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一度だけ、天国の父に会いました

そして、不思議なことや不思議なものを、たくさん見せていただきました。

その7 お位牌は2階にお祀りするのがいい

 

 理由も分からないまま血圧が乱高下したり、持病である緑内障の点眼薬が使えなくなったりと窮地に立たされたぼくを救ってくれたのは、またしても、郵便ポストに投げ込まれていた神教真ごころの恢弘チラシでした。

 

 神教真ごころの信者になったぼくに先ず教えてくれたことは、お位牌はその建物の最上階にお祀りするものですよ、という教義(宗教的な教え)でした。

 

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 ぼくは今、毎朝の洗顔後に朝一番の血圧を測ることを日課にしています。平成22年に神経症を発症して以来、血圧が乱高下し始めたことがきっかけでした。

 

 神経症の症状が落ち着いてきてからは大体120から130ミリで推移していましたが、平成26年の新年が明けたころからは日を追うごとにその数値が大きくなっていきました。 それだけではないんです。今までに経験したことのないようなチクチクとした眼球の痛みや瞼の刺激痛を自覚するようになってきたんです。

                           

 そして、とうとう2月の下旬の朝には血圧が160ミリを超えて180ミリに迫る勢いとなってきました。神経症の発症以来服用し続けている降圧薬ブロプレス錠とノルバスク錠を決められたとおりにきちんと服用していたにも関わらず、なんです。

 

 「どうしたんだろう、これは」という思いがけない血圧の上昇に、今日の担当医が循環器の専門医である藤崎先生であることを確かめて成田病院の内科を受診しました。病院の廊下に備え付けられた血圧測定器で測ってみると190ミリにも達していて今にも破裂しそうです。

 

 診察してくれた藤崎先生から「昨夜、塩辛いものを食べたり怖いTV番組を観たりしなかったか」と質問されたので「いいえ」と応えました。

  聴診器に依る心音と心電図による心臓の機能検査の結果、血圧の上昇を招くような特段の所見は見つからず「よくある一過性の血圧上昇だね」と診断されて、処方された緊急用の降圧薬を服用して1時間ほど横になっていたら、140ミリに下がっていたので、そのまま帰宅しました。

 

 一方、眼球と眼の周りの詞激痛はいつまで経っても治まることがなく、これは緑内障の点眼薬ザラカム目薬の副作用ではないか、と疑いました。そこで、ネットからザラカム点眼薬の添付文書を探し出して、副作用欄に記された文字を目で追ってみました。

 すると、いくつかの重大な副吾小項目に続けて、その他の副作用欄の中のその他の項に「5%以上の頻度で目の刺激痛」とあり、また、頻度の不明欄には「眼痛、目の異物感」とあり、少なくない人がこの目薬で目の痛みを感じているんだな、と分かりました。

 

 さらに循環器の欄に目を移すと、頻度不明の項に「動機、高血圧」と記されていて、あの血圧が上昇したこともこのザラカム点眼薬が原因ではなかったのか、と疑ったんです。

 しかし、2年余りにわたって何の不具合もなく点眼してきたこのザラカムが、今になって急に悪さをし始めたのはなぜなのか、と何とも不安を掻き立てます。

 

 「何の不具合もなく2年間も使い続けていたのに、今になってこんな重要な副作用が突然に現れるなんて、よくあるのだろうか」という疑問を、ザラカムのメーカーであるファイザー社に聞いてみました。

 

 すると「あなたの身体が変化していることもありますからね」と、電話口の担当者は答えたのです。「自分の身体の変化って、何?」と俄かには理解できなかったけれど、風邪をひいたときとかお腹の調子が悪い時、といったことかしら。

 しかし、例えば糖尿病になったとか、高血圧症になったとか、というように、よほど大きな身体の変化がなければ、190ミリまで上昇するてことはないのではないか、とますます疑心暗鬼になってしまいました。

 

 それはともかくとして、このザラカム点眼薬を使い続けることができないので、別の目薬に代えてもらわなければなりません。成田日赤病院眼科を受診しました。

 

 担当医の戸田先生は「ザラカムというのは、あなたが以前に使用していたキサラタン点眼薬とチモプトール点眼薬を混ぜ合わせたものだから、それぞれの点眼薬を個々に試してみて原因となる方を止めればいい」ということになりました。

 

 その2種類の点眼薬のいずれもが、およそ20年も前から」使い続けていた実績のあるあるものでした。

 

 さて、ザラカム目薬をキサラタン目薬とチモプトール目薬の2つに分けられるけれど、「どちらの方が血圧上昇の原因になっているんですか」と聞いてみると「プロスタグランジン誘導体のキサラタンは角膜や目の痛みといった局所的な副作用が主なもので、βブロッカー製剤であるチモプトールと比べて全身的な副作用を起こす可能性は低い」と答えてくれたのです。

 

 「ではまず、血圧上昇を招く恐れのないとされるキサラタン点眼薬から試してみよう」ということになりました。

 

 ところが、そのキサラタンを点眼し始めて2,3日すると、眼球と眼瞼の詞激痛が起こりはじめ、1週間も経つと再び血圧が160ミリ余に上昇してしまったんです。「こんな馬鹿なことはないだろう」と、ぼくにはちょっと理解ができなくなりました。

                         

 キサラタンは血圧に関与しない、と戸田先生は明言していたし、改めて添付文書を広げてみても血圧の「け」の字すら触れられていなかったからなんです。

 

 一時的な血圧の上昇が再び起きたのだろうと考えて、独断でキサラタンの点眼を1週間ほど中止して気持ちを落ち着かせてみました。以前ザラカム点眼薬のメーカーであるファイザー社の担当者がこの血圧の上昇について「あなたの身体が変化していることもありますからね」と言っていたことを思い出したんです。

 

 「もしかすると、ぼくの身体の中に目のトラブルとは関係のない血圧を上昇させる原因が隠れているのではないか」と、考えるようになったんです。

 

 そこで、現在服用している降圧薬ブロプレス錠を処方してくれた成田病院の内科医、小野先生を受診しました。そして、血圧には関与しないとされているキサラタン点眼薬を選んでもらったにも拘わらず、2,3日の点眼で血圧が160ミリ余まで上昇してしまった経緯を伝えて「ぼく自身の身体の中にその原因があるのではないか」という理由で身体検査をお願いしました。

 

 「そうだね」と了解してくれた先生は、血液内のホルモン検査と心臓の動きを映像で見る心臓超音波検査、通称心臓エコー検査を準備してくれました。「あ、これが身体の変化を探すものなのか」と理解できたのですが、今日はホルモン検査のための採血を行い、その結果が分かるであろう2週間後の水曜日に循環器専門の藤埼先生から心臓エコー検査を受けて、先の血液検査とこの心臓エコー検査の両方の診断を一緒に受けることになりました。

 

 それから2週間後の4月2日、藤崎先生の診察を受けたのですが、冒頭、先生から「血液検査も心エコー検査も何ら異常な所見はない」との報告を受けました。つまり、血圧の上昇について一般的に考えられる甲状腺ホルモンと副腎のアルドステロンにもその所見はなく、また、エコーによる気質的に異常な所見も確認できなかった、というのです。

 

 結果としてはよかったのですが、血圧の上昇を起こすはずのないキサラタン点眼薬に替えても血圧の上昇が起きてしまった理由については、何の解明もできなかった、ということになってしまいました。医学的な原因が見い出せません。

 

 残り少ない視野を維持するためには、眼圧の定期的な測定が欠かせません。3日後、戸田先生の診察を受けて眼圧を測定してもらうと、20ミリ(mmHg、水銀柱)の上限に対して右目が16ミリ、左目が15ミリと思っていたより低かったのです。

 その結果を見た戸田先生は「目の痛みが辛そうだから、少し休薬しよう」ということで1週間ほど点眼を休みました。

                     

  一週間後の4月11日に通院すると「一昨日から戸田先生に代わって水沢が担当します」ということで改めて眼圧を測定すると、右目が18ミリ、左目が17ミリといつもより少し高めの数値でした。

 

 その数字をを目にした水沢先生は「あなたの緑内障は最終段階だから、点眼を止めては絶対にいけない。見づらくなってきたら手遅れですよ」と大きく荒々しい声で叱られました。そんなこと言われても、ぼくの独断で休薬したのではなく、前任の戸田先生の指示に従っただけなのです。

 だから、そんなことを言われても、ぼくは困ります。先生から先生への引継ぎがしっかりとなされていなかったからだと思います。もっときちんと引き継いでください、とぼくは言いたかったです。

 

 そこで先生は「今までに使ったことのない点眼薬アイファガンに替えるから、試してみてください」と言って、自宅にあるエイゾプトとチモプトールに加えて3種類の点眼薬を点眼してください」という処方になりました。

 

 永い間休薬しているぼくを見て、主治医の水沢先生が声を荒げた理由は分かるんです。残りの視野が2割にも満たないのに、奇跡的にもその中心部が無事であるために視界がぼやけることなく、運転免許層の視力検査もパスしていることを詳しく説明してくれたことがあったからです。

 

 ちょっとでも点眼を休めば、いつ見えなくなってもおかしくないほどに視野の欠損が進行しているんだな、と思うと、元気で動ける時間は長くはないな、と感じました。

 

 自宅に戻るなり、初めて使用してみるアイファガン、使ったことはあるけれどあまり効き目のないようなエイゾプト、そして、副作用が全身で感じるチモプトールの3種類を並べて、一つづつ試してみようと思いました。

 点眼日時と副作用が現れた場合のその名前と程度を一覧表にして、まず、アイファガンから始めました。

 

 とても面倒な作業ではあるけれど、何とか安心して使用できる治療用点眼薬を一種類だけでも探し出したかったんです。でないと、失明してしまうのではないかという恐怖に耐えられませんでした。しかし、それは徒労に終わりました。

 3種類の点眼薬のどれもが何らかの副作用を発言して、長期の使用に耐えるものはなかったのです。

 

 そんなバカな。ザラカムも、キサラタンも、アイファガンも、エイゾプトも、そして頼みのチモプトールもと、現代の緑内障治療用点眼薬の主要5種類が強い副作用にために使用することができない、というとても信じられない事態に陥ってしまいました。

 

 「こんなことってあるんだろうか」途方に暮れて、何度もほほをつねってみたけれど、紛れもない現実でした。

                           

 例えばアイファガンは大きな耳鳴りと150ミリ余の血圧上昇、エイゾプトは胃もたれとめまい、チモプトールは徐脈と動悸、といった具合です。水沢先生に報告しても「そんなことあるわけないだろう。我慢しろ」と怖い顔を向けるだけでした。

 

 そんなに怒られても、この副作用がとても我慢できないんです。窮地に立たされて、もう泣きたくなりました。

 

 他の治療法はないものかと、隣町の佐倉市にある東邦大付属の佐倉病院でセカンドオピニオンを聞いてみようと思い立ち、予約を入れました。当日、緑内障に関するこれまでのぼくの経緯を説明すると、担当してくれた中年の眼科医はこんな風に答えてくれました。

 

 「今日の眼圧は13ミリと14ミリで、来rが維持されれば問題ないこと。点眼悪はプロスタグランジン系やβ遮断薬系が基本になるが、副作用ということになれば過剰な拒絶反応が起きていることであり、決して無図らしいことではないこと。いずれの点眼薬も不向きなら手術ということになるが、感染症のリスクもゼロではないこと、と教えてくれました。

 

 プロスタグランジン系というのは、血圧が180ミリまで上昇してしまったキサラタン点眼薬であり、β遮断薬系というのは同期と徐脈を起こしたチモプトールですから、共に二度と使いたくありません。我慢していたら、身体全体が壊れてしまいます。

 

 かといって、手術をしてもらったとしても、点眼治療薬のどれもが使えなくなってしまうほど不穏な状況なので、また、感染症に悩まされるのではないか、と悪い方に考えが向いてしまいます。にっちもさっちもいかなくなって、ご先祖の方にお願いしてみようと思いました。

 

 そこで翌朝、朝のお参りの中で「お父さん、ぼくを助けてください。緑内障の目薬が使えなくなってしまったんです」と声を出してお願いし、頭を下げました。

 ぼくが65歳のときに、ぼくの傍らにいつもいて下さるご霊さまはぼくの父親だと気付いて以来、お願い事がある時は、あえて「お父さん」とお呼びしてお願いするようにしていました。

 

 少し気持ちが落ち着いたところでいつものように、朝刊を取りに玄関先に出て郵便受けから朝刊の端を掴んで引き出したんです。すると、はがき大の大きさに折りたたまれた1枚のチラシがぼくの足元にぽとっと落ちたんです。

                  

 「何だ、これは」と拾い上げてみると、何と、神教真ごころの恢弘チラシ「真ごころライフ(仮名にしてあります)」だったのです。もう、かれこれ30年以上も前に退団したあの神教真ごころの、です。

 

 郵便受けの中で朝刊の上に重なっていたわけだから、どこのどなただか分からないけれど、熱心な信者の人が、ほんの数分前に投げ込んでくれたのでしょう。そのチラシには、その教団の成田支部のことが掲載されていました。

 

 「あ、そうか、父はこの教団に行け、というのだな」と気付いたけれど、あまりの唐突さと、あまりの敏感な反応に気が動転したと共に、またもや真ごころなのか、という思いとが交錯しています。一度退会したことがあるじゃないか、という戸惑いもあって、俄(にわ)かには自分の気持ちを整理できずに、とりあえず妻と朝食を摂ることにしました。

 

 朝食をさっさと済ませて書斎に戻り「父は神教真ごころにいけ、というけれど、2回も同じ神教真ごころの門を叩くなんてどうしてなんだろう。明日で三いいじゃないのか」と自分の本音を口に出すと、あたかもそれを聞いていたかのように、書斎に出入りするガラス戸の枠の上に祀られていた成田さんのお札が「トン」と音を立ててぼくの目の前の床に落ちたんです。

 

 お札の背中部分にi粘着テープを貼りつけて後ろの壁面に固定して、少しの揺れでは落ちないようにしておいたはずなのに、なんです。それを目にしたぼくは「分かりました。教団には今日、行ってきます」と気持ちの中に決めて、その日の午後に出かけることにしました。

 

 昼食を済ませた午後2時頃「ちょっと出かけてkる」と妻に告げて、成田市不動ヶ岡にある神教真ごころ成田支部の玄関前に立深い呼吸をして呼吸をして重い硝子のドアを押しながら「こんにちわー」と声を挙げると「はーーい」という返事が返ってきて、顔を出してくれたのは化粧っ気の全くない細面で60代の年恰好とみられるご婦人でした。

 

 「真ごころライフを見て来ました」と告げると、広い雑談室のような部屋に案内されて、テーブルの前に並ぶ椅子に腰を下ろしました。「渡部と申します」と名を述べるとそのご婦人は「宮田と言います。地区長をしています」といわれ、この地区の教団幹部であることが分かりました。

 

 そしてぼくは、もう三十数年前にも、胃もたれと下痢症状に悩まされて、今日と同じように教団の門を叩いたのですが、徐々に病態が落ち着いてきたので2年少々の期間で退団してしまったことを話しました。

 

 二度めの今日は、緑内障という長年の持病のために使用していた点眼薬のどれもが副作用のために使うことができなくなって、失明への道のりを歩いているのではないか、という不安に苛(さいな)まれてここの門を叩きました、と伝えました。

 

 「分かりました」と言う宮田さんの案内について行き、階段を上って上の階に着くとご神殿が設けられていて、これまた30畳ほどの広い部屋に通されました。そこには30年余も前に安孫子支部にお参りしたときと同じあの金色に輝くご神殿があり、「御光(みひかり)が出ているんですよ、というあの掛け軸も祀られていました。

 

 そのご神殿のお前で宮田さんは、あの時と変わらない浄め祓いをしてくれて「次回にはその目薬を持ってきてくださいね」と言われて帰路につきました。

 

 その帰り道、ぼくはこんなことを考えていました。―――ご霊さまは、目が見えなくなるのではないか、と恐れおののくこのぼくを、2回目となるこの教団への参拝をさせて何をしようとしているのだろうか―――と。

 だから、この教団の言うどんな些細なことにも注意深く耳を傾けてみよう、と思いました。

 

 2日後、漸進的な副作用が最も少ないとされているキサラタン点眼薬を持参して、ぼくは再び、成田支部を参拝しました。対応してくれた宮田さんから身体の浄め祓いを受けている間に、別の信者の方がそのキサラタン点眼薬の浄め祓いをしてくれて「こうすることで中の毒気が消えて副作用が起こらなくなりますよ」と教えてくれました。

                           

 その夕方、毒気を抜いたと言っていたキサラタン点眼薬を久しぶりに恐る恐る点眼してみました。すると、最初の頃と何ら買えあることのない心地よい点(さ)し心地だったのです。「これはいけるんじゃないか」と2,3日続けてみたところ、血圧の上昇や目の痛みが現割れることは全くなかったのです。

 

 「ああ、よかったあ」とぼくは思わず安堵の声を挙げてしまいました。そんな喜ばしいことを伝えようと、あくる日、成田支部を参拝しました。それを耳にした宮田さんが「目薬の毒気祓いが自分でもできるんですよ。3日間の講習を受けてみませんか」と信者になるよう誘われたので、二つ返事で了解しました。

 このあたりの勧誘の仕方は、安孫子支部の場合と同じなことに気が付きました。

 

 もう30年以上も前のこととはいえ、「勝手知ったる講習会」ですから、何の不安も、何の心配もなく3日間の講習を受けて平成26年5月吉日、再び神教真ごころの信者になりいました。

 

 ぼくが信者になってから、というもの、宮田さんは時々、自宅に足を運んでくれて新人信者に対する指導や心構えといったことを教えてくれるようになりました。7月のx中旬でしたか、宮田さんが来宅したとき2階の居間にお通しして雑談を始めると、お位牌の話になりました。

 

 「安孫子のときにお祀りしたお位牌はどこにあるの」と、応接ソファに腰を下ろした宮田さんから問われたので「1階の書斎です」と答えたんです。「ん?」と宮田さんは怪訝(けげん)な顔を向けたので「30年前、安孫子支部の幹部の人が、この2階の居間と続きまになっているわしつに決めてくれたのですが、退団した後にぼくの独断で1階の書斎に移したんです」と答えたんです。

 

 それを聞いた宮田さんは「どうしてなの」とその理由を聞いてきたので「父のご霊さまがいつもぼくの横にいてくれるので、お位牌もぼくの横におきたかったからです」と答えると、その曇った顔色がますます渋い様相になってきたのを見て、ぼくは大変なことをしてしまったのかな、と気付いたんです。

 

 ご先祖の皆さまをお祀りしたお位牌を1階に移したのは、ご先祖の方々に対する「無礼なこと」だったのです。お位牌というものは、現界と霊界の出入り口なのですから、その家の最上階にお祀りするものなのです。

 そのことは安孫子の講習会でも教えていただいたし、今回の講習会でもその話がありましたから忘れていたのではありません。

 

 でも、お位牌は最上階にお祀りしなさいという教義は単なる形式なことで、それが理由でお咎(とが)めを受けるようなことはないだろうと、たかをくくっていたことは事実でした。

 そんなことよりも、愛おしい父のご霊さまですから、ぼくの傍らにいつもいて欲しかった、という気持ちの方がとても強かったからなんです。

 

 世の中を見渡しても、1階に設けた仏間という部屋にお祀りしているお位牌を多く目にしていたからでもあります。でも、それは霊界のしきたりからすると「逆事(さかごと、正論ではないこと)なのかもしれないな、と宮田さんの渋い顔の表情を目にしたら気が付いたんです。

 

 ということは、ぼくが不幸にも緑内障という慢性的な眼病に罹ってしまったことも、使用していた治療用点眼薬の全てが原因不明の副作用を起こして使えなくなってしまったことも、みんな「霊の障り(れいのさわり、霊障)だったのかも知れない、と思えてきたのです。

 

 宮田さんは、そのことについて何も言わずに帰られましたが、月日の経過を振り返ってみました。神教真ごころ安孫子支部を退団したのが昭和60年ですから、お位牌を1階に移動させたのもその頃です。

 

 その時ぼくは40歳でしたから、霊障としての緑内障を発症したのはその数年後から と考えると、その治療の履歴とほぼ符合するのです。ほんとうに霊の障りなんだろうか、そんなことって現実にあるんだろうか。お位牌を2階に戻してみれば、何らかの変化が起きて確認することができるのではないだろうか。

 

 そして、お位牌に向かって「ぼくを助けてください」と頭を下げたら「神教真ごころに行け」と指示されたのは、このことに気付けよ、ということかも知れないな、なんて考え始めたらじっとしていられなくなりました。  

 

 それから数週間が過ぎて宮田さんと顔を合わせたとき、「お位牌を2階に移すための祖霊祀りをしていただけませんか」と、ぼくからお願いしたんです。すると「そのほうがいいですね」と早々と来年平成27年2月8日に決めていただきました。

 

 それに先立って、お仏壇を安置する場所とその向きを考えたときに2階のどの部屋がいいのか、を予め決めていただいて棚の取付工事をしておかなければいけません。その調査のために、宮田さんと成田支部の矢板支部長補佐の二人が1ヶ月以上の前の平成26年12月に来宅してくれました。

 

 2階の居間や和室をうろうろしながら「ここがいいですね」と薦めてくれた場所は、今の北側に位置する和室の北側になる壁面でした。お位牌を陽当たりのよい南方向に向けるのでうってつけの場所です、というのです。

 図らずもその場所は、30年も前に安孫 子支部の幹部が「ここがいいですね」と薦めてくれた場所と同じだったのです。「やっぱり、ご霊さまの居場所は2階のここが一番いいんだな」ということに改めて気が付いたんです。

 

 棚の形と設置場所を示した図面を建具屋に渡して、材料に少し奮発した立派な棚を造っていただき、新年明けての1月31日に所定の位置に設置してもおらいました。

 祖霊祭りに先立って、2月2日には成田地区長という幹部でもおられ宮田さんにご足労いただいて、1階の書斎に祀られていたお仏壇とお位牌を新しく造った2階の棚に移動させる儀式を行いました。

 

 「ただいまからお位牌を移動いたしますので、ご霊さまたちはしばらくの間お位牌からお離れ下さい」と地区長がご先祖の皆さまにお断りをして、お仏壇とお位牌などの一式を、2階に新しく造った棚に移動しました。

 

 その後に、新しく祀られたお仏壇の前で「滞りなく終了しましたので、ご先祖の皆さまはお位牌にお罹(かか)り下さい」とお伝えして、移動の儀式は終わりました。

 

  さて、祖霊祭りに向けてのお供物やお花の準備も整い、予定通り2月8日に矢板補佐の先達により無事に執り行うことができました。「やれやれ」ということで、矢板補佐と宮田地区長をダイニングに案内して茶菓をお出ししたとき、ぼくは思わず「あれっ」と小さな声を挙げてしまったんです。

 

 天井からぶら下がった3つのペンダントライトのうち一番奥のライトが球切れで点灯しないはずなのに、その時に限って明るく輝いていたんです。もちろん、妻にも知らせると「あ、本当だ」と妻も怪訝(けげん)な表情を浮かべていました。

                                                                       

 かつての緑内障点眼薬の全てが使えなくなったトラブルも知らないでいる信者の皆さんにもお伝えしたのですが「へーー、不思議なこともあるもんだね」で終わったのです。でも、当事者のぼくにとっては「ウン、それでいい。お位牌は2階に祀るものですよ」と、ご霊さまが伝えてくれたように見えたんです。

 

 皆さんが帰られたあと、球切れになっていて決して点灯するはずのない一番奥のペンダントがどうして点灯したのだろうか、という疑問を抱いて、もう一度確認してみようと思いました。

 そこで、一度スイッチを消灯にして、再び点灯にしてみたんです。でも、そのペンダントは今までと同じように点灯しなかったし、それ以降も点灯することはなかったんです。

 

 じゃあ、あの一番奥のペンダントが、一度だけ点灯したのはどうしてなのか、ということになります。本当は点灯していないけれども、ぼくの目の錯覚で点灯した、と思い込んでしまったのか、それとも、これもまたご霊さまの超能力によるものなのでしょうか、ということになるけれど、ぼくは後者だと思います。

 

 つまり「お位牌は2階にお祀りする」という教義は、単なる形式的な空言ではなく、まぎれもない「霊界の決め事」だったのです。点灯しないはずの球切れのペンダントを点灯させて、そのことをぼくに教えてくれたのです。

 

 結局、ぼくの左右の両目が緑内障という病魔に襲われたのは、お位牌を建物の1階にお祀りしたことによる「霊に障り」によるものだとはっきり分かったんです。

 神仏に対する無礼ごとによる身体の不調は、首の部分よりも上の部分、つまり、頭とか目といったところに現れる、という教えを裏付けたことになってしまいました。                                                                                                        

 では、緑内障点眼薬の全てが使えなくなって失明の窮地に立たさてしまったことは、何を意味していたのでしょうか。そのことが動機となって、およそ30年前にもお世話になったことのある神教真ごころの門を叩いて再び信者となって、お位牌を2階に移動していただいたことで「うん、これでいい」と言わんばかりに球切れのペンダントを点灯してくれたんだな、と理解したんです。

 

 ということは、お位牌の祀り方の間違いを厳しく叱責してくれたんだ、ということに気が付いたんです。

 

 つまり、先祖代々のお位牌を1階の書斎に祀っていたというぼくの身勝手な行動が多くの先祖霊の怒りをかって、霊障としての緑内障を末期の状態に近づかせたのです。そこで、父のご霊さまが点眼薬の全てを使えなくするという荒業を仕掛けてぼくを狼狽(ろうばい)させ、もう一度真ごころの信者になるよう導き、地区長である宮田さんの表情から1階に祀ったお位牌を2階に移すよう仕向けられたのです。

 

 そして、多くの先祖霊の憤りを鎮め、これ以上緑内障が進行して光を失うことのないよう、ギリギリのところで助けてくれたのです。ああ、なんてありがたいことでしょう。

 

 でも、とても不思議なことがあるんです。およそ40年も前に何をしても良くならない胃もたれと下痢に悩まされて神教真ごころの門を叩いたのは、郵便受けに投げ込まれていたこの教団の恢弘チラシに誘われて、でした。

 

 また、今回の緑内障点眼薬の全てが使えなくなって窮地に立たされていたときも、同じ教団の恢弘チラシが玄関先の郵便受けに投げ込まれていたんです。それを頼りに同じ神教真ごころの門を叩いて再び、信者になったのですが、その教団の一つの教義というものが、お位牌というものは自宅の2階という最上階にお祀りするものですよ、ということだったんです。

 

 つまり、「お位牌は2階に祀る」 という教義を2回も無視していたことに対して、強く「念を押された」ように見えました。

 

 先祖霊の正しいお祀りの仕方、というものを知っているのに実行しないでいると、取り返しのつかないことになってしまうことを、ぼくはまざまざと体験してしまいました。

 

 でも、2回ともタイミングよく真ごころライフという恢弘チラシが我が家の郵便受けに投げ込まれていたのは、どうしてなんだろう、と考えてみると、霊界の決めごとである「お位牌は最上階に祀る」ということを教義にしているのは神教真ごころの他にはないのではないか、と思えるんです。

 

 しかも、霊界にいらっしゃる父のご霊さまは、現界に存在するそのような神教真ごころのことを既に知っていたのではないだろうか、としか言いようがありません。だからこそ、真ごころライフという恢弘チラシを我が家の郵便受けに、タイミングよく、2回に亘って、投げ込まれたのですが、それをなさったのは父のご霊さまに違いない、と思うんです。

 

 とても信じられないけれど、霊界のご霊さまが現界に生きる人の気持ちを操るのは、難しいことではないことをぼくは知っているからなんです。

 

 

 でも、お祀りするお位牌の位置や向き、高さ、あるいはお仏壇の中を明るくする、と言った細かなことを教義にしている宗教団体は、本当に神教真ごころだけで他にないのでしょうか。

 とはいっても、ぼくは宗教家ではないし、いろいろな宗教の研究者でもないので、宗教界全体を俯瞰して眺めることはできません。

 

 そこで、ネットを利用して主要な葬儀屋さんが唱えるお位牌の祀り方とか、近所にある仏具屋さんとの会話を通じてその辺りを調べてみました。

 

 お位牌をどの方向に向けるか、については、南面北座説という南方nお上に載せて向に向に向ける説と、西方浄土説という東に向ける説に加えて、春夏秋冬説という向ける方向に違いはない、といういくつかの説があって、宗派による違いはあるようです。でも、信仰する宗教を持たないぼくにしてみれば、向ける方向に違いはない」ということに受け取りました。

 

 お位牌を設置する高さについては、座したときの目の高さよりも、あるいは、胸の高さよりも高い位置になるように、といわれており、床置き式のお仏壇は、適切な高さの台の上に載せるとよい、と記されているだけでした。

 

 一般的には座布団の上で正座の姿勢になってお参りするでしょうから、そのときの目の位置よりも上になるような位置にご安置することでよろしいと思います。

 仏具屋さんの店内で多くの仏壇を見せて頂いたり、お話を伺ったりしても、これでなければいけない、という決まりはないようなので、今は亡きご先祖の方々の現界への通り道であることを忘れなければよろしいのではないか、と思います。

                 

 お位牌を祀るお仏壇を安置する建物の階についても、1階でも最上階でも差し支えないとの記述もあり、自分たちが食事をする階と同じだとお供え物を運びやすいなど、お参りし易い階をお勧めします。

 

 また、お仏壇の中を明るく照らす照明についても決まりごとはありませんが、その照明があることによってとても明るく、厳(おごそ)かな′雰囲気が漂うお仏壇になることは間違いありません。

 

 このように見てみると、お仏壇はその建物の最上階にお祀りしなさいとか、その中を明るく照らしたり、お位牌を安置する橋に高さを、立位での目の高さよりも高くする、と言ったことをきちんとした教義にしている神教真ごころという宗教団体は、とても稀有な存在なんだな、と分かりました。

 

 だからと言って、これが「故人の正しい祀り方」なのかどうかは判断できないけれど、多くのご先祖の方々がこのお位牌を通って出入りしていて、しかも、お食事までも召し上がってくれている事実を体験してしまうと「これがk霊界の決め事であり、ご先祖ん皆さまが大変喜んでおられる」ということになるのではないかな、と思えます。

 

 ぼくが今まで生きてきて、ご先祖さまの祀り方という話題の中で、お位牌というものは故人の霊魂が宿る依代(よりしろ)としての役割に加えて、霊界と現界との出入り口になっている、というようなことを耳にしたことが一度もなかったからなんです。

 

 だから、胃もたれや緑内障という霊の障りに苦悩しているぼくの姿を見ていた父のご霊さまが、2回も名指しして「神教真ごころに行け」と導いてくれたのだから、偶然の出来事ではなかったことに間違いないんだろう、と思います。

 

 しかし、お位牌を建物の1階部分にお祀りしたり、中に照明器が取り付いていなかったりして真っ暗なお仏壇も広く出回っているので、それを購入した人も多いはずです。でも、ぼくのように辛い戒(いまし)めを受けた人は、たぶん、いらっしゃらないと思います。

 

 ぼくだけだと思います。なぜなら、ぼくの場合、お位牌は2階にお祀りするものですよ、という霊界のしきたりを知っていたからなんです。知っていながら、それに従わなかったからだと思います。その辺りは、もう、お見通しなんです。

 

 つまり、独断という自分だけの都合で1階にある書斎の片隅にご安置してしまったことが霊の障りになってしまったんだろうと思います。父のご霊さまが出て来られてとても愛おしかったから、という理由とは言え、霊界のしきたりがこの世のものとはまるで異なる世界である、ということに気が付かなかったからです。その部分はとても反省しています。

 

 それから半月ほどが過ぎた平成27年2月28日の夜の11時過ぎでした。ベッドの上でうとうとしていると、突然「ポー―っ」というサッカーの試合中に鳴り響くホイッスルのような音が聞こえてきて目を覚ましました。

                                                                       

 すると、隣室の書斎からサワサワとした多くの人々が行きかうような音が来たので、じっと耳を欹(そばだ)てていたけれど数分ほどで聞こえなくなりました。

 

 帰るべきお位牌がその近くにはなかったので、多くのご霊さまたちが困惑しているんだな、と思い、翌日「お位牌は2階の和室に移しました」と書き記した張り紙を、今までお仏壇をご安置していた場所の壁に張り出したんです。

 

 すると、その夜の11時頃でしたか「パチッ」という木片をへし折ったような大きな音に目を覚まされたのですが、昨日とは打って変わって「2,3人かな」と感じられるほど少ない人数のご霊さまのようでした。

 

 「あ、あの張り紙を読んでくれて、多くのご霊さまが2階に行かれたんだな」と感じ取れてうれしくなりました。すると、次の日からは夜中に目を覚まされることはなくなりました。

 

 

 眼球を丸い形に保っている眼圧(がんあつ)が様々な理由で高くなり、視神経を圧迫することで視野の欠損を引き起こすのが緑内障という慢性疾患なのです。その中でも、眼圧が正常値であるにもかかわらず視野の欠損を引き起こすのを正常眼圧緑内障というもので、これが長きに亘ってぼくを悩ませ続けているのです。

 

 従って、適切な点眼薬を使う等して眼圧を20mmHg、いや、できるだけ15ミリ以下に下げて視野の欠損を食い止めなければならないのです。その治療法によって視野の欠損が進行していないかの確認は、3ヶ月ごとに行われる視野検査によって行われます。

 

 お仏壇を2階に移して以来、処方されている点眼薬は副作用を起こすことがなくなったキサラタン点眼薬一種類だけにしています。

 

 眼圧は15~18ミリと少し高めに変化しているものの、それから3年余経った今でも、視野の欠損が進行したという所見はありませんでした。ただ、視野の広さは数値ではなく

図形で示されるので「大きく変わっていませんね」と言われていました。

 

 8割以上の視野が欠損していてこのままいけば必ず失明する、と告げられてから久しいのですが、自動車の運転免許もはく奪されずにいられるギリギリのところで生かされています。

 

 緑内障治療用点眼薬のどれもが使えなくなってから約3年が過ぎた平成29年7月、ぼくと妻は、再び神教真ごころを退団しました。理由は前回と同じように「目的を果たしたようだ」という思いが強くなってきて、教団の信者でいる意味を失ってきたからです。

 

 過ぎ去った日々を振り返ってみました。ぼくは30歳半ばからの約30年の間に2回も神教真ごころの門を叩きました。何をしても良くならなかった胃もたれと下痢に悩まされたときと、緑内障の点眼薬のどれもが使えなくなって失明の不安に苛まれたときです。

 そして、そのいずれのときも、どういう訳か教団の恢弘チラシ「真ごころライフ}がぼくの目の前にあったんです。

 

 そして藁(わら)をも掴む思いで神教真ごころの門を叩き、神さまの関する講和を聴き、幹部連中の指示に従いながらお位牌を2階の「特等席」と言われる南向きの壁面にお祀りさせていただきました。

 

 そのことによって、どうにもならなかった胃もたれと下痢症状が穏やかになっていき、緑内障の点眼薬による副作用も起きなくなってきたんです。でも、それだけではないんです。

 

 ある日、家族4人でお参りをしていました。すると、どこからともなく現れた手のひらを広げたほどの大きさと、それより少し小さな大きさの円形をした薄黒い影の2つが現れて、壁を上ってそのお位牌に吸い込まれていきました。これを目にしたのは、ぼくと小学校3年の長男だけでした。

 

 「何なの、これは」ととても驚きましたが、人が亡くなっても、その故人の思いとか姿までのすべてが消えてなくなってしまうのではない、と、ぼくは認識しました。人が亡くなって荼毘(だび)に付されても、「人の思い」という心の部分は薄黒い影となって、いつまでも生きておられるんだな、と感じ取りました。

 

 だから、自分たちと同じように、ご先祖の皆さまにも毎日のお食事をお出しすることがとても大切なことが分かります。

 

 これらの体験から分かることは、現界に生きるぼくたちが健やかで楽しい生活を送るには、なきご先祖のお位牌を建物の最上階にご安置して、毎日の食事をお出しすることがとても大切なことだと、教えていただきました。

 

                             終わり―――――――

 

 

 

 その8 PCが教えてくれた妻の脳卒中

 女房がコーラスの仲間と一緒に万座温泉の一泊旅行に出かけるというのです。「じゃあ、ぼくも近くのホテルに泊まってゆっくりしようか」と思って、PC(パーソナルコンプーター)のANAホテル宿泊申し込み画面から申し込もうと必要事項を入力しました。

 ところが、どういう訳か申し込み確認画面は受け付けてくれなかったんです。

 

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 平成26年5月13日の火曜日から15日の木曜日までの2泊3日の予定で、妻が、その粗属するコーラスグループの仲間たちと一緒に群馬県の万座温泉にでかけてくる、と聞いていました。                    

                                          

 ならば、一人で留守番薬のぼくも「たまにはちょっとリッチなホテルに一人で外泊してみようかな」と、12日の晩、割引の宿泊プランを実施している近隣のホテルはないものか、とネットを開いてみました。

 

 すると間もなく、成田空港のを近くにあるANAクラウンプラザホテル成田が、5室限定の50%割引プランを実施していることを見つけたんです。

 

 予約状況を見てみると「空室あり」と出ていたので「よし、これにしよう」ということで、申し込み画面の宿泊にのお欄に「5月14日」と記入して、氏名や連絡先の電話番号といった必要事項をもれなく記入しました。

 

 それらの記入内容に間違いがないことを確認して「よし、これでOK」とばかりに確認が面のボタンをクリックして最終確認が面を確かめようとしました。ところが、確認画面に切り替わらなかったんです。

 

 普通このような場合、帰路変わらない理由が表示されるのですが、それが見当たりません。「あれ、どうしたんだ」ということで、記入した必要事項の内容に抜けや間違いがあるのかな、と再確認したけれど、それはありませんでした。

 

 そこで再び、確認ボタンをクリックしてみたのですが、やはり、確認が面には切り替わらなかったんです。

 

 「何でなの、どうしてなの」とぶつぶつ言いながら、今度は連絡先電話番号の市外局番と個別番号の間にハイフンを入れたり、氏名のフリガナをカタカナからひらがなにしたりして何度か確認が面への切り替わり作業をしてみたけれど、切り替わることはありませんでした。

 

 「何か、いやなことでもおこらなければいいがなあ」と不安に駆られながら、14日の一人ディナー付きの外泊を諦めました。

 

 そして、翌13日の朝、近所に住むコーラス仲間の村井さんらと連れ立って手を振る妻に「気を付けて行ってきなさいね」と声をかけて送り出しました。ホテルでの今夜の一人ディナーを諦めた代わりに少し奮発した夕食にしようと近隣のレストランに入り、お刺身定食と恵比寿ビールを食してゆっくりとした気分で寝床に就きました。

 

 翌14日の朝はいつものように起床して、一人朝食を済ませ、ニッカニシテイルウォーキングで町内を一回りして机に向かいました。すると、午前の19時半ごろ

沖電話が鳴りました。

 誰だろうと電話に出てみると昨日、妻と連れ立って出発していったコーラスグループの村井さんからでした。

 

 息せき切った声で「奥さんが脳出血を起こしてホテルで倒れた。今、群馬大学の附属病院に入院しているけれど、手や足も動かないし、会話もできない」と伝えてきたのです

 

 「ええー、ウチの加代子が…」と耳を疑ったのですが、同時に、一昨日の確認画面に切り替わらなかったというPCのトラブルはこの前兆だったのか、と青ざめました。どうやっても確認画面に切り替わらずに、AANAホテルの外泊を諦めざるを得なかったのは「外泊などしているときじゃないよ」という事前通知だったんだ、と気が付いたんです。

 

 いったいどなたが、ANAホテルの外泊を諦めさせてくれたのでしょう。もし、ノーマルに画面が切り代わって宿泊でもしていたら、村井さんからの第一報は聞きそびれていたに違いありません。

 その結果、夕方あるいは明日にでもその第一報を聞こうものなら、その後の状況が大きく変わっていたでしょう。なんというスピーディな連絡なんでしょう。

 

 その電話を切るや否や、身支度を整えて引き出しの中にあった10万円余の現金を財布に突っ込んで、群馬大学付属病院が群馬県前橋市昭和町にあることを調べてそこに向かいました。新潟に住んでいる息子にもその旨を伝えて、上越新幹線の高崎駅で落ち合うよう申し合わせました。

 

 ぼくも息子も、だいたい同じ時刻頃に高崎駅に着いて、群馬大附属病院には夕方の5時ころに到着しました。その足で妻が入院している病室に向かいました。 8階にある脳神経外科SCU(Stroke Care Unit 脳卒中集中治療室)に案内されてベッドの上に横たわる加代子の姿を目にしたとき「えっ、これが加代子か」と疑うほど痛々しく、別人のような様相に驚きました。

 

 意識はあるものの、右目、右眉、右頬そして唇の右側といった顔面の右側の造作がことごとく垂れ下がっていたのです。口を開けてしゃべろうとするけど、聞こえてくるのは「あうあう」という雑音だけでした。

 右手、右足もその付根のところから指の先までもがまったく動かすことができない状態でした。

 

 看護士がぼくのすぐ横に近づいてきて「14日の朝5時ころに起床して友達と一緒に朝風呂に行き、湯舟から上がり、浴衣を着ていた時に気分が悪くなって部屋に戻ろうとした途中で『救急車を呼んでください』とその友人に告げてた途端に倒れ込んだようですよ」と説明してくれました。

 さぞかし、本人はずいぶんと怖い思いを下だろうな、と想像します.                                       

                                                    

 後日、村井さんから断片的な話を聞いて、それらをつなぎ合わせるとこのようにして群馬大附属病院に運び込まれたようです。つまり、1800メートル余の標高にある万座温泉からJR吾妻線の羽根尾駅の近くにある西吾妻福祉病院までの約20数キロの見知海苔を救急車で搬送されました。

 

 その病院には運よく脳神経外科医が在籍していたのですぐさま脳出血と診断されたのですが、緊急時の開頭手術を行う設備が整っていないためにドクターヘリの出動を要請して群馬大附属病院まで移送したのだと分かりました。

 

 そんな緊迫した状況を思い浮かべたぼくは、あんな山奥の温泉地で急病に遭った妻が、わずか3,4時間で国立の大学病院に搬送された、というそのスピーディな連係プレーに「よく、助かったものだ」ととても驚きました。

 

その日の宿泊は、病院のスタッフから紹介された、病院から徒歩で5,6分の距離にある1DKの間取りで素泊まりが1泊2500円という木造のアパートでした。ほかにあてのないぼくは、その一室を長期に借りる契約をすると共に、その晩は息子と何十年ぶりかに枕を並べて就寝しました。

 

 翌15日も群馬大病院に行くと、主治医の梶原先生から現在の病状と今後の見通しについて話を聞くことができました。机上に置かれたA4サイズのPC画面に映し出された妻の頭部CT画像を指で指しながら「この左側にい映る白い部分が脳出血を起こしたところです」と説明されました。

 

 目を近づけてよく見ると、頭の断面の中心部近くに丸くて白っぽく打つ打った部分がありました。「直径が3センチほどの比較的小さな出血ですが、このまま出血が増えるようなことがなければ開頭は必要ありません。ただ、見てわかるように、頭の中心部にある視床(ししょう)という皮膚の痛みや痒みといった皮膚感覚や手足の運ぢう感覚を伝える部分の近くなので、これから行われる3日ゲッツあまりの急性期のリハビリで、それらがどれほど回復するか、がカギになってきます。

 

 うまく回復しなければ、皮膚科んっかうが戻らないばかりか、車いすになるかも知れません」という先生の言葉にぼくは身構えました。

 

 血圧の変化と止血の状況を観察するために2日間ほど安静にしていた妻ですが、翼にいるぼくに向かって「わたしは寝たきりになってしまうんでしょ。本当のことぉ言ってよ」と今抱いている不安を問い詰めtrきたんです。

 

 「大丈夫だよ、誰もそんなこと言ってないよ」と言う返事が、ぼ億のできる背一杯の返事で敷いたが、そのような意味のある会話を交わせるようになった妻を目の前にしてぼくは、暗雲垂れ込める中でも一条の光を目にした思いでした。

 

 そして翌16日の午後、健保の限度額適用認定の申請とぼくの緑内障の定期検査を受けるために一時帰宅しました。仕事を持つ息子もその日に帰宅しました。

 

 その晩、ぼくは自宅でこんな夢を見たんです。―――――金色の布で作られた底の部分が四角い籠巾着(かごきんちゃく)を手にした妻がさっそうと歩いてきました。そして、右の手のひらをその巾着の中に入れてピカピカと輝く金布の裏側から遊部先を当てて「きれいでしょ」と言わんばかりにニコニコしていた――――というものでした。

 

 その夢から覚めたぼくは「あ、加代子は手も動き、足で歩けるようになるよ」と、そっとご霊さまがぼくだけに教えてくれたのではないか、と思い、それからというもの、そんな淡い希望を抱くようになりました。

 

 そんななか18日に群馬大学に戻ると、19日からリハビリを始める、と聞きました。言葉の方は何とか会話ができるようになったものの、右手も右足もぶらっとぶら下がったままで、動かkすことができないだけでなく、痛い、痒い、と言った皮膚の感覚もほとんど感じないままだ、と漏らしていました。

 

 加代子のあの手が、あの足が、以前のように動くようになるだろうか。あの野球選手だった名がsh真茂雄さんが脳梗塞で倒れたのを知っています。あり余るお金をつぎ込んで専属の理学療法士や栄養士らからありとあらゆるリハビリを受けてきたと思うのですが、右手はいつもポケットに入れたままだし、歩くこともままならないようです。

 

 また、お笑い芸人の桜金蔵さんだって同じです。脳出血のために開頭手術を受けて成功した、と言われている彼ですが、まだ動かない足を引きずって要介護の生活を強いられているようです。

 

 

 このような実例を目にするとついつい悲観的な思いに負けそうになりますが、あの夜に見た金糸でできた巾着の夢の中で感じた「妻の手と足は動き出すかもしれない」という淡い希望を胸に秘めて、リハビリに挑んでいる妻を見守っていきたい、と思うぼくでした。

 

 さっそく作業療法士(PT、Physical Therapist)と言語聴覚士(ST Speech-Language-Hearing Therapist)によるリハビリが始まり、見学させてもらいました。

 まず、、たかはしさんというPTが身長162センチと大柄の妻を書か抱えて、プロレスのコブラツイストのような恰好で右側胴体を大きく左側に反らしている姿が目に入り、少々驚きました。

 

 後で聞いてみると、手にしろ足にしろ脳卒中の事後というのは、緊張している筋肉を大きく伸ばすことで痙縮(けいしゅく)という筋肉の縮み込みを防ぐことがリハビリの第一歩なんですよ、と教えてくれました。

 

 あ、い、う、え、おの発声をオルガンのメロディーに合わせて唄を唄いながら言葉のリハビリをするSTによる言語発生訓練も始まりました。1週間前には「あうあう」という音しか出せなかった妻が、少しづつ言葉が出るようになってきました。nいゆうやけいろのすいまが

 

 27日に群馬医大に戻りました。上越新幹線の高崎駅で上越線に乗り換えて次の駅で下車する少し前、電車の出入り口のドアの横に立っていたぼくは、黄色く染まってきた西の空をドアのガラス越しに何げなく眺めていました。

 

 そのうちに、夕焼け色に輝く西空に黒い雲が近寄ってきて、何だかその雲の動きに目を離せなくなったんです。あれよあれよ、という間に黒い雲が寄り集まってきたと思ったら、黒地の中に夕焼け色のすきまができてきたなあ、と目を凝らしていると、なんと、アルファベットのK(けい)と読める切抜き簿記になったのです。

                                                          

 「え――、加代子のKだよ」と小さな声を挙げたぼくは、その様子を手帳にスケッチしておきました。それが上に掲げた絵です。まさか妻加代子に向けた応援現象ではないと思うけれど、あまりにも壮大な黒雲の振る舞いにとても驚きました。

 

 いったいどなたがこんなことを、と思ったけれど、単なるぼくの目に映った錯覚だったのかもしれない、なんて思ったりするんです。なぜなら、ぼくの両目は緑内障に侵されていて、かすんだり、涙目になったりと、朝から晩まで眼のトラブルに悩まされているからです。

 

 妻の病態も2週間余となる急性期の状態も安定してきたので、6月早々には自宅近くのリハビリ施設に移って回復期のリハビリを受けてください、途の案内がありました。自宅のある成田氏の近くにはそのようなリハビリ施設が2か所あるのですが、自宅から車で30分余で行ける佐倉市の佐倉厚生園病院に決めました。

 

 この佐浦厚生園は、昭和17年に結核の診療所として創設されたものですが、結核に対する治療の進歩によってその必要性がなくなり、平成21年にその目的を終了して、同年の7月に脳卒中患者の回復期リハビリ病棟として再出発したものです、と説明されました。

 

 5月31日にぼくは自宅に戻り、翌6月1日に厚生園に足を運び入院の手続きとあいさつを交わして院内を見せて頂きました。

 

 6月5日、ぼくが同乗したハイルーフ型ワンボックスバンの荷台のスペースに妻を寝かせたベッドを固定した輸送車は、群馬県前橋市の群馬医大を朝8時に出発し、関越道を南下して一路佐倉厚生園に向かいました。

 昼過ぎの1時半には厚生園の門前に到着し、約5時間の輸送料金は高速代別で6万円でした。

 

 

 さあ、これから約半年間にわたる回復期のリハビリが始まります。果たして妻の右手と右足は以前と同じように動くようになるのでしょうか。一生、車いすの生活になってしまうのでしょうか。痛い痒いといった皮膚感覚が元に戻り、滑舌のいいあの言葉遣いも依然と同じようになるのでしょうか。いくつもの不安が横たわっています。

 

 振り返ってみれば、とりわけ健康には気を使っていた妻でした。むしろ、ぼくの無頓着さに苦言を言うほどでした。机から離れないぼくを見れば「身体を動かshなさいよ」とウォーキングを勧めてくれたり、塩分や糖分を抑えた味付けに不満を言えば「お出汁が効いておいしいのよ」と取り合ってくれないこともありました。

 

 「普段の血圧だって130前後よ」と自慢していた妻が、どうして脳出血を起こしたのだろうか。脳内の血管が切れて血液があふれ出る脳出血の原因には、普段から血圧が高めの高血圧症のものや先天的に血管の弱い部分がある脳動静脈奇形などいくつかあるようですが、妻は前者の高血圧によるものだと診断されていましたが、「本当だろうか」とちょっと気になるところがあります。

 

 まあ、今となってはよく分からない原因でしょうから、普段から血圧が高めだった、としておけばどなたにも当てはまるからでしょう。

 

 それよりも、もっと気になることがあったんです。それは、妻がこの脳出血を起こした時期というのが、ぼくが長年使っていた緑内障点眼薬のどれもが強い副作用を起こすようになって使えなくなってしまった時期とほとんど同じ時期だったことなんです。

 

 目薬のトラブルによってぼくの血圧が上がりはじめ、今まで何の問題もなく点眼していた緑内障て丸薬のどれもが使えなくなって、右往左往していたのが平成26年の4月下旬で、妻が脳出血を起こして倒れたのが同年の5月14日と、その時期が1ヶ月も満たない期間内で起きていたからなんです。

 

 しかも、ぼくの緑内障はめのぶぶんで、妻の脳卒中は頭の中という、いずれも人の身体の首から上の部分なんです。首から上に部分移管するトラブルというのは神仏に対する無礼ごとが原因になることが多い、ということを神教真ごころの幹部から聞いて知っていました。

 

 その「神仏に対する無礼こと」と言うことを自分はしているのではないだろうか、と過ぎ去った過去を振り返ってみました。すると、思い当たることがあったんです。

 

 目に見えないことなので「まさか、そんなことで」というところもあるのですが、妻の脳出血も、ぼくの緑内障の目薬トラブルも、お位牌に対する無作法による」霊の障(さわ)りではないか、と思えてきたのです。

 共に首より上にある身体の一部だし、その2つが発症した日がとても近かったからです。こんな不幸なことが夫婦二人の身体に重なって起こることなんて、確率的に言ってめったにあることではないだろうと思うのです。

 

 つまり、ぼくと妻に起きたこれら2つの出来事は、偶然に起きたことではないんじゃないのか、言葉を代えれば起こるべくして起きたこと、ではないのか、と思えてきたんです。

 本当にそうなんだろうか、と時の流れに沿って確かめてみました。

 

 

―――お位牌は建物の2階にお祀りするのですよ、と教えていただいたにもかかわらず、ご霊さまが自分の身近にいてほしい、という自分の独断と偏見によって、1階の書斎にお祀りしtのが、確か、真ごころを退会したのと同じ時期の昭和59年ころだと思います。

 

 そして、進行した緑内障が発覚したのが昭和の終わりころの昭和62,3年の頃だと記憶して言います。そして、緑内障の主だった目薬のどれもが使えなくなって「ぼくを助けてください」と亡き父にお願いしたところ、「真ごころに行け」というような文言な伝わってきて、再び、神教真ごころの門を叩いたのです。

 

 そのようにして、再び真ごころの信者になったのが平成26年の5月25日で、世話役をしてくれた宮田さんと雑談を交わす中で、お位牌を一階にお祀りしていることが霊の障りになっていることに気付かされたのです。

 

 だから、ぼくの緑内障治療目薬のどれもが使えなくなったのも、妻が平成26年の5月14日に脳出血で倒れたのも、お位牌を祀るのは身近な1階の方がいい、と思い込んでいて、勝手にそのようにしていた時期だったのです。

 

 そして、お位牌は2階にお祀りしなければいけないのではないか、と気付いた5月25日以降の状況を見てみます。6月6日から佐倉厚生園でのリハビリが始まり、院長とST(言語聴覚士)による面接の中で簡単な足し算や引き算をしてもらったところ、認知障害の所見は見当たりませんでした。

 

 続いて、8日には右手の指先の感覚がかすかに感じ利用になって来たけれど、動かせるような動作には至らなかったし、右吾日もまったく動かすことができなかったので車いすでの移動を余儀なくされました。

 

 ところが、それから2,3日経つと、意味のある会話が滑らかな舌使いでできるようになり、12日の朝礼の時に出された書類の小さなサイン欄に、妻自らボールペンを握って記名をした回復ぶりには、周りのPTらをっとても驚かせていました。

 

 いままでは幼稚園児が落書きしたような大きな文字しか書くことができなかったのが、14ポイントほどの小さな文字も書けるようになっていたからなんです。

 

 また、横軸に経過月数、縦軸に機能の回復程度をプロットした機能回復曲線を描いてみると、5月は特段の変化はなかったものの、6月の1ヶ月という短い期間内にあれよあれよと滑舌がよくなり、箸を持つことも出来るようになるなど、今までにないような速さで回復していきました。

 

 さらに、6月の末には4本の足のついた四点杖を使って一人でも歩けるようになり、7月に行われたARTとよばれる右手の機能評価テストでも、まったく動かすことができなかった右手が、健常者で80~100という範囲に対して45という健常者の半分ほどのレベルまで回復してきました。

 

 正直言ってぼくは驚きました。立ち会ってくれていた病院スタッフたちもとても驚いていました。こんな短い時間に、これほどまでに回復するなんて想像すらしていませんでした。

 

 それだけではないんです。ぼくの緑内障についても、急に血圧が上がったりしてどれもが使えなくなっていたのに、1階にお祀りしていたお位牌を「2階に移したほうがいいな」と思ったことで、点眼薬のどれもが使えるようになり、血圧の上昇もなくなってきたのです。

 

 実際にお位牌を2階に移動させたのは、次の年の平成27年の2月8日だというのに、です。

お位牌は2階に、と自分の気持ちを改めただけで自分の身体の状態が変わってしまったんです。

きっと、自分の気持ちの持ち方が、霊界にいらっしゃるご霊さまのお気持ちまで変えてしまう、ということでしょうか。

 

 「そんな作り話みたいなこと…」と思われるでしょうけど、事実なんだからそのように表現するしかありません。

 

 その後も順調に回復している、とは言われるものの、右手と右足の皮膚感覚はほとんど戻ることがなく、手足を動かすという機能回復の順調さとは裏腹に、不快な痺れというものが加わって来たようでした。

 

 そんな中にあっても、平成26年5月14日に万座温泉で倒れてから約6カ月の治療期間を経て、11月1日に自宅に戻ることができました。

 もちろん、自宅には介護保険の補助金を利用して、浴槽のへりをまたぎ易くした浅目の浴槽に交換しただけでなく、部屋の出入り口を始め廊下や階段、あるいはトイレといったいたるところに手すりを設置しておきました。

 

 それを目にした妻が、溢れんばかりの笑顔をぼくに向けて「これなら安心して暮らせそうです」と再出発に向けての穏やかな表情を見せてくれるだろう、という思いでした。 

 

 毎月のように何人かの患者が退院していきますが、脳卒中の片麻痺が回復しなかったのでしょう、三角巾で腕を吊ったままの人や装具を承着した足を引きずる人、あるいは、車いすに乗ったまま家族の人に押されていく人も決して珍しくありません。

 

 そんな中での妻はと言うと、ぼくが5月16日に群馬医大から自宅に一時帰宅したその夜に見た夢に出てきた、あの金色の布で作られた籠巾着(かごきんちゃく)を手にしてさっそうと歩いていた妻の姿を彷彿とさせるもので、その時から抱いていた「妻は再び歩けるようになるよ」という淡い思いが現実になったのです。