Tue 080624 イタリアの小中学生集団 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 080624 イタリアの小中学生集団

 ネコでもイヌでも、いつも人と一緒にいる動物というものは、一緒にいる人間の気分なりやる気なりを、とても素直にとても正確になぞるものである。私に覇気がなければニャゴロワにも覇気がないし、私がグッタリしていればナデシコも平らになってつぶれている。
 

 昨日今日の2日間の私は職場と家を往復しただけで、講演会もなければ、遠い過去の生徒との感動的な再会もなし。旨い寿司屋にも行かなかったし、旨くないビアガーデンにも入らなかった。まさに平凡で健康で、余りにも普通すぎる日々。それがまずニャゴロワに伝染し、武道の鍛錬も盆踊りの練習も何だか面倒になって、その中間の中途半端な姿勢のまま、気がつけば睡魔の虜である。

 

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 賢いネコのはずのナデシコも、久しぶりの晴天なのにカラス空襲隊も襲ってこないから、ネコカキの練習にも熱が入らない。いつものように右手を前に出して、それを枕にして、昼前には熟睡してしまった。

 

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 午後から、東進・吉祥寺1号館で授業収録90分×2本。今日も「高1特別招待講習」の2本である。今日のテーマは「前置詞」など。ますます調子が上がっていて、このあたりが、こう言っては悪いけれども、ニャゴロワ&ナデシコなんかと一緒にしてもらっては困る、私のたいへん偉いところなのである。


 ニャゴロワがいくら頑張っても、私の足もとにも及ばないのだ。出来ることと言えば、誰も頼んでいないのに朝4時に起きて、まずテーブルの上のものを全部落として、しっかり朝食を食べて、焦って食べたせいでそれをすぐに全部吐いて、吐いたことに自分で驚いて、驚いたから猛ダッシュして、壁の前で急ブレーキをかけて、摩擦で肉球をヤケドしそうになって、その肉球をベロベロなめて、ツメを研いで、もう1回ダッシュして、何してるんだか自分でも飽き飽きして、4時15分にはまた眠る程度のことである。私なんか「前置詞」「仮定法」「関係詞」である。すごいねえ。ホントに、すごいねえ。しかも、わかりやすい。誰が何といっても、おお、これ以上わかりやすい説明なんか、出来る人がいるとは思えない。ふふん。


 ナデシコは? ま、いくら賢そうなシマシマの顔をしていても、要するにシマシマの顔に過ぎない。いくらシマシマしていても、シマシマの顔では、前置詞や仮定法や代名詞の説明も出来ない。はっは。せいぜいで、河口湖の土産物屋で売っているキーホルダーみたいなシマシマのしっぽの先を、ウネウネウネウネさせる程度のことである。胴体のシマシマを蛍光色のグラデーションに光らせてみせることさえ出来ない。はりきって真白い手袋を両手にして登場しても、二酸化マンガンを入れたフラスコに過酸化水素水を注いで酸素を発生させる実験もできないのだ。ふっふ、はっは。私の勝ちである。関係詞の説明も完璧、長文読解の解説も、おお、あまりにわかりやすくて、私自身が酔ってしまうほどである。


 というわけで、ネコたちを相手に酒を飲み、ネコたちを相手に勝ちほこり、ネコは呆れて向こうを向き「はいはい。わかりました、わかりましたから、早く部屋に行って参考書の仕事したらいかがですか」と捨て台詞を吐く。そういう一日だった。そういえば、6月の末までに半分仕上げるはずの英文法参考書の原稿、この2日ほど完全に怠けていた。

 

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 5月13日午後の記録に移る。写真はグラツィエ教会正面。グラツィエ教会で「最後の晩餐」を拝んだ感動を引きずりながら、徒歩でDuomo前に移動。よく晴れて、5月半ばのミラノは暑くなった。考えてみれば、ついさっきグラツィエ教会に急ぐときに浴びたような大汗をかき、それが引いたばかりだったのである。それなのに、気がつくとずっと直射日光のあたる道路の左側を歩いていた。右に渡れば、そこはオアシスのような日陰である。しかし、そろそろ疲れがたまっているのだろう。道路をわたればオアシスが待っていると分かっていても、渡る気力が出ない。


 これは反省すべきである。旅行も4日目。そろそろ疲れがたまってくる頃である。オリーブ1瓶にハムとチーズをむさぼり食い、ビールをシコタマ飲んで、そのまま着替えもせずに朝まで気を失っているようではダメなのだ。大学生じゃないんだから、もうちょっと身体に気をつけて、しっかり休まなければいけない。ふむ、ふむ。ふん、ふん。分かりました、分かりました。しかし、たとえ誰に説教されたとしても、そんな優等生のお言葉に耳を傾ける私ではないことは、自分が一番よく知っている。「むさぼり食い」「シコタマ飲み」「気絶のような睡眠」は、旅行の三種の神器。これなしにお上品に旅をして、何が楽しいのかさっぱりわからない。鯨飲馬食→腹をだして気を失って朝まで眠る。これこそ至上の快楽である。


 ミラノのDuomo前は、相変わらずの大混雑である。何より面倒なのが「ミサンガ売り」。これ、そろそろ時代遅れなのではないか。3年ぐらい前なら、ヨーロッパの定番観光地には必ずたくさんのミサンガ売りがいて、特に日本人観光客がその餌食になっていた。私も3年前のパリのサクレ・クール前でミサンガ売りに囲まれて辟易したけれども、そろそろ終わりにしてもいいような気がする。何よりも、売っている人たちの収入がよくなさそうで、それがかわいそうである。あんなにたくさんのミサンガ売りがいて、いつも5人も6人も集団で行動して、見ていてもほとんど売れている様子がない。「治安の面でよくない」とか「ダマされてはいけない」とか「ご用心」とか、そういうことではなくて、移民労働者の生活を少しでもよくするために、もっといろいろ対策を考えた方がいい。写真は、おなじみのミラノDuomo正面。いつまで続くのか、今日もまた、工事中。

 

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 遠足の小学生や修学旅行の中学生に混じって、もう何度目かも分からないDuomoに入りステンドグラスを眺めながら一休みする。イタリアの子供たちは、とにかく遠足や見学の類いが多いらしい。その頻度がどのぐらいなのかは分からないが、とにかくどんな地方都市に行っても、それが平日なら確実に遠足&見学の小中学生集団に囲まれる。小学生でも中学生でも、しつけは最悪である。歓声をあげ、座り込み、列に割り込み、走り回る。そこが霊廟でもバッティステロでも、お構いなしで思う存分暴れ回る。先生方も、彼らをしつけたり叱ったりすることは最初から考えていない。トイレに並んでいても、むしろ教師が先頭に立って、次から次へと列に割り込む指図をする。それに文句を言ったりすれば、こちらが悪いことにされ、大袈裟に肩をすくめたり、舌打ちしたりする。子供はわがまま言い放題、何を言っても許される。それが集団になれば、完全にお手上げである。


 まあ、相手は子供たちなのだからこちらも寛大にと考えるのだが、いろいろ考えさせられる問題もある。まず、子供たちは日本人と中国の人の区別がつかない。東洋人はみんな中国の人だと思っている。それは、別にどうということはない。むしろ、当然かもしれない。私たちだって、スペイン人とイタリア人の区別がそんなに簡単につくわけではないだろう。問題は、別のところにある。


 ただし、大人なら(どうやって見分けているのかは見当もつかないが)フランスでもイタリアでもドイツでも、一目見ただけで「日本人」と分かるらしい。いきなり片言の日本語で話しかけてきたり、向こうの方から「オハヨ」「ドーゾオサキニ」「スミマセン」とか言って寄ってきたりする。彼らの見分け方は分からないが、とにかく「彼は日本人だ」と、欧米人の大人には一瞬で分かるらしい。一瞬でわかるから、ためらわずに日本語で話しかけてみるのだろう。


 3年前のヴェネツィアのレストランで、イタリア人の大家族が「日本人と中国人の見分けのつけ方」を語り合っている場に遭遇したこともある。彼らは10人ほどでシャンペン5本をあっというまに空けてしまい、まさに泥酔状況。彼らに対抗して、私もシャンペン2本を1時間で空にしてみせたのだが、まあそれはさておいて、まず私を「日本人だ」と見極めた男が、こちらがイタリア語を理解できないだろうとタカをくくったらしく、アゴで私を示しながら「あれは日本人。中国人との違いは...」と得意げに語り始めた。そのあとはよく聞きとれなかったが(だって彼も泥酔していたし、私も泥酔していたのだ)、大家族がその話題で丸々1時間、おおいに盛り上がっていたことは間違いない。
 話がそれたが、私が問題だと思うのは、イタリアの子供たちの多くが、なぜか中国人に罵声を浴びせる傾向があること。正直言って、あまり気持ちのいいものではない。中国からの観光客の心の痛みを考えると、つらい。さすがにイタリアの先生方がもう少し気をつけて、たしなめるなり、叱るなり、注意したりすべきなのではないか、と怒りを感じる。


 北イタリアでも南イタリアでも、状況は同じ。子供たちは、まずその人を指差しながらお互いに「チーノ、チーノ」それが女性なら「チーナ」「チーナ」と声をひそめて囁き合う。その人が無反応でいると、子供特有の無邪気さで図にのりはじめ「チーノ」「チーナ」の声は大きくなり、言われている方にはそれがやがて大合唱にしか聞こえなくなる。教師は全く反応せず、子供たちはどんどん調子に乗っていく。しまいにはわざとその人の足を踏んだり、背中をこづいたり、男性なら腕を引っぱり、女性なら髪を引っぱり、顔を正面からまともに見て、みんなでどっと笑ったりする。それでも教師は、叱りもせず、たしなめもしない。大きな声で「このチーノがジャマだ」「チーナがいるから前に進めない」とか子供たちが言いたい放題言っているのに、完全に黙認。これはいけない。外国の人に対する敬意を教える義務を、彼らは放棄してしまっている。


 私はイタリアびいきだが、集団でいる子供たちは嫌いである。指導を怠るイタリアの教師たちはもっと嫌いだ。今日のDuomoは、そういう集団で溢れかえっていたから、すぐに退散することにした。午後の目的地は、ブレーシャ。ミラノチェントラーレから、電車で1時間ほどの中規模都市である。見たいものは、ただ一つ、1500年代に建てられたルネサンス期の市役所ロッジアLoggiaである。下は、ロジッアの写真。この可愛らしいカップケーキのような建物を見て、ちょっと嫌いになってしまったイタリアを、またすぐに好きになろうと思った。

 

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1E(Cd) Eschenbach:MOZART/DIE KLAVIERSONATEN 1/5
2E(Cd) Eschenbach:MOZART/DIE KLAVIERSONATEN 2/5
3E(Cd) Eschenbach:MOZART/DIE KLAVIERSONATEN 3/5
4E(Cd) Eschenbach:MOZART/DIE KLAVIERSONATEN 4/5
5E(Cd) Eschenbach:MOZART/DIE KLAVIERSONATEN 5/5
8D(DvMv) ROAD TO PERDITION
11D(DvMv) THE DAVINCI CODE
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