これから、一般意味論(以後GSと略記します)の考え方のいくつかを紹介したいと思います。
「この文はウソである」という、文章を考えてみましょう。
(バリエーションとして「私はウソをついている」でもいいです。)
さて、「この文はウソである」をAと置きましょう。
1) 仮に、Aがウソであるとしましょう。(Aは真実ではありません。)
すると、「この文はウソである」がウソなのだから、ウソのウソは真実であることになります。
つまり、Aはウソではないことになります。
しかし、この議論は、「Aがウソであるとすると」で始まりました。
Aがウソだとすると、Aは真実であることになります。
2) では逆に、Aは真実であるとしましょう。
つまり、「この文はウソである」が真実なのですから、Aはウソをついていなくてはなりません。
Aが真実であるとすると、Aはウソであることになります。上の1)に戻ってしまいました。
1)だとすると、2)になり、2)だとすると、1)に戻る。議論は永遠に堂々巡りをつづけます。
このような堂々巡りをパラドックスなどと呼びます。
「ハハッ、面白いな」と言って、忘れるなり、無視するなりするのが健康的です。
しかし、数学のように論理的で厳密な学問の中でも、このようなパラドックスが発生する場合があります。これは事件ということになります。
ここでは、もう少し、大雑把に考えていきましょう。
GS的な観点にたつならば、ここでの問題は『同一化』もしくは、『カテゴリー違反(タイプ・エラー)』として、解決できるでしょう。
ここでの『同一化』は、NLPでの『観念の複合等価』の一種と見なしてもいいでしょう。
なにが「同一化」されたのでしょうか?
「この文はウソである」という、文章を考えてみましょう。
(バリエーションとして「私はウソをついている」でもいいです。)
さて、「この文はウソである」をAと置きましょう。
1) 仮に、Aがウソであるとしましょう。(Aは真実ではありません。)
すると、「この文はウソである」がウソなのだから、ウソのウソは真実であることになります。
つまり、Aはウソではないことになります。
しかし、この議論は、「Aがウソであるとすると」で始まりました。
Aがウソだとすると、Aは真実であることになります。
2) では逆に、Aは真実であるとしましょう。
つまり、「この文はウソである」が真実なのですから、Aはウソをついていなくてはなりません。
Aが真実であるとすると、Aはウソであることになります。上の1)に戻ってしまいました。
1)だとすると、2)になり、2)だとすると、1)に戻る。議論は永遠に堂々巡りをつづけます。
このような堂々巡りをパラドックスなどと呼びます。
「ハハッ、面白いな」と言って、忘れるなり、無視するなりするのが健康的です。
しかし、数学のように論理的で厳密な学問の中でも、このようなパラドックスが発生する場合があります。これは事件ということになります。
ここでは、もう少し、大雑把に考えていきましょう。
GS的な観点にたつならば、ここでの問題は『同一化』もしくは、『カテゴリー違反(タイプ・エラー)』として、解決できるでしょう。
ここでの『同一化』は、NLPでの『観念の複合等価』の一種と見なしてもいいでしょう。
なにが「同一化」されたのでしょうか?
(つづきはこちらで)