされたようでした。
レコーダーの画像からも事故である証拠がなく「車がぶつかるとへこみやこすれといった目に見える傷がつくのですよ」と、おばさんを諭すような言葉が聞こえてきて、警察の調査はそれを機にして、このおばさんがぶつけられたと思ったのはどのような理由なのか、という点に集中したようです。
ぼくは、少し離れたところから眺めている傍観者になりました。暴漢の時間も10分20分と長くなってきたし、買い物の途中でもあったので「ぼくはまだ、帰っちゃだめですか」と交通係の一人に聞いてみたんです。
現場のリーダーに相談したその警察官は「あなたはお帰りになって結構です」という返事をくれて、時計を見ると、もう4時を回っていて1時間半ぶりにおばさんの言いがかりから解放されました。
帰り道に車の中からおばさんの姿を探すと、3,4人の警察官に囲まれて何やら離しをしている姿が目に映り「あ、これはおばさんの認知能力が問われているな」と即座位に思いました。
ぶつけられた痕跡などどこにもないのに、ぼくにぶつけられた、と思い込んで警察を呼ぼうとしたおばさんの言動は、間違いなく認知能力に問題があるように見えるし、それを察知した今朝掴んは所持している運転免許証の適格性に強い疑いを持つのは当たり前だからです。
でも、このことは、このおばさんにとって良かったのではないかな、と思いました。なぜなら、こんな些細なトラブルによっておばさんの認知能力の低下が明らかになって、免許証を取り上げらえるのですから。
もし、このトラブルが発生することもなく、認知能力が衰えたまま運転をし続けていたら、いつか必ず、人の身体や車両に大きな損傷を与えるような重大事故を起こして「ごめんなさい」では済まないことになる可能性を十分に予見できるからです。
その後、ぼくは別のスーパーで夕食の食材を買い入れ、自宅にも泥ました。「ずいぶん時間がかかったわね」と女房が声をかけてきたので、その一部始終を話しました。
夕食後、一人になったぼくは「あのおばさんが、ぼくに言いがかりをつけてきた理由はいったい、何だったのだろうか」と考え込んでしまいました、
なぜなら、おばさんの車の隣にたまたま注射しただけなのに「ぶつけたでしょ」と言いがかりをつけられて困ったなあ、ということになって警察を呼ぼう、という気になったからからなんです。
けれど、それに怯(ひる)むことなく自ら警察を呼んで、結局、自ら、自分の認知能力の衰えを免許を管理する警察官の前にさらけだしてしまったのですから。なんだかおばさんに悪いことしてしまったなあ、と思うのですが、その一方で、おばさん自身の認知の雨量の衰えがはっきりとわかり、大きな名事故などを起こす前に免許管理者である警察に指摘されたのだから、大いにおばさんのためになったのではないか、と自分に言い聞かせています。
おばさんの車との間をもう少し広くしようと、自分の車をバックさせたときに、ミラーがぶつかりそうになったことをわざわざ教えてくれたおばさんの姿を見て、ぼくは認知力が低下しているような人だとは微塵(みじん)も思わなかったし、おばさん自身も同じ思いだったであろうと思います。
でも、おばさんの認知能力という感覚は、年齢の積み重ねと共に深く、静かに、確実に、
容赦なく低下していきました。それに気付かせてもらったのだから、おばさんにとってとてもハッピーだったのではないのかな、と思うことにしています。
そういえば、同じような来tがいぜんにもあったよなあ、と2年ほど前に起きたあのことを思い出したんです。
あの時、人の隠れた心の内をさらけ出したこととは、こんなことでした。ぼくは平成31年4月でしたか、地域のカラオケクラブに入れてもらいました。73歳にもなるぼくにとっては
気楽に参加できそうだし、サラリーマン時代には飲み会があるたびに「お前唄えよ」とひっぱりだされて、酔った勢いとはいえ人前で歌うのは嫌いではなかったからです。
それに、自由な時間が多い老後を少しでも元気に、はつらつと暮らせたらいいなあ、という思いも強く持っていたからでもあります。
しかも、早期退職によってJALのサラリーマンを辞めてからの10数年は不動産取引業を営んでいて、唄を口ずさむことなんかまったくなかったので、しらふで唄うことに慣れるために、と月に1回のカラオケ教室に1年間通ってみた、という準備をしてのことでした。
そのカラオケクラブの例会は、毎週日曜日の昼12時から午後の3時までというものですが、個人の都合によって会場の出入りは自由になっていました。
会長は大谷さんという見た目がぼくよりも2つ3つ年上で、はっきりした言葉遣いをする人でした。
しかし、このクラブに入会したのっけから出鼻をくじかれてしまいました。大谷会長からの「渡部さんは何年生まれですか。教えてください」という耳打ちに「昭和20年です。ちょっと自己紹介をさせてくれませんか」と自分の希望を伝えたのです。でも、「それはしなくていい」というのです。
「あれ、どうしてですか」と聞いてみると「オレもしなかったから」という」という返事が返ってきて戸惑いました。初めて顔を合わせる人に対する挨拶としては「まず自己紹介」という気持ちだったぼくにしてみれば、「どうしてその時間をとってくれないのだろうか」と、この会長の意図がとても奇異に映りました。
人それぞれの考えというものがあるとは思うけれど、初めて顔を合わせる人たちの中に新人一人をぽつんと置いて、メンバーの皆さんを紹介すらしてくれない対応に接したことは、今までに一度もありませんでした。
しかも、その理由が「オレもしなかったから」とは、その対人文化に驚きました。会長の気持ちがどのようなものなのか、伝わってきません。
幸い、座った席の順番に持ち歌を披露すればいいので、気遣うことは何もなかったのですが、話しかけられることも、何か問われることも、唄い終わった後の「付き合い拍手」も起きることもなく、ただただ淡々と各メンバーの唄声が流れていくだけでした。
そんな光景を見ていて、メンバー各人の名前など知らなくても何の不都合もないし、メンバー間の交流も気に掛けることはないのだな、と気が楽になりました。
次の週になると緊張もだいぶ取れて美奈さんの唄声が耳に入るようになり、お年寄り特有の艶のないかすれ声と抑揚に乏しい平坦な唄い方ながら、一生懸命のマイクを握る姿に「いつまでも元気でいられていいなあ」という感動すら覚えました。
その次の週でしたか、メンバーの男性一人が唄い終わると、3,4人の女性陣の中にいた一人が「♫涙の~~というところは、ミ、ソ、ラと続くから、もう少し高い音にしなければね」と音階の指導をし始めたので、この人が先生で楽譜も読めるような音楽の勉強をしてきた人なんだな、と分かりました。
そこに大谷会長がやってきてぼくのすぐ前に腰を下ろし「いま、指導してくれたのが芦田先生で、その後ろの人が誰々で…」なんて席に座っているメンバーたちの名前を一人一人教えてくれようとしたんです。
でもそんな紹介の仕方では顔をよく見ることも出来ないし、今流れているメンバーの歌唱も聴きたかったので「メンバーの唄声が流れる中でメンバーを紹介するのではなく、初日に自分の自己紹介とメンバーの紹介をしてくれる時間を作ってくれればよかったじゃないですか」と申し上げたんです。
すると、何も言わずにプイとした顔をして立ち去ってしまいました。何か気に障ったんですかね。新人は入ったりしたら、普通はそんな風に酒買いするんじゃないですかね。
メンバーの一人が唄っているのにそれを聴くこともなく、うろうろしながらぼくの席の目に腰を下ろしてメンバーの紹介を始めるなんて、この会長の行動が理解できませんでした。メンバーの唄声を聴きたかったぼくにとっては、少々迷惑だったんです。
ちゃんと紹介する期間を設けるなどしt歌唱時間と新人紹介時間のメリハリをつけて、各人が
唄いやすく和(なご)みやすい環境を作ってあげることが会長の仕事だと思います。そうすることで、もっともっとメンバー各人が唄うことに集中できて、歌唱の表現が豊かになるのになあ、と思ったけれど、口に出すのは止めました。
「プロの歌手と素人の唄との一番の違いは、唄い方に抑揚(よくよう)といったメリハリがあるかないか、なんですよね」と、月1回の発生訓練講習会での先生から教えていただいたことがぼくの気持ちに響いていて、音階もさることながら、音の強弱や長短、あるいは緩急(かんきゅう)といった音のメリハリをはっきりつける、といった歌い方の技法に重点を置いた練習をしたい、という希望をもって入会したのです。
でも、それが叶えられるだろうか、と不安になってきました。
それから2カ月余が経ったでしょうか、例会がお開きになったとき、教室の右側の奥に座っていた名前の知らない50歳前後のおばさんが近寄ってきて「これ、唄って欲しいんです」とぼくに前にCDを差し出したんです。
そのCDパッケージを受け取ってみると、大崎幸二さんというおじさん歌手が唄う「甚兵衛(じんべえ)渡し」という曲名であることが分かりましたが、ぼくの知らない歌手と曲でした。
帰宅して、そのCDをデッキに掛けて聞いてみると「え~~え~~あ~~あ~~」と母音を長く伸ばすところがとても多い曲でした。しかし、演歌曲なので何度か繰り返し聴きながら、CDに合わせて一緒に唄ってみると全体のメロディーと雰囲気を覚えられて、次の週の例会には歌詞を見ながらこぶしを利かせた演歌調にみんなの前で唄ってみたんです。
すると、並木さんというそのおばさんがとても喜んでくれて、毎回のように「甚平さんを唄ってよ」とリクエストしてくれるようになりました。
それからまた、2ヶ月ほど経った夏の時期でしたか、こんなことがあったんです。コロラティーノというムードコーラスグループが唄う「思案橋ブルース」という曲をムードたっぷりに揺らぎをつけて唄い終わると「いいぞ、いいぞ」とみんなが拍手をしてくれて、中には起ち上ってとても喜んでくれたおじいちゃんがいたんです。
「ご声援ありがとうございま~す」と、ぼくも手を振るなどしてそのおじいちゃんの声援に応えたのです。しかし、その時にぼくの目に映ったのは、みんなが起ち上って喜んで拍手をしてくれている中にあって、一人だけ渋い顔をして下を向いたままにしていた、あの先生と呼ばれている芦田さんの姿だったんです。
芦田先生だけが拍手をしてくれなかったんです。みんなと一緒に喜んでくれなかったんです。その芦田さんの姿を目にしたぼくは「あ、この人は、何か、気持ちの中に「歪(ゆが)み」のようなものを持っているんじゃないかな」と感じました。
その「何か」が分かる日が1ヶ月後にやってきました。10月でしたか、石原詢子さんが唄う「通り雨」という曲をコブシと揺らぎが聴かせどころの女唄を唄っている途中で、メンバーの誰かの話し声が耳に入ってきて、スピーカーから流れる伴奏が聴こえずらくなったのです。
一時、歌唱を中断してメンバーたちの方に目を移すと、あの先生と呼ばれている芦田さんが背中をこちらに見せて後ろの人と雑談をしている姿が目に入りました。すぐに伴奏が聴こえてきたので、再び、唄い始めて何とか歌い終わったのですが、ぼくの気持ちは治まりません。
そこでぼくは、唄い終わって自分の席に戻る前に会長の席に立ち寄って「人が唄っているときは、少し静かにするよう伝えてくれませんか」と女性連中が座る席の辺りを指さしてお願いしたんです。
それに対する即答はなかったのですが、自分の席に戻るや否や「そんなこと言えねえ」という会長の声が聞こえてきて、そんな苦言をこの先生には恐れ多くて言えない、という気持ちだと捉えたんです。
こんな場合「誰かが唄っているときは少し静かにしようや」というような名指しをしないような言い方だってできるのに、それすらしてくれないのか、と情けない会長だなと思いました。「あんたは会長だろう」といいらかったけれど、相手が先生だから遠慮しているんだろうな、とかいしゃくして、その日はそれで終わりました。
次の週もいつものようにクラブの例会に加わり、いつもの席に着いて唄が始まるのを待ちました。ところが、いつもと違って厳しい顔をした会長が時間通りに現れて「最初に会議を始めます」と切り出したんです。
そして「静かにしてくれ、という渡部さんの依頼だけど、あなたが唄うときだけ静かにしますよ」なんて言い出したんです。
「はあ~?ぼくが唄うときだけ静かにする?何ですか、それは」と、これが先日、少し静かにしてくれるよう会長にお願いした対応策だったのか、とそのあまりにも子供っぽい対応策に驚きました。自分のときだけ静かにしてくれ、とお願いしたのではないんです。
人が唄っているときは、伴奏の音を邪魔するようなことは控えた方がいいんじゃないですか、
という意味なのですが、どうも真っすぐに受け取ってはくれなかったようです。これは「意地悪」とか「嫌がらせ」という範疇の仕返しだな、とぼくは上とったのですが、あの甚兵衛渡しを唄って欲しい、とリクエストしてくれた並木さんからも「それじゃあ、仲間外れじゃないですか。少し静かにすればいいなじゃないですか」と反論する意見も出てきたんです。
加えてぼくからも「そんな特別なことをされると唄いにくくなりますね」と、その対応策には賛成できない旨を伝えました。
他のメンバーからも反論された会長の声は急に大きく乱暴になってきて、あげくのはてに「このクラブは雑談クラブだじゃらうるさくていいんだよ」なんて言い出したんです。「雑談クラブ?いつから雑談クラブになったの?」と多くのメンバーが奇異に感じたに違いありません。
カラオケクラブの会長が、自ら「雑談クラブだからうるさくてもいいんだ」とは、余りにも稚拙で論点を捻じ曲げた発言としか言いようがありません。
本来なら「このカラオケクラブはうるさくてもいいんだ」と大見得(おおみえ)を切りたかったんだろうけど、さすがにそうは言えずに「雑談クラブだから」と現実を反らした「ごまかし」を言わざる得なかったか会長の胸の内が見て取れます。
会長自らが率いるこのカラオケクラブを「雑談クラブ」と言い替えたことで、この議論の焦点をぼかしたと同時に「何を言っているんだ、この会長は」と会長の発言から説得力というものを喪失させてしまいました。
つまり、うるさくてもいい理由をこの会長は「カラオケクラブだから」とは言えなかったわけで、裏を返せば、カラオケクラブは静かな環境で練習する方がいいに決まっていることを承知していたわけです。
けれど、「メンバー渡部の言いなりにはならない、なりたくない」と言い張る芦田先生の意向に逆らえなかったのでしょう、きっと。芦田先生の意向に沿うよう「うるさくてもいいんだ、雑談クラブなんだから」と言い替えたのでしょう。
でもそれは、うるさくてもいい理由にはなっておらず、会長の言動として説得力を持たないばかばかしさが表ざたになってしまいました。カラオケクラブを立ち上げてそこそこもメンバーもそろってきたのに「雑談クラブだから、うるさくていいんだ」と言い張る会長と先生の気持ちは、どうしてもぼくには理解ができないんです。
結局、屁理屈をこねてでもうるさくてもいい理由を言いたいがために、本来のカラオケクラブを「雑談クラブ」に変えるまでして、齢(とし)を重ねたメンバーを前にして啖呵(たんか)を切ったのです。
しかし、その割には怪訝な表情を向けるメンバーが多く、「うるさくてもいい」という理由にはなっていなかったんです。例え雑談クラブと言えども、うるさくてもいいわけではないからです。
雑談というのは、様々な内容を気楽に話す琴であって、決して騒々しく大きな声を張り上げて話をすることではありません。会長のいい方からすると、雑談をしているのだからうるさくてもいいように聞こえますが、そうではありません。
周りがうるさければ雑談もできないし、そもそもがこの集まりはカラオケ好きな人が集まったカラオケクラブであることを忘れないで欲しいと思います。
だから「雑談クラブだからうるさくていいんだ」という会長の発言は屁理屈(へりくつ)、無理にこじつけた理屈なんです。それに気付かなかったのは会長と芦田先生だけだった、というとても滑稽な言い訳になってしまいました。
ちょっと考えてみてください。メンバーの皆さんは日常のヒマつぶしのためだけでここにきているのではないはずです。毎年の秋に開かれる成田地区の歌謡曲大会の舞台に立つために少しでもうまく唄えるようにと連取に励んでいるんです。
それなのに「雑談クラブだからうるさくてもいいんだ」という発言は、会長という立場の人の口から出た言葉とは思えないほどメンバーの気持ちを逆なでした発言としか聞こえんません。メンバーの誰もが「雑談クラブ」のメンバーだなんて思っていないからです。
この会長の「目的を忘れた屁理屈」は多くのメンバーの失笑を買い、メンバー各自の夢や希望を摘み取ってしまったのではないかと思います。
続けて「人が唄っているときは静かにするのがマナーじゃないですか」とあえてぼくが付け加えると「マナーなんてどうでもいんだよ」とけんか腰となり、すっかり会議の体(てい)をなさなくなりました。
「マナーなんてどうでもいいんだ」なんて会長が言い出したら、このクラブ活動も長くはないな、と感じたし、会長の心情が窮地に立たされていることが見て取れました。
まるで、電車の中で足を突き出してすわっているおやじさんに、若い男が「少し足を引き込めてくださいませんか」と注意されて「なんだと!」と逆切れした昭和のがみがみおやじのようです。
れっきとしたモラルハラスメントで、こまったものです。メンバーが唄っているときに「うるさくたっていいんだ」という会長のhΤ減は、モラルに反した嫌がらせ、としか言いようがありません。
みんなが和やかい、みんながうまく唄えるようなクラブにしたい、と言う気持ちがこの会長の気持ちの中に少しでもあったのなら、きっとそんな言葉は出て粉化ttだろうな、と思いました。
より良い雰囲気で、よりうまく唄を唄えるようになりたい、というメンバーみんなの気持ちを逆なでするような大きな声と興奮した顔をこちらに向けて、屁理屈なことをこじつけて怒鳴りつける、という会長のパワハラ的指導の本性がみんなの前にさらけ出してしまいました。
「メンバーが唄っているときは、私語を慎んでもらえませ禍」というぼくの希望を耳にした会長は、どうしてこんなに怒りだしたのでしょうか。
この会長の怒鳴り声が途切れた後に、あの芦田先生がすっくと立ちあがったのです。「あ、快調と先生はつるんで悪だくみをしたんだな」と分かりました。「私らに文句を言う奴は黙っていない」とこの比とも高圧的です。
そして「私らのおしゃべりがうるさいというなら、あんたは後ろの方あのおじちゃんとおしゃべりをしていなよ」とか「後ろの人と無駄話をしているんじゃないんだよ」と、自分の言動がメンバーに迷惑をかけてしまったことを棚に上げて、その苦言を言った人をせめたてる、というカラオケの先生とはとても思えない乱暴な口調で言い訳をまくしたて始めたんです。
物事には程度というものがあって、その程度と言うものをわきまえた人なら恥ずかしさのために抑えてしまうような罵声を平気な顔して発し、しかも、大げさな身振りと手振りを交えて、女房もあ影人の子供もいる一家の旦那であるぼくを指さして言い放ったんです。
先の怒り文句に出てきた「あのおじいちゃん」とは、ぼくの唄を聴いて「いいぞ、いいぞ」と立ち上がって拍手をくれた80過ぎのお年寄りです。よほど、ぼくの苦言が気に入らなかったのでしょうが、ぼくの唄声に大きな拍手をして喜んでくれたこのおじいちゃんまでも気に入らなくなってしまったようです。
少なからずの異常さを感じるし、メンバーを前にしての言いたい放題ぶりには羞恥心さえも忘れてしまったようです。他人から苦言を言得荒れたことで怒りだしたこの先生は、自分の言動が他人に迷惑をかけてしまった、という自覚を持つことができなっか訳で、何だか、物事の良し悪しを判断するf分別を持ったご婦人がするような反論とは大きくかけ離れたものでした。
この芦田先生は、ぼくから言われた「少し静かにいしてくれませんか」の苦言を耳にして、どこが気に障ったのでしょうか。うるさいことなんか、していなかった、とでも言うのでしょうか。
ちょっと時間を戻してみました。歌唱中にテープの伴奏が聴きずらくなったぼくが先生たちの方に目を向けると、背中を向けて後ろの人と雑談をしている芦田先生の姿が目に入りました。それを目にしたぼくは、少し静かに話すよう会長にお願いしました。
すると会長は「先生には言えない」とつぶやいたんですが、時をずらして先生に伝えたのでしょう。問題はその伝え方です。「先生、メンバーが唄っているときの私語は慎んでください」と会長からの注意として伝えたのではなく、「メンバーが唄っているときは、静かにして欲しいと新人の渡部が言っていますよ」と、自分の意見ではないことを強調して伝えたんだと思います。
その理由は、たぶん、歌唱が一番上手な先生から睨(にら)まれたくなかったからだと察します。この先生に苦言を言って気まずい関係になれば自分の立場が危うくなってしまう、先生の言うことを聞いてさえいれば、今の会長という立場は安泰だ、と踏んだのだと思います。
芦田先生にしてみれb、自分の意見が通りやすくなるよう、自分の言うことを聞き入れてくれるこのイエスマンを会長にしたのでしょう。
一方、ぼくたちからみれば芦田先生のイエスマン という情けない男の姿に映りました。メンバーのみんなが楽しいカラオケクラブにすることが司会業務の一つだと思いますが、この会長は、この先生の苗では中庸な気持で采配することができなかったのだと思います。会長としての役割を果たしていない、ということです。
一般的に言って、人からくげんを言われれば「あ、気が付か荷でスミマセン」と、まず自分の非を認めて詫びるのが節度をわきまえた人の振る舞いです。異論があればそれに続けて「これこれしかじかの理由があるのです」とその理由を述べて理解を求めればいいことです。
これでお互いが理解と納得をしあえるのだと思います。
この場面でいえば、メンバーが唄っているときは、声が外に漏れないようもう少し小さな声で会話をすればいいことです。なのに先生は「ふざけんなよ」ということでした。「うるさいというのなら、あんたが後ろに下がればいい」とも言いました。メンバーの一人に迷惑をかけておいて、何が「ふざけんなよ」で「あんたがうしろにさがればいい」なんでしょかね。
まるで、町のチンピラと同じように、人を見下したような傲慢で威嚇的なふるまいです。唄の指導をする先生たる立場の人がとるような態度とはとても思えず、驚きました。
しかも、会長と先生二人つるんで「雑談クラブ」に名を変えてまでしt、うるさくてもいいんだ、と言い張るように企(たくら)んだようですが、導師絵ぼくが底まで反感を買わなければいけないのでしょうか。
「少し静かにして欲しい」と言われたことが、それほど腹を立てることなのでしょうか。
このような場合、会長から「少し静かにしようや」の一言で事足りたはずなのに、この会長は反感を抱いた先生に同調してしまい、その一言すら言い出せませんでした。どうしてなのでしょうか。
旧(ふる)くからの友達だったのかもしれないけれど、カラオケクラブの会長が「雑談クラブだからうるさくてもいいんだ」の反論は、いくら何でも話の筋が通らないでしょう。
雑談クラブであろうとカラオケクラブであろうと、ある目的で人が集まればうるさくしてもいいはずはないのです。話をごまかそうとしているのでしょう。
このサークルは紛れ㎥なくカラオケクラブという名前で活動しているのですから、そこまで食い下がる二人の姿を見ていると、何かが隠れていそうな気がしてきました。
落ち着いてよく考えてみると、その理由はいくつか浮かび上がります。まず、先生に苦言を言ったぼくが、まだ入会後の日が浅い新人会員だったという点と、それともう一つ、ぼくの歌唱が思いのほかメンバーに歓迎されて大いに受けていた、ということだと思います。