Thu 080731 合宿から帰って フェラーラ紀行2 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 080731 合宿から帰って フェラーラ紀行2

 講演会旅行で10日、河口湖合宿で10日、ほぼ連続で20日間も家を離れていても、ネコたちはキチンと私を記憶している。

 ニャゴロワどんはせっかく私が広げた新聞の上にどっかと腰を下ろし「おや、つきのわさん。また旅行にでも出かけてたんですか。また役に立たないお土産でも買ってきましたか」と言ってそっぽを向いている。

 ナデシコどんは机から顔を上げて「つきのわどん、ねえ。この人、うるさいんですよねえ。お酒飲んでネコにちょっかい出すのやめてほしんですがねえ」と呟きつつ、迷惑そうに物陰に隠れてしまった。おお、何という態度の悪さ。何という目つきの悪さ。これこそまさにネコの真骨頂である。

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 昨日の徹夜が身体にこたえていて、何をする気にもならない。帰ったらすぐに参考書の原稿執筆を再開しようと意気込んでいたが、とてもその気力が湧いてこない。気がつけば私ももう相当な年齢である。無理はきかないのだ。

 

 18歳の生徒たちと一緒にいる時は、彼ら彼女らからエネルギーをもらっているというか、要するに生徒たちの元気のよさに引きずられてカラ元気も出ていたが、一人になった途端に10日間の重労働の重みが肉体にも脳にも如実に感じられる。これはどうやら、完全復活には丸2日か3日はかかりそうである。

 今日の参考書執筆は潔くあきらめて、ひたすら睡眠をとることにする。午前10時まで眠って、東北沢の床屋さんに行って(Wed 080611参照)ロビンソン・クルーソー並みにボウボウに伸びた髪とヒゲを6mmに短く揃えてもらって、それで気持ちよくなるとまた眠くなり午後2時から6時まで再び睡眠である。

 夜は少しだけ日本酒を飲んで(クマさん基準で「少しだけ」)日付がかわるころから朝までまた睡眠。まさに冬眠中のツキノワグマよろしく酒と睡眠に溺れて、講演旅行と合宿の疲労を癒した一日だった。

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 4月18日、エステンセ城からフェラーラ探検を開始。ちょっとイタリア語をかじった時にはPalazzo degli Estensi(エステ家宮殿)と習ったのだが、ガイドブックで見るとどれもこれも必ず頑固にCastello Estense(エステ家の城)になっている。確かに、周囲に堀を巡らした風情、跳ね橋、銃眼などは「城」の雰囲気である。

 一方、とても外敵と戦えそうにない建物の規模、赤いレンガの優美さ、大聖堂と向かい合い完全に周囲の街と一体化した様子などは、「宮殿」の雰囲気。実際には戦いに使われたことはなくて、地方貴族の恋愛と陰謀と権力争いの舞台となるのがほとんどだった歴史を考えれば、「宮殿」という呼び方に軍配が上がるように思われる。

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 今では完全に大御所になってしまった塩野七生がメジャーになったのは、私が大学生になったかならないかの頃で、中公文庫で出たばかりの「ルネサンスの女たち」「神の代理人」「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷(これは新潮文庫)」など、松戸の木造アパート「松和荘」から早稲田までの長い通学電車の中で楽しく読み進めたのを覚えている。

 フェラーラは、塩野七生がまだルネサンスの作家だった頃(古代ローマの作家になってからの塩野七生より遥かに魅力的だったと思うのだが)の登場人物が最も花やかに活躍する舞台の一つと言っていい。エステ家のイザベラ・デステとアルフォンソ・デステ。法王アレッサンドロ6世とサヴォナローラの対決。法王の娘ルクレツィア・ボルジア。ニッコロ3世妃と継子の恋と監禁・処刑(これについては「愛の年代記」新潮文庫)。ルネサンスのまっただ中で渦巻く権謀術数について、塩野七生の著書を楽しんだのはもう20年以上昔、まだ「バブル」という言葉さえ誰も知らなかった時代、遥か彼方のことである。

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 そういう歴史の舞台となった真っ赤なレンガの城が、いま目の前にある。城の前ではサヴォナローラの像が両腕を振りかざし、強烈な視線で群衆を見下ろし、今もなお法王とその側近の腐敗を糾弾し続けている(写真上)。

 巡らされた堀には(おそらく)500年前と変わらない緑色の水が静かに揺れている。宮殿のほぼ正面には大聖堂Cattedrale(写真下)が向かい合っていて、イザベラもアルフォンソもルクレツィアも、事あるごとに目の前の大聖堂に足を運んでいたに違いない。

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 こうまで身近にいろいろ並べられると、ローマやフィレンツェやミラノよりも歴史が生々しく脈打っているのが感じられる。有名な遺跡だらけの大都市よりも、こじんまりした地方小都市の探検の方が感動に満ちているのは、こういう生々しさのせいだろうと思う。

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 上の写真はディアマンティ宮殿。これもエステ家の宮殿である。エステ家については、つい2ヶ月半前に訪れたコモ湖のVilla D’Esteにしてもそうだけれども、その豊かさとセンスの良さに驚かされる。

 この宮殿はダイヤモンドの結晶の形に削られた大理石1万5千個に覆われていて、太陽の角度によって色も輝きも変化するのだという。地方の小都市に過ぎないのに、これほどの豊かさがどこから来るのか、今年5月のマントヴァでいろいろ考えたが(Sun 080615参照)、まさかこの街で育ちマントヴァに嫁いだイザベラ・デステ1人の才能だけに頼ったわけではないだろう。

 フェラーラは、国鉄駅から街の中心を東西に貫くカヴール通りを境に、北がルネサンス時代の町並み、南が中世の町並みなのだそうである。主な名所旧跡を見たあとは、南側の中世の町並みを目的もなしに歩き、幅3mほどの狭い街路が細かく入り組んだ街の風情と、遠くから聞こえてくる観光客の睡魔を誘うようなざわめきを楽しんだ。下の写真は、「中世の町並み」。

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 ただし、ここからちょっとしたピンチに陥ったことを記録しておかなければならない。イタリアでピンチと言えば、もちろんトイレ関係である。「ダイエットのために朝食をしっかり」という方針は間違っていないと思うのだが、さすがに食べ過ぎた。

 得体の知れないいろいろなチーズ・ハム・温めて何日目かであろうタマゴ・同じくベーコン・サーモン・大量のパン・おそらく何日もかき混ぜているジュース3種類・リンゴのデザート。悪くなってはいないにしても、何かが私の体質に合わなかったのである。

 急な腹痛に襲われた日本人が、その始末におえない腹痛の元を即座に処理するのに適切な場所は、イタリア中世の街には存在しない。大急ぎで大聖堂とエステ家の宮殿の方へ。事態がこれほど急激に変化するとは、誰も予測していなかった。

 あの辺にマクドナルドハンバーガーの看板があり、マックにたどり着きさえすれば「腹痛の元」の処分は実に簡単なのである。センス抜群のイザベラだって、可憐さこの上ないルクレツィアだって、こういう事態の急変に脂汗を流したことはきっとあるのだ。神聖な大聖堂脇のマックに駆け込みつつ、まあ、そういう言い訳をしてまさに危機一髪で大惨事を免れた。

 フランス語では「安心の小部屋」というらしいが、遠足の中学生(Tue 080624参照)で溢れかえったマックの2階のその小部屋はドアのカギが壊れていて、ずっとドアを力一杯抑えていなければならなかった。それでも大量に流れ落ちる汗を拭い、大きくため息をつき、危機を脱したことを実感した。写真は、危機を脱した直後に見たフェラーラ大聖堂側面の、新鮮な風景。

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1E(Rc) Solti & Chicago:BRUCKNER/SYMPHONY No.6
2E(Rc) Muti & Philadelphia:PROKOFIEV/ROMEO AND JULIET
3E(Cd) Incognito:POSITIVITY
4E(Cd) Larry Carlton:FINGERPRINTS
5E(Rc) Walter & Columbia:HAYDN/SYMPHONY No.88 & 100
6E(Rc) Collegium Aureum:HAYDN/SYMPHONY No.94 & 103 
7E(Rc) Solti & London:HAYDN/SYMPHONY No.101 & 96
10D(DvMv) MINORITY REPORT
13D(DvMv) GREAT EXPECTATIONS

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