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キリストと共に

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

ゼパニヤ書 3章17節

父はとても厳しく、昭和の頑固親父、仕事への取り組み方は、熱心でまじめ、元気で友達もたくさんいました。そんな父も身体が弱くなり、あちこちに不具合が認められてきました。



私がクリスチャンになってからも、頑として聖書に関わる話には、逃げていきます。

そんな中、最近はあまり近づくことがなかったのですが、事は急変して、父に近づくべくいろんな出来事が起きます。私が交通事故で追突されて、仕事ができなくなり、すると父が体調に異変をおこしました。すると、妹と弟と3人の中で今動けるのは私であり、父の病院への診療や検査、いろいろなことに携わることになりました。

一週間の間に3回、ある程度の時間を共に過ごすことになるとは、全く予想できないことです。父は自分の生き方を徹底して貫くよう、頑固さは相変わらずですが、福音を読むというところまではいきました。先週と今日、彼にまっすぐにイエス様の話を短く伝えました。しかし、心に届いていません。



これからも、彼の病院付き添いをしていく中で、キリストの証し人として全力で父をサポートしたいと思っています。


ローマ10:14-15 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。


昨日のメッセージでピリピ人への手紙4章が語られましたが、その中で「思い煩うこと」をあらためて考えてみました。

私たちは生きていくうえで日々必要があり、それを求めます。そして、実はすべての必要は神から与えられていることを気づかされます。ここを見失うと、いや気づいていないと、思い煩いから思い煩いへと、私たちは頭の中で不安な要素を抱え込み、大きな重荷を負い続けることになります。

これが、最も重要な点であって、神が与えてくださる以上のことを、すなわち自分の欲望の満たしであったり、先々のことであったりを何とかしようとするがゆえに、(ここで、自分で何とかしようとする思いが生まれ、神を第一にしていません。)思い煩いが生まれます。



イエス様はマタイの福音書6章33節で「まず神の国と神の義を求めなさい。」と言われ、「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と言われているのです。ですから、私たちは、一日一日を御国のことに目を留め、そこに留まるよう、力を尽くして、また気をつけて、神にすがり、結びつく行動を起こさなければなりません。上手くいっている時は、警戒しなければならないしょう。私たちは恵みによって、十分に満たされているのです。

パウロはローマ人への手紙8章32節で「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」と言われました。すべてが与えられている、この信仰に立ち、証しを建てていきたいものです。


ピリピ人への手紙4章6節「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。





カルバリーチャペル・ロゴス東京の平日の学びで黙示録が語られていますが、昨日のメッセージでも大切な真理があり、学ぶことができました。

その中で、「御国を受け継ぐ」ということ対するきちんとした理解です。このことを見失わず、しっかりと抱いていることは、とても大切なことです。黙示録20:6で「彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。」祭司の王国で統べ治めるということです。このことを覚えていきたいですね。



ですから、千年王国でイエス様と共に統べ治めることの深い理解をするとともに、このビジョンを持って歩むことがとても大切です。みことばへの飽くなき取り組みとともに、黙示録の学び、理解はとても重要です。

何かとこの世での立ち回り方に揺れ動かされがちな私たちですが、キリストのみがすべてであって、そこに焦点を当てて外れることなく信仰生活を前進し、御国の広がりに努めていくべく祈り、集まり、学んでいきたいものです。また、証をたてていきたいです。



詩篇27:4 一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。

昨日の礼拝メッセージで語られたみことばの一つです。ダビデが心から礼拝をしたい、主と共にいたい。ということを切に願っています。これこそキリスト者が渇望することの一つです。このことにすべてをかけることが大切であると思わされる日々です。
イエス様と私、この間に何かを入れてはいけない。何かを入れてしまったが故に何度失敗したことか。人間的な何かで解決しようと、心はあくせくします。でも私が立たされているところは、どこにいようとイエス様により頼むこと。



詩篇16:8 私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。

たとえどんな境遇であろうとも、キリストだけに目を注ぎ続けたい。


ホセア書11章8節
エフライムよ。わたしはどうして
あなたを引き渡すことができるだろうか。
イスラエルよ。どうして
あなたを見捨てることができるだろうか。
どうしてあなたを
アデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたを
ツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
 
神様の溢れる愛が迫ってきます。心底このみことばを理解できる、また自身の信仰の在り方さえ問われた、私にとってそれは、息子の病を通してでした。
先月、息子が病で入院して、医師から告げられた言葉は、(医師は最悪のケースをお話しされるのですが)、生命に関わります、と言われた時は、かつてないほどうろたえ、そのダメージはあまりにも大きく10日ほど続きました。苦しみの時、神様は近くにおられました。詩篇77:2でアサフは、「苦難の日に私は主を求め、夜もすがらたゆまず手を差し伸ばした。けれども私のたましいは慰めを拒んだ。」と叫びました。
(息子は癒され、近々退院です。)


人生には、さまざまな苦難が押し寄せてきます。その時、真剣に主に近づき、叫ぶことは大切です。いえ、叫ぶしかありませんでした。神がすべてであるから、何もかもお任せしよう、この気持ちになるまで、時間が必要でした。



神様が「わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」とまで言われています。天の父が、すべての創造主が、これほどの愛を私に対して抱いてくださっている。胸が熱くなるほどに。子に対する思いはあまりにも強いことを、今回の出来事で知り、それゆえ苦しみました。しかし、天の父が私たちのことをあわれみ、帰って来いとおっしゃっておられるのです。「あなたは、あなたの神に立ち返り、誠実と公正を守り、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア12:6)
しかし、最も必要なのは魂の救いです。このことを心にとどめ、神様と共に歩んでいきたい。
 


ホセア書10章12節
あなたがたは正義の種を蒔き、
誠実の実を刈り入れ、
耕地を開拓せよ。
今が主を求める時だ。
ついに主は来て、
正義の雨をあなたがたの上に降らせる。