前回の、こちらのブログで紹介しましたYouTubeに出でおられた吉野信子さんが、とても興味深いことを書いておられるので、それを今回はご紹介したいと思います。
それは「神とは遮(さえぎ)るもの」である、という考え方です。
私などは、もし「神さまってどんな感じだと思う?」と聞かれたら、なんとなく、「そうね~、愛にあふれていて、光り輝いているイメージかな」と答えるように思うのです。
「神とは遮(さえぎ)るもの」であるという考え方には、ビックリしましたが、吉野信子さんの『カタカムナ 数霊の超叡智』という著書を読むと、なるほど、と思いました。
そこには、おおよそ、次のようなことが書かれています。
遮(さえぎ)るものとはエネルギーを遮り、取り込む「形」のことで、つまり「身体や物質」が神であるという意味。
神は永遠なるものではなく、滅びゆく肉体の中にこそ神が居る。
滅びゆく肉体があるということが、永遠なる今を感じるために必要。
滅びゆく肉体を神と見た場合、肉体がこの「永遠なる今」を滅びながら生き行くことが、神を顕現することになる。
「中今」「今に生きる」という思想は、滅びゆく命の中でこそ、感じられる尊さ、醍醐味なのではないか。
以前に見た、『憑神』という映画の中の
「神は永遠、人は刹那。永遠は刹那に恋をする」というような言葉に感服して、長い間この言葉は私の中で生き続けていたのですが、
この吉野信子さんのカタカムナの「神とは遮(さえぎ)るもの」という考えも、とても興味深いと思いました。
遮(さえぎ)るからこそ、違いが生まれ、個が生まれる。
だから、逆に神(ワンネス)に回帰するには、遮(さえぎ)るものを弱めたり、薄めたりして行けばよいということになろうかと思われます。
*
それにしても、このカタカムナの言霊の世界は、
古代の人々が使っていた言葉なのだろうな~と、思いますね。
たしかバベルの塔が壊された時に、それまで人々は世界共通の言葉を使っていたけれど、神がそれを分断された、という神話がありますが、
カタカムナの言葉は、その分断以前の、言霊による世界共通の言語なのだろうと感じます。
その頃にフォーカスしてみると、古代の海洋民族が帆船を巧みに操って、地球上をのびのびと移動しているイメージが浮かんできます。
その頃の人はみんな、河合隼雄さん曰くの「中空構造」をした人たちであったろうことは、簡単に想像することができますね。








