昨日の礼拝メッセージは、罪人の友主イエス・キリスト教会の進藤龍也牧師が語ってくださり、彼の通って来られた苦しみの極みから、救われて変えられていくことや、具体的には本の出版や会堂建設への主なる神様の恵みによる祝福を見させていただき、大きな感動を受け、あらためて励ましを強く受けました。
ヘブル10:36
あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。
ヤコブ1:4
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。
そこで忍耐と赦しについて分かち合いたいと思います。進藤さんもメッセージの中で、怒りを治めることの大切さを話されていました。不条理からも心は痛みますが、利己的な考えから人をあたかもそれに従うのは当たり前かのように働きかける人がいます。それが自分にとって大きな痛手を受けることがわかった時、怒りが湧いてきます。私自身が自動車事故や、そのことからMRIを撮って、状況を把握できたのは良かったのですが、そのことをきっかけに、血圧の問題に関わることになりました。それはそれで今となっては良かったのですが、日本の医療事情の闇に触れるきっかけとなりました。
詳しいことは割愛しますが、とにかく怒りが湧いてきます。しかし、ハッとさせられました。怒ってはいけないと、彼らもその仕組みの犠牲者なのだと、そして彼らこそイエス様に出会って欲しい、救われて欲しいと祈るようになり、彼らに神の祝福があるようにと祈るようになりました。
日常においても、教会においても、様々な場面で苦々しいことに出会うことも多々あり、それが怒りにつながります。肉なる思いは人を赦せません。自分を正当化することに必死なのです。
進藤さんは言ってました。祈りましょう。「変えてください。赦せるようにしてください。」と。
コロサイ3:14
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
赦して、祝福を祈る。大変なことですが、主がそれをしてくださいます。怒りをやり過ごし、赦すことをしていなかったら、証しにならないでしょう。
メッセージの中で、子供を殺した敵を養子にした話しがありました。凄まじい驚く愛ですね‼️小さなことですぐに怒りにかられてしまう自分、本当に祈って、変えていただくとともに、敵を愛し、迫害する人のために祈りたいと思います。
昨日のテサロニケ人への手紙第一4章のメッセージもとても励まされました。
今朝、「丘に立てる荒削りの」を賛美しながら、朱にそみしのところで、思わず涙が出てきました。
それとともに、昨日のメッセージを思い出しながら、イエス様がなされたことを振り返りました。一つ一つが驚きであり、感動です。
ヨハネ1:12-13で「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」あらためてこのみことば、人間的には、理解できない、驚くべきことです。そして、十字架と復活、携挙、再臨、一つ一つがあまりにも驚くことなのです。
4章のメッセージから、とても大切なものの一つを取り上げたいと思いますが、テサロニケ人への手紙第一4:3「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」とても無理ですよ、と言いたくなるところです。無理だからこそ、主を信頼して、信仰によって、イエス様を仰ぎ見ることを決断し続け、また、キリスト者と交わりし続け、励ましを受けることによって、誘惑を避けて、真理を選び取り続けていきたいです。ピリピ1:6では、「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあります。
イエス様とお会いして、永遠にともに過ごすという、このことの素晴らしさをいつも思い起こすとともに、敵の欺きに騙されてはいけないですね。
レビ記1:2「主にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。」
カルバリーチャペル・ロゴス東京の平日聖書の学びはレビ記に入りました。レビ記の学び、とても楽しみです。献げなさいという言葉は、祝福に満ちた言葉だなと思いますし、心に心地良く響きます。
昨日のメッセージで多くの気づきが与えられましたが、「聖なる道といけにえの道」に焦点をあててみたいと思います。神に近づくのに私たちは、いけにえが必要であるということです。それは、自分の努力や行いではなく、自分自身をそのまま献げるということです。
それは2節のみことばから言及されたように、命があり、養い育てたものであり、そしていろいろな犠牲が伴うものでした。私たちもこの日本で生まれ、生活している中で、キリスト者として歩むには、様々な犠牲を伴っています。しかし、神はひとり子であり、神御自身であるイエス様をいけにえとしてささげられました。それは完全ないけにえだったのです。
深谷市あずま公園の桜
ですから、私たちは常にこのことに忠実であるかどうかに目を向けていなければなりません。それは、完全でなければならないからです。それには主に光に照らされて、御霊の御力により頼んで、みこころを選び取り続ける決意が必要です。
そうでないと、世は常に私たちを躓かせようと、罠をかけているからです。みこころを選び取ることは、大変ではありますが、主にある平安があります。
逆に主が命じた方法ではなく、異なったものを献げる時に、痛手を受けます。自分のやり方などを通して、自分は何とかできている、だから大丈夫、などと思ってはいけません。神様はあなた自身をそのまま献げること、明け渡すことを願っておられます。私たちが主とともに歩むときに、主に反していることが示され、これも手放そう、あれも手放そうと主のみこころに向きを変えていきます。この訓練で何度も何度も主からむちを受けても、神様はへブル12:10-11で「霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練され」それは、義という平安の実を結ぶとあります。献げることにしっかりととどまっていきたいと思います。
ローマ12:1「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」
トランシルヴァニア(ルーマニア)で幼年時代を過ごしたユダヤ人のエリ・ヴィーゼルは、15歳の時に家族と共にアウシュビッツの強制収容所に送られます。彼の著書「夜」で、1944年に起きた出来事を詳細に見ることができます。この事実を目の当たりできるのは、彼が奇跡的に生還し、細かな描写を生々しく記してくれたからです。
ヤドバシェルバーチャルツアーに参加してから、ホロコースト関連の映画を観たりしましたが、今回じっくりとホロコースト生還者の本を読み、アウシュビッツでの出来事に触れました。ユダヤ人の筆者が受けた強制収容所での選別、幼児の焼却、公開処刑、雪の中の極寒の死の行進など、ホロコーストの生々しい闇の行為を静かに語っています。
ナチスの圧政は、ユダヤ人を殺害し、ソビエト人捕虜の殺害、他にもポーランド市民やソビエト市民をポーランドで強制労働させるなど、悲惨なものでした。著書「夜」の序文でフランソワ・モーリヤックは、“私たちはナチスのとった皆殺し方法をまるきり知らずにいた。それに、そんな方法をだれに想像できただろうか!”と記している。それほど、とても考えも及ばない方法で彼らは人間を扱いました。
たくさんの悲惨な出来事を見る中で、いくつかを振り返りたいと思います。
ロシア兵の前線が収容所に近づく中で、エリ・ヴィーゼルが足の手術を受けた後、雪の降る極寒の最悪の状況の中で、囚人たちは収容所をあとにして、強行軍で歩かされます。その距離なんと70kmでした。体力がなく、寒さの中、遅れる人は撃ち殺されます。
また、その後は、囚人は列車で移送されることになります。親衛隊員は、家畜用の貨車一台に約100人を押し込みます。外は雪、途轍もない環境の中で、10日間走り、残った人は12、3人でブーヘンヴァルトに到着します。
読み終えて、あらためて人は無力で弱いと思わされます。無力だと思う一つは、自分の意志とは関係なく、生活が一変することです。私自身、経済的に立て直そうとあれこれ思索を巡らせ、こうしようああしよう、と形を作ろうとします。しかし、たった一つの出来事、数秒、信号待ちで追突されたことによって、その一瞬によって、仕事も生活も全く変わってしまったのです。自然災害や疫病や戦争などにもなすすべはありません。コロナやウクライナ戦争は、世界を一変させました。もう一つは無力というより、弱さといった方がいいでしょう。私たちは、神様を喜んでいただくべく正しい生き方をしたい、清い心を持ちたいと思います。しかし、どうでしょうか、それとは反対のことをするのが人ではないでしょうか。
パウロは、今でいうエリート中のエリートでしたが、キリストを知った時、みじめな人間、罪人のかしらと言いました。パウロは彼の手紙で「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12章9-10節)」彼の受けた侮辱、迫害などは、それも酷いものでした。しかし、彼の喜びはキリストにありました。私たちの希望は神にあります。
エリ・ヴィーゼルのトランシルヴァニアでの生活が、ナチスの仕業によって壊され、母と妹が殺され、父は病死しました。ホロコーストによる不条理な迫害と殺戮は、あまりにも大きな悲劇を生みました。考えさせられる本との出会いでした。神の前にひれ伏し、へりくだって、ただ神を礼拝する、このことにしっかりと心を向けていきたいと思いました。
人は安心・安全・平和に焦点を置き、自分こそ正しいのだと、自分でやってきたことがあたかも私の能力なのだと誇りますが、どうなのでしょうか?ホロコーストから多くの気づきがあり、教えられることがあります。私たちは神に似せて作られましたが、神から離れました。だから自分で何とかしようと自分を中心に考え、それは高ぶりの一つです。罪からくる報酬は死です。