一度だけ、天国の父に会いました

一度だけ、天国の父に会いました

若くしてこの世を去ってしまったぼくの父親でしたので、ぼくの頭の中にはその記憶がまったくありませんでした。ところが、ぼくが30代の頃、うたた寝の夢の中に見知らぬ男が現れたんです。

その二 気持ちの中に入り込まれ、思いのままに

    操られ

 

 一話 思わぬ理由で職場を早期に退職

 

 みんなと同じようにぼくも、わが社日本航空の全職員に出されている早期退職の募集に応募なんかしないつもりでいました。ここを辞めて何ができるんだ、という思いだったんです。

 けれど、ある時「おまえ、宅建の資格を持っているよな」とささやかれたような一言が伝わってきたことで辞表を出す気持ちに翻(ひるがえ)り、あれよあれよという間に不動産屋を立ち上げて、その社長兼宅地建物取引主任者の席に就いたのです。

 

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 昭和39年3月に都内荒川区南千住にあった都立航空工業高等学校(現在の都立産業技術高等専門学校)の航空機体科を卒業したぼくは、運よく憧れの日本航空に入社することが出来ました。

 

 整備訓練所で1年ほど訓練に明け暮れた後、機体工場という機体のオーバーホール作業に就き、四年ほど経ちました。

 

 労働組合の活動がとても盛んな時期で、職員の過半数を占める企業寄りの黄色組合と少数派で純粋な労働者系の紅色組合との問題で身の振り方に行き詰っていたぼくは、黄色組合にはいうことを条件に、装備品の整備を行う装備品工場に異動させてもらいました。

 

 装備品工場の職員数は200名余で、その中の油圧部品を扱う機械部品課に配属されました。

 

 その機械部品課では、油漏れを起こしたり使用時間が迫ったりして期待から取り外された油圧部品を分解して、痛んだ部品や消耗部品を新品に好感して、元の状態に組み立て、作動試験や外観検査を行って新品同様にして部品庫に収める、という仕事に勤(いそ)しんでいました。

 

 工場に配属されて30年余が経つけれど、工業高校卒でこれといった特技を持たないぼくは、職場の専門職として黙々と働き、汗を流していました。

 

 そんな中、平成10年の4月から1年間に亘って500人前後の早期退職者を募集する、という社内通信が発表されました。「会社の情況はそんなに悪いのか」と、思いがけないリストラ策に職場の仲間たちの気持ちは大きく揺れていました。

 

 平成2年のバブル崩壊によって生じた航空燃料の先物買いによる多大な損失や、100機を超える多大なジャンボ機を購入したことによってB777といった次世代の高効率燃費旅客機への転換が遅れ気味になっている等親方日の丸的な放漫経営が、近い将来に立ち行かなくなるのではないか、という危機感を持つ職員が多くいました。

 

 

 その一方で「この日本航空が潰れるわけないじゃないですか」とか「このリストラ策の実施で、大きな挽回が図れますよ」といった心情で、身近に迫った全日空や日本エアシステムを含めた航空界の自由化に向けての布石を打つ、ということではないのか、と楽観的な見方をする仲間も少なからずいたのです。

 

 しかし、先細りしている現況を見て「辞めようか」と思っても「ここを辞めて何ができるのか」という現実を観ると、手に職を持たない、なんの資格も持たない、これといったコネもない、という「三ない」人間の工業高校卒ばかりですから、楽観的に振舞うしか手はなかったのだと思います。

 

 確かに今すぐに潰れるわけではないので、将来に大きな不安を残してまで早期の退職に応じるよりも、多くの仲間と同じ行動をとっている方が大きな間違いはしないのではないか、という集団の心理が多くの仲間の気持ちに働いていたように思います。

 

 その意味で、この年末にどれほどの退職者が出るのか、ということが多くの社員の関心事でした。その辺りはぼくにしても同じでした。

 

 すると、装備品工場における年内の早期退職者数は1名で、既に退職しました、との報告が12月の中頃にあって「ああ、やっぱりな、大部分の同僚はオレと同じように退職せずに居残ることにしたんだな」と、ぼくもみんなと同じにしていてよかったな、と大きな安堵感を覚えたんです。

 

 すでに退職した1名というのは誰なのか、ということが噂になっていたけれど、気圧部品課の太田君というぼくより2,3年後輩で、退職の理由も「故郷に帰るらしい」と分かり、我が社の将来に大きな危機感を持っていたわけではないことから「早期退職の募集に応募しない」という気持ちはますます揺るぎないものになりました。

 

 ところが、平成11年の年が明けた1月の中頃でした。俄かにぼくの胸の中がざわざわと騒がしくなってきて、落ち着いていられなくなったんです。

 そして「お前、宅地建物取引主任者の国家資格を持っているよなあ」といった意味の言葉が伝わってきたんです。すると、思いもよらない宅建資格を取得していた記憶が、突然に、湧き出てきたのです。

 

 声が聞こえてきたのではありません。宅建資格の合格証書が夢に出てきたのでもありません。そっと誰かに耳元でささやかれたような、そんな感じでぼくが宅建の資格を持っていることに気付かされたのです。

 

 すると、わき目も振らずに毎日毎日机に向かって、宅地建物取引主任者の資格を取得しようとしていた25年前のことが走馬灯のように思い出されてきたのです。

 

 

 

 

 ―――そうでした、あれは昭和47年、ぼくが27歳のときでした。当時のぼくは機体整備工場という期待のオーバーホールを行う工場にいました。

 

 当時の日本航空が所有する飛行機の数がとても少なくて、ドックに入れてオーバーホールをする機体が少ないために「スタンバイ」という待機時間がふんだんにありました。

 

 多くの先輩たちはその時間を利用して航空整備士の国家資格を取得するための自学自習に精を出していたんです。

 

 そんな中でのぼくは、と言うと、航空整備士なんかに興味を示さず、宅地建物取引主任者の参考書を隠すようにして国家資格の取得に向けての勉強をしていたのです。

 

 会社の就業時間内なので、個人的な資格取得の勉強はいけません。だから、何をしているのか分からないように参考書を隠しながら勉強をしていたのです。

 

 どうしてこそこそと宅建の勉強をしていたのか、と問われても、これといった理由があったわけではないんです。ただ単に、土地や建物といった不動産の売買取引というものが、飛行機に次いで面白そうだったから、と言うだけだったのです。

 

 とはいうものの、不動産の「ふ」の字も知らない自分でした。自宅に帰って新婚2年目の女房の不満顔を横目にして、TVを観ることもなく、夜遅くまで参考書と向き合って不動産という藻になじみたかったのです。

 

 でも、今振り返ってみると、何でそこまでこの宅建資格の取得にこだわっていたのか、ということになるけれど、自分でもよく分からないんです。

 でも、明けても暮れても宅建、タッケンと、宅建資格のことで頭がいっぱいになっていたことは間違いないんです。

 

 今思うと、まるで誰かが「宅建の資格は是が非でも取っておけよ」と背中を押され、急き立てられているようでしたが、当時のぼくは、そんなことを微塵も感じていなかったんです。

 

 そして、昭和48年度の宅地建物取引主任者国家試験に臨んで、幸運にも12月に合格証を手にしたのです------.。

 

 そういえば、この48年度の宅建試験がオープンブック方式(六法全書を試験会場に持ち込んでいい試験方法)の最後の年だったのです。試験中に六法を開いたわけではないけれど、気持ちの安心感がまるで違いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー続き

 

  「血は水よりも濃し」という故事の比喩を目の当たりにした思いでした。例えば、災害や事故等に遭って親子が離散したり行方不明になったりしても、いつか、あの世に行ったときには家族のみんながと再会できることを示しています。

 

 それだけではありません。それほど親と子の繋がりが強いのですから、貧困や虐待等によって命を絶たれた幼児は、後から来たお父さんやお母さんをどのような思いで待ち受けるのでしょうか。

 

 先に霊界に旅立っていた幼児の姿を目にした両親は、どんな思いでその幼児を迎えるのでしょうか。

 

 もちろん、身体があるわけではないので身振りや顔の表情で表すことはできません。けれど、きっと憎しみに満ちた幼児のきもちと、「ごめんなさい」と言って床に顔をこすりつけてひれ伏す両親の姿が入り混じった修羅場となっているに違いありません。

 

 家族のみんなは仲良くしなければいけない。というこの世を生きるための基本中の基本を示しているように思います。「そうだよね」と思いながらも、なかなかじkkpできないのが人の世です。

 

 だからこそ、この世でみんなと仲良くすればこそ、あの世に行かれてもみんな仲良く、幸せに暮らすことが出来るのですよ、と教えてくれているようです。

 

 つまり、何年かしてぼくがあの世に足を踏み入れたとき「おい。はるゆき、お前の父さんだよ」と声を書けられて父に会うことができたとき、にこにこ顔の父が「よく来たな」とぼくのことを力強く抱きしめてくれるかもしれないな、なんて想像したら涙がにじんできます。

 

 だって、ぼくには父から抱っこされたり手を繋いでくれたりした記憶がまるでないからなんです。

 でも、父のいないぼくたち家族だって、きっと、みんな仲良く暮らしていけると思います。

 

 ぼくたち夫婦と子供たち、それに一人残された母との二世帯家族なんですから。いつ、どんなところで、どんな風にしてあの世の父に会えるのだろか、と思いを巡らせるだけで嬉しさがこみ上げてきます。

 

 

 気になることがもう一つあるんです。それは、ぼくたち家族の前に現れたあのご霊さまは、どうして影のような薄黒い色に視認できたのでしょうか、ということなんです。ご霊さまとか霊体というのは「人の思い」の集まりだから目の網膜には映らないはずなんです。

 

 ぼくは数えきれないほどの不思議な霊体験をしてきましたが、あのような薄黒い影を目にしたのはあの時のたった一度だけなのです。ということは、あの時以外は近くにご霊さまはいらっしゃらなかったのでしょうか。

 

 いやいや、温湿度計が目の前で壁から落ちたり、トンと背中を押されたりとぼくのすぐ近くにいらっしゃるのではないか、と思われる場面は多々あったのに、あの薄黒い影を目にすることはなかったんです。

 

 普段は目に見えないご霊さまですが、家族4人がそろっているときに限って、薄黒い影のような色に染めて、その存在を明らかにしたのでしょうね、とぼくは推測しています。

 

 きっと「父さんと、母の胎内にいた末っ子ちゃんは、天国で元気にしているよ」と現世に生きているぼくたちに伝えたかったからに違いありません。

 

 そんなことに気付いたその日を機にして、あの小さい方の影は母のお腹の中にいたぼくの兄弟姉妹なんだ、と思い込んで、ぼくは今までの緑茶とお水とお酒に加えて、人肌に温めたミルクも毎日のお供えにお出しすることにしたんです。

 

 

 それと同時に、神教まごころ流の正法(正しい祀り方)とされている「段違い祭り形」 の形にお位牌を配置したことで、ご先祖の皆さまがこのお位牌を通って、あの世とこの世を行き来していることを知りました。

 

 つまり、正しい形にお祀りされたお位牌というのは単なるお仏壇の飾り物ではなく、ぼくたち現世に生きる家族に会いたくなった時はいつも開いている出入り口の扉であることを教えてくれたのです。

 

 そんなことに思いを巡らせていたら、父と、母のお腹の中にいた胎児であろうと思われる二人のご霊さまが、ぼくたちの前にその姿を現した訳が分かったような気がしました。

 

 それはきっと、現世に生きる家族からきちんとお祀りしてもらい、毎日のお食事を召し上がっているご先祖の皆さまが、とても喜んでくれていることをぼくたちに伝えたかったのだろう、と思いました。

 

 それから3ヶ月余が過ぎて、ぼくは、急に、真ごころを辞めたくなり、小声で女房に吐露(とろ、打ち明ける)したんです。すると女房も「私もよ」ということで、二人して神教まごころを退団しました。

 

 何だか、神教真ごころの信者になりたい、という目的を果たした、と言いますか、このままいつまでも信者でいたい、という気概が萎えてしまった、といいますか、そんな気持ちに心変わりしてしまったんです。

 

 2年余の神教真ごころ安孫子支部への参拝通いでしたが、不思議なことがたくさんありました。

 

 例えば、自社に二人の子供を乗せて安孫子支部に向かう途中、

バスと衝突事故を起こしてしまった女房でしたが、その衝撃は右側前輪のフェンダを大きく破損し、走行できなくなるほどでした。

 

 しかし、女房はもとより、二人の子供もかすり傷一つ負うことはなかった、というご加護をいただいたこともありました。また、女房が顔面左側の神経麻痺に罹って口唇を思うように動かせなくなり、食事もろくに摂れなくなったこともありました。

 

 「これは大変だ」と日本赤十字病院を受診したところ、5,6種類の薬を処方されて「くすり漬け」の生活が頭をよぎり、笑顔が消えました。

 

 そこで、教団の導師(どうし)と呼ばれている霊の障りを視てくれる人から「間違いなく霊の障りだから、しっかりと浄め祓いを受けてください、1ヶ月を過ぎたころに後頭部から首筋にぷよぷよした霊の塊りが下りてきます。それが鎖骨の裏側に消えて見えなくなるころに顔が動くようになりますよ」と教えていただきました。

              

 そこで女房は、医者から処方された何種類もの薬の服用を一切やめて、導師から言われたように毎日浄め祓いを受けていたんです。

 すると、1ヶ月を過ぎたころ、突然に、襟首に小さめの鶏卵を半分にして伏せたような半球形のぷよぷよとした膨らみが現れたんです。

 

 その膨らみは、日を追うごとに少しずつ鎖骨の裏側に入っていき、見えなくなったかな、という頃に顔の麻痺も消えていき、まともに動かすことが出来るようになってきたのです。あの女性の導師が教えてくれた通りでした。

 

 しかし、これほど多くのご加護をいただいているのに、ぼくは神教まごころを辞めたいという気持ちを翻(ひるがえ)すことはありませんでした。真ごころを辞めて、どうしてもやりたいことがぼくにはあったからです。

 

 それは、2階の和室というちょっと離れた場所にお祀りしているお位牌を、もう少し、自分に近いところに置きたかったことなんです。

 

 それは教団幹部のひとが「ここがいいですね」と、2階の和室の北側壁面に決めていただいたことを無視することになるけれど、ぼくはぼくなりの、ぼくだけの明確な理由があったからなんです。

 

 それは、このお位牌に出入りしている父と、母のお腹の中にいた胎児であるご霊さまがとても愛おしく感じられていたので、そのお位牌を自分の身近に安置して、そのご霊さまと毎日、毎日触れ合いたかったからなんです。

 

 もちろん、お位牌を安置する場所を確かめ、お仏壇の中の照明もきちんと配備し、2階の通路がちょうどお位牌の上にあるけれど、足で踏みつけることはないな、ということも確かめてのことでした。

 

 ところが、実際に一階にあるぼくの部屋にお位牌をご安置してからというもの、ご霊さまによる不思議な現象というものがめっきり少なくなってきたんです。それだけではありません。

 

 それから30年余が経ってぼくたち夫婦が「もうすぐ70だね」という頃でした。また、あの「霊の障り」ではないか、と疑いたくなるような身体の不調が現れるようになって、女房ともども、取り返しがつかないような状況になってしまったです。

 

 具体的には、既にぼくの持病となってしまっていた緑内障による物の見づらさの進行と、女房の頭の中に起きた脳卒中の発症なんです。

 

 これら二つの発症は「高齢による偶然の出来事だよな」と思いたいけど、一方で「お位牌は立位での目の位置よりも高い位置にお祀りしましょう」という教えに逆らって、自分の身近に置いたことによる霊の障りではないか、という疑いも否定できないのです。

 

 なぜなら、ぼくの緑内障も女房の脳出血も、霊の障りが現れやすい首よりも上の部分のトラブルであり、しかも、その発症した時期も共に平成26年内、といったとても接近していたからなんです。

 

 果たしてどうなのでしょうか、教えてはくれません。もちろん、お位牌は元の位置に戻しました。

 

                                                                                         ―――この章終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

                         

 

 

 

 

ーーーーー続き

 

  「血は水よりも濃し」という故事の比喩を目の当たりにした思いでした。例えば、災害や事故等に遭って親子が離散したり行方不明になったりしても、いつか、あの世に行ったときには家族のみんながと再会できることを示しています。

 

 それだけではありません。それほど親と子の繋がりが強いのですから、貧困や虐待等によって命を絶たれた幼児は、後から来たお父さんやお母さんをどのような思いで待ち受けるのでしょうか。

 

 先に霊界に旅立っていた幼児の姿を目にした両親は、どんな思いでその幼児を迎えるのでしょうか。

 

 もちろん、身体があるわけではないので身振りや顔の表情で表すことはできません。けれど、きっと憎しみに満ちた幼児のきもちと、「ごめんなさい」と言って床に顔をこすりつけてひれ伏す両親の姿が入り混じった修羅場となっているに違いありません。

 

 家族のみんなは仲良くしなければいけない。というこの世を生きるための基本中の基本を示しているように思います。「そうだよね」と思いながらも、なかなかじkkpできないのが人の世です。

 

 だからこそ、この世でみんなと仲良くすればこそ、あの世に行かれてもみんな仲良く、幸せに暮らすことが出来るのですよ、と教えてくれているようです。

 

 つまり、何年かしてぼくがあの世に足を踏み入れたとき「おい。はるゆき、お前の父さんだよ」と声を書けられて父に会うことができたとき、にこにこ顔の父が「よく来たな」とぼくのことを力強く抱きしめてくれるかもしれないな、なんて想像したら涙がにじんできます。

 

 だって、ぼくには父から抱っこされたり手を繋いでくれたりした記憶がまるでないからなんです。

 でも、父のいないぼくたち家族だって、きっと、みんな仲良く暮らしていけると思います。

 

 ぼくたち夫婦と子供たち、それに一人残された母との二世帯家族なんですから。いつ、どんなところで、どんな風にしてあの世の父に会えるのだろか、と思いを巡らせるだけで嬉しさがこみ上げてきます。

 

 

 気になることがもう一つあるんです。それは、ぼくたち家族の前に現れたあのご霊さまは、どうして影のような薄黒い色に視認できたのでしょうか、ということなんです。ご霊さまとか霊体というのは「人の思い」の集まりだから目の網膜には映らないはずなんです。

 

 ぼくは数えきれないほどの不思議な霊体験をしてきましたが、あのような薄黒い影を目にしたのはあの時のたった一度だけなのです。ということは、あの時以外は近くにご霊さまはいらっしゃらなかったのでしょうか。

 

 いやいや、温湿度計が目の前で壁から落ちたり、トンと背中を押されたりとぼくのすぐ近くにいらっしゃるのではないか、と思われる場面は多々あったのに、あの薄黒い影を目にすることはなかったんです。

 

 普段は目に見えないご霊さまですが、家族4人がそろっているときに限って、薄黒い影のような色に染めて、その存在を明らかにしたのでしょうね、とぼくは推測しています。

 

 きっと「父さんと、母の胎内にいた末っ子ちゃんは、天国で元気にしているよ」と現世に生きているぼくたちに伝えたかったからに違いありません。

 

 そんなことに気付いたその日を機にして、あの小さい方の影は母のお腹の中にいたぼくの兄弟姉妹なんだ、と思い込んで、ぼくは今までの緑茶とお水とお酒に加えて、人肌に温めたミルクも毎日のお供えにお出しすることにしたんです。

 

 

 それと同時に、神教まごころ流の正法(正しい祀り方)とされている「段違い祭り形」 の形にお位牌を配置したことで、ご先祖の皆さまがこのお位牌を通って、あの世とこの世を行き来していることを知りました。

 

 つまり、正しい形にお祀りされたお位牌というのは単なるお仏壇の飾り物ではなく、ぼくたち現世に生きる家族に会いたくなった時はいつも開いている出入り口の扉であることを教えてくれたのです。

 

 そんなことに思いを巡らせていたら、父と、母のお腹の中にいた胎児であろうと思われる二人のご霊さまが、ぼくたちの前にその姿を現した訳が分かったような気がしました。

 

 それはきっと、現世に生きる家族からきちんとお祀りしてもらい、毎日のお食事を召し上がっているご先祖の皆さまが、とても喜んでくれていることをぼくたちに伝えたかったのだろう、と思いました。

 

 それから3ヶ月余が過ぎて、ぼくは、急に、真ごころを辞めたくなり、小声で女房に吐露(とろ、打ち明ける)したんです。すると女房も「私もよ」ということで、二人して神教まごころを退団しました。

 

 何だか、神教真ごころの信者になりたい、という目的を果たした、と言いますか、このままいつまでも信者でいたい、という気概が萎えてしまった、といいますか、そんな気持ちに心変わりしてしまったんです。

 

 2年余の神教真ごころ安孫子支部への参拝通いでしたが、不思議なことがたくさんありました。

 

 例えば、自社に二人の子供を乗せて安孫子支部に向かう途中、

バスと衝突事故を起こしてしまった女房でしたが、その衝撃は右側前輪のフェンダを大きく破損し、走行できなくなるほどでした。

 

 しかし、女房はもとより、二人の子供もかすり傷一つ負うことはなかった、というご加護をいただいたこともありました。また、女房が顔面左側の神経麻痺に罹って口唇を思うように動かせなくなり、食事もろくに摂れなくなったこともありました。

 

 「これは大変だ」と日本赤十字病院を受診したところ、5,6種類の薬を処方されて「くすり漬け」の生活が頭をよぎり、笑顔が消えました。

 

 そこで、教団の導師(どうし)と呼ばれている霊の障りを視てくれる人から「間違いなく霊の障りだから、しっかりと浄め祓いを受けてください、1ヶ月を過ぎたころに後頭部から首筋にぷよぷよした霊の塊りが下りてきます。それが鎖骨の裏側に消えて見えなくなるころに顔が動くようになりますよ」と教えていただきました。

              

 そこで女房は、医者から処方された何種類もの薬の服用を一切やめて、導師から言われたように毎日浄め祓いを受けていたんです。

 すると、1ヶ月を過ぎたころ、突然に、襟首に小さめの鶏卵を半分にして伏せたような半球形のぷよぷよとした膨らみが現れたんです。

 

 その膨らみは、日を追うごとに少しずつ鎖骨の裏側に入っていき、見えなくなったかな、という頃に顔の麻痺も消えていき、まともに動かすことが出来るようになってきたのです。あの女性の導師が教えてくれた通りでした。

 

 しかし、これほど多くのご加護をいただいているのに、ぼくは神教まごころを辞めたいという気持ちを翻(ひるがえ)すことはありませんでした。真ごころを辞めて、どうしてもやりたいことがぼくにはあったからです。

 

 それは、2階の和室というちょっと離れた場所にお祀りしているお位牌を、もう少し、自分に近いところに置きたかったことなんです。

 

 それはきゅだん幹部のひとが「ここがいいですね」と、2階の和室に北側壁面に決めていただいたことを無視することになるけれど、ぼくはぼくなりの、ぼくだけの明確な理由があったからなんです。

 

 それは、このお位牌に出入りしている父と、母のお腹の中にいた胎児であるご霊さまがとても愛おしく感じられていたので、そのお位牌を自分の身近に安置して、そのご霊さまと毎日、毎日触れ合いたかったからなんです。

 

 もちろん、お位牌を安置する場所を確かめ、御仏壇の中の照明もきちんと配備し、2階の通路がちょうどお位牌の上に有るけれど、足で踏みつけることはない、ということも確かめてのことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

         

                         

 

 

 

 

 二話 女房が居眠りしながら記した明日の予告

 

 ぼくの女房がうとうとしながら新聞の折り込みチラシの片隅に記した「ひだりあしにきをつけて」の一文は、あくる日、息子が左足に擦り傷を負って帰宅したことで現実となって現れました。

 

 どなたからなのか心当たりはないけれど、あの世にいらっしゃる人からの未来予知だったのかも知れない、と気付いたんです。

 

    +++++++++++++++++++++

 

 三日間の講習も無事に終わり、東京の四ツ谷駅で中川さんらと別れて一人、まっすぐ自宅への帰路につきました。同い年の女房と小学3年の娘、そして同じく小学2年の息子の家族4人で夕食を摂りながら、ぼくが参加してきた神教真ごころの講習会での話を披露しました。

 

 神教真ごころの浄め祓いを受けるとあらゆる毒素が体外に排出されて、禍(わざわい)に遭(あ)わなくなるんだってよ」と切り出すと「ふーん?」といかがわしいものでも見るような目を向けられて一笑されてしまいました。

         

 女房だけでも仲間にしたいと、日を改めて「浄(きよ)め祓(はら)いをさせてよ」女房の肩に手をかざしたんです。「なに、何?」と言いながらも受けてくれて、しばらくすると「何となく暖かくなってきた」とその女房が言うのです。

 

 これはチャンスだと、どうにもならなかったぼくの胃もたれと下痢に、藁をも掴む思いで神教真ごころの門を叩いたことを話すと「へー、そうなの」と、いかがわしいものを見るような目を向けていた女房が「私も教えてもらおうかな」なんて言い出したんです。

 

 「それじゃあ」ということで中川さんにその旨を伝えて、四ツ谷本部で行われる三日間の講習を、女房も受けることが出来ました。

その女房が信者になってから半年ほど経った土曜日の夕方でした。

 いつものように家計簿をつけるためにダイニングのテーブルに腰を下ろしていた女房が、突然「何よ、これ」と驚いたよな大きな声を挙げてぼくを呼び寄せたんです。

 

 「どうしたんだよ」と言いながら女房に近づくと「これ見てよ!居眠りしている間に書いたの」と、家計簿の余白に書いたという一文を手の指で指し示していたんです。

 

 その指の先に目をやると、ゆらゆらと読み取りづらいひらがな字体で「ひだりあしにきをつけて」と一筆書きされていたんです。そして、その文末にはこの一文を記した人の名前と思われる筆跡もありました。

                           

 

 しかし、文字がゆらゆらしすぎて、それを読み取ることが出来ませんでした。

 

 「なんだよ、これは。左側の足に気をつけなさいよ、という意味じゃないのか。お前が書いたのか?」と女房に問うてみても「あたしが書くわけないじゃないの」と言い返されたんです。

 

 「じゃあ、誰が書いたんだよ。気持ち悪いな」と言いながら、子供たちを呼び寄せました。そして「ママが居眠りしながらこんなことを書いたから、明日は足のケガ、特に、左足に気をつけなさいよ」と、注意をしておいたんです。

 

 あくる日の夕方、「ただいま」と会社から帰宅したぼくに「お兄ちゃんの左足を見てよ」と女房から耳打ちされたのです。「えっ」というお身で息子を呼び寄せて左足を見ると、その脛に青あざと擦り傷を負っていたんです。

 

 「どうしたんだよ、子の傷は」と聞いてみると「道路に転がっていた木のみかん箱にぶつけたんだ」というのです。

 

 「お前が書いたあの一文は、どうやら息子の左足に傷を負うことを予言していたようだね」と、女房と顔を見合わせたんです。

 

 「でも、あの予告を私に書かせたのは誰なのよ」と、女房が不思議がるように、あくる日という未来に起こるであろうことを女房の手を借りて書かせたのだな、と理解できるけどれど、それを書かせたのは神さまなのか、あの夢に出てきたのっぺらぼう男なのか、それとも、どこかの名の知れないご霊さまなのか、はっきりしませんでした。

 

 

 三話 お位牌に吸いこまれていった二つの黒い影

 

 どこからともなく現れた二つの丸くて薄黒い影が目の前を通り過ぎる姿は、「怖い」というよりも「何なの、これは?」という、生まれて初めて目にするような驚きでした。

                                                                                                              

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 宗教団体 神教真ごころの信者になったぼくと女房は、土曜日とか日曜日、あるいは祝祭日を利用して週に1,2回余の頻度で、成田と我孫子間を車で約一時間かけて、ご神前への参拝に通うようになりました。もちろん、子供たちも一緒でした。

 

 そんな信者生活をするようになって半年ほどが過ぎました。中川さんから声をかけられて「祖霊祀り(それいかつり)をした方がいいですね」と言われたんです。

 

 「それいまつり って何ですか」問い返すと「正方に基づいて、正しくお位牌をお祀りするんですよ。講習会に出て来られたご先祖の方も、きっと、お喜びになられますよ」と言うんです。

 

 確かに講習会ではのっぺらぼうのご霊さんが出ぼくの目の前に出てきたけれど、同じ屋根の下に住む母の部屋には既に、お位牌をお祀りしています。

 

 そこで「一つの家族に二つのお位牌が祀られていてもいいんですか?」と聞いてみたんです。すると「ええ、構いませんよ、講習会で教えていただいたように、中を明るくしたお仏壇にお祀りして、食事の供養をしながら毎日、お参りさせていただきなさい」と言うのです。

 

 「食事の供養をしながら、毎日お参りさせていただく」という中川さんの言葉にぼくは、心を打たれました。ご先祖の方たちは、今もあの世で生きておられるのだから、ひもじい思いをさせないように自分たちと同じ食事をお出しして、ご先祖のみなさまの幸せをお祈りしなさい、ということなのだ、と理解したからです。

 

 

 でも、自分たちと同じ食事をお出しして、ご先祖の皆さまは本当に召し上がってくれているのでしょうか、「はい、召し上がっていますよ」とはっきり答えられたことなんて、今までに耳にしたことがありません。

                    

 信者としてはそう思いたんだろうけど、現実はそんなことはないよね、と思いながらお食事をお出ししているのが現実のはずなんです。

 だから「召し上がっておられる」ときっぱりとおっしゃられると「じゃあ、どうやって召し上がっているんだろう」と半信半疑の気持ちになってしまいます。

 

 お仏壇をお祀りする場所を決めるために、一週間後に再訪問したい、という中川さんからの連絡を受け、了解しました。当日、中川さんと、やはり安孫子支部の幹部である白川さんという男性の二人が自宅に見えました。

 

 

 「二階を見せてください」ということで我が家の二階に案内しました。我が家の間取りは、いわゆる「一、二階の反転間取り」というもので、ダイニングキッチンとリビング、そして客間を二階に、家族の寝室を一階に配しています。

 

 家族のみんなが集まるところに陽の光が多いに入って明るい方がいいよね、という女房の要望にぼくも同調して、ちょっと風変わりな部屋の配置にしたんです。

 

 ところが、いざ、お仏壇をどこに置こうか、と考えると、ダイニングは吊戸棚があって狭苦しいし、リビングも応接セットがあるのでお参りするスペースが確保できません。

 

 かといって、隣接する和室にすると、仏間のような部屋で客人がお休みいただくことになるので、できるならば、一階にあるぼくの部屋がいいなあ、と思っていました。

 

 そんなぼくの気持ちを知ってか知らずか、中川さんと白川さんは、何かもそもそと話をしながら二階の和室辺りでうろうろしています。ぼくの希望を伺うことはありませんでした。

 

 「えーと、ではこのようにしてください」と中川さんが声をかけてきました。「陽が当たりがよく、明るいリビングの方に向けた、この和室の北側の壁面に置きましょう」と言うのです。

 

 でも、この壁面は大壁造りのために柱がありません。「どんな風に棚を吊ればいいのですか」と聞いてみると「この壁面に一本の縦材を打ち付けて、お仏壇の中のお位牌が床面から1,5メートルよりも上になるような位置に棚を吊ってください」と白川さんが慣れた口調で、分かりやすく説明してくれました。

 

 それを聞いたぼくは、大工さんに頼まなければいけないな、と理解しました。

 

 「それでは、お仏壇と仏具一式を注文します」ということで、中川さんがそのカタログを見せてくれました。高額なお仏壇や仏具を売りつける宗教団体もあるんですよ、と聞いていたので「もし、気に入ったのがなければ、他の店で購入してもいいですか」と聞いてみたんです。

 

 すると「それは構いませんよ」と答えてくれたので、」気兼ねなく見せて頂きました。

 

 そして中川さんが勧めてくれたお仏壇は、高さが58センチ余の18号という大きさの障子扉のない唐木仏壇(からきぶつだん、東南アジアなどの熱帯地方で伐採された硬い木材で造られた仏壇)で、中の背板だけが金色の壁紙が張られている価格が数万円の廉価品でした。

 

 いたるところに金箔が貼られた高額品を売りつけられるのではないか、という心配は余計なことでした。

 

 お位牌も一般的な塗位牌(ぬりいはい、表面に漆や金箔などを塗布してある位牌)ですが「黒地に金文字、というのがご霊さまにとってとても大切なんですよ」と教えていただきました。

 おりんセットと仏膳セットも「中等品でいいですよ」と言い、「線香や蝋燭は使いません」と言われました。

 

 「その代わり、お仏壇の中を明るくするための小さな蛍光灯をお仏壇の天井に取り付けられているので、近くに電気のコンセントがないといけませんね」と教えてくれました。

 

 言われるままにそれらを注文したのですが、神教真ごころ流の正法というお祀りの仕方が、あまりにも世間一般に目にするものと違うことに驚きました。

 

 早速、大壁造りの和室の壁に棚を吊ってもらうよう工務店に依頼し、一日もかからずに出来上がりました。それから一週間余が過ぎて、中川さんお勧めのお仏壇とおりんセット、そしてお仏壇一式とお位牌が白川さんの車で自宅に運ばれてきました。

 

 そして、二階の和室の北面に新造された棚に真新しいピカピカのお仏壇を安置し、その中の上段の棚にお位牌を、右手の奥におりんを置いて、その天井に取り付けられた蛍光灯を点灯してみたんです。

 

 なんて明るいお仏壇なんでしょう! 黒地に「渡部家先祖代々之霊位」と記された金文字が光り輝いていて、とても明るく神々(こうごう)しく(神さまを思わせるるほど気高く厳かなこと)見えました。

 

 それに、花瓶に挿した仏花と少々のお供物を用意して準備が整いました。このようにして、昭和58年7月吉日に我が家の祖霊祭り行われました、

 ただの飾り物のように見えるお位牌を、ご霊さまたちの霊界とぼくたちが生活する現界との通り道にするための儀式を、神教真ごころでは「祖霊祀り(それいまつり)と呼んでいますが、お坊さんを読んだわけではありません。

 

 ろうそくに火を灯したり、お線香を立てたりしたわけでも亡いんです。参加者もぼくたち家族4人とぼくの母、そして、神教真ごころ安孫子支部の所長とその幹部である中川さんの7人だけでした。

 

 そして儀式の中で唱えられたのは般若心経(はんにゃしんきょう)といったお経ではなく、神示し(かみしめし)による、と説明されている祈言(のりごと)や経典の一部分でした。

 

 ぼくたち信者連中がそれらを復唱して「ご先祖の皆々さま、このお位牌にお罹(かか)り下さい」という所長の一言で頭を深々と下げて一礼をして儀式が終わりました。

 

 

 何と簡素で、何と質素で、何と廉価な祖霊祀りなのでしょう。壁に掛けられた時計の針を見ると、初めから終わり目で15分しかたっていないのです。

 

 そのあまりにも軽々しい行事に「ご先祖の方々は、本当にお食事を召し上がっておられるのだろうか」と疑ってしまいました。それから3ヶ月余が過ぎて、そんな疑いを吹っ飛ばすような出来事が起きたんです。

 

 いくつかの台風が過ぎ去って、秋の風が吹き始めたころでした。「たまにはご先祖さまのお参りをみんなでしようよ」と、ぼくが声をかけて家族4人でお参りをすることになりました。

 

 「えー、何でー」と不満顔の子供たちでしたが、お仏壇に向かって右端に座ったぼくの後ろに小学3年の息子が、ぼくの左隣に女房が、そして、そのお後ろに小学4年の娘が正座をして腰を下ろしました。

 

 「それじゃ行くよ」とぼくが掛け声をかけて、祖霊祭りの時に教団の幹部が唱えていた祈言(のりごと)と同じ「天津祈言(あまつのりごと)」を、経典を片手に「極微実相…(ごくびじっそう)」と唱え始めたのです。

 

 そして、その祈言の中ほどまで唱え進んだときでした。経典の文字を追う自分の目の視界の右の方に、何か動いているものがあることに気付きました。

 

 「ん、なに?」と思ってその動くものに視線を移すと、何と「薄黒い影状のもの」だったのです。畳の上に投影された楕円形の形をした大小2つのその「薄黒い影」が、ぼくのすぐ右横に来ました。

     

 すると、自分の手のひらを広げたほどの大きさと、それより二回り(ふたまわり)ほど小さい影だったのです。

 

 大きい方の影が先頭になって、猫が歩くほどのゆっくりとした速さでぼくの右横を通り過ぎていきました。「何なの、これは?」という思いで視線を逸らさずにその二つの影を追いました。もちろん、祈言を唱えながら、です。

                                                                                             

 前方にある部屋の壁に突き当たったその二つの影は、その壁を這い上がってお仏壇の中に入っていきました。目を凝らしていると、まるでお位牌に吸いこまれていくようにして、その二つの影は消えていきました。

 

 蛍光灯で明るく照らされたお仏壇の中だったので、とてもよく見えていました。

 

 祈言(のりごと)を唱え終わり「お参りを終わらせていただきます」と挨拶を済ますと「ああ」と肩の力がどっと抜けました。後ろを振り向くと、真っ青な顔をした息子が震えていたので「大丈夫だよ、怖くないよ」と声をかけながら抱いてあげ、背中をさすって安心させました。

 

 息子もこの二つの影の動きの一部始終を見ていたようです。息子の日後から近づいてきたのでしょうから、さぞかし、驚いたに違いあありません。

 一方、女房と娘は「どうしたの?」という顔を向けるだけで、何が起きたのか分からなかったようです。

 

 一人になったぼくは、あの光景を思い出していました。祖霊祀りを済ませたお位牌は、まさに黒い影の通り道になっていたのです。

初めて目にする光景とはいえ、気になることがいくつもあったからです。

 

 先ず、あの動いていた黒い影はいったい何なのか、ということです。ぼくは夢でも見ていたのではないだろうか、ぼくが目に下のは幻影(まぼろし)だったのではないだろうか、という思いでした。

 

 夢というのは、あたかも現実の行動であるかのような映像が睡眠中に起こることですが、ぼくは祈言を唱えていたので、決して眠ってなんかいません。だから夢ではありません。

 

 また、眠ってはいないけれども、実際には存在しないのに、あたかも存在しているかのように見える心的な映像で、すぐに消えてしまうような儚いものを幻影(げんえい、まぼろし)と言います。

 

 しかし、自分の視界に映ってからお位牌に吸いこまれていくまでの姿をしっかりと視認で来ていたので、儚いという幻影でもありません。

 ましてや、ぼくと息子の二人そろって同じ夢や幻影を見るなんてことはありえない、と思います。

 

 では、いったいあれは何なのでしょうか、ということになります。ぼくのすぐ横、手を伸ばせば届くような至近な距離で見たものは、間違いなく光を遮ったときにできる輪郭がぼやけた影Shadowそのものでしたから。ほかに言いようがありません。

 

 ただ、普通によく見る影と違うのは、影と天井灯との間にこの二つの影を投影するような障害物は、何もなかった、ということです。

 

 だから、物理的に考えれば影などできるわけはないのです。つまり、あの影のように見えた黒いものは、この地球上でみられる「影」ではなく、影のように薄黒い半透明の物体、としか言わざるを得ないのです。

 

 では改めて、あの影のように薄黒くて半透明なものは何だったのでしょうか。少なくとも、この地球上の物体や現象ではなく、何だか、この世のものではないのではないか、と思います。

 

 自分の気持ちの中で思ったことを言えば、あの黒い影はご霊さまそのもの、つまり、亡くなった人の霊体とか霊魂といったもの、ではないかと思います。

 

 お仏壇の中に安置されたお位牌に吸いこまれていった様子を目の当たりにしたのだから、それ以外には考えようがないのです。

 

 それで、お位牌に吸いこまれたご霊さまはどこへ向かおうとしたのでしょうか。それは言わずと知れた霊界、つまり、あの世なのでしょう。ご霊さまにとってのお位牌は、あの世とこの世を繋ぐ出入り口なのですよ、と教えてくれたのだと思いました。

 

 

 だから、お位牌に吸いこまれていった二つの影はこの世のものではないのです。すると、真ごころの講習会で居眠りしてしまったときに出てきたのっぺらぼうの男を思い出しました。

 あの、人の形をしたご霊さまが、今度は薄黒い「影」となって現れたのでしょうか。

 

 気になっていたぼくは、後日、中川さんに聞いてみたんです。すると中川さんは「その方もご先祖の方ですよ」と教えてくれたのですが、ぼくのご先祖の方が講習会で居眠りをした夢の中にも、わが家のお位牌のところにも出てきた、というのでしょうか。

 

 もし、子の影の大きい方が大人で、小さい方は子供だと下ならば、思い当たることがあるんです。ぼくが幼いころに亡くなった父親と、まだ母の体内にいた胎児の二人かも知れません。

 

 というのは、父が亡くなったときに母が3人目の子を身ごもっていたけれど、多胸糞の子を堕胎(だたい)したと、母本人の口から聴いていたからです。

 

 でも、この二つの影が父親と胎児ではないか、というのはぼくの単なる推測にすぎません、なぜなら、亡くなった日にしても、場所にしても、父と胎児とは全く違うし、その親子があの世で一緒に連れ立って暮らしているなんて、とても想像できないからなんです。

 

 いやいや、もし、その二人が一緒に暮らしていることが事実ならば、親と子、例え、まだ生まれてこない胎児であっても。その絆と言いますか繋がりというものが、それほど堅固なものなのだ、ということを教えてくれています。

 

 だから「親子の縁を切るぞ!」なんていきがってみても、決して切れるもんじゃないんです。

 

                                                                                    ----------続く

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

同じ夢や幻影を

 

 パンシロンや三共胃腸薬、あるいは太田胃散といった街中にある薬局の棚に並ぶ多くの胃腸薬や消化薬を購入して、どれとはなく試してみたけれど、高校生の頃にあの医院で処方してもらったあの粉薬のように「これはいける、いいじゃないか」と言えるような薬に巡り合うことはありませんでした。

 

 「慢性的な胃腸病には漢方薬がピッタリ」という話を耳にして、東京上野んいある漢方薬専門店を訪ねてみました。そこで勧められたのが

「お腹を温めて胃腸の働きを活発にする朝鮮人参と健胃整腸作用のある蒼朮(しうじゅつ)という生薬が配合されている」という人参湯(にんじんとう)という漢方薬でした。

 

 「これは良さそうだ」と飛びついて2週間ほど続けていると、ジーンとした頭痛と150ミリ余の血圧上昇が現れたので、つt目先の診療所に駆け込みました。

 

 すると先生は、ぼくの説明を聞き取るや否や、机上にならんfだ医学盆の中の一冊を手に取ってパラパラとページをめくり「人参湯に含まれている甘草(かんぞう)という生薬が悪さをしているね」と診断してくれました。

 

 漢方薬は天然由来の生薬から作られていて、穏やかな効き目がとk長です、と言われているけれど、自分の体質や薬物感受性に合わなければ、副作用として症状が強く現れることがある、ことを知って、肝に銘じました。

 

 そんなときでしたか「あんしん易断(仮名にしてあります)」という暦(こよみ、時間の流れを年、月、週、日という単位に当てはめて数えるように体系付けしたもの、カレンダー)による病災相談が無料で受けられる、という新聞広告が目に留まりました。

 

 薬剤による治療では、身体への副作用という有害性が避けられないこともあるけれど、生年月日による運命的な巡り合わせから胃もたれと下痢の原因を探るのであれば、身体を傷つけるようなことはないよな、と考えたんです。

 

 「善は急げ(良いと思うことは急いで実行しなさい)」とばかりに東京上野にある「あんしん易断」を訪ねてみました

なかなか良くならない胃もたれについて相談したい」と記入した申込書を受付に差し出して数分余待ちました。

 

 すると、神社の神主のような白装束(しろしょうぞく)を身につけた年のころ35,6歳の男性が相談に乗ってくれました。いかにも信頼できそうな身なりと言葉遣いでした。

 

 しかし、ぼくの相談内容に応えてくれたことは、自分の意に沿うものではありませんでした。聞き取ったぼくの生年月日からぼくの運命的な環境や背景を調査し、胃もたれと下痢の根本的な原因を導き出してその対策を示してくれるのだろう、と思っていたけれど、そうではなかったのです。

 

 

 

 

 つまり、中国陰陽五行にある四柱推命や気学というものに依ってその原因を探り出し、その対策をお伝えするという、いくつかの易断の方法を、ただ単に紹介してくれただけだったのです。

 

 そこで実際に易断を受けるとその費用はいくらなのか、と聞いてみたんです。すると「20万円から」と説明されました。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」というような根拠の乏しい「あいまいな答え」に「20万円も払うのか」と思ったら、ばかばかしくなってそそくさと易断本部を後にしました。

 

 「ああ、ぼくの胃もたれを治すすべはないのかー」と、何をしても良くなることのないこの胃もたれと下痢症状に嘆き、悲しむ日が続きました。

 そんなある日、玄関先にある郵便/新聞受けに朝刊に重なって1枚の広告チラシが投げ込まれていたんです。

 

 封筒サイズに折りたたまれていたチラシには、おおきなもじで「真ごころライフ(仮名にしてあります)とあり、「何だろう」とそのチラシを広げてみました。

 

 すると「浄め祓(きよめはら)いで病気や禍を追い払う、目や胃腸の病気に悩んでいませんか」と、大きな活字が躍(おど)っています。

 

 細か時の説明書きを飛ばして裏を返すと、頭より高く上げた手を人にかざして浄め祓いをしているイラストと一緒にその説明書きが記されていました。

 

 紙面の下の方に目を移すと、このチラシの発行元が記されていて「神教真ごころ 安孫子(あびこ)支部(仮名にしてあります)とあり、宗教団体の恢弘(かいこう)チラシであることが分かりました。

 

 そんな浮世離れした見出し文句にいささかの「うさん臭さ」を

感じながらも、ぼくは何だか、今の自分の体調を言い当てているようで、そのちらしを、ぽいとごみ箱に捨てる気にはならなかったので酢。

 

 「役に立つかも知れないな」と、自宅から1時間もあれば行くことが出来るであろう常磐線の我孫子駅の近くにこの教団の支部があることを頭に入れて、そのチラシを机の引き出しに仕舞い込みました。

 

 それから半年ほどが過ぎたでしょうか、少しは調子を戻してきた、とは言え、胃もたれと下痢は会いくぁらずです。医療と占いによる効果効能に手詰まり感を抱いたぼくは「宗教団体は、このしつこい胃もたれ、下痢を何とかしてくれるだろうか」と思い始めて、机の引き出しに仕舞い込んだあの恢弘チラシを引っ張り出して、よく読んでみようと思いました。

 

 チラシを手にして飛ばし読みした部分の記事を丁寧によんでみると「病気や災難というのは、ご霊さまの仕業による、ということが多いので、神教真ごころの浄め祓いで解決しましょう」とありました。

 

 「浄め祓い」という言葉で「神さまという存在を信仰している団体なんだな」と分かったのですが「神さまなんておとぎ話に出てくるだけではないのか」と、またまた眉唾(まゆつば)な言葉に戸惑ってしまいました。

 

 「インチキだと分かれば、さっさと退会すればいいんじゃないの」と自分に言い聞かせてそのチラシを握りしめたんです。まさに「困ったときの神頼み」です。

 

 数日後の日曜日「ちょっと東京に行ってくる」と妻に告げて、JR成田駅から東京とは反対方向の安孫子(あびこ)行きの成田線に乗り込みました。

 

 1時間余で安孫子駅に着き、手にした地図を頼りに歩くこと十数分で「神教真ごころ 安孫子支部」と書かれた看板が掛かった一軒の家の前に出ました。平屋造りのごく普通の民家でした。

 

 しかし、いざ教団支部の前に立つと、手と足がうまく動いてくれません、「40間近で妻子もいるおっさんが、いるのかいないのかもはっきりしない神さまなんかに頼るのかよ」なんていう気持ちに腰が引けてしまいます。

 

 「いやいや、インチキだと分かれば、直ぐに逃げて帰ればいいのだから」と自分に言い聞かせるのですが、何度も何度も押し問答が続きます。

 

 なかなか決断できずにいる自分の気持ちに見切りをつけて「えいっ」と気合を入れて「こんにちはー」と声をかけながら引き戸を引いたんです。

       

 「はーい」と言いながら顔を出してくれたのは、真っ赤な口紅(べに)が印象的な40歳過ぎのご婦人でした。あの安心易断と同じように、白装束でも身につけてた男性がさっそうと現れると思いきや、派手なお化粧をしたおばさんが顔を出してので、肩の力がガクッと抜けました。

 

 「真ごころライフを見ました」と告げるとニコニコと満面の笑みを浮かべながら「中川と申します。どうぞお入りください」と廊下から続く2,30畳ほどある畳敷きの大広間に案内されました。

 

 そこには二人が一組になった4組ほどの信者たちがいて、あの恢弘チラシに載っていたイラストのように、相手の身体に右手をかざしている姿が目に映りました。

 

 「どうなさいましたか?」と中川さんから優しい声で問われたので「食後の胃もたれと下痢症状が何をしても良く奈良のです」と、今一番お悩み事を吐露したんです。

 

 すると「大丈夫ですよ、この浄め祓いを受けることできっとよくなりますよ」なんて、満面の笑みを浮かべた顔をぼくに向けて言い放ったもんだから、赤くて大きな唇が花びらのように見えて、もう疑うことを忘れてしまいました。

 

 

 「あそこに神さまがいらっしゃいますよ」と指さす先を見ると、周囲を金色の壁紙で張り巡らされて光り輝く床の間に一軸の掛け軸が飾られています。

 

 「あの掛け軸から神様のみ光が出ているんですよ」なんて突拍子もないことを言いだすもんだから、何も見えないぼくにしてみれば「はあ、そうですか…」としか返事のしようがありません。

 

 「それでは浄め祓い(きよめはらい)をさせていただきますね」ということで、ぼくは生まれて初めて「浄め祓い」というものを受けることになりました。

 

 言われるままに両手を合わせて目を閉じて、座布団の上に正座の姿勢で座り、背筋を伸ばしました。

 

 「では、参ります」という掛け声とともに両手で三拍子が打たれ、祝詞(のりと)のような節回しで意味の分からない文句が唱えられて「畏み(かしこみ)畏み も白(まお)す」で終わりました。その後、10分余の静粛が続きました。

 

 目を閉じていたので何も分かりませんでしたが、たぶん、あのチラシにあったイラストのように手をかざし知たのでしょう。ぼくは何も考えない無の状態でいました。

 

 

 5,6分経ったでしょうか、突然「お鎮(しず)まり、お鎮まり」と大きな声が2回唱えられ、続けて「目を開けてください」との声がかりました。

 

 目を開けると顔を覗き込むようにして「大丈夫ですか、はっきりしていますか?」と問われたので「はい」と答えました。「魂(たましい)が宿るという眉間に奥をお浄(きよ)めしましたよ」と説明され、それに続けて首筋や気になっている胃腸周りに手をかざしてくれました。

 

 50分ほど経ったでしょうか「これで終わらせていただきますが、いかがでしたか?」と中川さんから問われたので、これといった変化を感じなかったぼくは「正座の姿勢で座ったことがないぼくが、10分もの間この姿勢で座り続けられたのが驚きでした」と、苦し紛れの返事をしました。

 すると「そうですか、よかったですね。何度か通うといいですよ」言われて、支部を後にしました。

 

 お浄めを受けた、といっても、正直言って、自分の身体に何か変化が現れたわけでなく、自分自身の気持ちにも何らの変化を感じたわけでも亡いので、どんな効果があるのかよく分からなかった、というのが偽らざる本音です。

 

 しかし、いい齢をした大人の女性が多かったし、加えて「お気持ちでいいですよ」というお浄めのお礼を考える「少し、通ってみようかな」なんていう気持ちになりました。

 

 そんな不真面目な気持ちで何度か通っているうちに、気のせいなのか、あのしつこい胃もたれが、なんとなく、穏やかになってきたんです。本当なんです。

 

 そんなぼくの体調の変化に気付いたのか、中川さんがつかつかと近寄ってきて「来月に講習会があるんだけれど、参加してみませんか」と誘われました。

 

 「何ですか?、その講習会って」と問い返すと「三日間に亘る神霊界に関する話を聞いて神さまとご縁ができると、あなたもこの浄め祓いができるようになって、人を幸せにすることができるんですよ」と、漫画のストーリーに出てくるようなことを言い放ったんです。

 

 「どこで行われて、費用はいくらなんですか」と問いかけると「東京の四ツ谷にある教団本部で月末の金、土、日に行われ、費用はお気持ちでいいんですよ」という返事でした。

 

 「お金がかかるのか」とちょっとした躊躇(ためらい)いを感じたけれど、乗り掛かった舟 とか渡りかかった橋、ということもあるよね。

 

 しかも、「お気持ちの費用」 ということだから、止めたくなればさっさと止めることが出来るくらいの費用にしておけば、例え、短い期間で止めたくなっても何の後悔もないよな、と考えながら帰路につきました。

 

 今までに耳にしたこともないような神霊界の話とやらを「お気持ちの費用」で聴けるのだから、ぼくは参加してみたい、と思ったけれど、問題はこの浮世離れした教団のことを妻にどう説明しようか、ということが気になりました。

 

 妻に内緒で参加しちゃおうか、とも考えてはみたけれど、金、土、日の三日間に亘って早朝に家を出て夕方に帰る日が続けば「あんた、どこへ行っていたのよ」ということになるに決まっています。

 

 そこで言い訳時見たことを言い張れば、ドンパチは火を見るよりも明らかです。

 

 そんなわけだから、前もって説明しておこうことがいいのですが「神さまだ、病気が治る」なんていううさん臭そうな教団のことをどのように説明すれば首を縦に振ってくれるだろうか、腕を組むことが多くなりました。

 

 いやいや、ぼくの口からあーだこーだと尾ひれや腹びれをつけて説明するよりも、郵便受けに投げ込まれていた あの恢弘チラシを妻の目のお前に見せるのが一番手っ取り早いのではないか、と気付いたんです。

 

 そこで、ダイニングのテーブルに座っていた妻に知被いて「この講習会に参加したいんだけど」と襲るおsる切り出して、きゅだんの恢弘チラシをテーブルの上に置いたんです。

 

 「何よ、これ」とチラシを手に取った妻は、そのチラシの表と裏にサーっと㎡を通していましたが、ぼくはその間、何お補足説明を加えることなく麦んでいました。

 

 目を通し終わった妻が言い放った一言は「騙されないでね」でした。「はい、十分に気を付けます」とぼくは答えて了解を盛りました。

 

 

 神教まごころの信者になるための講習会が開かれたのは昭和57年の秋でした。当日、JR中央線四ツ谷駅で中川さんらと待ち合わせて、教団の四ツ谷本部という講習会会場に向かいました。

 

 駅から10分余歩いて会場のに到着し、2階に上がってその会場に足を踏み入れると三人用の座り机が横方向に3列、、縦方向に20数列の全部で5,60台ほどが整然と並べられていました。

 

 中川さんに促されて、縦列の中ほどの一番手前の机に座りました。やれやれ、と気持ちが落ち着いてきたところで周りを見回してみると、前の席も後ろの席もぼくよりずっと年を重ねた人たちで埋まっていました。

 

 年齢を重ねてくると人の知恵だけでは解決しないようなことが多くなってきて、本当にいるのかどうかわからないのに、神さま、仏さまに頼ってしまう気持ちが強くなってくるんだろうな、と今の自分の姿と重ねていました。

 

 しばらくして教団幹部からの挨拶が始まり、続けて教団の沿革や規模などの説明があって、興味深く耳を傾けていました。

 

 

 神さまとは何なのか、というこの団体の成り立ちに関する講習も始まって、一語一語聞き逃すまいと身構えるようにして聞いていた午前の部は終わり、昼食をはさんで午後の部が始まりました。

 

 ところが、午後の話が始まると、昼食を摂ったあとのお腹の膨らみに胃もたれによる胃の膨満感が加わって、もう、耐えられないほどの睡魔に襲われて目を開けていられなくなったんです。

 

 目をk擦り、頬をつねってみたけれど眠くて、、眠くてたまりません。

 

 いつ寝入ったのか、寝入ってからどれほどの時間がたったのか分からないけど、突然、見知らぬ男がぼくの席のすぐ前に、こちらを向いて座ったんです。

        

 ぎょっとして飛び上がらんばかりに驚いて、目を覚ましました。それで、その男が出てきたのは夢の中だったのだ、と分かりました。

 

 自分の身体が大きく跳び上がって周りに迷惑を課k他のではないか、と見回してみたけれど、その様なことはなく講習は粛々と続けられていたので、胸をなでおろしました。

 

 それにしても、とても驚きました。胸の高鳴りもなかなか収まりません突然、目の前に見知らぬ男が座ったのですから。しかも、こちらに向けたその顔には目とか鼻といった顔の造作というものが一切ないペロッとしたのっぺらぼうだったのですから。

 

 しばらくして胸の高鳴りも治まってきましたが、いったい、この夢は何なのか、という思いでした。

 

 夢の中に出てきたこののっぺらぼうの男がどこの誰だか知る由もないし、講習会でのうたた寝の中で夢となって現れるような男なんて、どう考えてみても、身に覚えがありません。その後は何事もなく、講習会の第一日目は終わりました。

 

 二日目も昨日と同じ席に着いて講和に耳を傾けていました。

午前の講話も終わり、昼食を摂って午後に備えました。午後の講話が始まってしばらくすると、昨日と同じようにたまらなく眠くなってきて、こらえきれずに寝入ってshまいました。

 

 どれほどの時間が過ぎたのか分からないけど、又、あののっぺらぼうの男が、突然に、ぼくの間に座ったので跳び起きました。

 

 「昨日と同じ男だ」と、さほどの驚きではなかったのですが、のっぺらぼうの顔だけでなく、ひじのところでくの字に曲げた右手を腰に当てている格好までもよく見えて「いったいこれは何なの?」と、単なる偶然の夢ではないように思えてきたんです。

 

 次の日の三日目も昼食後の同じ時刻になると眠くなってきて寝入ってしまい、あののっぺら部の男が同じ格好でぼくの目の前に座ったので「またか」と驚きもせずに目を覚ましたんです。

 

 同じ夢を見るのも3回目ともなれば驚きというよりも「これは変だな」と感じ取って、3時の休憩時間を利用して付き添ってくれた中川さんに聞いてみたんです。

 

 すると、中川さんの口から思ってもみなかった言葉が出たんです。「ご先祖の方がこられていますよ」と。「ええええ、そんなことってあるんdすか」とぼくが怪訝な目を向けると「この講話を聴きにみえているんですよ」と真顔で答えるもんだから、ぼくは、この中川さんが、何だか特別な人のように見えてきたんです。

 

 

 それからというもの、右手をくの字に曲げて腰に当てた格好で夢に出てきたのっぺらぼうの男が、いったいどこの誰なのか、ということがぼくの頭から離れなくなってしまいました。

 

 そして時は流れて、そののっぺらぼうの男がどなただか分かったのは、それから30年余後の、ぼくが65歳のときだったんです。

 

                    ーーーこの章終わり