相の谷古墳と乎致ノ命 -27ページ目

ONE PEACE LIVE 一人ひとりの平和への祈りで世界の平和をひとつながりにしよう

世界が平和でなければ我々の幸せもありません。

来る11月7日(日)、京都北花山大峰・阿含の星まつり会場で行われる「第二回オーラの祭典」がWeb限定で生中継されます。

この「第二回オーラの祭典」のWebサイト ONE PEACE LIVE - 平和をつなげるオーラの祭典 - が本日オープンしました。

このWebサイトではこの平和の祭典のコンセプトやスケジュール、そしてアクセサリーツールとして「運命電卓」などもあります。

当日、京都まで行けない方々のためにこのWebサイトから皆様の「願い」を投稿することもできます。

「世界平和」そして皆様の「願い」を込めて一緒に祈りましょう!

奇跡はあなたの祈る心から起こります。


この日、世界中でたくさんの人々と共に「世界平和」を祈ります。

私は今治の皆様と共に「世界平和」と「今治地区の発展」を祈りたいと思います。

今治の皆様、ご参加よろしくお願いします。


一人ひとりの平和への祈りで世界の平和をひとつながりにしよう

イモヤンのライフワークのブログ-OnePeaceLive



四国一伝流 南葉一本斉

「剣禅一如」

昔から剣豪と呼ばれる人たちも、晩年は仏門に入る人たちも多かったようです。

戦で人の命を奪うだけではなく、自分もいつ命を絶たれるかわからない武士の精神というものは現代のような平和な時代の日本人には想像できないことだと思います。

「葉隠」の中の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」は有名な言葉ですが、武士は「いかにして死ぬか」という「死に方」が大事にされたことを表しています。

現代の我々は「いかに生きるか?」その「生き方」が大事であり、その「生き方」に迷っている人が多いと思います。

その「生きる」ということを含めて「老いる」「病む」「死ぬ」という人間の4大苦に悩やみ、その解決の道を求めた方こそが東洋の偉大な哲人であり仏教の開祖・ゴータマ・シッダッタ(釈迦)です。

ゴータマ・シッダッタ(釈迦)のことに関してはまた改めてこのブログでお話ししたいと思います。


ところで、話は変わって今治にもいろいろ自慢できることがあると思いますが、私は今治独自の文化を後世に伝えたいと思っています。

それは、戦国時代末期に南葉一本斉(なんよういっぽんさい)が今治に伝えた「四国一伝流」を現代に復元し、後世に伝えるというものです。

これは私にしかできないことだと思っております。


私が考えているのは格闘技としてではなく、今治藩の武士が励んだ武術を文化として学ぶことです。

たとえば、合気道は手首を掴まれたときに「掴まれた手をどう外し、技をかけるか」というようなことをやると思いますが、これは昔、武士は刀を脇に差していましたので、刀を持つ相手に対して刀を抜く前にその手を掴んで、抜かさないようにすることから始まった技なのです。

ですから日本の古武術というのは、やはり武士の生活(刀を所持していた)とか、文化を抜きにしては語れないものなのです。


前にも書きましたが、私の先祖の一人が今治藩の四国一伝流・柔術指南役でした。

名を「野村伊左右衛門由親(のむらいざえもんよしちか)」といいます。

父方の祖々々母がこの「野村伊左右衛門由親」の娘です。

「別宮さん」の境内に「四国一伝流」の一門が桜井の街道で怪物を退治したという伝説が石碑として残っています。

その石碑に門弟の一人として私の先祖の名前も残っています。(古い石碑なので文字が薄くなっていてよく読めませんが)

当時、今治藩ではかなりの実力のあった武術一門のようです。


実は江戸時代末期に書かれた「四国一伝流」の目録(技のタイトル一覧)と伝書の巻物2巻を数年前に私は手に入れました。

おそらくこの「四国一伝流」の目録や伝書は二度と手に入らないものと思っています。

来年、この目録と伝書をもとに、「浅山一伝流」などの古武術を研究しているある有名な先生にご指導していただき、技の復元を目指したいと思っております。

私も若くありませんので、どこまで技を復元できるか少し心配ですが、「四国一伝流」の技の復元が始まりましたら、できればこのブログでその様子をお伝えしていきたいと思っています。


冒頭で言いましたが、なぜ私はこの「四国一伝流」を格闘技としてではなく文化として伝えたいのか?

それは、格闘技は「どちらが強いか?勝った、負けたの勝負の世界」いわゆる”修羅の世界”になるからです。

もちろん、「四国一伝流」の稽古も運動や護身術としても役に立つとは思いますが、私はどちらかというとこの技の習得を通して昔の日本のサムライの心を感じてほしいと思っています。

空手や格闘技そして古武術等に興味のある今治の若い人たち、さまざまな流派を越えて今治発の独自の文化を守り、伝えていきまましょう。

今治の若い人たちと交流できる日を今から楽しみにしております。


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              四国一伝流南葉一本斉


今から約四百年程前の永禄元亀年間(1515~1573)の昔に、四国一伝流の元祖と言われた南葉一本斉が、修行のため諸国を遍歴中、この地方に来ていて、清水地区で瘧(隔日または毎日一定時間に寒熱を発する病気でマラリヤのようなもの)に罹り、五十嵐の地で亡くなりました。

四国一伝流というのは、棒、腰の廻り太刀、薙刀等の体術の流儀で「武術流祖録後輯流名」と言う有名な武術の本にもその名前が出ており、全国的にもかなり知られていたようです。

一本斉は、奥州伊達郡(この場合今の福島県伊達郡)の生まれで元奥羽西国の主、鎮守府将軍藤原秀衡朝臣の子孫であると言う以外に詳しい経歴はわかりませんが、四国一伝流の名を全国にとどろかせた俗に言う豪傑であったようです。

多くの門人は、一本斉の死を痛み、墳墓を建てて懇ごろに弔いました。ところが、長い年月の間に墳墓は苔むし、荒れ放題になってしまいました。それを寛政八年(1796)に資金を出しあい、新しい立派な石碑を建ててお祭りしました。

今、この石碑は五十嵐にありますが、石碑の全面には『南葉一本斉北窗乱関之墓』とあり、側面、背面に、一本斉の略歴や建碑の由来が簡単に銘記されています。近郷近在の人々は瘧(隔日または一定時間に発熱する病)の神様として一本斉を崇め奉り、参詣者も多いそうです。


今から約五十年程前(原文のママ)の大正九年(1920)に、四国一伝斉参百五拾年祭記念として、五十嵐の浄寂寺(臨済宗)の境内で、この四国一伝流の流れをくむ者が、浅山一伝流や天真用流の人々と合同(檜垣助一五段等七十余名)で、くさりがま、棒、腰の廻り太刀、剣、薙刀、捕縛等を用いて妙技をふるったということで、今も浄寂寺にその時の奉納額が掲げられています。           所在地:今治市五十嵐


今治地方の伝説集 41話 四国一伝流南葉一本斉 (今治商工会議所発行) より



私が今ここでできる精一杯のこと