一度だけ、天国の父に会いました/その5 気遣ってくれたぼくの体調 | 一度だけ、天国の父に会いました

一度だけ、天国の父に会いました

そして、不思議なことや不思議なものを、たくさん見せていただきました。

四話 お位牌のお焚き上げでめまいが解消 

 

 突然に発症した右肩から右足に胃たる痛みが、右足の親指だけに集中してきたことで痛風だと分かりました。医者に駆け込んで処方された痛風の治療薬を飲んでみたものの、副作用として発症しためまいにも悩まされるようになりました。

 なかなか良くならないめまいでしたが、それを一蹴できたのは、ご先祖の皆さまに対する、あるご無礼に気づいて、それを正したことでした。

 

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 一度退会した神教真こごろですが、緑内障の目薬のどれもが使えなくなって平成26年5月に再び信者にならせていただき、何度か浄め祓い(きよめはらい)を受けているうちにその窮地から逃れることができました。

 

 そんなことがあってから1年半ほど経った平成27年の10月、教団の世話役である関川さんから「教祖様のお住まいである真ごころ堂を参拝しませんか」と誘われたんです。

 

 静岡県の熱海市にある「まごころ堂(仮名にしてあります)と呼ばれる教祖様のお住まいと始業の場を兼ねたお住まいが熱海市にあって、日帰りのバスで参拝するのだと言います。「一度くらい参拝させていただきましうか」という気持ちで参加することにしました。

 

 ところが、この参拝に水を差すかのように出発日前日の昼頃から、右肩と右足の鼠径部に何か重たいような、気だるいような違和感を感じるようになりました。「たいしたことはないだろう」と予定通り出発したのですが、熱海に着くころには右肩から右足鼠径部の違和感は消えてきたのですが、それに代わって同じ右足の親指の付け根がひどく痛くなってきたんです。

 

 そした、帰りの車中でもだんだんにその痛みが強くなってきて、夕方 自宅に帰ったときには右足を大きく引きずるほどの痛みになってしまいました。「どうしたんだろう、これは」と思いがけない痛みの発現にネットを開いてその病名と原因を探ってみました。

 

 すると間もなく、痛風(つうふう)という病気であることが分かりました。痛風になると、足の親指の付け根が腫れあがって風が吹いただけでも跳びあがるほど痛い、と記されていたし、ぼくと同じように足の付け根が腫れあがった写真が紹介されていたからなんです。

 翌日、近所のかかりつけ医である立花医院で診てもらうと、間髪入れずに「痛風だね」ということでした。痛風というんっは、血中に溶け込んでいる尿酸というエネルギー代謝を行った後の残りカスが一定量を超えてくると、特に足の親指の関節という体温の低い部位で結晶化して激しい痛みを生ずるのですよ、と教えてくれました。

 

 さらに「この痛みが引くまで静かにしておいて、その後に尿酸値を下げる薬を飲みましょう」と知量の目論見を示してくれtて、高尿酸上体を確かめるための採決と頓服による鎮痛薬ロキソニンを処方してくれました。

 

 痛風患者にありがちな美食家や大食漢とは全く無縁の粗食で小食のうえに虚弱な体躯をしたぼくですが、50歳を過ぎたころから尿酸値が高くなりだしたのです。そんなことでプリンタ意を多く含む食事を控えていたのですが、基準値1デシリットル当たり7.0mgに対して1割ほど多い7,6mgで「要観察」のレッテルを貼られてきました。

 

 でも、今までにこれといった悪さをしたことはなかったので、特別な処置をすることもなく経過観察のまま過ごしてきました。それがここへきて突然に、血中の尿案量が一定量を大きく超えて一部が結晶化して激しい痛みをもたらしました。

 思いもしなかったこの現象が今、ここで起きたのはいったい何が原因なのでしょうか。

 

 それから2週間余が過ぎてあの痛い痛みも鎮まってきたので、再び立花医院を受診しました。

前回採血した血液検査の結果を見ながら先生は「やはり、8.2ミリと高かったね」と教えてくれました。

 

 続けて「尿酸の育成を抑える薬を出すから、尿酸値が6ミリくらいになるように目標を持つといいですね」と、1日1錠を服用するフェブリク錠の中でも最もミリ数の少ない10ミリを処方してくれました。

 

 早速、翌日から朝1錠のフェブリク錠を飲み始めたのですが、飲み始めて2,3日経つと蹴りを繰り返すようになったので、1錠のフェブリク錠を半分にして体調を気遣いながら飲み続けていました。

 

 ところが、11月14日の夕食後、突然の激しい下痢と嘔吐に襲われて便器を抱えたまま20分余もの間動けなくなるほどの激しい状態に陥ってしまったんです。医師の処方薬でこれほど辛い副作用に見舞われたことはかつて経験したことがなく、よほどこの薬がぼくのたいしつにあわなかったのだな、ととても驚きました。

                                                  

 しばらく横になっていると状態が落ち着いてきたので、フェブリク錠の添付文書をネットで探し出して開いてみました。下痢については1%未満の欄に明確な記載がありましたが、嘔吐については記載がなく、腹部不快感とか悪心といった嘔吐には至らない症状の記載が同じ1%未満の欄に記されていて「ぼくの場合はこれが敏感に反応したんだろうな」と推測しました。

 

 フェブリク錠の服用を止めて腹具合も落ち着いてきた2派後に再び、立花医院を受診してその状況を先生に伝えました。すると「クスリが合わなかったのでしょうから別の薬に替えましょう」と、作用機序が違うトピロリック錠20ミリを1回1錠、1日2回の処方で出してくれました。

 

 そして、体調を十分に整えた2日後のあさに1錠を飲み、その日の夕食後に1錠飲んで寝床に就いたんです。

 ところが、何時ものように夜中の3時に目が覚めてトイレに行こうとベッドの上で起き上がろうとしたら、グラグラとしためまいを感じて起き上がることができなかったんです。ムカムカとしたこみ上げるような吐き気とひゃーーっとした冷や汗を伴ってとても尋常ではありません。

                  

 手足が不自由な妻を起こすわけにもいかず救急車を呼ぼうかと思ったのですが、かつて経験した血圧の急上昇を疑って横になったまま血圧を測ってみました、その結果は130ミリほどで気持が動揺している割には「高くない」と分かると、気分も落ち着いてきました。

 

 しかし、また起き上がろうとして頭の向きを変えるとグラッとするので、そのまま朝まで横になっていました。

 

 雨戸の隙間から朝の光が漏れ始めたことを見計らってゆっくりと起き上がり、そろりそろりと歩いてPCの前に座りました。知りたいことは2つです。トピロリック錠にめまいを起こすような副作用があるかどうかと、当た㎡を動かすと視界が揺れるこのようなめまいは深刻な疾病の

症状なのかどうか、ということです。ネットを開いてみました。

 

 人酢目のトピロリック錠の副作用については、添付文書にめまいやふらつきといった記載はありませんでした。2003年から開発が始まり2013年に発売された富士薬品のトピロリック錠ですが、その添付文書にめまいの記載がないということは、その開発期間における治験の中でその症状を発言した人はいなかったことを意味します。

 

 従って、ぼくに発言しためまいはトピロリック錠が原因ではなかったのでしょう。

 

 二つ目のめまいに関する医学情報ですが、このようなめまいは「良性発作性頭位めまい症」と呼ばれるもので、耳の奥にある三半規管の耳石の位置によるものだから、特別な治療をshなくても積極的に頭を動かしてめまいを起こしているうちに、時得s器が本来の位置に収まっていくことで軽減してゆく、と説明されていました。

 重篤なことではないことが分かり、胸をなでおろしました。

 

 頭を動かすとグラッとくるけど静かにしていればまったくめまいを感じなくなってきたので、

立花医院の診察を受けました。「間違いなく頭位めまい症だね」という先生の診断を聞いて、ぼくの方から「副作用のきつい尿酸の薬を止めて様子を見たい」と申し出たところ了解してくれたので、1,2週間程で自然に消滅する、というネットの説明に期待をかけたのです。

 

 そんなわけで積極的に頭を動かしてグラッとさせたり、神教真ごころの浄め祓いを何度となく受けたけれども、2週間余が過ぎても一向にめまいが解消しません。このめまいの原因が取り除かれていないようです。

 この原因とはいったい何なのでしょう。

 

 3週間が過ぎて12月になってもめまいはよくならず「ネットに記事とだいぶ違うな」と思うようになり「どうしたらいいんだろう」とほかにいい方法がないのか思い巡らすようになりました。

 

 その時に、はたと思い出したことがあったんです。それは、このめまいとは関係のないことですが、さる7月30日に亡くなった母の部屋に祀られていたお位牌をお焚き上げしなければな、と思いながらも、お仏壇の下にある仏具ダンスの引き出しに仕舞ったままにしていたことなんです。

 

 それを急に思い出したんです。なんで急に、そんなことを思い出したのか分からないんだけど。

 

 「あ、そうだったな」とお仏壇の下にあるタンスの引き出しを引いてみると、半紙に包まれたお位牌が仕舞い込まれたままになっていたんです。でも、すっかり忘れていたわけではありません。母の遺品整理中でこのお位牌をどのように処分したらいいのか、を考えていたのです。

 

 自宅の庭先でお焚き上げするわけにもいかず、妻や教団の幹部にも相談したけれど「川へ流したらどうか」というあまり現実的でない方法しか答えがなかったので、このたんすの引き出しに保管して、処分方法を模索していたのです。

 なのに、なんでそんなことを、今、急に思い出したんだろう。

                                                           

 そんなぼくの胸中を見透かしたように、翌日の朝刊に宗吾霊堂の広告が折り込まれてきて「今年のお札やお守りのお焚き上げを申し受けます」と書かれていたんです。

 「おお、これはいいタイミングだ」と宗吾霊堂に電話を入れてみました。

 

 「チラシにお札やお守りのお焚き上げを申し受けますと書いてありますが、お位牌のお焚き上げもお願いできますか」と聞いてみたんです。しかし「お位牌はねーー」とお位牌は引き受けられないという口ぶりでした。

 

 すかさず「実は、7月に亡くなった母の部屋に祀られていた繰り出し位牌なのですが、住宅地の庭先で燃やすわけにもいかず、川に流すわけにもいかず、困っています。何とかお願いできないでしょうか」と重ねてお願いしてみました。

 

 すると、その電話口の女性は「少しお待ちください」と電話を置き、誰かと相談しているようでした。「だめかなあ」と思いながら受話器に耳を当てたままにしていると「それでは、本堂に向かって左側にあるお焚き上げのお札をご安置する場所においてください」と快い返事が返ってきたのです。

 「ありがとうございます」とお礼を言って深々と頭を下げました。

 

 自宅に戻って「やれやれ、よかった」と書斎の椅子に腰を下ろすと、気になっていた母のお位牌を尾た影することができて、とても安心した気持ちになりました。

 それにしても、引き出しに仕舞いっぱなしにしていたお位牌を急に思い出し、ずいぶんとタイミングよく宗吾さんのお焚き上げ申しうけの広告がしんぶんにおりこまれていたもんだなあ、とその巡り合わせの絶妙さに驚かされました。

 

 その日の夜もめまいに気遣いながら、いつものように、いつもの時刻に寝床に就きました。ところが、翌朝目が覚めるといつもと違っていたんです。いつものようにゆっくりと起き上がったのですが、いつものあのグラットするめまいと胃のムカムカが、なかったんです。

 「あれ」と思いながら故意に頭を揺らしてみても、あのめまいは全く感じなかったのです。

 

 去る11月の中旬に痛風の治療薬トピロリック錠を1錠飲んで発症した、いわば、薬の副作用と思えた頭位めまい症でしたが、実は、そうではなかったんです。母のお位牌を長い間たんすの引き出しに仕舞いっぱなしにしていたからなんです。やっとそれに気付いて宗吾さんのお焚き上げ置き場にご安置させていただいたら、スパッとめまいは消えてしまいました。

 

 実際にお焚き上げをする日は、まだ10日も先の日なのに、です。自分の気持ちを変えただけで状況が好転してしまいました。

 

 こんな作り話のようなことが現実に起きたのですが、まったくの偶然なのでしょうか、それともぼくは夢とか幻影を見ていたのでしょうか。

 

 いいえ、この痛風は霊の障りだと気付きました。間違いないと思いました。タンスの引き出しに仕舞いっぱなしにしていたお位牌をちゃんとお焚き上げしなさい、というぼくに対する戒めだったのだ、と気付きました。ぼくの右足を痛風状態にして気が付かせてくれたのです。

 

 なぜ痛風なのでしょうか、頭痛とか歯痛ではなかったのでしょうか。それは、ぼくの尿酸値が普段から高めだったからでしょう、きっと。もうちょっと尿酸値を高くすれば、容易に通風を発症することを知っていたのでしょう。

 

 だからご霊さまにしてみれば、医者が処方した痛風薬でよくなっては困るのです。添付文書に載ってもいないような副作用を起こさせて痛風状態を長引かせ、その間に仕舞いっぱなしになっているお位牌を思い出させて、年末のお焚き上げで天上に還すことをして欲しかったに違いありません。

 

 その結果、どなただか分からないそのご霊さまの目論見通りにお位牌をお焚き上げする段取りができたので、霊障のめまいは消えてなくなりました。

 

 ご霊さまはずいぶんと手の込んだことをするものです。亡き人が使っていたお位牌などは、ごみ箱に捨てたり引き出しの中に仕舞いっぱなしにするのではなく、天上に還す、ということが霊界の決め事なのでしょう、きっと。

 

 実際のお焚き上げは12月25日に行われ、もちろん、ぼくも立ち会わせていただきました。

 ところが、痛風の痛みはそれで終わりではなかったのです。それから6年余が経った令和3年5月22日の朝に起床したときから再び、右足の親指付け根が痛くなってきました。それまで毎年の健康診断を受けて血中の尿酸値が高めではあったものの、痛風には至らなかったので放置していたのです。

 

 しかし、またもやちょっと触っただけでも跳びあがらんばかりの痛風に襲われたので「また、霊の障りか」とおもったけれど、医学的にはどうなのか、ということも気になってネットを開いてみました。

 

 血中の尿酸値とそれに対する対処の仕方について調べてみると、次に様な記述がありました。「血中尿酸値の上限は血液1dl(デシリットル)当たり7㎎で、7㎎台のオーバーは経過観察でよいが、8㎎を超えると身体に不具合が出てくるので下げる必要があります、と。

 

 そこで過去のデータを引っ張り出して尿酸値の経過を見てみたんです。すると、2016年と17年、19年は」7㎎台のオーバーだったのですが、18年と昨年の20年は8㎎を超えていたのです。

 

 「そうか、年齢を重ねるにしたがってプリン体の代謝が悪くなり、血中尿酸が増えてきたんだな」と受け止めたんです。

 

 しかし、6年前に痛風発作を起こしたときの尿酸育成阻害薬フェブリク錠による下痢や嘔吐の副作用に、またお襲われるのではないかというトラウマと、尿酸値を下げるアンセリンというサプリメントと市販の痛み止めを2,3日飲んでみたことで、足の痛みが和らいできた状況をみるといしゃにいかなくてもいいじゃないか、という思いがよぎりました。

 

 その一方で、尿酸値が高いまま放置していると、尿路結石を始めとする尿路の疾病や腎臓に尿酸の結晶が溜まって、腎不全を起こす恐れもある、とも記されていました。いくら何でも3回目の痛風発作はご免なので、どうしたらいいのか、素人なりの対策をいろいろと考えてみました。

 

 その結果、次に示す3つの対策をしてみることにしました。

 1. プリン体を多く含む食材の摂取を控える  

 2.水を1日2リットル以上飲むことで排尿を促して血中尿酸の排泄を助長させる。

 3.副作用を起こしたフェブリクとトピロリックン代わる薬を処方してもらう。  

 

 

 それと同時に、6月11日、成田病院の診察を受けました。尿酸値は7,3㎎とお身のほか小さく、今までとは別のザイロリックという尿酸生成阻害剤の100ミリを処方してくれました。これを1日量50㎎から始めて身体に慣れさせ、4日目から処方に沿った100㎎にしてみたところ、大きな問題もなく飲み続けることができて、それに伴って腰痛も和らいできました。

 

 プリン体というのは、食材に含まれるうま味成分でもあって、肉類や魚介類、あるいは干物といったいわゆるおいしい食材に多く踏まれています。だから、絶対に口にしないのではなく、今までの半分程度に減らすと共に、多くの水分を摂る、というこの2つの対策をとりながら、尿酸値を低めに抑えていきたいと考えています。

 

 以前にも起きたことのある痛風ですが、医学的な理由で怒るものと、霊的な原因で発症するものがあり、それぞれの対処方法が異なることが分かりました。

 

           

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その一 気付かせてくれたご霊さまの存在

 

 一話 夢枕に立った のっぺらぼうの男

 自宅の郵便ポストに投げ込まれていた宗教団体 神教真ごころ(仮名にしてあります)の恢弘チラシに気持ちを奪われて参加した講習会でしたが、不覚にも、午後になると決まって強い睡魔に襲われてしまい、その全部の内容に耳を傾けることができませんでした。

 そして、その夢の中に出てきたのは、顔に目や鼻や口のないのっぺらぼうの男でした。

 

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 幼少の頃から虚弱な体躯をしていたぼくでした。食が細い上に食べ物の栄養の取り込みが悪いためなのか、肉付きが悪く、背丈だけは人並みを超えていたのでひょろっとした体形となり、ついたあだ名がガイコツちゃんでした。

 

 しかも、筋肉の尽きも悪かったので手足が細く、腕力や脚力といった運動能力が乏しかったので、体育の授業がある日は休みたくなるほどでした。

 

 中学の時の100m走は16秒とクラスでびりっけつだったし、鉄棒に至っては、逆上がりのときに腰に位置が哲央の下まで持ち上げられずに、居残りされたのは一度や二度ではありませんでした。

 中学3年のときでしたか、夕食を摂った後になんだかお腹が膨れて胃がもたれたようになって、翌朝までその不快感が消えなかったことがありました。その日の朝食は喉を通らずに、心配した母に連れられて近所の胃腸科に診てもらいました。

 

 お腹に聴診器を当てて胃腸の音を聴いていた医師は「胃腸の動きが良くないね。胃アトニーかな」と診断して、胃腸の動きを旺盛にする粉薬を処方してくれました。

 この粉薬を三度の食後に飲むと胃のもたれは穏やかになるのですが、1回でも服用を忘れようものならズンとした不快な胃もたれが再来するようになり、ぼくはその粉薬を手放すことができなくなってしまいました。

 

 高校生の頃になると、成長による身体の変化によるものなのか分からないけれど、胃もたれとそれに伴う下痢軟便の頻度はめっきり少なくなってきて、市販の消化薬をその都度飲めば楽になるまでになってきました。

 

 とはいうものの、食後の胃もたれと下痢、軟便には、漢方薬や内視鏡までしてもらいながら快気することはなかったけれど、穏やかになってきました。

 

 幸いなことに、その胃もたれと下痢以外の胃の不調、例えば、胃の痛みや吐き気、といったような緊急性のありそうな症状は自覚しtことがなく、市販の消化薬を服用することと、数年ごとの胃内の透視検査を受けることで器質的な病変のないことを確かめながら、この慢性的な胃腸障害に40年50年と長きにわたって付き合わされてきました。

 

 ところが、ぼくが30代の半ば過ぎになったころでした。何が理由なんか分からないけれど、

突然に、あの20数年前を思い出させるような苦しい食後の胃もたれと下痢が再来したのです。

 あたかも、機嫌よくニコニコしていた赤ん坊が、突然に手足をばたつかせて大声を張り上げて泣き出したよう感じに「どうしちゃったんだろう」という思いでした。

 

 当時、千葉県佐倉市から隣町の成田市に移り住んでから2年余経っており、車で15分ほどの距離にある総合病院、成田病院の内科を受診しました。専門の医師が複数人いるし、

センサスつ火も不足はないだろうと踏んだからです。

 

 診察してくれた内科医の小野先生は、お腹に聴診器を当てて「うん、胃腸は動いている」と言ってくれて、20数年前の胃腸の不良状態とは明らかに違う状況だと分かったのですが、処方された薬を何日か続けてみたけれど、あの頃のように食後の胃もたれがすっきりすることはなかったのです。

 

 胃腸はちゃんと動いているようだし、痛みや吐き気もなく器質的には何ら問題ないのだから、ただひたすら、胃もたれと下痢が収まる薬はないものか、と探し回りました。

 パンシロンや三共胃腸薬、あるいは太田胃散といった薬局の棚に並ぶ多くの胃腸薬や消化薬を購入して一つづつ試してみたけれど、中学生の頃に処方してもらったあの粉薬のように「これはいける」と言えるようなものに巡り合うことはありませんでした。

 

 慢性の胃腸病には漢方薬がピッタリ、という話を聞いて東京上野の漢方薬局を訪ねてみました。そこで勧められたのが「お腹を温めて胃腸の働きを活発にする朝鮮人参と健胃整腸作用のある蒼朮(そうじゅつ)という生薬が配合されている」という人参湯(にんじんとう)という漢方薬でした。

 

 「これは良さそうだ」と2週間ほど続けているとジーーンとしたヅ通と150ミリ余の血圧上昇が現れたので、勤務先の診療所に駆け込みました。

 

  すると先生は、ぼくの話を聞き取るや否や机上に並べられた本の中の一冊を手にしてパラパラとページをめくり「人参湯に含まれている甘草という生薬が悪さをしているね」と診断してくれたのです。

 

 漢方薬は天然由来の生薬(しょうやく)から作られて穏やかな効き目が特徴だと言われているけれども、体質的に会わなければ副作用が強く発現することもある、ということを知って、肝に銘じました。

 生薬とは、植物の葉、茎、根や、鉱物あるいは動物の中から薬効があるとされる部分を加工したものをいいます。

 

 そんなときでした。「あんしん易断(仮名にしてあります)」という暦(こよみ)による病妻相談を無料でうけられる、という新聞広告が目に留まりました。薬剤による治療では副作用という歓迎しない有害性がさけられないけれども、生まれ月による運命的な巡り合わせから胃もたれと下痢の原因が探れれば、身体に有害なことは何もないよな、と考えたのです。

 

 善は急げ、とばかりに東京上野にあるあんしん易断を訪ねてみました。「なかなか良くならない芋テレと下痢について相談したい」と記入した申込書を受付に差し出して数分まつと、神主のような白装束に身を伝うんだ年の頃35,6歳の男性が相談に乗ってくれました。

 

 しかし、ぼくの相談依頼に応えてくれたことは、自分の意に沿うものではありませんでした。聞き取った生年月日からぼくの運命的な環境や霊的な背景を調査して、胃もたれの根本的な原因を導き出してくれて、その対策を指示してくれるのだろうと思っていたけれど、そうではなかったんです。

 

 中国陰陽五行にある四柱推命や気学によってその原因を探り出し、対策をお伝えする、といういくつかの易断の方法があることを、ただ単に紹介してくれただけだったのです。その話に載って実際に易断をしてもらうと、その費用はいくらなのか、と聞いてみると「20万円から」と説明されて、当たるも八卦、当たらぬも八卦という占いと同じような占断(せんだん)に20まんえんもかかるのか、と驚いて、そそくさと易断本部を後にしました。

 

 どんな薬を飲んでみても良くならずに、占断というものに頼ってみようかと思ったけれど、確かなものではない、ということに気付いたんです。「ああ、ぼくの胃もたれを治すすべはないのか」と途方に暮れて嘆き悲しんでいたある日、玄関の郵便受けに、新聞の朝刊と一緒に四つ折りされた一枚の広告チラシが投げ込まれていたんです。

 

 封筒サイズに折りたたまれたチラシを手に取ると、大きな文字で「真ごころライフ」とあり「何だろう」と紙面を広げてみました。すると「浄め祓い(きよめはらい)で病気や禍を追い払う。目や胃腸の病気に悩んでいませんか」と大きな活字が躍っています。

 

 細かな説明書きを飛ばして裏を返すと、人に向けて手をかざしているイラストと共にその説明が書かれていました。この動作を「浄め祓い」ということが伝わってきました。調べてみると、一般的には神道でいう 清祓い(きよはらい、きよめはらい)といい、穢れ(けがれ)、つまり汚れたものや不浄なものを清らかにする、といった意味になります。

 

 下の方に目をやると、このチラシの発行元が記されていて「神教真ごころ 安孫子支部(仮名にしてあります)」とあり、宗教団体の恢弘チラシだることが分かりました。そんな浮世離れした見出し文句にいささかのうさん臭さを感じながらも、何だか、今の自分の体調を言い当てられているようで、そのチラシをごみ箱に捨てることができなかったのです。

 

 「役に立つかもしれない」と、自宅から1時間もあれば行くことができる常磐線の我孫子駅近くにこの教団の支部があることを頭に入れて、そのチラシを机の引き出しに仕舞い込みました。

 

 それから半年ほどが経ったでしょうか、少しは調子を戻してきたとはいえ胃もたれと下痢は相変わらずで、医療と占いによる快気への方法に手詰まり感を抱いたぼくは「あの宗教団体は、このしつこい胃もたれと下痢を何とかしてくれるんだろうか」と思い始めて、机の引き出しに仕舞い込んでいたあの恢弘チラシを引っ張り出して、よく読んでみようと思ったんです。

 

 チラシを手にして、先日飛ばし読みした部分の記事を丁寧に読んでみると「病気や災難の多くはご霊さまの仕業によることが多いので、真ごころの浄め祓いで解決しよう」とありました。

 「あ、神さまを信仰している団体なんだな」と、浄め祓い という言葉で分かったのですが「神さまなんて本当にいるんだろうか」と、またまた眉唾(まゆつば)な言葉にぶち当たってしまいました。

 

 「インチキだと分かれば、即座に退散すればいいのではないか」と自分に言い聞かせてそのチラシを右里占めたのです。まさに「苦しい時の神頼み」です。

 数日後の日曜日「ちょっと出かけてくる」と妻に告げて、JR成田駅からと京都は反対方向の安孫子行きの成田線に乗り込みました。

 

 1時間余で安孫子駅に着き、手にした地図を頼りに歩くこと十数分で「神教真ごころ 安孫子支部」と書かれた看板がかかった一軒の家の前に出ました。平屋造りのごくありふれた普通の民家でした。

 

 しかし、いざ教団支部の前に立つと、手と足が思うように動いてくれません。「40近いおっさんが、いるのかいないのかもはっきりしない神さまとやらに頼るのか」なんていう気持ちに腰が引けてしまいます。

 

 「いやいや、インチキだと分かればすぐに退散すればいいんだから」と自分に言い聞かせつのですが、何度も何度も押し問答が続きます。

 

 その押し問答に見切りをつけたくて「えいっ」と気合を入れて「こんにちわ――」と声をかけながら引き戸を開けたんです。「はーーい」と言って顔を出してくれたのは、真っ赤な口紅が目を引いた40過ぎのご婦人でした。

 

 あんしん易断と同じように白装束を身につけた男性がさっそうと現れると思いきや、派手な口紅のおばさんが顔を出したので、肩の緊張がガクッと抜けました。

 「真ごころライフを見ました」と告げると、にこにこと笑みを浮かべた女性は「中川と言います。どうぞお入りください」玄関先の廊下から続く30錠ほどの大広間に案内されました。

 

 そこには2人が一組になった4組ほどの信者たちがいて、あの恢弘チラシに載っていたイラストのように、相手の身体に手をかざしている姿が目に映りました。

                                       

 「どうなさいましたか」と中川さんから優しい声で問われたので「食後の胃もたれと下痢が何をしても良くならないんです」と、今一番の悩みの種を吐露したんです。すると「大丈夫ですよ、この浄め祓いを受けることできっとよくなりますよ」なんて、満面の笑みを浮かべた顔をぼくに向けて言い放つもんだから、赤くて大きな唇が花びらのように見えてきて、もう疑うことを忘れてしまいました。

 

 「あそこに神さまがいらっしゃいますよ」と指さす先を見ると、周囲を金色の壁紙で張り巡らされて光り輝く床の間に一軸の掛け軸が飾られrています。「あの掛け軸から神さま の み光 が出ているんですよ」なんて突拍子もないことを言いだすもんだから、何も見えないぼくにしてみれば「はあ、そうなんですか」としか返事のしようがありません。

 

 「それでは浄め祓いをさせていただlきますね」ということで、ぼくは生まれて初めて浄め祓いというものを受けることになりました。言われるままに両手を合わせて目を閉じて、座布団の上で星座すわりになりました。

 

 「では、まいります」とという掛け声とともに両手で三拍手が打たれ、祝詞(のりと)の奏上のような節回しで意味の分からない文句が唱えられて「…畏み(かしこみ)畏み も白(まお)す」で終わったかと思ったら、10分ほどの静粛が続きました。目を閉じていたので話にも分かりませんが、たぶん、あのチラシにあったイラストのように手をかざしていたのでしょう。

 ぼくは何も考えることのない無(む)の状態でいました。

 

 10分ほど経ったでしょうか、突然「お鎮まり」という大きな声が2回唱えられて、「めをあけてください」の声がかかりました。目を開けると顔を覗き黒曜にして「だいじょうぶですか、はっきりしていますか」と問われたので「はい」と応えました。

 

 「魂(たましい)が宿るという眉間の奥をお浄めしました」と説明され、それに続けて首筋や問題の胃腸真ありに手をかざしてくれました。始めてから50分ほど経ったでしょうか「これで終わらせていただきますが、いかがでしたか」と中川さんから問われたのですが、これといったことを感じることのなかったぼくは、とっさに「正座をしたことがないぼくが10分間も正座姿で座り続けられたことが驚きでした」と苦し紛れの返事をしました。

 すると「そうですか、よかったですね。何度か通うといいですよ」といわれて、支部を後にしました。

 

 一般的な神道でいう「きよめはらい」は清め祓い と書きますが、神教真ごころでは「浄め祓い」と書き、魂の汚れや不浄なものを穢れ(けがれ)と称して、この浄め祓いによって穢れを浄化してきれいな魂に蘇らせる、その結果、亡くなったときには温暖で明るい天国にいけるのですよ、と説明してくれました。

 

 とはいっても、正直言って身体に何か変化が現れたわけではなく、自分自身の気持ちも何らかの変化を感じたわけでも亡いので、よく分からなかった、というのが本音です。

 しかし、いい齢をした大人が信者に多かったし、この浄め祓いのお礼が「お気持ちでいいですよ」というので、少し通ってみようか、という気持ちになりました。

 

 そんな不真面目な気持で何度か通っているうちに気のせいなのか、あの胃もたれがなんとなく穏やかになってきたんです。そんなぼくの体調の変化に築いたのか、中川さんが近寄ってきて「来月に講習会があるんだけど、参加しませんか」と誘ってくれたんです。

 

 「何ですか、、講習会って」とききかえすと「三日間の神霊界に関する話を聞いて神さまとご縁ができると、あなたもこの浄めえ祓いができるようになって、人を幸せにすることができるんですよ」と漫画のストーリーにでも出てきそうなことを言い放ったんです。

 

 「何処で行われて、費用はいくらなんですか」と聞いてみると「東京の四ツ谷にある教団本部で月末の金、土、日に行われ、費用はお気持ちでいいんですよ」という返事でした。

                                                          

 乗り掛かった舟とか渡りかかった橋、なんてこともあるし、「お気持ちの費用」なら辞めたくなればさっさとやめることもできるよな、と考えながら帰路につきました。

 

 耳にしたこともない神霊界の話とやらを「お気持ちでいい」費用で聴けるのだから、ぼく自身は参加したいな、と思うけれど、問題はこの浮世離れした教団のことをどう説明して了解を得るか、ということです。

 

 妻に内緒で参加しちゃおうか、とも考えたけれど、金、土、日の三日間も早朝に家を出て夕方に帰宅する日が続けば「あんた、どこへ行ってなのよ」ということになるに決まっています。そこで言い訳時見たことを言えば、ドンパチは火を見るより明らかです。

 

 そんなわけだから、今から説明しておくことがいいのですが、いかにもうさん臭そうな講習会のことをどのように説明すればいいのかな、と組んだ腕を緩めることはありませんでした。

 

 いやいや、ぼくの口からああだこうだ、と尾ひれをつけて説明するよりも、郵便受けに投げ込まれていたあの恢弘チラシと同じものを妻の目の前に見せるのが一番手っ取り早いのではないか、と気付いたんです。

 

 そこで、ダイニングテーブルの椅子に座っていた妻に近づいて「この講習会に参加したいんだけど」と恐る恐る切り出してその恢弘チラシを広げてテーブルの上に置いたんです。

 

 「何よ、これ」と手に取った妻は、そのチラシの表と裏にサーっと目を通していましたが、ぼくも何ら補足の説明を加えることなく無言でいました。目を通し終わった妻は一言「騙(だま)されないでね」でした。「はい、気を付けます」とぼくは答えて了解を貰いました。

 

  神教真心の信者になるための講習会が開かれたのは昭和57年の秋でした。当日、JR中央線四ツ谷駅で中川さんと待ち合わせて、教団の四ツ谷本部という講習会会場に向かいました。駅から10分ほど歩いて会場に到着し、2階に上がってその会場に足を踏み入れると三人用の座り机が横に3列、縦方向に20数列の全部で5,60脚ほどが整然と並べられていました。

 

 中川山に促されて、縦列の中ほどで一番手前の机に腰を下ろしました。やれやれと気持ちが落ち着いてきたところで周りを見回すと、前の席も後ろの席もぼくより年配の人たちでうまっていました。

 

 年齢を重ねてくると人に知見では解決しないことが多くなって、本当にいらっしゃるのかどうかも分からないような神仏に頼る気持ちが強くなってくるんだろうな、と今の自分と姿を重ねていました。

 

 しばらくして教団幹部の挨拶が始まり、続けて規模などの説明があって説明があって、興味深く耳を傾けていました。

 この教団でいう神様とは何なのか、という本題の講習も始まって一語一句を聞き逃すまいと身構えるようにして聞いていた午前の部は終わり、昼食を摂って午後の部が始まりました。

 

 ところが、午後の講話が始まると、昼食を摂ったお腹の膨らみに胃もたれの膨満感も加わって、耐えきれないほどの睡魔に襲われて目を開けていられなくなったんです。目をこすり、頬をつねってみたけれど、眠くて眠くてたまりません。

 

 いつ寝入ったのか、寝入ってからどれほどの時間がたったのか分からないけど、突然、ぼくの席のすぐ前に見知らぬ男がこちらを向いて座ったんです。ぎょっとして飛び上がらんばかりに驚いて目を覚ましました。それで、その男が出てきたのは夢の中だと分かったんです。

             

 自分の身体が大きく跳び上がって周りに迷惑をかけたのではないか、と見回したけれど、そのような形跡はなく講習は粛々と続けられていたので、胸をなでおろしました。

 

 それにしても、とても驚きました。胸の高鳴りもなかなか収まりません。突然、ぼくの眼の前に見知らぬ男が座ったのですから。しかも、こちらに向けたその顔には目とか鼻といった顔の造作が一切ないペロッとした のっぺらぼう だったんですから。

 

 しばらくして胸の鼓動も収まってきましたが。いったいこの夢は何なのか、という思いでした。夢に出てきたこの男がどこのdpなただか知る由もないし、講習会のうたた寝の中で夢となって現れるっような人なんて、見に覚えがありません。

 その後は何事もなく、第一日目は終わりました。

 

 二日目も昨日と同じ席に着いて講和に耳を傾けていました。午前の講話も終わり、昼食を摂って午後に備えました。午後の講話が始まってしばらくすると、昨日と同じようにたまらなく眠くなってきて、こらえきれずに寝入ってしまいました。

 

 どれほどの時間が過ぎたのか分からないけれど、また、あののっぺらぼうの男が突然に、ぼくの前に座ったので跳び起きました。「昨日と同じ男だ」と、昨日ほどの驚きではなかったのですが、のっぺらぼうの顔だけでなく、ひじのところでくの字に曲げた右手を腰に当てているような恰好も良く見えて「いったいこれは何なのか」と、偶然の夢ではないように思えてきたのです。

 

 三日目も昼食後の同じような時刻になると眠くなってきて寝入ってしまいました。すると、あののっぺらぼうの男も同じ格好でぼくの前に座ったので、「またか」と驚くこともなく目を覚ましました。

 

 同じ夢を見るのも3回目ともなれば驚きというよりも「これは、何だか変だな」と感じて、

3時の休憩時間を利用して付き添ってくれた中川さんに聞いてみたんです。

 

 すると、中川さんの口から思ってもみなかった言葉がけたんです。「ご先祖の方が来られ絵いますよ」と。「ええ、そんなことってあるんですか」」とぼくが怪訝な顔を向けると「ご先祖の方がこの講話を聴きに見えているんですよ」と真顔で応えるものだから、ぼくは中川さんが、何だか特別な人のように見えてきたんです。

 

 それからというもの、右手をくの字に折り曲げて腰に当てた格好で夢に出てきたのっぺらぼうの男がどなたなのか、ということがぼくの頭から離れなくなってしまったのです。

 そして時は流れて、そののっぺらぼうの男がどなたなのか分かったのは、それから30年も経ったぼくが65歳のt機でした。

 

 

 

その二 女房が居眠りしながら記した明日の予告    に続くーーーー―。