不思議体験 一度だけ、天国の父に会いました/ 気付かせてくれたご霊さまの存在 | 一度だけ、天国の父に会いました

一度だけ、天国の父に会いました

そして、不思議なことや不思議なものを、たくさん見せていただきました。

 その二 女房が居眠りしながら記した明日の予告

 

 ダイニングの椅子に座ってうとうとしながら新聞の折り込みチラシの端っこに記した「ひだりあしにきをつけて」の一文は、あくる日、息子が左足に擦り傷を負ってきたくしたことで現実となって現れました。

 どなただか分からないけれど、あの世の人からの未来予知かも知れない、と気付いたんです。

 

           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 三日間の講習も終わり、JR四ツ谷駅で中川さんと別れてまっすぐ自宅への帰路につkました。同じ年齢の女房と小学3年の娘、蘇飛て同じく2年の息子の家族4人で夕食を摂りながら、ぼくが効いてきた講習会の話を披露しました。

 

 「真ごころの浄め祓いを受けるとあらゆる毒気というものが体外に出て、禍(わざわい)に遭わなくなるんだってよ」と切り出すと「ふーん」といかがわしいものでも見るような目を向けられて一笑されてしまいました        。

 

 女房だけでも仲間にしたいと、日を改めて「浄め祓いをさせてよ」と女房の肩に手をかざしたんです。「なに、何」と言いながらも受けてくれて、しばらくすると「何となく暖かくなってきた」と女房が言ったんです。

 

 こはチャンスだと、どうにもならなかったぼくの胃もたれと下痢に、藁をも掴む思いで神教真ごころの門を叩いたことを話すと「へー、そんなことあるの」といかがわしいものを見るような目を向けていた女房が「私も教えてもらおうかな」なんて言い出したんです。 

 

 「それじゃあ」ということで中川さんにその旨を伝えて、神教の四ツ谷本部で行われる三日間の講習を女房も受けることができました。

 

 女房も信者になってから半年ほど経った土曜日に夕方でした。いつものように家計簿をつけるためにダイニングのテーブルに向かっていた女房が、突然「何よ、これ」と驚いたような声をあげてぼくを呼び寄せたんです。

 

 「何だよ、どうしたんだよ」と言いながら女房に近づくと「これを見てよ、居眠りしている間に書いたの」と家計簿の余白に書いたという一文を手の指で指し示していたんです。その指の先に顔を近づけると、ゆらゆらした読みづらいひらがな字体で「ひだりあしにきをつけて」と一筆書きされていたんです。

 そして、その文末にはこの一文を伝えてきた人の名前と思われる筆跡もありましたが、ゆらゆらしすぎて読み取ることはできませんでした。

             

 「何だよ、これは。左側の足に気をつけろよ、という意味じゃないのか。誰の左足なんだ。お前が書いたのか」と女房を問い詰めても「私がこんなこと書くわけないじゃないのよ」と言い返されたんです。 

 

 「じゃあ、誰が書いたんだよ。気持ち悪いな」といいながら、子供たちを呼び寄せました。そして「ママが居眠りしながらこんなことを書いたから、明日は左足に気をつけなさいよ」と注意をしておいたんです。

 

 あくる日の夕方、「ただいま」と会社から帰宅したぼくに「お兄ちゃんの左足を見てよと女房が耳打ちしてきたんです。「えっ」という思いで息子を呼び寄せて左足を見ると、その脛(すね)に青あざと擦り傷を作っていたのです。

 

 「どうしたんだよ、その傷は」と息子に聞いてみると「道路に転がっていた木でできたミカン箱にぶつかったんだ」というのです。

 

 「おまえが家計簿に書いたあの一文は、どうやら息子の左足に負ったこの傷を予言していたようだね」と、女房と顔を見合わせたんです。

 

 「でも、あの未来に起こる予告を私に書かせたのは誰なのよ」と女房が言うように、あくる日という未来に起こることを、予め女房の手を借りて書かせたのだな、と理解できたけれど、それを書かせたのは、決して現世に生きる人たちではないように思いました。

 

 すると、まだ一度も見たことも会ったこともない神さまなのか、それとも、あの神教の講習会での夢の中に出てきたのっぺらぼうの男なのか、ということになりますが、はっきりと分かりませんでした。

 

 

 

 

 その三 お位牌に吸い込まれていった二つの影

 

 どこからともなく現れた2つの丸くて薄黒い影が目の前を通り過ぎる姿は、「おお、怖い」というよりも「何なの、これは」といった、生まれて初めて目にしたような驚きでした。

 

       ============================

 

 神教真ごころの信者となったぼくと女房は、土曜日と日曜日、あるいは祝祭日を利用して週に1回ほどの頻度で、成田と我孫子間を車で約1時間かけてご神前の参拝に通うようになりました。もちろん、二人の子供たちも一緒でした。

 

 そんな信者生活をするようになって半年ほどが経ちました。班長の中川さんから声をかけられて「祖霊祭り(それいまつり)をした方がいいですね」と言われたんです。

 「祖霊祭りって何ですか」と問い返すと「正法(せいほう)に基づいて正しくお位牌をお祀りするんですよ。講習会に出てこられたご先祖の方もきっと、お喜びになりますよ」と言うんです。

 

 確かに講習会ではのっぺらぼうのご霊さまが目の前に現れたけれども、同じ屋根の下で暮らす母の部屋には、既にお位牌をお祀りしています。そこで「一つの家族に二つのお位牌があってもいいんですか」と聞いてみたんです。

 

 すると「ええ、構いませんよ。講習会で教えていただいたように、中を明るくしたお仏壇にお祀(まつ)りして、食事の供養をしながら毎日お参りさせていただきなさい」という返事でした。

            

 「食事の供養をしながら毎日お参りさせていただく」という中川さんの言葉にぼくは心を打たれました。ご先祖の方たちは今も生きておられるのだから、ひもじい思いをさせないように、自分たちと同じ食事をお出しして、ご先祖の皆さまの幸せをお祈りしなさい、ということですよと説明されたからなんです。

          

 ご先祖の方たちは今も生きておられる、だから毎日の食事を欠かすことなくお出しし、お参りさせていただく―――、ご霊さまとなって生きておられる、霊さまとなって生きておられる、とはどういうことなのか、とても興味を覚えました。

 

 でも、自分たちと同じ食事をお出しして、ご先祖の皆さまは本当に召し上がってくれているんだろうか、そんなことは今までに耳にしたこともないし、どうやって召し上がるんだろうか、と半信半疑の心境でした。

 

 お仏壇をご安置する場所を決めるために、一週間後に訪問したい、という中川さんからの連絡を受け、了解しました。当日、中川さんと、やはり安孫子支部の幹部であるshら川さんという男性の二人が自宅に見えました。

 

 「二階を見せてください」ということで二階に案内しました。わが家の間取りはいわゆる「一、二階の反転間取り」というもので、ダイニングやリビング、そして客間を二階に、家族の寝室を一階に配している、という普通の間取りとはちょっと変わっています。

 

 家族のみんなが集まるところに多くの陽(ひ)が入って明るい方がいいよね、という女房の要望でそのようにしたんです。

 

 ところが、いざ、お仏壇をどこに置こうかと考えると、ダイニングは吊戸棚が天井付近にあり、リビングも応接セットが床面一杯に配されているのでお参りするスペースがありません。りん接する和室にすると、仏間のような部屋に客人をお通しすることになるので、できるならば、1階にあるぼくの部屋がいいなあ、と思っていました。

 

 そんなぼくの気持ちを知ってか知らずか、中川さんと白川さんの二人は、何かもそもそと話をしながら2階の和室辺りでうろうろしています。ぼくら家族の希望を聴くことはありませんでした。

 

 「えーーと、ではこのようにしてください」と中川さんが声をかけてきました。「よく陽の当たって明るいリビングの方に向けて、この北側の壁面に御仏壇を置きましょう」というのです。

 

 でも、この壁面は大壁造りのために柱が見えません。「どんな風に棚を吊ればいいんですか」と聞いてみると「この壁面に2本の縦材を打ち付けて、お仏壇の中のお位牌が床面から1,5メートルより上になるような位置に棚を吊ってください」と白川さんが慣れた口調で分かりやすく説明してくれました。

 ぼくは大工さんに頼まなければいけないな、と理解しました。

 

 「それでは、お仏壇と仏具一式を注文します」ということで中川さんがそれらのカタログを見せてくれました。高額なお仏壇や仏具を売りつける宗教団体もある、と言いていたので「もし、気に入ったのがなければ、他の店で購入してもいいですか」と聞いてみたところ「それは構いませんよ」と言うので、気兼ねなく見せてもらいました。

 

 中川さんが勧めてくれたお仏壇は、高さが58cm余の18号という大きさで、障子扉のない唐木(からき)仏壇(東南アジア等の熱帯地方で伐採された硬い木材で造られた仏壇)で、中の背板だけが金箔が貼られた価格が数万円の廉価品でした。

 金箔を施された高額品を売りつけられるのではないか、という心配は余計なことでした。

 

 お位牌も一般的な塗(ぬり)位牌(表面に漆や金箔などを塗布してある位牌。黒檀等のも無罪だけで作られた位牌を唐木位牌という)ですが、「黒地に金文字というのがご霊さまにとって大切なのですよ」と押していただきました。おりんセットと仏膳セットも「中等品でいいですよ」といわれ、「線香や蝋燭は使いません」と言われました。

 

 「その代わり、お仏壇の中を明るくするための小さな蛍光灯がお仏壇の天井に取り付けられていますから、近くに電気のコンセントがないといけませんね」と教えてくれました。

 それらを注文してくれたのですが、真ごころ流の正法というお祀りの仕方が、あまりにも世間一般に目にするものとは違うことに驚きました。

 

 

 早速、大壁造りの和室の壁に棚を吊ってもらうよう工務店に依頼し、一日もかからずに出来上がりました。一週間ほどすると、中川さんお勧めのお仏壇とおりんセット、そして仏膳セットとお位牌が白川さんの車で運ばれてきました。

 

 そして、和室の北側に新造された棚に真新しいお仏壇を安置し、その中の上段の棚にお位牌を、右側におりんを置いて、天井に取り付けられた蛍光灯を点灯してみたんです。

 なんて明るいお仏壇なんでしょう。黒地に渡部家先祖代々の之霊位」と記された金文字光り輝いて、、とても明るく神々(こうごう)しく見えました。

 

 それに過敏に挿した仏花と少々のお供物を用意して準備が整いました。このようにして、昭和58年7月吉日に我が家の祖霊祭りは執り行われました。

 

 お仏壇の飾り物のように見えたお位牌を、ご霊さまたちの霊界と現界との通り道にするための儀式を神教真ごころでは「祖霊祀り」と呼んでいますが、お坊さんを呼んだわけではありません。参列者もぼくたちの家族4人とぼくの母、そして神教真ごころ安孫子支部の所長と幹部である中川さんの7人だけでした。

 

 そして儀式の中で唱えられたのは般若心経というお経ではなく、神示しによると説明された祈事(のりごと)や経典の一部でした。ぼくたち信者もそれらを復唱して「ご先祖の皆々様、このお位牌にお罹(かか)り下さい」という所長の一言と頭を深々と下げる一礼だけで儀式が終わりました。

 

 何と簡素で、何と質素で、何と廉価な祖霊祀りなのでしょう。壁に掛けられた時計を見ると、初めから終わりまで、門の15分余しか経過していないのです。あまりにも軽々しい儀式に「これでご先祖の皆さまは、本当にこのお位牌にお罹りになって、お食事を召し上がっていただけるんだろうか」と、疑ってしまうほどでした。

 

 そんな疑いを吹っ飛ばすようなことが、それから3ヶ月ほど経って起きたんです。いくつもの台風が通り過ぎて秋風が吹き始めたころでした。「たまにはご先祖さまのお参りをみんなでしよう」とぼくが音頭をとって家族4人でお参りをすることにしたんです。

 

 「えー、何でー」と不満を漏らす子供たちでしたが、お仏壇に向かって右側に座ったぼくの後ろに小学3年の息子が、ぼくの左横に女房が、そして、その後ろに小学4年の長女が正座をして腰を下ろしました。

 

 「それではいくよ」とぼくが掛け声を上げて、祖霊祭りのときに教団幹部が唱えていた祈言と同じ「天津祈言(あまつのりごと)」を、経典を見ながら唱え始めたんです。そして、その祈言の中ほどまで唱え進んだとき、経典を読む自分の視線の右側に、何か動くものがあることに気付いたんです。

 

 「ん?」と思って視線をその動くものに移すと、何と「薄黒い影」だったのです。畳の上に投影された楕円形の影だったんです。動いているその影はぼくのすぐ右横に来ました。すると、自分の手のひらを広げたほどの大きさと、それより一回り小さい影の二つだったんです。

             

 大きい方の影が先頭になって、ゆっくりとした速さでス――とぼくの右横を通って前方に動いちきました。「何なの、これは」という思いで視線を逸らすことなくその影を追いました。もちろん、祈言をt萎えながらです。

 

 前方の壁に突き当たったそれら2つの影は、その壁を這い上がりはじめ、お仏壇の中に入っていきました。目を凝らすと、まるでお位牌に吸い込まれていくようにその2つの影が消えてしまったのです。

 蛍光灯で明るく照らされたお仏壇の中なので、その様子がとてもよく見えていました。

 

 祈言を唱え終わり「お参りを終わらせていただきます」と挨拶を済ますと「ああ」と肩の力がどっと抜けました。振り向くと、真っ青な顔をした息子が震えていたので「大丈夫だよ」と声をかけながら抱いてあげ、背中をさすって安心させました。

 

 息子もこの2つの影の一部始終を見ていたようです。息子の背後から近づいてきたのでしょうから、さぞかし青天の霹靂だったに違いありません。一方、女房と娘は「どうしたの」という怪訝な表情を向けるだけで、何が起きたのか分からなかったようです。

 

 

 一人になったぼくは、あの光景を思い出していました。お仏壇お腹にご安置されていたお位牌が、祖霊祭りを済ませたとたんに、薄黒い影が通るための道路になっていたんです。初めて目にした光景に驚かされただけでなく、気になることがいくつもあったのです。

 

 

 先ず、あの動いていたあの薄黒い影はいったい何なのか、ということです。床面に映った薄頃い影はいったい何なのか、ということです。

 

 ぼくは夢を見ていたのではないだろうか、と疑いました。いや、ぼくが見たものは幻影(まぼろし)だったのではないのか、とも思いました。

 

 夢というのは、あたかも現実の光景であるかのような映像が睡眠中に起こることです。でも、ぼくは声を出して祈言を唱えていたので、決して居眠りなんかしていません。だから夢ではありません。

 

 じゃあ、幻影だったのでしょうか。幻影というのは、眠ってはいないけれども、実際には存在しているないのに、あたかも存在しているように見える心的な映像で、すぐに消えてしまう儚いものをいいます。

 

 しかし、自分の視界に映ってからお位牌に吸い込まれていく姿までしっかりと視認できていたので、儚い幻影でもありません。ましてや、ぼくと息子の2人そろって同じ夢や同じ幻影を見るなんてことは会いえません。

 

 では、あの影はいったい何だったのか、ということになります。ぼくのすぐ横、ちょっと手を伸ばせば届くような至近の距離で見たものは、間違いなく光を遮ったときにできる影Shadowそのものでした。しかも輪郭がぼやけたボー―っとしたものでした。

 

 ただ、普通目にする影と違うのは、その影と天上に取付けられた電灯との間にそのような影を投影するような遮光物は何もなかったのです。だから、電灯の光を遮ってできた影ではなく、薄黒い半透明の物体、としかいいようがないのです。

 

 ぼくが目にした薄黒い影というものをイラストにしてみれば下に示したような感じですが、もっと輪郭をぼやかせた感じの煙(けむり)のような状態を想像していただければよろしいかと思います。そのぼやけた感じをうまく描くことができませんでした。

                                                  

 では改めて、あの地球上の影のように薄黒くて半透明なものは何だったのでしょうか。少なくとも、この地球上のものではなく、この世のものでもないように思います。

 自分の気持ちの中で思ったことを言えば、あの薄黒い影はご霊さまそのもの、つまり、亡くなった人の霊体とか霊魂といったもの、ではないのかなと思います。お仏壇の中に安置されているお位牌に吸い込まれていった様子を思いおこせば、それ以外には言いようがないのです。

 

 それで、お位牌に吸い込まれていった何処へ向かったのでしょうか。それは言わずと知れた霊界、つまり「あの世」なのでしょう。ご霊さまにとってのお位牌というのは、この世とあの世をつなぐ出入り口なんですよ、と教えてくれたのだと思いました。

 

 だから、お位牌に吸い込まれていった2つの影は、この世のものではないのです。すると、真ごころの講習会で居眠りをしたときに出てきたのっぺらぼうの男を思い出しました。あの時のご霊さまは人の形をしていたけれど、今度は「影」という姿で現れたのでしょうか。

 

 気になっていたぼくは、後日、中川さんに聞いてみたんです。すると中川さんは「その方たちもご先祖の方ですよ」と教えtrくれたんですが、ぼくのご先祖の方が講習会での夢の中にも、我が家のお位牌のところにも出てきたというのでしょうか。

 

 もし、これら影の大きい方が大人で、小さい方が子供だとするならば、思い当たることがあるんです。それは父と、まだ母の胎内にいた胎児の二人なのかも知れません。

 

 というのは、父が亡くなったときに母が3人目の子を身ごもっていたけれど、止む無くその子を堕胎した、と母本人お口から聴いていたからです。でも、この2つの影が父とその胎児ではないか、というのは単なるぼくの推測にすぎません。

 

 なぜなら、亡くなった日にしても、場所にしても、父と胎児とは全く違うし、その親子が時空を超えて、あの世で一緒に連れだって暮らしているなんて、とても考えられないからなんです。

 

 いや、もし一緒に暮らしていることが本当だとするならば、親と子、例え、まだ生まれ出てこない胎児であっても、その絆と言いますか繋がりと言うものがそれほど堅固なものなののですよ、ということを教えてくれています。

 

 それだけではありません。亡くなった日も場所もまったく違う二人があの世で連れ添っていた、という事実は、お互いに意思の疎通を図っていたのではないだろうか、と推測してしまうんです。少なくとも、二人揃ってこの世に姿を現そう、と相談していたに違いありません。

 

 そんな思いを巡らせていると、「血は水よりも濃し」   という故事のいわれを目の当たりにした思いなんです。例えば、災害や事故に遭って親子や兄弟が離散したり行方不明になったりしても、あの世に行ったときには家族みんなと再会できることを示しています。

 

 さらに思いを深めれば、それほど親と子の繋がりが強いのですから、貧困や虐待によって命を絶たれた幼児は、後から来たお父さんやお母さんをどのような思いで待ち受けるのでしょうか。先に霊界に行っていた幼児の姿を目にした両親は、その幼児にどんな思いを向けるのでしょうか。

 

 もちろん、身体があるわけではないですから表情や身振りで表すことはできないでしょうけれど、きっと、憎しみに満ちた思いが飛び交う修羅場となっているに違いありません。お父さんとお母さんは、自分の顔を床にこすりつけるほどひれ伏していることでしょう。でも、元に戻ることはありません。

 

 家族のみんなが仲良くしなければいけない、というこの世を生きるための基本を示しているように思います。この世でみんなが仲良くすればこそ、霊界でもみんなが仲良く、幸せに暮らすことができるのですよ、と教えてくれているようです。

 

 つまり、何年か経ってぼくがあの世に行ったとき「お前の父さんだよ」と声をかけられて父に会うことができたとき、にこにこした父が「よくきたな」とぼくのことを力強く抱きしめてくれるかもしれないな、なんて想像したら、涙が溢れtrきました。

 だってぼくには、父から抱っこされたり手を繋いでくれたりした記憶というものが全くないのですから。

 

 でも、きっと、ぼくたち家族は仲良く暮らしていけると思います、親子なんだし、亡き父の毎日のお食事を欠かすことなくお出ししながら、そのお位牌をずー―と長い間お祀りさせていただいていますものね。どんなところで、どんな風にして父に会えるんだろうか、と考えただけで嬉しさがこみ上げてきます。

 

 もう一つ気にンることがあります。ぼくたちの前に現れたあの霊体は、どうして影のように薄黒く視認できたのでしょうか、ということなんです。霊体というのは今は亡き人の「思い」のあつまりだから、網膜には映らないはずなんです。

 

 ぼくは数えきれないほどの不思議な霊体験をしていますが、あのような影を目にしたのはあの時のたった一度だけなのです。それ以外は、近くにご霊体はいらっしゃらなかったのでしょうか。

 

 いやいや、温湿度計が目の前で壁から落ちたり、背中を押されたりとご霊さまが近くにいらっしゃるのではないかという場面は多々あったのに、黒い影を目にしたことはなかったのです。

 

 それはたぶん、普段は目に見えないご霊さまですが、家族4人がそろっているときだけ薄黒い影色に染めて、ご霊さまの存在を明らかにしたのでしょう、とぼくは想像しています。きっと「父さんと末っ子はちゃんと生きているよ」と残されたぼくたち家族のみんなに伝えたかったらだと思います。

 

 その日を機に、あの小さい方の影は母のお腹の中にいたぼくの兄弟なんだ、と思い込んで、ぼくは今までの緑茶とお水に加えて、人肌に温めたミルクも毎日のお供えにお出しすることにしました。

 

 それと同時に、お位牌の祀り方を「並列」並べから、真ごころ流の正法と言われている「段違い」並べの形にしたことで、ご先祖の皆様がこのお位牌を通してこの世とあの世を行き来していることを知りました。

 

 つまり、お位牌は正しくお祀りすることによって、単なるお仏壇の飾り物ではなくなり、ご霊さまたちが現界に生きるぼくたちに会いたくなったときにいつも開いている出入り口の扉である、ということを教えてくれたのです。

 

 そんなことに思いを巡らせていたら、父と、母のお腹の中にいた胎児であろうと思われる二人のご霊さまが、ぼくたちの前にその姿を現した理由が分かったような気がしました。

 それはきっと、現世に生きる家族からきちんとお祀りをされて、毎日のお食事を出していただいているご先祖の皆さまが、とても喜んでくれていることをぼくたちに伝えたかったのだろう、ということです。

                      

 それは、例えば、ぼくやぼくの家族に対する体調管理に特別な指示をしてくれたり、人生の進路についても適格に、着実に導いていただけた、というような摩訶不思議なことをたくさん体験させてくれたことで分かりました。

 

 それから3ヶ月ほど経ったでしょうあか、ぼくは「真ごころを辞めたくなっちゃった」と小声で女房に告げると「私も」と言うので、二人して神教真ごころを退団しました。何だか目的を果たしたと言いますか、いつまでも信者でいたいという気概が萎えてしまいました。

 

 2ねんあまりの安孫子支部通いでしたが、いろいろありました。車に二人の子供を乗せて安孫子支部に向かう途中でバストの衝突事故を起こした女房でしたが、その衝撃の強さは、右側前輪のフェンダを大きく破損して走行不能になるほどでした。

 

 しかし、女房はもとより、二人の子供もかすり傷一つ追うことはなかった、というご加護をいただいたこともありました。それに、女房が左側顔面の神経麻痺に罹って初期時もろくに摂れなくなったこともありました。

 

 教団の導師(どうし)と呼ばれる霊の障り具合を視(み)てくれる人から「間違いなく霊の障りだから、しっかりと浄め祓いを受けてください。1ヶ月をすぎたころに後頭部から首筋にぷよぷよした霊の塊りが下りてきます。それが鎖骨の裏側に消えて見えなくなるころに顔が動くようになりますよ」と教えていただきました。

 

 そこで女房は医者から処方された何種類もの薬の服用を一切やめて、導師が言われるように毎日浄め祓いを受け続けていると、1ヶ月を過ぎたころ突然に、襟首に小さめの鶏卵を半分にして伏せたような形のぷよぷよした膨らみが出てきて、日を追うごとに少しずつ動いて鎖骨の裏側に入ってみえなくなったかな、という頃に顔の麻痺が消えてゆき、まともに動かすことができるようになったのです。

 あの導師が教えてくれた通りでした。

 

 しかし、こんなに多くのご加護をいただいているのに、ぼくは神教真ごころを辞めたいという気持ちを翻(ひるがえ)すことはありませんでした。真ごころを辞めてどうしtもやりたかったことがぼくにはあったからなんです。

 それは、2階の和室という少し離れた場所にお祀りしていたお位牌を、もう少し自分の近くに置きたかったのです。

 

 しかし、それは教団の幹部が「ここがいいですね」と2階にある和室の北側壁面に決めていただいたことを無視することになるけれども、ぼくにはぼくなりの、ぼくだけの明確な理由があったからなんです。

 

 それあhこのお位牌に出入りしている父と母のお腹にいた二人のご霊さまがとても愛おしく感じたからなんです。だから、そのお位牌を1階にあるぼくの書斎にある洋服ダンスの上において、毎日、毎日、そのご霊さまと触れ合っていたかったからなんです。

 

 もちろん、お位牌の位置を確かめ、お仏壇の中の照明もきちんと配備したし、2階の廊下がちょうどお位牌の真上になるけれど、足で踏みつけるようなことはないな、と確認してのことでした。

 

 ところが,実際にお位牌をぼくの部屋に移動してからというもの、ご霊さまによる不思議な現象がめっきり少なくなってきただけでなく、それから30年余が経って霊の障りではないか、と疑いたくなるような身体の首から上の部分に不調が現れて、女房ともども、もはや、取り返しがつかない状況になってしまったんです。

 

 具体的には、ぼくの持病となってしまった緑内障による物の見づらさが進行して視界のぼやけやかすみが進行したことと、女房に突然の脳卒中が発症したことなんです。これについては、別の章「お位牌は2階にお祀りするのがいい」と「PCが教えてくれた妻の脳卒中」に紹介しますので、お読みになってください。

 

 ぼくの緑内障の悪化と女房の脳卒中の発症は「偶然の出来事だよな」と思いたいんだけれど、その一方で、教団の言うことに逆らってお位牌を1階にある自分の部屋に置いたことによる霊の障りではないのか、ということも否定できないでいるんです。

 

 なぜなら、緑内障が悪化したぼくの眼も、出血した女房の脳も、霊の障りが現れやすい首よりも上の部分にあり、しかも、その発症の時期も、共に平成26年内というとても接近していたから、というのがその理由です。

 

 ぼくたち夫婦それぞれに起きた不幸な出来事がほとんど同じ時期だったことが、自然界の流れではない、何か、意図的に起こされたようにぼくには思えるからなんです。

 果たしてどうなんでしょか。

 

                                                      読後感、ご感想等ございましたらお聞かせください。

                   mail address: bootaro0808@nctv.co.jp

 

 

 

 

 その四 思わぬ理由で日本航空を早期に退職

 

 平成10年4月、日本航空の全職員に早期退職者の募集の社内通信が出されました。思いもしなかったリストラ策にぼくは迷ったけれど「迷ったら大勢に従う」と決めて、みんなと同じようにぼくもそれに応募しないつもりでした。

 けれど、あるとい「お前、宅建の資格を持っているよな」とささやかれたような一言が伝わってきたことで辞表を出す気持ちに翻(ひるがえ)り、早期に退職して不動産屋を始めたんです。

 

       **************************

 

 昭和39年3月に都立航空工業高等学校を卒業したぼくは、運よく憧れの日本航空に入社することができました。整備訓練所で飛行機の整備について1年間ほど勉強した後、機体工場に配属されて機体のオーバーホール作業に就き、4年ほど経ちました。

                                                

 当時は組合活動がとても盛んな時期で、職員の過半数を占める企業系の黄色組合と少数派で労働者系の紅入り組合との問題で身の振り方に行き詰っていたぼくは、企業系組合に移ることを条件に装備品を扱う装備工場に異動させてもらいました。

 

 その装備工場の全職員数は200名ほどで、その中の油圧部品を扱う機械部品課に配属されました。

 

 園油圧部品課では油漏れを起こしたり使用時間が迫ったりして期待から取り外された油圧部品を分解して、消耗部品を新しいものに交換し、作動試験を行い、ふたたび新品同様にして部品庫に収める、という仕事に勤しんでいました。

 

 この工場に配属されて39年余が経ったけれど、高校卒のぼくは部下にいない職場の専門職として汗を流していました。

 

 そんななか、平成10年4月から1年間に亘って500人前後の早期退職者を募集するという社内通信が発表されました。「会社の状況はそんなに悪いのか」と、思いがけないリストラ策に職場の仲間たちの気持ちは揺れていました。

 

 平成2年のバブル崩壊によって生じた航空燃料の先物買いによる多大な損失や100基を超える大量のジャンボ機を購入したことによって、B777といった次世代の高効率燃費旅客機への転換が遅れ気味になっている等親方日の丸的な放漫経営が、近い将来に立ち行かなくなるのではないか、という危機感を持つ人が多くいました。

 

 その一方で、「この日本航空が潰れるわけがない」とか「このリストラ策で大きな挽回が図れる」といった心情で、身近に迫った全日空や日本エアシステムを含めた航空自由化に向けての布石を打つということだ、と楽観的な見方の人も少なからずいたのです。

 

 しかし、先細りしてゆく現況を知って辞めたいと思っても「辞めて何ができるんだ」という現実を考えると、手に職を持たない、なんの資格も持たない、これといったコネもない、といった「三ない」人間の工業高校卒ばかりですから、後者のように楽観的に振舞うしか手はなかったのが現実だと思います。

 

 確かに今すぐ潰れるわけで会はないので、将来に不安を残してまで早期の退職に応じるよりも、多くの人たちと同じ行動をとっている方が大きな間違いをしないのではないか、という集団心理がおおkの同僚の気持ちに働いていたと思います。

 

 その意味で、年末にどのくらいのあい商社が出るんか、ということが多くの社員の関心事でした。その辺りになると、先の見えないぼくにしても同じでした。

 

 すると、12月の中旬になって、装備工場内における年内の早期退職者は1名で、既に退職しました、との報告があり「ああ、やっぱりな。大部分の同僚が自分と同じようにJALに居残ることに決めたんだな」と大きな安心感を覚えました。

 

 すでに退職した1名というのは誰なのか、ということが噂になったけれど、別に隠すことではないので気圧部品課の太田君というぼくより2,3年下の後輩だと分かりました。退職理由も「故郷に帰るらしいぞ」ということで、日本航空の将来に危機感を抱いていたわけではないことが漏れ聞こえてきて「早期退職に応募しない」という気持ちはますます揺るぎないものになったのです。

 

 

 ところが、平成11年の新年が明けた1月中頃でした。俄かにぼくの胸の中がざわざわと騒がしくなってきたんです。どういう訳だか分からないけれど、落ち着いていられなくなったのです。そしたら「お前、宅地建物取引主任者の資格を持っているよな」という言葉が伝わってきて、思いもしなかった記憶が、突然に湧き出てきたんです。

 

 声が聞こえたのではありません、宅建主任者資格の合格証書が脳裏に出てきたのでもありません。そっと、誰かに耳元でささやかれたような、そんな感じでぼくが宅建の資格を持っていることに気付かされたのです。

 

 すると、わき目も振らずに毎日、毎日勉強をして、宅地建物取引主任者の資格を取得しようとしていた25年もまえのことが走馬灯のように思い出されてきたのです。

 

―――そう、あれは昭和47年、ぼくが27歳のときでした。当時のぼくは日本航空に就職して機体整備工場という機体全体のオーバーホールを行う工場にいました。当時の日本航空は、所有する飛行機の数がとても少ないために、ドックに入れてオーバーホールをする機体も少なくて、「スタンドバイ」という待機時間がふんだんにあり、多くの先輩たちはその時間を利用して航空整備士の国家資格を取得するための自学自習に精を出していました。

                    

 そんな中でのぼくはと言うと、参考書を隠すようにして宅地建物取引主任者国家資格の勉強をしていたのです。就業時間内なので個人的な資格取得の勉強はいけません。だから、あたかも航空整備士の勉強をしているかのように振舞っていたのです。

 

 では、どうして航空整備士ではなくて宅建資格の勉強をしていたのか、と問われても、これといった明確な理由があったわけではないんです。ただ単に、土地や建物の取引というものが飛行機に次いで面白そうだったからなんです。

 

 とはいうものの、不動産の「ふ」の字も知らない分野です。自宅に帰っても新婚2年目の女房の不満顔を横目にしてまで、TVを観ることもなく夜遅くまで不動産取引の参考書と向き合っていました。

 

 でも、振り返ってみると、何でそこまでしてこの宅建資格の取得にこだわっていたのか、ということになると自分でもよく分からないんです。でも、明けても暮れても「たっけん、たっけん」 と宅建資格のことで頭の中がいっぱいになっていたことは間違いありません。

 

 今、思うとまるで「宅建資格を何としてでも取っておけ」と背中を押され、急(せ)き立てられているように見えますが、当時はそんなことは微塵も感じていませんでした。そして、昭和48年度の宅地建物取引主任者国家資格に臨んで、幸運にも12月に合格証を手にしたのです――ー。

 

 「そうか、そうだったのか。宅建資格のことなどすっかり忘れていたでれど、あんなに夢中になって宅建資格を取得したのは、いや、背中を押されるようにして取らされたのは、この早期退職に応じろ、ということだったのか」と気付いてポンと膝を叩いたとき、ぼくはこの早期退職の募集に応じて退職し、宅地建物取引業を始めようと決めました。

 

 今まで多くの同僚に紛れてこのまま日本航空に居残ることに決めていたけれど、このとき180度逆の方向に心変わりをしてしまいました。急な心変わりをしちゃった、というか、誰かに「心変わりをさせられた」みたいで、自分の偽れざる気持ちによるものなのか、他人の働きかけによるものなのか分からないような不思議な決断でしたが、迷いなどはどこにもありませんでした。

 

 27年も前に取得していた宅建の資格が、この日本航空の危機に際して、早期に退職するための強力な推進力になってくれていたことに気付いたら、迷う理由などどこにもありませんでした。

 

 それから2日後、女房と向き合い「日本航空を早期に退職して」不動産屋を始めたい」と伝えると「えっ」という顔を向けたけれど、「子供たちも独り立ちしているから、お父さんの好きにしたらいいですよ」と言ってくれて、ぼくの決断に首を縦に振ってくれました。

 

 女房の了解を得たぼくは早速、退職届を書き上げて所属長に提出し、平成11年3月、約36年間勤めてきた日本航空を退職しました。ぼくが54歳のときでした。

 

 割増しによって今までに見たこともない高額な退職金を手にしたけれど、拍手で見送ってくれる上司や仲間もいない、たった一人だけで工場の玄関に頭を下げて帰路についた、という寂しい退職姿でした。

 

 その日の夕食時、女房と向き合いました。そして、宅地建物取引業を行うための有限会社アイビーを資本金500万円で設立し、供託金等の諸費用も退職金の割増分の範囲内に収めて、儲けは小さいが損失リスクも小さい仲介取引と賃貸取引だけの営業活動に徹することを確認しました。

 

 ズブの素人であるぼくと女房の二人が不動産業を始めることを母と子供らに話すと「おいおい、大丈夫なのかよ」と口をそろえて言われるくらい先の読めない不安を抱えた船出でした。

 

 有限会社アイビーの設立準備に取り掛かって約半年後、JR四街道駅から徒歩で10分ほどのところに事務所を借りることができて予定通り有限会社アイビーを開業することができました。

 不動産取引に関する業務知識もさることながら、商売の「し」の字も知らないほどの素人社長と事務員で、何もかもが手さぐり足さぐりの状態でした。

                        

 しかし、不動産取引業務というのは、売主と買主それぞれの業者の間で行われるので、取引があるたびにその相手側業者に頭を下げて手ほどきを受けながら、不動産取引の参考書を片手に、見よう見まねでいくつかの取引をこなすうちに何とか一人前にできるようになりました。

 でも取引数が多くないので、開店から2年ほどの期間がかかってしまいました。

 

 とは言いながらも、人通りの多い駅前通りに面した角地という立地のお陰で、夫婦二人が食べていけるくらいの商売はできていました。

 

 そんなある日、四街道市内に住む日本航空時代の同期だった桑原君が、ひょいとぼくの店舗にぼくは立ち寄ってくれたんです。「いよー、どうだい商売は」と遠慮なくカウンターの椅子に腰を下ろすや否や「お前は逃げ得だったな」と、意外な言葉を口にしたんです。

 

 「どういうことなんだよ」と真意を聞いてみると「おまえが退職した後、業績も上向きになるのかなと思いきや、毎年のように賃金ベースが切り下げられて、ボーナスだって夏はゼロ、なしですよ、年末だって何とか1ヶ月分なんてことになってしまった。おまけに、企業年金の原資が不足しているから、各自の退職金から数百万円を拠出してもらうというんだ」と苦虫(「にがむし)をつぶしたような様相でした。

 

 ぼくは「そうか、そうだったのか。大変だったなあ」としか言いようがありませんでした。

 

 それから四年の歳月が流れた平成22年1月、あの日本航空が会社更生法の申請をした、ということをTVのニュースで知り、驚きました。そうそうたる顔ぶれの経営陣を揃えて人員整理や給料、賞与の切り下げといったリストラ策を積極的に進めてきたけれど、もはや、自力では再建できなかった、ということです。

 

 しかし、この場面を予測していたかのように、ぼくは既に日本航空の社員ではなかったんです。あの時、ぼくの耳元で「お前、宅建の資格持っているよなあ」とささやいてくれて、ぼくをこのような危機から回避させてくれたのは、いったいどなたなんんでしょうか。

 

 そう、今から11年も前、早期退職の募集に対して多くの同僚たちと同じように、わが社日本航空に居残ることに決めていたぼくだったのに、突然、その20数年も前に取得していた宅建資格の思い出されて不動産屋を始めようと早期退職の募集に応諾し、退職しました。

 

 それがまるで、将来、わが社が潰れることを知っていたかのような自分の行動に驚かされたのです。でもぼくは、決してそのような予見をして早期の退職に応じたのではないんです。

 

 「お前、宅建の資格を持っているよなあ」という思いがけない言葉によって 自分は宅建の有資格者である、という記憶に気付いたら「辞めた方がいい」と背中を押されて、みんなと同じように居残ることに決めていた自分の気持ちが急に、突然に、変ってしまったんです。いいえ、誰かによって「変えられてしまった」のです。

 だから、そのまま居残るわけにいかなかったんです。

 

 信じられないことなんですが、そのようにしか表現できないんです。もともとの自分の気持ち「みんなと一緒に居残る」を打ち消すような「強い働きかけ」があったからなんです。それによって、自分の本心が変えられてしまったんです。熟考に熟考を重ねたぼく自身の意志では、絶対にないのです。

 ぼくはそれほど強い「先見の明」をもって、将来を見通せる能力など持っていないのです。

 

 じゃあ、こんな時に「退職した方がいい」とぼくの背中を押してくれたのは、どなたなのでしょうか。背中を押された、と言っても、物理的に手で背中をポンと押されたわけではありません。

  

 会社に残りたい という自分お気持ちが、何だか誰かに操作されたように、急に、退職したほうがいい、という気持ちに変ってしまったんです。そうなんです、「急に、突然に」です。

 

 これといった理由があったわけでもなく、誰かに説得されたわけでもなく、なのに、何の抵抗もなく、なんの前兆もなく、自然に、素直にそんな気持ちに変ってしまったんです。正直言って、それがとても不思議でならないのです。

 

 でも、どなたかがぼくの将来を見通して、ぼくの気持ちというものを、瞬時に変えてくれたのでしょうか、そんなことできるんでしょうか。過去を振り返ってみると、ぼくには思い当たるそれらしき出来事がいくつかあったんです。

 

 例えば、これからの未来に起こるであろうことを、居眠りをしていた女房が家計簿の余白に書き記した、ということなんです。

 もう、30年以上も前の体験になりますが、自宅のダイニングで家計簿をつけながらうたた寝をしていた女房に「左足に気を付けて」という一文をページの余白に書かせた「誰か」がいました。すると、翌日、息子が左足に擦り傷を負ってきたということなんです。

 

 その予見をしてくれたご霊さまと同じご霊さまではないのかな、と思えてきたんです。あの時もこれから起きるであろう息子の足のケガを事前に教えてもらい、事前に息子に伝えていたことで軽いかすり傷で済みました。

 

 その「誰か」と同じように、わが社にこれから起こるであろう災難を事前に察知したご霊さまがぼくに伝えてくれたことで「会社に残りたい」と決めていた気持ちが、もう、すっかり消え伏せてしまったのです。

 

 それでぼくは、何の迷いもなく早期退職者の募集に応諾して退職し、あの日の日本航空倒産劇に遭遇しないですんだのです。もちろん、約2倍の割増の退職金も支給されることも魅力だったし、20年以上も前に宅建資格を取得していた、ということが次の仕事の目途(めど)をつけてくれていたからでもあるのです。 

 

 息子の左足の擦り傷と言い、この日本航空の早期退職を受け入れたことといい、この2つの不思議体験に出てきたご霊さまは、ものすごい千里眼を持っていて未来の先までも見通せることができるという共通点がありました。

 

 ご霊さまが、まだ来ぬ未来を見通すことができたのはどうしてなのでしょうか。あの世では、現世人間界の遠い未来までが、もう既に描かれているのでしょうか、それとも、ご霊さまはこの世の人たちやあらゆる物事の未来を見通す超能力(未来予知Precongnition)を持っておられるのでしょうか。

 

 そんなことを考えていると、摩訶不思議な現実に夜も眠れなくなります。

 

 ぼくはこの不思議な体験を書いていて、少し気になるところがあるんです。それは、日本航空の破綻の原因は、半官半民による親方日の丸的企業体質から抜け切れずにいたための非効率的な企業運営にあった、と意見が世間の多くに見られている、ということなんです。

 

 しかし、それらの経営課題を適切に、迅速に解決できなかったために破綻に追い込まれてしまうほど、あの経営陣は能天気(のうてんき)だったのでしょうか。

 

 いいえ、そうではないと思います。昭和62年に民営化したばかりの一民間企業の経営陣では如何ともしがたい政治上、行政上の制約があったからだと思います、

 

 日本の航空輸送業界というのは、昭和47年に発効された「四五・四七体制」という産業保護政策がとられてきました。いってみれば、銀行界の都市銀行、地方銀行そして信用金庫とすみわけされたのと同じように、日本航空LAL、全日空ANA,そして日本エアシステムJASをそれぞれを、首都して国際線、主として国内幹線、そして主として国内地方路線と済むわけがなされていました。

 

 その後、世界的な経済発展という時流を受けて、その四五・四七体制を外す規制緩和が昭和

60年に行われて、全日空も国際線に、日本航空も国内線に、日本エアシステムも国際線と国内幹線にも進出できるようになったのです。

 

 しかし、地方路線を運航していた日本エアシステムの経営が貧窮して平成14年に日本を代表するエアラインである日本航空に合併させました。これによって、多くの機種と多くのスペア部品、加えて多くの乗務員を抱えて、国内の不採算路線までも引き受けさせられるという無理難題を、以前のナショナルフラッグキャリアだった日本航空に担わせたからではないか、と思います。

 

 国策として行われた規制緩和と業界再編であったがために、民間企業として思うように経営ができなかった、という「縛り」があったからではないかと思います。

 

 そんな人間界の出来事を察知したご霊さまは、ぼくの背中を押して早期の退職を促してくれてその千里眼的な未来透視能力を目の当たりにしたのですが、この科学一辺倒の世にあって、未来を透視した超常現象を目の前で見せてくれたなんて、とてもとても信じることができないでいます。

 

                  ご感想をお寄せください。

                  mail :imotare0808@yahoo.co.jp

 

 

 その五 息子の大希にこの家を買ってやれ

 

 もう40歳にもなるというのに、気持の動揺が大きく、定職にも就けないでいる息子大希(だいき)とその嫁彩愛(あやめ)を観ていたご霊さまは「この家を買ってやれ」とばかりに、1500万円を準備してくれました。

 

       ***************************

 

 約2年感に及ぶ病気療養による休職期間も1ヶ月後に迫っているのに、ぼくの息子大希の病態は一向に好転しません。職場の上司から受けた執拗な注意喚起と忠告の言葉が、自分のことをひどく卑下されたように聞こえて憎しみや気落ちに変り、出社できなくなりました。

 ことわざでいう「煩悩の犬は追えども去らず」ということのようです。

 

 ぼくと同じように感情が細やかな息子は、他人から見下されたり尊大な自分の気持ちを壊されるような叱責の言葉を受けたりすると、自分で自分の気持ちを支えられなくなってしまうようです。

 それが直属の上司だっただけに、その顔を合わせることができなくなってしまいました。

 

 そんな息子が平成25年5月の連休を利用して嫁の彩愛(あやめ)と一緒に成田の実家に帰って来たときに、そんな病状が長引いていることについて息子本人がどんなふうに考えているのか、嫁も交えて言葉を交わしました。

 

 「お前の言動を見ていると、普通のメランコリー性のうつ病というよりも、、心的な外傷による適応障害の⒴プに見える。身体の臓器を壊さないうちに、トラウマの原因から逃避することも視野に入れて考えた方がいい」とぼくから切り出しました。

 

 その意味は、別の部署に異動するとか今の会社から離れる、ということが一番の特効薬である、「逃げるが勝ち」の故事の通り会社を辞めることも選択肢の一つだぞ、と問いかけたのです。

                             

 というのは、ある特定の状況や出来事、すなわち、会社の上司から強い口調で叱責を言われた、ということが息子にとってとてつもなく耐え難い屈辱に感じられて、二度と会社に行くことができなくなったという精神的な症状として現れているな、とぼくには見て取れたからです。

 

 それを聞いた息子は「そうしたいのはやまやまだ」と言い返して「パソコンの操作技術だってまだ途中だし、40にもなって親に心配をかけ、おまけに嫁の扶養家族というヒモになり下がるなんてできない」と男の沽券にかかわることだ、と言いたげです。

 

 「ばかやろう、世の中にはなあ 病気やリストラで女房に食べさせてもらっている「髪結いの亭主ってごまんといるんだぞ。お前と彩愛の二人が良ければ世間体を気にすることなんか何もない。それよりもお前の身体を治す方が先だ」とぼくは声を荒げました。

 

 ぼくの横に座っていた嫁の頭が大きく縦に揺れたのを目にした息子は「少し考えてみる」と言い残して、翌日、嫁と一緒に帰路につきました。

 

 それから半年ほど経った5月下旬、息子から弾んだ声で電話が入りました。「彩愛と相談の結果、この6月末で会社を辞めることにした。今のマンションよりもずっと賃料の安い公団住宅に移って彩愛の扶養家族となり、失業保険を貰いながらパソコン教室に通うつもりだ」という内容でした。

 

 「彩愛さんも了解しているんだな」と念を押すと「もちろんだ」と大きな声が返ってきました。すかさず「それでやっていけるのか」と声を小さくして聞いてみると、息子の声も急に小さくなって「何とか…}と不安を隠せない様子でした。

 

 しかし、嫁の扶養家族となるというふがいなさを受け入れて「退職する」という選択肢を選んだのは、いま、自分が置かれちる環境を変えること、つまり、トラウマになっている今の会社から逃避することが最も有効な治療法だと本人が自覚し、嫁もそのように理解したからだと思いました。

 

 ところが、自分の亭主が職を持たないプータローになり、しかも、復職のメドすら立たないまま街中のマンションから郊外の公団住宅に移り住まなければならないという「都落ち」のような現実に直面した嫁の心中(しんちゅう)はいかに揺れ動いているのか、想像するに難くありません。

 

 そんな嫁の心情を映すようなことが表面化して、事態は思わぬ方向に進展してしまいました。

 

 6月下旬のある日、既に退職した息子の様子をうかがおうと、女房が電話を入れてみたようです。電話口に出たのは嫁だったので息子の様子や転居の予定を聞いてみると「はい、大希さんは元気です。こんどの土曜日に公団の賃貸住宅を見に行く予定です」と応えていたといいます。

 

 しかし、その会話の後に女房は浮かぬ顔をぼくに向けて「いつもと違って、彩愛さんがとても元気がなかった」という言葉を漏らしたんです。その時の女房の顔色と、家にいたであろう息子を電話口に出さなかった嫁の行動に、ぼくは息子との将来の生活に大きな不安を抱いているのではないか、という嫁の胸中を垣間見た思いでした。

 

 

 翌朝にアンリ早速、ぼくは息子に電話を入れてみました。「お前、元気なのか」の声掛けに「オレは元気だよ。抗うつ薬も半分に減らしてもらえた」と、トラウマから少しずつ遠ざかっていることが手に取るようでした。

 

 続けて、今度の土曜日に内見するという公団住宅について聞いてみると「間取りは3DKで家賃が5万円。その上にオレが扶養家族になっているから、彩愛の給料だけでやっていけるか、というと不安だ」とため息まじりです。

 

 息子自身のけんこうをとりもどして、新たな第一歩を踏み出すために大正区を促したぼくでしたが、その一方で、嫁の給料だけでは背勝ができない、という剣が峰に立たされてしまいました。

 それに気付いたぼくは、しばし天を仰ぎました。

 

 その天を仰いでいる中で、急に、思いもよらないことがぼくの頭の中を巡りました。それはこんなことでした――――――。

 

 ―――――今から30年も前、この成田市のこの家に母と同居を始めてから数年が経った頃でしたか、「私に何かあったら、これを使ってくださいね」と言って、母がぼくの銀行口座に1000万円を振り込んでくれたな。それともう一つ、証券会社のミスで買いそこなった国債の購入資金が起こっていたな。それらを併せると1500万円ほどになるよなーーーーー、なんて。

 

 すると突然「そうだ、ぼくがこのお金で新潟に中古住宅を買って、息子夫婦に住んでもらえばいいんだ」と閃(ひらめ)いたんです。

 そうか、そうすれば月額5万円もの家賃を出費することがないから、例え、髪結いの亭主としてでもやっていけるのではないか。そこで息子は身体の調子を整えて再起の準備をすれば、再び未来を拓(ひら)く第一歩を踏み出せるのではないか、と。

 

 母って自分の孫のために使うのだから、きっと、賛成してくれるに違いありません。なんて考えがまとまると、何でこんな思ってもいなかったアイデアが湧き出てきたのか、とぼくは、しばし、あっけにとられてしまったんです。

 

 ぼくはこんなことを思い浮かべたり、想像したりすることなんてまったくなかったからなんですから。まさしく、思いもよらないことだったのです。

 

 何はともあれ、早速、PCに向かってヤフーの検索サイトで新潟市内の中古住宅を探してみました。「新潟市内、中古住宅」で検索すると、最初の画面に出てきたのが 新潟市西区五十嵐中島(いがらしなかじま)という地域にある土地面積47坪、建物4LDK、6メートル道路の南側角地、越後線内野西が丘液位から徒歩で10分、平成8年築で価格が1100万円という物件でした。

 

 西区の五十嵐中島という地域がどこに位置するのかの見当すらつかないけれど、価格が11

00万円というのが気に入りました。リフォームを含めた斗樽の予算が1500万円ですから、これが上限なんです。

 しかし、建物の画像がとても小さくて外観がよく分からなかったんです。

 

 そこで、問い合わせ先になっている増田不動産に電話をすると「まだ売れていない」と、営業の上村さんが答えてくれました。枝番まで教えてくれた所在地の地図をPC画面上で検索してみると、まちがいなく南西の角にその建物はありました。

 

 そして僕は、新潟にいる息子に電話を入れて事情を話し、その建物を見てきてくれないか、と頼んだんです。二つ返事の後、1時間ほど経ってその建物の門前から電話をしてきた息子は「ガレージのほかに2台分の駐車スペースが庭先にあって、とてもいい家だ」という感想を伝えてきました。

 

 「それで、彩愛さんはそこかっら会社ぬ通えるんか。おまえもPC学校に通えるか」と聞いtみると「新潟駅から電車で40分余の距離だから、全然問題ないよ」という返事でした。

 それを聞いたぼくは、増田不動産の上村さんに内見したい旨を伝え、今週の土曜日、12時に現地で会うアポイントを取りました。

 その日はちょうど、息子と嫁が公団住宅を内見する日だったのです。

 

 前日の金曜日は、ぼくと女房は新潟駅前の東横インに前泊して、翌日、新潟駅から越後線に載り内野西が丘駅に向かいました。そして、上村さんとの約束時間の1時間前に息子夫婦と現地で顔を合わせました。

 

 現実に目の前で見る売り出し物件は、南東の角地に建つ2階建ての洋風建築で、その庭先には庭を囲むように配された高さが2メートルを超すような庭石がいくつも並べられていて「すごいね」としか言いようのない立派な物件でした。

       

 しばらく物件の周りをうろうろした後、最寄り駅である内野西が丘駅からの徒歩時間や周辺子環境、あるいは新潟駅までの所要時間、電車の運行本数など生活上の不便はないか、を確認したけれど、「いずれも問題ない」という二人の答えでした。

 

 約束の12時に増田不動産の営業担当江村さんが来られました。「営業の責任者をしている」という上村さんは、宅地建物取引主任者というよりもフドーサン屋といういい方の方がピッタリという風貌と言葉遣いをする人

 

 築後17年を経た建物の中を案内しながら上村さんは「痛んでいる屋化や厨房セットは勿論のこと、壁紙や浴室、屋根瓦と外壁の補修と塗装を主治すなどして総額420万円でsっ品地区同様にします」と、提携会社によるリフォーム工事の提案を声高に言い放ちなした。

 

 さて、室内を見せてもらおうか、と動き始めたとき、ぼくの携帯電話が鳴りました。電話に出てみると懇意にしている建築屋の大川社長からです。「今、新潟にいあるので、後でこちらから折り返す」と伝えたけれど、「急いでいる。ちょっとだけだ」と言って携帯を切らせてくれません。

 

 「いやダメダメ、終わったら折り返すから」と言っても切ってくれません。結局、敷地の境界線のことでとんだ長話に付き合わされてしまいました。

 話が終わって携帯を切ると、女房も息子夫婦も一通りの内検が終わって建物の外に出て上村さんと座談を交えた質疑応答をしているようでした。

 

 後を追うようにしてその雑談の中に顔を出したのですが、こまったことに、ぼくは室内をまったく見ていないだけでなく、上村さんからの土地と建物に関する説明も聞き損なっていたのです。耳に残っていることと言えば、この一戸建てに新築同様のリフォームを施して総額1500万円だということだけでした。

 

 でも、なぜか、ぼくはこの物件を買いたい気持ちが前のめりでした。建物の中の造作は息子たちの判断に任せるとして、新築同様にリフォームしてくれるんだから、お前はごちゃごちゃいわずに買ってやれ、と背中を押されているようでした。

 

 そこで、上村さんから手渡された物件説明書の端に「1400」と書いて「リフォーム工事込みでこれにならないか」と上村さんの目の前に出したんです。それを見た上村さんは「土地建物価格は残債があるからまけられない。300万円がリフォーム代と言うなら他の業者にいってくれ」と、つれないものでした。

 

 でも、この返事は想定内だったんです。ひるむことなくぼくは、1400を二本線で消して

1500と書き換えて上村さんお目の前に差し出したんです。すると、その数字を見た上村さんは「いいですよ」と首を大きく縦に振ってくれました。

 

 「今日、買付書を書くから事務所に案内して欲しい。現金で買う」と上村さんに伝えると、上村さんは「えっ」というかおをして「息子さんの意見はいいんですか」と息子夫婦に顔を向けたので「いや、オレが買うからいいんだ」と言いながら息子夫婦に視線を向けると、キツネにつままれたようにキョトンとした二人の顔が目に映りました。

 

 

 無理もありません。今日は公団住宅を見に行こうとしていた息子と嫁だったのに、何と、大きな庭石に囲まれてまるで邸宅のような一軒家を買ってしまったのですから。当事者のぼくだって、こんなにスムースに事が運ぶなんて思ってもいなかったんです。

 

 息子夫婦にとってはこれほど申し分のない家が、その場で熟考することもなく、しかも、ぼくが目論んだ予算の通りの価格で手に入れることができたのですから、キツネにもタヌキにもつままれたようだ、としか言いようがないのです。

 

 何か、目に見えない力が働いたのだと思います。そうでなければ、ちょっと気味が悪いくらいなんです。きっと、ご霊さまが「これを買ってやれ」と言ってくれて、ぼくの背中を押してくれたに違いありません。

 

 それを裏付ける確かな事実がいくつか思い当たります。まず、後になって知ったのですが、この建物の新築年月日が平成8年5月8日と、8と5を組み合わせた日だったのです。ぼくはそのことに気付いたとき「え――っ」と大きな叫び声をあげてしまったんです。

 

 というのは、ぼくの生年月日は昭和20年8月8日で、女房は同年の5月5日なのです。だから、メールアドレスやID番号といった個人番号のどれもを8と5の組み合わせにしていたからなんです。

 

 

                        

 

                   文字数オーバーにつき次章に続く―――