かつて「蘭学は宇和島」という評判が立っていたのがこの愛媛県宇和島市。

その時代では伊達宇和島藩

せいぜい十万石の、それも江戸や京から遠く離れた四国伊予の片隅でそうした評判が立つというのはどういうわけだろう。

 

この地に立ってみるとなんとなくわかると思われるが、街の雰囲気が利口というか勉学好きというか、小さな精密機械のような、という形容が当てはまる。

こちらは宇和島城南側の上り立ち門


普通の城の縄張りは大抵四角である

 

そして宇和島城である。築城したのは名人・藤堂高虎で、城の縄張りはご覧のごとく珍しい五角形。

敵の寄せ手を惑わす効果があるそうで道路も放射状に伸びており、周囲をバイクで走ってみると方向感覚が狂わされて非常に走りにくく高虎の術中に陥っているのを実感する。

 

 

 


この藤堂高虎の後に富田信高という男が少しばかり統治し、一時公領、そのあとまた高虎が預かりという形で管理したのち宇和島に入ったのが伊達政宗の長子の秀宗で、この伊達の支配が幕末まで続く。
秀宗は豊臣の猶子だったというのが徳川の天下になった後で具合の悪かったらしく、紆余曲折を経て仙台の伊達本家を継がず別家として宇和島伊達家が誕生したのである。

 




天守は同じ県内の松山城に比べれば小ぶりで丸亀城と同程度の規模。

 



 

江戸時代作の天守の雛形

 

天守が小さいので伊達家ゆかりの収蔵品はさほど多くなく、それらを見たければ麓にある伊達博物館にも行くのをお薦めする。

こちらは城東側にある藩老桑折氏武家長屋門。


そして宇和島城は日本に12しかない現存天守のひとつで、しかも愛媛県はそれが二つ存在する唯一の県
宇和島も愛媛県の例に漏れず食べ物がすごくおいしいのでそれ目的に来るだけでも満足できるはず。

LP、EP問わずレコードなんてのは物心ついたころには

とっくの昔に絶💀滅していたが、最近は限定生産とはいえ復権の兆しがあるらしい。


そのレコードが15万枚も所蔵されているのが西彼杵半島の中央部に存在するこの音浴博物館。

 


元々雪浦小学校の分校の校舎を転用したもので、建物のカタチとしてモロ学校だが立地がすさまじい山奥なので辿り着くのに相当苦労した。携帯の電波も入らないくらいだからもしガス欠したならばそのまま遭難するだろう。





神浦港の付近からひたすら東へ山道を走りようやく到着。
余計なお世話かもしれないがここに設置されてる自販機に補充しに来る人はさぞかし大変だろう。


 

中は御覧の通り。

 

 


ちなみにレコードだけでなくカメラや家電、古書なども色々収蔵されている。

 

 

 

ある程度新しいこのステレオならば子供の頃家にあった記憶もあり、なかなか親近感がわくものである。

 

 

このぶら下がってる軍服とか似たようなやつ持ってるし。


音楽の再生はジュークボックスで聞いたりもできるがレコードプレーヤーの操作を教示してもらってから自力で行う方式。
私が聴いたのは以下の通り↓

バンバン いちご白書をもう一度
ビートルズ デイ・トリッパー
THE ALFEE メリーアン
THE ALFEE 星空のディスタンス
レッド・ツェッペリン 天国への階段
研ナオコ ひとり上手
ビートルズ ア・デイ・イン・ザ・ライフ


中でも良かったのがレッドツェッペリンの天国への階段。
入り口から右奥のイベントホールには各年代のスピーカーが置かれているのだが、ツェッペリンと同年代のスピーカーで聴いてみるとあのギターソロがひときわ素晴らしく聞こえるのである。

 

古い本特有のあのかび臭いような匂いも決して悪いものではない。
人里から遠く離れた山奥で安楽椅子に寄っかかりながらフォークソングとかを聴くのもいいだろう。

4月29日~5月3日までの滞在で心から気に入った伊予松山への移住計画。

当初の計画では1年半ほど時間をかけて準備するつもりだったが、ダメ元で応募してみた松山市内の企業の書類選考に合格し面接を受けるため急遽松山へ。

早朝にきて泊まることなく深夜に帰る弾丸スケジュールのためものすごく疲れた

まず5月27日は半休で昼に上がり、16時50分発の高速バスで別府へ。
別府へは20時に着いたが問題なのは八幡浜行きのフェリー最終便の時刻が23時50分なこと。

むちゃくちゃ退屈でヒマをつぶすのにえらく苦労したぞ。

 

朝の八幡浜港

 

黒猫が二匹もいてえらく縁起がいいな

 

八幡浜~別府間のフェリーは最終便だと着いたのちも船内で5時30分まで休憩できるので毛布を借りて眠り、松山駅に特急でもって到着したのは朝7時。


また来たぜ松山


それから応募先の企業から指定された保健協会で健康診断を受け、それが済んだのが10時ごろ。

面接の時間の13時30分まで相当ヒマがあるので松山市駅地下のまつちかタウンでうどんを食い、前回行けなかった子規堂へ。

ちなみにこの時の私の服装は面接を受けるということで三つ揃えの濃紺の背広であり暑苦しいったらありゃしない。


…「こっちィお出で」
と、子規は玄関から左向きにふすまをあけ真之を招じ入れた。
「これがあしの書斎じゃ」
と子規がいったから、真之はおどろいた。中学三年の少年が書斎をもっているとは、真之のような子沢山のお徒士の家にそだった者にはちょっと解しがたい。
この書斎三畳は、母親のお八重が建て増ししたものである。本屋の屋根からそのまま葺きおろした軒のひくい建物で、壁なども一度ぬりの赤土色であり、いかにも粗末なものであったが、真之には御殿のようにみえた。この書斎はのちに子規堂として保存された。
壁の上には、
「香雲」
という字額がかかっている。子規の外祖父の友人である武智五友の筆である。
机が一つ。
それに本箱が二つ。
やがてお八重が菓子盆と茶をもって入ってきて、
「のぼがいつもお世話になります。ようおいでなさったなもし」
と、声をかけてくれた。菓子はいりまめであった。


…「坂の上の雲」一巻より。

ちなみに拝観料は50円と破格


正岡家の菩提寺である正宗寺の境内にあるのがこの子規堂

火災と空襲で二度焼失し現在の建物は三代目だが遺墨や遺品が展示してあり子規の息吹を感じることができる。

 

 

 

余談だがこの時軒先にセミのぬけがらがぶら下がっており

「うつせみや 主亡きあと 夏迎え」という句を詠んでみた。

 

 

「みつ」って何だと思ったら「三津浜」だね

 

そして前の広場には「坊っちゃん列車」の客車も置いてある。

夏目漱石が松山中学の教師として赴任する際に乗った軽便鉄道というのがコレである。

子規堂見学の後もまだ時間があったので伊予鉄高島屋でヒマつぶししていたのだが…眠い
フェリーで5時間しか眠っていなかったので疲労と睡魔がすごい

途中の道


その疲労と睡魔に耐えて選考試験と面接を受けて会社を辞去したのが17時頃。

長崎の路面電車によく似ている伊予鉄の旧型車両


そこから直ちに道後温泉へ向かって夕食を取り、途中大街道で降りて松山三越でブラブラしたりしながら22時松山発の特急宇和海で八幡浜へトンボ返り。

西堀端から夜の松山

 

また来るぜJR松山駅


その後もフェリー・高速バスでの強行軍が続いたが、苦労した甲斐があったか採用試験には合格
そしてここから愛する松山市への移住計画が本格的に進行するのだ。