前回のブログで、怒りを治めることが大切だと書きました。もちろん、間違った人に注意することは大切です。しかし、怒りの根源は何かを突き止めることは大切です。怒りを突き動かしているものは何なのか、それは、もしかしたら自分を弁護するためのものであり、正当化するものではないでしょうか。それは、高ぶりという、自分を罠に入れる入れるものでもあるかもしれません。そこには自分が否定されるかもしれない恐れが潜んでいると思います。
恐れは、自分の主張が通らないと予測される時に起こるでしょう。人はあれこれ、先々のことを考えて心配し、また恐れます。恐れは喜びを奪い、主への信頼を損ない、信仰がなくなります。心の真ん中に主がおられないと、私たちは、恐れ、いら立ち、思い煩います。
詩編56:11
神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。
ピリピ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
主なる神が私を愛している、同じように人を愛して行こう。どんな人に対してもそのようにしていこう。そこに留まる時、不安や恐れはありません。
第一ヨハネ4:18
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
信仰の戦いはあらゆる分野で迫ってきます。Ⅰテモテ1:18で「あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。」そして、思いがけない試練は、悩みを生じさせます。
ローマ8:37-39
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。