聖なる道といけにえの道(レビ記1章の学びから) | キリストと共に

キリストと共に

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

ゼパニヤ書 3章17節

レビ記1:2「主にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。

 

カルバリーチャペル・ロゴス東京の平日聖書の学びはレビ記に入りました。レビ記の学び、とても楽しみです。献げなさいという言葉は、祝福に満ちた言葉だなと思いますし、心に心地良く響きます。

昨日のメッセージで多くの気づきが与えられましたが、「聖なる道といけにえの道」に焦点をあててみたいと思います。神に近づくのに私たちは、いけにえが必要であるということです。それは、自分の努力や行いではなく、自分自身をそのまま献げるということです。

それは2節のみことばから言及されたように、命があり、養い育てたものであり、そしていろいろな犠牲が伴うものでした。私たちもこの日本で生まれ、生活している中で、キリスト者として歩むには、様々な犠牲を伴っています。しかし、神はひとり子であり、神御自身であるイエス様をいけにえとしてささげられました。それは完全ないけにえだったのです。


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ですから、私たちは常にこのことに忠実であるかどうかに目を向けていなければなりません。それは、完全でなければならないからです。それには主に光に照らされて、御霊の御力により頼んで、みこころを選び取り続ける決意が必要です。

そうでないと、世は常に私たちを躓かせようと、罠をかけているからです。みこころを選び取ることは、大変ではありますが、主にある平安があります。

逆に主が命じた方法ではなく、異なったものを献げる時に、痛手を受けます。自分のやり方などを通して、自分は何とかできている、だから大丈夫、などと思ってはいけません。神様はあなた自身をそのまま献げること、明け渡すことを願っておられます。私たちが主とともに歩むときに、主に反していることが示され、これも手放そう、あれも手放そうと主のみこころに向きを変えていきます。この訓練で何度も何度も主からむちを受けても、神様はへブル12:10-11で「霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練され」それは、義という平安の実を結ぶとあります。献げることにしっかりととどまっていきたいと思います。



ローマ12:1「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。