一度だけ、天国の父に会いました

一度だけ、天国の父に会いました

そして、不思議なことや不思議なものを、たくさん見せていただきました。

 その8 PCが教えてくれた妻の脳卒中   続き

 

 何とありがたいことでしょう。きっと、ぼくが再び神教真ごころの信者になって、1階の書斎にお祀りしたお位牌が、霊界のしきたりでは「逆(さか)ごと」ではないのか、と気付いて2階に移動することに決めたからに違いありません。

 

 すなわち、お位牌の祀り場所を1階から2階に移動しようと決めたことで霊障が解けて、ぼくの緑内障は視野の欠損という後遺症は残ったものの、今までと同じ目薬が点けえあるようになりました。

 それと同時に、妻に襲いかかっていた脳卒中の霊の障りも解けて、皮膚感覚は元にも踊らないという後遺症は残ったものの、以前と変わらない元気な会話と小さな文字もすらすらと書けるようになりました。

 

 しかも、あのぶらっとしたままの右手、右足もほぼ自由に動かせるようになり、杖を使わなくてもヨチヨチと歩けるまでに回復したのです。

 

 そして年が明けた平成27年の2月8日に行われた祖霊祭りのときに、、点灯するはずのない球切れペンダントを、ぼくと妻の目の前で明るく輝かせて「うん、それでいい、お位牌は2階に祀るのがいいよ」と伝えてくれたのですが、そのことが、ご霊さまの指示によるものだという何よりもの証(あかし)だと思います。

 

 平成26年5月に引き起こした脳卒中から1年が経った今、平成27年の5月です。ぼくも妻も古希を迎えましたが、ご霊さまに対するぼくの無礼ごとによってこの脳卒中が引き起こされたことを、妻はいまだに知らずにいます。避けようにない災難に遭ったから仕方がない、と思っているはずです。

 

 というよりも、妻の脳卒中も、ぼくの緑内障も、2階にお祀りすべきお位牌を1階にしてしまったぼくの過ちが原因なんだよ、と説明しても、「そんなことあるわけないじゃない」という表情をして一笑に付されてしまったんです。

 

 無理もありません。神教真ごころの信者になったこともある妻ではあるけれど、霊の障りという目に見えないものによって引き起こされる身体の不調という現実がこの世には歴然と存在することを強く感じていたのは、ぼくだけだったのでしょう。

 

 霊界で生きておられるご先祖の皆様のお気持ちが、この世に生きるぼくたちの人生を幸せにも、不幸せにもできる、ということに、妻は思い巡らせることができなかったのでしょうから。

 

 お位牌というものは、その建物の最上階にお祀りするという神教真ごころの教義を知っていながら実行しなかったぼくは、その戒(いまし)めとして緑内障というモノの見難さで償(つぐな)うことになってしまっただけでなく、最愛の妻にまで不幸を呼び寄せて不自由さが残る身体にしてしまいました。

 

 だから、このことへの代償を、ぼくは生きている限り、背負ってゆく覚悟でおります。

 

 

 

            ――――――――――いかがですか、読者に皆さま。今は亡きご先祖の皆さまを祀り敬うことは大切だと思うけれど、それを怠ったから、と言ってこんな戒めを受けるなんて、ちょっと、作り話のように見えるかもしれませんが、想像や空想ではない、ぼくの体験なのですから仕方ありません。―――――――――――――

 

 

 

その9 お位牌のお焚き上げでめまいが解消

 

 ある日、急に発症した右肩から右足に胃たる痛みがだんだんに右足のおやゆびだけに集中してきたことで、痛風だと気付きました。

 医者に駆け込んで処方された痛風の治療薬を飲んでみたものの、副作用として新たに発症しためまいにも悩まされるようになってしまいました。なかなか良くならないめまいでしたが、之を一蹴できたのは、ご先祖の皆さに対する、ある「無礼ごと」に気が付いて、それを正したことでした。

 

       >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

 

 一度退会した神教真ごころですが、緑内障の目薬のどれもが使えなくなって、平成26年5月に再び信者にならせていただき、その境地から逃れることができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その7 お位牌は2階にお祀りするのがいい

 

 理由も分からないまま血圧が乱高下したり、持病である緑内障の点眼薬が使えなくなったりと窮地に立たされたぼくを救ってくれたのは、またしても、郵便ポストに投げ込まれていた神教真ごころの恢弘チラシでした。

 

 神教真ごころの信者になったぼくに先ず教えてくれたことは、お位牌はその建物の最上階にお祀りするものですよ、という教義(宗教的な教え)でした。

 

       ==========================

 

 ぼくは今、毎朝の洗顔後に朝一番の血圧を測ることを日課にしています。平成22年に神経症を発症して以来、血圧が乱高下し始めたことがきっかけでした。

 

 神経症の症状が落ち着いてきてからは大体120から130ミリで推移していましたが、平成26年の新年が明けたころからは日を追うごとにその数値が大きくなっていきました。 それだけではないんです。今までに経験したことのないようなチクチクとした眼球の痛みや瞼の刺激痛を自覚するようになってきたんです。

                           

 そして、とうとう2月の下旬の朝には血圧が160ミリを超えて180ミリに迫る勢いとなってきました。神経症の発症以来服用し続けている降圧薬ブロプレス錠とノルバスク錠を決められたとおりにきちんと服用していたにも関わらず、なんです。

 

 「どうしたんだろう、これは」という思いがけない血圧の上昇に、今日の担当医が循環器の専門医である藤崎先生であることを確かめて成田病院の内科を受診しました。病院の廊下に備え付けられた血圧測定器で測ってみると190ミリにも達していて今にも破裂しそうです。

 

 診察してくれた藤崎先生から「昨夜、塩辛いものを食べたり怖いTV番組を観たりしなかったか」と質問されたので「いいえ」と応えました。

  聴診器に依る心音と心電図による心臓の機能検査の結果、血圧の上昇を招くような特段の所見は見つからず「よくある一過性の血圧上昇だね」と診断されて、処方された緊急用の降圧薬を服用して1時間ほど横になっていたら、140ミリに下がっていたので、そのまま帰宅しました。

 

 一方、眼球と眼の周りの詞激痛はいつまで経っても治まることがなく、これは緑内障の点眼薬ザラカム目薬の副作用ではないか、と疑いました。そこで、ネットからザラカム点眼薬の添付文書を探し出して、副作用欄に記された文字を目で追ってみました。

 すると、いくつかの重大な副吾小項目に続けて、その他の副作用欄の中のその他の項に「5%以上の頻度で目の刺激痛」とあり、また、頻度の不明欄には「眼痛、目の異物感」とあり、少なくない人がこの目薬で目の痛みを感じているんだな、と分かりました。

 

 さらに循環器の欄に目を移すと、頻度不明の項に「動機、高血圧」と記されていて、あの血圧が上昇したこともこのザラカム点眼薬が原因ではなかったのか、と疑ったんです。

 しかし、2年余りにわたって何の不具合もなく点眼してきたこのザラカムが、今になって急に悪さをし始めたのはなぜなのか、と何とも不安を掻き立てます。

 

 「何の不具合もなく2年間も使い続けていたのに、今になってこんな重要な副作用が突然に現れるなんて、よくあるのだろうか」という疑問を、ザラカムのメーカーであるファイザー社に聞いてみました。

 

 すると「あなたの身体が変化していることもありますからね」と、電話口の担当者は答えたのです。「自分の身体の変化って、何?」と俄かには理解できなかったけれど、風邪をひいたときとかお腹の調子が悪い時、といったことかしら。

 しかし、例えば糖尿病になったとか、高血圧症になったとか、というように、よほど大きな身体の変化がなければ、190ミリまで上昇するてことはないのではないか、とますます疑心暗鬼になってしまいました。

 

 それはともかくとして、このザラカム点眼薬を使い続けることができないので、別の目薬に代えてもらわなければなりません。成田日赤病院眼科を受診しました。

 

 担当医の戸田先生は「ザラカムというのは、あなたが以前に使用していたキサラタン点眼薬とチモプトール点眼薬を混ぜ合わせたものだから、それぞれの点眼薬を個々に試してみて原因となる方を止めればいい」ということになりました。

 

 その2種類の点眼薬のいずれもが、およそ20年も前から」使い続けていた実績のあるあるものでした。

 

 さて、ザラカム目薬をキサラタン目薬とチモプトール目薬の2つに分けられるけれど、「どちらの方が血圧上昇の原因になっているんですか」と聞いてみると「プロスタグランジン誘導体のキサラタンは角膜や目の痛みといった局所的な副作用が主なもので、βブロッカー製剤であるチモプトールと比べて全身的な副作用を起こす可能性は低い」と答えてくれたのです。

 

 「ではまず、血圧上昇を招く恐れのないとされるキサラタン点眼薬から試してみよう」ということになりました。

 

 ところが、そのキサラタンを点眼し始めて2,3日すると、眼球と眼瞼の詞激痛が起こりはじめ、1週間も経つと再び血圧が160ミリ余に上昇してしまったんです。「こんな馬鹿なことはないだろう」と、ぼくにはちょっと理解ができなくなりました。

                         

 キサラタンは血圧に関与しない、と戸田先生は明言していたし、改めて添付文書を広げてみても血圧の「け」の字すら触れられていなかったからなんです。

 

 一時的な血圧の上昇が再び起きたのだろうと考えて、独断でキサラタンの点眼を1週間ほど中止して気持ちを落ち着かせてみました。以前ザラカム点眼薬のメーカーであるファイザー社の担当者がこの血圧の上昇について「あなたの身体が変化していることもありますからね」と言っていたことを思い出したんです。

 

 「もしかすると、ぼくの身体の中に目のトラブルとは関係のない血圧を上昇させる原因が隠れているのではないか」と、考えるようになったんです。

 

 そこで、現在服用している降圧薬ブロプレス錠を処方してくれた成田病院の内科医、小野先生を受診しました。そして、血圧には関与しないとされているキサラタン点眼薬を選んでもらったにも拘わらず、2,3日の点眼で血圧が160ミリ余まで上昇してしまった経緯を伝えて「ぼく自身の身体の中にその原因があるのではないか」という理由で身体検査をお願いしました。

 

 「そうだね」と了解してくれた先生は、血液内のホルモン検査と心臓の動きを映像で見る心臓超音波検査、通称心臓エコー検査を準備してくれました。「あ、これが身体の変化を探すものなのか」と理解できたのですが、今日はホルモン検査のための採血を行い、その結果が分かるであろう2週間後の水曜日に循環器専門の藤埼先生から心臓エコー検査を受けて、先の血液検査とこの心臓エコー検査の両方の診断を一緒に受けることになりました。

 

 それから2週間後の4月2日、藤崎先生の診察を受けたのですが、冒頭、先生から「血液検査も心エコー検査も何ら異常な所見はない」との報告を受けました。つまり、血圧の上昇について一般的に考えられる甲状腺ホルモンと副腎のアルドステロンにもその所見はなく、また、エコーによる気質的に異常な所見も確認できなかった、というのです。

 

 結果としてはよかったのですが、血圧の上昇を起こすはずのないキサラタン点眼薬に替えても血圧の上昇が起きてしまった理由については、何の解明もできなかった、ということになってしまいました。医学的な原因が見い出せません。

 

 残り少ない視野を維持するためには、眼圧の定期的な測定が欠かせません。3日後、戸田先生の診察を受けて眼圧を測定してもらうと、20ミリ(mmHg、水銀柱)の上限に対して右目が16ミリ、左目が15ミリと思っていたより低かったのです。

 その結果を見た戸田先生は「目の痛みが辛そうだから、少し休薬しよう」ということで1週間ほど点眼を休みました。

                     

  一週間後の4月11日に通院すると「一昨日から戸田先生に代わって水沢が担当します」ということで改めて眼圧を測定すると、右目が18ミリ、左目が17ミリといつもより少し高めの数値でした。

 

 その数字をを目にした水沢先生は「あなたの緑内障は最終段階だから、点眼を止めては絶対にいけない。見づらくなってきたら手遅れですよ」と大きく荒々しい声で叱られました。そんなこと言われても、ぼくの独断で休薬したのではなく、前任の戸田先生の指示に従っただけなのです。

 だから、そんなことを言われても、ぼくは困ります。先生から先生への引継ぎがしっかりとなされていなかったからだと思います。もっときちんと引き継いでください、とぼくは言いたかったです。

 

 そこで先生は「今までに使ったことのない点眼薬アイファガンに替えるから、試してみてください」と言って、自宅にあるエイゾプトとチモプトールに加えて3種類の点眼薬を点眼してください」という処方になりました。

 

 永い間休薬しているぼくを見て、主治医の水沢先生が声を荒げた理由は分かるんです。残りの視野が2割にも満たないのに、奇跡的にもその中心部が無事であるために視界がぼやけることなく、運転免許層の視力検査もパスしていることを詳しく説明してくれたことがあったからです。

 

 ちょっとでも点眼を休めば、いつ見えなくなってもおかしくないほどに視野の欠損が進行しているんだな、と思うと、元気で動ける時間は長くはないな、と感じました。

 

 自宅に戻るなり、初めて使用してみるアイファガン、使ったことはあるけれどあまり効き目のないようなエイゾプト、そして、副作用が全身で感じるチモプトールの3種類を並べて、一つづつ試してみようと思いました。

 点眼日時と副作用が現れた場合のその名前と程度を一覧表にして、まず、アイファガンから始めました。

 

 とても面倒な作業ではあるけれど、何とか安心して使用できる治療用点眼薬を一種類だけでも探し出したかったんです。でないと、失明してしまうのではないかという恐怖に耐えられませんでした。しかし、それは徒労に終わりました。

 3種類の点眼薬のどれもが何らかの副作用を発言して、長期の使用に耐えるものはなかったのです。

 

 そんなバカな。ザラカムも、キサラタンも、アイファガンも、エイゾプトも、そして頼みのチモプトールもと、現代の緑内障治療用点眼薬の主要5種類が強い副作用にために使用することができない、というとても信じられない事態に陥ってしまいました。

 

 「こんなことってあるんだろうか」途方に暮れて、何度もほほをつねってみたけれど、紛れもない現実でした。

                           

 例えばアイファガンは大きな耳鳴りと150ミリ余の血圧上昇、エイゾプトは胃もたれとめまい、チモプトールは徐脈と動悸、といった具合です。水沢先生に報告しても「そんなことあるわけないだろう。我慢しろ」と怖い顔を向けるだけでした。

 

 そんなに怒られても、この副作用がとても我慢できないんです。窮地に立たされて、もう泣きたくなりました。

 

 他の治療法はないものかと、隣町の佐倉市にある東邦大付属の佐倉病院でセカンドオピニオンを聞いてみようと思い立ち、予約を入れました。当日、緑内障に関するこれまでのぼくの経緯を説明すると、担当してくれた中年の眼科医はこんな風に答えてくれました。

 

 「今日の眼圧は13ミリと14ミリで、来rが維持されれば問題ないこと。点眼悪はプロスタグランジン系やβ遮断薬系が基本になるが、副作用ということになれば過剰な拒絶反応が起きていることであり、決して無図らしいことではないこと。いずれの点眼薬も不向きなら手術ということになるが、感染症のリスクもゼロではないこと、と教えてくれました。

 

 プロスタグランジン系というのは、血圧が180ミリまで上昇してしまったキサラタン点眼薬であり、β遮断薬系というのは同期と徐脈を起こしたチモプトールですから、共に二度と使いたくありません。我慢していたら、身体全体が壊れてしまいます。

 

 かといって、手術をしてもらったとしても、点眼治療薬のどれもが使えなくなってしまうほど不穏な状況なので、また、感染症に悩まされるのではないか、と悪い方に考えが向いてしまいます。にっちもさっちもいかなくなって、ご先祖の方にお願いしてみようと思いました。

 

 そこで翌朝、朝のお参りの中で「お父さん、ぼくを助けてください。緑内障の目薬が使えなくなってしまったんです」と声を出してお願いし、頭を下げました。

 ぼくが65歳のときに、ぼくの傍らにいつもいて下さるご霊さまはぼくの父親だと気付いて以来、お願い事がある時は、あえて「お父さん」とお呼びしてお願いするようにしていました。

 

 少し気持ちが落ち着いたところでいつものように、朝刊を取りに玄関先に出て郵便受けから朝刊の端を掴んで引き出したんです。すると、はがき大の大きさに折りたたまれた1枚のチラシがぼくの足元にぽとっと落ちたんです。

                  

 「何だ、これは」と拾い上げてみると、何と、神教真ごころの恢弘チラシ「真ごころライフ(仮名にしてあります)」だったのです。もう、かれこれ30年以上も前に退団したあの神教真ごころの、です。

 

 郵便受けの中で朝刊の上に重なっていたわけだから、どこのどなただか分からないけれど、熱心な信者の人が、ほんの数分前に投げ込んでくれたのでしょう。そのチラシには、その教団の成田支部のことが掲載されていました。

 

 「あ、そうか、父はこの教団に行け、というのだな」と気付いたけれど、あまりの唐突さと、あまりの敏感な反応に気が動転したと共に、またもや真ごころなのか、という思いとが交錯しています。一度退会したことがあるじゃないか、という戸惑いもあって、俄(にわ)かには自分の気持ちを整理できずに、とりあえず妻と朝食を摂ることにしました。

 

 朝食をさっさと済ませて書斎に戻り「父は神教真ごころにいけ、というけれど、2回も同じ神教真ごころの門を叩くなんてどうしてなんだろう。明日で三いいじゃないのか」と自分の本音を口に出すと、あたかもそれを聞いていたかのように、書斎に出入りするガラス戸の枠の上に祀られていた成田さんのお札が「トン」と音を立ててぼくの目の前の床に落ちたんです。

 

 お札の背中部分にi粘着テープを貼りつけて後ろの壁面に固定して、少しの揺れでは落ちないようにしておいたはずなのに、なんです。それを目にしたぼくは「分かりました。教団には今日、行ってきます」と気持ちの中に決めて、その日の午後に出かけることにしました。

 

 昼食を済ませた午後2時頃「ちょっと出かけてkる」と妻に告げて、成田市不動ヶ岡にある神教真ごころ成田支部の玄関前に立深い呼吸をして呼吸をして重い硝子のドアを押しながら「こんにちわー」と声を挙げると「はーーい」という返事が返ってきて、顔を出してくれたのは化粧っ気の全くない細面で60代の年恰好とみられるご婦人でした。

 

 「真ごころライフを見て来ました」と告げると、広い雑談室のような部屋に案内されて、テーブルの前に並ぶ椅子に腰を下ろしました。「渡部と申します」と名を述べるとそのご婦人は「宮田と言います。地区長をしています」といわれ、この地区の教団幹部であることが分かりました。

 

 そしてぼくは、もう三十数年前にも、胃もたれと下痢症状に悩まされて、今日と同じように教団の門を叩いたのですが、徐々に病態が落ち着いてきたので2年少々の期間で退団してしまったことを話しました。

 

 二度めの今日は、緑内障という長年の持病のために使用していた点眼薬のどれもが副作用のために使うことができなくなって、失明への道のりを歩いているのではないか、という不安に苛(さいな)まれてここの門を叩きました、と伝えました。

 

 「分かりました」と言う宮田さんの案内について行き、階段を上って上の階に着くとご神殿が設けられていて、これまた30畳ほどの広い部屋に通されました。そこには30年余も前に安孫子支部にお参りしたときと同じあの金色に輝くご神殿があり、「御光(みひかり)が出ているんですよ、というあの掛け軸も祀られていました。

 

 そのご神殿のお前で宮田さんは、あの時と変わらない浄め祓いをしてくれて「次回にはその目薬を持ってきてくださいね」と言われて帰路につきました。

 

 その帰り道、ぼくはこんなことを考えていました。―――ご霊さまは、目が見えなくなるのではないか、と恐れおののくこのぼくを、2回目となるこの教団への参拝をさせて何をしようとしているのだろうか―――と。

 だから、この教団の言うどんな些細なことにも注意深く耳を傾けてみよう、と思いました。

 

 2日後、漸進的な副作用が最も少ないとされているキサラタン点眼薬を持参して、ぼくは再び、成田支部を参拝しました。対応してくれた宮田さんから身体の浄め祓いを受けている間に、別の信者の方がそのキサラタン点眼薬の浄め祓いをしてくれて「こうすることで中の毒気が消えて副作用が起こらなくなりますよ」と教えてくれました。

                           

 その夕方、毒気を抜いたと言っていたキサラタン点眼薬を久しぶりに恐る恐る点眼してみました。すると、最初の頃と何ら買えあることのない心地よい点(さ)し心地だったのです。「これはいけるんじゃないか」と2,3日続けてみたところ、血圧の上昇や目の痛みが現割れることは全くなかったのです。

 

 「ああ、よかったあ」とぼくは思わず安堵の声を挙げてしまいました。そんな喜ばしいことを伝えようと、あくる日、成田支部を参拝しました。それを耳にした宮田さんが「目薬の毒気祓いが自分でもできるんですよ。3日間の講習を受けてみませんか」と信者になるよう誘われたので、二つ返事で了解しました。

 このあたりの勧誘の仕方は、安孫子支部の場合と同じなことに気が付きました。

 

 もう30年以上も前のこととはいえ、「勝手知ったる講習会」ですから、何の不安も、何の心配もなく3日間の講習を受けて平成26年5月吉日、再び神教真ごころの信者になりいました。

 

 ぼくが信者になってから、というもの、宮田さんは時々、自宅に足を運んでくれて新人信者に対する指導や心構えといったことを教えてくれるようになりました。7月のx中旬でしたか、宮田さんが来宅したとき2階の居間にお通しして雑談を始めると、お位牌の話になりました。

 

 「安孫子のときにお祀りしたお位牌はどこにあるの」と、応接ソファに腰を下ろした宮田さんから問われたので「1階の書斎です」と答えたんです。「ん?」と宮田さんは怪訝(けげん)な顔を向けたので「30年前、安孫子支部の幹部の人が、この2階の居間と続きまになっているわしつに決めてくれたのですが、退団した後にぼくの独断で1階の書斎に移したんです」と答えたんです。

 

 それを聞いた宮田さんは「どうしてなの」とその理由を聞いてきたので「父のご霊さまがいつもぼくの横にいてくれるので、お位牌もぼくの横におきたかったからです」と答えると、その曇った顔色がますます渋い様相になってきたのを見て、ぼくは大変なことをしてしまったのかな、と気付いたんです。

 

 ご先祖の皆さまをお祀りしたお位牌を1階に移したのは、ご先祖の方々に対する「無礼なこと」だったのです。お位牌というものは、現界と霊界の出入り口なのですから、その家の最上階にお祀りするものなのです。

 そのことは安孫子の講習会でも教えていただいたし、今回の講習会でもその話がありましたから忘れていたのではありません。

 

 でも、お位牌は最上階にお祀りしなさいという教義は単なる形式なことで、それが理由でお咎(とが)めを受けるようなことはないだろうと、たかをくくっていたことは事実でした。

 そんなことよりも、愛おしい父のご霊さまですから、ぼくの傍らにいつもいて欲しかった、という気持ちの方がとても強かったからなんです。

 

 世の中を見渡しても、1階に設けた仏間という部屋にお祀りしているお位牌を多く目にしていたからでもあります。でも、それは霊界のしきたりからすると「逆事(さかごと、正論ではないこと)なのかもしれないな、と宮田さんの渋い顔の表情を目にしたら気が付いたんです。

 

 ということは、ぼくが不幸にも緑内障という慢性的な眼病に罹ってしまったことも、使用していた治療用点眼薬の全てが原因不明の副作用を起こして使えなくなってしまったことも、みんな「霊の障り(れいのさわり、霊障)だったのかも知れない、と思えてきたのです。

 

 宮田さんは、そのことについて何も言わずに帰られましたが、月日の経過を振り返ってみました。神教真ごころ安孫子支部を退団したのが昭和60年ですから、お位牌を1階に移動させたのもその頃です。

 

 その時ぼくは40歳でしたから、霊障としての緑内障を発症したのはその数年後から と考えると、その治療の履歴とほぼ符合するのです。ほんとうに霊の障りなんだろうか、そんなことって現実にあるんだろうか。お位牌を2階に戻してみれば、何らかの変化が起きて確認することができるのではないだろうか。

 

 そして、お位牌に向かって「ぼくを助けてください」と頭を下げたら「神教真ごころに行け」と指示されたのは、このことに気付けよ、ということかも知れないな、なんて考え始めたらじっとしていられなくなりました。  

 

 それから数週間が過ぎて宮田さんと顔を合わせたとき、「お位牌を2階に移すための祖霊祀りをしていただけませんか」と、ぼくからお願いしたんです。すると「そのほうがいいですね」と早々と来年平成27年2月8日に決めていただきました。

 

 それに先立って、お仏壇を安置する場所とその向きを考えたときに2階のどの部屋がいいのか、を予め決めていただいて棚の取付工事をしておかなければいけません。その調査のために、宮田さんと成田支部の矢板支部長補佐の二人が1ヶ月以上の前の平成26年12月に来宅してくれました。

 

 2階の居間や和室をうろうろしながら「ここがいいですね」と薦めてくれた場所は、今の北側に位置する和室の北側になる壁面でした。お位牌を陽当たりのよい南方向に向けるのでうってつけの場所です、というのです。

 図らずもその場所は、30年も前に安孫 子支部の幹部が「ここがいいですね」と薦めてくれた場所と同じだったのです。「やっぱり、ご霊さまの居場所は2階のここが一番いいんだな」ということに改めて気が付いたんです。

 

 棚の形と設置場所を示した図面を建具屋に渡して、材料に少し奮発した立派な棚を造っていただき、新年明けての1月31日に所定の位置に設置してもおらいました。

 祖霊祭りに先立って、2月2日には成田地区長という幹部でもおられ宮田さんにご足労いただいて、1階の書斎に祀られていたお仏壇とお位牌を新しく造った2階の棚に移動させる儀式を行いました。

 

 「ただいまからお位牌を移動いたしますので、ご霊さまたちはしばらくの間お位牌からお離れ下さい」と地区長がご先祖の皆さまにお断りをして、お仏壇とお位牌などの一式を、2階に新しく造った棚に移動しました。

 

 その後に、新しく祀られたお仏壇の前で「滞りなく終了しましたので、ご先祖の皆さまはお位牌にお罹(かか)り下さい」とお伝えして、移動の儀式は終わりました。

 

  さて、祖霊祭りに向けてのお供物やお花の準備も整い、予定通り2月8日に矢板補佐の先達により無事に執り行うことができました。「やれやれ」ということで、矢板補佐と宮田地区長をダイニングに案内して茶菓をお出ししたとき、ぼくは思わず「あれっ」と小さな声を挙げてしまったんです。

 

 天井からぶら下がった3つのペンダントライトのうち一番奥のライトが球切れで点灯しないはずなのに、その時に限って明るく輝いていたんです。もちろん、妻にも知らせると「あ、本当だ」と妻も怪訝(けげん)な表情を浮かべていました。

                                                                       

 かつての緑内障点眼薬の全てが使えなくなったトラブルも知らないでいる信者の皆さんにもお伝えしたのですが「へーー、不思議なこともあるもんだね」で終わったのです。でも、当事者のぼくにとっては「ウン、それでいい。お位牌は2階に祀るものですよ」と、ご霊さまが伝えてくれたように見えたんです。

 

 皆さんが帰られたあと、球切れになっていて決して点灯するはずのない一番奥のペンダントがどうして点灯したのだろうか、という疑問を抱いて、もう一度確認してみようと思いました。

 そこで、一度スイッチを消灯にして、再び点灯にしてみたんです。でも、そのペンダントは今までと同じように点灯しなかったし、それ以降も点灯することはなかったんです。

 

 じゃあ、あの一番奥のペンダントが、一度だけ点灯したのはどうしてなのか、ということになります。本当は点灯していないけれども、ぼくの目の錯覚で点灯した、と思い込んでしまったのか、それとも、これもまたご霊さまの超能力によるものなのでしょうか、ということになるけれど、ぼくは後者だと思います。

 

 つまり「お位牌は2階にお祀りする」という教義は、単なる形式的な空言ではなく、まぎれもない「霊界の決め事」だったのです。点灯しないはずの球切れのペンダントを点灯させて、そのことをぼくに教えてくれたのです。

 

 結局、ぼくの左右の両目が緑内障という病魔に襲われたのは、お位牌を建物の1階にお祀りしたことによる「霊に障り」によるものだとはっきり分かったんです。

 神仏に対する無礼ごとによる身体の不調は、首の部分よりも上の部分、つまり、頭とか目といったところに現れる、という教えを裏付けたことになってしまいました。                                                                                                        

 では、緑内障点眼薬の全てが使えなくなって失明の窮地に立たさてしまったことは、何を意味していたのでしょうか。そのことが動機となって、およそ30年前にもお世話になったことのある神教真ごころの門を叩いて再び信者となって、お位牌を2階に移動していただいたことで「うん、これでいい」と言わんばかりに球切れのペンダントを点灯してくれたんだな、と理解したんです。

 

 ということは、お位牌の祀り方の間違いを厳しく叱責してくれたんだ、ということに気が付いたんです。

 

 つまり、先祖代々のお位牌を1階の書斎に祀っていたというぼくの身勝手な行動が多くの先祖霊の怒りをかって、霊障としての緑内障を末期の状態に近づかせたのです。そこで、父のご霊さまが点眼薬の全てを使えなくするという荒業を仕掛けてぼくを狼狽(ろうばい)させ、もう一度真ごころの信者になるよう導き、地区長である宮田さんの表情から1階に祀ったお位牌を2階に移すよう仕向けられたのです。

 

 そして、多くの先祖霊の憤りを鎮め、これ以上緑内障が進行して光を失うことのないよう、ギリギリのところで助けてくれたのです。ああ、なんてありがたいことでしょう。

 

 でも、とても不思議なことがあるんです。およそ40年も前に何をしても良くならない胃もたれと下痢に悩まされて神教真ごころの門を叩いたのは、郵便受けに投げ込まれていたこの教団の恢弘チラシに誘われて、でした。

 

 また、今回の緑内障点眼薬の全てが使えなくなって窮地に立たされていたときも、同じ教団の恢弘チラシが玄関先の郵便受けに投げ込まれていたんです。それを頼りに同じ神教真ごころの門を叩いて再び、信者になったのですが、その教団の一つの教義というものが、お位牌というものは自宅の2階という最上階にお祀りするものですよ、ということだったんです。

 

 つまり、「お位牌は2階に祀る」 という教義を2回も無視していたことに対して、強く「念を押された」ように見えました。

 

 先祖霊の正しいお祀りの仕方、というものを知っているのに実行しないでいると、取り返しのつかないことになってしまうことを、ぼくはまざまざと体験してしまいました。

 

 でも、2回ともタイミングよく真ごころライフという恢弘チラシが我が家の郵便受けに投げ込まれていたのは、どうしてなんだろう、と考えてみると、霊界の決めごとである「お位牌は最上階に祀る」ということを教義にしているのは神教真ごころの他にはないのではないか、と思えるんです。

 

 しかも、霊界にいらっしゃる父のご霊さまは、現界に存在するそのような神教真ごころのことを既に知っていたのではないだろうか、としか言いようがありません。だからこそ、真ごころライフという恢弘チラシを我が家の郵便受けに、タイミングよく、2回に亘って、投げ込まれたのですが、それをなさったのは父のご霊さまに違いない、と思うんです。

 

 とても信じられないけれど、霊界のご霊さまが現界に生きる人の気持ちを操るのは、難しいことではないことをぼくは知っているからなんです。

 

 

 でも、お祀りするお位牌の位置や向き、高さ、あるいはお仏壇の中を明るくする、と言った細かなことを教義にしている宗教団体は、本当に神教真ごころだけで他にないのでしょうか。

 とはいっても、ぼくは宗教家ではないし、いろいろな宗教の研究者でもないので、宗教界全体を俯瞰して眺めることはできません。

 

 そこで、ネットを利用して主要な葬儀屋さんが唱えるお位牌の祀り方とか、近所にある仏具屋さんとの会話を通じてその辺りを調べてみました。

 

 お位牌をどの方向に向けるか、については、南面北座説という南方nお上に載せて向に向に向ける説と、西方浄土説という東に向ける説に加えて、春夏秋冬説という向ける方向に違いはない、といういくつかの説があって、宗派による違いはあるようです。でも、信仰する宗教を持たないぼくにしてみれば、向ける方向に違いはない」ということに受け取りました。

 

 お位牌を設置する高さについては、座したときの目の高さよりも、あるいは、胸の高さよりも高い位置になるように、といわれており、床置き式のお仏壇は、適切な高さの台の上に載せるとよい、と記されているだけでした。

 

 一般的には座布団の上で正座の姿勢になってお参りするでしょうから、そのときの目の位置よりも上になるような位置にご安置することでよろしいと思います。

 仏具屋さんの店内で多くの仏壇を見せて頂いたり、お話を伺ったりしても、これでなければいけない、という決まりはないようなので、今は亡きご先祖の方々の現界への通り道であることを忘れなければよろしいのではないか、と思います。

                 

 お位牌を祀るお仏壇を安置する建物の階についても、1階でも最上階でも差し支えないとの記述もあり、自分たちが食事をする階と同じだとお供え物を運びやすいなど、お参りし易い階をお勧めします。

 

 また、お仏壇の中を明るく照らす照明についても決まりごとはありませんが、その照明があることによってとても明るく、厳(おごそ)かな′雰囲気が漂うお仏壇になることは間違いありません。

 

 このように見てみると、お仏壇はその建物の最上階にお祀りしなさいとか、その中を明るく照らしたり、お位牌を安置する橋に高さを、立位での目の高さよりも高くする、と言ったことをきちんとした教義にしている神教真ごころという宗教団体は、とても稀有な存在なんだな、と分かりました。

 

 だからと言って、これが「故人の正しい祀り方」なのかどうかは判断できないけれど、多くのご先祖の方々がこのお位牌を通って出入りしていて、しかも、お食事までも召し上がってくれている事実を体験してしまうと「これがk霊界の決め事であり、ご先祖ん皆さまが大変喜んでおられる」ということになるのではないかな、と思えます。

 

 ぼくが今まで生きてきて、ご先祖さまの祀り方という話題の中で、お位牌というものは故人の霊魂が宿る依代(よりしろ)としての役割に加えて、霊界と現界との出入り口になっている、というようなことを耳にしたことが一度もなかったからなんです。

 

 だから、胃もたれや緑内障という霊の障りに苦悩しているぼくの姿を見ていた父のご霊さまが、2回も名指しして「神教真ごころに行け」と導いてくれたのだから、偶然の出来事ではなかったことに間違いないんだろう、と思います。

 

 しかし、お位牌を建物の1階部分にお祀りしたり、中に照明器が取り付いていなかったりして真っ暗なお仏壇も広く出回っているので、それを購入した人も多いはずです。でも、ぼくのように辛い戒(いまし)めを受けた人は、たぶん、いらっしゃらないと思います。

 

 ぼくだけだと思います。なぜなら、ぼくの場合、お位牌は2階にお祀りするものですよ、という霊界のしきたりを知っていたからなんです。知っていながら、それに従わなかったからだと思います。その辺りは、もう、お見通しなんです。

 

 つまり、独断という自分だけの都合で1階にある書斎の片隅にご安置してしまったことが霊の障りになってしまったんだろうと思います。父のご霊さまが出て来られてとても愛おしかったから、という理由とは言え、霊界のしきたりがこの世のものとはまるで異なる世界である、ということに気が付かなかったからです。その部分はとても反省しています。

 

 それから半月ほどが過ぎた平成27年2月28日の夜の11時過ぎでした。ベッドの上でうとうとしていると、突然「ポー―っ」というサッカーの試合中に鳴り響くホイッスルのような音が聞こえてきて目を覚ましました。

                                                                       

 すると、隣室の書斎からサワサワとした多くの人々が行きかうような音が来たので、じっと耳を欹(そばだ)てていたけれど数分ほどで聞こえなくなりました。

 

 帰るべきお位牌がその近くにはなかったので、多くのご霊さまたちが困惑しているんだな、と思い、翌日「お位牌は2階の和室に移しました」と書き記した張り紙を、今までお仏壇をご安置していた場所の壁に張り出したんです。

 

 すると、その夜の11時頃でしたか「パチッ」という木片をへし折ったような大きな音に目を覚まされたのですが、昨日とは打って変わって「2,3人かな」と感じられるほど少ない人数のご霊さまのようでした。

 

 「あ、あの張り紙を読んでくれて、多くのご霊さまが2階に行かれたんだな」と感じ取れてうれしくなりました。すると、次の日からは夜中に目を覚まされることはなくなりました。

 

 

 眼球を丸い形に保っている眼圧(がんあつ)が様々な理由で高くなり、視神経を圧迫することで視野の欠損を引き起こすのが緑内障という慢性疾患なのです。その中でも、眼圧が正常値であるにもかかわらず視野の欠損を引き起こすのを正常眼圧緑内障というもので、これが長きに亘ってぼくを悩ませ続けているのです。

 

 従って、適切な点眼薬を使う等して眼圧を20mmHg、いや、できるだけ15ミリ以下に下げて視野の欠損を食い止めなければならないのです。その治療法によって視野の欠損が進行していないかの確認は、3ヶ月ごとに行われる視野検査によって行われます。

 

 お仏壇を2階に移して以来、処方されている点眼薬は副作用を起こすことがなくなったキサラタン点眼薬一種類だけにしています。

 

 眼圧は15~18ミリと少し高めに変化しているものの、それから3年余経った今でも、視野の欠損が進行したという所見はありませんでした。ただ、視野の広さは数値ではなく

図形で示されるので「大きく変わっていませんね」と言われていました。

 

 8割以上の視野が欠損していてこのままいけば必ず失明する、と告げられてから久しいのですが、自動車の運転免許もはく奪されずにいられるギリギリのところで生かされています。

 

 緑内障治療用点眼薬のどれもが使えなくなってから約3年が過ぎた平成29年7月、ぼくと妻は、再び神教真ごころを退団しました。理由は前回と同じように「目的を果たしたようだ」という思いが強くなってきて、教団の信者でいる意味を失ってきたからです。

 

 過ぎ去った日々を振り返ってみました。ぼくは30歳半ばからの約30年の間に2回も神教真ごころの門を叩きました。何をしても良くならなかった胃もたれと下痢に悩まされたときと、緑内障の点眼薬のどれもが使えなくなって失明の不安に苛まれたときです。

 そして、そのいずれのときも、どういう訳か教団の恢弘チラシ「真ごころライフ}がぼくの目の前にあったんです。

 

 そして藁(わら)をも掴む思いで神教真ごころの門を叩き、神さまの関する講和を聴き、幹部連中の指示に従いながらお位牌を2階の「特等席」と言われる南向きの壁面にお祀りさせていただきました。

 

 そのことによって、どうにもならなかった胃もたれと下痢症状が穏やかになっていき、緑内障の点眼薬による副作用も起きなくなってきたんです。でも、それだけではないんです。

 

 ある日、家族4人でお参りをしていました。すると、どこからともなく現れた手のひらを広げたほどの大きさと、それより少し小さな大きさの円形をした薄黒い影の2つが現れて、壁を上ってそのお位牌に吸い込まれていきました。これを目にしたのは、ぼくと小学校3年の長男だけでした。

 

 「何なの、これは」ととても驚きましたが、人が亡くなっても、その故人の思いとか姿までのすべてが消えてなくなってしまうのではない、と、ぼくは認識しました。人が亡くなって荼毘(だび)に付されても、「人の思い」という心の部分は薄黒い影となって、いつまでも生きておられるんだな、と感じ取りました。

 

 だから、自分たちと同じように、ご先祖の皆さまにも毎日のお食事をお出しすることがとても大切なことが分かります。

 

 これらの体験から分かることは、現界に生きるぼくたちが健やかで楽しい生活を送るには、なきご先祖のお位牌を建物の最上階にご安置して、毎日の食事をお出しすることがとても大切なことだと、教えていただきました。

 

                             終わり―――――――

 

 

 

 その8 PCが教えてくれた妻の脳卒中

 女房がコーラスの仲間と一緒に万座温泉の一泊旅行に出かけるというのです。「じゃあ、ぼくも近くのホテルに泊まってゆっくりしようか」と思って、PC(パーソナルコンプーター)のANAホテル宿泊申し込み画面から申し込もうと必要事項を入力しました。

 ところが、どういう訳か申し込み確認画面は受け付けてくれなかったんです。

 

      >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

 

 平成26年5月13日の火曜日から15日の木曜日までの2泊3日の予定で、妻が、その粗属するコーラスグループの仲間たちと一緒に群馬県の万座温泉にでかけてくる、と聞いていました。                    

                                          

 ならば、一人で留守番薬のぼくも「たまにはちょっとリッチなホテルに一人で外泊してみようかな」と、12日の晩、割引の宿泊プランを実施している近隣のホテルはないものか、とネットを開いてみました。

 

 すると間もなく、成田空港のを近くにあるANAクラウンプラザホテル成田が、5室限定の50%割引プランを実施していることを見つけたんです。

 

 予約状況を見てみると「空室あり」と出ていたので「よし、これにしよう」ということで、申し込み画面の宿泊にのお欄に「5月14日」と記入して、氏名や連絡先の電話番号といった必要事項をもれなく記入しました。

 

 それらの記入内容に間違いがないことを確認して「よし、これでOK」とばかりに確認が面のボタンをクリックして最終確認が面を確かめようとしました。ところが、確認画面に切り替わらなかったんです。

 

 普通このような場合、帰路変わらない理由が表示されるのですが、それが見当たりません。「あれ、どうしたんだ」ということで、記入した必要事項の内容に抜けや間違いがあるのかな、と再確認したけれど、それはありませんでした。

 

 そこで再び、確認ボタンをクリックしてみたのですが、やはり、確認が面には切り替わらなかったんです。

 

 「何でなの、どうしてなの」とぶつぶつ言いながら、今度は連絡先電話番号の市外局番と個別番号の間にハイフンを入れたり、氏名のフリガナをカタカナからひらがなにしたりして何度か確認が面への切り替わり作業をしてみたけれど、切り替わることはありませんでした。

 

 「何か、いやなことでもおこらなければいいがなあ」と不安に駆られながら、14日の一人ディナー付きの外泊を諦めました。

 

 そして、翌13日の朝、近所に住むコーラス仲間の村井さんらと連れ立って手を振る妻に「気を付けて行ってきなさいね」と声をかけて送り出しました。ホテルでの今夜の一人ディナーを諦めた代わりに少し奮発した夕食にしようと近隣のレストランに入り、お刺身定食と恵比寿ビールを食してゆっくりとした気分で寝床に就きました。

 

 翌14日の朝はいつものように起床して、一人朝食を済ませ、ニッカニシテイルウォーキングで町内を一回りして机に向かいました。すると、午前の19時半ごろ

沖電話が鳴りました。

 誰だろうと電話に出てみると昨日、妻と連れ立って出発していったコーラスグループの村井さんからでした。

 

 息せき切った声で「奥さんが脳出血を起こしてホテルで倒れた。今、群馬大学の附属病院に入院しているけれど、手や足も動かないし、会話もできない」と伝えてきたのです

 

 「ええー、ウチの加代子が…」と耳を疑ったのですが、同時に、一昨日の確認画面に切り替わらなかったというPCのトラブルはこの前兆だったのか、と青ざめました。どうやっても確認画面に切り替わらずに、AANAホテルの外泊を諦めざるを得なかったのは「外泊などしているときじゃないよ」という事前通知だったんだ、と気が付いたんです。

 

 いったいどなたが、ANAホテルの外泊を諦めさせてくれたのでしょう。もし、ノーマルに画面が切り代わって宿泊でもしていたら、村井さんからの第一報は聞きそびれていたに違いありません。

 その結果、夕方あるいは明日にでもその第一報を聞こうものなら、その後の状況が大きく変わっていたでしょう。なんというスピーディな連絡なんでしょう。

 

 その電話を切るや否や、身支度を整えて引き出しの中にあった10万円余の現金を財布に突っ込んで、群馬大学付属病院が群馬県前橋市昭和町にあることを調べてそこに向かいました。新潟に住んでいる息子にもその旨を伝えて、上越新幹線の高崎駅で落ち合うよう申し合わせました。

 

 ぼくも息子も、だいたい同じ時刻頃に高崎駅に着いて、群馬大附属病院には夕方の5時ころに到着しました。その足で妻が入院している病室に向かいました。 8階にある脳神経外科SCU(Stroke Care Unit 脳卒中集中治療室)に案内されてベッドの上に横たわる加代子の姿を目にしたとき「えっ、これが加代子か」と疑うほど痛々しく、別人のような様相に驚きました。

 

 意識はあるものの、右目、右眉、右頬そして唇の右側といった顔面の右側の造作がことごとく垂れ下がっていたのです。口を開けてしゃべろうとするけど、聞こえてくるのは「あうあう」という雑音だけでした。

 右手、右足もその付根のところから指の先までもがまったく動かすことができない状態でした。

 

 看護士がぼくのすぐ横に近づいてきて「14日の朝5時ころに起床して友達と一緒に朝風呂に行き、湯舟から上がり、浴衣を着ていた時に気分が悪くなって部屋に戻ろうとした途中で『救急車を呼んでください』とその友人に告げてた途端に倒れ込んだようですよ」と説明してくれました。

 さぞかし、本人はずいぶんと怖い思いを下だろうな、と想像します.                                       

                                                    

 後日、村井さんから断片的な話を聞いて、それらをつなぎ合わせるとこのようにして群馬大附属病院に運び込まれたようです。つまり、1800メートル余の標高にある万座温泉からJR吾妻線の羽根尾駅の近くにある西吾妻福祉病院までの約20数キロの見知海苔を救急車で搬送されました。

 

 その病院には運よく脳神経外科医が在籍していたのですぐさま脳出血と診断されたのですが、緊急時の開頭手術を行う設備が整っていないためにドクターヘリの出動を要請して群馬大附属病院まで移送したのだと分かりました。

 

 そんな緊迫した状況を思い浮かべたぼくは、あんな山奥の温泉地で急病に遭った妻が、わずか3,4時間で国立の大学病院に搬送された、というそのスピーディな連係プレーに「よく、助かったものだ」ととても驚きました。

 

その日の宿泊は、病院のスタッフから紹介された、病院から徒歩で5,6分の距離にある1DKの間取りで素泊まりが1泊2500円という木造のアパートでした。ほかにあてのないぼくは、その一室を長期に借りる契約をすると共に、その晩は息子と何十年ぶりかに枕を並べて就寝しました。

 

 翌15日も群馬大病院に行くと、主治医の梶原先生から現在の病状と今後の見通しについて話を聞くことができました。机上に置かれたA4サイズのPC画面に映し出された妻の頭部CT画像を指で指しながら「この左側にい映る白い部分が脳出血を起こしたところです」と説明されました。

 

 目を近づけてよく見ると、頭の断面の中心部近くに丸くて白っぽく打つ打った部分がありました。「直径が3センチほどの比較的小さな出血ですが、このまま出血が増えるようなことがなければ開頭は必要ありません。ただ、見てわかるように、頭の中心部にある視床(ししょう)という皮膚の痛みや痒みといった皮膚感覚や手足の運ぢう感覚を伝える部分の近くなので、これから行われる3日ゲッツあまりの急性期のリハビリで、それらがどれほど回復するか、がカギになってきます。

 

 うまく回復しなければ、皮膚科んっかうが戻らないばかりか、車いすになるかも知れません」という先生の言葉にぼくは身構えました。

 

 血圧の変化と止血の状況を観察するために2日間ほど安静にしていた妻ですが、翼にいるぼくに向かって「わたしは寝たきりになってしまうんでしょ。本当のことぉ言ってよ」と今抱いている不安を問い詰めtrきたんです。

 

 「大丈夫だよ、誰もそんなこと言ってないよ」と言う返事が、ぼ億のできる背一杯の返事で敷いたが、そのような意味のある会話を交わせるようになった妻を目の前にしてぼくは、暗雲垂れ込める中でも一条の光を目にした思いでした。

 

 そして翌16日の午後、健保の限度額適用認定の申請とぼくの緑内障の定期検査を受けるために一時帰宅しました。仕事を持つ息子もその日に帰宅しました。

 

 その晩、ぼくは自宅でこんな夢を見たんです。―――――金色の布で作られた底の部分が四角い籠巾着(かごきんちゃく)を手にした妻がさっそうと歩いてきました。そして、右の手のひらをその巾着の中に入れてピカピカと輝く金布の裏側から遊部先を当てて「きれいでしょ」と言わんばかりにニコニコしていた――――というものでした。

 

 その夢から覚めたぼくは「あ、加代子は手も動き、足で歩けるようになるよ」と、そっとご霊さまがぼくだけに教えてくれたのではないか、と思い、それからというもの、そんな淡い希望を抱くようになりました。

 

 そんななか18日に群馬大学に戻ると、19日からリハビリを始める、と聞きました。言葉の方は何とか会話ができるようになったものの、右手も右足もぶらっとぶら下がったままで、動かkすことができないだけでなく、痛い、痒い、と言った皮膚の感覚もほとんど感じないままだ、と漏らしていました。

 

 加代子のあの手が、あの足が、以前のように動くようになるだろうか。あの野球選手だった名がsh真茂雄さんが脳梗塞で倒れたのを知っています。あり余るお金をつぎ込んで専属の理学療法士や栄養士らからありとあらゆるリハビリを受けてきたと思うのですが、右手はいつもポケットに入れたままだし、歩くこともままならないようです。

 

 また、お笑い芸人の桜金蔵さんだって同じです。脳出血のために開頭手術を受けて成功した、と言われている彼ですが、まだ動かない足を引きずって要介護の生活を強いられているようです。

 

 

 このような実例を目にするとついつい悲観的な思いに負けそうになりますが、あの夜に見た金糸でできた巾着の夢の中で感じた「妻の手と足は動き出すかもしれない」という淡い希望を胸に秘めて、リハビリに挑んでいる妻を見守っていきたい、と思うぼくでした。

 

 さっそく作業療法士(PT、Physical Therapist)と言語聴覚士(ST Speech-Language-Hearing Therapist)によるリハビリが始まり、見学させてもらいました。

 まず、、たかはしさんというPTが身長162センチと大柄の妻を書か抱えて、プロレスのコブラツイストのような恰好で右側胴体を大きく左側に反らしている姿が目に入り、少々驚きました。

 

 後で聞いてみると、手にしろ足にしろ脳卒中の事後というのは、緊張している筋肉を大きく伸ばすことで痙縮(けいしゅく)という筋肉の縮み込みを防ぐことがリハビリの第一歩なんですよ、と教えてくれました。

 

 あ、い、う、え、おの発声をオルガンのメロディーに合わせて唄を唄いながら言葉のリハビリをするSTによる言語発生訓練も始まりました。1週間前には「あうあう」という音しか出せなかった妻が、少しづつ言葉が出るようになってきました。nいゆうやけいろのすいまが

 

 27日に群馬医大に戻りました。上越新幹線の高崎駅で上越線に乗り換えて次の駅で下車する少し前、電車の出入り口のドアの横に立っていたぼくは、黄色く染まってきた西の空をドアのガラス越しに何げなく眺めていました。

 

 そのうちに、夕焼け色に輝く西空に黒い雲が近寄ってきて、何だかその雲の動きに目を離せなくなったんです。あれよあれよ、という間に黒い雲が寄り集まってきたと思ったら、黒地の中に夕焼け色のすきまができてきたなあ、と目を凝らしていると、なんと、アルファベットのK(けい)と読める切抜き簿記になったのです。

                                                          

 「え――、加代子のKだよ」と小さな声を挙げたぼくは、その様子を手帳にスケッチしておきました。それが上に掲げた絵です。まさか妻加代子に向けた応援現象ではないと思うけれど、あまりにも壮大な黒雲の振る舞いにとても驚きました。

 

 いったいどなたがこんなことを、と思ったけれど、単なるぼくの目に映った錯覚だったのかもしれない、なんて思ったりするんです。なぜなら、ぼくの両目は緑内障に侵されていて、かすんだり、涙目になったりと、朝から晩まで眼のトラブルに悩まされているからです。

 

 妻の病態も2週間余となる急性期の状態も安定してきたので、6月早々には自宅近くのリハビリ施設に移って回復期のリハビリを受けてください、途の案内がありました。自宅のある成田氏の近くにはそのようなリハビリ施設が2か所あるのですが、自宅から車で30分余で行ける佐倉市の佐倉厚生園病院に決めました。

 

 この佐浦厚生園は、昭和17年に結核の診療所として創設されたものですが、結核に対する治療の進歩によってその必要性がなくなり、平成21年にその目的を終了して、同年の7月に脳卒中患者の回復期リハビリ病棟として再出発したものです、と説明されました。

 

 5月31日にぼくは自宅に戻り、翌6月1日に厚生園に足を運び入院の手続きとあいさつを交わして院内を見せて頂きました。

 

 6月5日、ぼくが同乗したハイルーフ型ワンボックスバンの荷台のスペースに妻を寝かせたベッドを固定した輸送車は、群馬県前橋市の群馬医大を朝8時に出発し、関越道を南下して一路佐倉厚生園に向かいました。

 昼過ぎの1時半には厚生園の門前に到着し、約5時間の輸送料金は高速代別で6万円でした。

 

 

 さあ、これから約半年間にわたる回復期のリハビリが始まります。果たして妻の右手と右足は以前と同じように動くようになるのでしょうか。一生、車いすの生活になってしまうのでしょうか。痛い痒いといった皮膚感覚が元に戻り、滑舌のいいあの言葉遣いも依然と同じようになるのでしょうか。いくつもの不安が横たわっています。

 

 振り返ってみれば、とりわけ健康には気を使っていた妻でした。むしろ、ぼくの無頓着さに苦言を言うほどでした。机から離れないぼくを見れば「身体を動かshなさいよ」とウォーキングを勧めてくれたり、塩分や糖分を抑えた味付けに不満を言えば「お出汁が効いておいしいのよ」と取り合ってくれないこともありました。

 

 「普段の血圧だって130前後よ」と自慢していた妻が、どうして脳出血を起こしたのだろうか。脳内の血管が切れて血液があふれ出る脳出血の原因には、普段から血圧が高めの高血圧症のものや先天的に血管の弱い部分がある脳動静脈奇形などいくつかあるようですが、妻は前者の高血圧によるものだと診断されていましたが、「本当だろうか」とちょっと気になるところがあります。

 

 まあ、今となってはよく分からない原因でしょうから、普段から血圧が高めだった、としておけばどなたにも当てはまるからでしょう。

 

 それよりも、もっと気になることがあったんです。それは、妻がこの脳出血を起こした時期というのが、ぼくが長年使っていた緑内障点眼薬のどれもが強い副作用を起こすようになって使えなくなってしまった時期とほとんど同じ時期だったことなんです。

 

 目薬のトラブルによってぼくの血圧が上がりはじめ、今まで何の問題もなく点眼していた緑内障て丸薬のどれもが使えなくなって、右往左往していたのが平成26年の4月下旬で、妻が脳出血を起こして倒れたのが同年の5月14日と、その時期が1ヶ月も満たない期間内で起きていたからなんです。

 

 しかも、ぼくの緑内障はめのぶぶんで、妻の脳卒中は頭の中という、いずれも人の身体の首から上の部分なんです。首から上に部分移管するトラブルというのは神仏に対する無礼ごとが原因になることが多い、ということを神教真ごころの幹部から聞いて知っていました。

 

 その「神仏に対する無礼こと」と言うことを自分はしているのではないだろうか、と過ぎ去った過去を振り返ってみました。すると、思い当たることがあったんです。

 

 目に見えないことなので「まさか、そんなことで」というところもあるのですが、妻の脳出血も、ぼくの緑内障の目薬トラブルも、お位牌に対する無作法による」霊の障(さわ)りではないか、と思えてきたのです。

 共に首より上にある身体の一部だし、その2つが発症した日がとても近かったからです。こんな不幸なことが夫婦二人の身体に重なって起こることなんて、確率的に言ってめったにあることではないだろうと思うのです。

 

 つまり、ぼくと妻に起きたこれら2つの出来事は、偶然に起きたことではないんじゃないのか、言葉を代えれば起こるべくして起きたこと、ではないのか、と思えてきたんです。

 本当にそうなんだろうか、と時の流れに沿って確かめてみました。

 

 

―――お位牌は建物の2階にお祀りするのですよ、と教えていただいたにもかかわらず、ご霊さまが自分の身近にいてほしい、という自分の独断と偏見によって、1階の書斎にお祀りしtのが、確か、真ごころを退会したのと同じ時期の昭和59年ころだと思います。

 

 そして、進行した緑内障が発覚したのが昭和の終わりころの昭和62,3年の頃だと記憶して言います。そして、緑内障の主だった目薬のどれもが使えなくなって「ぼくを助けてください」と亡き父にお願いしたところ、「真ごころに行け」というような文言な伝わってきて、再び、神教真ごころの門を叩いたのです。

 

 そのようにして、再び真ごころの信者になったのが平成26年の5月25日で、世話役をしてくれた宮田さんと雑談を交わす中で、お位牌を一階にお祀りしていることが霊の障りになっていることに気付かされたのです。

 

 だから、ぼくの緑内障治療目薬のどれもが使えなくなったのも、妻が平成26年の5月14日に脳出血で倒れたのも、お位牌を祀るのは身近な1階の方がいい、と思い込んでいて、勝手にそのようにしていた時期だったのです。

 

 そして、お位牌は2階にお祀りしなければいけないのではないか、と気付いた5月25日以降の状況を見てみます。6月6日から佐倉厚生園でのリハビリが始まり、院長とST(言語聴覚士)による面接の中で簡単な足し算や引き算をしてもらったところ、認知障害の所見は見当たりませんでした。

 

 続いて、8日には右手の指先の感覚がかすかに感じ利用になって来たけれど、動かせるような動作には至らなかったし、右吾日もまったく動かすことができなかったので車いすでの移動を余儀なくされました。

 

 ところが、それから2,3日経つと、意味のある会話が滑らかな舌使いでできるようになり、12日の朝礼の時に出された書類の小さなサイン欄に、妻自らボールペンを握って記名をした回復ぶりには、周りのPTらをっとても驚かせていました。

 

 いままでは幼稚園児が落書きしたような大きな文字しか書くことができなかったのが、14ポイントほどの小さな文字も書けるようになっていたからなんです。

 

 また、横軸に経過月数、縦軸に機能の回復程度をプロットした機能回復曲線を描いてみると、5月は特段の変化はなかったものの、6月の1ヶ月という短い期間内にあれよあれよと滑舌がよくなり、箸を持つことも出来るようになるなど、今までにないような速さで回復していきました。

 

 さらに、6月の末には4本の足のついた四点杖を使って一人でも歩けるようになり、7月に行われたARTとよばれる右手の機能評価テストでも、まったく動かすことができなかった右手が、健常者で80~100という範囲に対して45という健常者の半分ほどのレベルまで回復してきました。

 

 正直言ってぼくは驚きました。立ち会ってくれていた病院スタッフたちもとても驚いていました。こんな短い時間に、これほどまでに回復するなんて想像すらしていませんでした。

 

 それだけではないんです。ぼくの緑内障についても、急に血圧が上がったりしてどれもが使えなくなっていたのに、1階にお祀りしていたお位牌を「2階に移したほうがいいな」と思ったことで、点眼薬のどれもが使えるようになり、血圧の上昇もなくなってきたのです。

 

 実際にお位牌を2階に移動させたのは、次の年の平成27年の2月8日だというのに、です。

お位牌は2階に、と自分の気持ちを改めただけで自分の身体の状態が変わってしまったんです。

きっと、自分の気持ちの持ち方が、霊界にいらっしゃるご霊さまのお気持ちまで変えてしまう、ということでしょうか。

 

 「そんな作り話みたいなこと…」と思われるでしょうけど、事実なんだからそのように表現するしかありません。

 

 その後も順調に回復している、とは言われるものの、右手と右足の皮膚感覚はほとんど戻ることがなく、手足を動かすという機能回復の順調さとは裏腹に、不快な痺れというものが加わって来たようでした。

 

 そんな中にあっても、平成26年5月14日に万座温泉で倒れてから約6カ月の治療期間を経て、11月1日に自宅に戻ることができました。

 もちろん、自宅には介護保険の補助金を利用して、浴槽のへりをまたぎ易くした浅目の浴槽に交換しただけでなく、部屋の出入り口を始め廊下や階段、あるいはトイレといったいたるところに手すりを設置しておきました。

 

 それを目にした妻が、溢れんばかりの笑顔をぼくに向けて「これなら安心して暮らせそうです」と再出発に向けての穏やかな表情を見せてくれるだろう、という思いでした。 

 

 毎月のように何人かの患者が退院していきますが、脳卒中の片麻痺が回復しなかったのでしょう、三角巾で腕を吊ったままの人や装具を承着した足を引きずる人、あるいは、車いすに乗ったまま家族の人に押されていく人も決して珍しくありません。

 

 そんな中での妻はと言うと、ぼくが5月16日に群馬医大から自宅に一時帰宅したその夜に見た夢に出てきた、あの金色の布で作られた籠巾着(かごきんちゃく)を手にしてさっそうと歩いていた妻の姿を彷彿とさせるもので、その時から抱いていた「妻は再び歩けるようになるよ」という淡い思いが現実になったのです。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 40年以上にも及ぶ喫煙が肺の姿を真っ白に映すほどに自分の身体をむしばんでいた事実を、目の前にいる医師の口から聴かされたことで、とてつもなく大きな衝撃を受けたのです。

 

 事務所に戻るや否や、封を開けたラークメンソールの箱やストックしておいたハイライトを見ん吾ごみ箱にねじ込み、ライターから灰皿まで目に触れるすべての喫煙関連hんを、目の届かないところに仕舞い込んだんです。

 

 そんなぼくの行動を奇妙な目で見ていた妻が「どうしたの」と聞いてきたので「おれ、今日限りでタバコを吸わないことにした」と伝えると、「何度聞いたセリフかしら」なんて薄笑いを浮かべていたんです。

                            

 そんな妻の薄笑いとは裏腹に、それ以来ぼくは、たった一本のたばこすら口にすることがなかった、というよりも、口にすることができなくなってしまったんです。吸いたいという気持ちがなくなってしまったんです。

 

 いいえ、それだけでないんです。たばこの箱や灰皿に手を触れることさえもできないほど、たばこというものに嫌悪感を抱くように変わってしまったんです。突然に、なんです。

 

 「何を馬鹿なことを言ってるんだ」と思うかもしれませんが、本当なんです。世にいう禁断症状なんてまるでないまま、それ以来ずっと、たばこを口にすることも、吸いたいと思ったこと も、あのいい香りを思い出すことも、まったくなくなってしまったんです。

 自分でも「どうかしちゃったのか」と信じられないんです。

 

 そんな経緯(いきさつ)を知らない妻は「あーら、よくタバコを止められたわね、偉いわね」なんて半分茶かしながら云うけれど、ぼくは他人から「偉いわね」なんて言われるほど努力をしたわけではないのです。

 

 早い話が「あなたの肺がまっ白ですよ」と告げられたら、その言葉が「この先、永く生きられないよ」という脅し文句に聞こえたんでしょう。あのたばこの虜(とりこ)状態から一瞬にして、たばこ大嫌い人間に180度変わってしまったんです。 

 

 でも、よく考えてみると、それはこの世における眼に見える世界での話だと思います。確かにsの先生は「あなたの肺がまっ白だよ」といって、ぼくの今の状態を説明してくれたことは間違いありません。

 

 でも、肋骨の一部が痛いと受診した患者に向けてそんなことを言うでしょうか。余談として「ちょっとたばこを控えた方がいいですね」くらいならまだしも、少し唐突過ぎたんです。なぜなら、少し前に診てもらった成田整形の先生は、何も言ってくれませんでしたからね。

 

 つまり、この先生にそれを言わせた人が別にいたのではないか、と思うのです。というのは「肺がまっ白だよ」と言われてわき目も振らずにたばこの空き箱や灰皿を目に触れないところに仕舞い込んだのですが、やれやれと一息ついたとき、あれほど痛かった肋骨の痛みがすっかり消え伏せていたからなんです。

 

 いくら立派な医者と言っても、言葉一つで痛みを亡くしたり、たばこを吸えなくしたりするなんてことは、魔法使いじゃあるまいし、あり得ないことです。

大方の人は、「もう少し様子を見て」とか、痛みが引くのをまったりして「少し、禁煙の努力もしてみようか」というような過程を経て、たばこへの依存が消えていくんだと思います。

 

 ところが、ぼくの場合は即刻に、一瞬にしてタバコを吸えなくなってしまったんだよなあ、と思ったら、あのアイスピックで突いたような肋骨の痛みも突然に消えてしまっていたのです。

 

 つまり、肋骨の強い痛みの原因を探っている中で、喫煙による身体へのダメージというものをいやというほど教えてくれて、それによってたばこ吸いの悪習から抜け出させてくれた、ということではないのかなあ、と気付いたのです。

 

 そんな事実を目の当たりにすると「あなたの肺は真っ白だよ」という一言は、先生自身の気持ちで発した、というよりも、きっと、あのご霊さまが超能力をつっ買ってこの医師に言わせたに違いない、と思えてきたんです。そうとしか考えようがないんです。

 

 「たばこを吸う」という行為は、それほど人の身体にとって有害なことなのだ、と思い知らされました。そんな風に考えると、喫煙とかアスベストといった物質を体内に取り込むことは、この大宇宙の法(のり)に背いた逆事(さかごと,通常とはさかさまなこと)なのでしょう。

 

 人の肉体に留まらず、霊体という魂(たましい)の部分まで傷つけて天賦の聡明さ(天から与えられた賢さ)までも影響を与えてしまうのではないか、と思います。わざわざお出ましになったご霊さまが、先生の口を借りてぼくの喫煙癖を強引に、止めさせてくれたのだと思いました。

 

 ああ、何とありがたいことでしょう。あの若かりし頃、たばこ談議に花を咲かせた多くの職場の同僚や知人が僕と同じように官益あるいは古希を迎えるようになり、肺がんや咽頭がんといった喫煙が原因と思われる疾病により生命を落とした人たちを多く見聞きするようになりました。

 

 このぼくでさえも、その後に受けてきた胸部X線の検査でがんの疑いがある、ということで精密検査を指示されたことが何回かあったからなんです。けれど、幸いにもその結果は問題なし、ということで胸をなでおろしてきたからなんです。

 

 その現実を振りけるたびに、喫煙指数が800にも担っていたのに、たばこを吸い続けていたあの若かりし頃の無謀さに、無知というか若気の至りに、というか、そんな無頓着さに恐ろしさを感じるこの頃です。

 

 そんな病災からご霊さまがぼくのことを護(まも)ってくれたのか、と思うと、「ご霊さまに生かされている」と強く感じます。「お前には、やらなければならないことがまだまだあるよ」と言われているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――― その5 息子の大希にこの家を買ってやれ  (続き) 

 

 

 そのようなことから、新築年月日が8と5の組み合わせになっているこの建物を手に入れた、というのは、決して偶然じゃないのではないか、と思えてきたんです。だって、ちょっと考えてみてください。

 

 このご霊さまが、もし、ぼくの父だとしたならば、子であるぼくの生年月日を知っているのは当たり前です。でも、ぼくが26歳のときに女房と一緒になったんだけれど、その時すでに天国に行っていた父が、ぼくの結婚相手の生年月日を知っていたなんて、信じられないんです。なぜなら、あの世にいる父にとっては、ぼくの女房のことを知るすべなんかないはずだからです。

 

 ここまで詳(つまび)らかになってくると、このご霊さまは、ぼくと女房の生年月日を何らかの方法で知って、そのご霊さまが「いい物件を見つけておいたから、これを買ってやれ」と言わんばかりにお膳立てをしてくれていた、としか考えられなくなってきたんです。

 だから、息が留まるくらい驚いたんです、そんなことってあるんだろうかって。

 

                   

 では、どこからがご霊さまのお膳立てなのか、と振り返ってみると、その境界がはっきりしません。強いて言えば「会社を辞めることも選択肢の一つだ」と息子にアドバイスしたときからだと思います。しかし、このアドバイスが自分の本心からなのか、と問われると、「はい」と明確に返事をすることができないところがあるんです。

 

 将来のことなど見通すことなどできるはずのないぼくにしてみれば、よくもまあ、そんなことをけいけいにいえたもんだな、と思うからなんです。しかし、いつまでも快気しないでいる息子を案じていたぼくの口から出た言葉であることは、間違いないことですけど。

 

 そして、それから数ヶ月後に息子は会社を辞めたのですが、同時に、生活が成り立たないという剣が峰に立たされたのです。 

 

 「これは困った」と天を仰ぐぼくの頭の中に、突然に湧き出たことは「お前は1500万円を持っているじゃないか。そのお金で家を購入して息子に住んでもらえ」という「提案みたいなもの」だったんです。

 

 「そうか、そういうことか」と気付いたら、とんとん拍子に事が運んだのです。これはまさしくご霊さまのお膳立てによる助け舟だと思います。ぼくが、無い知恵を絞って考え出したアイデアではなかったからです。

 

 実は、もう一つご霊さまのお膳立てではないか、というようなことがありました。この建物を買う話の2年ほど前でした。ぼくの退職金で国債を買おうか、とN証券に申し込みをしたんです。

 この証券会社の指示に従って国債の購入資金を銀行のATMから振り込もうとしたんだけれど、何度も操作をしてみてもエラーが出て、振り込むことができなかったんです。

 

 N証券に電話を入れて確かめてみると、N証券の担当者から伝えられていた振込先の口座番号に間違いがあることが原因だと分かったんです。「何だ、N証券はいい加減だな」ということで国債は買わずにその資金がぼくの手元に戻りました。

 

 その2つの出来事のお陰で1500万円の現金が手元に残り、この息子夫婦に住んでもらうための家を購入することができたのです。

 

 あってはならないこの振込先口座番号の間違いも、ご霊さまがなさったことだな、と今とな

みるとそう思えるのです。なぜなら、証券会社の営業マンが、自分の会社の振込先を間違えるなんて、絶対にありえませんからね。そんなことを可能になるのは、「目に見えないご霊さま」だけですからね。

 

 「お膳立て」というのは、何かを行う際に必要な段取りとか準備を行うことをいいますが、息子の適応障害によってぼくがとってきた一連の言動は、自分自身の意志ではなく、ご霊さまが企てた「お膳立て」によるものと思われます。

 

 しかし、人間であるぼくがご霊さまの企てた段どり通りに動いてしまうのはどうしてなのでしょうか。しかも、そのご霊さまの考えた段取りに沿って動かされているなんてことはまったくきづくことがないのです。

 

 あたかも、何時もの、自然な自分の意志によるもののように行動するからなんです。ぼくはこれを「ご霊さまからのテレパシーと念力によって動かされた」のだと考えています。テレパシーという耳の鼓膜を通さない超感覚的な伝達方法によって伝達されたぼくと銀行員の意志が操作されてしまったんです。

 そういった超常的な伝達方法によるもの、としか考えられないんです。

 

 テレパシー(Terepathy)というのは、人の五感や類推などの知覚に依らずに、外からの情報を得る手段のことで、例えば、頭の中にイメージを描いただけで、そのイメージが相手に伝わる、というような伝達手段をいいます。脳波というのがもっと強くなってその意味を解析することができるようなると実現するのかも知れません。

                               

 また、念力ねんりき というのは、一心に思い込むことによって湧いてくる力、というのが一般的な意味ですが、ここでは心霊現象の一つとしてウィキペヂアでは次のように記述されています。

 

 ―――英語でSpychokinesis(サイコキネシス)といい、意志の力だけで物体 あるいは精神的な思考を含んだ概念を動かす能力のことで、遠く離れたものを動かす遠隔移(Terekinesis)を含んだもの―――、とあります。

 

 つまり、自分自身の体験からもっと分かりやすく説明すると、ご霊さまの思いや意思というものが強い念(ねん)となってぼくに送られてくると、それを受け留めたぼくの思いとか意思というものが操られて、ご霊さまが念じたとおりに行動してしまう、ということなんです。

 だから、気が付くと「えっ、どうしてこんなことをしたの」ということになるんです。

 

 ぼくが経験してきた不思議体験の多くが「思いがけない言動をしてしまう」というものですから、自分自ら湧き出たものではない「ご霊さまから送られてきた念」を受け取ったことによるものだからなんでしょう。

 

 こういったことは多くの人たちが体験しているはずなんですが、ご霊さまから送られてきた念力によるものかもしれない、と認識する人はほとんどいないのではないかと思います。

 

 

 

その三 動物や路傍の石からも「思い」というものを感じる

 

 一話 返事をしてくれたあの世のブーちゃん

 とても可愛がられてあのよに旅立ったペットの動物たちは、優しかった飼い主の話し声をそっと聴いているんです。

 

     ******************************

 

 息子が22歳で、ぼくがちょうど50歳のときでした。その息子が長期の地方異動になって成田の自宅には帰ることがない、と分かってから、女房は息子の部屋にベッドを移して一人で寝るようになりました。

 

 女房が睡眠中に起こす大きないびきと、間欠的に呼吸が止まった時に発せられる「ガガ――ッ」という喉からの騒音を、ぼくが窘(たしな)めたことによる対応でした。

                                 

  それだけではなく、6畳の和室に二つの布団と枕を並べた和風スタイルから、寝起きの楽なベッドによる洋風スタイルへの切り替えでもありました。

 また、この時も「睡眠中に呼吸が止まることがあるから、医者に診てもらったほうがいいよ」と重ねて伝えていたけれど、女房はなかなか御輿(みこし)を上げることはありませんでした。

 

 ところが、それから2年ほど経ったある日、どういう風の吹き回しか知らないけれど「友達と一緒に睡眠時無呼吸症候群(略してSAS, Sleep Apnea Syndrome)の後縁を聴きに行く」と言い出したんです。

 

 「おお、それは結構なことですね」と。隣町の佐倉市にある東邦大付属病院で行われる講演会に出かける妻を、ぼくは手を振って送り出しました。

 夕方帰宅するなり妻は「無呼吸症候群の怖さがよく分かったので、無呼吸診断検査の予約をしてきた」といい、あの重たかった神輿を上げて、素直にぼくの言うことを聴くようになった変貌ぶりに驚かされました。

 

 その予約日がきて診断検査が行われた日、ぼくが仕事を終えて夕方に帰宅すると、自分のベッドに腰を掛けて何やら酸素マスクのような形をした睡眠時の無呼吸を防止する補正器とやらを手にして浮かない顔をしていました。

 

 「今日、検査を受けtてきたんだろう、どうしたの」ときいてみると「中程度の無呼吸があるから寝るときにこのシーパップ(CPAP)というマスクを着けなさい、と言われたけれど、気が進まない」と言うんです。

    

 その理由を聞いてみると「このマスクは就寝中に連続して空気を送ってくれるんだけど、この電動ファンが故障して呼吸ができなくなってしまうのではないか、という恐怖感や、鼻さきに異物感で眠れそうもない」というんです。

 

 「そりゃあそうだよな。こんなものが鼻先についていたらオレだって眠れないよ。少しづつ慣らしていったらどうなの」と返すと、「うん、少しづつ練習してみる」と応えて、マスクの着脱具合を少し練習して、その晩は装着しないで寝床に就いたようでした。

 

 あくる日の夜もマスクを着けて実際に空気を流しながらその具合を確かめていたのでしょう。突然「うお――っ」という叫び声が聞こえたので「どうしたんだ」っと、妻の寝室の駆け寄りました。

 

 すると、恐怖に震えた赤ら顔を向けて「マスクを着けて咳き込んだら、呼吸ができなくなった。死ぬかと思った」と興奮しています。「大丈夫、だいじょうぶだよ。ちゃんと呼吸をしているよ」と背中をさすりながら落ち着かせて「今夜の練習はこれでおしまいにしよう」ということにしました。

 

 これを機会にぼくは、睡眠時無呼吸症候群、略してSAS(Sleep Spnea Syndrome)について勉強してみようと思いました―――――。

 

 ーーーーSASは就寝しているときに舌の付根である舌根部(ぜっこんぶ)や軟口蓋(なんこうがい)という歯肉の内側の一番奥の部分が軌道に落ち込んで、上気道を閉塞させてしまう気道閉塞型と呼ばれるタイプが殆どで、妻の場合もこのタイプに該当しますよ、と言われたようです。

 

 その結果、睡眠中のいびきの発症や呼吸の停止、あるいは中途覚醒場度を何回となく引き起こす、とされています。だからそのまま放置すると、昼間の強い睡魔に留まらず、就寝中の低酸素状態に陥って血圧が上昇したり、虚血性の心疾患を発症させたりする引き金になる、とされています。

 

 また、無呼吸症状の程度は、睡眠ポリグラフ検査という検査法で確かめらrます。これは1時間当たりの無呼吸回数と低呼吸回数の和を睡眠時間で除した無呼吸低呼吸指数AHIというしすうでしめされて、その程度を評価しています。

 妻の場合は、そのAHIが30と診断されて「中低度」の無呼吸症候と説明されていました。

 

 この舌根部と軟口蓋による気道への落ち込みにより起こる無呼吸状態を解消する胸式気がCPAP(シーパップ Continuous Positive Airway Pressur)と呼ばれるものです。文字通り、連続的気道陽圧器と訳されて、圧力を高めた空気をh名の穴から肺に連続的に流して、落ち込んだ舌根部と軟口蓋を押し広げて木戸を開放します。

 

 従って、吸気圧力が必要以上に高かったり、風邪をひいて咳き込んだりと体調が良くないときは使用を避けたほうがいい、とされています。連続的でなく患者の呼吸パターンに応じて自動的に圧力を調整するAPAP(エーパップ、Auto PAP)というのもあるようですが、病院からのレンタル機器はCPAPだけでした。

 

 また、下顎を前につき出して気道を確保するっマウスピースもありますが、中程度の患者には目的を果たせない楊でした。

 では、マウスピースでは用をなさないし、CPAPに恐怖感を抱いているような妻みたいな患者にはどのような矯正法があるのでしょうか。しばし考えているうちに、ぼくはあることを思い出したんです。

 

 それは、睡眠中に大きないびきと無呼吸を繰り返している妻と枕を並べて、和室の6畳間で就寝していたころでした。顔を上に向けてガーガーと騒音を発している妻の頭を小突いてちょっと横を向かせると、その騒音がピタッと消えて大人しくなることでした。

            

 それは騒音の発生源である舌根部や軟口蓋の落ち込みが横を向くことによって、わずかながらも空気の通り道が確保されたからなのです。

 

 「お前、五個を向いて寝ればいいんじゃないの」と提案してみたんです。すると「えーー、横を向いて寝たことなんてないよーー」と言い返されたんです。横向なんてしたことないから不安なんでしょう、

 「ガーガーやっているお前の頭を小突いて横に向かせると、ピタッといびきが止まるし、無呼吸もなくなっているよ」ダメ押ししても、まだ不安顔です。

 

 そこでぼくの書斎にあるPCで「横向き寝(ね)寝具」と検索してみると、横向きで寝るための枕や大きなバナナのようなかt地をした横向き用抱き枕など多くの横向き寝のグッズが市販されていました。

 

 それらの画像を妻に見せながら「この状況を先生に話して意見を聞いてみたらどうだい。⒴個を向いていびきをかかなければいいんだから、横向き用の枕と抱き枕を購入して試してみたらいいんじゃないか」とアドバイスをすると、みるみるうちに妻の顔色が安堵の色に変わっていきました。

 

 その時です。「にゃーー」と大きな猫の鳴き声がぼくの右側の耳元でしたんです。あまりにも耳の近くで鳴かれたので、思わず右耳の耳殻(じかく)を払いのけたのですが、その鳴き声は一度キリでした。ぼくはとっさに、この鳴き声はきっとブーちゃんだと思いました

         

 半年前に亡くなってあの世にいるブーちゃんが、僕と妻の会話を聞いていて「その通りだよ」と応えてくれたのだと思いました。この鳴き声はぼくだけにしか聞こえなかったようで、妻は怪訝な顔を向けるだけでした。

 

 ぼくの愛猫ブーちゃんは、黒と白のぶち模様をした毛足の長い大型の洋猫で、毎晩、ぼくと寝起きを共にしていた癒しの猫ちゃんでした。だから「ブーちゃん」と呼べば「にゃーー」と応える「ブー・にゃーの仲」だったんです。

 

 ブーちゃんは、アメリカの留学先から帰国した長女と一緒に連れて来られた帰国猫ですから、ぼくがぶーちゃんと暮らすようになってからかれこれ十数年になります。猫の平均寿命が15年余と言われる中でブーちゃんも寄る年波には毛てずに、めっきり年寄りじみた歩き方になってきました。

 近所の獣医師に診てもらうと「糖尿病だね」と診断されて二日間の入院となりました。退院の日に「院内治療しても回復が難しいから、自宅でインシュリン注射をしてあげてください」と、インシュリンの入った小瓶と注射器セットを渡されました。

 

 自宅では朝と晩の日に2回、ブーちゃんのお腹を上向きにしてぼくの胡坐(あぐら)の上に寝かせて、お腹の皮膚を指で摘まんだその先端に注射針をチクっと刺して、注射器の2目盛分を注射していました。

 

 そんなある日、「ブーちゃん、注射の時間ですよ」と声をかけながら胡坐の上に抱きあげてお腹の皮を摘まんだところ、その時に限って、何か言いたげな上目遣いの大きな目をぼくに向けて、みうごきひとつすることなくじーーとしていたんです。

 

 あまりにも長い時間見つめられていたもんだから「なーに、どうしたの」と声を変えると、その目を伏せてしまいました。ブーちゃんは、何か、ぼくに何か、話しかけたいことがあったのかもしれません。

 

 それから数日後、ブーちゃんはあの世に旅立ってしまいました。だから、あの時のにゃーの一声は「翼向き寝で大丈夫だよ」というSASに奮闘しているぼくと妻に向けての応援コールであると共に「あの世で元気にしているよ」というブーちゃんからの近況報告でもあったのです。

 

 そのご、妻の横向き寝について先生にす段してみると「いびきや無呼吸が出なければいいんじゃないですか」との了解を得られた妻は、翼向き寝の抱き枕を購入して、既存のソファークッションを背中に当てるなどして、上を向くことができない姿勢で就寝しています。

 その対策によって、いびきと無呼吸の頻度が少なくなり、程度もとても小さくなりました。

 

 でも、あの世のブーちゃんは、ぼくと妻の会話を聞いていたかのように、あのタイミングでニャーと鳴いたのはどうしてなのでしょうか。なんだか猫のブーちゃんも人と同じような「他人を思いやる気持ち」というものを持っているような気がしました。

 

 だからあの鳴き声は、ご霊さまになったブーちゃんが発した鳴き声に違いありません。ご霊さまの姿はこの目には映らなかったけれどもね。

 

 それをきっかけにして、あの世のブーちゃんはぼくの寝床の枕もとで「スースー」と寝息を立てたり、あのぷよぷよした肉球でぼくの足の甲を踏んでいったりと、しばらく僕の間アリにいてくれました。

 

 哺乳類の動物である猫ちゃんにも人と同じような「心の思い」というものを抱いていて、なくなるとひととおなじようにご霊さまとなって、自分の気持ちや思いというものを優しかった飼い主に伝えてくることがあることを知りました

 ブーちゃんはとても優しい気持ちを持っていたんですね。

 

 

 

 その四 気持ちが伝わってきた路傍のお地蔵さま

 

 毎朝のウォーキングで「おはようございます」と挨拶をしていた路傍のお地蔵さまですが、その朝に限って、その前を黙って通り過ぎてしまったんです。すると「おい、あいさつをわすれているよ」と呼び止められたんです。

 

         <<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<

 

 66歳になったころのぼくは、宅地建物取引業アイビー社を他人に譲り家にいるようになりました。そこで、毎朝、1時間ほどのウォーキングに出かけるようにしたんです。風雨が強い朝は見合わせるにしても、今日は宗吾霊堂へ、明日は成田赤十字病院方面へと向かう地域を変えて出かけていました。

 

 宗吾霊堂へ向かう道の途中に小さな祠(ほこら,神を祀る小さな殿舎)があって、中にはお地蔵さまが祀られています。ある日、ぼくと同じ年恰好のおじさんが、そのお地蔵様の前に立ち止まって帽子をとり、頭を下げてお参りをしている姿を見て、ぼくもそれを真似て帽子をとり頭を下げて「おはようございます」と挨拶をするようになりました。

        

 お地蔵さまというのは、仏教でいう地蔵菩薩のことで「大地がすべての命を育む力を蔵する」ということから名付けれれた、と言われています。厄災を亡くして子孫繁栄を願う住民の守り神「道祖神(どうそしん)」、つまり、路傍の神として道端に祀られた民間信仰の石仏なのです。

 

 そのお地蔵様の背丈は1メート宇50cmほどで特別な大きさではありません。しかし、その顔をよく見ると、普通よく目にするお地蔵さまと違って、目や鼻といった顔の彫り方が大雑把でのっぺりとしているんです。

 だから、大切なおのお顔の表情が伝わってこないのです。「ずいぶんと粗末なお地蔵さんもあるもんだなあ」と思いながら挨拶をしていました。

 

 平成26年の11月でした。いつものようにウォーキングに出て宗吾霊堂に向かい貸した。「もうすぐお地蔵さんのところだな」と思いながら歩いていると、突然、「バタバタ という音が聞こえてフッと気付くと、ぼくはそのお地蔵様の前を通り過ぎていたんです。

 

 何か別なことを考えながら歩いていたようで、お地蔵様の前を通り過ぎてしまったんです。

「おっと、いけねえ」とおお地蔵様の前まで5,6歩後戻りをして「おはようございます」と頭を下げてからコースに戻ることができました。

 

 それを気付かせてくれたのは、あの「バタバタという音は何だったのか、後ろを振り返ってみると、舗装されていない細道を歩いてきたおばさんが、自分の運動靴の底に付着した泥を払おうとして路面に足をばたつかせていた音だったのです。

 

 絶妙なタイミングで聞こえてきたこの音が、挨拶を忘れそうになったぼくに気付かせてくれたのだから、あたかもこの音あ「お前、挨拶を忘れているよ」と、居地蔵さまから注意されたように聞こえたんです、

 「まさか、そんなことないよね」と一人で苦笑いをしてしまいました。

 

 そんなことがあってから、このお地蔵さまがとても身近に感じられて、花を咲かでた自宅の庭の草花を摘み取ってお地蔵さまに手向けていました。

 

 それから数ヶ月が過ぎた春先の温かな朝でした。宗吾霊堂へのウォーキングに出てそのお地蔵さまのところにさしかかったとき、自転車のサドルから腰を下ろした男子高校生と立ち話をしている柴犬を連れたおばさんが、ぼくの顔を見るなり話しかけてきたんです。

 

 「あそこにいる猫がカラスにやられてかわいそうだ」と田んぼの方を指さして言ってきたんです。その指さす先に目をやると、農閑期のために水の張られていない田んぼの中に大きなトラ柄の猫が横たわって動きません

 目を凝らすと、顎の辺りに白い骨がむき出しになっていて、とても痛々しい姿です。「何とかしちゃってくれ」と、このおばさんがぼくに声をかけてきたのですが、この猫の姿を目にすれば、その気持ちがよく分かりました。

 

 2年前に愛猫ブーちゃんを亡くして、代わりのトラ柄のぬいぐるみを抱いて寝ているぼくに

してみれば拱手傍観(きょうしゅぼうかん)というわけにはいきません。「分かりました」とばかりに首を縦に振ってウォーキングのコースに戻りました。

 

 気軽な気持ちで引き受けたものの、このぼくがこのトラちゃんを運び出してやたらなところに放置するわけにもいかず、どうしたらいいものやらと考え込んでしまいました。

 要は、野垂れ死にの状態になっているこのトラちゃんを、火葬に付したり土に返したりして、ちゃんとご霊さまにしてやればいいはずです。

 

 帰宅するなり否や、野垂れ死にしているトラちゃんの処分をどのようにしたらいいのか、を市役所に聞いてみました。すると、環境クリーン化という部署に繋いでくれました。「田んぼの中で野垂れ死んでいる猫の遺体を引き取って欲しい」とお願いしたところ「分かりました」という思いもしなかった返事が返ってきて、お地蔵さまのところで待ち合わせることにしました。

 

 約束した定刻に二人の担当者が見えましたが、田んぼの中に横たわれるトラちゃんを観るなり「田んぼという私有地の中のものは引き取れません」と一人の方が言い出したんです。「じゃあ、ぼくがここまで連れてきますよ」ということで了解してくれました。

 

 「ぼくが田んぼんあかにはいるなんて、とんだことになってしまった」とぼやいたけれど、可愛いトラちゃんのために乗り掛かって舟です。農閑期のために水は引かれていませんでしたが、多少ぬかるんだ畦道を、担当者から拝借した大きめのスコップを手にしてゆっくり、ゆっくりと進み、少し低くなった名の中に二歩ほど足を踏み入れてトラちゃんに近づきました。

 

 「トラちゃん」と声をかけながら、身体の右側を下にして横たわるトラちゃんの後ろ左足を掴んでひきよせ、手にしたスコップに乗せてゆっくりと、ゆっくりと広い道に運び出しました。

 

 そして、市の担当者が用意してくれた白いビニール袋に収めて引き取ってもらいました。「ありがとうございます」と頭を下げてトラちゃんと市の担当者を見送りました。

 

 でも、自分のものでもない田んぼの中に入り込んでカラスにつつかれたのら猫を助けてやってくれ、と市に連絡してきたぼくの姿を目に前にした二人の職員は、きっと、「ずいぶんとお節介な奴だな」と、奇異な目で見ていたに違いありません。

 

 翌日の朝、そんなことを話しながら妻と朝食を摂っていると、突然、つつ――っと鼻から鼻水のようなものが流れ落ちそうになったので、慌ててティシューで押さえました。

 すると、何と、それは鼻水ではなくティシューを赤く染めた真っ赤な鼻血だったのです。赤く染まった5枚ほどのティシューを見たぼくは「何だ、この鼻血は」と、とても驚きました。

 

 若いころには珍しくない鼻からの出血でしたが、kん歴を過ぎた今となっては蓄膿症の黄色い海が混じることはあっても、鼻から血が出たような痕跡すら見たことがないのですから。

 赤く染まったティシューを眺めながら鼻血、はなぢ、ハナヂと繰り返し言葉にしていたら、はなぢ⁼=ぢぞう=ぢぞうさん=地蔵さま に繋がりました。

 

 何気なく言葉簿尻取りをしt痢たら地蔵さまに繋がってしまいました。どうして尻取りなんか始めたのか分かりませんが、ぼくが挨拶を忘れてお地蔵さまの前を通り過ぎようとしたときに、バタバタという靴音でそのことに気付いたことを思い出したんです。

 

 「そうか、この鼻血はあのお地蔵さまからのお知らせなんだな」と気付きました。道行く人たちに厄災が起こらないように、という願いを込めて祀られたお地蔵さまにしてみれば、自分のテリトリーにあるこの田んぼの中で乱暴なカラスに襲われたトラちゃんがとても不幸なことだと心痛な思いでながめていたに違いありません。

 

 真っ白なティシューを真っ赤に染めた鼻血は、そんな思いをぼくに伝えてくれました。お顔を表情もはっきりしないし、いつもじっとしているお地蔵さまでも、人と比べたらとても僅かだけれど、人と同じような」「慈愛の思い」というものを抱いているのではないかな、と感じました。

 

 「そうか、石であれ、木であれ、仏様Hほとけさま)の形を作り、弱い者に対する深い愛情である慈しみの思いを込めてあげるとお地蔵さまになるのだな、と理解しました。

 

 その後もずっとこのコースのウォーキングは続けていますが、あの柴犬を連れたおばさんと再会することはありませんでした。「あの猫を何とかしてやってくれ」とおばさんから頼まれたトラちゃんだったけれど、市役所に連絡をして何とか野垂れ死にすることのないようにしたことを伝えたかったのに。

 

 

 

 その五 書棚に並べられたファイルを斜めにして

 

 お客様からお預かりした委任状が、事務所のどこを探しても見つからなかりませんでした。諦めかけてカウンターの椅子に腰を下ろすと「ぴんぽ~~んとチャイムを鳴らして出入り口のドアがひとりでに開いたんです。   

 

         =========================

 

 日本航空を早期に退職したぼくは、JR四街道駅から10分ほどの距離にある事務所を借りて、概ね予定通りアイビー不動産の看板を掲げることができました。平成11年の夏でした。

 

 成田市の自宅から車で1時間余と少し距離が離れていたけれど、駅前から続くメインストリートに面した角地で、しかも、人通りも多かったのでここに決めました。その好立地のため二月顎賃料も135、000円と破格だったけれど、この何倍もの商売をすればいい、という意気込みでした。

 

 しかし、不動産取引の実務経験なんてまるでないズブの素人社長と女房事務員、という業界知らずの第二の人生は、母からも息子からも「おいおい、大丈夫なのかよ」と心配顔を向けられるくらいヨチヨチ歩きの船出でした。

 

 でも、不動産会社の社長であるためには、不動産取引に関する実務経験が一つでもなければ商売が成り立たないのか、と言うと、そんなことはないのです。というのは、土地や建物の売買に関する媒介業務と言うのはぼく一人で行うのではなく、売り手側の不動産業者と買い手側の不動産業者の双方の下で契約手続きを進めていくからなんです。

 

 だから、最初の取引だけでもその契約行為の一部始終を相手側の業者に任せれば、自分はただ黙って眺めていることで契約は成立するのです。そんなわけで、最初の取引の相手業者が三井不動産とか住友不動産といった大手の不動産会社であって欲しいな、と思っていたのです。

 

 このような堅実で信頼のおける相手業者から手取り足取りで教えてもらいながら業務を進めれば、例え一回の取引しかなかったとしても、立派な実務経験をしたことになり、次回の取引からその経験を手本にして進めていくことで一人前の社長としての振る舞いができるのではないか、と踏んでいたんです。

 

 なまじ町中にあるような口八丁手八丁のおやじ不動産屋で「こんなもんですよ」なんていうような大雑把な実務を数多く経験したとしても、アイビー不動産としてはあまり役に立たないし、お客さまに対しても不安を与えてしまうことになりかねないよな、と思っていたからです。

 

 しかし、そんな都合のいい希望なんておいそれとかなうわけがなく、同業者の挨拶回りやら賃貸の取引やらに負われる日々でした。2年ほど経ったある日、香川さんという中年の男性が来店し「土地の売却をお願いしたいと」と見えました。

 話を聞いてみると「この土地の所有者は渡部という人です」といいながら、一枚の委任状をテーブルの上に差し出したんです。

 

 香川さんは、所有権者渡辺さんの代理人となってこの土地を売却したい、というご依頼です。

委任状には顔写真がついた本人確認の書類が必要ですが、それは契約時に準備していただくとしてその委任状を預かると共に、土地の売買に係る媒介契約を交わしました。

          

 レインズ(REINS,REAL Estate Information System)と呼ばれる不動産流通ネットワークにその情報を流して、買い手が現れるのを待ちました。面積が50坪ほどのその土地は、道路付けもよく手ごろな価格だったので間もなく買いたいという人が現れたんです。

 

 しかも、その買い手の媒介業者が希望していたあの住友不動産だったので「ああ、希望が叶えられてよかった」という思いでした。「買い手が早く見つかってよかったね」と、初めての専任物件がうまくいきそうなことを女房と一緒に万歳をして喜んだのです。

 

 契約の日時も2週間後に決まったので「香川さんから預かったあの委任状を見てみるか」と、書棚から「お客様預かり書類」と背表紙に記されたファイルを手元に取り「確か、ここに挟み込んだよな」と表紙をめくりました。

 

 ところが、つい先日の話だから、あの委任状はこのファイルの一番上にあるはずなのに、なかったんです「。あれ?」と思いながら2ページ目、3ページ目とページをめくってみたけれど、あの香川さんから預かった委任状はそのファイルの中にはなかったんです。

 

 「おかしいな、確かにここに挟んだのになあ」と、ぶつぶつ言いながら隣に並ぶファイルんを手に取って表紙を開いてみたけれど、そこにもありませんでした。「何でヨ、どうしてヨ」とその隣のファイルも、また、その隣のファイルもと10冊あまりのファイルを見てみたけれど、あの委任状は見つからなかったんです。

 

 「どこに仕舞い込んだのだろう」と、ぼくは青ざめました。あの委任状がなければ、香川さんは売り主としての契約ができません。香川さんは所有権者である渡辺さんの代理人として契約するのですから、渡辺さんが香川さんを私の代理人であることを証明する文書である委任状が必要になるんです。

 

 香川さんに頭を下げて委任状の再発行をお願いする、という手もあるのですが、そうなれば「文書管理をきちんとしtr下さいよ」と苦言を言われ、アイビー不動産の信用は地に落ちます。何が何でも探し出さなければいけません。

 

 「今日は残業だな」と女房に告げて、閉店後、女房にも手伝ってもらいながらあの委任状を探すことにしました。租棚の左端から、右端から女房にファイルというファイル、書類という書類のあらゆるものの隅から隅まで探しました。

 でも、あの委任状を見つけ出すことはできなかったんです。

 

 「あーあ、疲れた」と、どっかとカウンターの椅子に座り込んで壁に掛かった時計の針を観ると、もう既に9時を回っていたのです。それを目にしたぼくは「香川さんにお詫びして再発行してもらおうか」と弱音を吐いて大きなため息をつくと「仕方ないわね、だらしがないんだから」と、女房も疲れ切った声で苦言を返してきたんです。

 

 その時です。出入り口の自動ドアが「チンコン、チンコン」とチャイムを鳴らしながら開いたんです。「誰?」とドアの方に目を向けたのですが、誰もいません。ひとりでに開いたんです。数秒後に再び、チャイムを鳴らしてドアは自動で閉まりました。

 

 何かの拍子でドアセンサーが誤作動を起こしてひとりでに開いて、再び閉まる、ということは今までにも何度かあったことなので「またか」ということで気にも留めませんでした。

 

 ところが、数秒後、またドアがチャイムを鳴らしながらひとりでに開いたんdす。「えっ」という思いで振り向いたけれど、誰もいません。そして、ドアは再びひとりでに閉まりました。

 こんな短い時間に2回も立て続けてドアが開いたり閉じたりしたことは、今までになかったことでしtた。

 

 「あれ、どうしちゃったの」と独り言を言いながらドアの方に向けた視線に映ったものは、整然とファイルが並ぶ主だなの中にあって、一冊のファイルだけが斜めにせり出していたんです。「何で斜めになっているの?」と不思議に思いながら椅子から立ち上がって、そのファイルを手に取ったんです。

 「紙上研修会綴り」と背表紙に記されたファイルを開いて1ページ目、2ページ目とめくってみると、あ、あったんです。あの委任状が綴(と)じられていたんです。二穴のファイル穴にきちんと通されていました。

 

 「何でこんなところにあったの」と、まるでキツネにつままれたようで合点がいきません。地虫内にある20冊足らずのすべてのファイルに対して、巻頭ページから5、6ページまで点検したのだから、見落とした、ということはないはずです。

 

 たとえ見落としがあったとしても、この委任状が綴じられていたのが「お客様預かり書類」ではなくて「紙上研修会綴り」のファイルに綴じられていたことが不思議でならないのです。しかも、斜めになってせり出していたのは、まるで「このファイルを見なさいよ」と教えてもらったようなものです。

 このような不思議なことをするのは、きっと、ご霊さまに違いありません。

 

 あの出入り口の自動ドアが立て続けに2回も開いたことが、あたかも、この目に映らないご霊さまが入ってきて、書棚にあるこのファイルを斜めにせりださせて、再び、ドアを開けて出て行ったように思えるんです。

 

 しかし、この目に見えないものが自動ドアの開閉センサーに感知されるんだろうか、という疑問が残ります。でも、考えてみてください。手足のないご霊さまがこのファイルを斜めにせり出したのですから、自動ドアを開けるくらい朝飯前なのでしょう。

 

 実は、合点のいかないことがもう一つあるんです。ぼくはこの委任状を「お客さま預かり書類」というファイルに綴じ込んだはずなのに、まったく別の「紙上研修会綴り」というファイルから見つかったことなんです。

 

 ぼくが誤って綴じ込んでしまったのか、それとも、きちんと「お客さな預かり書類」と書かれたファイルに綴じ込まれていた委任状を、ご霊さまが、あたかも神隠しのような超常手段を使ってこの世では絶対にありえないような方法で、瞬時に「紙上研修会綴り」のふぁいるにいどうさせたのか、のどちらかではないか、ということなんです。

 

 前者ならば、見落としたかもしれない委任状のあり場所をご霊さまが教えてくれた、という「ご加護」と言えるのですが、後者の場合だと、単なる「いたずら」としか見えません。

 

 いずれにしても、ご霊さまの霊力の不思議さ、あるいは凄さを垣間見たようでした。女房にそんなことを話したら「あんたの勘違いでしょ、ばかばかしい」と一笑に付されてしまいました。

 

 

 

 その六 温・湿度計が壁から落ちて知らせてくれたこと

 

 鍵穴の形をした溝に杢ねじの頭を入れてぶら下げる構造をした壁掛け式の温・湿度計なので、絶対に溝から外れて落下することはないはずなのに、ぼくの眼の前に落ちてしまいました。何を知らせたかったのでしょうか。

 

       ===========================

 

 平成28年2月21日 日曜日の夕方、夕食の支度を始める午後5時の少し前の4時半過ぎでした。夕食の支度の時刻を正確に覚えているのは、平成26年5月に脳卒中で倒れて不自由な身体になってしまった女房に代わって、ぼくが食事の支度をするようになったからなんです。

 

 ぼくの書斎に置いてあるプリンターの前に立って、すぐ横に並んでいる事務机の引き出しを引いて、屈(かが)んだ姿勢でその中をあれこれと探し物をしていたときでした。突然「カシャッ」という鈍い音が右の方から聞こえてきました。

 

 とっさにその方向に目をやると、何と、プリンターの真上の壁に掛けられていたタニタ社製の温。湿度計が用紙サポーターに差し込まれて何十枚か重なったプリンター用紙の上に落下していたんです。「あれ、地震でも亡いのに何でこんなものが落ちたのか」と、落ちた温・湿度計を手に取って、裏側にある引っ掛け構造の部分を観てみました。

         

 しかし、壁から突き出た杢ねじに引っ掛けるためのちょっけお8ミリの丸穴と、幅5ミリの溝とが繋がった、ちょうど鍵穴マークのような形をした溝には、これといった不具合はなかったのです。その溝の横には小さな商品シールが貼り付けられていて、商品番号はTT-536 と記されていました。

 一方、壁に取り付けられた杢ねじにも、緩みなどの不具合はありませんでした。それで念のため、その杢寝期の頭のクロス溝にドライバーを当てて少し緩めて、再び締め付けるというリセット作業をしてみたんです。

 このように壁に掛けられた室温時計は、幅が5ミリの溝が直径7ミリほどの杢ねじの頭を抱き込むような恰好になり、引いても、揺らしても、その杢ねじの頭が溝から抜けてしまわない限り、絶対に壁から落ちない構造になっているのです。

 

 ところがその日、突然、その温度計が壁から落ちてしまいました。障りもしないし、地震が起きたような揺れもないのに、ひとりでに落ちてしまったんです。その場面をぼくは目の当たりにしたんです。突然にぼくの眼の前に落ちたのは、どうしてなのでしょか。

 

 壁にねじ込まれたも訓示が緩んだのでしょうか。いいえ、杢ねじには何のゆるみもなく、しっかりと取り付いていました。試しにその温湿度計を、その杢ねじに掛けてみましたが、何の不具合診なくしっかりと掛けることができました。

 

 この壁に掛かった温湿度計がなぜ落ちたのか、ぼくは合点がいかなくなりました。杢ねじや温湿度計の引っ掛け溝に何の不具合もないこの温湿度気が壁から落ちるには、7ミリほど持ち上げて手前に引かなければならないのです。でも、誰も触れた人はいないのです。

 

 ということは、ひとりでに7ミリ持ち上がり、ひとりでに手前に倒れた、ということです。そうでなければ落ちるはずがないんです。

 

 まるで映画のポルターガイストの一場面のようです。「そんなばかな」と思うのですが、そのようなことがぼくのすぐ横で起きていたんです。ちょっと背筋が寒くなってきました。

                        

 このように近代の物理学では説明できないようなことは、きっと、ご霊さまがなさったことに違いない、と思います。このような摩訶不思議な体験を数多くしているぼくにしてみれば、絶対に落ちることのないはずの温湿度計がいとも簡単に壁から落ちた、ということは、何か知らせたいことがあったに違いないんです。

 

 新潟にいる息子のところで何かあったんだろうか、嫁に行った娘に電話をしてみようか、と不安な思いがよぎります。「いや、手始めに女房の様子を見てみよう」と、女房の部屋を覗いてみることにしたんです。

 

 廊下にでると、ちょうどトイレから出てきた女房と出くわしたので「何か変わったことはないか」と聞いてみたんです。すると「ここ2,3日、体調がよくない」という思いがけない返事が返ってきて、生気のない顔をぼくに向けたのです。

  

 「え、どんな風に調子が悪いのか」と、顔色に気を使いながらぼくの書斎に招き入れて椅子にすわってもらいました。すると「最近、疲れ方がひどくて力が入らないの。今まで途中で休むことなく往復していた公園までの歩行が、途中で2回も3回も休憩をとらないといけなくなったの」と打ち明けてきたのです。

       

 「あ、そうか。これがあの温湿度計を落とした理由だな」と合点がいきました。思いもしなかった女房の体調不良の話しに耳を傾けていると「お父さんに打ち明ければ」心配をかけるだけなので言えなかった」と泣き出しそうです。

 

 「確かに心配はするけど、その原因を考えてみて手に負えなければ医師に診てもらえばいいじゃないか」と答えて、ぼくはまず、今服用している薬の副作用を疑ったのです。

 

 何らかの処方薬を服用しているときに発現した体調不良に対して、先ず、疑うべきはその薬剤の副作用だということは、かつて、ぼくが罹患したことのある神経症の治療薬から得られた常套手段なんです。

 いかなる薬剤にも、歓迎しない副作用というものがあって、その効果と副作用の一定のバランスで成り立っていることに注意が必要なんです。ある薬剤に対する生体への反応というものが個々人によって異なることがあるからです。

 

 いま、女房が服用している薬剤を聞いてみると、リリカという名前のカプセル状の薬で、

脳卒中後に現れる神経障害性の疼痛に対する治療薬です。これを昨年の10月から1カプセル

25ミリを1日1回のペースで飲んでいましたが、平成28年2月からは1日2回に増量して飲んでいたことが分かりました。

 

 もちろん医師の指示によるものなんですが「じゃあ、具合が悪くなったのは2月になって1日2カプセルに増やしてからなんだね」と念を押すと「そうなんです」と、女房は首を縦に振りました。

 

 そこでぼくは、医療品の製品情報を記載した添付文書をネットで開いてリリカカプセルについて調べてみました。すると、副作用欄の頻度1%以上という欄に「疲労、歩行障害」とあり、頻度0.3~1%未満の欄には「無力感、倦怠感」と記されていたんです。

 

 去る1月末、女房の定期診察に付き合ったとき すると「1日あたり1カプセルで効果がなければ2カプセルの50ミリに増やすけれど、それでも効果がなければ中止します」といういしのことばを思い出したぼくは「リリカの副作用が考えられるから、ちょっと中断して様子を見てみたらどうか」と提案したんです。

 

 すると「そうね」という返事が返ってくると思いきや「先生に無断で中止することはできない。だから先生に聞いてみる」と、電話をかけようとしたので「この時間は先生に繋がらないよ」と女房の気持ちをたしなめたんです。

 

 「次回の診察のときにこの経緯を話してリリカを中止したことを伝えればいいのではないか」とい言い聞かせたのですが、女房の顔色は晴れません。

 手足に不快な痺(しび)れと痛みを感じている女房にしてみれば、この薬の効果に対して強い期待を持っていることが伝わってくるのですが、ぼくの目には、薬剤の効果よりも副作用の方が強く現れているように見えるんです。

 

 添付文書を読み進めると「投与を中止する場合は、少なくとも1週間以上かぇて徐々に減量すること」とあるから、九に辞めてはいけないようです。「なるほどね」と女房に心配も分かるので、処方してくれた調剤薬局に電話を入れてみました。

 

 日曜日にも係わらず、すぐに女性の薬剤師につながったので「リリカカプセルを1日2カプセルに増やしたら、倦怠感や歩きずらさといった副作用が現れたんですが、中止していいですか」と率直に聞いてみたんです。

 

 すると「薬剤師の私には中止してよい、とは言えません」という返事が返ってきたんです。患者本人と医療従事者向けの添付文書に「次のような副小夜が認められた場合は、必要に応じて減量、投与の中止等適切な処置を行う」とあるのに、薬剤の専門家である薬剤師が患者からの副作用によるであろう苦痛を申し出されても、適切な処置をとることができないのは「どうしてなのか」とぼくは声を荒げました。

 

 この薬を処方してくれた薬局の薬剤師であるにも関わらず、です。薬の処方は医師の専任事項だけれど、副作用が強く出た場合は、患者本人に限らず医療従事者が投与の中止を含めた適切な処置をとることができるようにしないと、副作用による体調の不良がますます助長されてしまう恐れを感じるからです。

 

 ましてや、日曜日の今日は担医師とはつながらないし、月曜日に診察を受けようにも予約をしていないので何時に診察を受けられるのか分からないことなどを考えたときに、適切な処置を受けるべき時期を逃してしまうことになりかねません。

 

 ここは処方した薬剤師の意見を聴きながら、患者本人とその配偶者であるぼくの責任で中止することがベストだと考えたからです。

 

 「しばらくお待ちください」と言われて受話器を置きました。数分すると受話器から声がして「1日150ミリを超える場合は1週間以上かけてじょじょにげんやくするのですが、それより量が少ない場合はその必要がありません」という返事が返ってきたんです。

 

 「では、今夜の分から中止していいですね」と問い正すと「そうです」という返事が返ってきました。そのやり取りを聞いていた女房は、大きく頷いて白い歯を見せるようになりました。 

 

 何とありがたい出来事だったでしょうか。脳卒中の後遺症である不快な痺れや痛みを何とかしたい、というときに処方されたリリカでしたが、思いがけない身体の不調に襲われて不安が募り、苛(さいな)まれてひとり悶々としていたのでしょう。

 これ以上心配をかけたくないと、夫のぼくにでさえ打ち明けることだできずにいたのでしょう。

 

 そんな女房の姿を見かねたご霊さまがぼくに合図を送ってくれたのです。いずれ分かることだと思うけれども、早く女房のことを見てあげろ、と言わんばかりに、決して落ちることない構造のこのタニタの温湿度計を壁から落としたのです。

 手もない足もないご霊さまが7ミリほど持ち上げて手前に引く、という霊力を使ってです。

 

 それを目の当たりにしたぼくは「落ちるわけがない」と気付いて「何か特別なことがあったに違いない」と感じ取ったのです。

 

 ただ書棚に立てかけられた本や置物が床に落ちることって「まま、あることだよな」ということで終わってしまうでしょうが、構造的に絶対落ちるはずのない温湿度計がぼくの目の前に落ちたことで「ただ事でなないことが起きた」と気付かせてくれたのです。

 

 こんな風にご霊さまの「思いや意志」というものが伝わってきた,ということに、とても驚かされました。ご霊さまって、まるで生きているかのようなんです。

 

 とても驚かされたのはそれだけではありません。手もなく足もなく、しかも目に見えないご霊さまが、この温湿度計を7ミリ持ち上げて手前に引く作業を、ぼくの身体に触れんばかりの至近な距離で行っていたのではないか、ということなんです。

 

 というのは、ご霊さまがそんなに近くにいらした、なんていう気配はまったくありませんでしたけど。じゃあ、どこから、どうやって行ったのかしら。それとも、念力による遠隔操作だったのかも知れません。

 

 でも、この温湿度計が、誰の手も借りずに壁から落ちたことは間違いないのです。しかし、7ミリ持ち上がって手前に引いた、という肝心なところは、残なんなことに見せてはくれなかったんです。

 だから、ご霊さまがぼくのすぐ横にいらしたのか、それとも、念力といった遠隔操作によるものなのか、も教えてもらえませんでした。

 

 壁に掛けられたこの温湿度計が、手も触れずに7ミリ持ち上がって手前に落ちたのはなぜなのか、ちょっとその方面の勉強をしてみました。

 

 ご霊さま、と言うのは、いわゆる霊魂Soul、Spirit であり、肉体に対する心の部分である、とぼく自身の体験から感じています。心の部分だからこそ知、情、意(Intellest,Emotion,  Volition)という人の精神活動の要素から成り立っているので、ぼくが接しているご霊さまというのは、楽しみや悲しみの分かる、間違いなく人の心そのものなんです。

 

 

 1900年代前半に創生された超心理学(Parapsychology)という学問があります。この超心理学について日本超心理学学会によれば、心と物、あるいは心同士の相互作用を科学的な方法で研究する学問、としています。

 

 また、リン・ピクネット著の「超常現象の辞典」では、既知の自然法則では説明できない現象を研究する学問として、念力やテレパシー、未来予知や透視などが含まれる、と記されています。

 

 それらの文献の中に、その時点では発生していない事柄について,予め前もって知ることができる未来予知(Future Prediction)や言語や表情、身振りなどのよらずに、その人の心の中を直接他の人に伝えるテレパシー、あるいは、心の中で思っただけで物体を動かせたり、心を思いのままに操作する念力(Telekinesis,Psychokinesis)という超能力が紹介されていました。(Wikipediaより引用)

 

 ぼくの不思議体験というのは、まさにこれらなんです。「左足に気を付けて」と居眠りをしながら女房が書いた一文が、その翌日に現実となったり、書棚のファイルを斜めにしたり、壁の罹った温湿度計を、手に触れ床に落としたり落としたり、自分の勤務先である日本航空を早期に退職した方がいいよ、と本来の自分の気持ちを翻(くつがえ)されたりと、枚挙に暇(いとま)がありません。

 

 いやいや、それだけではないんです。無呼吸症候群のCPAPについてぼくと女房のやり取りを聞いていてにゃーと鳴き声を上げてくれた愛猫ブーちゃんも、カラスにつつかれて野垂れ死にしていたトラちゃんを、何とか市役所の職員に引き取ってもらったことも、さらに、ぼくに鼻血を流させたあの路傍のお地蔵さまも、きっと、人と同じような「知、情、意」をもっているんだな、と思えてならないのです。

 

 なぜなら、あの世のブーちゃんだって、路傍にたたずむお地蔵さまだって、人であるぼくの気持ちが通じて、ちゃんと反応してくれたんですから。

 

 例えば、明日の入学試験の前夜に、鉛筆や消しゴムに合格の願いを託して胸元に抱いて寝床に就くと、思いもよらずに手元がすらすらと動いて、合格することができた、なんてことを経験したことはないですか。   

                        

 それは「モノを大切にする」ということとは次元を異にする「モノに思いを込める」ことによって、そのものが「応えてくれる」という念力に依るものでしょう。それはぼくたちが神棚やお仏壇のお参りすることで気持が清らかになることに繋がっているのです。

 

 

 

 

 その七 医師からのたった一言で、タバコが吸えなくなってしまった

 

 周りからたばこ吸いの人がだんだんに少なくなってきて、妻からも「たばこ止めなさいよ」と口酸っぱく言われているのに、どうしてもやめられないたばこ常習者でした。

 ところがある時、胸の痛みで医者に診てもらいました。胸部のレントゲン写真を撮ってシャーカステンに映る自分の肺の写真を診ていた医師の口から出たたった一言で、ぼくはたばこを吸うことは勿論、たばこのパッケージに触ることも、見ることすらもできなくなってしまいました。

 

        ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 高校を卒業した頃、どんな味がするんだると興味本位で手にした1本のたばこが10本になり20本になって、この煙の香りと一服感の癒しの虜になるまでに長い時間はかかりませんでした。

              

 ポピュラーなハイライトから始まって、葉っぱの匂いが心地よいわかばやいこい、大陸の匂いがするラークやマールボロといった海外ものまで嗜好の幅を広げて、日に20本を超えるまでになっていたのに、妻から「臭い、臭い」と嫌がられるまで、その量の多さに気付くことはありませんでした。

 
 しかも、職場の同僚や街を行きかう多くの人たちがたばこを吸っている姿を目にしていたので「身体によくないよ」という妻の言葉が僕に気持ちに届いたことはありませんでした。
 「おとこの嗜(たしな)みだよ」なんて言い訳しながら、まるで一時も離れたくない恋人のように、たばこの箱を手から離すことはなかったのです。
 
 しかし、平成の10年ころからたばこによる身体への有害性が強く叫ばれるようになり、加えて、大衆向けのハイライトの値段も300円に跳ね上がったこともあって、人前でたばこを吸うことがタブー視(Taboo,社会的に厳禁されること)されるようになってきました。
 
 そんな世間の流れを身近に感じ始めた妻は、「たばこを止めなさいよ」と今までになく大きな声と厳しい口調をぼくに向けるのですが、もう、既にたばこの虜になってしまっていたぼくの身体は、言うことを聞いてくれない身体になっていました。
 
 新聞に載っていた喫煙指数という1日あたりの喫煙本数と経過過年数を乗じた数値を計算してみると、COPDのみならず咽頭がんや肺がんに罹るリスクが、非喫煙者の8倍にもなるという
700をゆうに超えて800にもなっていたことを知っているはずなのに、です。
 
 止めたいと思っても、どうしても止められなかったのです。歴(れき)としたたばこ依存症という病気になっていたんです。
 
 不動産取引業アイビーを立ち上げてから10年余を迎えようとしていた平成21年の秋でした。妻と夕食を摂りながら、ぼくが歩行するときの姿勢が年寄り臭い、ということが話題になりました。
 
 「猫背で歩いているから、胃腸の消化が悪くて胃もたれになるのよ」とか「右側の肩が下がっているから年寄り爺さんみたいだよ」なんて、煙草を止められないことに引っ掛けて散々にけなされっぱなしでした。
                                                                    

 「そんなにけなすんなら、整体院とかカイロプラクティックに行って身体の歪みを矯正してもらおうか」ということになったのです。少し的外れな対策であることは承知のうえでしたが、そうでも言わないと、この話が終わらなかったんです。

 

 「善は急げ」とばかりに翌日、自社に出勤してからネットで「姿勢の矯正」と検索してみました。すると、事務所から車で10分ほどの距離にあるめいわ という地域にKカイロプラクティック治療院というのがあって「整体、骨盤矯正」と謳った広告を見つけたので、早速電話をして翌日の朝一番の予約を取りました。

 

 翌日、地図を頼りにKカイロ治療院に向かいました。現地付近に着いたので車のスピードを落として周りを見回すと、居宅と棟続きになっている平屋の外壁に大きく「K治療院}と書かれた建物が目にはい居たので迷うことはありませんでした。

 

 施術をしてくれる40前後の若い男の先生に「ぼくの猫背を治したい」と伝えると、うつ伏せになったぼくの背中を何度かさすりながら「右よりも、左側の背中の方が幾分もり上がっていますね」と言いながら、その左側の背中部分を集中的に押してくれました。

 

 背中が終わると、手や足といった全身的な部分もさすったり、摘まんだりしてくれて「大分、背中が平らになりましたよ」と教えてくれました。

 

「よかった」という気持ちで次回の予約をして、料金を支払って事務所に戻りました。妻に背中を向けて猫背の具合を診てもらうと「うん、背筋が伸びてきた」と、自分の言うことを聞き入れてくれたぼくを目の前にしてご満悦でした。

 

 

 ところが、それから二日後、朝から左側の肋骨の下の方がひどく痛くなっていました。左側肋骨の一番下の湾曲したところです。大きく息を吸って肋骨を広げると跳びあがらんばかりに痛みます。息を吸わなくても、その部分を指先で押しただけでも、アイスピックで突かれたように痛むのです。

                            

 2,3日様子を見ていたけれど、痛みが和らぐどころか、寝床に入ってもジーンとした不快な痛みを覚えて寝付けなかったんです。

 整体院Kカイロの先生が集中的に押してくれたのは左側だったことを思い出しtr「先生が力を入れ過ぎたのではないか」とおもって電話をしてみました。

 

 すると「無理に押すようなことはしませんよ。今までもそのようなことはありませんでしたよ」という返事が返ってきて、これ以上責めることはできませんでした。

 

 「じゃあ、仕方ないな」と、事務所が定休日に自宅の近くにある成田整形外科を受診しました。問診票に痛みの状況を書き込んで、先生の診察を受けてからX先写真を撮りました。

 

 シャーカステンに映る画像を観ながら診察をしてくれたのですが「痛みを超すような所見は三あやらないね」ということでした。粘着テープ状の経皮吸収型の鎮痛抗炎症剤を処方してくれたので、それで様子を見ることになりました。

 

 しかし、朝と晩にその湿布薬を貼り換えながら様子を見ていたのですが、3日経っても4日経っても痛みが少しも引いてくれません。「肋骨の小さなひび割れを見落としたのではないか」と疑ったぼくは、アイビーの事務所から徒歩で10分ほどのところにある国立診療所下志津病院(現在の国立病院機構下志津病院)の整形外科を受診したんです。

 

 成田整形外科と同じように問診票に痛みの状況を書き込んで、先生の診察を受けてX線

写真を撮り画像を観ながら診察をしてくれました。しかし、成田整形外科の先生と同じように「痛みを起こすような所見はありませんね」ということだったのです。

 「骨にひびが入っているよなことはないのですか」と聞いてみたんですが、「それほど痛いのならば、画像に映りますからね」と言われてしまいました。

 

 「でも、もう一週間近く経つけれど、痛みが引かないのです」と困惑した口調で問い返すと、シャーカステンに映るぼくの胸の透視写真をじーっと見つめていた先生が、突然、藪から棒にこんな言葉をぼくに投げかけてきたんです。「あなたは たばこを吸いますか」と。

 

 その質問の意図が分からないまま「ええ、はい」とぼくが答えると、先生は、肋骨と一緒に映し出されている肺の一部分を人差し指で指示(さししめ)しながら「肺がまっ白ですよ」と言い放ったんです。

 

 「えっ、どこですか」と画像に顔を近づけてみると、本来黒く映るべきだという肋骨の背景となっている肺に部分が、うす雲に覆われたように白っぽく映っていたのです。

 そんな所見を見せられたぼくは、もう、気が動転してそれから先のことはよく覚えていないのです。先生に御礼を言ったかどうかも、会計できちんとお金を払ったかどうかも、覚えていないのです。


 40年を超える喫煙の習慣が灰を真っ白に映すほどに自分の体を蝕んでいたことを、目の前にいる医師の口から聴かされたことで、とてとぅもなく大きな衝撃を覚えたのです。

 

 

 

                                                ブログ文字数オーバーのために移動します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その二 女房が居眠りしながら記した明日の予告

 

 ダイニングの椅子に座ってうとうとしながら新聞の折り込みチラシの端っこに記した「ひだりあしにきをつけて」の一文は、あくる日、息子が左足に擦り傷を負ってきたくしたことで現実となって現れました。

 どなただか分からないけれど、あの世の人からの未来予知かも知れない、と気付いたんです。

 

           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 三日間の講習も終わり、JR四ツ谷駅で中川さんと別れてまっすぐ自宅への帰路につkました。同じ年齢の女房と小学3年の娘、蘇飛て同じく2年の息子の家族4人で夕食を摂りながら、ぼくが効いてきた講習会の話を披露しました。

 

 「真ごころの浄め祓いを受けるとあらゆる毒気というものが体外に出て、禍(わざわい)に遭わなくなるんだってよ」と切り出すと「ふーん」といかがわしいものでも見るような目を向けられて一笑されてしまいました        。

 

 女房だけでも仲間にしたいと、日を改めて「浄め祓いをさせてよ」と女房の肩に手をかざしたんです。「なに、何」と言いながらも受けてくれて、しばらくすると「何となく暖かくなってきた」と女房が言ったんです。

 

 こはチャンスだと、どうにもならなかったぼくの胃もたれと下痢に、藁をも掴む思いで神教真ごころの門を叩いたことを話すと「へー、そんなことあるの」といかがわしいものを見るような目を向けていた女房が「私も教えてもらおうかな」なんて言い出したんです。 

 

 「それじゃあ」ということで中川さんにその旨を伝えて、神教の四ツ谷本部で行われる三日間の講習を女房も受けることができました。

 

 女房も信者になってから半年ほど経った土曜日に夕方でした。いつものように家計簿をつけるためにダイニングのテーブルに向かっていた女房が、突然「何よ、これ」と驚いたような声をあげてぼくを呼び寄せたんです。

 

 「何だよ、どうしたんだよ」と言いながら女房に近づくと「これを見てよ、居眠りしている間に書いたの」と家計簿の余白に書いたという一文を手の指で指し示していたんです。その指の先に顔を近づけると、ゆらゆらした読みづらいひらがな字体で「ひだりあしにきをつけて」と一筆書きされていたんです。

 そして、その文末にはこの一文を伝えてきた人の名前と思われる筆跡もありましたが、ゆらゆらしすぎて読み取ることはできませんでした。

             

 「何だよ、これは。左側の足に気をつけろよ、という意味じゃないのか。誰の左足なんだ。お前が書いたのか」と女房を問い詰めても「私がこんなこと書くわけないじゃないのよ」と言い返されたんです。 

 

 「じゃあ、誰が書いたんだよ。気持ち悪いな」といいながら、子供たちを呼び寄せました。そして「ママが居眠りしながらこんなことを書いたから、明日は左足に気をつけなさいよ」と注意をしておいたんです。

 

 あくる日の夕方、「ただいま」と会社から帰宅したぼくに「お兄ちゃんの左足を見てよと女房が耳打ちしてきたんです。「えっ」という思いで息子を呼び寄せて左足を見ると、その脛(すね)に青あざと擦り傷を作っていたのです。

 

 「どうしたんだよ、その傷は」と息子に聞いてみると「道路に転がっていた木でできたミカン箱にぶつかったんだ」というのです。

 

 「おまえが家計簿に書いたあの一文は、どうやら息子の左足に負ったこの傷を予言していたようだね」と、女房と顔を見合わせたんです。

 

 「でも、あの未来に起こる予告を私に書かせたのは誰なのよ」と女房が言うように、あくる日という未来に起こることを、予め女房の手を借りて書かせたのだな、と理解できたけれど、それを書かせたのは、決して現世に生きる人たちではないように思いました。

 

 すると、まだ一度も見たことも会ったこともない神さまなのか、それとも、あの神教の講習会での夢の中に出てきたのっぺらぼうの男なのか、ということになりますが、はっきりと分かりませんでした。

 

 

 

 

 その三 お位牌に吸い込まれていった二つの影

 

 どこからともなく現れた2つの丸くて薄黒い影が目の前を通り過ぎる姿は、「おお、怖い」というよりも「何なの、これは」といった、生まれて初めて目にしたような驚きでした。

 

       ============================

 

 神教真ごころの信者となったぼくと女房は、土曜日と日曜日、あるいは祝祭日を利用して週に1回ほどの頻度で、成田と我孫子間を車で約1時間かけてご神前の参拝に通うようになりました。もちろん、二人の子供たちも一緒でした。

 

 そんな信者生活をするようになって半年ほどが経ちました。班長の中川さんから声をかけられて「祖霊祭り(それいまつり)をした方がいいですね」と言われたんです。

 「祖霊祭りって何ですか」と問い返すと「正法(せいほう)に基づいて正しくお位牌をお祀りするんですよ。講習会に出てこられたご先祖の方もきっと、お喜びになりますよ」と言うんです。

 

 確かに講習会ではのっぺらぼうのご霊さまが目の前に現れたけれども、同じ屋根の下で暮らす母の部屋には、既にお位牌をお祀りしています。そこで「一つの家族に二つのお位牌があってもいいんですか」と聞いてみたんです。

 

 すると「ええ、構いませんよ。講習会で教えていただいたように、中を明るくしたお仏壇にお祀(まつ)りして、食事の供養をしながら毎日お参りさせていただきなさい」という返事でした。

            

 「食事の供養をしながら毎日お参りさせていただく」という中川さんの言葉にぼくは心を打たれました。ご先祖の方たちは今も生きておられるのだから、ひもじい思いをさせないように、自分たちと同じ食事をお出しして、ご先祖の皆さまの幸せをお祈りしなさい、ということですよと説明されたからなんです。

          

 ご先祖の方たちは今も生きておられる、だから毎日の食事を欠かすことなくお出しし、お参りさせていただく―――、ご霊さまとなって生きておられる、霊さまとなって生きておられる、とはどういうことなのか、とても興味を覚えました。

 

 でも、自分たちと同じ食事をお出しして、ご先祖の皆さまは本当に召し上がってくれているんだろうか、そんなことは今までに耳にしたこともないし、どうやって召し上がるんだろうか、と半信半疑の心境でした。

 

 お仏壇をご安置する場所を決めるために、一週間後に訪問したい、という中川さんからの連絡を受け、了解しました。当日、中川さんと、やはり安孫子支部の幹部であるshら川さんという男性の二人が自宅に見えました。

 

 「二階を見せてください」ということで二階に案内しました。わが家の間取りはいわゆる「一、二階の反転間取り」というもので、ダイニングやリビング、そして客間を二階に、家族の寝室を一階に配している、という普通の間取りとはちょっと変わっています。

 

 家族のみんなが集まるところに多くの陽(ひ)が入って明るい方がいいよね、という女房の要望でそのようにしたんです。

 

 ところが、いざ、お仏壇をどこに置こうかと考えると、ダイニングは吊戸棚が天井付近にあり、リビングも応接セットが床面一杯に配されているのでお参りするスペースがありません。りん接する和室にすると、仏間のような部屋に客人をお通しすることになるので、できるならば、1階にあるぼくの部屋がいいなあ、と思っていました。

 

 そんなぼくの気持ちを知ってか知らずか、中川さんと白川さんの二人は、何かもそもそと話をしながら2階の和室辺りでうろうろしています。ぼくら家族の希望を聴くことはありませんでした。

 

 「えーーと、ではこのようにしてください」と中川さんが声をかけてきました。「よく陽の当たって明るいリビングの方に向けて、この北側の壁面に御仏壇を置きましょう」というのです。

 

 でも、この壁面は大壁造りのために柱が見えません。「どんな風に棚を吊ればいいんですか」と聞いてみると「この壁面に2本の縦材を打ち付けて、お仏壇の中のお位牌が床面から1,5メートルより上になるような位置に棚を吊ってください」と白川さんが慣れた口調で分かりやすく説明してくれました。

 ぼくは大工さんに頼まなければいけないな、と理解しました。

 

 「それでは、お仏壇と仏具一式を注文します」ということで中川さんがそれらのカタログを見せてくれました。高額なお仏壇や仏具を売りつける宗教団体もある、と言いていたので「もし、気に入ったのがなければ、他の店で購入してもいいですか」と聞いてみたところ「それは構いませんよ」と言うので、気兼ねなく見せてもらいました。

 

 中川さんが勧めてくれたお仏壇は、高さが58cm余の18号という大きさで、障子扉のない唐木(からき)仏壇(東南アジア等の熱帯地方で伐採された硬い木材で造られた仏壇)で、中の背板だけが金箔が貼られた価格が数万円の廉価品でした。

 金箔を施された高額品を売りつけられるのではないか、という心配は余計なことでした。

 

 お位牌も一般的な塗(ぬり)位牌(表面に漆や金箔などを塗布してある位牌。黒檀等のも無罪だけで作られた位牌を唐木位牌という)ですが、「黒地に金文字というのがご霊さまにとって大切なのですよ」と押していただきました。おりんセットと仏膳セットも「中等品でいいですよ」といわれ、「線香や蝋燭は使いません」と言われました。

 

 「その代わり、お仏壇の中を明るくするための小さな蛍光灯がお仏壇の天井に取り付けられていますから、近くに電気のコンセントがないといけませんね」と教えてくれました。

 それらを注文してくれたのですが、真ごころ流の正法というお祀りの仕方が、あまりにも世間一般に目にするものとは違うことに驚きました。

 

 

 早速、大壁造りの和室の壁に棚を吊ってもらうよう工務店に依頼し、一日もかからずに出来上がりました。一週間ほどすると、中川さんお勧めのお仏壇とおりんセット、そして仏膳セットとお位牌が白川さんの車で運ばれてきました。

 

 そして、和室の北側に新造された棚に真新しいお仏壇を安置し、その中の上段の棚にお位牌を、右側におりんを置いて、天井に取り付けられた蛍光灯を点灯してみたんです。

 なんて明るいお仏壇なんでしょう。黒地に渡部家先祖代々の之霊位」と記された金文字光り輝いて、、とても明るく神々(こうごう)しく見えました。

 

 それに過敏に挿した仏花と少々のお供物を用意して準備が整いました。このようにして、昭和58年7月吉日に我が家の祖霊祭りは執り行われました。

 

 お仏壇の飾り物のように見えたお位牌を、ご霊さまたちの霊界と現界との通り道にするための儀式を神教真ごころでは「祖霊祀り」と呼んでいますが、お坊さんを呼んだわけではありません。参列者もぼくたちの家族4人とぼくの母、そして神教真ごころ安孫子支部の所長と幹部である中川さんの7人だけでした。

 

 そして儀式の中で唱えられたのは般若心経というお経ではなく、神示しによると説明された祈事(のりごと)や経典の一部でした。ぼくたち信者もそれらを復唱して「ご先祖の皆々様、このお位牌にお罹(かか)り下さい」という所長の一言と頭を深々と下げる一礼だけで儀式が終わりました。

 

 何と簡素で、何と質素で、何と廉価な祖霊祀りなのでしょう。壁に掛けられた時計を見ると、初めから終わりまで、門の15分余しか経過していないのです。あまりにも軽々しい儀式に「これでご先祖の皆さまは、本当にこのお位牌にお罹りになって、お食事を召し上がっていただけるんだろうか」と、疑ってしまうほどでした。

 

 そんな疑いを吹っ飛ばすようなことが、それから3ヶ月ほど経って起きたんです。いくつもの台風が通り過ぎて秋風が吹き始めたころでした。「たまにはご先祖さまのお参りをみんなでしよう」とぼくが音頭をとって家族4人でお参りをすることにしたんです。

 

 「えー、何でー」と不満を漏らす子供たちでしたが、お仏壇に向かって右側に座ったぼくの後ろに小学3年の息子が、ぼくの左横に女房が、そして、その後ろに小学4年の長女が正座をして腰を下ろしました。

 

 「それではいくよ」とぼくが掛け声を上げて、祖霊祭りのときに教団幹部が唱えていた祈言と同じ「天津祈言(あまつのりごと)」を、経典を見ながら唱え始めたんです。そして、その祈言の中ほどまで唱え進んだとき、経典を読む自分の視線の右側に、何か動くものがあることに気付いたんです。

 

 「ん?」と思って視線をその動くものに移すと、何と「薄黒い影」だったのです。畳の上に投影された楕円形の影だったんです。動いているその影はぼくのすぐ右横に来ました。すると、自分の手のひらを広げたほどの大きさと、それより一回り小さい影の二つだったんです。

             

 大きい方の影が先頭になって、ゆっくりとした速さでス――とぼくの右横を通って前方に動いちきました。「何なの、これは」という思いで視線を逸らすことなくその影を追いました。もちろん、祈言をt萎えながらです。

 

 前方の壁に突き当たったそれら2つの影は、その壁を這い上がりはじめ、お仏壇の中に入っていきました。目を凝らすと、まるでお位牌に吸い込まれていくようにその2つの影が消えてしまったのです。

 蛍光灯で明るく照らされたお仏壇の中なので、その様子がとてもよく見えていました。

 

 祈言を唱え終わり「お参りを終わらせていただきます」と挨拶を済ますと「ああ」と肩の力がどっと抜けました。振り向くと、真っ青な顔をした息子が震えていたので「大丈夫だよ」と声をかけながら抱いてあげ、背中をさすって安心させました。

 

 息子もこの2つの影の一部始終を見ていたようです。息子の背後から近づいてきたのでしょうから、さぞかし青天の霹靂だったに違いありません。一方、女房と娘は「どうしたの」という怪訝な表情を向けるだけで、何が起きたのか分からなかったようです。

 

 

 一人になったぼくは、あの光景を思い出していました。お仏壇お腹にご安置されていたお位牌が、祖霊祭りを済ませたとたんに、薄黒い影が通るための道路になっていたんです。初めて目にした光景に驚かされただけでなく、気になることがいくつもあったのです。

 

 

 先ず、あの動いていたあの薄黒い影はいったい何なのか、ということです。床面に映った薄頃い影はいったい何なのか、ということです。

 

 ぼくは夢を見ていたのではないだろうか、と疑いました。いや、ぼくが見たものは幻影(まぼろし)だったのではないのか、とも思いました。

 

 夢というのは、あたかも現実の光景であるかのような映像が睡眠中に起こることです。でも、ぼくは声を出して祈言を唱えていたので、決して居眠りなんかしていません。だから夢ではありません。

 

 じゃあ、幻影だったのでしょうか。幻影というのは、眠ってはいないけれども、実際には存在しているないのに、あたかも存在しているように見える心的な映像で、すぐに消えてしまう儚いものをいいます。

 

 しかし、自分の視界に映ってからお位牌に吸い込まれていく姿までしっかりと視認できていたので、儚い幻影でもありません。ましてや、ぼくと息子の2人そろって同じ夢や同じ幻影を見るなんてことは会いえません。

 

 では、あの影はいったい何だったのか、ということになります。ぼくのすぐ横、ちょっと手を伸ばせば届くような至近の距離で見たものは、間違いなく光を遮ったときにできる影Shadowそのものでした。しかも輪郭がぼやけたボー―っとしたものでした。

 

 ただ、普通目にする影と違うのは、その影と天上に取付けられた電灯との間にそのような影を投影するような遮光物は何もなかったのです。だから、電灯の光を遮ってできた影ではなく、薄黒い半透明の物体、としかいいようがないのです。

 

 ぼくが目にした薄黒い影というものをイラストにしてみれば下に示したような感じですが、もっと輪郭をぼやかせた感じの煙(けむり)のような状態を想像していただければよろしいかと思います。そのぼやけた感じをうまく描くことができませんでした。

                                                  

 では改めて、あの地球上の影のように薄黒くて半透明なものは何だったのでしょうか。少なくとも、この地球上のものではなく、この世のものでもないように思います。

 自分の気持ちの中で思ったことを言えば、あの薄黒い影はご霊さまそのもの、つまり、亡くなった人の霊体とか霊魂といったもの、ではないのかなと思います。お仏壇の中に安置されているお位牌に吸い込まれていった様子を思いおこせば、それ以外には言いようがないのです。

 

 それで、お位牌に吸い込まれていった何処へ向かったのでしょうか。それは言わずと知れた霊界、つまり「あの世」なのでしょう。ご霊さまにとってのお位牌というのは、この世とあの世をつなぐ出入り口なんですよ、と教えてくれたのだと思いました。

 

 だから、お位牌に吸い込まれていった2つの影は、この世のものではないのです。すると、真ごころの講習会で居眠りをしたときに出てきたのっぺらぼうの男を思い出しました。あの時のご霊さまは人の形をしていたけれど、今度は「影」という姿で現れたのでしょうか。

 

 気になっていたぼくは、後日、中川さんに聞いてみたんです。すると中川さんは「その方たちもご先祖の方ですよ」と教えtrくれたんですが、ぼくのご先祖の方が講習会での夢の中にも、我が家のお位牌のところにも出てきたというのでしょうか。

 

 もし、これら影の大きい方が大人で、小さい方が子供だとするならば、思い当たることがあるんです。それは父と、まだ母の胎内にいた胎児の二人なのかも知れません。

 

 というのは、父が亡くなったときに母が3人目の子を身ごもっていたけれど、止む無くその子を堕胎した、と母本人お口から聴いていたからです。でも、この2つの影が父とその胎児ではないか、というのは単なるぼくの推測にすぎません。

 

 なぜなら、亡くなった日にしても、場所にしても、父と胎児とは全く違うし、その親子が時空を超えて、あの世で一緒に連れだって暮らしているなんて、とても考えられないからなんです。

 

 いや、もし一緒に暮らしていることが本当だとするならば、親と子、例え、まだ生まれ出てこない胎児であっても、その絆と言いますか繋がりと言うものがそれほど堅固なものなののですよ、ということを教えてくれています。

 

 それだけではありません。亡くなった日も場所もまったく違う二人があの世で連れ添っていた、という事実は、お互いに意思の疎通を図っていたのではないだろうか、と推測してしまうんです。少なくとも、二人揃ってこの世に姿を現そう、と相談していたに違いありません。

 

 そんな思いを巡らせていると、「血は水よりも濃し」   という故事のいわれを目の当たりにした思いなんです。例えば、災害や事故に遭って親子や兄弟が離散したり行方不明になったりしても、あの世に行ったときには家族みんなと再会できることを示しています。

 

 さらに思いを深めれば、それほど親と子の繋がりが強いのですから、貧困や虐待によって命を絶たれた幼児は、後から来たお父さんやお母さんをどのような思いで待ち受けるのでしょうか。先に霊界に行っていた幼児の姿を目にした両親は、その幼児にどんな思いを向けるのでしょうか。

 

 もちろん、身体があるわけではないですから表情や身振りで表すことはできないでしょうけれど、きっと、憎しみに満ちた思いが飛び交う修羅場となっているに違いありません。お父さんとお母さんは、自分の顔を床にこすりつけるほどひれ伏していることでしょう。でも、元に戻ることはありません。

 

 家族のみんなが仲良くしなければいけない、というこの世を生きるための基本を示しているように思います。この世でみんなが仲良くすればこそ、霊界でもみんなが仲良く、幸せに暮らすことができるのですよ、と教えてくれているようです。

 

 つまり、何年か経ってぼくがあの世に行ったとき「お前の父さんだよ」と声をかけられて父に会うことができたとき、にこにこした父が「よくきたな」とぼくのことを力強く抱きしめてくれるかもしれないな、なんて想像したら、涙が溢れtrきました。

 だってぼくには、父から抱っこされたり手を繋いでくれたりした記憶というものが全くないのですから。

 

 でも、きっと、ぼくたち家族は仲良く暮らしていけると思います、親子なんだし、亡き父の毎日のお食事を欠かすことなくお出ししながら、そのお位牌をずー―と長い間お祀りさせていただいていますものね。どんなところで、どんな風にして父に会えるんだろうか、と考えただけで嬉しさがこみ上げてきます。

 

 もう一つ気にンることがあります。ぼくたちの前に現れたあの霊体は、どうして影のように薄黒く視認できたのでしょうか、ということなんです。霊体というのは今は亡き人の「思い」のあつまりだから、網膜には映らないはずなんです。

 

 ぼくは数えきれないほどの不思議な霊体験をしていますが、あのような影を目にしたのはあの時のたった一度だけなのです。それ以外は、近くにご霊体はいらっしゃらなかったのでしょうか。

 

 いやいや、温湿度計が目の前で壁から落ちたり、背中を押されたりとご霊さまが近くにいらっしゃるのではないかという場面は多々あったのに、黒い影を目にしたことはなかったのです。

 

 それはたぶん、普段は目に見えないご霊さまですが、家族4人がそろっているときだけ薄黒い影色に染めて、ご霊さまの存在を明らかにしたのでしょう、とぼくは想像しています。きっと「父さんと末っ子はちゃんと生きているよ」と残されたぼくたち家族のみんなに伝えたかったらだと思います。

 

 その日を機に、あの小さい方の影は母のお腹の中にいたぼくの兄弟なんだ、と思い込んで、ぼくは今までの緑茶とお水に加えて、人肌に温めたミルクも毎日のお供えにお出しすることにしました。

 

 それと同時に、お位牌の祀り方を「並列」並べから、真ごころ流の正法と言われている「段違い」並べの形にしたことで、ご先祖の皆様がこのお位牌を通してこの世とあの世を行き来していることを知りました。

 

 つまり、お位牌は正しくお祀りすることによって、単なるお仏壇の飾り物ではなくなり、ご霊さまたちが現界に生きるぼくたちに会いたくなったときにいつも開いている出入り口の扉である、ということを教えてくれたのです。

 

 そんなことに思いを巡らせていたら、父と、母のお腹の中にいた胎児であろうと思われる二人のご霊さまが、ぼくたちの前にその姿を現した理由が分かったような気がしました。

 それはきっと、現世に生きる家族からきちんとお祀りをされて、毎日のお食事を出していただいているご先祖の皆さまが、とても喜んでくれていることをぼくたちに伝えたかったのだろう、ということです。

                      

 それは、例えば、ぼくやぼくの家族に対する体調管理に特別な指示をしてくれたり、人生の進路についても適格に、着実に導いていただけた、というような摩訶不思議なことをたくさん体験させてくれたことで分かりました。

 

 それから3ヶ月ほど経ったでしょうあか、ぼくは「真ごころを辞めたくなっちゃった」と小声で女房に告げると「私も」と言うので、二人して神教真ごころを退団しました。何だか目的を果たしたと言いますか、いつまでも信者でいたいという気概が萎えてしまいました。

 

 2ねんあまりの安孫子支部通いでしたが、いろいろありました。車に二人の子供を乗せて安孫子支部に向かう途中でバストの衝突事故を起こした女房でしたが、その衝撃の強さは、右側前輪のフェンダを大きく破損して走行不能になるほどでした。

 

 しかし、女房はもとより、二人の子供もかすり傷一つ追うことはなかった、というご加護をいただいたこともありました。それに、女房が左側顔面の神経麻痺に罹って初期時もろくに摂れなくなったこともありました。

 

 教団の導師(どうし)と呼ばれる霊の障り具合を視(み)てくれる人から「間違いなく霊の障りだから、しっかりと浄め祓いを受けてください。1ヶ月をすぎたころに後頭部から首筋にぷよぷよした霊の塊りが下りてきます。それが鎖骨の裏側に消えて見えなくなるころに顔が動くようになりますよ」と教えていただきました。

 

 そこで女房は医者から処方された何種類もの薬の服用を一切やめて、導師が言われるように毎日浄め祓いを受け続けていると、1ヶ月を過ぎたころ突然に、襟首に小さめの鶏卵を半分にして伏せたような形のぷよぷよした膨らみが出てきて、日を追うごとに少しずつ動いて鎖骨の裏側に入ってみえなくなったかな、という頃に顔の麻痺が消えてゆき、まともに動かすことができるようになったのです。

 あの導師が教えてくれた通りでした。

 

 しかし、こんなに多くのご加護をいただいているのに、ぼくは神教真ごころを辞めたいという気持ちを翻(ひるがえ)すことはありませんでした。真ごころを辞めてどうしtもやりたかったことがぼくにはあったからなんです。

 それは、2階の和室という少し離れた場所にお祀りしていたお位牌を、もう少し自分の近くに置きたかったのです。

 

 しかし、それは教団の幹部が「ここがいいですね」と2階にある和室の北側壁面に決めていただいたことを無視することになるけれども、ぼくにはぼくなりの、ぼくだけの明確な理由があったからなんです。

 

 それあhこのお位牌に出入りしている父と母のお腹にいた二人のご霊さまがとても愛おしく感じたからなんです。だから、そのお位牌を1階にあるぼくの書斎にある洋服ダンスの上において、毎日、毎日、そのご霊さまと触れ合っていたかったからなんです。

 

 もちろん、お位牌の位置を確かめ、お仏壇の中の照明もきちんと配備したし、2階の廊下がちょうどお位牌の真上になるけれど、足で踏みつけるようなことはないな、と確認してのことでした。

 

 ところが,実際にお位牌をぼくの部屋に移動してからというもの、ご霊さまによる不思議な現象がめっきり少なくなってきただけでなく、それから30年余が経って霊の障りではないか、と疑いたくなるような身体の首から上の部分に不調が現れて、女房ともども、もはや、取り返しがつかない状況になってしまったんです。

 

 具体的には、ぼくの持病となってしまった緑内障による物の見づらさが進行して視界のぼやけやかすみが進行したことと、女房に突然の脳卒中が発症したことなんです。これについては、別の章「お位牌は2階にお祀りするのがいい」と「PCが教えてくれた妻の脳卒中」に紹介しますので、お読みになってください。

 

 ぼくの緑内障の悪化と女房の脳卒中の発症は「偶然の出来事だよな」と思いたいんだけれど、その一方で、教団の言うことに逆らってお位牌を1階にある自分の部屋に置いたことによる霊の障りではないのか、ということも否定できないでいるんです。

 

 なぜなら、緑内障が悪化したぼくの眼も、出血した女房の脳も、霊の障りが現れやすい首よりも上の部分にあり、しかも、その発症の時期も、共に平成26年内というとても接近していたから、というのがその理由です。

 

 ぼくたち夫婦それぞれに起きた不幸な出来事がほとんど同じ時期だったことが、自然界の流れではない、何か、意図的に起こされたようにぼくには思えるからなんです。

 果たしてどうなんでしょか。

 

                                                      読後感、ご感想等ございましたらお聞かせください。

                   mail address: bootaro0808@nctv.co.jp

 

 

 

 

 その四 思わぬ理由で日本航空を早期に退職

 

 平成10年4月、日本航空の全職員に早期退職者の募集の社内通信が出されました。思いもしなかったリストラ策にぼくは迷ったけれど「迷ったら大勢に従う」と決めて、みんなと同じようにぼくもそれに応募しないつもりでした。

 けれど、あるとい「お前、宅建の資格を持っているよな」とささやかれたような一言が伝わってきたことで辞表を出す気持ちに翻(ひるがえ)り、早期に退職して不動産屋を始めたんです。

 

       **************************

 

 昭和39年3月に都立航空工業高等学校を卒業したぼくは、運よく憧れの日本航空に入社することができました。整備訓練所で飛行機の整備について1年間ほど勉強した後、機体工場に配属されて機体のオーバーホール作業に就き、4年ほど経ちました。

                                                

 当時は組合活動がとても盛んな時期で、職員の過半数を占める企業系の黄色組合と少数派で労働者系の紅入り組合との問題で身の振り方に行き詰っていたぼくは、企業系組合に移ることを条件に装備品を扱う装備工場に異動させてもらいました。

 

 その装備工場の全職員数は200名ほどで、その中の油圧部品を扱う機械部品課に配属されました。

 

 園油圧部品課では油漏れを起こしたり使用時間が迫ったりして期待から取り外された油圧部品を分解して、消耗部品を新しいものに交換し、作動試験を行い、ふたたび新品同様にして部品庫に収める、という仕事に勤しんでいました。

 

 この工場に配属されて39年余が経ったけれど、高校卒のぼくは部下にいない職場の専門職として汗を流していました。

 

 そんななか、平成10年4月から1年間に亘って500人前後の早期退職者を募集するという社内通信が発表されました。「会社の状況はそんなに悪いのか」と、思いがけないリストラ策に職場の仲間たちの気持ちは揺れていました。

 

 平成2年のバブル崩壊によって生じた航空燃料の先物買いによる多大な損失や100基を超える大量のジャンボ機を購入したことによって、B777といった次世代の高効率燃費旅客機への転換が遅れ気味になっている等親方日の丸的な放漫経営が、近い将来に立ち行かなくなるのではないか、という危機感を持つ人が多くいました。

 

 その一方で、「この日本航空が潰れるわけがない」とか「このリストラ策で大きな挽回が図れる」といった心情で、身近に迫った全日空や日本エアシステムを含めた航空自由化に向けての布石を打つということだ、と楽観的な見方の人も少なからずいたのです。

 

 しかし、先細りしてゆく現況を知って辞めたいと思っても「辞めて何ができるんだ」という現実を考えると、手に職を持たない、なんの資格も持たない、これといったコネもない、といった「三ない」人間の工業高校卒ばかりですから、後者のように楽観的に振舞うしか手はなかったのが現実だと思います。

 

 確かに今すぐ潰れるわけで会はないので、将来に不安を残してまで早期の退職に応じるよりも、多くの人たちと同じ行動をとっている方が大きな間違いをしないのではないか、という集団心理がおおkの同僚の気持ちに働いていたと思います。

 

 その意味で、年末にどのくらいのあい商社が出るんか、ということが多くの社員の関心事でした。その辺りになると、先の見えないぼくにしても同じでした。

 

 すると、12月の中旬になって、装備工場内における年内の早期退職者は1名で、既に退職しました、との報告があり「ああ、やっぱりな。大部分の同僚が自分と同じようにJALに居残ることに決めたんだな」と大きな安心感を覚えました。

 

 すでに退職した1名というのは誰なのか、ということが噂になったけれど、別に隠すことではないので気圧部品課の太田君というぼくより2,3年下の後輩だと分かりました。退職理由も「故郷に帰るらしいぞ」ということで、日本航空の将来に危機感を抱いていたわけではないことが漏れ聞こえてきて「早期退職に応募しない」という気持ちはますます揺るぎないものになったのです。

 

 

 ところが、平成11年の新年が明けた1月中頃でした。俄かにぼくの胸の中がざわざわと騒がしくなってきたんです。どういう訳だか分からないけれど、落ち着いていられなくなったのです。そしたら「お前、宅地建物取引主任者の資格を持っているよな」という言葉が伝わってきて、思いもしなかった記憶が、突然に湧き出てきたんです。

 

 声が聞こえたのではありません、宅建主任者資格の合格証書が脳裏に出てきたのでもありません。そっと、誰かに耳元でささやかれたような、そんな感じでぼくが宅建の資格を持っていることに気付かされたのです。

 

 すると、わき目も振らずに毎日、毎日勉強をして、宅地建物取引主任者の資格を取得しようとしていた25年もまえのことが走馬灯のように思い出されてきたのです。

 

―――そう、あれは昭和47年、ぼくが27歳のときでした。当時のぼくは日本航空に就職して機体整備工場という機体全体のオーバーホールを行う工場にいました。当時の日本航空は、所有する飛行機の数がとても少ないために、ドックに入れてオーバーホールをする機体も少なくて、「スタンドバイ」という待機時間がふんだんにあり、多くの先輩たちはその時間を利用して航空整備士の国家資格を取得するための自学自習に精を出していました。

                    

 そんな中でのぼくはと言うと、参考書を隠すようにして宅地建物取引主任者国家資格の勉強をしていたのです。就業時間内なので個人的な資格取得の勉強はいけません。だから、あたかも航空整備士の勉強をしているかのように振舞っていたのです。

 

 では、どうして航空整備士ではなくて宅建資格の勉強をしていたのか、と問われても、これといった明確な理由があったわけではないんです。ただ単に、土地や建物の取引というものが飛行機に次いで面白そうだったからなんです。

 

 とはいうものの、不動産の「ふ」の字も知らない分野です。自宅に帰っても新婚2年目の女房の不満顔を横目にしてまで、TVを観ることもなく夜遅くまで不動産取引の参考書と向き合っていました。

 

 でも、振り返ってみると、何でそこまでしてこの宅建資格の取得にこだわっていたのか、ということになると自分でもよく分からないんです。でも、明けても暮れても「たっけん、たっけん」 と宅建資格のことで頭の中がいっぱいになっていたことは間違いありません。

 

 今、思うとまるで「宅建資格を何としてでも取っておけ」と背中を押され、急(せ)き立てられているように見えますが、当時はそんなことは微塵も感じていませんでした。そして、昭和48年度の宅地建物取引主任者国家資格に臨んで、幸運にも12月に合格証を手にしたのです――ー。

 

 「そうか、そうだったのか。宅建資格のことなどすっかり忘れていたでれど、あんなに夢中になって宅建資格を取得したのは、いや、背中を押されるようにして取らされたのは、この早期退職に応じろ、ということだったのか」と気付いてポンと膝を叩いたとき、ぼくはこの早期退職の募集に応じて退職し、宅地建物取引業を始めようと決めました。

 

 今まで多くの同僚に紛れてこのまま日本航空に居残ることに決めていたけれど、このとき180度逆の方向に心変わりをしてしまいました。急な心変わりをしちゃった、というか、誰かに「心変わりをさせられた」みたいで、自分の偽れざる気持ちによるものなのか、他人の働きかけによるものなのか分からないような不思議な決断でしたが、迷いなどはどこにもありませんでした。

 

 27年も前に取得していた宅建の資格が、この日本航空の危機に際して、早期に退職するための強力な推進力になってくれていたことに気付いたら、迷う理由などどこにもありませんでした。

 

 それから2日後、女房と向き合い「日本航空を早期に退職して」不動産屋を始めたい」と伝えると「えっ」という顔を向けたけれど、「子供たちも独り立ちしているから、お父さんの好きにしたらいいですよ」と言ってくれて、ぼくの決断に首を縦に振ってくれました。

 

 女房の了解を得たぼくは早速、退職届を書き上げて所属長に提出し、平成11年3月、約36年間勤めてきた日本航空を退職しました。ぼくが54歳のときでした。

 

 割増しによって今までに見たこともない高額な退職金を手にしたけれど、拍手で見送ってくれる上司や仲間もいない、たった一人だけで工場の玄関に頭を下げて帰路についた、という寂しい退職姿でした。

 

 その日の夕食時、女房と向き合いました。そして、宅地建物取引業を行うための有限会社アイビーを資本金500万円で設立し、供託金等の諸費用も退職金の割増分の範囲内に収めて、儲けは小さいが損失リスクも小さい仲介取引と賃貸取引だけの営業活動に徹することを確認しました。

 

 ズブの素人であるぼくと女房の二人が不動産業を始めることを母と子供らに話すと「おいおい、大丈夫なのかよ」と口をそろえて言われるくらい先の読めない不安を抱えた船出でした。

 

 有限会社アイビーの設立準備に取り掛かって約半年後、JR四街道駅から徒歩で10分ほどのところに事務所を借りることができて予定通り有限会社アイビーを開業することができました。

 不動産取引に関する業務知識もさることながら、商売の「し」の字も知らないほどの素人社長と事務員で、何もかもが手さぐり足さぐりの状態でした。

                        

 しかし、不動産取引業務というのは、売主と買主それぞれの業者の間で行われるので、取引があるたびにその相手側業者に頭を下げて手ほどきを受けながら、不動産取引の参考書を片手に、見よう見まねでいくつかの取引をこなすうちに何とか一人前にできるようになりました。

 でも取引数が多くないので、開店から2年ほどの期間がかかってしまいました。

 

 とは言いながらも、人通りの多い駅前通りに面した角地という立地のお陰で、夫婦二人が食べていけるくらいの商売はできていました。

 

 そんなある日、四街道市内に住む日本航空時代の同期だった桑原君が、ひょいとぼくの店舗にぼくは立ち寄ってくれたんです。「いよー、どうだい商売は」と遠慮なくカウンターの椅子に腰を下ろすや否や「お前は逃げ得だったな」と、意外な言葉を口にしたんです。

 

 「どういうことなんだよ」と真意を聞いてみると「おまえが退職した後、業績も上向きになるのかなと思いきや、毎年のように賃金ベースが切り下げられて、ボーナスだって夏はゼロ、なしですよ、年末だって何とか1ヶ月分なんてことになってしまった。おまけに、企業年金の原資が不足しているから、各自の退職金から数百万円を拠出してもらうというんだ」と苦虫(「にがむし)をつぶしたような様相でした。

 

 ぼくは「そうか、そうだったのか。大変だったなあ」としか言いようがありませんでした。

 

 それから四年の歳月が流れた平成22年1月、あの日本航空が会社更生法の申請をした、ということをTVのニュースで知り、驚きました。そうそうたる顔ぶれの経営陣を揃えて人員整理や給料、賞与の切り下げといったリストラ策を積極的に進めてきたけれど、もはや、自力では再建できなかった、ということです。

 

 しかし、この場面を予測していたかのように、ぼくは既に日本航空の社員ではなかったんです。あの時、ぼくの耳元で「お前、宅建の資格持っているよなあ」とささやいてくれて、ぼくをこのような危機から回避させてくれたのは、いったいどなたなんんでしょうか。

 

 そう、今から11年も前、早期退職の募集に対して多くの同僚たちと同じように、わが社日本航空に居残ることに決めていたぼくだったのに、突然、その20数年も前に取得していた宅建資格の思い出されて不動産屋を始めようと早期退職の募集に応諾し、退職しました。

 

 それがまるで、将来、わが社が潰れることを知っていたかのような自分の行動に驚かされたのです。でもぼくは、決してそのような予見をして早期の退職に応じたのではないんです。

 

 「お前、宅建の資格を持っているよなあ」という思いがけない言葉によって 自分は宅建の有資格者である、という記憶に気付いたら「辞めた方がいい」と背中を押されて、みんなと同じように居残ることに決めていた自分の気持ちが急に、突然に、変ってしまったんです。いいえ、誰かによって「変えられてしまった」のです。

 だから、そのまま居残るわけにいかなかったんです。

 

 信じられないことなんですが、そのようにしか表現できないんです。もともとの自分の気持ち「みんなと一緒に居残る」を打ち消すような「強い働きかけ」があったからなんです。それによって、自分の本心が変えられてしまったんです。熟考に熟考を重ねたぼく自身の意志では、絶対にないのです。

 ぼくはそれほど強い「先見の明」をもって、将来を見通せる能力など持っていないのです。

 

 じゃあ、こんな時に「退職した方がいい」とぼくの背中を押してくれたのは、どなたなのでしょうか。背中を押された、と言っても、物理的に手で背中をポンと押されたわけではありません。

  

 会社に残りたい という自分お気持ちが、何だか誰かに操作されたように、急に、退職したほうがいい、という気持ちに変ってしまったんです。そうなんです、「急に、突然に」です。

 

 これといった理由があったわけでもなく、誰かに説得されたわけでもなく、なのに、何の抵抗もなく、なんの前兆もなく、自然に、素直にそんな気持ちに変ってしまったんです。正直言って、それがとても不思議でならないのです。

 

 でも、どなたかがぼくの将来を見通して、ぼくの気持ちというものを、瞬時に変えてくれたのでしょうか、そんなことできるんでしょうか。過去を振り返ってみると、ぼくには思い当たるそれらしき出来事がいくつかあったんです。

 

 例えば、これからの未来に起こるであろうことを、居眠りをしていた女房が家計簿の余白に書き記した、ということなんです。

 もう、30年以上も前の体験になりますが、自宅のダイニングで家計簿をつけながらうたた寝をしていた女房に「左足に気を付けて」という一文をページの余白に書かせた「誰か」がいました。すると、翌日、息子が左足に擦り傷を負ってきたということなんです。

 

 その予見をしてくれたご霊さまと同じご霊さまではないのかな、と思えてきたんです。あの時もこれから起きるであろう息子の足のケガを事前に教えてもらい、事前に息子に伝えていたことで軽いかすり傷で済みました。

 

 その「誰か」と同じように、わが社にこれから起こるであろう災難を事前に察知したご霊さまがぼくに伝えてくれたことで「会社に残りたい」と決めていた気持ちが、もう、すっかり消え伏せてしまったのです。

 

 それでぼくは、何の迷いもなく早期退職者の募集に応諾して退職し、あの日の日本航空倒産劇に遭遇しないですんだのです。もちろん、約2倍の割増の退職金も支給されることも魅力だったし、20年以上も前に宅建資格を取得していた、ということが次の仕事の目途(めど)をつけてくれていたからでもあるのです。 

 

 息子の左足の擦り傷と言い、この日本航空の早期退職を受け入れたことといい、この2つの不思議体験に出てきたご霊さまは、ものすごい千里眼を持っていて未来の先までも見通せることができるという共通点がありました。

 

 ご霊さまが、まだ来ぬ未来を見通すことができたのはどうしてなのでしょうか。あの世では、現世人間界の遠い未来までが、もう既に描かれているのでしょうか、それとも、ご霊さまはこの世の人たちやあらゆる物事の未来を見通す超能力(未来予知Precongnition)を持っておられるのでしょうか。

 

 そんなことを考えていると、摩訶不思議な現実に夜も眠れなくなります。

 

 ぼくはこの不思議な体験を書いていて、少し気になるところがあるんです。それは、日本航空の破綻の原因は、半官半民による親方日の丸的企業体質から抜け切れずにいたための非効率的な企業運営にあった、と意見が世間の多くに見られている、ということなんです。

 

 しかし、それらの経営課題を適切に、迅速に解決できなかったために破綻に追い込まれてしまうほど、あの経営陣は能天気(のうてんき)だったのでしょうか。

 

 いいえ、そうではないと思います。昭和62年に民営化したばかりの一民間企業の経営陣では如何ともしがたい政治上、行政上の制約があったからだと思います、

 

 日本の航空輸送業界というのは、昭和47年に発効された「四五・四七体制」という産業保護政策がとられてきました。いってみれば、銀行界の都市銀行、地方銀行そして信用金庫とすみわけされたのと同じように、日本航空LAL、全日空ANA,そして日本エアシステムJASをそれぞれを、首都して国際線、主として国内幹線、そして主として国内地方路線と済むわけがなされていました。

 

 その後、世界的な経済発展という時流を受けて、その四五・四七体制を外す規制緩和が昭和

60年に行われて、全日空も国際線に、日本航空も国内線に、日本エアシステムも国際線と国内幹線にも進出できるようになったのです。

 

 しかし、地方路線を運航していた日本エアシステムの経営が貧窮して平成14年に日本を代表するエアラインである日本航空に合併させました。これによって、多くの機種と多くのスペア部品、加えて多くの乗務員を抱えて、国内の不採算路線までも引き受けさせられるという無理難題を、以前のナショナルフラッグキャリアだった日本航空に担わせたからではないか、と思います。

 

 国策として行われた規制緩和と業界再編であったがために、民間企業として思うように経営ができなかった、という「縛り」があったからではないかと思います。

 

 そんな人間界の出来事を察知したご霊さまは、ぼくの背中を押して早期の退職を促してくれてその千里眼的な未来透視能力を目の当たりにしたのですが、この科学一辺倒の世にあって、未来を透視した超常現象を目の前で見せてくれたなんて、とてもとても信じることができないでいます。

 

                  ご感想をお寄せください。

                  mail :imotare0808@yahoo.co.jp

 

 

 その五 息子の大希にこの家を買ってやれ

 

 もう40歳にもなるというのに、気持の動揺が大きく、定職にも就けないでいる息子大希(だいき)とその嫁彩愛(あやめ)を観ていたご霊さまは「この家を買ってやれ」とばかりに、1500万円を準備してくれました。

 

       ***************************

 

 約2年感に及ぶ病気療養による休職期間も1ヶ月後に迫っているのに、ぼくの息子大希の病態は一向に好転しません。職場の上司から受けた執拗な注意喚起と忠告の言葉が、自分のことをひどく卑下されたように聞こえて憎しみや気落ちに変り、出社できなくなりました。

 ことわざでいう「煩悩の犬は追えども去らず」ということのようです。

 

 ぼくと同じように感情が細やかな息子は、他人から見下されたり尊大な自分の気持ちを壊されるような叱責の言葉を受けたりすると、自分で自分の気持ちを支えられなくなってしまうようです。

 それが直属の上司だっただけに、その顔を合わせることができなくなってしまいました。

 

 そんな息子が平成25年5月の連休を利用して嫁の彩愛(あやめ)と一緒に成田の実家に帰って来たときに、そんな病状が長引いていることについて息子本人がどんなふうに考えているのか、嫁も交えて言葉を交わしました。

 

 「お前の言動を見ていると、普通のメランコリー性のうつ病というよりも、、心的な外傷による適応障害の⒴プに見える。身体の臓器を壊さないうちに、トラウマの原因から逃避することも視野に入れて考えた方がいい」とぼくから切り出しました。

 

 その意味は、別の部署に異動するとか今の会社から離れる、ということが一番の特効薬である、「逃げるが勝ち」の故事の通り会社を辞めることも選択肢の一つだぞ、と問いかけたのです。

                             

 というのは、ある特定の状況や出来事、すなわち、会社の上司から強い口調で叱責を言われた、ということが息子にとってとてつもなく耐え難い屈辱に感じられて、二度と会社に行くことができなくなったという精神的な症状として現れているな、とぼくには見て取れたからです。

 

 それを聞いた息子は「そうしたいのはやまやまだ」と言い返して「パソコンの操作技術だってまだ途中だし、40にもなって親に心配をかけ、おまけに嫁の扶養家族というヒモになり下がるなんてできない」と男の沽券にかかわることだ、と言いたげです。

 

 「ばかやろう、世の中にはなあ 病気やリストラで女房に食べさせてもらっている「髪結いの亭主ってごまんといるんだぞ。お前と彩愛の二人が良ければ世間体を気にすることなんか何もない。それよりもお前の身体を治す方が先だ」とぼくは声を荒げました。

 

 ぼくの横に座っていた嫁の頭が大きく縦に揺れたのを目にした息子は「少し考えてみる」と言い残して、翌日、嫁と一緒に帰路につきました。

 

 それから半年ほど経った5月下旬、息子から弾んだ声で電話が入りました。「彩愛と相談の結果、この6月末で会社を辞めることにした。今のマンションよりもずっと賃料の安い公団住宅に移って彩愛の扶養家族となり、失業保険を貰いながらパソコン教室に通うつもりだ」という内容でした。

 

 「彩愛さんも了解しているんだな」と念を押すと「もちろんだ」と大きな声が返ってきました。すかさず「それでやっていけるのか」と声を小さくして聞いてみると、息子の声も急に小さくなって「何とか…}と不安を隠せない様子でした。

 

 しかし、嫁の扶養家族となるというふがいなさを受け入れて「退職する」という選択肢を選んだのは、いま、自分が置かれちる環境を変えること、つまり、トラウマになっている今の会社から逃避することが最も有効な治療法だと本人が自覚し、嫁もそのように理解したからだと思いました。

 

 ところが、自分の亭主が職を持たないプータローになり、しかも、復職のメドすら立たないまま街中のマンションから郊外の公団住宅に移り住まなければならないという「都落ち」のような現実に直面した嫁の心中(しんちゅう)はいかに揺れ動いているのか、想像するに難くありません。

 

 そんな嫁の心情を映すようなことが表面化して、事態は思わぬ方向に進展してしまいました。

 

 6月下旬のある日、既に退職した息子の様子をうかがおうと、女房が電話を入れてみたようです。電話口に出たのは嫁だったので息子の様子や転居の予定を聞いてみると「はい、大希さんは元気です。こんどの土曜日に公団の賃貸住宅を見に行く予定です」と応えていたといいます。

 

 しかし、その会話の後に女房は浮かぬ顔をぼくに向けて「いつもと違って、彩愛さんがとても元気がなかった」という言葉を漏らしたんです。その時の女房の顔色と、家にいたであろう息子を電話口に出さなかった嫁の行動に、ぼくは息子との将来の生活に大きな不安を抱いているのではないか、という嫁の胸中を垣間見た思いでした。

 

 

 翌朝にアンリ早速、ぼくは息子に電話を入れてみました。「お前、元気なのか」の声掛けに「オレは元気だよ。抗うつ薬も半分に減らしてもらえた」と、トラウマから少しずつ遠ざかっていることが手に取るようでした。

 

 続けて、今度の土曜日に内見するという公団住宅について聞いてみると「間取りは3DKで家賃が5万円。その上にオレが扶養家族になっているから、彩愛の給料だけでやっていけるか、というと不安だ」とため息まじりです。

 

 息子自身のけんこうをとりもどして、新たな第一歩を踏み出すために大正区を促したぼくでしたが、その一方で、嫁の給料だけでは背勝ができない、という剣が峰に立たされてしまいました。

 それに気付いたぼくは、しばし天を仰ぎました。

 

 その天を仰いでいる中で、急に、思いもよらないことがぼくの頭の中を巡りました。それはこんなことでした――――――。

 

 ―――――今から30年も前、この成田市のこの家に母と同居を始めてから数年が経った頃でしたか、「私に何かあったら、これを使ってくださいね」と言って、母がぼくの銀行口座に1000万円を振り込んでくれたな。それともう一つ、証券会社のミスで買いそこなった国債の購入資金が起こっていたな。それらを併せると1500万円ほどになるよなーーーーー、なんて。

 

 すると突然「そうだ、ぼくがこのお金で新潟に中古住宅を買って、息子夫婦に住んでもらえばいいんだ」と閃(ひらめ)いたんです。

 そうか、そうすれば月額5万円もの家賃を出費することがないから、例え、髪結いの亭主としてでもやっていけるのではないか。そこで息子は身体の調子を整えて再起の準備をすれば、再び未来を拓(ひら)く第一歩を踏み出せるのではないか、と。

 

 母って自分の孫のために使うのだから、きっと、賛成してくれるに違いありません。なんて考えがまとまると、何でこんな思ってもいなかったアイデアが湧き出てきたのか、とぼくは、しばし、あっけにとられてしまったんです。

 

 ぼくはこんなことを思い浮かべたり、想像したりすることなんてまったくなかったからなんですから。まさしく、思いもよらないことだったのです。

 

 何はともあれ、早速、PCに向かってヤフーの検索サイトで新潟市内の中古住宅を探してみました。「新潟市内、中古住宅」で検索すると、最初の画面に出てきたのが 新潟市西区五十嵐中島(いがらしなかじま)という地域にある土地面積47坪、建物4LDK、6メートル道路の南側角地、越後線内野西が丘液位から徒歩で10分、平成8年築で価格が1100万円という物件でした。

 

 西区の五十嵐中島という地域がどこに位置するのかの見当すらつかないけれど、価格が11

00万円というのが気に入りました。リフォームを含めた斗樽の予算が1500万円ですから、これが上限なんです。

 しかし、建物の画像がとても小さくて外観がよく分からなかったんです。

 

 そこで、問い合わせ先になっている増田不動産に電話をすると「まだ売れていない」と、営業の上村さんが答えてくれました。枝番まで教えてくれた所在地の地図をPC画面上で検索してみると、まちがいなく南西の角にその建物はありました。

 

 そして僕は、新潟にいる息子に電話を入れて事情を話し、その建物を見てきてくれないか、と頼んだんです。二つ返事の後、1時間ほど経ってその建物の門前から電話をしてきた息子は「ガレージのほかに2台分の駐車スペースが庭先にあって、とてもいい家だ」という感想を伝えてきました。

 

 「それで、彩愛さんはそこかっら会社ぬ通えるんか。おまえもPC学校に通えるか」と聞いtみると「新潟駅から電車で40分余の距離だから、全然問題ないよ」という返事でした。

 それを聞いたぼくは、増田不動産の上村さんに内見したい旨を伝え、今週の土曜日、12時に現地で会うアポイントを取りました。

 その日はちょうど、息子と嫁が公団住宅を内見する日だったのです。

 

 前日の金曜日は、ぼくと女房は新潟駅前の東横インに前泊して、翌日、新潟駅から越後線に載り内野西が丘駅に向かいました。そして、上村さんとの約束時間の1時間前に息子夫婦と現地で顔を合わせました。

 

 現実に目の前で見る売り出し物件は、南東の角地に建つ2階建ての洋風建築で、その庭先には庭を囲むように配された高さが2メートルを超すような庭石がいくつも並べられていて「すごいね」としか言いようのない立派な物件でした。

       

 しばらく物件の周りをうろうろした後、最寄り駅である内野西が丘駅からの徒歩時間や周辺子環境、あるいは新潟駅までの所要時間、電車の運行本数など生活上の不便はないか、を確認したけれど、「いずれも問題ない」という二人の答えでした。

 

 約束の12時に増田不動産の営業担当江村さんが来られました。「営業の責任者をしている」という上村さんは、宅地建物取引主任者というよりもフドーサン屋といういい方の方がピッタリという風貌と言葉遣いをする人

 

 築後17年を経た建物の中を案内しながら上村さんは「痛んでいる屋化や厨房セットは勿論のこと、壁紙や浴室、屋根瓦と外壁の補修と塗装を主治すなどして総額420万円でsっ品地区同様にします」と、提携会社によるリフォーム工事の提案を声高に言い放ちなした。

 

 さて、室内を見せてもらおうか、と動き始めたとき、ぼくの携帯電話が鳴りました。電話に出てみると懇意にしている建築屋の大川社長からです。「今、新潟にいあるので、後でこちらから折り返す」と伝えたけれど、「急いでいる。ちょっとだけだ」と言って携帯を切らせてくれません。

 

 「いやダメダメ、終わったら折り返すから」と言っても切ってくれません。結局、敷地の境界線のことでとんだ長話に付き合わされてしまいました。

 話が終わって携帯を切ると、女房も息子夫婦も一通りの内検が終わって建物の外に出て上村さんと座談を交えた質疑応答をしているようでした。

 

 後を追うようにしてその雑談の中に顔を出したのですが、こまったことに、ぼくは室内をまったく見ていないだけでなく、上村さんからの土地と建物に関する説明も聞き損なっていたのです。耳に残っていることと言えば、この一戸建てに新築同様のリフォームを施して総額1500万円だということだけでした。

 

 でも、なぜか、ぼくはこの物件を買いたい気持ちが前のめりでした。建物の中の造作は息子たちの判断に任せるとして、新築同様にリフォームしてくれるんだから、お前はごちゃごちゃいわずに買ってやれ、と背中を押されているようでした。

 

 そこで、上村さんから手渡された物件説明書の端に「1400」と書いて「リフォーム工事込みでこれにならないか」と上村さんの目の前に出したんです。それを見た上村さんは「土地建物価格は残債があるからまけられない。300万円がリフォーム代と言うなら他の業者にいってくれ」と、つれないものでした。

 

 でも、この返事は想定内だったんです。ひるむことなくぼくは、1400を二本線で消して

1500と書き換えて上村さんお目の前に差し出したんです。すると、その数字を見た上村さんは「いいですよ」と首を大きく縦に振ってくれました。

 

 「今日、買付書を書くから事務所に案内して欲しい。現金で買う」と上村さんに伝えると、上村さんは「えっ」というかおをして「息子さんの意見はいいんですか」と息子夫婦に顔を向けたので「いや、オレが買うからいいんだ」と言いながら息子夫婦に視線を向けると、キツネにつままれたようにキョトンとした二人の顔が目に映りました。

 

 

 無理もありません。今日は公団住宅を見に行こうとしていた息子と嫁だったのに、何と、大きな庭石に囲まれてまるで邸宅のような一軒家を買ってしまったのですから。当事者のぼくだって、こんなにスムースに事が運ぶなんて思ってもいなかったんです。

 

 息子夫婦にとってはこれほど申し分のない家が、その場で熟考することもなく、しかも、ぼくが目論んだ予算の通りの価格で手に入れることができたのですから、キツネにもタヌキにもつままれたようだ、としか言いようがないのです。

 

 何か、目に見えない力が働いたのだと思います。そうでなければ、ちょっと気味が悪いくらいなんです。きっと、ご霊さまが「これを買ってやれ」と言ってくれて、ぼくの背中を押してくれたに違いありません。

 

 それを裏付ける確かな事実がいくつか思い当たります。まず、後になって知ったのですが、この建物の新築年月日が平成8年5月8日と、8と5を組み合わせた日だったのです。ぼくはそのことに気付いたとき「え――っ」と大きな叫び声をあげてしまったんです。

 

 というのは、ぼくの生年月日は昭和20年8月8日で、女房は同年の5月5日なのです。だから、メールアドレスやID番号といった個人番号のどれもを8と5の組み合わせにしていたからなんです。

 

 

                        

 

                   文字数オーバーにつき次章に続く―――