オチノミコトと相の谷古墳
小さい頃は夏になると大浜の浜辺で毎日のように泳いでいました。
小学校2年までは大浜に住んでいましたが、その後、祖父のタオル工場があった別宮町に引っ越しました。
校区は別宮小学校でしたが、転校するのがいやだったのでそのまま近見小学校に通いました。
その後、近見中学校、今治北高等学校と進みましたが、ものごころついてから高校を卒業するまでの、記憶のほとんどの部分が美しい海と山が見える近見地区と来島海峡周辺の思い出です。
東京の大学に進学し池袋に住みましたが、4年間住んでみて思ったことは、いつも近くに海が見える生活でないと息苦しいということでした。
(写真は「相の谷古墳」の全貌を近見山頂から撮影したものです)
大学卒業後、26歳の頃に今治に帰ってきましたが、やはり今治は住むにはとてもいいところだと思いました。
ちょうどその頃、小さい頃よく遊んでいた大浜八幡神社の宮司さんから次のような事を聞きました。
「大浜八幡神社の祭神はあなたにも関係があるんよ。オチノミコトというんよ。」
オチノミコト?初めて聞く神様の名前でした。
恥ずかしながら大人になるまで地元の神様の名前を知りませんでした。
単に「八幡さん」としか言ってなかったもので。
それから、「オチノミコト」について知りたいと思うようになり、宮司さんにも詳しいお話を聞いたりしました。
そして、大雑把ですが次のような事がわかりました。
1.オチノミコトは大阪の難波(難波京?)から当時の天皇の命により幼少の頃に赴任してきたこと。
2.東予地方一帯を開拓した方であり、民衆からも尊敬されたこの地方の王であったこと。(昔は大浜ではなく王浜だった)
3.大浜八幡神社近くに住居跡があったといわれ、そこが越智(河野)氏族発祥の地になったこと。
4.大山祇神社のご神木の楠の木を植え、大三島に大山祇の神を初めて祭った方であること。
5.裏山一帯には愛媛県最大の古墳・相の谷古墳があること。
6.オチノミコトはニギハヤヒノミコトから数えて10代目であること。
7.オチノミコトの主な子孫は大山祇神社・越智大祝家を始め、河野家、村上家、矢野家等の豪族であること。
8.子孫の中でも特に有名な方として、石手寺を建てた越智玉澄、元寇で活躍した河野通有、時宗開祖・一遍上人、初代総理大臣・伊藤博文がいること。
9.江戸時代末まで大浜八幡神社の祭りは今治で一番の祭りだったこと。
10.以上のようなことから明らかなことは、オチノミコトは偉大な人物であったということ。
私の推測。(大浜八幡神社の宮司も同意見)
「相の谷1号古墳の主葬者はオチノミコトではないか?」
いずれにしても相の谷古墳は偉大な王の墓であることには間違いないと思います。
これから皆さんとともに、今治市の貴重な文化遺産である相の谷古墳についてもっと深く知り、保護していきたいと思っています。
今治市相の谷1号墳の出土遺物(1) http://www.i-rekihaku.jp/gakublo/date/2007/06/26
今治市相の谷1号墳の出土遺物(2) http://www.i-rekihaku.jp/gakublo/date/2007/06/27
今治地方発展を願って
みなさん、はじめまして。
今日からアメーバブログに仲間入りしました「イモヤン」です。
「イモヤン」は私の幼少時から中学時代までのニックネームで、このブログで使うことにしました。
今回、ここでブログを始めようと思った理由は、これまで長年考えてきたことをいよいよ実現したいという思いからです。
それは私のライフワークだと思っている次の、大きく分けて2つのテーマ、A~Dの4項目です。
1.「今治のルーツを知る」
A.「相の谷古墳」の保護と多くの人に知ってもらうこと
愛媛県で最大最古といわれる「相の谷古墳」を保護し、勉強会を開催して世の中の人にこの古墳の重要性を知ってもらう。そして、もっとこの古墳の学術的な研究も進めてもらい、今治市の貴重な文化財として後世に伝えてほしい。
※「相の谷古墳」は次の「乎致ノ命」の墳墓ではないかという説がある。
B.「乎致ノ命」と大浜八幡神社について理解し、伝統の祭りを再び今治地方一番にすること
江戸時代末までは今治地方最大の祭りと言われた大浜八幡神社の秋祭りとその祭神「乎致ノ命」(オチノミコト)。この東予地方開拓の祖といわれる「乎致ノ命」のことを知るということは、今治に生まれ育った者にとっては自分たちのルーツを知ることでもあります。
今治地方のルーツ・始まりを知るということは、その後の今治の正しい歴史を理解することになり、その正しい歴史の認識の上で「おんまく」等の今治の祭りを再考することが、今治以外から来た人が見たときに感動を与えることができる祭りになると考えます。
この大浜八幡神社の伝統の祭りが再び今治地方一番の祭りに復活した時、今治地方は活気溢れる地域となると思います。なぜなら、昔から日本人は言います。「困った時や、人生で行き詰ったときは先祖のお墓参りをせよ」と。今治地方に住む人々のルーツ・すなわち一番の先祖(氏神ともいう)が.「乎致ノ命」なのです。
2.今治独自の武術の復元と創作
C.「四国一伝流」の復元
戦国末期に今治に伝えられ、後には藩の武技にもなった「四国一伝流」は、奥州伊達郡出身の南葉一本斎によって伝えられました。四国一伝流というのは、棒、腰の廻り太刀、薙刀等の体術の流儀。
大正9年(1920)には、四国一伝流350年祭として、浄寂寺境内で最後の奉納演武が催されましたが、浄寂寺にはその時の奉納額が飾られています。また、別宮町の南光坊(四国八十八所霊場・55番札所)には、四国一伝流の由来を記した碑が残っています。
実は私の先祖の一人が江戸末期の今治藩の「四国一伝流」指南役でした。今から440年前に今治に伝わった独自の武術を復元し、後世に伝えたいのです。
D.「伊予水軍太鼓と伊予水軍流空手」の創作・指導
水軍太鼓は各地で行われていると思いますが、そもそも伊予水軍とは、大三島の大山祇神社を警護した三嶋水軍から始まり、河野水軍、三島村上水軍(因島・能島・来島)、忽那水軍等の伊予の水軍全てをいいます。そこで、伊予に関するすべての水軍を統合した伊予水軍太鼓と伊予水軍流空手を新たに創作したいと思います。太鼓のリズムに合わせて空手の演武を行うというもので、太鼓をたたくだけでも健康にいいと思いますが、それに空手の技を併せて行う、老若男女、誰でも行うことができる健康維持を目的としたものを考えています。伊予水軍の全てを知ることはそのまま、中世の大山祇神社と伊予の歴史を知ることになります。伝説の瀬戸内のジャンヌダルク「鶴姫」も登場することになります。
※空手の立ち方の中に「三戦立ち」(サンチン)というのがありますが、これは船の上で戦うときの安定した立ち方だと言われています。
これからこれらのことに関してこのブログに少しずつ書いてみたいと思います。
よろしくお願いします。
