アトリエえんどうまめ 今季洋の日記 2。

アトリエえんどうまめ 今季洋の日記 2。

アトリエえんどうまめの今季洋のブログ日記です。こちらの日記の以前のバーション1。は、こちらになります。https://plaza.rakuten.co.jp/mokuseiki/

10年間くらい、新月・満月度数のサビアンシンボルにフォーカスしてきて、その時の新月満月のエネルギーの違いを体感しながら文章を書いてきました。

 

その中でも、やはり大きな違いを体感したのは、通常の新月満月と、食の新月満月の違いだったのだけれど。

 

ここ最近の満月は、食でなくても、かなりエネルギーが強いな、と感じていたら、なんと!スーパームーンがずっと続いているのだとか。

 

それについての記事は《こちら》をご覧ください。

 

これを読むと、スーパームーンという言葉の定義は明確ではないので、どの満月をスーパームーンとするのかは、諸説あることがわかりますが、いずれにしても、来年の1月までは、地球に接近した満月になることがわかります。

 

満月のパワーというのは、満月になったその日に発動するのではなくて、満月に向けて徐々に強まって行く、という発動の仕方をします。通常は、新月を過ぎたあたりから徐々に強まって行って、満月になるとピークを迎え、その後は急速に収束して行きます。

 

いつもの満月だと、そのおよそ三日前くらいからパワーが強まるのですが、スーパームーンの場合は、もうすでに満月の一週間前くらいから、強力な満月パワーが発動しているのを感じます。

 

 

次回の満月は、11月05日(水)。

満月のときのエネルギーとしては、満月の太陽度数 (次回の場合は蠍座14度「仕事をしている電話接続士」) のエネルギーが、世界全体を光として照らしている中で、

 

形として現実化して行くのは、満月の月度数 (次回の場合は牡牛座14度「手さぐりしている貝と遊んでいる子どもたち」) ということになります。

 

今回、この牡牛座14度「手さぐりしている貝と遊んでいる子どもたち」が、どのように現象化しているかというと、その一つが、自然界と人間界の境界線ということで、実に、悲しいことに、最近ニュースで頻繁にみられるようになってしまった、熊さんと人間の生存の境界線ということも、これに含まれることになります。

 

熊さんと人間のより良き共存の問題については、さまざまな人たちがさまざまな要因を取り上げていますが、このサビアンシンボルから拾えるキーワードとしては、「手さぐり」「節度」「見きわめ」ということになります。

 

手さぐりしながらも、ちょっど良い境界を探して行くこと。

 

たとえば、海と陸の境界線が海岸ということになりますが、あたかも、寄せては返す波のように、あぁでもないこぅでもないと、手さぐりで「ちょうど良い」を探して行くこと。

 

「一度、頭で考えて決めたから、こう!」という人間側の一方的な境界線を押し付けるのではなくて、刻々と変化して行く状況に合わせて、境界線のありようを仕切り直しして行くこと。

 

そんな姿勢が求められる満月になるかと思われます。

 

 

5月から逆行していた水瓶座の冥王星が、10月14日(火)から順行に戻りましたので、新しい未来に向かっての動きが、再び流れ始めるものと思われます。

 

このYouTubeなども、そのようなエネルギーに満ちたものの一つと、感じられました。

 

 

このYouTubeの中には、たくさんの示唆に満ちたお話が盛り込まれていると思いますが、とくに私が共感した部分は、「継続するためのコツ」についてのお話でした。

 

わたし自身、10年間『サビアンアート占星術』を書き続けてきましたが、その体験の中でつかんだコツと、この田中渓さんが言っておられたものが同じものだったので、「やっぱりね。」と思いました。

 

10年間、ほぼ毎日『サビアンアート占星術』に向かい合って行く中で、やりたくない時というのは、どうしても訪れます。そのやりたくないと感じている自分と、どう折り合いを付けて行くのか?

 

わたしが見つけた方法は、「やりたくないよね、面倒くさいよね」と、その自分の気持ちをすなおに認めたうえで、「それじゃぁ、書かなくても良いから、昨日書いたところだけ、読んでみよう」と、自分自身をナビゲートする方法でした。

 

この、シンプルに「とにかく動き出す」方法をとると、昨日書いた文章を読んでいるうちに、どうしても書き直したいちょっとした言葉が出てきたり、先に書き続けたい思いができたりするので、後はスムーズに、その流れに乗って行けばOKなのです。

 

冥王星が滞在している水瓶座というのは固定宮なので、どうしても「継続のテーマ」というのは、出てくるものと思われます。

 

水瓶座の01度から30度までのサビアンシンボルの展開の中にも、たとえば、この「やりたくないと思うような」本音の自分との折り合いと言いますか、統合して行くにはどうしたら良いのか?というテーマが盛り込まれています。

 

それらの本音の自分を押し殺すでもなく、良い関係を持つことが、水瓶座の時代を生きる時の一つのポイントになると感じました。

欧米の精神世界に触れると、

頭のずっと上のほうに

理想世界(天国)があることになります。

 

そこに、

自身の中心の柱をずっと伸ばして行って、

接続すること、

これが欧米精神世界の

大切なポイントになります。

 

けれど、

日本に生きてきた私にとっては、

分け御霊が、

まるで球形のキャンドルのように

胸の中心にともっているイメージのほうがしっくりくるので、

 

なかなかこの二つの統合が取れずにいたのですが、

 

いやいや

この二つは

何の矛盾も無く両立するのだと、

最近は思うようになりました。

 

球形キャンドルの中心に

天上天下を結ぶ柱が

通っているだけのことだったことに、

気が付くことができたのです。

 

野口整体のほうでは、

たしか「脊髄行気」という名前の

背骨に息を通すという基礎的なワークがあります。

 

また「合掌行気」という

胸の前で両手を合わせる基本的なワークもあります。

 

この「脊髄行気」と「合掌行気」は、

一つずつやるのが基礎になりますが、

この両方を同時に行うことも、

可能であるわけなのです。

 

これなども、

この東西のワールドの精神世界の構造を、

統合して理解するための

一つのボディワークと言っても

良いのかも知れません。

 

手を合わせて合掌するのは、

まさに胸の中心部分で

そこに分け御霊の灯火がともり、

 

そして、そこに、背骨で息をするという

上下の動きが加わります。

 

 

 

 

最近はほとんどやっていないのですが、ずいぶんと長い間、キャンドル作りをしていました。

 

キャンドル作りと言っても、最初から蝋を溶かしてキャンドルを作るわけではなくて、市販の球形のキャンドルに、蜜ろう粘土を貼って色や模様を加えて行くというもの。

 

だいたいこれをやっていたのが、P太陽が蠍座にある間だったように思えます。

 

この時期は、深い心理的な世界に生きていたので、それをはじく(浄化する)意味で、日常の中にキャンドルの炎がある時間を、欲していたようなところがあったと思います。

 

でも今は、そういった意味での炎による浄化を欲しなくなっているので、今までに作った膨大な球形キャンドルだけが手元に残ってしまい、これをどうしたものかな、と。

 

「これをどうしたものかな?」と問いを立てて、しばらくするうちに、めちゃくちゃ大切な「核」の部分を思い出すことができました。いやぁ、すっかり忘れていたよ。こんな大切なことを、忘れるんだなぁ、とその事にもビツクリ。

 

 

その説明をするためにも、私が作っていたキャンドルの説明が、まず必要になります。(キャンドルの写真が、なぜか横向きにしかアップできなくて💦)。

 

 

私が作っていたのは、たとえばこのようなものなのですが、これに火を付けると、次のようになります。

 

 

そして、さらにキャンドルを燃やし続けると、次のようになります。

 

 

つまり、蝋が溶けて、火がついている芯の部分がキャンドルの内側に、下がって行くわけなのですが、このような内側が空っぽになったキャンドルをたくさん作って、その中に小さな固形キャンドルを入れて火をともしていました。

 

つまり、表面に色や形を貼り加えた球形キャンドルの中身の蝋を燃やして、空っぽのキャンドルホルダーのようなものを、せっせと作っていたのです。

 

 

なぜそういうものを作っていたのか?

このことの核になる部分をすっかり忘れていたのですが、それは、私はここに「たましい」を見ていたのだ、ということになります。

 

こうしてできたキャンドルホルダーは、「たましい」のように思えたのです。

 

そして、生きているということは、このキャンドルホルダーに火がともることになります。

 

この場合の「火」とは、「霊(れい)」ということができるでしょう。

 

よく「霊魂」という言葉の、「霊」と「魂」とはどこが違うのか?というようなことが語られたりしますが、私の場合は、このキャンドルホルダーと火のような関係と思えていたのでした。

 

そして、この「霊」でもある「火」は、日本的な言い方での「分け御霊」であって、それは身体対応でいうとすると、胸の奥深くに灯っているように感じられているのでした。

 

 

明日(2024.10.17)の満月は、

スーパームーンだそうですが

 

地球に、今年一番接近している満月ということで

おそらく、そこに、月の影響力の強さを見ることができるのでしょう。

 

具体的に、現象化するのは月のほうなので、

今回の満月は

月度数である、牡羊座25度「二重の約束」の

影響力をみることになります。

 

私の場合は、

ネイタルの天体などは

直接的にこの度数とアスペクトは取っていないのですが、

 

どうしてこんなに!というくらい、

「二重」に重なる体験を

しています。

 

おなじ名前が重なり

同じ仕事が重なり

木星どうしが、同じ度数で重なり

七赤金星が重なり

サビアンシンボルと土地の形がみごとに重なり

 

と、書いても

なんのこっちゃと

思われるかもしれませんが、

 

これは

なかなか

表現することが

難しい。。。

 

牡羊座など

活動宮の25度では

「神秘な世界が日常に持ち込まれる」と

いわれていますが

 

ほんまやな

と思いました。

 

おもしろいですね。

 

 

 

 

 

絵を描いているとき、

といっても、今回は正確には、ぬり絵をしているときですが、

ハッと止まってしまうことがあります。

 

今回の印象は

ひとことで

「キャワイイ!」でした。

 

 

何かが出現してしまっている。

 

けれど、明らかに途中なので

ここで終わることはできない。

 

そんな、早期に

完成度の高さが出現することがあって。

 

困った。

さすがにここで終わりにすることはできないし。

 

それで、

こうして

 

それを写真にとって

ブログにアップして、

 

続きを描くことにしました。

 

六角形だし

ちょっと雪の結晶みたい。

 

すごく、きれい。

私が本格的に西洋占星術を学び始めたのが2003年だったから、今から20年前になります。

 

その始めたばかりの頃は、こんなにも長い間、自分がサビアンシンボルにこだわり続けるとは、思っても居ませんでした。

 

でも、思い起こせば、最初の頃から「サビアン」「サビアン」って言っていた。

某研究所の門を初めて叩いたのも、サビアンシンボルのお絵描き講座だった、くらい最初からサビアンシンボルだったのです。

 

なんで、自分がこんなにも長い間サビアンシンボルとともに人生を歩んできたのか?なんて、普段はあんまり考えないから、自分でも分からなかったのだけれど、さっき、はっ!と気が付いたことがありました。

 

それは、サビアンシンボルというものが、映像的つまり右脳的である、ということなのです。

サビアンシンボルは、良く「詩文的な文章」といわれています。

ジョーンズのサビアンシンボルは、パチリと写真で切り取ったような文章で、それに対してルディアのサビアンシンボルは、動画で撮影したような動きがあるものが多いのですが、いずれにしても、詩文=右脳が刺激されると言っても良いのかも知れません。

 

右脳は、感性や潜在意識に直結している脳と言われていますが、それだけにサビアンシンボルが持っている、「ストン」と深いところにアクセスするパワーはハンパなくて、私はそれが好きなのだ、ということがわかったような気がしました。

 

それは、左脳を経由してロジカルに踏み込んで行くよりも、ずっと手っ取り早くてストレートなアクセス方法ということができます。

 

そんなサビアンシンボルを使ってアクセスする先は、どこかと言いますと、

 

サビアンシンボルが指し示しているワールドは、ちょっとアカシックな世界ということもできて、そこにアクセスすると、神話的な生命力に満ちた不思議なエネルギーが、パワーチャージされて行くので、いつまでもやっていても楽しいし飽きないのだと、わかりました。

ゆうべ見た、このYouTube、超良かった!

 

何がどうよかったと言葉で表現するのが難しいけれど、魂レベルの私は、この世界がとっても懐かしいし、とってもよく知っているような気がしています。

 

わたしの、ふるさと、な感じ。

いまのところ、それしか言葉にならない、、、

けど、とても大切なことを伝えてくれていると感じるので、ここにアップしておきたいと思います。

 

そういえば、ヤタガラスも出できた。

太古の環太平洋の精神世界と深い関わりを持っているよね、ヤタガラス。

 

 

 

 

 

前回の、こちらのブログで紹介しましたYouTubeに出でおられた吉野信子さんが、とても興味深いことを書いておられるので、それを今回はご紹介したいと思います。

 

 

それは「神とは遮(さえぎ)るもの」である、という考え方です。

 

私などは、もし「神さまってどんな感じだと思う?」と聞かれたら、なんとなく、「そうね~、愛にあふれていて、光り輝いているイメージかな」と答えるように思うのです。

 

「神とは遮(さえぎ)るもの」であるという考え方には、ビックリしましたが、吉野信子さんの『カタカムナ 数霊の超叡智』という著書を読むと、なるほど、と思いました。

 

そこには、おおよそ、次のようなことが書かれています。

 

遮(さえぎ)るものとはエネルギーを遮り、取り込む「形」のことで、つまり「身体や物質」が神であるという意味。

神は永遠なるものではなく、滅びゆく肉体の中にこそ神が居る。

滅びゆく肉体があるということが、永遠なる今を感じるために必要。

滅びゆく肉体を神と見た場合、肉体がこの「永遠なる今」を滅びながら生き行くことが、神を顕現することになる。

「中今」「今に生きる」という思想は、滅びゆく命の中でこそ、感じられる尊さ、醍醐味なのではないか。

 

 

 

 

 

以前に見た、『憑神』という映画の中の

「神は永遠、人は刹那。永遠は刹那に恋をする」というような言葉に感服して、長い間この言葉は私の中で生き続けていたのですが、

 

この吉野信子さんのカタカムナの「神とは遮(さえぎ)るもの」という考えも、とても興味深いと思いました。

遮(さえぎ)るからこそ、違いが生まれ、個が生まれる。

だから、逆に神(ワンネス)に回帰するには、遮(さえぎ)るものを弱めたり、薄めたりして行けばよいということになろうかと思われます。

 

 

それにしても、このカタカムナの言霊の世界は、

古代の人々が使っていた言葉なのだろうな~と、思いますね。

 

たしかバベルの塔が壊された時に、それまで人々は世界共通の言葉を使っていたけれど、神がそれを分断された、という神話がありますが、

カタカムナの言葉は、その分断以前の、言霊による世界共通の言語なのだろうと感じます。

 

その頃にフォーカスしてみると、古代の海洋民族が帆船を巧みに操って、地球上をのびのびと移動しているイメージが浮かんできます。

 

その頃の人はみんな、河合隼雄さん曰くの「中空構造」をした人たちであったろうことは、簡単に想像することができますね。

 

みろく(369)の世の到来のおはなしは、最近のYouTubeの世界などでは、さまざまな人たちによって語られていますが、ゆうべ見たこちらのYouTubeの中にも、それが出てきていました。

 

 

 

 

 

 

 

この中でも、私が印象的だったのは、薩摩隼人の盾に描かれた、二つの渦巻きの文様のお話の部分。

 

と、いいますのも、以前私も、前に開催していた『十牛図お絵描き講座』の中で、6と9の関係性にとても興味を持っていたからです。

 

そのことについて書いてある、わたしの過去ブログは、こちらです。

 

 

 

 

それにしても、どうして私はお絵描き講座を、今、現在進行形でやってないんだっけ?

と、振り返ってみました。なんだか、浦島太郎の気分。

 

そういえば、コロナになって、リアル講座の開催が難しくなって、オンラインにはいちおう切り替えて、その頃、開催していたタロットのお絵描き講座は完了したのだったけど、そこで、なんとなく尻つぼみになって、休止したままになっていたのだなぁ。

 

その理由として一番大きいのは、本づくりのほうに集中しているからなんだけど、

 

それまで、頑張ってきたので(ひょっとしたら、頑張り過ぎている状態が続いていたので)、エネルギー切れを起こしていたのかも知れません💦

 

でも、その空白のお休み期間に、いろいろな切り替えが起きて、最近のわたしは、自力では頑張らない方向にシフトしているので、おおいなるものにお任せしてみようと思います。

 

私が、お絵描き講座を再開した方が良ければ、そういう流れが起きて行くことでしょう。

流れが起きているのがわかったら、お絵描き講座を再開して行くかもしれません。

 

わぁっ!どうなって行くのか、楽しみです💕

 

 

それにしても、みろくは菩薩ですが、「菩薩行」というのは、すごいことだよ。

 

決して、自分だけが解脱すればよいとは考えず、全ての衆生が解脱するまで、自分も解脱しないで、何度でも転生すると誓を立てるということが、「菩薩行」らしいよ。

 

みんなと共に光明を得ることを目指し、一人残らず平等に光明を得るまでみんなと共にある、このことこそ、菩薩行の根底に流れている精神、という人も居ます。

 

ほんと、ありがたいことだし、すごいことです。

そして、「光明を得たい!」と願う心を起こした人は、みな、もうすでに菩薩であるだそうです。

 

まぁ、その人たちが全員、「全ての衆生が解脱するまで、自分も解脱しないで、何度でも転生すると誓を立て」ているかは、わかりませんが、


私は身の回りに、「みんなと共に光明を得ることを目指し」みんなと共に歩んでいる人たちを、複数知っています、ということはできます。