Sun 080803 赤塚不二夫のこと ラヴェンナ紀行2 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 080803 赤塚不二夫のこと ラヴェンナ紀行2

 「赤塚不二夫、死去」のニュースを聞いて「ああそうか、夏の人だったな」と思った。ニャゴロワも後ろを向いて悲しそうである。大きな雲の姿になって悲しみを表現。「今日は曇り」の天気予報のようである。赤塚不二夫の死を悼み、なぜ彼が私にとって「夏の人だった」のか、それを書いておきたい。

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 私は子供時代にあまりマンガを読まなかった。私の世代には珍しいことなのだろうが、「天才バカボン」も「もーれつア太郎」も読んだことがない。だから赤塚不二夫について私が唯一知っているのは「おそ松くん」である。小学生時代の私の愛読書は小学館の図鑑シリーズ。「植物の図鑑」「採集と標本の図鑑」「気象と天文の図鑑」「理科実験の図鑑」「日本歴史の図鑑」「地球の図鑑」「世界歴史の図鑑」「日本地理の図鑑」、そういう写真と図表と絵がふんだんに掲載された図鑑を来る日も来る日も眺め、いつの間にかみんな暗記してしまい、大学受験までは図鑑の知識でほとんど済ませてしまったぐらいである。それを「暗い」と一言でまとめてしまうなら、それで構わない。放課後から日が暮れるまで、ほぼ決まった7~8人の仲間と空き地(秋田市土崎の料亭旅館「池鯉亭」の駐車場だった)で野球に興じる以外は、家で図鑑を眺めて過ごす小学生時代は、確かに暗かったかもしれない。「サンデー」「マガジン」「ジャンプ」に夢中になることはついに一度もなかったし、私にとっては憧れの対象に近いものだった。
 

 なぜそういうふうになったのかといえば、「サンデー」も「マガジン」も、買ってもらえなかったからである。貧乏だったのではなくて、要するに買ってもらえなかった。そういうものを欲しがる元気な子供ではなかったし、小遣いを貯めて買うという積極性もなかった。ひたすら、図鑑。まあ、そういう子供がひとりぐらいいても悪くはないだろう。
 

 だから「サンデー」「マガジン」の類いを手にするのは、夏休みに父親の盆帰りについて行く時ぐらい。父の実家は、山形県の酒田から「陸羽西線」のディーゼルカーで30分ほど。最上川を遡った庄内平野の奥の村の駅前にあった。酒田、南酒田、砂越、余目、南野、狩川、清川。途中の駅名をしっかり記憶しているような図鑑好きの小学生。当時、冷房のないローカル線の天井では、扇風機が懸命に空気をかき回していて、真夏の山、真夏の河、揺れる稲穂、かかし、車窓からそういうものを眺めながら、村に入っていくのだった。
 

 そういうときにだけ、おそらく駅の売店で、父から「サンデー」「マガジン」のようなものを買い与えられた。そういう子供らしいものをまったく読まない息子を、父親として苦々しく思っていたに違いないが、だからこそ赤塚不二夫は私にとって「真夏の人だった」のである。1冊買ってもらえば、帰りの汽車を降りるまで繰り返し繰り返し何度でも読み返す。だから必ず暗記してしまう。「おそ松くん」の数回分を私は今でも暗記しているが、それはおそらくそういう夏休みに読んだ「おそ松くん」である。
 

 山形には秋にも連れていってもらった。どういう事情だったのか、秋に連れて行かれるのは内陸部の天童市。小児ぜんそくの発作が出る時期で、ブドウ、ナシ、クリの季節になると今でも何だか息苦しい気分になるが、天童やぜんそくとも赤塚不二夫は結びついている。やはり旅行中にマンガ雑誌を買ってもらったのだろう。パ・リーグで阪急ブレーブスが優勝した直後のことで、そのマンガ雑誌でも「日本シリーズは巨人が勝つか阪急が勝つか」の特集が組まれていた。ほとんどがV9時代の巨人の優勝を予想する中、「困っちゃうナ」の山本リンダだけが「若さの阪急が4―0で巨人をノックアウトよ」と言っていた。そういうことまで、いまだに記憶しているのだ。「若さの阪急」と言っても、長池、大熊、福本である。ピッチャーは足立、米田、梶本、山田。おお。これは古い。なるほど、当時「チビ太」の年齢だった私も、「イヤミ」の年齢を超え「デカパン」の年齢になったのも、不思議はないダス。ホエホエ。下は、図鑑に夢中だったころの私と、当時40歳ぐらいの父・今井三千雄の写真。昔のアルバムを携帯のカメラで撮影。

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 4月18日、ラヴェンナの探検を続ける。とにかく春のイタリア旅行は、どこに行っても遠足の小中学生との戦いである(080624080701参照)。フェラーラ紀行2(080731)の写真のうち「大聖堂」「ディアマンテ宮殿」を見てほしい。写真下の方にその小中学生集団が写りこんでいる。これが戦いの相手である。日曜日でもない限り、こういう集団が地方小都市を埋め尽くし、こちらはそれをかき分けかき分けやっとのことで前進を続けなければならない。特にラヴェンナはその戦いが激しかった。しかも彼らは帰らない。私がラヴェンナについた段階で14時30分、「サンタポリナーレ・ヌオーヴォ」を出たのはもう16時に近かったが、彼らは一向に家路につく様子がない。「様子がない」どころか、むしろいっそう数とエネルギーを増して、私の前進を阻むのである。


 ダンテの墓、ネオニチアーノ洗礼堂、小中学生に人気のなさそうな場所をあえて選択して行動しても、どこもかしこも彼らが先回りしてそこを埋め尽くしている。大人のイタリア人観光客もすっかり呆れ果てて、みんな眉をひそめて苦笑いしている。しかも中世初期に最盛期を迎えたこの地方小都市は、これもまた呆れるほど道が狭くて、その道が言語道断に入り組んでいる。歩いても歩いても同じ場所に出るし、そこにはさっきと同じ小中学生集団がいて、いつまで経っても同じジェラートを舐め回している。
 

 ドゥオモの前で、中年後半のイタリア人女性に「ドゥオモはどこですか」と尋ねられた。ドゥオモの前で「ドゥオモはどこか」と尋ねられるのは、完全に想定外である。だって、ドゥオモはまさに目の前に、厳然と、スックと、誰にとがめられることもなく、しっかりと立っているのだ。たとえ後期中齢者であっても、仮にもネイティヴ・イタリア人が、はるばる東洋からやってきた酔っ払いグマに「ドゥオモは目の前だが、しかしドゥオモはどこか」などという難問を突きつけてくるとは予想がつかない。小中学生の集団に取り巻かれて、中毒でも起こしたに違いない。「ドゥオモはここだ」と答えると、「確かにそうだ、しかし、ドゥオモは他にもある。そのドゥオモはどこか」と、さらなる難問が突きつけられた。ほお。ラヴェンナのドゥオモは、きっと他にもあるのだ。
 

 しかし、他にいくらでもネイティブイタリアンがウロツイているのに、そこまで混みいった情報をなぜ私に求めたのだろう。私が「一見頼りになる」のは自分でも分かっている。北海道網走市の駅前でいきなり「刑務所に行きたいが、どうすればいいのか」と尋ねられたこともある。思わず「犯罪を犯すしかありませんね」と答えそうになるような質問である。岩手県盛岡市のデパートでいきなりタオルケットを押し付けられ「これはタオルケットですか」と聞かれたこともある。「そうでしょうねえ」と答えたら、その中年女性に「なによ、その態度。」と怒られた。店員さんと間違えられたのだ。宮城県仙台市の書店で小学生の女の子に「この本なんですけど、ありますか」とメモを手渡され、一緒に探したこともある。埼玉県大宮の駅コンコースで階段を指差され「これを降りたら、下ですか?」という世にもシュールな質問をされたこともある。そりゃ、降りたら下だろうが、「はい、降りれば下です」と自信をもって答えてあげた。その直後、別の女性が「カワエツに行くには、川越線に乗ればいいですか?」と来た。カワゴエセンは読めても、地名の川越はカワエツに見えたのだ。こういろいろ連続すると、赤塚不二夫のギャグの世界に迷い込んだようなものである。

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 さすがの私も疲れ果て、フェラーラでのマック・ショック(080731参照)も忘れ果てた。この際、どれほど混雑していても、ラヴェンナのハイライトであるサン・ヴィターレ教会(写真上)とガッラ・プラチディアの霊廟(写真下)を一気に攻めることに決めた。詳細は明日のブログで。とりあえず写真だけ掲載しておく。

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1E(Cd) Barenboim:BEETHOVEN/PIANO SONATAS 1/5
2E(Cd) Barenboim:BEETHOVEN/PIANO SONATAS 2/5
3E(Cd) Barenboim:BEETHOVEN/PIANO SONATAS 3/5
4E(Cd) Barenboim:BEETHOVEN/PIANO SONATAS 4/5
5E(Cd) Barenboim:BEETHOVEN/PIANO SONATAS 5/5
8D(DvMv) SPIDER-MAN 2
11D(DvMv) HAVOC
total m34 y800 d800